再会の箱入り娘
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それはあまりに突然だった。
『お久し振りね、サイタマくん。覚えているかしら?』
ほんの少し前。滅多に鳴らない家のチャイムの音がして扉を明けると、サングラスに黒いスーツを着た見知らぬ男が立っていた。
訪問販売か何かだと思ったサイタマは「あ、間に合ってます」と開口一番に告げて扉を閉めようとしたが、「サイタマ様ですね?」と名前を確認されて手を止める。
スーツの男は「主人の使いで参りました」と口にし、持っていたパソコンを開くと画面をサイタマに向けてきた。
真っ黒な画面の中央に【Sound only】とだけ表示されたそれから聞こえてきたのは、遠い昔に聞き覚えのある声で、
『突然ごめんなさいね。本当は直接出向くべきなのだけれど、時間が取れなくて』
そんなことよりも、どうしてこの人が自分の住所を知っているのか?と疑問に思うサイタマだった。
昔、サイタマの家の近所には、とある一家が住んでいた。
父親と母親、そして幼い一人娘の3人家族。仲の良い、幸せそうな家族。
最初は何の接点もなかった。顔を合わせることすら稀だった。
そんな一家とサイタマに縁ができたのは、まだ少年だったサイタマが学校帰りに一人娘に声をかけたことがキッカケだった。
『おい、チビ。危ねーぞ』
そう。あの時、土手下に流れる川の前でしゃがみ込み、川底でも覗いているのかと思うほど前のめりになっている小さな背中が危なっかしくて、サイタマは思わず声をかけたのだ。
『何か落としたのか?』
『…おさかながいたの』
『魚かよ。そりゃ川なんだから魚くらいいるだろ』
『おにいちゃん。あのおさかなのおなまえ、知ってる?』
『いや、見てねーし…つか、ただの川魚だろ』
その時、少し離れた所から水音がして、小さな魚が宙を跳ねた。
『あ、おさかな…』
反応して振り返った拍子に地面についていた手を滑らせて、少女の身体が川へと傾く。
『危ねっ…!』
サイタマ少年は咄嗟に手を伸ばして彼女の背負ったランドセルを掴むことに成功し、何とか川への落下は阻止された。
『(マジでビビった…!)お前っ…気をつけろよ!落ちたらどうすんだ!』
キョトンと目を丸くしていた少女はサイタマ少年に怒鳴られてビクリと肩を竦めた後、己の不注意さを理解できたようで『ごめんなさい…』と、しゅんとした。
サイタマ少年はハッとする。
つい、声を荒げてしまった。泣かれるだろうか?そんな所を誰かに見られたら、自分は完全に悪者扱いだ。
しかし、サイタマ少年の心配はまったくの杞憂に終わる。
少女は顔を上げてサイタマをまっすぐ見つめると、
『あのね、たすけてくれてありがとう!おにいちゃん』
キラキラとした瞳と笑顔に、今度はサイタマ少年が目を丸くする番だった。
そんな出会いから互いを認識し始めたサイタマ少年と少女は、顔を合わせては挨拶するようになり、次第に放課後や休みの日には一緒に遊ぶようになっていった。
遊ぶと言っても、性別も違って歳も離れている彼らがすることといえば、適当に散歩をしたり世間話をしたり駄菓子屋で買い食いしたり、何てことのない暇潰しのような時間を共に過ごしていただけなのだが。
しかし、それでも少女は、サイタマ少年にとてもよく懐いていた。
特段優しくしていたつもりはなく、あくまでも自然体で適当に少女に接していただけのサイタマ少年は、何故こんなにも少女が自分に懐いているのか不思議だった。
ただ、『おにいちゃん、だいすき!』と夏の向日葵のような笑顔を向けられるのは、正直悪い気はしなかった。
少女からの話で彼女の両親にも認識されたサイタマ少年は、たまに会った彼女の両親から『いつも仲良くしてくれてありがとう』と高級そうなお菓子をもらったりもしていたが、それだって自分の気まぐれで相手をしていただけなので礼をされる必要性は感じなかった。
それはそれとして、もらえるものは遠慮なくもらうが。
