Vergissmeinnicht ~ 勿忘草色のリボン ~
皇都イシュガルドで珍しく満天の星を望むことができる夜に、忘れられた騎士亭のカウンターの片隅では冒険者の女が一人、静かにグラスを傾けていた。
長く閉ざされていたイシュガルドの門戸が冒険者たちに向けて開かれてより相応の期間が経過をした現在では、それは特に珍しくはない光景だった。
店主のジブリオンはカウンターの中から他の客をあしらいつつ、付かず離れずの距離でその姿を見守っていたのだが、馴染みの客となっている彼女のいつもとは明らかに違う様子と、夕刻以降に出入りをした客の幾人かがその身から払い切れず店内へと持ち込んだ違和感から想定できる事柄を、いかにして円満に捌くべきだろうかということに、あれこれ思案を廻らせていた。
日々雑多な、しかしそれなりに精度の高い情報が常に店主の耳に入る酒場という環境に於いて、今日に限っては入ってくる情報が極端に少なく、しかもそれぞれに霞や煤がかかったような状態だ。
かかったのではない。かけられているのだ。
何か途方もないことが今日、起きたのだ。
そしてそれには、彼女が関わっている。
そう確信をしたジブリオンはグラスに水を注ぐと、それを次の一手の武器とした。
そして、カウンターの中で得られる決して多くはない情報をその胸の内に取り込んで土台を固め、長年酒場を切り盛りしてきたその経験をもってして、今日一番の……いや、彼の接客業人生に於いて屈指の難題に立ち向かうべく、意を決して彼女にグラスを差し出した。
「滅多に注文されない高い酒が飛ぶように売れるのは店としてはありがたいんだがな。一人で飲むにはさすがに過ぎた量だぞ。酒以外で何か注文はあるか?」
ジブリオンもかつては騎兵として戦場へとその身を投じ、現役を退いて以降は主に騎兵たちを相手に商売をしてきた。
この手の客を「明日に差し障る」などという言い方で諭してはならないことは、過去に幾度となく経験をして骨身に染み込んでいる。
明日を迎えられなくなった者が身近にいる。
今日の彼女は、それだ。
「もう頼んじゃ駄目ですか? 今日くらいは酔っぱらってみたいと思っていたんですけど、まだ全然酔えた感じがしないんですよ」
そう言ってジブリオンに苦笑をする彼女の傍らには、一本を除いて既に空となった大小のボトルが林立している。
「まだ? 冗談だろう? それだけ退治しておいて酔っていないだなんて」
「今日はとても冗談なんて言える気分じゃないんですけどね」
そう言いながら水の入れられたグラスを受け取る彼女の視線を見れば、確かに酔客特有の瞳の揺らぎは無い。
本当に酔いが廻っていないのか? と驚き訝しみながらもジブリオンは、それを表情に乗せることはせず、改めて彼女を見据えると言った。
「お前さんが極端に酒に強い体質なのかもしれんが、イシュガルドの酒もそれなりに強いんだ。酒と同じ量の水を飲むのが、酒との上手なつきあい方ってやつさ。覚えておきな」
「そういうものなんですね」
素直に応じて水を飲み下す姿を見てジブリオンは、彼女の冷静さが今日は欠片となっていたとしても心の片隅には残っているのだろうと判断をして胸を撫で下ろす。
「グリノー卿は……改めて見ても、やっぱりシルヴトレルとは似てなかったな。フラヴィアンの方はそっくりなのに……」
「シルヴトレル? フラヴィアン?」
元騎兵のジブリオンにとってそれらの名は、皇都防衛の要として雲廊に据えられた対竜バリスタのものとしての方が記憶に馴染んでいるので、彼女の呟きに首を傾げて応じる形となってしまった。
「……ああ、四大名家の父祖殿のことか」
「ええ。シルヴトレルは比較的色白だったから、その点でも全然似ていないな、って」
建国十二騎士の肌の色にまで言及をするとは、彼女はどこかで父祖たちの肖像画でも見たのだろうか。いや、そもそも、そこまでを正確に伝える歴史的な資料はあったのだろうか。
あるとすれば四大名家の当主が管理をしているものだろうが、そのようなものに目を触れさせて貰えるほどに彼女が、フォルタン家ならばともかくゼーメル家と懇意にしているという話など、ジブリオンは聞いたことがない。
「皆が皆、父祖殿に似るというわけではないんだろうよ。フォルタン家の御曹司たちが、そのいい例じゃないか?」
呟きに盛り込まれていたもう一人の側──フラヴィアンについても触れておいた方がよかろうかと判断をし、適宜軽口を混ぜたつもりで肩を竦めながらジブリオンが放った意見を受け止めた彼女の肩が一瞬震え、そこにかかる長い髪が揺れる。
これは下手を打ってしまったかと内心で頭を抱えながらジブリオンが次の一手を考え始めると、その目の前で彼女は微かに笑った。
「あの御二人は、確かに好対照ですよね。足して二で割ればちょうど良いのかもしれないけど、でも、それではつまらないわ」
そう言いながら再び水の入ったグラスを傾ける彼女の様子を見て、ジブリオンは再びその胸を撫で下ろした。
「うーん……。やっぱり、わからないな……」
