空想の面影
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「(あぁ…どうしてまたこうなっちゃうんだろう…)」
名無しは疲労の色を滲ませながら、いまだ己を追ってくる化け物を振り返って眉を下げた。
時は十数分ほど前に遡る。
友人と少し遠出をしてJ市でショッピングを満喫したこの日、彼氏から『仕事が早く終わったから』とデートの誘いを受けた友人と別れて、1人になった帰り道。
海に程近い開放的な大きな公園の前を通りがかった矢先のことだった。
『ふ、ふふふ…人間どもめ…今日こそは恨みを晴らしてやるぞ…!』
"それ"は何の前触れもなく突然、海の方角から現れた。
水を滴らせながらゆっくりとした足取りで、人々が穏やかな時間を過ごす公園の土を湿らせていく。
『お、おい!何か来るぞ?』
『あいつ、まさか…!』
『深海族!?うそ、前にヒーロー達が倒してくれた筈でしょう!?』
気付いた人々から次々にざわめきが起こる。
次第に大きくなっていく狼狽した声に、公園の前を通り過ぎようとしていた名無しは足を止めた。
『(何だろう…?よく見えないけど…怪人?)』
人だかりの隙間から僅かに触手のような物が蠢くのが見える。人々の動揺からしても、異常事態が起きたことは明らかだった。
悲鳴を上げながら人々が蜘蛛の子を散らすように逃げ始めると視界が開け、その先にいたのは予想通り、全身を粘液のようなものでヌメヌメと光らせた化け物だった。
『よよよ、よくも僕の仲間達を…深海王様を倒してくれたな…!あの時、弱い僕は留守番させられたけど…仲間達が倒されてから、ずっと、復讐の機会を窺ってたんだ…!』
ブツブツと独り言を呟きながら、ペタペタと湿った足音を鳴らして近付いてくる化け物。
標的にする人間を選ぶように、大きく剥き出した目玉を四方八方に動かしている。
『深海族』と先程、誰かが言っていた。
先日J市を襲い、ヒーロー達によって倒されたという話は記憶に新しい。
名無し自身はニュースで目にしただけで関わることはなかったが、身近にいるヒーロー達の活躍によって解決した事件だった為、その名前はしっかりと覚えていた。
その危険性についても、話を聞いて理解しているつもりだ。
だからすぐに他の人々と同じように、その場から逃げようとしたのだが、
『まって、わたしのうさちゃんが!』
『いいから、早く逃げるわよ!』
そんな声が聞こえてきて、思わず足が止まる。
振り向くと、母親に腕を引かれながらも反対の手をどこかへ一生懸命に伸ばす幼い女の子の姿があった。
そのまま視線を女の子の伸ばした手の先へ動かせば、ベンチに座るウサギのぬいぐるみが1体、ポツンと取り残されていて、
『うさちゃんー!』
『…っ』
反射的に、名無しは駆け出していた。
すっかり無人となった公園に足を踏み入れ、一直線にベンチまで向かってぬいぐるみを抱き上げる。
『(届いて…!)』
振り返って、祈りを込めながら両手で高く放り投げたぬいぐるみは女の子のいる方へと落ちていくが、僅か数cmほど距離が足りない。
しかし、何とか母親の手を振り払った女の子が慌てて駆けていき、全身を使って抱きとめることに成功した。
『あ…ありがとう、おねえちゃん!』
お礼を叫んだ女の子が今度は母親に抱き抱えられて避難していく姿を見送りながら、名無しはホッと胸を撫で下ろす。
『(よかっ…)』
『ききき、決めたぞ…最初の獲物はお前だ…!』
瞬間、不気味な声がすぐ近くから聞こえてきて背筋が凍った。
息を詰め、ゆっくりと振り返る。
化け物のギラついた目玉は、名無しだけを映していた。
「(どうしよう…このままじゃ…)」
深海族の標的となってから、名無しは公園内を走り続けていた。
不幸中の幸いとでも言おうか、この深海族の動くスピードはけっして速くはない。
だからこそ名無しは付かず離れずの距離を保ちながら逃げ続けることができていた。
しかし、確実に疲労は溜まってきており、じわじわと彼女の身体と思考を鈍らせていく。
いっそのこと、残る全力を振り絞ってこの場を離れてしまおうか。