そんな一家との関係は、しかし、少女と知り合って数年後、唐突に終わりを迎えることとなる。
少女の両親の仕事の都合で、別の市へ引っ越すことが決まったのだ。
『やだぁー!おにいちゃんとおわかれしたくないー!』
『ワガママ言うなよ。泣いたってどうにもなんねーぞ?』
『やだぁ…ひっく、うぅ…』
大声で泣きじゃくって離れたくないと駄々をこねる少女に、サイタマ少年はほとほと困り果てた。
『ほら、泣き止めって。俺が泣かせてるみたいじゃねーか』
『ひっく…だって…おにいちゃんと、もうあえなくなっちゃう…』
『一生会えないわけじゃないだろ?いつか会えるって』
『…ほんと?おにいちゃん…わたしのこと、わすれない?また、会ってくれる?』
『お前が良い子にしてたらな』
『おてがみ、かいてもいい…?』
『いいけど、俺からは返事しねーぞ。何書けばいいかわかんねーし。あ、それと、あんましょっちゅう送ってくんなよ?正月とか誕生日とか…そういう特別な時だけな』
『うん…わかった…』
ようやく泣き止んだ少女に、サイタマ少年は胸を撫で下ろす。
この時はまさか、少女が今に至るまでの約十年間、約束を守り続けて毎年律儀に手紙を送ってくることになるとは、夢にも思っていなかった。
そして、現在。
わざわざ人を寄越してまでコンタクトを取ってきた相手は、少女の母親であった。
少女が住所を教えたのだろうか?しかし、いつだったかの手紙では『今でもお兄ちゃんにお手紙を書いてるのは、お母さんとお父さんには秘密なの。お兄ちゃん離れしなさいって言われちゃうから』と書いていた気がするが。あれは確か、今の家に移る前だった筈だ。
訝しがるサイタマだが、少女の母親は気付いていないのか更に一方的に言葉を続ける。
『実は、あなたに折り入ってお願いしたいことがあるの』
少女の母親曰く、娘の通っていた大学が怪人によって破壊され、受験の際に第二候補としていた大学へ編入することが決まったのだが、その大学というのが、サイタマも住むZ市にあるらしい。
元々、娘は第二候補の大学の方を強く希望していて、『これを機に一人暮らしをしたい』とまで言い出したのを何とか説得し、推薦を受けていた寮付きの大学へ通わせていたのだが、それが怪人のせいで台無しになってしまった。
一度は諦めてくれた一人暮らしの件も、今度はどれだけ説得しても首を縦には振らず…
『だけど、Z市はここ最近特に物騒になっているでしょう?やっぱり心配で…』
当然だろう。昔から、多忙ながらに一人娘をめいっぱい気にかけていたことはサイタマもよく知っていた。
『だからね、サイタマくん。名無しのこと、気にかけてあげてくれないかしら?あの子の住むマンションも、あなたの今の住所からそんなに離れていないから』
少女、名無しの母親からの懇願に、サイタマは深く考えることなく了承した。
気にかけるくらいは特に何の問題もない。頼まれなくとも、もし見かけて名無しだと気付いたら声をかけていただろう。
そうか。名無しが、Z市に来るのか。
『よかったわ…ありがとう、サイタマくん!さすがはプロヒーローね!』
今度は名無しにすら明かしていない個人情報を知っている彼女の母親に、サイタマは少しだけ恐怖を感じた。
名無しの母親からの突然の連絡から、暫くの時が経った。
あの後、彼女の母親から名無しがZ市に引っ越して来る日を教えられ、それ以降に都合のつく日はあるかと尋ねられた。
基本的にはいつも暇なので正直にそう答えると、ならば引っ越しの翌日に名無し本人が挨拶に向かうから家で待っていてほしいと頼まれ、サイタマは承諾する。
本人と連絡を取って待ち合わせることも考えたが、彼女の母親曰く『きちんと自分から出向いて挨拶したい』らしい。
何とも義理堅いことだ。
そしてついに今日がその、名無し本人がサイタマの家に挨拶に来る日となっている。
「(大きくなってんだろうなー)」
約束通り、サイタマは自分の部屋で適当に時間を潰しながら名無しの訪問を待っていた。
彼の記憶の中にはいまだ幼い女の子のイメージしかないが、あれから十年近くが経ち、彼女も今では大学生だという。
