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単発SS
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彼女の首を絞めるのは、いとも容易いなんてことはなかった。あの子は最期の一暴れとばかりに、無茶苦茶に体をひねって、わたしに抵抗してみせた。当たり前でしょ。誰だって死にたくない。それでも、結局わたしの手は、ちゃんと彼女の首を絞めてあげた。絞めてあげたっていうか、首の骨を折ると、彼女の体からサーっと体温が引いていった。つまり、死んだってこと。ねえ、人が死ぬ時の皮膚の熱の抜け方、知ってる? わたしは知ってるよ。だってわたしは、あの子が息たえるその瞬間まで、じっと彼女の体を抱いていたんだから。
「で、なんの話だっけ?」
夕暮れ時に、ナマエは口を開いた。レゼはいつものように、ナマエに先ほど発した言葉を繰り返した。
「わたしそろそろ、日本に行くんだ」
「へえ」
ナマエは興味なさげに、手元の本のページをめくった。彼女がレゼの発した言葉に興味を持たないのは、いつものことだった。レゼはそれでも構わなかった。言葉に大した意味はないからだ。ここではいつだって、口数の多い人間から死んでいく。
「ナマエは次の任務、いつ?」
「うーん、言うなって言われてるから、秘密」
「そっか、じゃあしょうがないね」
「うん。言っても、どうしようもないでしょ」
レゼは、ナマエがスペイン語のレッスンを受けていることを知っていた。だから彼女は、どこか暖かい国に行くのだと思った。ナマエには、この寒いソビエトの大地より、そういうところの方が似合っているように思えた。雪の中で走るより、呑気に釣りでもしている方が、よほど様に合っている。
必要ならば、彼女は釣りでも殺しでもなんでもやるだろうけど、殺す相手が釣りを好きでなければ、覚える必要はない。レゼだってそうだ。日本の文化なんて、任務でもなければ学ぶ必要などないと思っている。
「ナマエ、何読んでるの?」
聞く必要のない質問を、レゼは重ねた。
「ゴーゴリだよ。見ればわかるでしょ」
思い出した。ナマエはいつも本を読んでた。わたしたちがいたところでは、読書は規制されていたはずなのに、彼女はいつもポケットに本を忍ばせていた。あの子はなんでも読んでた。聖書から、新聞に連載されていた娯楽小説まで、なんでも。ナマエは本の虫だった。わたしがどんな本を読んでるか聞いても、いつも絶対に教えてくれなかったな。
ナマエが本を読むところを横から見るの、わたしは好きだったよ。
レゼとナマエは、同室だった。彼女たちは、子供の頃から一緒だった。
「ねえ、明日の訓練って何するんだっけ」
「知らないの? 銃を撃つんだよ」
「なんのために?」
「バカみたい、人を殺すために決まってるじゃん。話聞いてなかった?」
レゼは、どうしてもナマエと話がしたくてたまらなかった。だから、意味のない質問を繰り返した。ナマエは、レゼがどうしようもないバカに見えてきて、それでも、なんだかレゼのことを見下せはしなかった。
劣等種は容赦なく間引きされるこの環境下において、なぜ彼女がここまで生きていられるのか、ナマエは理解できなかった。いつも自分に質問ばかり繰り返して、どうしてレゼはナマエよりも成績が良かったのか、ナマエはいつも、そのことについて考えて、考えて、いつも結論を出せずにいた。
「ナマエ、人を殺すのって怖い?」
