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「ねえ、ぶつかったなら謝りなよ」
グエルは、目の前に立つ少女の顔を見下ろした。見慣れない顔の少女と、その友人と思わしき生徒が、近距離からこちらを見ている。
廊下を歩いている途中で、フェルシーが何かと接触してよろめいた。それだけがグエルの脳内に瞬時に入ってきた情報で、それ以外のことは、咄嗟に判断がつかなかった。
「はあ? そっちがチンタラ歩いてんのが悪いっての」
「いや、廊下という公共スペースを不必要なまでに占拠して、大手を振って歩いてたのはそっちだから。しかも、前方不注意」
口調も饒舌に喋り立てている生徒の方は、フェルシーと睨み合うような形で、果敢にも舌先で食らいついていた。もう一人の方は、どこか頼りなさげに、こちらの方を見上げている。
先ほど睨みつけてきた生徒の顔には見覚えがあった。確か、同じ学年だったはずだ。前回のテストで一緒の組になったパイロット科の──名前は失念してしまったが、あの下から捲り上げるような視線は、今日も変わらず健在であるらしい。取り立てて優秀でも、落第生でもない、という印象を、グエルは抱いている。そしてどこか、ミオリネ・レンブランに似ているような気がする。……主に、態度が。
もう一人は、彼女の友人か誰かだろう。顔も覚えていないということは、おそらく他の学科の生徒のはずだ。決闘で戦うかもしれない相手以外──パイロット科の生徒以外の情報を逐一記録するほど、グエル・ジェタークは暇ではなかった。
確かに、廊下に広がって歩行していたこちら側に非があった。大事になる前に対処する必要がある。不用意に騒ぎを起こして得られるものは少ない。
グエルが陳謝しようと前にでた瞬間に誰かが叫んだ。
「決闘で、白黒つけよう!」
「おい、ちょっと待て……」
先ほどフェルシーと睨み合っていた方の生徒が、声高々にそう宣言すると、取り巻きの二人は、グエルを責め立てるように見上げた。
「ちょっとグエル先輩何言ってるんですか? 売られた喧嘩は買ってやるって言ってたじゃないっスか」
「……そもそもお前らが前見て歩いてたら、こんなことになってなかっただろ」
「そ、そうかもしれないですけど……」
彼女たちが罰の悪そうな声でそう言ったので、ため息をつきたくなるのを我慢して、グエルは先手を打った。やりたくはないが、こうした方がいい時もある。
「うちの後輩が、悪かった。代わりに、と言っては何だが、俺が謝罪しよう。申し訳ない。……だから、決闘の件は取り消してもらえないか」
頭を下げるグエルを見て、辺りが少しざわめきだした。現時点の最強格であるホルダーが、三流企業の生徒に頭を下げている。その事実が、波紋のように広がり、周りの生徒の関心を引いた。
「…………グエル・ジェターク君、頭を上げてもらえないか。わたしたちが目立ってしまう」
静観していた方の女子生徒が、ようやく口を開いた。
「こちらも不注意だった。わたしの方も謝罪の必要があるだろう。ぶつかって申し訳なかった」
「ねえ、本当にこれでいいわけ?」
グエルたちが立ち去った後、二人はお互いの顔を見合わせた。
苛立ちと不満を隠せない、といった様子でナマエは同級生を見上げた。頭ひとつほど高い友人は、長い前髪の向こうから、グエルたちが去っていった方角を見つめている。
「御三家に頭を下げさせたという事実だけでも恐ろしいのに。余計に敵を作る必要ないだろ。うちらの序列を考えてみろよ」
先ほどフェルシーとぶつかった女子生徒は、頭の後ろを掻きながら同級生、兼、ルームメイトの顔を見下ろした。
彼女はトラブルメーカーとまではいかないまでも、それなりに負けん気が強く、売られた喧嘩は検討を重ねるまでもなく買ってしまうタイプ──つまり、アスカティシア高等専門学校で不用意に敵を作りかねない性格をしていた。
ぶつかったといっても、別に軽く打ったくらいで怪我らしい怪我もしていないのだから、余計な波風は立てるべきではない。今大事なのは、学園内で平和にやり過ごし、無事に卒業すること。そして、地元で一番いい企業のお墨付きを得て、早々に就職してしまうことだ。支援はいつ打ち切られてもおかしくない。この学園で生き残るためには、全方位のご機嫌伺いをする必要がある。それを、この子はわかっているのだろうか。
「…………確かに、そうだけど、でも」
「なんだ? まさか本当に決闘したかったのか? ジェターク社のモビルスーツとやり合ってもこちらに勝ち目はないだろうに。うちの寮に置いてあるのなんて、デミトレーナーよりかはマシって程度のスペックしかないぞ」
「やってみないと、わからないよ」
「…………おい、わたしを出汁に使うのはやめろよ。申し込むなら一人で行け」
「ああ、うん」
こいつなら、すぐにでもジェターク寮に乗り込んで、決闘を申し込むなんてこともあり得る。というか、やりかねない。冗談のつもりで軽口を叩いたが、訂正した方がいいだろう。
「なあ、マジにするなよ」
「うーん……」
空な返事をしているのが、懸念の材料でしかない。ようやく三年生まで大きな事件もなくきているのだから、何もするな……と祈ることしかできなかった。
嫌な予感は、すぐに当たった。
ナマエが決闘委員会に呼ばれた、というニュースは、すぐさま寮中に広がった。
「お前さあ……馬鹿じゃないの」
「わたしは呼ばれたんじゃなくて、呼びだした。後でみんなに訂正しにいかないと」
噂の根源である本人は、呑気にそんなことを言って、ダラダラと爪にネイルを塗っている。彼女は意外と器用なので、その長い指先に纏う色は、常に美しい色彩を保っていた。こちらの方はと言うと、シンナーの匂いが充満するせいか、あまり関係のないこちらの頭が痛くなってきた。
もうこれは化学性物質のせいということにしておこう。そちらの方が、すぐに解決する気がする。
あまりにもひどい匂いなので、きっと購買に売っている安物のそれを使ったに違いない。
窓を開けて、空を眺めながら、不毛ではあるが呟かずにはいられなかった言葉を言う。
「わたしのせいでこんなことになった……?」
「それはない。それだけはないよ」
「あの時周りにどれだけの人がいたっけ、結構な人数がいたような気がする。ああ、全員の頭をぶん殴って忘れさせるしか……」
「ねー、わたしより物騒なこと言ってない?」
ナマエはドライヤーで爪を乾かしながら、爪に塗った塗料がよらないように、器用に端末を操作していた。
「何、何、呑気に何見てるんだ、ネットか? そんなことしてる場合じゃないだろう?」
「まあこれを見てよ、ジェターク社のモビルスーツ、株主向け資料」
画面に拡大表示されたのは、よくある投資者向けのプレゼン資料と、ジェターク社が特許を取得しているナントカとかいう技術について書かれた論文だった。ナマエはそんなものを、二窓表示で睨みつけている。
米粒のようなフォントサイズが、この機体に掛けられた技術力の高さを示しているようで、めまいと吐き気が込み上げてきた。うちの学校のように、工学の分野で高等教育を受けていても、これを読み解いて理解するのに多大な時間を要するだろうというのは目に見えてわかる。
「絶対、勝ちたいからねー」
勝てるわけがない、という言葉を口から吐き出そうとして、寸前で押しとどめた。
なぜ、彼女はホルダーに勝てるなどという幻想を抱いているのか。そんな夢幻のような戯言を本気で受け取るこちらも、また馬鹿だと言われれば、そうなのだが。それにしても、なぜナマエはそうまでしてグエルと戦いたいのか。学科こそ違えど、同窓の学友として彼女を見てきたが、全く理由らしい理由が浮かんでこなかった。
「──ねえ、なんでそこまでグエル・ジェタークに勝ちたいわけ。ホルダーになりたいの?」
「いや、ホルダーには興味ない。でもさーなんかムカつくじゃん、あいつ。ぶっ飛ばしてやりたいんだっ」
っていうか逆に、大企業のボン見てムカつかないとかある? とナマエは続けた。
自分だって企業のバックアップを得てこの場所に立っているくせに……というツッコミはしなかった。ナマエも、全宇宙の人口の中間層以上の生活は享受しているのだ。このお嬢様は、そのことにも無頓着であるらしい。さすが、地元では勉強とモビルスーツの操縦しかしていなかっただけある。周りを見る目がないというか、天然というか、なんというか。
「別に、わたしはそういう感情を抱いたことは──」
「へえ、そうなんだ。わたしはさあ、資本主義とか嫌いだし、あいつらが他の生徒に嫌がらせしてても誰も見て見ぬふりをしてたりとか、そういうのがマジでムカつくし、それに──グエルは、強いっぽい、からさ。絶対、わたしが倒すんだー!」
ナマエは、緑色に染まった指先で、長い長い資料のページをスワイプしまくっていた。それで本当に内容を読み取れているのか、確かめようがなかった。
