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コーヒーを飲みながら、チリはふとナマエのことを思い浮かべた。ナマエというのは、彼女がかつて交際していた人間の中の一人で、元恋人のラベルを貼って、棚にしまってある女性たちの中でも、輪郭のぼやけるような遠い昔に付き合っていた女だった。
なぜ、今思い返しているのか。チリは自分でも不思議に思いながら、テラスの席から街を眺めた。ナマエとチリが交際していたのは、もう何年も前のことで、チリが四天王としてチャンピョンリーグの仕事を始める以前のことだった。正直、チリはナマエの顔すらきちんと思い出すことはできない。けれど、彼女の長い髪を弄んでいた記憶だけは、まるで直前のことのように思い浮かべることができた。
狭いアパートの中で、二人は安酒を飲み交わしながら、各々の職場の愚痴、将来の展望を語り合った。あの時は、なんでも思い通りにいかないことに苛立ちながら、それでもお互いのために頑張ろうと、がむしゃらに生きていた。ナマエは社会の泥に塗れて生きていると自称していたけれど、チリから見れば、彼女は夢現の中で生きているかのように見えた。
作り物のような体に、度数の高いアルコール飲料を詰め込む様をみて、人形が飲酒しているなんて面白いと、ゲラゲラ笑った。ナマエはそんなことでチリが笑っているなんて知らなかったので、不思議そうにしていた。そういうこともあった、と今思い出した。
ナマエの浮世離れした様子をみて、チリはいつも不思議に思っていた。けれど、そんな彼女のことが、確かに好きだった。小さな手を握ると、本当にこれが同じ人間なのかと恐ろしくなったし、肩を寄せ合うと、壊してしまいそうな気がして、抱き寄せることを戸惑った。ただ、それはナマエのことを大事にしたかったからだし、絶対に自分が守らなければいけないという義務感に駆られた。
──どうして、ナマエと別れてしまったのだろう。
チリはコーヒーを飲み干して、付け合わせのクッキーを頬張り、過去の記憶の糸を手繰り寄せた。マドレーヌを紅茶に浸した瞬間、過去の記憶にトリップする、そんな小説をかつて読んだことがある。どれだけ考えても、ナマエとコーヒーなんてものは結びつかなかった。こんなカフェインたっぷりの飲み物を、彼女が飲んでいた記憶も、彼女の部屋にそれらしきものが置かれていた記憶もないのだ。
──今、ナマエは何をしているんだろう。
ナマエとの記憶を辿っている間にさまざまなものが蘇ってきた。彼女のアパートの床には、白いカーペットが敷かれていたこと。彼女のそばで暮らしていたポケモンのこと、些細な思い出が脳裏を掠めるが、肝心なナマエの顔が、はっきりと思い出せない。まるでモヤがかかったように、白昼夢の向こう側に消えてしまう。
ただ鮮烈に、赤いパジャマの袖から覗く、彼女の白い手首、そして、蛍光灯の光を受けて輝く、ナマエの黒髪だけが、脳に焼き付いて離れなくなる。どれだけ追い返そうとしても、影のように迫ってくる。ただ、肝心な顔だけが、ピントのブレた写真のようにどこまでも、不透明なままだ。
──やっぱり、顔も思い出せないっていうことは、そういうことなんだろう。
顔も思い出せない元恋人など、いないのと同じことだ。チリはそう思うことにして、喫茶店を後にした。
自宅に帰る道すがら、すれ違う長髪の女性を見ると、ナマエとすれ違った気がして、チリの胸は鼓動を刻んだ。今彼女に会ってもどうしようもないのに、求めてしまう。これは愛や執着というよりも、疑問を解消したいといった方の欲求に近かった。周りのものを見ないようにして、チリは家路を急いだ。
「あー、チリちゃん、今めっちゃダサいわ」
帰宅後、彼女は缶チューハイを開けた。ドオーたちが寛いでいるリビングを通り過ぎ、寝室に入ると、上着を脱ぎ、靴下を脱ぎ、ベッドに腰掛けた。誰に聞かせるでもない独り言を呟きながら、電話帳から消していなかった電話番号に電話をかけた。
コール音が一度、二度と鳴った。
ダサい。恥知らず。色ボケ。メンヘラ。
今、猛烈に恥ずかしいことをしているように感じた。わざわざ酒の力に頼って、人恋寂しくなったから元カノに電話をかけている。未練がましい行為だ。こんなこと、自分ではないとチリは思った。けれど、こうやって、うずくまりながら、絶対にこの電話に出ないでくれ、と祈っているのは自分であり、チリが自分で選択した行為なのだ。
三コールめ。そろそろ切ろうとした時、不意に電話はつながった。
「……もしもし、あー、もしかして、チリですか?」
「ほんまに、ナマエ? ナマエやんな?」
「そうだけど。こんな夜中に、なんで電話を?」
「い、いやー、なんか気になってしもてん。今ナマエ何してるんやろって、そんだけ」