「ぜーんぜん怖くない! 国家のために、わたしたちが頑張って、悪い奴らをやっつけないと! 同志のために、反乱分子を殺すんだよ」
「教科書通りだね」
「レゼ、あなたは国家に楯突く気?」
「ううん、ナマエの言う通りだと思う」
「そんなことでビビってたら、生きていけないからね」
ナマエは意気揚々と、熱のこもった持論を展開した。レゼは、話を聞かずに頷いた。ナマエは次の日、銃を撃った反動で手を痛めた。
わたしはね、ずっとナマエみたいになりたかった。だって、あの子、何にも考えていないんだもの。言われるがままに大人になって、楽しそうだった。わたしだって、ナマエみたいに死にたかった。抗って、抗って、真実に気づいて死ぬんだ。ナマエ、あの子はね、本当に馬鹿だった。でも、あそこにいた子供たちは全員そうだった。わたしだって、ナマエみたいに、馬鹿だった。
「ねえ、どうしてわたしは生きてるの」
「国に、有用だからって認められたから」
「レゼ、あなたは悪魔に適合したんでしょ」
「ナマエだって、生き残った」
「うん、でも、わたしは……あなたになりたかった。レゼみたいに、なりたかったよ」
レゼは、泣き出したナマエの肩をそっと抱いて、引き寄せた。ナマエは壊れた機械のように震えていた。ナマエの涙が、レゼの肩を濡らして、細い首筋にナマエの髪が一房、垂れた。
「わたしも、わたしだって、あの悪魔に……爆弾の悪魔に……わたしだって、同志の役に立てるはずだったのに……」
「うん、うん」
「どうしよう、レゼ。わたしはあなたが好きなのに、どうしようもなく、憎くて仕方ない」
レゼは、自分の口角が自然に吊り上がっていくのがわかった。絶対に、ナマエがすぐに泣き止まないように、彼女は祈った。
「わたし、死ぬの?」
「死なないよ、絶対」
強く抱きしめると、ナマエの骨が少しだけ、軋んだ。ナマエのやせっぱちの体を抱きしめていると、レゼはなんでもできそうな気がした。それこそ、世界だってひっくり返せてしまうんじゃないかと、この時だけは、そう思った。
「わたしが、ナマエを死なせない。絶対に」
「レゼにそんなこと、できるわけない」
「ううん、絶対にできるよ」
ナマエは、嘘つき、嘘つきと呟いて、そのうち静かになった。
あの子は、本当に頑張ってた。誰よりもね。殺されたくないって、夜中にしきりに呟くの。うるさいなあって思うんだけど、絶対にあの人たちには漏らさない。だって、本当に殺されてしまうから。ナマエが死ぬ時は、絶対にわたしの目の届くところって決めてた。ナマエを守るなんていって、結局わたしはナマエを殺したがってたんです。ナマエは絶対に、わたしが殺すんだって、決めてたんです。
──ねえ、こんな話を聞いて、あなたはどうしたいんですか?
レゼは一人、港でナマエの姿を探していた。朝焼けの中、涼しい風が彼女の横を通り過ぎていった。あたりは騒々しく、人は大勢いた。誰も彼もが、楽しそうに笑っていた。真顔でいたのは、レゼ一人だけだったかもしれない。
ここは観光地として有名な港で、朝の競りを目当てに大勢の観光客がやってくるのだ。ナマエは、ここのレストランで働く出稼ぎの労働者として、この港町に紛れているはずだった。レゼは、あくまでお気楽な一人旅の女性を装って、ここに送り込まれてきた。「ナマエを殺せ」と上層部から命令が下ったからである。
きっと、ここにナマエはいないだろうとレゼは思った。それでも、予定していた作戦通りに、ことを運ばなければならない。だから、無駄だとわかっていても、こんな騒々しい場所を起点にしたのだ。