グラスを置き、片肘をついて人差し指で中空に何かを描いているかのような動作をしながら溜め息混じりに呟いている彼女を見つつ、ジブリオンは脳裏に列挙した次の一手の候補の中から最適解を選り出す必要に迫られた。
わからないという言葉が一体、何を指すのか。
彼女が今日体験した事柄に関連している可能性が高いと思われる以上、不用意にその領域に踏み込むのは得策ではないだろう。
「もう一度聞いておくが、何か注文はあるか?」
結局、多少強引ではあるが、父祖たちの話題を引き摺るよりは良かろうと、ジブリオンは先刻提示をした質問へと遡る。
「お酒以外で、ですよね?」
「ああ、そうだ。お前さんは今やこの店の上得意だからな。酒以外なら大抵のものは出してやるさ」
ジブリオンは大袈裟に腕を組み顎を反らしながら口走り、冒険者を見おろしてニヤリと笑う。
その様子を見て彼女は再び微かに笑い、その目を伏せた。
「では……蒼の竜騎士を」
ジブリオンがその目を見開いてしまったことは、幸いにして彼女が目を伏せたままだったために気取られはしなかった。
彼女と蒼の竜騎士が仲間として日々立ち回っていることは、ジブリオンも当然知っている。
仲間ならば連絡用にリンクパールを携帯しているはずだ。
簡単に連絡がつけられるはずの人物をわざわざ第三者を介して呼び出すということは、同じリンクパールを持つ他の仲間には知られずに何か事を運びたいと考えているからに他ならない。
「……そいつは、裏メニューになるな。しかも時価だ。いくら掛かるかわからんぞ」
「構わないわ。お願いします」
言葉とともに視線を交わした二人は互いに口角を上げ、その後ジブリオンは神殿騎士団本部へと使いを出した。
「お前……こんな日にこんな時間まで出歩いているのか」
程なくして店に駆けつけたエスティニアンは寝入り端を起こされた形であったのか、ジブリオンの目にも馴染んだドラケンメイルではなく部屋着にコートを羽織った姿で、息こそ上がってはいないものの驚きと困惑の表情を浮かべながら彼女に呼び掛けた。
「出歩いてはいないわ。ずっとここに居たもの」
「屁理屈を抜かすな。寄宿先に居なければそれは出歩いていると言うんだ。伯爵に心配を掛けるだろう、とっとと館に戻れ」
「その伯爵に、夜半までには戻ると断って出て来たんだから構わないでしょう?」
「チッ……この分からず屋が!」
「あんたらなぁ、顔を合わせるなり喧嘩腰とはどういうことだ? ピークを過ぎちゃいるが、まだ他の客が居るんだ。これ以上ここで口論を続けるなら、すぐに出て行って貰うぞ?」
堪らずにジブリオンが二人の間に割って入ると、エスティニアンは髪をぐしゃぐしゃと掻き回しながら溜め息を吐き、一方の冒険者は椅子に座り直して姿勢を正し、ばつの悪そうな表情となって両手を膝の上に置く。
「ごめんなさい、ジブリオンさん。エスティニアン、来てくれてありがとう」
一転してしおらしく謝罪をし、礼を述べてきた彼女を見てエスティニアンは再び溜め息を吐くと言った。
「……まあいい。店に入るなり追い出されてはかなわんからな。そのボトルに残っている酒で構わん。俺にも一杯くらいは飲ませろ」
目ざとく酒を見つけてそう言うなり冒険者の隣に陣取ったエスティニアンの前にジブリオンは空のグラスを置き、次いで彼女へと視線を移し言った。
「ほらな、時価だろう?」
「ふふっ……そうね」
「何の話だ?」
冒険者の小脇から酒の残ったボトルを取り上げたジブリオンは、首を傾げるエスティニアンのグラスにその酒を注ぎながら応えた。
「なに、戯言さ。それよりも、残りものとはいえ、こいつは俺がこの店で初めて封を切った銘柄だぞ。心して味わってくれ」
その後暫しの間、ジブリオンの前で二人の蒼の竜騎士は何を語るでもなく、それぞれのグラスを傾けていた。
説教じみていたとはいえ、出会い頭のエスティニアンのあの饒舌ぶりはどこへ行ってしまったのやら。互いに押し黙ってしまった男女の前に立たされるなど、勝手知ったる自らの陣地に居るにも関わらず、ジブリオンには居心地の悪いことこの上ない。いかに商売上の流れとはいえ、これでは貧乏くじもいいところだ。
最初に「こんな日に」と言っていたことから、エスティニアンが今日の彼女の事情を把握しているのだろうとジブリオンは解釈をすることはできたのだが、それと同時にエスティニアンの身にも夕刻以降の客たちと同様の違和感がこびり付いていることを感じ取ってしまった以上、手元に残った食材で急遽拵えた一皿の肴を二人の前に差し出すことしかできなかった。
その肴にフォークが突き立てられて皿から立ったカチャリという小さな音が店内に響いた後、ジブリオンに向かってエスティニアンがようやく語り始めた。
「改めて見ても、呆れるしか無い有り様だな。それは全部こいつが始末したのか?」
「ああ、信じられんだろうがな。放っておけばもっと儲けられたとは思うが、さすがに良心が咎めたもんで、酒の注文だけはもう受け付けんと、さっき宣言をしておいたぞ」
「それは済まなかったな。行儀の悪い妹弟子が迷惑をかけた」
「うっ……」
エスティニアンの隣で冒険者が言葉を詰まらせたが、指摘された点に反論の余地を見出せなかったのか、それ以上の言葉が彼女の口から紡ぎ出されることはなかった。
