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「…何で、あなたがいるんですか?」
開かれた扉から顔を出した青年に対し、名無しは露骨に困惑を露にした。
それはけっして彼が身につけている家庭的なエプロンが意外すぎたからではなく、家主の一人暮らしであろう部屋から、今まさに家事をしていましたと言わんばかりの格好をした家主ではない彼が出てきたからである。
ついでに、迎えてくれると思っていた想い人じゃなかったことにガッカリしているからでもある。
「お前こそ、何の用だ?」
「私はお兄ちゃんに会いに来たんです」
「先生は今、外出中だ」
「だったら尚更、どうしてあなたがお兄ちゃんの家にいるんですか?」
「俺はこちらで世話になっている」
彼、ジェノスが紡ぐ言葉は淡々としていて、冷静というよりもどこか冷たさのようなものすら感じられた。
思わず怖気付きそうになる名無しだったが、それでも何とか勇気を出して更に問えば、アッサリと返ってきた答えに暫しフリーズする。
「…へ?」
「先生のお宅に住まわせていただいている、と言ったんだ」
「…。」
名無しはポカンと口を開いたまま固まっている。
先生のお宅に住まわせて…お宅に住む…つまりは同居…
先程の答えをグルグルと頭の中で繰り返していると、
「お、名無しじゃねーか。わざわざ来なくても迎えに行ってやるって昨日言っ…」
「ず…ズルい!」
「は?」
帰宅してきたヒーロースーツ姿のサイタマは、突然大声を上げた名無しに首を傾けた。
「まさかお兄ちゃんがこの人と一緒に暮らしてたなんて…そんなに仲良しだったなんて…」
「いや、仲がいいわけじゃなくてコイツが押しかけて来てだな…」
ひとまず部屋に上げてもらった名無しは、未だ困惑した様子で1人ブツブツと呟いている。
サイタマの否定の言葉も、ちゃんと聞こえているかどうか怪しい。
「先生。出掛ける前におっしゃっていた用事とは、この女と会う約束だったのですか?」
「あぁ。近くのスーパーとか店の場所を教えてやろうと思って」
「そうでしたか。すみません、やはり俺が代わりに向かうべきでした」
「いいよ。さっさと確実にぶっ倒したかったし、活動ノルマもクリアできるしな」
ヒーロースーツから普段着に着替えたサイタマはジェノスと会話をしながら近くに置いてあったチラシを手に取ると、時計と交互に見比べた後、「よし」と頷いた。
「どうせならタイムセールに合わせて行くか。まだ時間あるし、それまでゆっくりしようぜ」
「うん…ありがとう…」
覇気のない返事をする名無し。
「何かあったのか?」とジェノスを見るサイタマだが、ジェノスは平然と「特に何も」と答えて人数分のお茶を机に置いた。
「火傷には気をつけろ」
「…ありがとうございます…いただきます」
自分の前に置かれた湯呑みを持った名無しは何度か息を吹きかけて冷ましてから、こくりとお茶を口に含む。
それからチラリとジェノスの顔を窺うように視線だけで見上げると、彼は真っ向から目を合わせ、口を開いた。
「何だ」
「…いえ…」
名無しはすぐに視線を俯かせる。
しかし、ジェノスはそこで終わらせてはくれなかった。
「言いたいことがあるなら言ったらどうだ?お前は感情が顔に出過ぎている」
「おい、ジェノス」
サイタマが思わず口を挟む。
「昨日も言ったろ?あんま怖がらせんなって。こいつ、お前みたいにストレートな物言いする奴に慣れてねーから」
「だ、大丈夫…ごめんね、お兄ちゃん…心配かけて…」
「気遣ってくれてありがとう」と困ったように笑った名無しは、指先をあたためるように湯呑みを手にしたまま、ポツリとこぼした。
「ただ…ジェノスさんのことが、気になって…」
「…は?」
「気になった?」
「お兄ちゃんと一緒に暮らしてる人がいるなんて、思わなかったから…どんな人なんだろうって(思わなかったっていうか、思いたくなかったんだけど…)」
いくら同性とはいえ、想い人が同居を許す相手がいたことが少なからず名無しにはショックだった。
同じ屋根の下で暮らしているのだ。それはつまり自分よりもサイタマと親しい間柄ということになるのではないか?