ナマエ・ミョウジ。かつて我々の同志だったもの。今は任務から逃亡し、行方しれず。
書類上で表された彼女のステータスは、たったこれだけだ。いつものように、売国奴を殺すだけの簡単な任務。かつての友人は、今や裏切り者として暗殺の対象に指定されてしまっている。国家の犬であったナマエが、なぜ任務を捨て、レゼを裏切ったのか、それは伝えられていない。
けれど、レゼは直感的に理解している。ナマエは、きっと宝物を見つけたから逃げ出したのだ。宝物、と言っても本当に物質的な何かというわけではない。きっとそれは、人間だ。細かく言うと、男だろうとレゼは考えた。ナマエはこの国で、恋を知ったのだ。馬鹿げている、とレゼは思う。恋愛なんてもの、文章の中で満足していればよかったのに。そんな個人的な感情なんて、わたしたちはもうとっくに捨て去ってしまったはずだと、レゼは思っていた。ナマエは、何も考えていないくせに、こういうところで自我が強かったらしい。全く想定外だ。レゼは昨晩、船の中でそんなことを考えた。
愛することを教えたのは、わたしだったでしょ、とも思った。ナマエはまだ子供みたいなものだから、これもきっと一時の気の迷いなのだ。馬鹿だなあ、とレゼは思う。本当に、ナマエは頭が良くないなあ。今までみたいにずっと、国を恋人に、レゼを姉妹だと思って生きていれば、よかったのだ、と。
港をぐるりと見て回った後、レゼは内地行きの特急切符を購入した。引力で引かれ合うように、ナマエは絶対にここにいるのだという確信を持って、彼女は列車に乗り込んだ。
ナマエの男? そんな人、わたし見てない。ああ……、でも、顔も、姿も、見たはずなのに、思い出せなくって。そうだなあ、見たかもしれないし、見てないかもしれないね。でも、そんなことどうでも良いよね? ナマエが好きになった人って、きっとどうしようもない、くだらない人間だと思うんだ。だって、あの子が選んだんだもの、きっと、どこにでもいる、普通の、ありふれた人だよ。ナマエとおんなじで、お似合いじゃない?
ナマエは、小さな宿で息を潜めるようにして、眠っていた。レゼは、フロントの従業員を眠らせると、スペアの鍵をねじ込んで、ナマエが滞在している部屋に入り込んだ。相手の男は、今どこかで必要なものを調達しているらしい。彼女が眠っている枕元には、開いた聖書が置かれていた。
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」
かわいそうに、とレゼは思った。ナマエは本当に、救いようのない人間だ。
しばらく、死んだように眠っている彼女の寝顔を見つめていた。わたしだけの眠り姫、でも彼女を呼び覚ますのは王子様ではない、ただの元ルームメイトの、レゼ。名無しの悪魔。
今から、この少女を自分の手で絞め殺すのだと思うと、なんだか勿体無いような気がした。いや、いっそ自分の手で処刑してしまった方が良い。ナマエは、愚かで美しいまま、時を止めた方が、良い。
手術を施す医者の要領で、レゼはナマエを窒息させようと首に手をかけた。皮膚と皮膚が接触したその瞬間、ナマエははっと目を覚ました。
「反応が、遅い……」
レゼは、幼い頃に受けた訓練の内容を思い出した。いついかなる時でも、工作員たるもの、襲われても反応できるようにと教わったのに、ナマエはそれを忘れてしまったのだろうか。寝込みを襲われて、このザマだとしたら嘆かわしいばかりである。わたしも一緒にいたのに、それも忘れたの?