なぜわざわざ負け戦を自分から仕掛けに行くのか。全く理解できない。普通の感性でなら、おそらく全員がそう思うだろう。無謀そのものでしかない挑戦に、どうして挑むのか。
いくらナマエが、地元では神童で通っていた少女だとしても、全宇宙から天才が集まるこの学園では、大海の中の一葉に過ぎないのだ。それをわかっているのか、わかっていて、認めないのか。それとも、受け入れて尚挑むのか。
実力を誇示したいのなら、わざわざ決闘でもなくてもいいのに。
彼女がタブレット端末と睨み合いを続ける横で、密かにその瞳を盗み見る。
──わたしには、ナマエがなぜグエルにこだわるのかわからない。
因縁じみたものなんて、何もない。ただの同学科の同級生にすぎない男に、ナマエはどうしてそこまで興味を抱くのか。いや、興味というよりかは、憎しみ、敵対心、競争心と言い換えたほうがいいかもしれない。
グエル・ジェタークは有名人だ。あまりにも、彼は敵を作りすぎている。けれど、ナマエとは何も関わりのない人間で、彼女が彼と決闘をする理由は、何もないのだ。どう洗い出しても、浮かび上がらない。
あるいは、単に強い相手と戦いたい? 今まで、そんなことを彼女が言っていたことなどなかった。三年生になった今でも、一度も決闘をしたことがない。その経歴が彼女の性質を物語っているだろう。
──わからない。
同じ部屋で暮らしていて、ここまで相手のことが理解できないことがあるだろうか。まるで異星人と暮らしているような、妙な居心地の悪さと、それでいてあくなき探究心を満たされているような、高揚感をわたしは抱いている。気味が悪いと言いつつも、わたしはこのルームメイトとなんだかんだで良好な関係を築けているのだ。嫌だけど。面倒だけど。
それでも、それだからこそ、ただ一つの真実と、予想しうる結末だけがわたしの胸を掻き立てる。恐ろしいことだから、絶対に尋ねられなかった。
彼女が決闘で、何を賭けたのか。
どちらにしろ、この決闘でナマエは屈辱的な目にしか合わないだろう。なぜ、不幸になるとわかっていながら、彼女は挑むのだろう。
決闘まで、あと二日しかない。勝っても負けても、ナマエの首は飛ぶだろう。それだけが、確定事項だ。
グエルが学食のテーブルに座ると、その前に一人の生徒が腰をかけた。今日は珍しく、一人で食事を取ろうとした。その矢先に、乱入者がやってきたのだ。
「ここ、空いてるよね」
きっと、先約があったとしてもナマエは立ち上がらなかっただろう。彼女はテーブルの上にドン、とプレートを載せると、卓上に置かれた塩を過剰なまでにふりかけた。グエルは何をいうでもなく、それを眺めていた。
一昨日、決闘委員会への申請に訪れた際に、ナマエとは顔を合わせている。授業中にも、突き刺すような視線を感じていた。けれど、直接の接触を図ってきたのは初めてだった。
今までの決闘相手とさして変わらない相手だろう。何十ものアンテナをへし折ってきたグエルは、決闘相手のあしらい方も心得ている。どんな心理的動揺を誘われようとも、驚くことはないという自負がある。一学生の小手先の揺動など、取るに足らないものだ。
相手がどのような腹積りでこちらに接近してくるか。その理由はまあ大体想像がつく。こんな相手、今まで何度だって相手をしてきた。どんな風にこられても、決闘でねじ伏せて、黙らせる。そうしてしまえば、もう二度と近寄ってはこないだろう。この女も、きっとそのクチだと、グエルは思っている。
「その白い服だとさあ、カレー食べれないね」
ナマエはフォークをグエルに差し向けながら、無遠慮にそう言った。
「はあ?」
ホルダーのみが着ることを許された白い制服。これに対してそんな物言いをする人間はいなかった。字面だけなら、皮肉か嫌味にしか聞こえない。
それでも、ナマエは平気で口に出した。嫌味ではない、とグエルは思った。これは、思ったことをただ口に出しているだけなのだ。他意はない。他意は。
「あっはは、ジェタークの御曹司はカレー食べないのワケ? 超ウケる。人生ソンしてるね」
「何が言いたい?」
「わたし、カレー好きなんだ」
彼女が持ってきたの日替わりのスープとパンのセットで、全くカレーのカの字もないような物だった。学食のメニューの中では最も安価で、人気があるらしいそれを、ナマエはバクバクと口に運んだ。
「明日の日替わりスープはカレーの日、だから楽しみ。でもあんたは負けた涙でしょっぱいカレーを食べるんだよ」
「…………勝つのか、俺に」
「あのさあ、わざわざ負けるために戦う人なんていないでしょ。まあ、談合決闘もあるらしいけど、わたしはそんなダサいことしないし。それより──なんでわたしの決闘、受けてくれたわけ?」
「俺は、ホルダーとして決闘に応じる義務がある」
「へー、あっそ」
グエルの返事を聞いて、ナマエの調子が露骨に下がったのがすぐに理解できた。彼女は試すような視線で、グエルを睨んでいたが、その眼力が消失したのだ。その瞬間を目撃したグエルは、何か恐ろしいものを目にしたような気持ちになった。
この女は、何を求めて決闘をするのか。全くと言っていいほど、予想できなくなった。昨日までは、一方的に敵視してくる厄介なやつだとばかり思っていた。けれど、それも違うように思えてきた。ナマエは、他の人間とは異なる地表から、グエルを観測している。そしてそれは、おそらく好意的なものではない。だとすればなぜ、接触を図ってきたのか。敵情視察にしては、あまりにも露骨すぎる。
試されている? 何を。俺自身を?
だとすれば、俺は飽きられてしまったのか。今この瞬間に、ナマエの中でグエルという人間に対する何かが変わった。それだけは理解できた。
つい最近まで他人だった人間の、心理の奥底に潜む何かが、グエルの興味を突き動かした。
「ナマエ、だったか」
「あぁ、うん」
「お前は勝ってどうしたいんだ。俺を、どうするつもりだ」
きっとこの様子であれば、ミオリネ・レンブランの婚約者の地位も、ホルダーの名誉も、何もかも、興味があるわけではないのだろう。グエルはあえて、同じ質問を繰り返した。ラウンジで、シャディクたちを前に言ったことを、再び尋ねた。
ナマエはきっと、本当のことを打ち明けてはくれないだろう。けれども、だからこそ、言わずにはいられなかったのだ。
「決まってるじゃん」
彼女は、聞き分けの悪い子供を叱るような口調で、薄い唇を動かした。
「三回回って、ワンって言わせるんだよ。それが決闘の流儀」
決闘が行われる日、その日の天気は雨だった。けれど、屋内に設置された実習用スペースでは、そんなことに影響などされない。せいぜい、湿気で髪がはねるくらいだ。
わたしは、彼女の決闘を自室で見守ることにした。今日は休日で、特に課題に追われるでもない時期だったから、余計にナマエたちの対戦カードは注目されていた。寮のラウンジでは、グエルの勝ちに投票する生徒たちの声と、ルームメイトのわたしに対する心無い視線が激しく精神を摩耗していったので、この一人きりの部屋で、彼女の最後の日を見守ることにしたのだ。
──きっと、キリストの処刑を見守っていた弟子も、同じような気持ちだったのだろう。
……いや、わたしは彼女のことを特別好きだった訳でも、愛していたわけでも、信仰してるわけでもない。ただ、同室のよしみ、同情心というものを少ないけれど持ち合わせているだけにすぎない。
かの神の弟子達の方が、わたしよりも辛い気持ちではいなかっただろう。ナマエは、もう二度とこの学園の土を踏むことはないだから。三日後に復活したキリストとは、違う。
机の上に置かれた時計を見る。時刻は午後三時の五分手前。もうすぐ決闘が始まる。この学校の、馬鹿げた出来レースが始まってしまう。
ナマエ、あんたは運が悪すぎた。この学園に来なければ……決闘なんてなければ、きっと将来は約束されていたようなものなのに。
わたしは端末を立ち上げ、決闘の生中継を観戦すべく、動画配信サイトのタブを開いた。ちょうど、わたしたちの寮のモビルスーツと、グエルの専用機が向かい合っている様子が見えた。
勝てるわけがない。
わたしは一眼見て、そう思った。
こちらからは、彼らの顔が見えない。カメラの映像が映し出すのは、彼らが搭乗する機体と、その場の音声だけだ。
「勝敗は、モビルスーツの性能のみで決まらず、操縦者の技のみで決まらず、ただ、結果のみが真実」
見ていられない。まだ大した動きもないのに、思わず目を閉じたくなった。それほどまでに、わたしたちの持ちうる武器と、ジェターク社の資本的格差は明らかだった。
見るからに旧世代型の機体と、最前線で使われるような新型の機体とでは、何もかもが違いすぎた。
しかも、向こうが持っている、普通の機体ならまず標準装備されているであろうライフルも、ナマエは持っていなかった。
なんてことを!