そう思ったら、羨ましい気持ちと悔しい気持ちとが混ざり合って、相手に対しての興味が沸いた。
私よりも、お兄ちゃんが心を許せる人。
彼は一体どんな人なんだろう?と。
「あ…あぁー、そういう…何だよ、ビックリさせんなよ」
「ビックリ…?」
「いや、気になるとか言うから、てっきり…」
しかしサイタマは咳払いし、「何でもない」と言葉を濁した。
名無しは不思議そうに小首を傾けるが、
「奇遇だな。俺もお前のことが気になっていた」
「え?」
「ジェノスさんも…?」
「あぁ」
頷いたジェノスは背筋を真っ直ぐ伸ばして正座すると、表情を変えることなく名無しを見つめる。
「サイタマ先生のお前への接し方は明らかに他とは違っている。今はまだ上手く言語化できないが、雰囲気が柔らかいというか、お前には随分と心を許しているように感じられた。昔馴染みだからなのか、それとも他に何か理由があるのか…お前という人間を知れば、その答えが出るかもしれない」
「バッ…!ジェノス、おまっ、バカ!いきなり何言ってんだ!?」
サイタマはわかりやすく動揺して声を荒げた。
恐らくジェノスに他意はないのだろう。
しかし、言い方というものがある。
「お兄ちゃんの接し方が…私と他の人とで違う…?」
「お前も繰り返すな!」
何だこれ。俺が一体何をした?どうして急にこんな辱しめを受けている?
サイタマは耳まで真っ赤になり、思わず両手で顔を覆った。
だから見えていなかったのだ。
「…そうなんだ…そっかぁ…えへへ…」
この時の名無しが、どれほど嬉しそうに顔を綻ばせていたのかを。
「…。」
ただ1人、ジェノスだけがその笑顔を見ていた。
少しの間の後、彼は自身の思考が止まっていたことに気付き、我に返ると同時に訝しがる。
「(何だ…?今一瞬、脳内の処理速度が著しく低下…いや、停止した?何故だ?この女の反応が意外だったわけでもないだろうに…)」
考えてみても答えは出ない。
引っ掛かるところはあるが、思考に耽る前に名無しから声をかけられて意識がそちらに向く。
「じゃあ…同じ気持ちなら、ジェノスさん、私にあなたのことを教えてもらえませんか?私もジェノスさんの知りたいことを話すので」
「…いいだろう。何が訊きたい?」
「まずは、お兄ちゃんとどうやって知り合ったか聞きたいです!お弟子さんなんですよね?そうなった経緯も、よかったら」
お互いに納得して、昨日より更に深い自己紹介を始めようとしている2人を見ていて、サイタマは少しだけ嫌な予感を覚えた。
しかし、口を挟もうかと悩んだのは一瞬で、すぐに首を横に振って目を閉じる。
「(せっかく歩み寄ろうとしてんのに、関係ねー俺が口を出すのもな…)」
ここは黙って見守っておくか。
そう結論づけてサイタマはお茶を啜る。
ジェノスが理解したとひとつ頷き、語り始めた声を聞きながら。
「サイタマ先生と知り合ったのは、俺がZ市に現れた蚊の怪人と対峙していた時のことだ…」
そして後ほど、やっぱり何か言っときゃよかった、と後悔することになるのだった。
サイタマの嫌な予感は、的中した。
ジェノスの話はそれはそれは長く、彼がサイタマの家に初めて押し掛けてきた日に聞いた身の上話を、また改めて聞かされる羽目になった。
おまけに、今回はそれに加えてサイタマとの出会いの部分までもを事細かに話すものだから、同じ空間にいて嫌でも話が耳に入ってくるサイタマは途中から苛立ちを抑えるのに必死だった。
そして、案の定…
「そんなことが…ジェノスさん、苦労されてるんですね…っ…」
ハンカチを握り締めて一生懸命に涙を堪えようとしている名無しの姿を見て、やっぱりか、とサイタマは眉間を指で押さえる。
名無しのことだから、ジェノスの過去を知れば絶対に同情すると思っていた。涙もろいし、泣くかもしれないな、と。
本当に泣いてしまった。頑張って堪えようとしている努力も虚しく、ポロポロと零れ落ちる大粒の涙がハンカチを濡らしていく。
「苦労とは思っていない。暴走サイボーグを追うことも強さを求めることも、すべては俺の意志で決めたことだ」