「ほう……。お前さんたちが同門だったとは、これはまた意外な話だ」
「師匠が同じなだけだがな。俺が蒼の竜騎士に任じられた後、こいつがアドネール占星台で師に逢って弟子入りをしたのさ」
「なるほど。弟子から蒼の竜騎士を二人も輩出するとは、先代の蒼の竜騎士は指導者としても超一流なんだな」
ジブリオンはエスティニアンと語り合いながら水差しを掲げ、干されかかっていた冒険者のグラスを再び水で満たす。
相変わらず口を噤んだままグラスを傾け、喉に水を流し込むことでその頭を冷やしているように見受けられる冒険者の視線は、ジブリオンを通り越してその背後に向けられていた。
彼女が何かに注視していることをジブリオンは感じ取りはしていたが、同時に何かを思案している様子でもあったため、手元にある雑事に専念している風を装い、あえてそれには触れずにいた。
「ジブリオンさん」
偽装じみた片付け作業が終わってしまいそうなタイミングで、彼女から声が掛けられた。
「水は飽きてしまったか? 茶かジュースなら出せるぞ」
「……あれを、いただきたいのだけど」
若干の戸惑いを含み、ジブリオンの背後を指差しながら言った彼女の視線の先を検めると、そこには勿忘草色の光沢を帯びたリボンでネックに装飾を施された酒のボトルがあった。
「酒はもう終いだと、さっき言っただろう。忘れたのか?」
「いえ、今欲しいのはそのボトルに巻かれたリボンだけ。でも、リボンを外してしまったら商品価値はなくなってしまうでしょう? だから、ボトルごといただけますか?」
想定外の注文をつけられたジブリオンは、冒険者と酒瓶とを交互に見ながら困惑する。
二人のその様子を静観していたエスティニアンが、盛大に溜め息を吐くとジブリオンに言った。
「俺がその酒を買うのならば構わんだろう?」
「それはまあ、そうなんだが……」
「今日に限っては、こうでもしなければこいつを動かせそうにないもんでな。本体はそこに置いたままでいい。そのリボンを渡してやってくれ」
「ああ、わかった」
エスティニアンの注文を受けてジブリオンの手によりボトルから外された勿忘草色のリボンが、冒険者の手元へと渡る。
リボンを受け取った冒険者は胸元にそれを掻き抱くと、満足げな表情を見せてその目を伏せた。
「……ありがとう、エスティニアン、ジブリオンさん」
リボンを抱いたままの冒険者をエスティニアンとジブリオンは暫しの間見守っていたが、そのままでは事態が先には進まないと判断をしたエスティニアンが口を開いた。
「で? 俺を呼びつけたからには何か魂胆があるんだろう? 寒空の下で聞かされるなどまっぴら御免だぞ。今、ここで言え」
深夜に呼び出され、我がままばかりを言う後輩に手を焼いている状況とはいえ、そのあまりにデリカシーの無いエスティニアンの言い様に、ジブリオンは頭を抱えた。
相手は女だ。第三者……他の男に聞かれたくない話の場合もあるだろう。人目が気になるのならば宿の一室を使え、と、ジブリオンが二人に提案をしようとした矢先、冒険者があっさりと希望を口にした。
「夕方の場所まで、道案内をして欲しいの」
ジブリオンには何の変哲もない希望にしか聞こえなかったのだが、それを受け止めたエスティニアンの表情が瞬時に凍りついたことで、その望みが途方もないものであるのだと思い知らされた。
「いいだろう」
「ありがとう」
一瞬で話が纏まったらしい二人をジブリオンは呆然としながら見守っていたが、彼らの次の一手が決まった以上、ここは即座に送り出すことが最善と見て取った。
「ここでの雑多なことは全て後回しにして構わんぞ。行ってこい」
「恩に着る。行くぞ相棒」
立ち上がってそう言うなり足早に階段を上り始めたエスティニアンの後を追い、冒険者は階段を数段上ると振り返り、ジブリオンに向かって言った。
「ありがとう、ジブリオンさん。また来ます」
「おう、またな」
ジブリオンは手を振りながら冒険者に返事をし、その背を見送りながら、彼女の姿を明日以降も見られることを確信してその胸を撫で下ろした。
忘れられた騎士亭を後にした直後、二人の蒼の竜騎士の姿はラストヴィジルのエーテライト前にあった。
彼らはフォルタン邸とアインハルト邸を背にして立ち、正面にそびえ立つイシュガルド教皇庁の頂点を揃って見上げる。
「さて……と。中に入る必要が無いとはいえ、俺にとっては二度目の不法侵入だな」
「縦方向の道案内で頼りになる、その道の先輩がいて助かったわ」
「ハッ、抜かしやがる。最初から数回のうちは極力音を立てんように気をつけろ」
「了解」
国の命運がその肩にかかっている者たちのやり取りとはとても思えない内容の会話を二人の蒼の竜騎士は交わすと、教皇庁前の警備兵に気取られぬよう建物の側面へと回り込んでから、順にジャンプをした。
かくして二人の蒼の竜騎士は、教皇庁の屋上にある飛空艇発着場に一刻ほどぶりに立つこととなった。
皇都イシュガルドの、標高としても最高位にあるその場に佇む二人の姿を認めるものは、今は満天の星のみである。