そんな考えが一瞬頭をよぎったが、すぐに、それは駄目だと思い直す。
「(何とか耐えなきゃ…)」
ギュッと拳を握り締め、もつれそうになる足で懸命に走り続ける名無し。
そんな姿を、公園の外から困惑した表情で見守る人々がいた。
「あの子、どうして公園内から逃げないの?」
「おい、キミ!こっちだ!」
疑問を口にする者。逃げて来いと声を張り上げる者。
そんな中、1人の女性が青ざめた表情で呟く。
「私…さっき聞こえたの。あの深海族、『1人ずつ確実に仕留めていくぞ』って言っていたわ…」
「何だって?じゃあ…まさかあの子は、他の人間に被害がいかないよう、自分に引き付けておこうとして…?」
「何て勇気のある子だ…くそっ、ヒーローはまだ来ないのか!?」
女性が言っていた通り、名無しを追いかけ始めた直後、深海族は高らかに宣言していた。
『ぼぼぼ、僕は用心深いんだ。狙いを定めて1人ずつ…確実に仕留めていくぞ…!』
もちろん一番近くにいた名無しもその言葉を聞いていた。
そして思った。自分が逃げてしまえば、この深海族の標的は他の誰かに移ってしまう。
襲われたくはないが、誰かを身代わりにもしたくない。
だからこそ、名無しは深海族の標的が他の人々に向かないように注意をしながら逃げ続けることを選んだのだった。
「あ、あの!皆さん、早く逃げてください!」
名無しは乾いた喉で遠巻きに見守る人々に向かって声を張り上げた。
J市の地理には詳しくない。公園を出て人の少ない場所を探し回るよりも、自分が今この場所に深海族を引きとめておいて、その間に他の人々が避難して姿を隠してくれれば。
そして願わくば、自分が力尽きてしまう前に深海族を倒してくれるヒーローが現れてくれれば。
そう願った。
しかし余程心配なのか、数人の人々はその場から離れようとしなかった。
「よよよ、余所見をしてる余裕があるのかぁ?」
「っ…!」
名無しの意識が人々に向いた隙を狙って、深海族が長く伸びた口から液体のような物を吐き出す。
反射的に避けた名無しだったが僅かに飛び散ったそれは足を掠め、薄い煙を上げながら彼女のタイツを溶かしていった。
人々から、小さな悲鳴が上がった。
「ににに、人間は、服を着ないと外を歩けないんだろう?僕の出す溶解液でも、服くらいなら溶かすことができるんだ。これで、お前を行動不能にしてやる…!」
深海族の言葉通り、タイツは溶けたが肌へのダメージはほとんどなかった。
しかし名無しの動揺は大きく、今まで必死に抑えていた恐怖に身体が震え始める。
「(どうしよう…)」
心の中に、大好きな人の姿が浮かぶ。
しかし彼がいるZ市とこのJ市は距離があるし、何より今すぐ彼に連絡できる手段がない。
「(そうだ、ジェノスに電話…!もしかしたらお兄ちゃんと一緒にパトロールに出てるかも…!)」
次にハッと思い浮かんだのは、数少ない連絡手段を知るヒーローの姿だった。
ジェノスも、そして想い人であるサイタマも、買い物やパトロールでJ市を訪れることがあると言っていた。
運良く近くの町に出掛けている可能性も、0ではないかもしれない。
「(迷惑かな…でも、怒られるかもしれないけど、ダメ元で…!)」
僅かに躊躇ったが、他にこの場を切り抜ける方法は思い浮かばなかった。
意を決してポケットから携帯電話を取り出した名無しは、深海族を警戒しながら震える指でジェノスへ電話をかける。
思っていたよりも早く、相手の声が電話越しに響いてきた。
『俺だ。どうした?』
「あ、ジェノス!あのっ、急なんだけど、今どこにいる?」
『サイタマ先生の家だが』
「(うぅ、やっぱり…)そ、そっか、そうだよね…」
『何だ?用件を言え。サイタマ先生に用なら代わるが』
「えっと…私、今J市にいるんだけど…あの…」
「そそそ、そんなに隙だらけでいいのかなぁ?」
「きゃっ…」
『名無し?』
ガクリと項垂れて注意が一瞬逸れたところを、深海族は見逃さなかった。
今度は腕に液体を被り、驚いた拍子に手から滑り落ちた携帯電話が地面を転がった。
『おい、どうした?返事をしろ』