ナマエは寝巻きのまま、この部屋がどうなってもいい、とばかりに暴れ出す。レゼはそれを見越して、全身で押さえつけるように、ナマエを拘束した。開いた口から叫び声が漏れないように、彼女の顔を枕に押し当てた。髪が乱れて、首筋が曝け出された。白いうなじには、少しだけ産毛が生えていた。
「ナマエ、どうしてこんなところにいるの?」
返事らしき返事は返ってこない。彼女は到底発声できる状態ではなかった。時折漏れ出る嗚咽のような声だけが部屋にこだました。
「うん、もう、なんでもいいや。ナマエは逃げたんだから、言い訳なんてしなくていいもんね」
レゼはナマエの首に手をかけて、締め上げた。そのまま、枕から上体を起こさせて、ちょうど抱き抱えるように、ナマエを拘束した。確実に息の根を止めなくては。
抱き抱えられているナマエには、レゼの顔は見えていなかった。ただ、肌の温もりと声で、相手を識別しているだけにすぎない。彼女は死にたくないと暴れている。必死の抵抗を続けている。その様子を、レゼは虫の観察でもするように、冷酷な目線で見つめていた。
「ダメじゃない、勝手に出て行ったら」
「あの男とはどうして知り合ったの」
「ねえ、ナマエ、愛してる」
口から出てくる言葉は、どれも実体を伴っていない空気のように、ナマエの耳を通り過ぎた。声なんて、彼女には届いていなかった。ただ、苦しさだけがナマエの味わう全てだった。
「だからもう、逃げるなんて考えないでね」
「……死んだ?」
全てのことを終えたレゼは、ゆっくりとナマエの体から手を離した。彼女の体はすでにぐったりとしていて、動かない。筋肉がこわばったまま、少しづつ固まっていく。体温はすでに消え、抵抗した時に流れ出た汗と、体液の全てだけが服の内側の皮膚を覆っている。
「もう死んだか……」
レゼはナマエの目を覆った。彼女がどんな顔で死んだのか、見たくなかった。世の女性よりも細身なナマエの体を担いで、ベッドに寝かせた。布団をかけてやると、こんもりと小さな山ができていた。これで、レゼが最後に見たナマエの顔は、美しい眠り姫のままになったのだ。普段はこんなこと、絶対にしない。でも、友達だったから、特別だ。
「……はあ」
死体と一人きりになってしまった部屋の中で、レゼは一度、ため息をついた。彼女は息たえたナマエを一瞥した後、内鍵を開けて廊下に出た。そして二度と振り返らずに、ホテルの狭苦しい階段を降り、フロントを抜け、外に出て、そのまま電車に飛びのった。
この話は、これでおしまい。……感想は、別にいいよ。いらないです。わたしはこうして今ここにいるわけだけど、もしかしたらナマエはずっとあのベッドの中で、一人で眠っているかもしれませんね。……はあ、面白くもなんともないこと言っちゃった。
……ナマエのこと、わたしはまだ好きなんだ。好きだけど、多分明日には忘れちゃう。でも貴方も同じでしょ? きっと次の日には、こんな話忘れて、また新しい話を聞くの。だからもう、わたしの話は終わり。じゃあね、バイバイ。
そう言ってレゼは椅子から立ち上がり、小さな部屋から消え去った。
「で、なんの話だっけ?」
夕暮れ時に、ナマエは口を開いた。レゼはいつものように、ナマエに先ほど発した言葉を繰り返した。
「わたしそろそろ、日本に行くんだ」
「へえ」
ナマエは興味なさげに、手元の本のページをめくった。彼女がレゼの発した言葉に興味を持たないのは、いつものことだった。レゼはそれでも構わなかった。言葉に大した意味はないからだ。ここではいつだって、口数の多い人間から死んでいく。
「ナマエは次の任務、いつ?」
「うーん、言うなって言われてるから、秘密」
「そっか、じゃあしょうがないね」
「うん。言っても、どうしようもないでしょ」
レゼは、ナマエがスペイン語のレッスンを受けていることを知っていた。だから彼女は、どこか暖かい国に行くのだと思った。ナマエには、この寒いソビエトの大地より、そういうところの方が似合っているように思えた。雪の中で走るより、呑気に釣りでもしている方が、よほど様に合っている。
必要ならば、彼女は釣りでも殺しでもなんでもやるだろうけど、殺す相手が釣りを好きでなければ、覚える必要はない。レゼだってそうだ。日本の文化なんて、任務でもなければ学ぶ必要などないと思っている。