既にそこは神殿騎士団の手により清められてはいたが、床一面に施された美しい幾何学模様が、この日の夕刻に惨劇の場と化した地点を正確に指し示す目印の役割を果たしていた。
エスティニアンは冒険者の斜め後ろに立ち、静かに足元を見下ろす相棒を見守っていた。
彼女を護りこの場で絶命したオルシュファン卿が彼女とどのような関係であったのかを、エスティニアンは正確に把握をしてはいない。
無論、彼らが互いに好意を持ち接していたことは身近で二人の様子を見て感じ取ってはいたが、二人の関係が彼女の蒼の竜騎士としての実力を削ぐ原因となるのでなければエスティニアンにとっては何の問題も無かったため、特に感知をしなかった、というのが、正直なところだ。
加えて、身近な人物を亡くした身近な女への接し方の心得も、エスティニアンは持ち合わせてはいなかった。
エスティニアンには母以外に身近な女が居たことなど今まで無く、その母についても既に遠い記憶の彼方の人であるのだから、その点は致し方ないとも言えるのだが。
冒険者から抱き付きでもされれば、黙って彼女の気が済むまで胸を貸す程度のことはできるのだろうが、自分から彼女に向けての行動にはどうにも行き着けず、結果、背後で彼女を見守ることしかできずにいた。
「エスティニアン」
「なんだ?」
「これで、髪を結んでほしいの」
冒険者は自らの肩越しにエスティニアンを見上げながら、先程手に入れた勿忘草色のリボンを差し出した。
リボンをエスティニアンが受け取ったことを見届けると、冒険者は前に向き直り、後ろ手で自らの背中を指し示す。
「このあたりで」
「わかった」
指し示された高さは肩甲骨のあたりであったため、髪を結うにしては中途半端な位置だと思いながらも、エスティニアンは相棒の髪を手に取ってリボンを数回巻き、結んでやった。
「これでいいか?」
そう言い、手許からするりと逃げてゆく相棒の髪の感触に、手入れの行き届いた髪の手触りはこれほどまでに違うものなのかとエスティニアンが感心をしていると、冒険者は結び目の位置を後ろ手で確認する。
「ありがとう」
冒険者は今度は向き直り、真正面からエスティニアンを見上げると礼を言った。
そして上から左手を背に回し、結び目の上を握り締める。
見ると彼女の右手には、いつの間にか抜き身のナイフがあった。
「おい! 何を!?」
エスティニアンが驚き叫んだのとほぼ同時に、冒険者は何のためらいもなく自らの首の後ろで鮮やかにナイフを一閃させ、その長い髪を断ち切った。
「今日を、私の誕生日にするわ」
「誕生日にする……だと?」
驚きの残る表情のままのエスティニアンに、冒険者はリボンで束ねられた自らの髪を見つめながら語り始めた。
「ええ。霊災前の記憶はまだ戻らないから、産みの母が命を賭けてこの世に送り出してくれた日付は思い出せないんだけど、今の私は、オルシュファンが命を賭けて送り出してくれた世界に生きているんだわ。だから今日が、新しい私の誕生日よ」
「なるほど……」
エスティニアンは辛うじてその一言だけを返し、彼女の手の中の髪を見つめた。
「ここでオルシュファンの手を握った時、髪も彼の手に触れていたの。だから私の身体のうちで手と髪が最後に彼と繋がっていて、そして切り離された……。そう棺の前で考えていたら、無性にこの髪を手向けたくなって。でも、今やったことをフォルタン家の方々の前でやるわけにはいかないでしょう?」
「確かにな。それで館を飛び出して、俺を呼びつけたって訳か」
冒険者はエスティニアンの言葉に頷くと、屈んで髪束をそっと足元に置いた。
「旅立った場所に預ければ、いずれ風が彼に届けてくれるだろうと思って」
そう静かに語りながら冒険者は立ち上がり、満天の星を見上げた。
彼女は、天に散りばめられた星々のいずれかをオルシュファン卿に見立てようとしているのだろうか。
そう思いながらエスティニアンは、冒険者の華奢な後ろ姿をただ見つめていた。
今しがたの、相棒独自のオルシュファン卿の死の受け止め方に圧倒されてしまっていたこともあるが、彼女に望まれて先程その髪に触れた以上に今日の彼女に触れてしまうことは、オルシュファン卿と彼女に対して無粋なのではないかと思ってしまっていたからだ。
そうして自ら行き場を封印した両腕をエスティニアンは胸前で組み、穏やかな眼差しで改めて相棒を見下ろした。
「では俺が、来年のこの日にお前の誕生日を祝おう。さっきの酒で、グラスは三つ用意をしてな」
エスティニアンの申し出に冒険者は驚きの表情で振り向き、彼を見上げてから微かに笑みを浮かべた。
「ありがとう。その時にはオルシュファンにイイ報告ができるようにしなきゃ」
「無論だ。そのためにも、今日はもう休め」
「そうね。明日からは、今まで以上に忙しくなるんだから」
自ら明日の話を口にした相棒を見て、その強さを再認識したエスティニアンがニヤリと笑うと、彼女もそれに応えてニヤリと笑い返す。
その日。
満天の星の光だけが、明日に向かう二人の蒼の竜騎士の姿を照らしていた。
~ 完 ~