きっと背も伸びて、あどけなさもなくなって…
そんなことを考えていたら、玄関のチャイムが鳴った。
「お、来たかな」
サイタマは腰を上げ、玄関に向かう。
返事をしながら扉を開けると、少し固い表情をした訪問者と目が合った。
そう。あの頃の、ランドセルを背負うどころか逆に背負われているように見えるほど小さく幼かった女の子は、年月を経てすっかり…
「…あ、えっと…サイタマお兄ちゃん…?久し振り…!」
大きく、なっていた。
「…。」
「あれ…?お、お兄ちゃん、だよね…?」
「…名無しか?」
「う、うん!よかった、反応ないから人違いかと…」
「…名無しかぁ…」
「うん…?」
サイタマは思いっきり顔を顰めると、自身の眉間を強く押さえた。
「…?」
そして思った。
「(めちゃくちゃ女らしくなっとる…!)」
扉を開けた瞬間、顔にこそ出なかったがサイタマは驚いていた。
面影はある。
大きくて澄みきった瞳も、ほんのり色付いた柔らかそうな頬も、日に焼けたことのないような白くて透明感のある肌も、細い手足も。
成長してはいるが、確かに目の前の訪問者は名無しで間違いない。
だが、正直、ここまでとは思っていなかった。
「お兄ちゃん…大丈夫?具合悪いの?」
「うぐっ…!」
「お兄ちゃん!?」
心配そうに、上目遣いで顔を覗き込まれながらの『お兄ちゃん』呼び。
自分より身長が低い彼女を結果的に見下ろす形になり、自然と柔らかそうな膨らみが視界に入る。
サイタマは珍しく心臓を握り潰されるような感覚を覚えた。
「…すまん。何でもない」
「本当に?」
「あぁ。だから、その…少し離れてくれ…」
サイタマのお願いに素直に従って、名無しは半歩後ろに下がった。
ふー…と、サイタマは心を落ち着ける為に一度深呼吸をして、普段の気の抜けた表情を取り戻す。
「…とりあえず、上がれよ」
「あ…うん。お邪魔します」
名無しを部屋に招き入れ、「茶でも淹れるから適当に座っててくれ」と言いながらサイタマはキッチンに立つ。
湯呑みを手に取り、どこかぼんやりとした不思議な感覚のまま、しみじみと思う。
「(あー、ビックリした。そうか、これが大学生になった名無しか。時の流れってのは早いもんだな)」
面影はあっても、あの頃の小さな女の子はもういない。
彼女の成長が嬉しいような、少し寂しいような。
日々、希薄になりつつあるサイタマの心の内に、今まであまり感じたことのない感情が芽生えていた。
「待たせたな。熱いから気をつけろよ」
「ありがとう」
湯気の立ち上る湯呑みを机に置くと、名無しは礼儀正しく正座したままサイタマを見上げてニコリと微笑んだ。
すっかり上品なお嬢様になったもんだ、と思いながらサイタマも机を挟んだ向かい側に腰を下ろす。
「ここまで来るのに迷わなかったか?」
「大丈夫だよ。だけどこの辺り、本当に人がいないんだね。やっぱり私もこっちに住みたかったなぁ」
「さすがにお前の親が納得しないだろ」
「そうなんだけど…でも、お兄ちゃんとご近所さんどころかお隣さんになれたかもしれないのに…」
「そういや、お前の住むマンションってどの辺?」
「ここからもう少し中心地に近いところだよ。お母さん達が納得してくれる所が全然なくて、探すの大変だったの」
「わざわざこの近所で探すことなかったんじゃねーか?大学通うにも不便だろ」
「そ、それは…」
「つーか、お前がそんなに一人暮らしにこだわるなんて意外だな。ちょっと遅い反抗期か?ははは」
「ち、違うよ!お母さんもお父さんも大好きだもん!」
「冗談だよ、冗談」
「もう、お兄ちゃんのイジワル…」
サイタマは、思ったよりも普通に会話を交わせていることに少しだけ安堵した。
十年近い年月が経っていても、見た目はすっかり女性らしくなっていても、中身は自分のよく知る名無しとあまり変わっていないようだ。
よそよそしい態度を取られたり、会話が続かなくて気まずい空気になったりしなくてよかった。
自分の分のお茶を啜るサイタマ。