地面に落ちた携帯電話から、何度も呼びかけるジェノスの声が響く。
慌てて携帯電話を拾おうとするが、
「まだまだ終わりじゃないぞ!」
「っ…」
続けざまに吐き出される液体が、名無しの衣服を溶かしていく。
ついに名無しは露出した肌を両手で隠すようにして、その場にへたり込んでしまった。
遠巻きにいた人々は青ざめ、もうダメだ、可哀想に…と息を飲む。
もしも深海族の攻撃が衣服を溶かす程度の威力だと気付く者が1人でもいれば、勇気のある人々が助けに入っていたかもしれない。
しかし運悪く、今、遠巻きの人々から見えるのは深海族の不気味な背中のみ。名無しの姿はすっかり覆い隠されていた。
「ふ、ふふふ、どうだ、もう動けないか?それともまだ足りないか…?」
じりじりと、深海族が動けない名無しとの距離を詰めていく。
顔を上げて、せめてもの抵抗で深海族を睨みつける名無しだったが、羞恥と恐怖の混ざり合ったその顔で相手が怯むわけもなく。
逆に自分が圧倒的に優位な立場だとわかった深海族は、ニタリと笑みを深めた。
「ぼぼぼ、僕にだって、皆の仇を取れるんだ…!さぁ、これでトドメをさしてや…」
その時、風を切る音がした。
どこからか飛んできた斧が深海族の足元の地面に深く突き刺さり、銀色の刃が鈍く輝いて深海族の驚愕した顔を映し出す。
「ひぃ…っ!?」
先程までの威勢はどこへやら、引きつった悲鳴を上げて青ざめた深海族は慌てて後ずさり、名無しから距離を取った。
「やれやれ…随分と悪趣味な怪人だな」
背後から土を踏み締める音がして、名無しは振り返る。
血色の悪い肌をした短髪の男性が、気配をまったく感じさせずに立っていた。
「(いつの間に…)」
驚いて目を丸くする名無し。
男性は一瞬だけ名無しを見下ろしてから、おもむろに自分の着ていたトレンチコートを脱ぎ始めた。
そのままそれを彼女の小さく丸めた身体に羽織らせると、
「よく頑張って耐えたな」
ポン、と頭を一度撫でて、男性は名無しを庇うように前に出た。
「あ、あれは!」
「ゾンビマンだ!S級ヒーローが来てくれたぞ!」
人々から次々に喜びと安堵の声が上がっていく。
名無しはへたり込んだままパチパチと目を瞬かせ、
「後は任せろ。すぐに片付ける」
その後ろ姿に、言葉を失くしてただただ見惚れていた。
宣言通り、深海族をあっさりと倒してしまったゾンビマン。
遠巻きから歓声を上げる人々に「後はヒーロー協会が片付ける。念の為、この周囲から離れていてくれ」と指示を出すと、人々は素直にそれに従った。
「お嬢さんもありがとう!」「とっても勇敢だったわ」「ゾンビマン、彼女のことをよろしくね!」と声が聞こえる中、ゾンビマンは地面に刺さったままの斧を引き抜いてから名無しのもとへと戻ってくる。
その場から動けずにいる名無しの前にしゃがみ込んだ彼は、目線を近付けると落ち着いた声音で口を開いた。
「怪我はないか?」
「あ…は、はい。あの、助けてくださってありがとうございます…」
「いや…むしろ遅くなってすまない。辛いめにあわせたな」
「そんな…あ、あの、これ、ありがとうございまし…」
ハッとした名無しはトレンチコートを返そうとするが、すぐにゾンビマンがそれを手で制する。
「いい。そのまま着てろ」
「でも…」
「替えならいくらでもあるから気にしないでくれ。むしろ、その格好で帰らせる方が忍びない」
「あ…」
視線を逸らすゾンビマンに、名無しは自身の格好を思い出して赤面する。
服の役割は果たせているものの、いくつか際どい箇所も溶かされてしまった状態のこの姿では、確かに恥ずかしくて町を歩けそうにない。
「これで、どこかで新しい服でも買うといい。その後でコートは処分してくれて構わない」
ゾンビマンはトレンチコートのポケットにお札を何枚か入れてから腰を上げると、
「じゃあな。気をつけて帰れよ」
と踵を返し、すぐにその場を立ち去っていく。
「…え?あっ、待っ…」
「名無し!」
虚を突かれたようにボンヤリとしていた名無しが我に返ってゾンビマンを引き止めようとした瞬間、切羽詰まった声に名前を呼ばれた。ビクンと肩を跳ね上げる。