「すごいです、本当に…ジェノスさんは、とっても頑張り屋さんなんですね…」
ほんの僅かだが、ジェノスは目を見開いた。
きっと名無しもサイタマも気付いていないほどに小さなその変化は、しかし次の瞬間にはなかったかのように、ジェノスは怪訝そうに目を細める。
「…先程から疑問だったが、何故お前は泣いているんだ?」
「す、すみません…話を聞いていたら、勝手に色々と考えてしまって…」
「断っておくが、同情する必要はないぞ」
「は、はい…」
もう一度「すみません…」と言ってハンカチで涙を拭うと、名無しは自らの胸に手を当てて深呼吸をした。
「ふぅ…失礼しました。もう大丈夫です。次は私の番ですね。ジェノスさんの訊きたいこと、教えてください」
ジェノスも名無し同様、まずはサイタマと名無しの出会いについて訊ねることにした。
名無しの話はジェノスのそれとは違い、纏まりのある内容とは言い難いものであったが、遠い日の思い出を振り返りながら語る表情は柔らかく、幸せそうに見えた。
相変わらず黙って聞いていたサイタマは、先程とは別の意味で落ち着かなくなり身体を小刻みに揺らす。
思い出話は昨日散々した筈だが、別の誰かに聞かれるとこんなにもむず痒いものなのか?それとも名無しがあまりにも自分を美化している気がして気まずいのか?それとも…
「…なるほど。つまり、俺達は共にサイタマ先生に命を救われた者同士だったというわけか」
「そうですね」
頷き合っている2人に対し、とうとうサイタマは痺れを切らして「2人して大袈裟すぎだろ」と声を発した。
「大袈裟なんかじゃないよ!」
「そうです!あの時、サイタマ先生がいなければ今の俺は存在していません!」
「お、おぉ…(急に息が合ってきたな)」
2人の勢いに押されたサイタマは曖昧な返事をしながらも、内心では少しだけ安堵する。
この調子なら、案外自分が気にしなくても上手くやっていけそうだ。
「実を言うと私、最初はジェノスさんのこと少しだけ怖かったんです。歳の近い男の人に苦手意識もあって…。でも、お兄ちゃんがお弟子さんにしただけあって、良い人みたいで安心しました」
「…ジェノスでいい」
「え?」
「さん付けや敬語は必要ない。先生もお前には心を許しているようだし、俺に対して変に畏まることはない。これから顔を合わせることも増えるだろうしな」
「えっと…」
「いや…先程、歳の近い男が苦手と言っていたか?すまない、性急すぎた。無論、お前の好きに接すればいいが…」
「あ、ううん、えっと、じゃあ…ジェノス」
「無理はしていないな?」
「うん、大丈夫…!えへへ…男の人を呼び捨てにするのは初めてだから、ちょっと緊張しちゃうな」
「(…うん。一安心、だよな)」
急激に距離が縮まったように見えなくもない2人に、サイタマは改めて自分を納得させるように心の中で強く念押しした。
「大学の人達とも、こんな風に早く打ち解けられるといいんだけど…」
と、名無しが一転して憂いを帯びた呟きをこぼした為、サイタマとジェノスは一度顔を見合わせる。
「どうした?何か心配事か?」
「うん…共学は小学校以来だから、実はちょっとだけ不安なの。今度の大学、男子の方が多いみたいだし…」
サイタマは思い出す。
小学生の頃の名無しは、よく男子に意地悪をされて泣いていた。
話を聞いたところ、『ランドセルの中に蝉の抜け殻を入れられた』だの『蛇のオモチャで脅かされた』だの『髪型が似合わないと笑われた』だのという、よくある典型的な【好きな女の子にちょっかいをかける男子】の仕業であることは容易に想像できた。
しかしどんな理由があったにしろ、当の本人にとっては男子に対して苦手意識を持つのに充分すぎるくらいに嫌な思いをしたことに変わりはない。
今でも歳の近い男を苦手としている原因も十中八九あの頃の経験があるからだろう。
「まぁ、大丈夫じゃねーか?大学生にもなってガキみたいな悪戯する奴、そうそういねーと思うし」
「そ、そっか…」