そんな彼の耳が、とても小さな呟きを捉える。
「だって…こうでもしないと、いつまでも会えないと思ったから…」
「ん?」
内容までは聞き取れなかった為にサイタマが首を傾げると、名無しは「あ、えっと…」と焦った様子を見せて視線を俯かせた。
そしてすぐに「あ!」と思い出したように声をあげる。
「お兄ちゃん、これ!引っ越しのご挨拶のお蕎麦です。乾麺で日持ちするので、好きな時に食べてください」
そう言って、持ってきていた紙袋を慌ててサイタマに手渡した。
「お、悪いな」
「えへへ…緊張してて、危うく渡し忘れるところだった」
「緊張してたのか?そうは見えなかったけど」
「してたよ!だって、お別れしてから十年近く経ってるんだよ?お兄ちゃんはもう大人だし、どんな風になってるのかなってドキドキしてたし…私のこと、忘れてないかなって…ちゃんとわかってくれるかなって、不安だったし…」
「あー…うん、まぁ、最初はちょっと驚いたけどな。忘れたりしねーよ」
「本当に…?」
「当たり前だろ。さすがの俺でも、毎年律儀に手紙を送って来る奴を忘れねーわ」
「そ、そっか…」
「お前の方こそ、よく一目見て俺だってわかったよな。自分で言うのもアレだけど、かなり別人になってると思うんだけど」
主に頭部が、とは口が裂けても自分からは言いたくなかったので言葉にしなかったが、名無しは目をパチパチと瞬かせて、
「確かに昔と変わってるところもあったから、お兄ちゃんが反応してくれなかった時は人違いしちゃったのかな?って思ったけど…」
じっとサイタマの目をまっすぐ見つめる。
そしてすぐに、ふにゃりと嬉しそうに破顔した名無しは断言した。
「ちゃんと変わってないところもあるから。ずっと会ってなくても、サイタマお兄ちゃんだってわかるよ」
「…。」
サイタマは目を丸くする。
十年近くが経って、大人になったつもりだった。
身長も伸びたし、社会に適応できずに死んだ目をして日々を過ごしていた時期だってある。今だって相変わらず目には虚無が宿っている。
あ、変わってないところって、そこか?
「改めてになるけど…私、お兄ちゃんに会えて嬉しい。こうやって再会できて、またお話できて、本当に嬉しいの」
頰を赤らめながらも名無しは柔らかく微笑む。
サイタマも少し照れくさくなって、「そうか」と短く返して視線を逸らした。
「(素直なところも変わらねーのな)」
「だからね…あの…こ、これからも、また…会いに来てもいい…?」
「おう。お前の母ちゃんからも頼まれたしな、気にかけてやってくれって」
「…お母さん、やっぱり心配してた?」
「そりゃそうだろ。わざわざ人寄越してまで俺に頼んできたんだし。結構ワガママ言って困らせたみたいだな」
「うん…でもね、お母さん達は心配してくれるけど、私ももう19歳になるんだし、ちょっとずつ自立していかないとダメだと思うの」
「(なるほど、ちゃんと将来を考え始めたってことか)」
「それに、最近は色々な所で怪人や悪い人が暴れたりしてるでしょ?だったら、どこにいても同じかなって。それなら知らない所よりも、お兄ちゃんのいるZ市の方が安心だし…」
「ま、何かあればいつでも言えよ。一応これからまたご近所さんだしな」
「う、うん!」
名無しは2、3回ほど大きく頷くと、すぐに「あ…あのね…」と言葉を続けた。
「さっそくなんだけどね…お願いがあるの…」
「おう、何だ?」
「お…」
「お?」
「教えて…ほしいの…男の人の…お兄ちゃんの、カラダのこと…」
「…は?」
サイタマは、ポカンと口を開けた。
恥ずかしそうに顔を赤くした名無しは、もじもじと両手を合わせている。
「(…いや。いやいやいや。さすがに聞き間違いだな、うん)すまん、もう一回言ってくれ」
「お兄ちゃんのカラダのこと、教えてほしいの…」
「(聞き間違いじゃなかった!)」
さっそく頼りにされたのはいいが、いくらなんでも突拍子がなくないか!?
いや、年齢的には、"そういうこと"に興味を持ってもおかしくはないが!だからって、今!?俺に!?