初出/2017年8月27日 pixiv&Privatter
『第22回FF14光の戦士NLお題企画』の『誕生日』参加作品
長く閉ざされていたイシュガルドの門戸が冒険者たちに向けて開かれてより相応の期間が経過をした現在では、それは特に珍しくはない光景だった。
店主のジブリオンはカウンターの中から他の客をあしらいつつ、付かず離れずの距離でその姿を見守っていたのだが、馴染みの客となっている彼女のいつもとは明らかに違う様子と、夕刻以降に出入りをした客の幾人かがその身から払い切れず店内へと持ち込んだ違和感から想定できる事柄を、いかにして円満に捌くべきだろうかということに、あれこれ思案を廻らせていた。
日々雑多な、しかしそれなりに精度の高い情報が常に店主の耳に入る酒場という環境に於いて、今日に限っては入ってくる情報が極端に少なく、しかもそれぞれに霞や煤がかかったような状態だ。
かかったのではない。かけられているのだ。
何か途方もないことが今日、起きたのだ。
そしてそれには、彼女が関わっている。
そう確信をしたジブリオンはグラスに水を注ぐと、それを次の一手の武器とした。
そして、カウンターの中で得られる決して多くはない情報をその胸の内に取り込んで土台を固め、長年酒場を切り盛りしてきたその経験をもってして、今日一番の……いや、彼の接客業人生に於いて屈指の難題に立ち向かうべく、意を決して彼女にグラスを差し出した。
「滅多に注文されない高い酒が飛ぶように売れるのは店としてはありがたいんだがな。一人で飲むにはさすがに過ぎた量だぞ。酒以外で何か注文はあるか?」
ジブリオンもかつては騎兵として戦場へとその身を投じ、現役を退いて以降は主に騎兵たちを相手に商売をしてきた。
この手の客を「明日に差し障る」などという言い方で諭してはならないことは、過去に幾度となく経験をして骨身に染み込んでいる。
明日を迎えられなくなった者が身近にいる。
今日の彼女は、それだ。
「もう頼んじゃ駄目ですか? 今日くらいは酔っぱらってみたいと思っていたんですけど、まだ全然酔えた感じがしないんですよ」
そう言ってジブリオンに苦笑をする彼女の傍らには、一本を除いて既に空となった大小のボトルが林立している。
「まだ? 冗談だろう? それだけ退治しておいて酔っていないだなんて」
「今日はとても冗談なんて言える気分じゃないんですけどね」
そう言いながら水の入れられたグラスを受け取る彼女の視線を見れば、確かに酔客特有の瞳の揺らぎは無い。
本当に酔いが廻っていないのか? と驚き訝しみながらもジブリオンは、それを表情に乗せることはせず、改めて彼女を見据えると言った。
「お前さんが極端に酒に強い体質なのかもしれんが、イシュガルドの酒もそれなりに強いんだ。酒と同じ量の水を飲むのが、酒との上手なつきあい方ってやつさ。覚えておきな」
「そういうものなんですね」
素直に応じて水を飲み下す姿を見てジブリオンは、彼女の冷静さが今日は欠片となっていたとしても心の片隅には残っているのだろうと判断をして胸を撫で下ろす。
「グリノー卿は……改めて見ても、やっぱりシルヴトレルとは似てなかったな。フラヴィアンの方はそっくりなのに……」
「シルヴトレル? フラヴィアン?」
元騎兵のジブリオンにとってそれらの名は、皇都防衛の要として雲廊に据えられた対竜バリスタのものとしての方が記憶に馴染んでいるので、彼女の呟きに首を傾げて応じる形となってしまった。
「……ああ、四大名家の父祖殿のことか」
「ええ。シルヴトレルは比較的色白だったから、その点でも全然似ていないな、って」
建国十二騎士の肌の色にまで言及をするとは、彼女はどこかで父祖たちの肖像画でも見たのだろうか。いや、そもそも、そこまでを正確に伝える歴史的な資料はあったのだろうか。
あるとすれば四大名家の当主が管理をしているものだろうが、そのようなものに目を触れさせて貰えるほどに彼女が、フォルタン家ならばともかくゼーメル家と懇意にしているという話など、ジブリオンは聞いたことがない。
「皆が皆、父祖殿に似るというわけではないんだろうよ。フォルタン家の御曹司たちが、そのいい例じゃないか?」
呟きに盛り込まれていたもう一人の側──フラヴィアンについても触れておいた方がよかろうかと判断をし、適宜軽口を混ぜたつもりで肩を竦めながらジブリオンが放った意見を受け止めた彼女の肩が一瞬震え、そこにかかる長い髪が揺れる。
これは下手を打ってしまったかと内心で頭を抱えながらジブリオンが次の一手を考え始めると、その目の前で彼女は微かに笑った。
「あの御二人は、確かに好対照ですよね。足して二で割ればちょうど良いのかもしれないけど、でも、それではつまらないわ」
そう言いながら再び水の入ったグラスを傾ける彼女の様子を見て、ジブリオンは再びその胸を撫で下ろした。
「うーん……。やっぱり、わからないな……」
グラスを置き、片肘をついて人差し指で中空に何かを描いているかのような動作をしながら溜め息混じりに呟いている彼女を見つつ、ジブリオンは脳裏に列挙した次の一手の候補の中から最適解を選り出す必要に迫られた。