弾かれたように声のした方を振り向くと、Z市にいた筈のヒーロー達の姿があった。
「お兄ちゃん…ジェノス…」
「大丈夫か!?怪我してねーか!?」
「何があった!?説明しろ!」
「え、あ、えっと…」
ものすごい剣幕で詰め寄られて、言葉が詰まる。
どうしてここにいるのか不思議だったが、今は訊ける雰囲気ではなさそうだ。
「あ…」
気付けば、ゾンビマンの姿はまったく見えなくなっていた。
「ごめんね、お兄ちゃん、ジェノス。お待たせ」
「おう。ちょうど服買っててよかったな」
「うん…」
ヒーロー協会の職員達が規制線を張って、退治された深海族の後処理をしている光景を眺めていたサイタマとジェノスのもとに、名無しがパタパタと駆けてくる。
彼女にしては珍しい少し露出の多い服は真新しく、先程までの全身を隠すほどに大きなトレンチコート姿とはあまりにも大違いだった。
「じゃ、帰るか」
サイタマの声にジェノスと名無しは返事をして、3人は公園を後にする。
「2人共、来てくれてありがとう」
「結局、間に合わなかったけどな。まぁ、お前が無事なら何よりだ」
「次からは変な気を使わず、簡潔に助けを求めろ。そうすれば今回のように探し回らずに済む」
「うん…ごめんね」
サイタマとジェノスは名無しの電話から異変を感じ取り、全速力でZ市から駆けつけてくれたらしい。
2つの市の距離を考えると信じがたい話だが、人間離れしたサイタマとサイボーグのジェノスならば可能なのかと、名無しは改めて彼らの凄さに驚嘆した。
そして同時に、中途半端なSOSのせいで彼らに要らぬ労力をかけさせてしまったと申し訳ない気持ちになる。
更にもう1つ、名無しはゾンビマンに対しても負い目を感じていた。
彼が去って暫く後、サイタマとジェノスに事のあらましを説明しているうちに気持ちが落ち着いてきた名無しは、その時になってようやく思い出したのだ。
突然『あ!』と大きな声を上げて、サイタマとジェノスが驚くのをよそに、慌てた様子で公園内にあるベンチに向かって走っていくと、その下から紙袋を引っ張り出してくる。
『忘れてた…』と情けない声で呟く名無し。
紙袋の中には、友人に選んでもらって買った新しい服が入っていた。
深海族の標的になった時、逃げることに専念しようと思って咄嗟にベンチの下に隠したのだ。
もっと早く紙袋のことを思い出していれば。
そうすれば、すぐにゾンビマンにコートを返すことができたし、お金まで出させることもなかったのに。
「あの…ジェノス…」
「何だ」
「S級ヒーローのゾンビマンさんって、知ってる?」
「あぁ」
「じゃあ、連絡先とか、どこで会えるかとかは?」
ピタリ。サイタマとジェノスは同時に足を止めて、名無しに振り返った。
「…知っているとは言っても親しいわけじゃない」
「そ、そっか…」
「そいつがどうかしたのか?」
「助けてもらったから、お礼がしたいなって思って…コートとお金も返したいし」
「ヒーローが人助けをするのは特別なことではないし、言葉では伝えたんだろう?どうしても返したい物があるなら、俺が預かって…」
「で、でもっ!」
急に大きな声を出す名無しに、サイタマとジェノスは目を丸くする。
「…できれば…直接会って、お礼が言いたくて…」
だんだんと弱々しくなっていく声で言って、視線を俯かせる名無し。
紙袋を持つ両手にギュッと力を込める。
「ジェノスを信用してないわけじゃないの。だけど、やっぱり自分で返すべきだと思うし…だから、その…もう一度…会いたいなって…」
頬をほんのりと赤く染めたその表情は、まるで…
「ご、ごめんね、いきなり。そういえば、ヒーローには協会を通じてファンレターとか送れるんだったよね?帰ったら確認して自分で…」
「待て」
ジェノスが短く、名無しの声を遮った。
「…S級同士、顔を合わせることくらいはあるだろう。その時でいいなら俺から伝えておいてやる」
「い…いいの?」
ジェノスは頷く。
名無しの瞳がみるみる輝いていき、その顔には満面の笑顔が花咲いた。
「ありがとう!」