「むしろ気をつけるべきなのは…」
と、急にサイタマは言葉を止める。
「気をつけるべきなのは…?」
「あー…」
言葉を濁すサイタマ。
あちこちに視線を彷徨わせながら、どう言うべきか、そもそもこんなことは言うべきことなのかと考えあぐねる。
しかし、何らかのアドバイスをもらえるものと思い、じっと自分を見つめてくる名無しの切実そうな瞳に耐えられず、
「…アレだ。ほら。サークルとか飲み会とか…夜遅くの集まりはよくない」
「だから気をつけろよ」と何とか探り探りで言葉を絞り出す。
実際、子供の頃のような可愛らしい悪戯をする大学生がいるとは思えない。
大人と子供の境目のような年頃だ。好意を抱いた異性に対して、もしも芽生えた悪戯心のままに行動に移すとすれば、きっとそれは何倍も悪質で、相手に取り返しのつかない大きな傷を残すものになるだろう。
しかし、詳細に説明しても名無しを更に不安がらせてしまうだろうし、そもそも彼女にそういった知識がどれだけあるかもわからない。
ぶっちゃけ今でも『赤ちゃんはコウノトリさんが運んで来るんだよ』などと信じていてもおかしくない印象だ。
「(ヤベェ、俺まで心配になってきた…いっそのこと『あんま男と関わるな』くらい言っといた方がよかったか?いや、けど俺に何の権利があってそんな指図するんだっつー話だし、今後の名無しの為にもよくないし…)」
サイタマはギリギリと歯を食いしばって葛藤する。
ジェノスも名無しもその姿を不思議そうに見ていたが、やがて名無しが素直に「うん、わかった」と頷いた。
「元々バイトもあるし、サークルには入らないつもりだったの。誘われても頑張って断るね」
「あ、あぁ。バイトって、本屋だったか?」
話題を変える絶好のタイミングだと気付き、サイタマはパッと表情筋を弛めた。
昨日話した内容の中に、名無しがZ市に着いてすぐ仲良くなった老人の話があった。
偶然その老人が目の前で落とし物をして、それを拾って声をかけたら、両手に荷物を持っていて大変そうだった為、「よければ持ちましょうか?」と手伝いを申し出た名無し。
その道すがら、老人が小さな本屋を営んでいること、今まで手伝ってくれていた孫がミュージシャンの夢を追いかける為にQ市に引っ越すことになったこと、他のバイトの子達も就活や家庭の事情で勤務時間を増やせず人手が不足していることを聞いた。
そして、名無しが引っ越してきたばかりで大学と両立できそうな仕事先を探していることを知った老人が、「よければウチで働いてみないかい?」と誘ってくれたのだという。
何とも出来た話ではあるが、幼い名無しもよく近所の大人達から可愛がられていたので、サイタマにはその光景が容易に想像できた。
「あんま気負わずに頑張れよ。今度、漫画でも買いに行くわ」
「わぁ、ありがとう!店長さんも喜ぶと思う!」
大学とは違ってバイトに対しては前向きな感情を抱いているようで、サイタマは密かに安心していた。
「そういえば…お兄ちゃんもジェノスもプロのヒーローなんだよね?お仕事でやるヒーロー活動ってどんな感じ?私、あんまり詳しくないんだけど、やっぱり大変?」
「あー、仕事って感じはあんまりしねーな。プロになる前からやってることを続けてるようなもんだし。週1ノルマが面倒なことくらいか?」
「俺はヒーロー協会からの要請が増えた分、若干行動に制限があるように感じることもあるが…以前よりも怪人の情報が入りやすくなったのは利点だとも思っている」
「そうなんだぁ…あ、さっき帰ってきた時のお兄ちゃん、初めて見る格好だったね!あれって、ヒーロースーツ?」
「おう」
「先程、近くで怪人の発生を察知した先生は『ちょっくら倒して来るわ』と言って出掛けられたんだ」
「えっ、そうなの?私、全然気付かなかった…」
「お前が来る方角とは逆だったからな」
「うぅ…怪人は怖いけど、お兄ちゃんの戦ってる姿、見たかったなぁ」
「バカ言うなよ。昨日拐われかけたばっかだろーが」
「う…」