わからないという言葉が一体、何を指すのか。
彼女が今日体験した事柄に関連している可能性が高いと思われる以上、不用意にその領域に踏み込むのは得策ではないだろう。
「もう一度聞いておくが、何か注文はあるか?」
結局、多少強引ではあるが、父祖たちの話題を引き摺るよりは良かろうと、ジブリオンは先刻提示をした質問へと遡る。
「お酒以外で、ですよね?」
「ああ、そうだ。お前さんは今やこの店の上得意だからな。酒以外なら大抵のものは出してやるさ」
ジブリオンは大袈裟に腕を組み顎を反らしながら口走り、冒険者を見おろしてニヤリと笑う。
その様子を見て彼女は再び微かに笑い、その目を伏せた。
「では……蒼の竜騎士を」
ジブリオンがその目を見開いてしまったことは、幸いにして彼女が目を伏せたままだったために気取られはしなかった。
彼女と蒼の竜騎士が仲間として日々立ち回っていることは、ジブリオンも当然知っている。
仲間ならば連絡用にリンクパールを携帯しているはずだ。
簡単に連絡がつけられるはずの人物をわざわざ第三者を介して呼び出すということは、同じリンクパールを持つ他の仲間には知られずに何か事を運びたいと考えているからに他ならない。
「……そいつは、裏メニューになるな。しかも時価だ。いくら掛かるかわからんぞ」
「構わないわ。お願いします」
言葉とともに視線を交わした二人は互いに口角を上げ、その後ジブリオンは神殿騎士団本部へと使いを出した。
「お前……こんな日にこんな時間まで出歩いているのか」
程なくして店に駆けつけたエスティニアンは寝入り端を起こされた形であったのか、ジブリオンの目にも馴染んだドラケンメイルではなく部屋着にコートを羽織った姿で、息こそ上がってはいないものの驚きと困惑の表情を浮かべながら彼女に呼び掛けた。
「出歩いてはいないわ。ずっとここに居たもの」
「屁理屈を抜かすな。寄宿先に居なければそれは出歩いていると言うんだ。伯爵に心配を掛けるだろう、とっとと館に戻れ」
「その伯爵に、夜半までには戻ると断って出て来たんだから構わないでしょう?」
「チッ……この分からず屋が!」
「あんたらなぁ、顔を合わせるなり喧嘩腰とはどういうことだ? ピークを過ぎちゃいるが、まだ他の客が居るんだ。これ以上ここで口論を続けるなら、すぐに出て行って貰うぞ?」
堪らずにジブリオンが二人の間に割って入ると、エスティニアンは髪をぐしゃぐしゃと掻き回しながら溜め息を吐き、一方の冒険者は椅子に座り直して姿勢を正し、ばつの悪そうな表情となって両手を膝の上に置く。
「ごめんなさい、ジブリオンさん。エスティニアン、来てくれてありがとう」
一転してしおらしく謝罪をし、礼を述べてきた彼女を見てエスティニアンは再び溜め息を吐くと言った。
「……まあいい。店に入るなり追い出されてはかなわんからな。そのボトルに残っている酒で構わん。俺にも一杯くらいは飲ませろ」
目ざとく酒を見つけてそう言うなり冒険者の隣に陣取ったエスティニアンの前にジブリオンは空のグラスを置き、次いで彼女へと視線を移し言った。
「ほらな、時価だろう?」
「ふふっ……そうね」
「何の話だ?」
冒険者の小脇から酒の残ったボトルを取り上げたジブリオンは、首を傾げるエスティニアンのグラスにその酒を注ぎながら応えた。
「なに、戯言さ。それよりも、残りものとはいえ、こいつは俺がこの店で初めて封を切った銘柄だぞ。心して味わってくれ」
その後暫しの間、ジブリオンの前で二人の蒼の竜騎士は何を語るでもなく、それぞれのグラスを傾けていた。
説教じみていたとはいえ、出会い頭のエスティニアンのあの饒舌ぶりはどこへ行ってしまったのやら。互いに押し黙ってしまった男女の前に立たされるなど、勝手知ったる自らの陣地に居るにも関わらず、ジブリオンには居心地の悪いことこの上ない。いかに商売上の流れとはいえ、これでは貧乏くじもいいところだ。
最初に「こんな日に」と言っていたことから、エスティニアンが今日の彼女の事情を把握しているのだろうとジブリオンは解釈をすることはできたのだが、それと同時にエスティニアンの身にも夕刻以降の客たちと同様の違和感がこびり付いていることを感じ取ってしまった以上、手元に残った食材で急遽拵えた一皿の肴を二人の前に差し出すことしかできなかった。
その肴にフォークが突き立てられて皿から立ったカチャリという小さな音が店内に響いた後、ジブリオンに向かってエスティニアンがようやく語り始めた。
「改めて見ても、呆れるしか無い有り様だな。それは全部こいつが始末したのか?」
「ああ、信じられんだろうがな。放っておけばもっと儲けられたとは思うが、さすがに良心が咎めたもんで、酒の注文だけはもう受け付けんと、さっき宣言をしておいたぞ」
「それは済まなかったな。行儀の悪い妹弟子が迷惑をかけた」
「うっ……」
エスティニアンの隣で冒険者が言葉を詰まらせたが、指摘された点に反論の余地を見出せなかったのか、それ以上の言葉が彼女の口から紡ぎ出されることはなかった。
「ほう……。お前さんたちが同門だったとは、これはまた意外な話だ」