わたしはそう思った。
彼女は一本のランスだけを構えて、その場に立っていた。その姿は、貧相な騎士のようだ。ディランザの豪華な装飾を前にすると、そんな考えが浮かんでくる。
『勝敗は、モビルスーツの性能のみで決まらず』
そんな言葉は嘘だ。
金持ちの詭弁だ。
口先だけの平等だ。
ここは、持てる者のみが立つことを許された場所だ。わたしたちのような、末端の人間が立てる場所ではない。
彼女は、それを知っていたのだろうか。
この決闘は、実質的に、ジェターク社のモビルスーツの性能お披露目会でしかない。企業が外部にその実力を披露するための、造られた舞台なのだ。
わたしたちは、切り捨てられる案山子にすぎない。盛り上げるためのやられ役で、道化師役なのだ。
決闘なんて、元々金持ちだけに許された勝負事で、わたしたちはそのリングに上がることすら奇跡だった。この学校に入れたことだけでも、もうわたしたちは恵まれている。
もう今からでもすぐに降参すればいい。そうしたら、ナマエが地に伏せるところを見なくて済む。名誉なんていい、金持ち連中は好きにさせておけばいいんだ。くだらないプライドのために、自分の人生を捨てようとしないで欲しかった。だから、わたしは叫んだ。届かないとわかっていながらも、言わずにはいられなかった。
もうやめてくれ。
口から漏れた言葉と同時に、彼女は飛び出して行った。装甲の薄い機体は、スピードという利点があるものの、少しの衝撃でも簡単に崩れ落ちるような脆さという致命的な弱点を抱えていた。
だからこそ、ナマエは一撃で決めようとしたのだろう。
加速によって巻き上げられた土煙が、まるでスモッグのように、あたりを陰らせていた。そして、弾幕が雨霰のように降りしきる中、彼女は最大速度で敵の懐に飛び込んだ。
メインエンジンを狙ったのだろうか。それは、人間の腹を貫くような動きだった。分厚い装甲に向かって食らわせた一撃は、かなりの速度をもって、一点を差し、貫いた──ように見えた。
事実として、わたしが見たと思ったものは幻だった。都合の良い夢想でしかなかった。
結果として、彼女の渾身の一撃は、掠っただけで終わってしまった。外部に明らかな傷をつけたものの、内部には至っていない。
さすがは全世界でシェアナンバーワンを誇る大企業のモビルスーツ、と言ったところだろう。弱点を補うために繰り出した必殺の攻撃は命中こそすれど、相手の動きを止める一撃にはなり得なかったのだ。それどころか、こちらの不利な格闘戦になろうとしている。
金属と金属が衝突して、激しい火花が上がった。その衝撃たるや、動画の音声でも震え上がるほどの音圧を感じた。反動を利用して、彼女はメインカメラの方へと切っ先を合わせ、思い切り、振り上げた。
一瞬。
その一瞬で、勝負は決した。
振り上げた腕を、今度は向こうが利用してきた。いや、利用してきたというより、力でねじ伏せた。と言ったほうが正しいかもしれない。
ディランザのビームトーチが、ナマエの機体の手首ごと、アンテナをへし折っていた。
「あ…………!」
思わず口から声が漏れた。
容赦ない一太刀によって捥がれた腕は地に落ち、ナマエの機体は動きを止めた。
スクリーンには勝者の名前が映し出される。
そこに載っているのは、彼女の名前ではない。当たり前だ。わざわざ負けた人間の名前を晒すようなこともない。
「…………」
疑いようもなく、グエルの勝利だった。ナマエは、負けたのだ。
わたしはどうしようもなく、拳を握りしめた。よくやった。あの機体で一撃を加えられただけでも、彼女はよくやった方なのだ。きっとわたしなら、いや、この寮にいる生徒の中の誰であろうとも、グエルに一撃浴びせられるようなパイロットはいないだろう。
帰ってくるナマエを迎えてやるのが、わたしの仕事だ。だから、絶対に悲しい顔をしてはいけない。絶対に……そう、何があろうとも。
地面に叩きつけられた腕と二人の機体を見ていると、まるで時が止まったかのように思えた。何かのタイミングを待っているかのように、カメラはずっと静かな訓練場を映し続けている。
──コックピットが開いた。
両者が機体から降りると、二人は向かい合った。カメラも、必然的にその流れを追う。
降りてきたナマエの顔は、よく見えない。ちょうど照明が影になって、どれだけズームしても、うまく見れなかった。
「ナマエ……」
わたしがそう言ったのか、彼がそう言ったのをマイクが拾ったのか、どちらだったか忘れてしまった。
彼女はすっと顔を上げて、真っ直ぐグエルを見ていた。
「あーあ、負けちゃったよ」
「…………ああ」
「次は絶対、負けないって言いたいんだけどさ。多分、この子じゃあんたに勝てないね。悔しいけど、ジェターク社のモビルスーツは強いわぁ、うちのボロじゃ勝てないよ。狡いなあ」
「言い訳のつもりか?」
「いや、事実っしょ。スペック差はどうしても覆せないって」
「俺は、お前が飛び込んできた時、正直に言えば…………負けるかと思った。お前の操縦技術は、悪くないんじゃないか……と、思う」
「褒めてくれるの? 嬉しいねえ」
「正直に物を言って何が悪い」
「やっぱ、育ちがよろしい人って違うわー、うちら庶民とはもう、全然違うんだから。こういうときにごちゃごちゃ喋っちゃうわたしって、本当にダサいよね」
自虐で弾けたように早口になるナマエとは反対に、グエルは何かを言いたげに口を一の字に結んでいた。
わたしは……見ていて辛かった。彼女がここまで饒舌になるのは、辛いことを誤魔化す時だけだから。きっと心の中では、泣きたくて仕方ないのだろう。負けるのは自業自得にしても、悔しいものは、悔しいんだから。
「俺は! お前と戦えてよかったと思ってる!」
ナマエのおしゃべりを遮るように、グエルは叫んだ。それはまるで、雨雲に差した一筋の光のように、わたしの心を射抜いた。ナマエには、伝わっているのだろうか。祈るように動向を見つめる。
「うん、ありがとう」
ナマエはそれだけ言うと、グエルに背を向けた。そして、腕がもげ、メインカメラも潰された機体に乗り込み、逃げるようにその場を去っていった。
それを見ていたグエルの表情は、どんな風だっただろう。モニターには、彼の寂しげな後ろ姿しか映されていない。ずるり、と上半身が壁に寄りかかった。わたしの体の力が全て抜けてしまったらしい。
それからしばらく、中継動画を見つめていた。が、去っていく機体の影が虚になると、黙ってページを消した。
これから彼女はわたしの部屋に入ってくる。ここは彼女の部屋でもあるのだから、当たり前なのだけど、それがわたしには辛かった。きっと、ナマエだって辛いだろうけれど、野宿をするわけにもいかない。
しかも、明日は授業がある。だから、彼女は帰ってくるはずだ。パイロットスーツを脱いで、汗だくのまま制服を羽織って、きっとここに戻ってくる。
わたしはその時、どんな顔をすればいいだろう。
……結局のところ、わたしは彼女を平静な状態で受け入れることができたのだろうか。その時の記憶すら、今は曖昧だ。
──というようなこともあった。
寮の部屋を片付けていると、どうにも肌寒く感じる。寂しさであるとか、一種の哀愁のようなものが湧き上がってくる。
一人の部屋は、虚しい。
わたしの予想通り、彼女はこの学園を去った。それは必然だった。あのモビルスーツでの決闘は、絶対に許されないことだったからだ。
こうなるとわかっていながら、あの時はっきりと止めなかったわたしは非情だろうか? でも、止めても無駄だったのだ。
ナマエの見送りには、わたししか行かなかった。星間移動のための旅客機に乗り込む彼女は、何も言わず、ただわたしに向かって手を振った。ああ、本当に大馬鹿者め。呆れて、なんだか無性に泣けてきたことを覚えている。
わたし達を「支援」する企業に対して、立場上明確に反抗の意思を表明することはできない。そして、この気持ちは誰にも言わず、しまっておくつもりだ。わたしは無事にこの学園を卒業して、地元に戻るという義務がある。ナマエもそうなる予定だったけれど、どうしたことか、最終学年になって急におかしくなってしまった。
企業からは「お叱り」のメールがきた。わたしは彼女のお目付役でもあったから、彼らが怒るのも無理はない。
こうして、貴重な休みにわたしはだだっ広い部屋を掃除しているわけだが、余計なことばかり考えてしまう。どうしても失ったものばかりを数えてしまう。
無意味な思考を繰り返していると、ポケットの中に仕舞い込んだ携帯が震えていることに気づいた。常にマナーモードに設定しているこれに、通知が来ることは珍しかった。画面を立ち上げると、見慣れないIDからメッセージが来ていることがわかった。