「ナマエ、何読んでるの?」
聞く必要のない質問を、レゼは重ねた。
「ゴーゴリだよ。見ればわかるでしょ」
思い出した。ナマエはいつも本を読んでた。わたしたちがいたところでは、読書は規制されていたはずなのに、彼女はいつもポケットに本を忍ばせていた。あの子はなんでも読んでた。聖書から、新聞に連載されていた娯楽小説まで、なんでも。ナマエは本の虫だった。わたしがどんな本を読んでるか聞いても、いつも絶対に教えてくれなかったな。
ナマエが本を読むところを横から見るの、わたしは好きだったよ。
レゼとナマエは、同室だった。彼女たちは、子供の頃から一緒だった。
「ねえ、明日の訓練って何するんだっけ」
「知らないの? 銃を撃つんだよ」
「なんのために?」
「バカみたい、人を殺すために決まってるじゃん。話聞いてなかった?」
レゼは、どうしてもナマエと話がしたくてたまらなかった。だから、意味のない質問を繰り返した。ナマエは、レゼがどうしようもないバカに見えてきて、それでも、なんだかレゼのことを見下せはしなかった。
劣等種は容赦なく間引きされるこの環境下において、なぜ彼女がここまで生きていられるのか、ナマエは理解できなかった。いつも自分に質問ばかり繰り返して、どうしてレゼはナマエよりも成績が良かったのか、ナマエはいつも、そのことについて考えて、考えて、いつも結論を出せずにいた。
「ナマエ、人を殺すのって怖い?」
「ぜーんぜん怖くない! 国家のために、わたしたちが頑張って、悪い奴らをやっつけないと! 同志のために、反乱分子を殺すんだよ」
「教科書通りだね」
「レゼ、あなたは国家に楯突く気?」
「ううん、ナマエの言う通りだと思う」
「そんなことでビビってたら、生きていけないからね」
ナマエは意気揚々と、熱のこもった持論を展開した。レゼは、話を聞かずに頷いた。ナマエは次の日、銃を撃った反動で手を痛めた。
わたしはね、ずっとナマエみたいになりたかった。だって、あの子、何にも考えていないんだもの。言われるがままに大人になって、楽しそうだった。わたしだって、ナマエみたいに死にたかった。抗って、抗って、真実に気づいて死ぬんだ。ナマエ、あの子はね、本当に馬鹿だった。でも、あそこにいた子供たちは全員そうだった。わたしだって、ナマエみたいに、馬鹿だった。
「ねえ、どうしてわたしは生きてるの」
「国に、有用だからって認められたから」
「レゼ、あなたは悪魔に適合したんでしょ」
「ナマエだって、生き残った」
「うん、でも、わたしは……あなたになりたかった。レゼみたいに、なりたかったよ」
レゼは、泣き出したナマエの肩をそっと抱いて、引き寄せた。ナマエは壊れた機械のように震えていた。ナマエの涙が、レゼの肩を濡らして、細い首筋にナマエの髪が一房、垂れた。
「わたしも、わたしだって、あの悪魔に……爆弾の悪魔に……わたしだって、同志の役に立てるはずだったのに……」
「うん、うん」
「どうしよう、レゼ。わたしはあなたが好きなのに、どうしようもなく、憎くて仕方ない」
レゼは、自分の口角が自然に吊り上がっていくのがわかった。絶対に、ナマエがすぐに泣き止まないように、彼女は祈った。
「わたし、死ぬの?」
「死なないよ、絶対」
強く抱きしめると、ナマエの骨が少しだけ、軋んだ。ナマエのやせっぱちの体を抱きしめていると、レゼはなんでもできそうな気がした。それこそ、世界だってひっくり返せてしまうんじゃないかと、この時だけは、そう思った。
「わたしが、ナマエを死なせない。絶対に」
「レゼにそんなこと、できるわけない」
「ううん、絶対にできるよ」
ナマエは、嘘つき、嘘つきと呟いて、そのうち静かになった。
あの子は、本当に頑張ってた。誰よりもね。殺されたくないって、夜中にしきりに呟くの。うるさいなあって思うんだけど、絶対にあの人たちには漏らさない。だって、本当に殺されてしまうから。ナマエが死ぬ時は、絶対にわたしの目の届くところって決めてた。ナマエを守るなんていって、結局わたしはナマエを殺したがってたんです。ナマエは絶対に、わたしが殺すんだって、決めてたんです。
──ねえ、こんな話を聞いて、あなたはどうしたいんですか?