「師匠が同じなだけだがな。俺が蒼の竜騎士に任じられた後、こいつがアドネール占星台で師に逢って弟子入りをしたのさ」
「なるほど。弟子から蒼の竜騎士を二人も輩出するとは、先代の蒼の竜騎士は指導者としても超一流なんだな」
ジブリオンはエスティニアンと語り合いながら水差しを掲げ、干されかかっていた冒険者のグラスを再び水で満たす。
相変わらず口を噤んだままグラスを傾け、喉に水を流し込むことでその頭を冷やしているように見受けられる冒険者の視線は、ジブリオンを通り越してその背後に向けられていた。
彼女が何かに注視していることをジブリオンは感じ取りはしていたが、同時に何かを思案している様子でもあったため、手元にある雑事に専念している風を装い、あえてそれには触れずにいた。
「ジブリオンさん」
偽装じみた片付け作業が終わってしまいそうなタイミングで、彼女から声が掛けられた。
「水は飽きてしまったか? 茶かジュースなら出せるぞ」
「……あれを、いただきたいのだけど」
若干の戸惑いを含み、ジブリオンの背後を指差しながら言った彼女の視線の先を検めると、そこには勿忘草色の光沢を帯びたリボンでネックに装飾を施された酒のボトルがあった。
「酒はもう終いだと、さっき言っただろう。忘れたのか?」
「いえ、今欲しいのはそのボトルに巻かれたリボンだけ。でも、リボンを外してしまったら商品価値はなくなってしまうでしょう? だから、ボトルごといただけますか?」
想定外の注文をつけられたジブリオンは、冒険者と酒瓶とを交互に見ながら困惑する。
二人のその様子を静観していたエスティニアンが、盛大に溜め息を吐くとジブリオンに言った。
「俺がその酒を買うのならば構わんだろう?」
「それはまあ、そうなんだが……」
「今日に限っては、こうでもしなければこいつを動かせそうにないもんでな。本体はそこに置いたままでいい。そのリボンを渡してやってくれ」
「ああ、わかった」
エスティニアンの注文を受けてジブリオンの手によりボトルから外された勿忘草色のリボンが、冒険者の手元へと渡る。
リボンを受け取った冒険者は胸元にそれを掻き抱くと、満足げな表情を見せてその目を伏せた。
「……ありがとう、エスティニアン、ジブリオンさん」
リボンを抱いたままの冒険者をエスティニアンとジブリオンは暫しの間見守っていたが、そのままでは事態が先には進まないと判断をしたエスティニアンが口を開いた。
「で? 俺を呼びつけたからには何か魂胆があるんだろう? 寒空の下で聞かされるなどまっぴら御免だぞ。今、ここで言え」
深夜に呼び出され、我がままばかりを言う後輩に手を焼いている状況とはいえ、そのあまりにデリカシーの無いエスティニアンの言い様に、ジブリオンは頭を抱えた。
相手は女だ。第三者……他の男に聞かれたくない話の場合もあるだろう。人目が気になるのならば宿の一室を使え、と、ジブリオンが二人に提案をしようとした矢先、冒険者があっさりと希望を口にした。
「夕方の場所まで、道案内をして欲しいの」
ジブリオンには何の変哲もない希望にしか聞こえなかったのだが、それを受け止めたエスティニアンの表情が瞬時に凍りついたことで、その望みが途方もないものであるのだと思い知らされた。
「いいだろう」
「ありがとう」
一瞬で話が纏まったらしい二人をジブリオンは呆然としながら見守っていたが、彼らの次の一手が決まった以上、ここは即座に送り出すことが最善と見て取った。
「ここでの雑多なことは全て後回しにして構わんぞ。行ってこい」
「恩に着る。行くぞ相棒」
立ち上がってそう言うなり足早に階段を上り始めたエスティニアンの後を追い、冒険者は階段を数段上ると振り返り、ジブリオンに向かって言った。
「ありがとう、ジブリオンさん。また来ます」
「おう、またな」
ジブリオンは手を振りながら冒険者に返事をし、その背を見送りながら、彼女の姿を明日以降も見られることを確信してその胸を撫で下ろした。
忘れられた騎士亭を後にした直後、二人の蒼の竜騎士の姿はラストヴィジルのエーテライト前にあった。
彼らはフォルタン邸とアインハルト邸を背にして立ち、正面にそびえ立つイシュガルド教皇庁の頂点を揃って見上げる。
「さて……と。中に入る必要が無いとはいえ、俺にとっては二度目の不法侵入だな」
「縦方向の道案内で頼りになる、その道の先輩がいて助かったわ」
「ハッ、抜かしやがる。最初から数回のうちは極力音を立てんように気をつけろ」
「了解」
国の命運がその肩にかかっている者たちのやり取りとはとても思えない内容の会話を二人の蒼の竜騎士は交わすと、教皇庁前の警備兵に気取られぬよう建物の側面へと回り込んでから、順にジャンプをした。
かくして二人の蒼の竜騎士は、教皇庁の屋上にある飛空艇発着場に一刻ほどぶりに立つこととなった。
皇都イシュガルドの、標高としても最高位にあるその場に佇む二人の姿を認めるものは、今は満天の星のみである。
既にそこは神殿騎士団の手により清められてはいたが、床一面に施された美しい幾何学模様が、この日の夕刻に惨劇の場と化した地点を正確に指し示す目印の役割を果たしていた。