家族とごく一部の知り合いにだけ教えているわたしのIDを、どこかの誰かが掴んで連絡をしてきたとなれば、目的は限られている。スパムか、何かの用件を持っているかのどちらかである。
チャットアプリを立ち上げて、送られてきたメッセージに目を通した瞬間、わたしは携帯を放り投げそうになった。
正確には、その差出人を見た時、だが。
この部屋に男子生徒を招き入れたことはない。ドアの内鍵を左に捻った時、初めて彼が男性だったということを思い出した。
女子寮と言っても、すぐ下の階に行けば男子の部屋があるので、性別によって隔離されているという意識は希薄だった。けれど、改めて、この閉じた空間に異性を招き入れるということは、領域に異物を混入させることなのだという実感が胸中に生じた。それでも特に躊躇うことなく、わたしは扉を開けた。
「入るぞ」
グエルは制服姿でわたしの部屋に入ってきた。やや緊張したような面持ちで、わたし越しに、彼の寮よりは粗末であろう我が個室を、じっと観察するように見ている。
「こちらに掛けてもらっていいかな。飲物を出せなくて悪いが」
「かまわない。俺こそ急に押しかけて申し訳なかった」
「なに、気にしなくてもいいよ」
誰かをここに招き入れることなど全く考えていなかったので、備え付けの机に座るように勧める。女子生徒用の椅子なので、大柄な彼には少し小さいかもしれない。
「……して、単刀直入に聞くけれど、ナマエのことで何か聞きたいのかな」
わたしがそう言うと、彼は顔を少しこわばらせ、ゆっくりと頷いた。
「ああ……あいつのことだ」
「その件についてなら、チャットでも満足に話せると思うのだけど、どうしてもここで話したかった訳を聞いてもよろしいかな。女子寮の個室に男子を入れるなんて、バレたらわたしは始末書では済まないよ」
「…………」
グエルは、何かを言いたげな視線をこちらに投げかけたが、あえてわたしは何も言わないことを選んだ。彼が考えていることは、わたしにはわからない。けれど、何かを伝えようと思案している人間を無碍にすることは、許されない。
「あいつが……ナマエが学校から除籍したと聞いて、俺は……いても経ってもいられなくなった。俺のせいでそうなったのだとしたら、申し訳ないと思っている。できれば、彼女と話がしたいと思ったが、俺にはツテがない。だから、今日、今ここにいる」
「ああ……なるほど。あなたは彼女のことを気に病んでいるんだな」
「俺は存外、直線的な人間らしい。カッとなって動いたら、この様だ」
「いや、わかった。悪くない。休日の暇つぶしとして楽しんでみよう」
「悪いな、有難い」
わたしたちは、少しだけ薄い笑いを浮かべあうことに成功した。グエル・ジェタークと向かいあうわたしたちの様相は、不釣り合いというには溶け込んでいるように思える。同じ学校の、同回生なのだからそれが普通なのだが、わたしたちの間には、どうしても超えられない壁があった。
「結論から言うと……わたしは現状、彼女と連絡を取ることができない。できないというのは、禁止されているからだ。だから、あの人が今どうしているか、わたしには全く検討がつかない。情報も遮断されている。つまり、わたしが持っている情報は、グエル、あなたとほぼ変わらないと言っていいんだ」
「そんなことが──」
「あるんだよ。そちらではどうか知らないけれどね」
ナマエと連絡が取れないというだけで、彼がここまで驚くとは思ってもいなかった。わたしたちのつながりは、結局は企業の意向一つで断ち切られてしまう。彼にはそんな経験はなかったのだろうか。
「わたしたちは、いわばこの企業に隷属する形で融資を受けている。彼女はそれを破ったから飛ばされた。結局、あなたに勝っても負けても、ナマエはここを去っていたよ」
「…………そうか」
グエルが息を殺すようにつぶやいた言葉を、わたしは忘れることができない。この時、わたしはナマエと彼が、同じだったことを理解した。ナマエとグエルを繋ぐものは、それだったのだ。わたしは今まで、全くそれに気づかなかった。
何かを噛み締めているような顔をしていたグエルに、わたしはかける言葉が見つからなかった。自分の口から隷属しているという単語が出てきたことにも、自分で驚いている。そうか、わたし達は縛られていたのだと、この瞬間、気づいたのだった。
「うちの会社は、争いを好まないのですよ。病的なまでにね。なんでも、ずっとそうしてきたから、我々にもそれを強いている。まるで教えを熱心に守る信徒のような心でね。馬鹿な話じゃないか、と自分でも思うのだけど、従わねばならない。わたしは実のところ、ナマエがいなくなるまで、自分が奴隷であることに気づかなかった。ここにいるわたしたちは、病んでいる。この会社も、この学園も、病んでいる。そう思って仕方がない。だからわたしも、ここを去ろうと思った。でも、それはできない話なんです。ナマエはきっと今頃、故郷にも戻れずにどこかを彷徨っている気がする。わたしには、そう思えて仕方がない。グエル、あなたはもう彼女を忘れた方がいい。わたしのことも、知らないと思った方がいい。お互い、無事に卒業した方がよろしい。あなたはいずれ、総裁の娘と結婚なさって、ジェターク社を継ぐのだから、わたしなどとは関わらない方がいいだろう」
口に出して、恐ろしい想像が心に浮かんだ。ナマエはおそらく死んでいる。そんな妄想が脳裏をよぎった。けれど、それほどまでに、ナマエの生存は絶望的だった。学園を追い出された彼女に生家での居場所があるとは思えなかった。わたしたちは、あんな企業に縋らねばならないほど、逼迫していた。だから、ナマエはもう、全てがどうでも良くなっていたから、生きる希望がないから、希望を捨てて死んだのか、とすら思った。あの子の生命力を見るに、そんな妄想は馬鹿馬鹿しいのだが、そう思わずにはいられなかった。世を儚んで死ぬのではなく、飽きたから、終わりにしたという理由で、ナマエは死を選びそうだったから。
あの船を見送ったあと、わたしは彼女を殺した。脳からいない人間として扱った。けれど、グエルの脳で、まだ彼女は生きた人として息づいているのだ。
「わたしからも、質問をいいだろうか」
「ああ」
「どうしてナマエを訪ねてきたんですか。あの人はあなたのことを嫌っていましたよ、それに、あなたに一瞬で負けた相手ですよ」
彼はわたしの目を見て、じっと堪えるように口を結んだ。まるで、不測の事態を告げるかのように、小声で言葉は紡がれた。
「一瞬、ほんの一度だけ、俺はナマエになら、こんな相手にならば、負けてもいいと思ってしまった」
大罪を告解したような発言によって、わたしの意識は一瞬混濁した。どういう顔をしていいのかわからず、けれども、引き寄せられるようにわたしはグエルの瞳を凝視してしまった。一瞬、彼の瞳孔は開き切った。そして、困惑した表情が顔に浮かび上がった。
「……いや、忘れてくれ。悪かった。お前のいう通りだ。もう金輪際、こちらには尋ねないと約束しよう。色々と教えてくれて、助かった。ありがとう」
早口でそう言った彼に、わたしは何も言えなくなった。言えなくなったし、言ってはいけないと思った。わたしは一般庶民で、彼の命を握ってしまったのだから、何も言ってはいけない。何も、知らなかったことにしなくては。何も聞かなかったことにして、明日もまた学校に行かなくてはならない。彼だって、わたしのことなんて知らないという体で、過ごさねばならないのだ。
わたしたちは、世界の恐ろしaい真実を知ったような気持ちでしばらく見つめ合った。ナマエがこの場にいたら、どういうことを言うのだろう。わたしは今日の夜、グエルに殺されるだろうとも思った。彼の心の中で、わたしと言う存在は一度抹消される。次の日には、わたしは彼の中で産まれ直すのだ。それはわたしも同じだ。けれど、ナマエが再び息を吹き返す時は二度とこない。死んでいるのか、生きているのか。さじ加減一つで人間は簡単に死んでしまうのだから。
「ナマエが聞いたら、喜びますよ」
わたしは彼女が死んでしまったように話す。まるで、この世にいないように振る舞う。グエル、あなたもそうしてほしい。そうしないと、おかしくなりそうだ。この世の不条理に押しつぶされそうだ。
「ああ、そうかもしれない」
だからこそ、わたしは沈黙を選ぶ。停滞を選ぶ。偽りを選ぶ。
「もう、二度と来ないでくださいね」
張り付いた笑みが、顔から消えない。
グエルは、目の前に立つ少女の顔を見下ろした。見慣れない顔の少女と、その友人と思わしき生徒が、近距離からこちらを見ている。