サイタマは滝のように冷や汗を垂らす。
「…名無し。ちょっと落ち着け」
「ご、ごめんね、急に。でもこれはすごく大事なことなの!」
「いや、あのな…」
「こんなこと、お兄ちゃんにしか頼めないから…だからっ…」
「ちょっ…」
止めようとするサイタマに気付かずに、名無しは意を決した様子で言葉を絞り出した。
「お兄ちゃんの服のサイズ、教えてくださいっ…!」
しん…と静寂が部屋を包み込む。
たっぷりの間を空けて、サイタマは呆気に取られたまま口を開いた。
「…服?」
「うん。あ、できれば靴のサイズも知りたいな…」
「…何で?」
「女の子の一人暮らしは物騒だから、男物の服をベランダに干したり、玄関に靴を置いたりした方がいいんだって」
「…つまり、防犯ってことか?」
「そう。でも私、どういうのがいいかわからなくて…お店で適当に買ってもいいんだけど、せっかくだしお兄ちゃんのを参考にしたいな、って…」
「…あぁ、なるほど…」
サイタマは、どこか心ここにあらずといった様子で頷いた後、一拍置いてから激しく頭を抱えた。
「(うおぉぉぉぉ!名無し相手に何勘違いしてんだ俺はぁぁぁ!)」
自分を兄のように慕う少女相手にあらぬ勘違いをしてしまったという罪悪感と羞恥心が心の中に渦巻き、今すぐ怪人でもブッ飛ばして八つ当たりしたい衝動に駆られるサイタマ。
歯を食いしばって唸り声をあげるサイタマを見て、名無しは不安そうに眉を下げる。
「お兄ちゃん…?ダメ、かな…?」
「あー、いや、いい。全然いいけど」
「よかった!」
「つーか、服なら着てないやつがいくつかあるからやるよ」
「えっ!?」
「わざわざ買うのもったいないだろ。靴はさすがにねーけど」
「で、でも、そんな…いいの?」
「おー、ちょっと待ってろ」
何とか平静を取り戻したサイタマは腰を上げ、名無しに渡す服を見繕いに行く。
シンプルなTシャツを適当に2枚選ぶと、そのままそれを雑に手渡した。
「ほら。2枚くらいあればいいか?」
「あ、ありがとう…」
一方、名無しの方はサイタマから渡されたTシャツを両手で丁寧に受け取ると、視線を落として固まってしまった。
大きな両目をパッチリと見開いて、じっと手元のTシャツを見つめる。
「お兄ちゃんの、服…」
「ん?何か匂うか?洗濯はしてある筈だけど」
「そ、そんなことないよ!本当に嬉しい、ありがとう!」
「そんなに喜ぶことか?値引きセールで買った安もんだぞ、それ」
ただの余り物のTシャツだというのに、まるでクリスマスに欲しかったプレゼントをもらった子供のような喜び方をする名無し。
サイタマは訝しがるが、それでも名無しは嬉しそうに顔を綻ばせていた。
「大切にしまっておくね!」
「いや、干せよ。意味ねーだろ」
「それじゃあ、今日は帰るね。お邪魔しました」
「おー、気ぃつけろよ」
「うん。またね、お兄ちゃん!」
満面の笑顔で手を振りながら帰っていく名無しを、玄関で緩く手を上げて見送るサイタマ。
室内に戻り、少ししてから何気なくベランダに出た彼が顔を出して下を覗き込むと、ちょうど名無しもこちらを振り返ったところで再び笑顔で手を振ってきた。
「(変わらねーなぁ)」
幼い頃の彼女も、別れ際には何度も何度も振り返って手を振ってきていたことを思い出して懐かしくなる。
サイタマも答えようと手を上げかけるが、
「…ん?」
名無しの視線が外れ、彼女は前方を見てからまわりを見回した後、首を傾げるような仕草をした。
その視線の先を確認すれば、明らかに人ではない大柄な異形の者の姿。
のそのそと歩くそれは、まっすぐに名無しに向かって近付いている。
そして、一定の距離まで迫ったところで異形の者は突然地面を強く蹴ると、その勢いのままに名無しに接近し、ひょいと彼女の身体を軽々と肩に担ぎ上げ、ものすごいスピードで走り去っていくのだった。
「はぁっ!?おいおいおいおい!」
「へっへっへ、怪人になってさっそく好みドストライクの女の子を見つけるなんてツイてるぜ!」
「(何でこんなことに…?)」
走る異形の者の肩に担がれた状態で、名無しは混乱していた。
サイタマに手を振っていたら「そこの手を振るかわい子ちゃぁん」と声がして、そちらに視線を向ければ初めて見る大柄な何かの姿。
「(誰だろう…?まわりには誰もいないし、私に声をかけたのかな?手、振ってたし…)」と疑問符を浮かべていたら、一瞬にして距離を詰められ、身体が宙に浮いた。