「ウソでしょ、マルチじゃないの?」
「ハ? マルチ……ちゃうちゃう。チリちゃん、今はリーグで働いとるんやで。金には困っとらんわ!」
「ああ……そういえば、そうだったね」
チリの想像よりも、ナマエの声は乾いていた。それもそうかもしれない。もう二人は恋人でもなんでもない他人なのだ。
「テレビで見たよ。最近チャンピョンの子が増えたんだってね」
「せやねん、本気で戦ったんやけど、負けてしもたわ……あはは……」
「ねえ、わたし明日早いからそろそろ切っていい?」
「あ、そうやな。仕事、あるもんな……チリちゃんもそうやのに、忘れてしもてたわ。遅い時間に、ごめんな」
「おやすみなさい」
「おやすみー……」
ナマエの方からブツ、と電話を切られた瞬間、チリは今まで味わったことのないような屈辱感と、背筋を伝う冷や汗の感触を覚えた。知らない間に肩に力が入っていたようで、ベッドに傾れ込むと、ひどく上半身の筋肉がこわばっていることがわかった。
もう二度と、ナマエに連絡なんてとれやしない。それに、きっとナマエはチリのことなんて、どうでもいい人間であると思っている。チリが生きてきた中で、あからさまに面倒くさそうな態度を取られたことは、なかった。いや、あったかもしれないけれど、彼女はそんな些細なことでいちいち落ち込んだり、木を取り乱したりしない。
あの思い出の中にいたナマエと、今のナマエという人間は、きっと別物なのだ。所詮、彼女は元カノで、チリが見ていなナマエと、今のナマエは、形だけ同じの別人でしかない。それ以上でも、それ以下でもない。
チリはノロノロとベッドから起き上がると、シャツを脱ぎ捨て、下着をかごに放り込んで、シャワーを浴びた。頭上から流れ出る水に身を委ねていると、徐々に自分の中にあったナマエとの思い出も、悲しみの全ても流れ落ちていくような気がした。きっと、街でナマエに会ってもそうとはわからないだろう。
明日出勤するときに、泣き腫らした目をしていてはみんなに気を使わせてしまう。だから今日は、絶対に泣かないようにしよう。泣かない、と決めた途端、すぐに涙は止まった。その瞬間、チリは自分が泣いていたことに気づいた。
「あーあ、アホくさ……」
彼女の流した涙は、排水口を伝って下水道管を流れていった。ナマエは今、パルデアにいるだろう。彼女のいた街も、きっとここからそう遠くないだろう。それでも、二度と会えない気がした。
次の日からチリは、コーヒーをブラックで飲むのをやめた。
なぜ、今思い返しているのか。チリは自分でも不思議に思いながら、テラスの席から街を眺めた。ナマエとチリが交際していたのは、もう何年も前のことで、チリが四天王としてチャンピョンリーグの仕事を始める以前のことだった。正直、チリはナマエの顔すらきちんと思い出すことはできない。けれど、彼女の長い髪を弄んでいた記憶だけは、まるで直前のことのように思い浮かべることができた。
狭いアパートの中で、二人は安酒を飲み交わしながら、各々の職場の愚痴、将来の展望を語り合った。あの時は、なんでも思い通りにいかないことに苛立ちながら、それでもお互いのために頑張ろうと、がむしゃらに生きていた。ナマエは社会の泥に塗れて生きていると自称していたけれど、チリから見れば、彼女は夢現の中で生きているかのように見えた。
作り物のような体に、度数の高いアルコール飲料を詰め込む様をみて、人形が飲酒しているなんて面白いと、ゲラゲラ笑った。ナマエはそんなことでチリが笑っているなんて知らなかったので、不思議そうにしていた。そういうこともあった、と今思い出した。
ナマエの浮世離れした様子をみて、チリはいつも不思議に思っていた。けれど、そんな彼女のことが、確かに好きだった。小さな手を握ると、本当にこれが同じ人間なのかと恐ろしくなったし、肩を寄せ合うと、壊してしまいそうな気がして、抱き寄せることを戸惑った。ただ、それはナマエのことを大事にしたかったからだし、絶対に自分が守らなければいけないという義務感に駆られた。
──どうして、ナマエと別れてしまったのだろう。
チリはコーヒーを飲み干して、付け合わせのクッキーを頬張り、過去の記憶の糸を手繰り寄せた。マドレーヌを紅茶に浸した瞬間、過去の記憶にトリップする、そんな小説をかつて読んだことがある。どれだけ考えても、ナマエとコーヒーなんてものは結びつかなかった。こんなカフェインたっぷりの飲み物を、彼女が飲んでいた記憶も、彼女の部屋にそれらしきものが置かれていた記憶もないのだ。
──今、ナマエは何をしているんだろう。