廊下を歩いている途中で、フェルシーが何かと接触してよろめいた。それだけがグエルの脳内に瞬時に入ってきた情報で、それ以外のことは、咄嗟に判断がつかなかった。
「はあ? そっちがチンタラ歩いてんのが悪いっての」
「いや、廊下という公共スペースを不必要なまでに占拠して、大手を振って歩いてたのはそっちだから。しかも、前方不注意」
口調も饒舌に喋り立てている生徒の方は、フェルシーと睨み合うような形で、果敢にも舌先で食らいついていた。もう一人の方は、どこか頼りなさげに、こちらの方を見上げている。
先ほど睨みつけてきた生徒の顔には見覚えがあった。確か、同じ学年だったはずだ。前回のテストで一緒の組になったパイロット科の──名前は失念してしまったが、あの下から捲り上げるような視線は、今日も変わらず健在であるらしい。取り立てて優秀でも、落第生でもない、という印象を、グエルは抱いている。そしてどこか、ミオリネ・レンブランに似ているような気がする。……主に、態度が。
もう一人は、彼女の友人か誰かだろう。顔も覚えていないということは、おそらく他の学科の生徒のはずだ。決闘で戦うかもしれない相手以外──パイロット科の生徒以外の情報を逐一記録するほど、グエル・ジェタークは暇ではなかった。
確かに、廊下に広がって歩行していたこちら側に非があった。大事になる前に対処する必要がある。不用意に騒ぎを起こして得られるものは少ない。
グエルが陳謝しようと前にでた瞬間に誰かが叫んだ。
「決闘で、白黒つけよう!」
「おい、ちょっと待て……」
先ほどフェルシーと睨み合っていた方の生徒が、声高々にそう宣言すると、取り巻きの二人は、グエルを責め立てるように見上げた。
「ちょっとグエル先輩何言ってるんですか? 売られた喧嘩は買ってやるって言ってたじゃないっスか」
「……そもそもお前らが前見て歩いてたら、こんなことになってなかっただろ」
「そ、そうかもしれないですけど……」
彼女たちが罰の悪そうな声でそう言ったので、ため息をつきたくなるのを我慢して、グエルは先手を打った。やりたくはないが、こうした方がいい時もある。
「うちの後輩が、悪かった。代わりに、と言っては何だが、俺が謝罪しよう。申し訳ない。……だから、決闘の件は取り消してもらえないか」
頭を下げるグエルを見て、辺りが少しざわめきだした。現時点の最強格であるホルダーが、三流企業の生徒に頭を下げている。その事実が、波紋のように広がり、周りの生徒の関心を引いた。
「…………グエル・ジェターク君、頭を上げてもらえないか。わたしたちが目立ってしまう」
静観していた方の女子生徒が、ようやく口を開いた。
「こちらも不注意だった。わたしの方も謝罪の必要があるだろう。ぶつかって申し訳なかった」
「ねえ、本当にこれでいいわけ?」
グエルたちが立ち去った後、二人はお互いの顔を見合わせた。
苛立ちと不満を隠せない、といった様子でナマエは同級生を見上げた。頭ひとつほど高い友人は、長い前髪の向こうから、グエルたちが去っていった方角を見つめている。
「御三家に頭を下げさせたという事実だけでも恐ろしいのに。余計に敵を作る必要ないだろ。うちらの序列を考えてみろよ」
先ほどフェルシーとぶつかった女子生徒は、頭の後ろを掻きながら同級生、兼、ルームメイトの顔を見下ろした。
彼女はトラブルメーカーとまではいかないまでも、それなりに負けん気が強く、売られた喧嘩は検討を重ねるまでもなく買ってしまうタイプ──つまり、アスカティシア高等専門学校で不用意に敵を作りかねない性格をしていた。
ぶつかったといっても、別に軽く打ったくらいで怪我らしい怪我もしていないのだから、余計な波風は立てるべきではない。今大事なのは、学園内で平和にやり過ごし、無事に卒業すること。そして、地元で一番いい企業のお墨付きを得て、早々に就職してしまうことだ。支援はいつ打ち切られてもおかしくない。この学園で生き残るためには、全方位のご機嫌伺いをする必要がある。それを、この子はわかっているのだろうか。
「…………確かに、そうだけど、でも」
「なんだ? まさか本当に決闘したかったのか? ジェターク社のモビルスーツとやり合ってもこちらに勝ち目はないだろうに。うちの寮に置いてあるのなんて、デミトレーナーよりかはマシって程度のスペックしかないぞ」
「やってみないと、わからないよ」
「…………おい、わたしを出汁に使うのはやめろよ。申し込むなら一人で行け」
「ああ、うん」
こいつなら、すぐにでもジェターク寮に乗り込んで、決闘を申し込むなんてこともあり得る。というか、やりかねない。冗談のつもりで軽口を叩いたが、訂正した方がいいだろう。
「なあ、マジにするなよ」
「うーん……」
空な返事をしているのが、懸念の材料でしかない。ようやく三年生まで大きな事件もなくきているのだから、何もするな……と祈ることしかできなかった。
嫌な予感は、すぐに当たった。
ナマエが決闘委員会に呼ばれた、というニュースは、すぐさま寮中に広がった。
「お前さあ……馬鹿じゃないの」
「わたしは呼ばれたんじゃなくて、呼びだした。後でみんなに訂正しにいかないと」
噂の根源である本人は、呑気にそんなことを言って、ダラダラと爪にネイルを塗っている。彼女は意外と器用なので、その長い指先に纏う色は、常に美しい色彩を保っていた。こちらの方はと言うと、シンナーの匂いが充満するせいか、あまり関係のないこちらの頭が痛くなってきた。
もうこれは化学性物質のせいということにしておこう。そちらの方が、すぐに解決する気がする。
あまりにもひどい匂いなので、きっと購買に売っている安物のそれを使ったに違いない。
窓を開けて、空を眺めながら、不毛ではあるが呟かずにはいられなかった言葉を言う。
「わたしのせいでこんなことになった……?」
「それはない。それだけはないよ」
「あの時周りにどれだけの人がいたっけ、結構な人数がいたような気がする。ああ、全員の頭をぶん殴って忘れさせるしか……」
「ねー、わたしより物騒なこと言ってない?」
ナマエはドライヤーで爪を乾かしながら、爪に塗った塗料がよらないように、器用に端末を操作していた。
「何、何、呑気に何見てるんだ、ネットか? そんなことしてる場合じゃないだろう?」
「まあこれを見てよ、ジェターク社のモビルスーツ、株主向け資料」
画面に拡大表示されたのは、よくある投資者向けのプレゼン資料と、ジェターク社が特許を取得しているナントカとかいう技術について書かれた論文だった。ナマエはそんなものを、二窓表示で睨みつけている。
米粒のようなフォントサイズが、この機体に掛けられた技術力の高さを示しているようで、めまいと吐き気が込み上げてきた。うちの学校のように、工学の分野で高等教育を受けていても、これを読み解いて理解するのに多大な時間を要するだろうというのは目に見えてわかる。
「絶対、勝ちたいからねー」
勝てるわけがない、という言葉を口から吐き出そうとして、寸前で押しとどめた。
なぜ、彼女はホルダーに勝てるなどという幻想を抱いているのか。そんな夢幻のような戯言を本気で受け取るこちらも、また馬鹿だと言われれば、そうなのだが。それにしても、なぜナマエはそうまでしてグエルと戦いたいのか。学科こそ違えど、同窓の学友として彼女を見てきたが、全く理由らしい理由が浮かんでこなかった。
「──ねえ、なんでそこまでグエル・ジェタークに勝ちたいわけ。ホルダーになりたいの?」
「いや、ホルダーには興味ない。でもさーなんかムカつくじゃん、あいつ。ぶっ飛ばしてやりたいんだっ」
っていうか逆に、大企業のボン見てムカつかないとかある? とナマエは続けた。
自分だって企業のバックアップを得てこの場所に立っているくせに……というツッコミはしなかった。ナマエも、全宇宙の人口の中間層以上の生活は享受しているのだ。このお嬢様は、そのことにも無頓着であるらしい。さすが、地元では勉強とモビルスーツの操縦しかしていなかっただけある。周りを見る目がないというか、天然というか、なんというか。
「別に、わたしはそういう感情を抱いたことは──」
「へえ、そうなんだ。わたしはさあ、資本主義とか嫌いだし、あいつらが他の生徒に嫌がらせしてても誰も見て見ぬふりをしてたりとか、そういうのがマジでムカつくし、それに──グエルは、強いっぽい、からさ。絶対、わたしが倒すんだー!」
ナマエは、緑色に染まった指先で、長い長い資料のページをスワイプしまくっていた。それで本当に内容を読み取れているのか、確かめようがなかった。
なぜわざわざ負け戦を自分から仕掛けに行くのか。全く理解できない。普通の感性でなら、おそらく全員がそう思うだろう。無謀そのものでしかない挑戦に、どうして挑むのか。