理由はわからなかったが、自分が今拐われていることだけは直感的に理解ができて、名無しの視界がじわりと歪む。
「(せっかくお兄ちゃんと会えたのに…さっきまですごく幸せな気持ちだったのに…)」
何でこんなことに、と流れていく地面を見つめながら再び心の中で思う。
しかしどれほど嘆こうとも、異形の者の走るスピードも名無しを掴んだ拘束も一向に緩む気配はない。
「まずは手始めに1人。これからどんどん俺様好みのかわい子ちゃんを集めていって、俺様専用ハーレムを作るのだ!」
ぬっふっふ、と含み笑いを浮かべる異形の者。
だが、それは束の間のことだった。
「待てコラァ!」
叫び声がした直後、突風のような激しい風圧によって名無しの身体が高く宙に浮いた。
ぐるんと動いた視界と急な浮遊感に思わず目を閉じる。
一瞬の軽い衝撃。肌に当たる固くて温かな感触。
「…?」
恐る恐る目を開いた名無しを、真剣な表情のサイタマが見下ろしていた。
「…サイタマお兄ちゃん?」
「あっぶねぇー…久々に焦ったぜ…!」
しかしすぐにいつもの間の抜けた表情に戻ったサイタマは、青ざめたまま安堵の息を吐き出し脱力する。
何が起こったのかわからずに両目をパチパチと瞬かせる名無し。
数秒してから、ようやく名無しはハッと気付く。
「(お…お兄ちゃんに、抱っこされてる…!)」
名無しの身体は、サイタマの片腕に軽々と抱き抱えられていた。
かあぁ、と赤面して硬直する名無し。
「怪我ねーか?」
「う、うん…」
「そっか、よかった。怖かったよな、もう大丈夫だ」
名無しの目尻に浮かぶ涙を指で拭ってやりながら、サイタマは言う。
その背後から、苦痛に歪んだ醜い悲鳴が聞こえてきた。
「ぎゃあぁぁぁ…!おっ、おおお、俺様の腕がぁぁぁ!きっ、ききき、貴様!よくも俺様の腕を!許さん!死ねぇぇぇっ!」
片腕の吹き飛んだ異形の者が、憤怒の形相でサイタマ目掛けて襲いかかってくる。
「お兄ちゃ…!」
名無しの声は、激しい破裂音によってかき消された。
結果から言えば、異形の者は挽き肉レベルの肉片と化し、遥か後方へと飛び散ってしまったのだった。
サイタマの、振り向くことなく放った裏拳一発で。
名無しは再び目を瞬かせた。
「すまん。やっぱ送ってやればよかったな」
「う、ううん。助けてくれてありがとう…」
異形の者の存在などまったく気にも止めず、サイタマはゆっくりと名無しを地面に下ろす。
「あ、あの…お兄ちゃ…」
「先生!」
戸惑いながら口を開いた名無しの声は、今度はよく通る男の声によって遮られた。
「ジェノス」
声のした方を向くと、身体が機械化している若い男の姿があった。
サイタマが名前を呼ぶと、彼は一直線にこちらに駆け寄ってきて、
「先程、先生の叫び声と破裂音が聞こえましたが、一体何が…」
そして、サイタマの影に隠れていた名無しに気付く。
「先生、その少女は?一般人がこんな所にいるとは珍しい…迷子ですか?」
「いや、迷子じゃなくて…」
「お兄ちゃん…この人、知り合い?」
「コイツは…」
「お兄ちゃん…?先生!妹さんがいたのですか!?」
「いや、妹じゃないけど」
「妹さんではない…?ということは、勝手に先生をお兄ちゃんと呼んでいるということですか?おい、お前。何が目的でサイタマ先生に近付こうとする?」
「あのな、ジェノス。人の話を…」
「あ、あなたこそ、お兄ちゃんの何なんですか?」
「名無しも落ち着け、話を…」
「俺はサイタマ先生の弟子だ。もしもお前が先生に悪意を持って近付こうとするのなら、一般人であろうと容赦は…」
「だー!説明するからお前ら2人共、人の話を聞きやがれ!」
名無しを送りがてら、サイタマはジェノスと名無しにお互いのことを紹介し、先程の出来事についてかいつまんで説明した。
「なるほど…つまりは、この女はサイタマ先生の昔馴染みで、これからこのZ市で一人暮らしをすることになったので今日は引っ越しの挨拶に来ていた、と。そして先程の先生の叫び声と破裂音は、女を拐おうとした怪人を追いかけ、倒した時のものだったのですね」
「そういうことだ。ってかジェノス、お前、今日は夜まで帰れないって言ってなかったか?」
「その予定だったのですが、メンテナンスが早く終わったので」
「そっか。まぁ、そんなわけだから、あんまりコイツのこと威圧して怖がらせんなよ」