「お前がまたあんな目にあわねーように確実にぶっ倒しとこうと思って急いで行って来たんだぞ?」
「え…」
「週1の活動ノルマも達成しときたかったってのもあるけど。それに見ていて面白いもんじゃねーぞ。結局、今日もワンパンで終わっちまったし…」
つまらなそうに嘆息して天井を見上げるサイタマ。
「ま、今日は別にそれでもよかったけどな。お前との約束があったし」と付け加えてから視線を戻すと、何故か名無しが顔を赤くして黙り込んでいて、首を傾げた。
「名無し?」
「へっ?あ、あぅ…」
パクパクと口を開閉させて明らかな動揺を見せる名無し。
「どうした?」と訊けば、「な、何でもない!」と誤魔化そうとしているのが丸わかりな反応が返ってくる。
「(お兄ちゃんが私の為に…私の為に怪人を倒しに行ってくれた…!嬉しい…!やっぱりお兄ちゃん、好き…!)」
「(どう見ても何でもないって顔じゃねーけど…とりあえず体調が悪いわけじゃなさそうだな)」
「あ、あのね、お兄ちゃん!」
「お、おう?何だ?」
「て…」
「て?」
「手、触ってもいい…!?」
「は?」
突拍子のないお願いだった。
真っ赤になって狼狽えていたことといい、名無しの情緒がサイタマにはさっぱりわからなかった。
「別にいいけど…」
「ん」とサイタマが片方の手の平を差し出す。
名無しは「ありがとう!」と、ぱぁっと表情を明るくすると、好奇心いっぱいの子供のように目を輝かせながらサイタマの指にそっと触れた。
「わぁ…かたい。昔と全然違うね。おっきくて、大人の男の人って感じがする。そっかぁ、この手でいつも怪人を倒してるんだ…」
指、手の平、と確かめるように両手を使ってサイタマの手に触れていく名無し。
サイタマは次第にソワソワと落ち着かない気持ちになってくる。
「(くすぐってぇ…)お前の手は…相変わらず小せぇな」
「ふふ、お兄ちゃんと比べたらそうだね。ほら、大きさ、全然違う」
自身とサイタマの手の平を比べるようにくっつけて、名無しは、はにかんだ笑顔を浮かべた。
過去にも同じようなことをした記憶がある。
あの時も今も、名無しが両手を使ってもサイタマの片手すら包み込めそうもないくらいの差があった。
けれど、あの頃とは明確に違う感情が2人の中には芽生えていた。
「(お兄ちゃんの手…あったかい。ずっと触っていたいな)」
「(触られてる時も思ったけど、柔らけーな…つか、指細ぇ。こんな華奢で大丈夫なのか?すぐ折れちまうんじゃ…)」
お互いが視線を上げると、バチッと目が合った。
気恥ずかしさが込み上げてくるのに、何故だか目が逸らせない。
名無しは自分を見つめてくるサイタマに胸をときめかせ、サイタマは名無しのまだ少し潤んだ瞳に鼓動が速くなるのを感じた。
「…。」
そんな2人を静かに観察していたジェノスは、やはり、と思う。
「(この女の前では、今まで見たことのない先生の一面が多く見られる。それほどまでにサイタマ先生にとってこの女…名無しは特別な存在ということか。俺にはまだ普通の一般人にしか思えないが…先生ほどのお方が心を揺らす相手だ、もしかすると何か特別な能力を持っているのかもしれない…ハッ、先程、俺の思考が停止したのもその影響か…?)」
「あっ!」
と、急に大きな声を上げたのは、我に返って先に目線を逸らしたサイタマだった。
「そろそろタイムセールの時間じゃねーか!今から出ればまだ間に合うな。よかったー、気付いて!」
すっくと立ち上がるサイタマに続いて、ジェノスも腰を上げる。
「では行きましょうか」
「え?お前も来んの?」
「はい?」
「あ、いや…まぁ、いいんだけど…うん」
当然だという表情で首を傾けるジェノスに、「(まぁ、特に断る理由もないか)」とサイタマは軽く頷いてから名無しに振り返った。
「行くぞ、名無し」
「あ…うん…!」
あっさりと離れてしまった手のあたたかさに少しだけ寂しさを感じてボンヤリしていた名無しは、サイタマに呼ばれてハッとすると慌てて立ち上がる。