いくらナマエが、地元では神童で通っていた少女だとしても、全宇宙から天才が集まるこの学園では、大海の中の一葉に過ぎないのだ。それをわかっているのか、わかっていて、認めないのか。それとも、受け入れて尚挑むのか。
実力を誇示したいのなら、わざわざ決闘でもなくてもいいのに。
彼女がタブレット端末と睨み合いを続ける横で、密かにその瞳を盗み見る。
──わたしには、ナマエがなぜグエルにこだわるのかわからない。
因縁じみたものなんて、何もない。ただの同学科の同級生にすぎない男に、ナマエはどうしてそこまで興味を抱くのか。いや、興味というよりかは、憎しみ、敵対心、競争心と言い換えたほうがいいかもしれない。
グエル・ジェタークは有名人だ。あまりにも、彼は敵を作りすぎている。けれど、ナマエとは何も関わりのない人間で、彼女が彼と決闘をする理由は、何もないのだ。どう洗い出しても、浮かび上がらない。
あるいは、単に強い相手と戦いたい? 今まで、そんなことを彼女が言っていたことなどなかった。三年生になった今でも、一度も決闘をしたことがない。その経歴が彼女の性質を物語っているだろう。
──わからない。
同じ部屋で暮らしていて、ここまで相手のことが理解できないことがあるだろうか。まるで異星人と暮らしているような、妙な居心地の悪さと、それでいてあくなき探究心を満たされているような、高揚感をわたしは抱いている。気味が悪いと言いつつも、わたしはこのルームメイトとなんだかんだで良好な関係を築けているのだ。嫌だけど。面倒だけど。
それでも、それだからこそ、ただ一つの真実と、予想しうる結末だけがわたしの胸を掻き立てる。恐ろしいことだから、絶対に尋ねられなかった。
彼女が決闘で、何を賭けたのか。
どちらにしろ、この決闘でナマエは屈辱的な目にしか合わないだろう。なぜ、不幸になるとわかっていながら、彼女は挑むのだろう。
決闘まで、あと二日しかない。勝っても負けても、ナマエの首は飛ぶだろう。それだけが、確定事項だ。
グエルが学食のテーブルに座ると、その前に一人の生徒が腰をかけた。今日は珍しく、一人で食事を取ろうとした。その矢先に、乱入者がやってきたのだ。
「ここ、空いてるよね」
きっと、先約があったとしてもナマエは立ち上がらなかっただろう。彼女はテーブルの上にドン、とプレートを載せると、卓上に置かれた塩を過剰なまでにふりかけた。グエルは何をいうでもなく、それを眺めていた。
一昨日、決闘委員会への申請に訪れた際に、ナマエとは顔を合わせている。授業中にも、突き刺すような視線を感じていた。けれど、直接の接触を図ってきたのは初めてだった。
今までの決闘相手とさして変わらない相手だろう。何十ものアンテナをへし折ってきたグエルは、決闘相手のあしらい方も心得ている。どんな心理的動揺を誘われようとも、驚くことはないという自負がある。一学生の小手先の揺動など、取るに足らないものだ。
相手がどのような腹積りでこちらに接近してくるか。その理由はまあ大体想像がつく。こんな相手、今まで何度だって相手をしてきた。どんな風にこられても、決闘でねじ伏せて、黙らせる。そうしてしまえば、もう二度と近寄ってはこないだろう。この女も、きっとそのクチだと、グエルは思っている。
「その白い服だとさあ、カレー食べれないね」
ナマエはフォークをグエルに差し向けながら、無遠慮にそう言った。
「はあ?」
ホルダーのみが着ることを許された白い制服。これに対してそんな物言いをする人間はいなかった。字面だけなら、皮肉か嫌味にしか聞こえない。
それでも、ナマエは平気で口に出した。嫌味ではない、とグエルは思った。これは、思ったことをただ口に出しているだけなのだ。他意はない。他意は。
「あっはは、ジェタークの御曹司はカレー食べないのワケ? 超ウケる。人生ソンしてるね」
「何が言いたい?」
「わたし、カレー好きなんだ」
彼女が持ってきたの日替わりのスープとパンのセットで、全くカレーのカの字もないような物だった。学食のメニューの中では最も安価で、人気があるらしいそれを、ナマエはバクバクと口に運んだ。
「明日の日替わりスープはカレーの日、だから楽しみ。でもあんたは負けた涙でしょっぱいカレーを食べるんだよ」
「…………勝つのか、俺に」
「あのさあ、わざわざ負けるために戦う人なんていないでしょ。まあ、談合決闘もあるらしいけど、わたしはそんなダサいことしないし。それより──なんでわたしの決闘、受けてくれたわけ?」
「俺は、ホルダーとして決闘に応じる義務がある」
「へー、あっそ」
グエルの返事を聞いて、ナマエの調子が露骨に下がったのがすぐに理解できた。彼女は試すような視線で、グエルを睨んでいたが、その眼力が消失したのだ。その瞬間を目撃したグエルは、何か恐ろしいものを目にしたような気持ちになった。
この女は、何を求めて決闘をするのか。全くと言っていいほど、予想できなくなった。昨日までは、一方的に敵視してくる厄介なやつだとばかり思っていた。けれど、それも違うように思えてきた。ナマエは、他の人間とは異なる地表から、グエルを観測している。そしてそれは、おそらく好意的なものではない。だとすればなぜ、接触を図ってきたのか。敵情視察にしては、あまりにも露骨すぎる。
試されている? 何を。俺自身を?
だとすれば、俺は飽きられてしまったのか。今この瞬間に、ナマエの中でグエルという人間に対する何かが変わった。それだけは理解できた。
つい最近まで他人だった人間の、心理の奥底に潜む何かが、グエルの興味を突き動かした。
「ナマエ、だったか」
「あぁ、うん」
「お前は勝ってどうしたいんだ。俺を、どうするつもりだ」
きっとこの様子であれば、ミオリネ・レンブランの婚約者の地位も、ホルダーの名誉も、何もかも、興味があるわけではないのだろう。グエルはあえて、同じ質問を繰り返した。ラウンジで、シャディクたちを前に言ったことを、再び尋ねた。
ナマエはきっと、本当のことを打ち明けてはくれないだろう。けれども、だからこそ、言わずにはいられなかったのだ。
「決まってるじゃん」
彼女は、聞き分けの悪い子供を叱るような口調で、薄い唇を動かした。
「三回回って、ワンって言わせるんだよ。それが決闘の流儀」
決闘が行われる日、その日の天気は雨だった。けれど、屋内に設置された実習用スペースでは、そんなことに影響などされない。せいぜい、湿気で髪がはねるくらいだ。
わたしは、彼女の決闘を自室で見守ることにした。今日は休日で、特に課題に追われるでもない時期だったから、余計にナマエたちの対戦カードは注目されていた。寮のラウンジでは、グエルの勝ちに投票する生徒たちの声と、ルームメイトのわたしに対する心無い視線が激しく精神を摩耗していったので、この一人きりの部屋で、彼女の最後の日を見守ることにしたのだ。
──きっと、キリストの処刑を見守っていた弟子も、同じような気持ちだったのだろう。
……いや、わたしは彼女のことを特別好きだった訳でも、愛していたわけでも、信仰してるわけでもない。ただ、同室のよしみ、同情心というものを少ないけれど持ち合わせているだけにすぎない。
かの神の弟子達の方が、わたしよりも辛い気持ちではいなかっただろう。ナマエは、もう二度とこの学園の土を踏むことはないだから。三日後に復活したキリストとは、違う。
机の上に置かれた時計を見る。時刻は午後三時の五分手前。もうすぐ決闘が始まる。この学校の、馬鹿げた出来レースが始まってしまう。
ナマエ、あんたは運が悪すぎた。この学園に来なければ……決闘なんてなければ、きっと将来は約束されていたようなものなのに。
わたしは端末を立ち上げ、決闘の生中継を観戦すべく、動画配信サイトのタブを開いた。ちょうど、わたしたちの寮のモビルスーツと、グエルの専用機が向かい合っている様子が見えた。
勝てるわけがない。
わたしは一眼見て、そう思った。
こちらからは、彼らの顔が見えない。カメラの映像が映し出すのは、彼らが搭乗する機体と、その場の音声だけだ。
「勝敗は、モビルスーツの性能のみで決まらず、操縦者の技のみで決まらず、ただ、結果のみが真実」
見ていられない。まだ大した動きもないのに、思わず目を閉じたくなった。それほどまでに、わたしたちの持ちうる武器と、ジェターク社の資本的格差は明らかだった。
見るからに旧世代型の機体と、最前線で使われるような新型の機体とでは、何もかもが違いすぎた。
しかも、向こうが持っている、普通の機体ならまず標準装備されているであろうライフルも、ナマエは持っていなかった。
なんてことを!