「わかりました。先生に害がないのであれば」
「よし。名無しも、ジェノスは固っ苦しいけど悪い奴じゃ…って、おい?」
納得したジェノスにひとつ頷いてから名無しを見たサイタマは、彼女が黙り込んだまま俯いていることに気付いて首を捻る。
「お兄ちゃんが…ヒーロー…」
「何だ、先生がヒーローだと知らなかったのか?」
「そういや、言ってなかったな」
思い出話や他愛のない話ではそこそこ盛り上がったのだが、現在サイタマがプロヒーローとして活動していることについては話しそびれていたと今気付く。
「ヒーロー…お兄ちゃんが…ヒーロー…」
名無しは己に覚えさせるかのように何度もそう呟き、それを見たサイタマは怪訝な顔をする。
もう一度呼びかけようとした、その瞬間。
「…すごいね!お兄ちゃん、本物のヒーローになっちゃったんだ!」
勢い良く顔をあげた名無しがサイタマに向かって身を乗り出す。
見つめてくるその瞳は、眩しいほどにキラキラと輝いていた。
「お、おう?」
「さっきも、とっても強かったね!ビックリしちゃったけど…そっかぁ、お兄ちゃんがヒーローかぁ…」
感慨深く呟く名無し。その顔には微笑みを浮かべながらも、今度は少しだけ寂しそうに目を細めた。
「私にとって、お兄ちゃんは昔から充分ヒーローだったけど…そっか、これからは皆のヒーローなんだね」
「皆のっていうか、俺は俺がやりたくてやってるだけだからな。別に誰のもんでもねーぞ」
「でも、お兄ちゃんの活躍が知られたら皆お兄ちゃんのこと好きになっちゃうと思うし…そうなったら…嬉しいけど、何だか寂しいな。お兄ちゃん、人気者になっても私のこと忘れないでね…?」
「だから忘れねーよ。どんだけ記憶力ないと思ってんだ、俺のこと」
名無しの頭を軽くポン、と叩くサイタマ。
成長しても甘えたがりな部分が垣間見えて、その感情が自分に向けられているのがくすぐったくて、思わず苦笑した。
「…。」
ジェノスは、サイタマのこんな表情は初めて見たと意外そうに僅かに目を見開く。
それから暫く、彼は昔馴染み2人のやり取りを静かに観察するのだった。
「…彼女、随分と先生に懐いているんですね」
名無しをマンションまで送り届けた後、「上がってお茶でも」と誘われたが、「荷ほどきで忙しいだろ。また今度邪魔するわ」と断りを入れてから、サイタマはジェノスと共に帰路についていた。
「晩飯、何にすっかなー」と冷蔵庫の中身を思い返しながら呟くサイタマに対し、ずっと黙っていたジェノスはクールな表情は変えないまま、おもむろに口を開く。
噛み合わない会話にも随分と慣れたサイタマはさして気にすることもなく、
「あー…まぁ、名無しは昔からあんな感じだな。何で懐かれたのかはよくわからんけど」
と軽く答えた。
「先生も満更ではないように見えました」
「え?マジ?それってセーフなやつ?」
「セーフなやつ、とはどういった意味でしょうか?」
「あ…いや、うん。何でもない。気にすんな」
「はぁ…」
「ところで、ジェノス」
「何でしょうか、先生?」
「お前、名無しのことどう思った?」
サイタマが問う。
声こそ普段通りの淡々としたものだったが、ジェノスの表情を窺うように視線だけを横に動かした。
「どう、とは?」
「率直な印象っつーか」
「印象…そうですね、俺と同い年という話でしたが、それにしては言動が少々幼いように感じました。それに見るからに非力ですね。危機管理能力も低そうで、怪人の多発するZ市、それもゴーストタウンと呼ばれる東側に近い場所で、これから無事に生活していけるとはとても思えません。引っ越して来て早々に怪人に拐われる時点で運も悪いようですし、先生の昔馴染みでなければ今すぐこの町を出て親元へ帰るよう忠告していたかもしれません」
「訊いといてなんだけど、容赦ねーなお前…つか長ぇよ」
早口で捲し立てるジェノスに対し、サイタマは目を細めて表情を引きつらせる。
続けて「そういうんじゃなくてさー」とダメ出しをしようとするが、すぐに納得したような諦めたような溜め息を漏らした。
「…ま、ジェノスだもんな。心配はいらねーか(どっちかってーと、心配なのは俺の方だ)」
サイタマは一度目を閉じて、名無しの姿を思い返す。
昔のように接することは、できたと思う。
しかし正直、女らしく成長した姿には未だに鼓動の速まりを感じずにはいられなかった。