心の底から嬉しそうな名無しとは反対に、サイタマとジェノスは複雑そうに表情を強張らせていたのだが、そのことに彼女が気付くことはないのであった。
後日。ヒーロー協会本部に呼び出されたジェノスは、思っていたよりも早くゾンビマンの姿を見つけてしまったことに無意識に表情を顰めていた。
しかし約束をした以上は気付かなかったフリをするわけにもいかない。
前を歩く背中に向かって、ジェノスは声をかけた。
「ゾンビマン」
「ん?お前は確か…ジェノスだったか。俺に何か用か?」
面識など無いに等しい相手に呼び止められ、ゾンビマンは僅かに首を傾ける。
「俺の知人が先日、お前に助けられた。その礼と、借りたコートと金銭を返したいそうだ」
「コート…あぁ、深海族の時のか」
日も浅い為、すぐに思い出したゾンビマンは納得したように頷く。
「気にしなくていいと言っておいたんだがな」
「律儀な女なんだ。自分で返すと言って譲らなかった」
ジェノスが眉を顰める。
ゾンビマンはその表情を見て、面倒な頼まれ事をされて不機嫌なのだろうと考えた。
だから手短に済まそうと思い、
「わかった。なら、その子の連絡先を教えてくれ。後で俺から連絡して…」
「断る」
直接、相手とやり取りをすると申し出ようとしたのだが、まさか即座に断られるとは想定外で呆気に取られた顔になる。
「何?」
「連絡なら俺を通してもらおう」
「あー…だが、いちいち仲介するのは面倒じゃないか?」
「問題ない。むしろ必要以上に接触する機会を与える方が望ましくないと判断した」
「…随分と過保護だな。もしかして、お前の彼女か?」
「断じて違う。あの女は、俺の尊敬するお方の昔馴染みだ」
キッパリと否定するジェノスだったが、それだけとは思えなかった。
しかし他人同然の彼らの人間関係に首を突っ込む程、ゾンビマンは野暮ではないし興味もなかった。
一度軽く肩を竦めてから、少し困ったように溜め息を吐く。
「わかった。じゃあ、お前の連絡先でいいから教えてくれ」
頷いたジェノスと連絡先を交換しながら、ゾンビマンは思った。
「(何だか妙なことになってる気がするな…)」
この日、名無しは再びJ市を訪れていた。
ジェノスを通して、ついにゾンビマンと会う約束を取り付けることができたのだ。
『あの日のことを思い出して嫌な思いにならなければ』という条件のもと、待ち合わせ場所はお互いにとって唯一の共通点とも言える公園、そのすぐ近くにあるオシャレなカフェに決まった。
ゾンビマンを待たせてはいけないと思い、名無しは待ち合わせの時間よりも早く着くように店に向かっていたのだが、
「あ…」
「お…」
考えていることは同じだったのか、店の少し手前に差し掛かったところで、向こうから歩いてくるゾンビマンと目が合った。
「フ…すごい偶然だな」
「そ、そうですね」
タイミングの良さに思わず笑いが零れるゾンビマン。名無しもつられるように、はにかんだ笑みを浮かべる。
「とりあえず入るか」とゾンビマンから促され、名無しは彼と連れ立って待ち合わせ場所のカフェに入っていった。
「名無しの奴、随分とご機嫌だったな。心なしか、いつもよりオシャレしてたようにも見えたし…」
「先生、やはり同行した方がよかったのでは?」
「やめとけ。俺らには関係ないことだ。それに相手はヒーローだし、変なことにはならねーだろ」
「しかし、では何故この付近をパトロール場所に選んだのですか?」
「…知らん。気分だ、気分」
そしてサイタマとジェノスもまた、J市にいた。
先程からパトロールと称して公園付近の道をグルグルと歩き回っている。
しかし、彼らが近くにいることを名無しは知らない。
今朝、家を出た時に"たまたま"顔を合わせはしたが、『今からゾンビマンさんと会ってくるね!』と話をした後、彼らは普通に名無しを見送ったからだ。
Z市からJ市に向かう道中も、更にはゾンビマンとカフェに入っていく時も、実は彼らは意外と近くにいたのだが、名無しは一瞬たりとも気付くことはなかった。
もちろん今現在も。