レゼは一人、港でナマエの姿を探していた。朝焼けの中、涼しい風が彼女の横を通り過ぎていった。あたりは騒々しく、人は大勢いた。誰も彼もが、楽しそうに笑っていた。真顔でいたのは、レゼ一人だけだったかもしれない。
ここは観光地として有名な港で、朝の競りを目当てに大勢の観光客がやってくるのだ。ナマエは、ここのレストランで働く出稼ぎの労働者として、この港町に紛れているはずだった。レゼは、あくまでお気楽な一人旅の女性を装って、ここに送り込まれてきた。「ナマエを殺せ」と上層部から命令が下ったからである。
きっと、ここにナマエはいないだろうとレゼは思った。それでも、予定していた作戦通りに、ことを運ばなければならない。だから、無駄だとわかっていても、こんな騒々しい場所を起点にしたのだ。
ナマエ・ミョウジ。かつて我々の同志だったもの。今は任務から逃亡し、行方しれず。
書類上で表された彼女のステータスは、たったこれだけだ。いつものように、売国奴を殺すだけの簡単な任務。かつての友人は、今や裏切り者として暗殺の対象に指定されてしまっている。国家の犬であったナマエが、なぜ任務を捨て、レゼを裏切ったのか、それは伝えられていない。
けれど、レゼは直感的に理解している。ナマエは、きっと宝物を見つけたから逃げ出したのだ。宝物、と言っても本当に物質的な何かというわけではない。きっとそれは、人間だ。細かく言うと、男だろうとレゼは考えた。ナマエはこの国で、恋を知ったのだ。馬鹿げている、とレゼは思う。恋愛なんてもの、文章の中で満足していればよかったのに。そんな個人的な感情なんて、わたしたちはもうとっくに捨て去ってしまったはずだと、レゼは思っていた。ナマエは、何も考えていないくせに、こういうところで自我が強かったらしい。全く想定外だ。レゼは昨晩、船の中でそんなことを考えた。
愛することを教えたのは、わたしだったでしょ、とも思った。ナマエはまだ子供みたいなものだから、これもきっと一時の気の迷いなのだ。馬鹿だなあ、とレゼは思う。本当に、ナマエは頭が良くないなあ。今までみたいにずっと、国を恋人に、レゼを姉妹だと思って生きていれば、よかったのだ、と。
港をぐるりと見て回った後、レゼは内地行きの特急切符を購入した。引力で引かれ合うように、ナマエは絶対にここにいるのだという確信を持って、彼女は列車に乗り込んだ。
ナマエの男? そんな人、わたし見てない。ああ……、でも、顔も、姿も、見たはずなのに、思い出せなくって。そうだなあ、見たかもしれないし、見てないかもしれないね。でも、そんなことどうでも良いよね? ナマエが好きになった人って、きっとどうしようもない、くだらない人間だと思うんだ。だって、あの子が選んだんだもの、きっと、どこにでもいる、普通の、ありふれた人だよ。ナマエとおんなじで、お似合いじゃない?
ナマエは、小さな宿で息を潜めるようにして、眠っていた。レゼは、フロントの従業員を眠らせると、スペアの鍵をねじ込んで、ナマエが滞在している部屋に入り込んだ。相手の男は、今どこかで必要なものを調達しているらしい。彼女が眠っている枕元には、開いた聖書が置かれていた。
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」
かわいそうに、とレゼは思った。ナマエは本当に、救いようのない人間だ。
しばらく、死んだように眠っている彼女の寝顔を見つめていた。わたしだけの眠り姫、でも彼女を呼び覚ますのは王子様ではない、ただの元ルームメイトの、レゼ。名無しの悪魔。
今から、この少女を自分の手で絞め殺すのだと思うと、なんだか勿体無いような気がした。いや、いっそ自分の手で処刑してしまった方が良い。ナマエは、愚かで美しいまま、時を止めた方が、良い。
手術を施す医者の要領で、レゼはナマエを窒息させようと首に手をかけた。皮膚と皮膚が接触したその瞬間、ナマエははっと目を覚ました。
「反応が、遅い……」
レゼは、幼い頃に受けた訓練の内容を思い出した。いついかなる時でも、工作員たるもの、襲われても反応できるようにと教わったのに、ナマエはそれを忘れてしまったのだろうか。寝込みを襲われて、このザマだとしたら嘆かわしいばかりである。わたしも一緒にいたのに、それも忘れたの?