怪人から助けた時の柔らかで華奢な肌の温かさが、頭をポンと叩いた時の艶やかな髪の感触が、花のような果物のような甘い香りが、自分を見上げてくる透き通った瞳が、『お兄ちゃん』と自分を呼ぶ心地いい声が。
思い出すだけで、胸の奥に熱が宿る。
久しく無縁だった感情を持て余す。
「(いかんいかん。アイツにとって俺は兄貴みたいなもんなんだ。邪な目で見られてるなんて気付かれてみろ、ショックを受けるに決まってる)」
ただでさえ一人暮らしを始めたばかりなんだ。余計な心配や不安を抱かせたくはない。
「先生?」
「ジェノス。気が向いたらでいいからさ、お前も名無しのこと気にかけてやってくれ」
「(っ…!先生が、俺に頼みごとを…!)わかりました!お任せください!」
「(ジェノスの方が、よっぽど下心なく接してやれそうだしな。俺も気をつけねーと)」
邪念を振り払うように頭を振ってから、サイタマは改めて夕飯のことを考え始めた。
「ふぅ…」
就寝前。ベッドに横になった名無しは天井を見つめ、今日の出来事を思い返していた。
「(色々ビックリすることもあったけど…)」
サイタマと約十年振りに再会し、昔のように話をすることができて安堵し、危うく怪人に拐われかけたもののサイタマに助けられ、彼がヒーローであることを知った。
あまりの情報量の多さに正直混乱してしまい、今日は帰ってからの荷ほどきもあまり進んでいない。
「(でも)」
目を閉じる名無し。
思い浮かべるのは、思い出の中のサイタマ少年ではなく、すっかり大人になった今のサイタマの姿。
「(あぁ~、やっぱりサイタマお兄ちゃんカッコいいよぉ~!)」
たまらず両足をバタバタさせる名無し。
叫びたい衝動を、枕に顔を埋めて何とか抑え込む。
「はぁ…サイタマお兄ちゃん…やっぱり好き。大好き…」
熱に浮かされたように頬を染め、うっとりとした吐息を漏らす姿は、まさに恋する乙女そのものだった。
名無しにとって、サイタマは初恋の相手である。
両親は共働きなうえ、とても多忙な人達で、毎日帰宅こそするものの休日は無いに等しく、家族の時間というものを名無しはほとんど知らずに生きていた。
家のことは家政婦を雇っていた為に問題なかったし、時間を共有できないながらも可能な限りの愛情を注いでくれていたことも、今では理解している。
しかし幼い時分の名無しにとって、両親と一緒にいられない寂しさは何をもってしても埋められるものではなかった。
そう、サイタマに出会うまでは。
サイタマと出会って、名無しは少しずつ寂しさを感じなくなっていった。
けっして彼は面倒見がよかったわけではない。気が乗らない時は相手をしてくれなかったし、一緒に過ごす時間も放課後や休日の短い間だけだ。
それでも、何故か彼と一緒にいると心が落ち着いた。寂しくなかった。
サイタマは自由な人だった。そんな彼と一緒にいる間は、名無しも自分をさらけ出せた。
まわりの人達を困らせないようにと我慢していたものも、彼の前では必要ないのだと思わせてくれた。
最初は兄のように慕っていた。『大好き』の言葉に他意はなかった。
別れから数年が立ってようやく、これは恋心なのだと気付いた。
会えなくなって十年近くの時が経っても、その想いは薄れることなく、むしろどんどん膨らんでいく一方で、
「(お母さん達の説得、頑張ってよかった!これからはいつでもお兄ちゃんに会えるんだ…!)」
一人暮らしをしてでもZ市に来たかったのは、ひとえにサイタマに会いたいという一心からだった。
会いたかった。傍にいたいと思った。早く、少しでも早くと気持ちが逸った。
初めての一人暮らしは不安でいっぱいだし、両親にワガママを言った申し訳なさは今でも感じている。
それでも、大好きな人に近付く為に、名無しは生まれて初めて意地を通したのだった。
「(私も、もう小さな子供じゃないもん。これからはサイタマお兄ちゃんに、いっぱいアタックするんだから…!)」
サイタマの決意など、露知らず。
名無しは大好きでたまらないサイタマのことを想いながら、幸せな眠りにつくのだった。
END
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R7.11
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