そんな名無しはといえば、カフェの店内でゾンビマンと向かい合って席に着き、店員に注文を済ませるとすぐに本題に入ろうと、持っていた紙袋をゾンビマンに差し出した。
「あの時は本当にありがとうございました。これ、お借りしていたコートとお金です。あ、ちゃんとクリーニングに出してありますので」
ゾンビマンは「あぁ」と返事をしてそれを受け取ると、小さく苦笑いをこぼす。
「かえって気を使わせたみたいで悪かったな」
「そんなことないです。私の方こそ、申し訳なくて…実はあの日、ちょうど新しい服を買った帰りだったんです。それをすっかり失念していて…本当なら、あの日のうちにお返しできていたのに…。わざわざお時間を取ってご足労いただき、ありがとうございます」
深々と頭を下げる名無しを見て、「(なるほど、確かに律儀な子だ)」とゾンビマンは先日のジェノスの言葉を思い出す。
「本当に気にしてないから、頭を上げてくれ」と伝えると、素直に従った彼女と改めて視線がかち合った。
あの時は深海族のせいで目のやり場に困る格好をしていたのでなるべく視線を向けないように気を使っていたのだが、こうして見ると可愛らしい普通の少女だな、とゾンビマンは思う。
「(協会からの話では、周囲に被害が出ないようにたった1人で深海族を足止めしていたらしいが…)」
あの日、ヒーロー協会から連絡が入った時、深海族の推定災害レベルは狼だった。
本来ならばS級ヒーローであるゾンビマンに連絡など来る筈のない相手である。
しかし、偶然あの時あの場に一番近いヒーローが彼であったことと、深海王の恐ろしさが未だ記憶に新しく深海族という種族に対して警戒を強めていたことから、"一応"という形で彼に連絡が入ったらしい。
職員からも『不都合でしたら別のヒーローを派遣しますので』と言われたくらいだ。
とはいえ、状況的にも効率的にも自分が行って早々に片付くならばその方が良いだろうと伝え、ゾンビマンは指示された公園へと向かうことにした。
予定が特になかったという理由も大きかったわけだが。
そして、深海族に追い詰められていた名無しを見つけたのだ。
「(10歳でS級ヒーローをやれている童帝といい、最近の若者は見かけによらず肝が座ってるな)」
「あ、あの…私の顔に何かついてますか?」
あまりにじっと凝視されて恥ずかしくなったのか、頬を赤く染めた名無しが困ったように小首を傾げる。
「あぁ、いや、すまない。キミのように華奢な子があの日、よく耐えたなと改めて感心していたんだ。本当に頑張ったな」
「そんな…」と照れくさそうに俯く名無し。
店員が注文した品を運んできてテーブルに並べ、「ごゆっくり」とにこやかに言って下がっていくと、名無しは再び口を開いた。
「実は…一瞬だけ、もう逃げちゃおうかなって考えてしまったんです。全速力で走れば、きっと逃げられたから…」
俯いたまま、後悔を吐き出すようにポツリと呟く。
名無しがそうしたからといって、きっと誰も責めたりはしなかっただろう。
戦う術のない一般人が化け物を前にして逃げる。そんなのは当たり前の行動だ。
「だから、褒められるようなことは何も…むしろ自分が情けないくらいです」
顔を上げて苦笑する名無し。
ゾンビマンは一度目を伏せてから、「そんなことはないさ」と優しい表情で名無しを見つめた。
「怖い思いをしたら誰だって逃げ出したくなる。それでもキミは恐怖を抑え込んで耐えることを選んだんだろう?立派だよ、本当に」
名無しが大きな両目をパチパチと瞬かせる。
そして、はにかみながらも嬉しそうに表情を綻ばせていくその顔を見て、ゾンビマンも小さく笑みをこぼした。
「(これは確かに、過保護になっちまう気持ちもわかるな…)」
それから暫く、ゾンビマンと名無しはお互いのことや他愛のない会話を交わしながら、和やかにカフェでの一時を堪能して店を後にした。
「すみません、私がお礼をしないといけないのに奢っていただいて…」
「気にするな。こういうのは大人に格好つけさせてもらえた方が有り難いんだ」
「ありがとうございます…」
申し訳なさそうにしながらも微笑みを浮かべる名無しに、ゾンビマンも柔らかい表情を返す。