エスティニアンは冒険者の斜め後ろに立ち、静かに足元を見下ろす相棒を見守っていた。
彼女を護りこの場で絶命したオルシュファン卿が彼女とどのような関係であったのかを、エスティニアンは正確に把握をしてはいない。
無論、彼らが互いに好意を持ち接していたことは身近で二人の様子を見て感じ取ってはいたが、二人の関係が彼女の蒼の竜騎士としての実力を削ぐ原因となるのでなければエスティニアンにとっては何の問題も無かったため、特に感知をしなかった、というのが、正直なところだ。
加えて、身近な人物を亡くした身近な女への接し方の心得も、エスティニアンは持ち合わせてはいなかった。
エスティニアンには母以外に身近な女が居たことなど今まで無く、その母についても既に遠い記憶の彼方の人であるのだから、その点は致し方ないとも言えるのだが。
冒険者から抱き付きでもされれば、黙って彼女の気が済むまで胸を貸す程度のことはできるのだろうが、自分から彼女に向けての行動にはどうにも行き着けず、結果、背後で彼女を見守ることしかできずにいた。
「エスティニアン」
「なんだ?」
「これで、髪を結んでほしいの」
冒険者は自らの肩越しにエスティニアンを見上げながら、先程手に入れた勿忘草色のリボンを差し出した。
リボンをエスティニアンが受け取ったことを見届けると、冒険者は前に向き直り、後ろ手で自らの背中を指し示す。
「このあたりで」
「わかった」
指し示された高さは肩甲骨のあたりであったため、髪を結うにしては中途半端な位置だと思いながらも、エスティニアンは相棒の髪を手に取ってリボンを数回巻き、結んでやった。
「これでいいか?」
そう言い、手許からするりと逃げてゆく相棒の髪の感触に、手入れの行き届いた髪の手触りはこれほどまでに違うものなのかとエスティニアンが感心をしていると、冒険者は結び目の位置を後ろ手で確認する。
「ありがとう」
冒険者は今度は向き直り、真正面からエスティニアンを見上げると礼を言った。
そして上から左手を背に回し、結び目の上を握り締める。
見ると彼女の右手には、いつの間にか抜き身のナイフがあった。
「おい! 何を!?」
エスティニアンが驚き叫んだのとほぼ同時に、冒険者は何のためらいもなく自らの首の後ろで鮮やかにナイフを一閃させ、その長い髪を断ち切った。
「今日を、私の誕生日にするわ」
「誕生日にする……だと?」
驚きの残る表情のままのエスティニアンに、冒険者はリボンで束ねられた自らの髪を見つめながら語り始めた。
「ええ。霊災前の記憶はまだ戻らないから、産みの母が命を賭けてこの世に送り出してくれた日付は思い出せないんだけど、今の私は、オルシュファンが命を賭けて送り出してくれた世界に生きているんだわ。だから今日が、新しい私の誕生日よ」
「なるほど……」
エスティニアンは辛うじてその一言だけを返し、彼女の手の中の髪を見つめた。
「ここでオルシュファンの手を握った時、髪も彼の手に触れていたの。だから私の身体のうちで手と髪が最後に彼と繋がっていて、そして切り離された……。そう棺の前で考えていたら、無性にこの髪を手向けたくなって。でも、今やったことをフォルタン家の方々の前でやるわけにはいかないでしょう?」
「確かにな。それで館を飛び出して、俺を呼びつけたって訳か」
冒険者はエスティニアンの言葉に頷くと、屈んで髪束をそっと足元に置いた。
「旅立った場所に預ければ、いずれ風が彼に届けてくれるだろうと思って」
そう静かに語りながら冒険者は立ち上がり、満天の星を見上げた。
彼女は、天に散りばめられた星々のいずれかをオルシュファン卿に見立てようとしているのだろうか。
そう思いながらエスティニアンは、冒険者の華奢な後ろ姿をただ見つめていた。
今しがたの、相棒独自のオルシュファン卿の死の受け止め方に圧倒されてしまっていたこともあるが、彼女に望まれて先程その髪に触れた以上に今日の彼女に触れてしまうことは、オルシュファン卿と彼女に対して無粋なのではないかと思ってしまっていたからだ。
そうして自ら行き場を封印した両腕をエスティニアンは胸前で組み、穏やかな眼差しで改めて相棒を見下ろした。
「では俺が、来年のこの日にお前の誕生日を祝おう。さっきの酒で、グラスは三つ用意をしてな」
エスティニアンの申し出に冒険者は驚きの表情で振り向き、彼を見上げてから微かに笑みを浮かべた。
「ありがとう。その時にはオルシュファンにイイ報告ができるようにしなきゃ」
「無論だ。そのためにも、今日はもう休め」
「そうね。明日からは、今まで以上に忙しくなるんだから」
自ら明日の話を口にした相棒を見て、その強さを再認識したエスティニアンがニヤリと笑うと、彼女もそれに応えてニヤリと笑い返す。
その日。
満天の星の光だけが、明日に向かう二人の蒼の竜騎士の姿を照らしていた。
~ 完 ~
初出/2017年8月27日 pixiv&Privatter
『第22回FF14光の戦士NLお題企画』の『誕生日』参加作品
1/2ページ