ナマエは寝巻きのまま、この部屋がどうなってもいい、とばかりに暴れ出す。レゼはそれを見越して、全身で押さえつけるように、ナマエを拘束した。開いた口から叫び声が漏れないように、彼女の顔を枕に押し当てた。髪が乱れて、首筋が曝け出された。白いうなじには、少しだけ産毛が生えていた。
「ナマエ、どうしてこんなところにいるの?」
返事らしき返事は返ってこない。彼女は到底発声できる状態ではなかった。時折漏れ出る嗚咽のような声だけが部屋にこだました。
「うん、もう、なんでもいいや。ナマエは逃げたんだから、言い訳なんてしなくていいもんね」
レゼはナマエの首に手をかけて、締め上げた。そのまま、枕から上体を起こさせて、ちょうど抱き抱えるように、ナマエを拘束した。確実に息の根を止めなくては。
抱き抱えられているナマエには、レゼの顔は見えていなかった。ただ、肌の温もりと声で、相手を識別しているだけにすぎない。彼女は死にたくないと暴れている。必死の抵抗を続けている。その様子を、レゼは虫の観察でもするように、冷酷な目線で見つめていた。
「ダメじゃない、勝手に出て行ったら」
「あの男とはどうして知り合ったの」
「ねえ、ナマエ、愛してる」
口から出てくる言葉は、どれも実体を伴っていない空気のように、ナマエの耳を通り過ぎた。声なんて、彼女には届いていなかった。ただ、苦しさだけがナマエの味わう全てだった。
「だからもう、逃げるなんて考えないでね」
「……死んだ?」
全てのことを終えたレゼは、ゆっくりとナマエの体から手を離した。彼女の体はすでにぐったりとしていて、動かない。筋肉がこわばったまま、少しづつ固まっていく。体温はすでに消え、抵抗した時に流れ出た汗と、体液の全てだけが服の内側の皮膚を覆っている。
「もう死んだか……」
レゼはナマエの目を覆った。彼女がどんな顔で死んだのか、見たくなかった。世の女性よりも細身なナマエの体を担いで、ベッドに寝かせた。布団をかけてやると、こんもりと小さな山ができていた。これで、レゼが最後に見たナマエの顔は、美しい眠り姫のままになったのだ。普段はこんなこと、絶対にしない。でも、友達だったから、特別だ。
「……はあ」
死体と一人きりになってしまった部屋の中で、レゼは一度、ため息をついた。彼女は息たえたナマエを一瞥した後、内鍵を開けて廊下に出た。そして二度と振り返らずに、ホテルの狭苦しい階段を降り、フロントを抜け、外に出て、そのまま電車に飛びのった。
この話は、これでおしまい。……感想は、別にいいよ。いらないです。わたしはこうして今ここにいるわけだけど、もしかしたらナマエはずっとあのベッドの中で、一人で眠っているかもしれませんね。……はあ、面白くもなんともないこと言っちゃった。
……ナマエのこと、わたしはまだ好きなんだ。好きだけど、多分明日には忘れちゃう。でも貴方も同じでしょ? きっと次の日には、こんな話忘れて、また新しい話を聞くの。だからもう、わたしの話は終わり。じゃあね、バイバイ。
そう言ってレゼは椅子から立ち上がり、小さな部屋から消え去った。
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