目線を少し遠くに向けると、ちょうど公園の時計台が確認できた。
「(まだ日の傾く時間じゃないが…)名無しはZ市に住んでるんだったな」
「はい」
「じゃあ帰りは電車か。とりあえず駅まで送…」
その時、「よぉ」とゾンビマンの言葉を遮る声があった。
「奇遇だな、名無し」
「お兄ちゃん、ジェノス!」
驚いた声をあげる名無し。
「どうしたの?J市に用事?あ、もしかしてパトロール?」
「ま、まぁ、そんなとこだ。この間みたいに何とか族がまた出るかもしれないからな」
「そっかぁ。2人がパトロールしてくれてるなら安心だね!」
一切疑うことをしない名無しに、サイタマはぎこちない笑みを浮かべていた。
その間、ゾンビマンは名無しの嬉しそうな様子を黙って眺めていたのだが、ふと視線に気付いて顔を上げる。
「…。」
「…。」
無言のまま、じっとこちらの様子を窺ってくるジェノスと暫く視線をぶつけ合った後、ゾンビマンは、フ…と小さく苦笑いを浮かべた。
「…どうやら必要なさそうだな」
そう言って肩を竦めてから、ゾンビマンは名無しの名前を呼ぶ。
振り返って自分を見上げてくる彼女に対して優しく微笑みかけると、
「じゃあ、"また"な」
ポン、と頭を撫でたのは、ただの気まぐれか、ちょっとした悪戯心が芽生えたからか。
サイタマとジェノスの反応を一瞥してニヒルな笑みを浮かべたゾンビマンは、ヒラヒラと軽く手を振りながらその場を去っていくのだった。
「はぁ…やっぱりゾンビマンさん、素敵だったなぁ」
「…。」
黄昏時。Z市の慣れた道を歩きながら、名無しは何度目かわからない恍惚とした吐息をもらした。
頬が赤く見えるのは、きっと夕日のせいではないのだろう。
「名無し、お前…サイタマ先生の前で他のヒーローにうつつを抜かすとは、いい度胸だな。そこまでゾンビマンを気に入った理由は何だ?まさか先生よりもあの男の方が優れていると勘違いでもしているのか?」
「えっ?何でジェノス怒ってるの?」
「やめろよ、ジェノス。別にいいじゃねーか、名無しが誰のファンになろうが」
目を鋭く細めて名無しを咎めるジェノスをサイタマが制す。
しかし、そうは言ったもののサイタマは少し拗ねたように唇を尖らせて名無しを横目で見ると、
「お前、ああいう奴が好みだったのな。知らなかったぜ」
「こ、好みだなんて、そんな…でもカッコいいよね、ゾンビマンさん!クールで大人っぽくて、それに何より優しくて!」
「くっ…」
ギリ、と歯を食い縛るサイタマ。
自分とはまったく違うであろう部分を長所として捉え、別の男を褒めちぎられるのはやはり面白くなかった。
しかしすぐに名無しは「でも」と続ける。
「ゾンビマンさんはとっても素敵なヒーローだけど、私の一番のヒーローはサイタマお兄ちゃんだよ!」
サイタマの顔を覗き込んで、はにかみながらも満面の笑顔を浮かべる名無し。
サイタマは不意を突かれたように目を見張った。
「…そーかよ」
「別にお世辞とかいらねーから」と悪態をつくサイタマ。しかしその口角は僅かに上がっていた。
ジェノスはそんなやり取りを確認し、安堵で表情を和らげる。
「どうやら勘違いしているわけではないようだな。そうだ、サイタマ先生より優れたヒーローなど存在しない」
「いや、だからそういうのいいって。どんだけ持ち上げんだよ、俺のこと」
「これは事実です、先生」
「やめろっつーの」
照れよりも引く気持ちが勝り、サイタマは歩くスピードを僅かに速めた。
ジェノスは不思議そうに首を傾げ、師匠を追いかけようと歩幅を広げる。
が、後ろに下がってきた名無しに、くい、と服を引かれて反射的に足を止めた。
「何だ?」
「ねぇ、ジェノス。さっきの、『ゾンビマンさんを気に入った理由』なんだけど…」
チラリと前を歩くサイタマを気にしたような素振りを見せてから、名無しは背伸びしてジェノスの耳に顔を寄せる。
そして、口元を両手で隠してまるで内緒話をするように小声で、
「ゾンビマンさんがね…私が想像してたお兄ちゃんに、ちょっと似てたの」
「…サイタマ先生に?」
囁かれた言葉が理解できず、目を丸くするジェノス。