「(そうだった。今日はお兄ちゃんにお店の場所を教えてもらうのが目的だった…いけないいけない、気持ちを切り替えなきゃ)」
名残惜しい気持ちを振り払うように頭を左右に振ってから、名無しは2人の後に続いた。
「…行くぞ、ジェノス」
「はい、先生」
その日の夜。
やけに真剣に表情を引き締めたサイタマとジェノスが、室内で対峙していた。
向かい合って座り、握手をするように手を取り合った状態で睨み合い、数秒。
ジェノスが頷いたのを確認したサイタマは、合わせた手にほんの少しだけ力を込めた。
「…どうだ?」
「問題ないと思います」
「これは?」
「まだいけます」
「本当か?お前の基準で言ってねーよな?」
「もちろんです。とはいえ先生、やはり本人で直接確かめた方が確実ではありませんか?」
「…まぁ、そうなんだけど…」
歯切れ悪く答えたサイタマはパッとジェノスから手を離し、眉を顰めて己の手を見つめた。
スーパーのタイムセールにも間に合い、名無しを家まで送りがてら何軒かの店を教えるという本日の目的は無事に達成することができた。
にも関わらず、名無しを送り届けた後の帰り道でサイタマは何故か難しく考え込んでいる様子だった為、不思議に思ったジェノスがどうしたのかと声をかけると、
『ジェノス。ちょっと変なこと頼んでいいか?』
『変なこと…ですか?』
『あぁ。俺の力加減のチェックをしてほしい』
サイタマが言うには、今日触れてみて改めて名無しが華奢だと実感した為、ついうっかり怪我をさせてしまわないか心配になったのだという。
触らなければ済む話なのだが、如何せん、昔の癖で無意識に頭を撫でるくらいはしてしまいそう…というか昨日実際にしてしまったし、名無しが危険なめに遇った時に不可抗力で触れることもあるかもしれない。
そんな時、強くなりすぎた自分の力が彼女を傷付けてしまわないように、事前にどれくらいの力までなら安全かを確かめてほしいのだと、サイタマはジェノスに協力を求めた。
そして、今に至る。
「それほど気にしなくても、普段から先生は日常生活では力をセーブされているではないですか」
そうでなければ、あの桁違いのパワーだ。まともに生活などできていないだろう。
箸やコップを持つことはおろか、スーパーの商品を手に取ることもできず、ドアノブすら握った瞬間に建物ごと瓦礫の山と化すに違いない。
「んー、普段は別に意識してねーからな。けどイラッとすると、つい力が入っちまうし…」
それは確かにジェノスも知るところであった。
湯呑みにヒビを入れて「ヤベ」と小さく焦るサイタマの姿は見慣れている。
今日使った湯呑みにもヒビがあった為、ちょうど新しい物と取り替えたところだ。
「先生は子供を救助した時に怪我をさせたことはありませんし、そこまで深刻に気にする必要はないと思いますが…」
まさか幼子よりも脆い身体をしているわけではないでしょうし、と言うジェノスに、サイタマはハッとして「そっか、そうだよな」と表情筋を弛ませる。
「何だ、無駄に悩んで損したぜ。サンキュー、ジェノス」
「いえ。先生のお役に立てたのなら光栄です」
「じゃあ、スッキリしたところで風呂入ってくるわ」
「わかりました」
浴室に向かっていくサイタマは、気の抜けた普段通りの彼に戻っていた。
その背中を見送ってから、ジェノスは1人になった室内でポツリと呟く。
「…名無しか」
ただの少女にしか見えない1人の娘が、何故あれほどまでにサイタマの心を動かしているのか?実際に何か能力を持っているのか?
今日1日で得た情報だけでは、まだ答えは見えてこない。
「(引き続き、観察するとしよう)」
それが強さの秘訣に繋がるか否かではなく、ただの純粋な興味から来るものに変わっていることに、ジェノス自身、まだ気付いていなかった。
END
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R7.12
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