わたしはそう思った。
彼女は一本のランスだけを構えて、その場に立っていた。その姿は、貧相な騎士のようだ。ディランザの豪華な装飾を前にすると、そんな考えが浮かんでくる。
『勝敗は、モビルスーツの性能のみで決まらず』
そんな言葉は嘘だ。
金持ちの詭弁だ。
口先だけの平等だ。
ここは、持てる者のみが立つことを許された場所だ。わたしたちのような、末端の人間が立てる場所ではない。
彼女は、それを知っていたのだろうか。
この決闘は、実質的に、ジェターク社のモビルスーツの性能お披露目会でしかない。企業が外部にその実力を披露するための、造られた舞台なのだ。
わたしたちは、切り捨てられる案山子にすぎない。盛り上げるためのやられ役で、道化師役なのだ。
決闘なんて、元々金持ちだけに許された勝負事で、わたしたちはそのリングに上がることすら奇跡だった。この学校に入れたことだけでも、もうわたしたちは恵まれている。
もう今からでもすぐに降参すればいい。そうしたら、ナマエが地に伏せるところを見なくて済む。名誉なんていい、金持ち連中は好きにさせておけばいいんだ。くだらないプライドのために、自分の人生を捨てようとしないで欲しかった。だから、わたしは叫んだ。届かないとわかっていながらも、言わずにはいられなかった。
もうやめてくれ。
口から漏れた言葉と同時に、彼女は飛び出して行った。装甲の薄い機体は、スピードという利点があるものの、少しの衝撃でも簡単に崩れ落ちるような脆さという致命的な弱点を抱えていた。
だからこそ、ナマエは一撃で決めようとしたのだろう。
加速によって巻き上げられた土煙が、まるでスモッグのように、あたりを陰らせていた。そして、弾幕が雨霰のように降りしきる中、彼女は最大速度で敵の懐に飛び込んだ。
メインエンジンを狙ったのだろうか。それは、人間の腹を貫くような動きだった。分厚い装甲に向かって食らわせた一撃は、かなりの速度をもって、一点を差し、貫いた──ように見えた。
事実として、わたしが見たと思ったものは幻だった。都合の良い夢想でしかなかった。
結果として、彼女の渾身の一撃は、掠っただけで終わってしまった。外部に明らかな傷をつけたものの、内部には至っていない。
さすがは全世界でシェアナンバーワンを誇る大企業のモビルスーツ、と言ったところだろう。弱点を補うために繰り出した必殺の攻撃は命中こそすれど、相手の動きを止める一撃にはなり得なかったのだ。それどころか、こちらの不利な格闘戦になろうとしている。
金属と金属が衝突して、激しい火花が上がった。その衝撃たるや、動画の音声でも震え上がるほどの音圧を感じた。反動を利用して、彼女はメインカメラの方へと切っ先を合わせ、思い切り、振り上げた。
一瞬。
その一瞬で、勝負は決した。
振り上げた腕を、今度は向こうが利用してきた。いや、利用してきたというより、力でねじ伏せた。と言ったほうが正しいかもしれない。
ディランザのビームトーチが、ナマエの機体の手首ごと、アンテナをへし折っていた。
「あ…………!」
思わず口から声が漏れた。
容赦ない一太刀によって捥がれた腕は地に落ち、ナマエの機体は動きを止めた。
スクリーンには勝者の名前が映し出される。
そこに載っているのは、彼女の名前ではない。当たり前だ。わざわざ負けた人間の名前を晒すようなこともない。
「…………」
疑いようもなく、グエルの勝利だった。ナマエは、負けたのだ。
わたしはどうしようもなく、拳を握りしめた。よくやった。あの機体で一撃を加えられただけでも、彼女はよくやった方なのだ。きっとわたしなら、いや、この寮にいる生徒の中の誰であろうとも、グエルに一撃浴びせられるようなパイロットはいないだろう。
帰ってくるナマエを迎えてやるのが、わたしの仕事だ。だから、絶対に悲しい顔をしてはいけない。絶対に……そう、何があろうとも。
地面に叩きつけられた腕と二人の機体を見ていると、まるで時が止まったかのように思えた。何かのタイミングを待っているかのように、カメラはずっと静かな訓練場を映し続けている。
──コックピットが開いた。
両者が機体から降りると、二人は向かい合った。カメラも、必然的にその流れを追う。
降りてきたナマエの顔は、よく見えない。ちょうど照明が影になって、どれだけズームしても、うまく見れなかった。
「ナマエ……」
わたしがそう言ったのか、彼がそう言ったのをマイクが拾ったのか、どちらだったか忘れてしまった。
彼女はすっと顔を上げて、真っ直ぐグエルを見ていた。
「あーあ、負けちゃったよ」
「…………ああ」
「次は絶対、負けないって言いたいんだけどさ。多分、この子じゃあんたに勝てないね。悔しいけど、ジェターク社のモビルスーツは強いわぁ、うちのボロじゃ勝てないよ。狡いなあ」
「言い訳のつもりか?」
「いや、事実っしょ。スペック差はどうしても覆せないって」
「俺は、お前が飛び込んできた時、正直に言えば…………負けるかと思った。お前の操縦技術は、悪くないんじゃないか……と、思う」
「褒めてくれるの? 嬉しいねえ」
「正直に物を言って何が悪い」
「やっぱ、育ちがよろしい人って違うわー、うちら庶民とはもう、全然違うんだから。こういうときにごちゃごちゃ喋っちゃうわたしって、本当にダサいよね」
自虐で弾けたように早口になるナマエとは反対に、グエルは何かを言いたげに口を一の字に結んでいた。
わたしは……見ていて辛かった。彼女がここまで饒舌になるのは、辛いことを誤魔化す時だけだから。きっと心の中では、泣きたくて仕方ないのだろう。負けるのは自業自得にしても、悔しいものは、悔しいんだから。
「俺は! お前と戦えてよかったと思ってる!」
ナマエのおしゃべりを遮るように、グエルは叫んだ。それはまるで、雨雲に差した一筋の光のように、わたしの心を射抜いた。ナマエには、伝わっているのだろうか。祈るように動向を見つめる。
「うん、ありがとう」
ナマエはそれだけ言うと、グエルに背を向けた。そして、腕がもげ、メインカメラも潰された機体に乗り込み、逃げるようにその場を去っていった。
それを見ていたグエルの表情は、どんな風だっただろう。モニターには、彼の寂しげな後ろ姿しか映されていない。ずるり、と上半身が壁に寄りかかった。わたしの体の力が全て抜けてしまったらしい。
それからしばらく、中継動画を見つめていた。が、去っていく機体の影が虚になると、黙ってページを消した。
これから彼女はわたしの部屋に入ってくる。ここは彼女の部屋でもあるのだから、当たり前なのだけど、それがわたしには辛かった。きっと、ナマエだって辛いだろうけれど、野宿をするわけにもいかない。
しかも、明日は授業がある。だから、彼女は帰ってくるはずだ。パイロットスーツを脱いで、汗だくのまま制服を羽織って、きっとここに戻ってくる。
わたしはその時、どんな顔をすればいいだろう。
……結局のところ、わたしは彼女を平静な状態で受け入れることができたのだろうか。その時の記憶すら、今は曖昧だ。
──というようなこともあった。
寮の部屋を片付けていると、どうにも肌寒く感じる。寂しさであるとか、一種の哀愁のようなものが湧き上がってくる。
一人の部屋は、虚しい。
わたしの予想通り、彼女はこの学園を去った。それは必然だった。あのモビルスーツでの決闘は、絶対に許されないことだったからだ。
こうなるとわかっていながら、あの時はっきりと止めなかったわたしは非情だろうか? でも、止めても無駄だったのだ。
ナマエの見送りには、わたししか行かなかった。星間移動のための旅客機に乗り込む彼女は、何も言わず、ただわたしに向かって手を振った。ああ、本当に大馬鹿者め。呆れて、なんだか無性に泣けてきたことを覚えている。
わたし達を「支援」する企業に対して、立場上明確に反抗の意思を表明することはできない。そして、この気持ちは誰にも言わず、しまっておくつもりだ。わたしは無事にこの学園を卒業して、地元に戻るという義務がある。ナマエもそうなる予定だったけれど、どうしたことか、最終学年になって急におかしくなってしまった。
企業からは「お叱り」のメールがきた。わたしは彼女のお目付役でもあったから、彼らが怒るのも無理はない。
こうして、貴重な休みにわたしはだだっ広い部屋を掃除しているわけだが、余計なことばかり考えてしまう。どうしても失ったものばかりを数えてしまう。
無意味な思考を繰り返していると、ポケットの中に仕舞い込んだ携帯が震えていることに気づいた。常にマナーモードに設定しているこれに、通知が来ることは珍しかった。画面を立ち上げると、見慣れないIDからメッセージが来ていることがわかった。