どういう意味だ?と名無しを見る。
「再会する前まではね、『大人になったお兄ちゃんってどんな感じなんだろう?』ってよく想像してたんだ。それで、初めてゾンビマンさんを見た時、その想像してたお兄ちゃんに似てたからビックリしちゃって。キッカケは多分それだと思う」
「…。」
「あっ、お兄ちゃんには秘密にしてね?恥ずかしいから」
立てた人差し指を口元に当てる名無し。
ジェノスは数秒ほど虚を突かれたように停止していたが、その後スッと目を細めると冷めた表情で名無しを見た。
「…やはり理解できない。サイタマ先生とゾンビマンが似ているだと…?お前の想像力は一体どうなっている?」
「わ、私が変みたいに言わないでよ!お兄ちゃん、昔は黒髪だったし、ちょっとクールなところもあったんだから…!」
名無しがムキになって大きな声を上げたことでサイタマが振り返り、睨み合う2人を見て呆れたように眉を下げた。
「お前ら、また何言い合いしてんだ?」
「い、言い合いじゃないよ!」
「ただの見解の相違です」
「何だそりゃ」
「お気になさらず」とジェノスがサイタマに返す横で、名無しは不服そうにプイッとジェノスから顔を逸らした。
そのままサイタマを追いかけようとする彼女だったが、ふと思い出したように「あ」と小さく声を上げると、もう一度ジェノスを見上げて口を開く。
「だけどね、今日実際に話してみて思ったんだけど…ゾンビマンさんって、お兄ちゃんよりもジェノスと似てるかも」
「何?」
「クールなんだけど優しいところとか、普段は無表情に見えるけど笑うと柔らかい感じとか」
ピタリ。ジェノスは再び固まった。
「ジェノスは時々イジワルなところがあるけどね」
そう悪戯っぽく笑ってから、名無しは今度こそサイタマを追いかけて隣に並んだ。
後ろでジェノスがいまだフリーズしていることには気付いていない。
「…。」
クール。優しい。
名無しに他意はないのだろう。思ったことを素直に口にしただけなのだろう。
しかし、それらは彼女がゾンビマンを魅力的に、好意的に感じた部分である。
彼女自身が先程そう言っていたのだから間違いない。
つまり、彼女が惹かれる要素を自身も持っている?
「おーい、ジェノス。どうした?」
「っ!」
ビクリ!と大袈裟に肩を揺らして、ジェノスは我に返った。
「あ…いえ、何でもありません」
ジェノスは自身の思考をリセットさせるように軽く頭を振ると、先で待つ2人を追いかけた。
「…ん?」
紙袋からコートと封筒を取り出したゾンビマンは、その時になって初めて封筒の中に現金以外の物が入っていることに気付いた。
「(手紙?直接会ったのにわざわざこんな物まで用意してたのか)」
折り畳まれたそれを開き、可愛らしい便箋に丁寧に綴られた丸く細い文字に目を通していく。
そこには、助けてもらったことへの感謝と、コートとお金を借りてしまったことへの謝罪、そしてコートを貸したことで風邪などひいていないかという気遣いが書かれていた。
「(今日話した内容と同じだな。そういえば、『緊張して上手く話せるか心配だった』とか言っていたが…)」
なるほど、念には念を入れて手紙も用意していたということか。
納得がいったゾンビマンは笑みをこぼす。
「名無し…か。良い子だったな」
元通りに折り畳んだ便箋を封筒に戻す。
ジェノスには随分と警戒されているようだし、話にも出てきた"お兄ちゃん"とやらも今日名無しを迎えに来た様子からして、どうやらジェノスに負けず劣らず過保護なようだ。
きっと会う前なら、今回が最初で最後になるだろうからと、さして気にすることもなかっただろう。
しかし、ゾンビマンは別れ際に確かに言ったのだ。
"また"な、と。
「さて…どうしたもんかな」
先日までは、妙なことになった気がする、と思っていたゾンビマン。
それが今では次を期待してしまっていることに、「俺もまだまだ青いってことか」と、彼は自嘲するように苦笑をこぼすのだった。
END
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