ナマエとの記憶を辿っている間にさまざまなものが蘇ってきた。彼女のアパートの床には、白いカーペットが敷かれていたこと。彼女のそばで暮らしていたポケモンのこと、些細な思い出が脳裏を掠めるが、肝心なナマエの顔が、はっきりと思い出せない。まるでモヤがかかったように、白昼夢の向こう側に消えてしまう。
ただ鮮烈に、赤いパジャマの袖から覗く、彼女の白い手首、そして、蛍光灯の光を受けて輝く、ナマエの黒髪だけが、脳に焼き付いて離れなくなる。どれだけ追い返そうとしても、影のように迫ってくる。ただ、肝心な顔だけが、ピントのブレた写真のようにどこまでも、不透明なままだ。
──やっぱり、顔も思い出せないっていうことは、そういうことなんだろう。
顔も思い出せない元恋人など、いないのと同じことだ。チリはそう思うことにして、喫茶店を後にした。
自宅に帰る道すがら、すれ違う長髪の女性を見ると、ナマエとすれ違った気がして、チリの胸は鼓動を刻んだ。今彼女に会ってもどうしようもないのに、求めてしまう。これは愛や執着というよりも、疑問を解消したいといった方の欲求に近かった。周りのものを見ないようにして、チリは家路を急いだ。
「あー、チリちゃん、今めっちゃダサいわ」
帰宅後、彼女は缶チューハイを開けた。ドオーたちが寛いでいるリビングを通り過ぎ、寝室に入ると、上着を脱ぎ、靴下を脱ぎ、ベッドに腰掛けた。誰に聞かせるでもない独り言を呟きながら、電話帳から消していなかった電話番号に電話をかけた。
コール音が一度、二度と鳴った。
ダサい。恥知らず。色ボケ。メンヘラ。
今、猛烈に恥ずかしいことをしているように感じた。わざわざ酒の力に頼って、人恋寂しくなったから元カノに電話をかけている。未練がましい行為だ。こんなこと、自分ではないとチリは思った。けれど、こうやって、うずくまりながら、絶対にこの電話に出ないでくれ、と祈っているのは自分であり、チリが自分で選択した行為なのだ。
三コールめ。そろそろ切ろうとした時、不意に電話はつながった。
「……もしもし、あー、もしかして、チリですか?」
「ほんまに、ナマエ? ナマエやんな?」
「そうだけど。こんな夜中に、なんで電話を?」
「い、いやー、なんか気になってしもてん。今ナマエ何してるんやろって、そんだけ」
「ウソでしょ、マルチじゃないの?」
「ハ? マルチ……ちゃうちゃう。チリちゃん、今はリーグで働いとるんやで。金には困っとらんわ!」
「ああ……そういえば、そうだったね」
チリの想像よりも、ナマエの声は乾いていた。それもそうかもしれない。もう二人は恋人でもなんでもない他人なのだ。
「テレビで見たよ。最近チャンピョンの子が増えたんだってね」
「せやねん、本気で戦ったんやけど、負けてしもたわ……あはは……」
「ねえ、わたし明日早いからそろそろ切っていい?」
「あ、そうやな。仕事、あるもんな……チリちゃんもそうやのに、忘れてしもてたわ。遅い時間に、ごめんな」
「おやすみなさい」
「おやすみー……」
ナマエの方からブツ、と電話を切られた瞬間、チリは今まで味わったことのないような屈辱感と、背筋を伝う冷や汗の感触を覚えた。知らない間に肩に力が入っていたようで、ベッドに傾れ込むと、ひどく上半身の筋肉がこわばっていることがわかった。
もう二度と、ナマエに連絡なんてとれやしない。それに、きっとナマエはチリのことなんて、どうでもいい人間であると思っている。チリが生きてきた中で、あからさまに面倒くさそうな態度を取られたことは、なかった。いや、あったかもしれないけれど、彼女はそんな些細なことでいちいち落ち込んだり、木を取り乱したりしない。
あの思い出の中にいたナマエと、今のナマエという人間は、きっと別物なのだ。所詮、彼女は元カノで、チリが見ていなナマエと、今のナマエは、形だけ同じの別人でしかない。それ以上でも、それ以下でもない。
チリはノロノロとベッドから起き上がると、シャツを脱ぎ捨て、下着をかごに放り込んで、シャワーを浴びた。頭上から流れ出る水に身を委ねていると、徐々に自分の中にあったナマエとの思い出も、悲しみの全ても流れ落ちていくような気がした。きっと、街でナマエに会ってもそうとはわからないだろう。
明日出勤するときに、泣き腫らした目をしていてはみんなに気を使わせてしまう。だから今日は、絶対に泣かないようにしよう。泣かない、と決めた途端、すぐに涙は止まった。その瞬間、チリは自分が泣いていたことに気づいた。
「あーあ、アホくさ……」
彼女の流した涙は、排水口を伝って下水道管を流れていった。ナマエは今、パルデアにいるだろう。彼女のいた街も、きっとここからそう遠くないだろう。それでも、二度と会えない気がした。
次の日からチリは、コーヒーをブラックで飲むのをやめた。
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