家族とごく一部の知り合いにだけ教えているわたしのIDを、どこかの誰かが掴んで連絡をしてきたとなれば、目的は限られている。スパムか、何かの用件を持っているかのどちらかである。
チャットアプリを立ち上げて、送られてきたメッセージに目を通した瞬間、わたしは携帯を放り投げそうになった。
正確には、その差出人を見た時、だが。
この部屋に男子生徒を招き入れたことはない。ドアの内鍵を左に捻った時、初めて彼が男性だったということを思い出した。
女子寮と言っても、すぐ下の階に行けば男子の部屋があるので、性別によって隔離されているという意識は希薄だった。けれど、改めて、この閉じた空間に異性を招き入れるということは、領域に異物を混入させることなのだという実感が胸中に生じた。それでも特に躊躇うことなく、わたしは扉を開けた。
「入るぞ」
グエルは制服姿でわたしの部屋に入ってきた。やや緊張したような面持ちで、わたし越しに、彼の寮よりは粗末であろう我が個室を、じっと観察するように見ている。
「こちらに掛けてもらっていいかな。飲物を出せなくて悪いが」
「かまわない。俺こそ急に押しかけて申し訳なかった」
「なに、気にしなくてもいいよ」
誰かをここに招き入れることなど全く考えていなかったので、備え付けの机に座るように勧める。女子生徒用の椅子なので、大柄な彼には少し小さいかもしれない。
「……して、単刀直入に聞くけれど、ナマエのことで何か聞きたいのかな」
わたしがそう言うと、彼は顔を少しこわばらせ、ゆっくりと頷いた。
「ああ……あいつのことだ」
「その件についてなら、チャットでも満足に話せると思うのだけど、どうしてもここで話したかった訳を聞いてもよろしいかな。女子寮の個室に男子を入れるなんて、バレたらわたしは始末書では済まないよ」
「…………」
グエルは、何かを言いたげな視線をこちらに投げかけたが、あえてわたしは何も言わないことを選んだ。彼が考えていることは、わたしにはわからない。けれど、何かを伝えようと思案している人間を無碍にすることは、許されない。
「あいつが……ナマエが学校から除籍したと聞いて、俺は……いても経ってもいられなくなった。俺のせいでそうなったのだとしたら、申し訳ないと思っている。できれば、彼女と話がしたいと思ったが、俺にはツテがない。だから、今日、今ここにいる」
「ああ……なるほど。あなたは彼女のことを気に病んでいるんだな」
「俺は存外、直線的な人間らしい。カッとなって動いたら、この様だ」
「いや、わかった。悪くない。休日の暇つぶしとして楽しんでみよう」
「悪いな、有難い」
わたしたちは、少しだけ薄い笑いを浮かべあうことに成功した。グエル・ジェタークと向かいあうわたしたちの様相は、不釣り合いというには溶け込んでいるように思える。同じ学校の、同回生なのだからそれが普通なのだが、わたしたちの間には、どうしても超えられない壁があった。
「結論から言うと……わたしは現状、彼女と連絡を取ることができない。できないというのは、禁止されているからだ。だから、あの人が今どうしているか、わたしには全く検討がつかない。情報も遮断されている。つまり、わたしが持っている情報は、グエル、あなたとほぼ変わらないと言っていいんだ」
「そんなことが──」
「あるんだよ。そちらではどうか知らないけれどね」
ナマエと連絡が取れないというだけで、彼がここまで驚くとは思ってもいなかった。わたしたちのつながりは、結局は企業の意向一つで断ち切られてしまう。彼にはそんな経験はなかったのだろうか。
「わたしたちは、いわばこの企業に隷属する形で融資を受けている。彼女はそれを破ったから飛ばされた。結局、あなたに勝っても負けても、ナマエはここを去っていたよ」
「…………そうか」
グエルが息を殺すようにつぶやいた言葉を、わたしは忘れることができない。この時、わたしはナマエと彼が、同じだったことを理解した。ナマエとグエルを繋ぐものは、それだったのだ。わたしは今まで、全くそれに気づかなかった。
何かを噛み締めているような顔をしていたグエルに、わたしはかける言葉が見つからなかった。自分の口から隷属しているという単語が出てきたことにも、自分で驚いている。そうか、わたし達は縛られていたのだと、この瞬間、気づいたのだった。
「うちの会社は、争いを好まないのですよ。病的なまでにね。なんでも、ずっとそうしてきたから、我々にもそれを強いている。まるで教えを熱心に守る信徒のような心でね。馬鹿な話じゃないか、と自分でも思うのだけど、従わねばならない。わたしは実のところ、ナマエがいなくなるまで、自分が奴隷であることに気づかなかった。ここにいるわたしたちは、病んでいる。この会社も、この学園も、病んでいる。そう思って仕方がない。だからわたしも、ここを去ろうと思った。でも、それはできない話なんです。ナマエはきっと今頃、故郷にも戻れずにどこかを彷徨っている気がする。わたしには、そう思えて仕方がない。グエル、あなたはもう彼女を忘れた方がいい。わたしのことも、知らないと思った方がいい。お互い、無事に卒業した方がよろしい。あなたはいずれ、総裁の娘と結婚なさって、ジェターク社を継ぐのだから、わたしなどとは関わらない方がいいだろう」
口に出して、恐ろしい想像が心に浮かんだ。ナマエはおそらく死んでいる。そんな妄想が脳裏をよぎった。けれど、それほどまでに、ナマエの生存は絶望的だった。学園を追い出された彼女に生家での居場所があるとは思えなかった。わたしたちは、あんな企業に縋らねばならないほど、逼迫していた。だから、ナマエはもう、全てがどうでも良くなっていたから、生きる希望がないから、希望を捨てて死んだのか、とすら思った。あの子の生命力を見るに、そんな妄想は馬鹿馬鹿しいのだが、そう思わずにはいられなかった。世を儚んで死ぬのではなく、飽きたから、終わりにしたという理由で、ナマエは死を選びそうだったから。
あの船を見送ったあと、わたしは彼女を殺した。脳からいない人間として扱った。けれど、グエルの脳で、まだ彼女は生きた人として息づいているのだ。
「わたしからも、質問をいいだろうか」
「ああ」
「どうしてナマエを訪ねてきたんですか。あの人はあなたのことを嫌っていましたよ、それに、あなたに一瞬で負けた相手ですよ」
彼はわたしの目を見て、じっと堪えるように口を結んだ。まるで、不測の事態を告げるかのように、小声で言葉は紡がれた。
「一瞬、ほんの一度だけ、俺はナマエになら、こんな相手にならば、負けてもいいと思ってしまった」
大罪を告解したような発言によって、わたしの意識は一瞬混濁した。どういう顔をしていいのかわからず、けれども、引き寄せられるようにわたしはグエルの瞳を凝視してしまった。一瞬、彼の瞳孔は開き切った。そして、困惑した表情が顔に浮かび上がった。
「……いや、忘れてくれ。悪かった。お前のいう通りだ。もう金輪際、こちらには尋ねないと約束しよう。色々と教えてくれて、助かった。ありがとう」
早口でそう言った彼に、わたしは何も言えなくなった。言えなくなったし、言ってはいけないと思った。わたしは一般庶民で、彼の命を握ってしまったのだから、何も言ってはいけない。何も、知らなかったことにしなくては。何も聞かなかったことにして、明日もまた学校に行かなくてはならない。彼だって、わたしのことなんて知らないという体で、過ごさねばならないのだ。
わたしたちは、世界の恐ろしaい真実を知ったような気持ちでしばらく見つめ合った。ナマエがこの場にいたら、どういうことを言うのだろう。わたしは今日の夜、グエルに殺されるだろうとも思った。彼の心の中で、わたしと言う存在は一度抹消される。次の日には、わたしは彼の中で産まれ直すのだ。それはわたしも同じだ。けれど、ナマエが再び息を吹き返す時は二度とこない。死んでいるのか、生きているのか。さじ加減一つで人間は簡単に死んでしまうのだから。
「ナマエが聞いたら、喜びますよ」
わたしは彼女が死んでしまったように話す。まるで、この世にいないように振る舞う。グエル、あなたもそうしてほしい。そうしないと、おかしくなりそうだ。この世の不条理に押しつぶされそうだ。
「ああ、そうかもしれない」
だからこそ、わたしは沈黙を選ぶ。停滞を選ぶ。偽りを選ぶ。
「もう、二度と来ないでくださいね」
張り付いた笑みが、顔から消えない。
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