双竜の冒険
毎朝同じ時間に起床をし、同じ勤めのために出かけて日中を過ごし、日暮れをもって勤めを終える。
そんな日々を送るのは、ファーンデールで羊たちの世話をしていた時以来だ。
星戦士団の団員たちに戦闘技術を指南しながら、エスティニアンは自らの置かれた立場をそのように準えていた。
ヴリトラからの依頼で請け負った星戦士団への戦闘技術指南の内容を、エスティニアンはヴォイドからの帰還後、対妖異に特化した形へ転換させた。
それを、遠くない将来ヴリトラの留守を再び預かるのだという意気込みに満ち溢れた団員たちは、瞬く間にそれぞれの手中へと収めていった。
現在は新しい技術の習熟度を上げる段階へと移行し、各自が充実した時間を使っている形となっているのだろう。
戦いと戦いの谷間にある平穏ではあるが、その平穏の期間を現状ではこちらで管理できているという、なんとも奇妙な状況だ。
敵は、ヴォイドゲートを開かぬ限り襲来しない。
そのような状況であるがゆえ、そして次のヴォイド探索計画開始の時が決められていない状態でもあるために、星戦士団の日常は、脅威に備えひたすらに戦闘技術の練度を上げていながらも、実に穏やかなものだった。
抜けるような青空を見上げれば、太陽の運行は今しがた折り返し地点を僅かに過ぎたようだ。
そろそろナブディーンから休息の号令がかけられる頃合いだろうか。
そんな予想に反し、エスティニアンの耳に飛び込んできたのは。
「みなさーん! 交代でお弁当の時間にして下さーい!」
陣の全体に響き渡る、聞き慣れた女の声だった。
エスティニアンと冒険者は弁当箱を携えて大型天幕の上に登ると、海を見渡す形でそれぞれ腰を下ろした。
「お前は本当に、何にでも首を突っ込むんだな」
「ヒッポ便は立ち上げの時から関わっているから、時々様子を見に来ているの。私自身はそんなつもりは無いんだけど、相談役と呼ばれたりもしてるのよ」
「ふむ。それで今日は弁当配達の仕事を引き受けた、と」
「これは引き受けたんじゃなくて、無理を言って代わってもらったの。ちょうど沢山のお弁当をカートに積み込んでいるところを見かけて、話を聞いたら届け先がここだったから、私が自分のお弁当も持って配達をすれば、こうして貴方と一緒にランチタイムを過ごせるな、って。そんな思い付きでね」
今に至るまでの経緯を説明しながら屈託のない笑みを浮かべる冒険者を見て、エスティニアンもその目を細める。
「ふむ、悪くない思い付きだ」
「でしょ。思い付きついでに、お弁当の感想やメニューの希望があったら聞かせてもらえるかしら? ちょっとした意見でも、ヒッポ便の今後に活かせると思うの」
冒険者はエスティニアンに質問を投げかけると、自らの弁当箱に納まっているテロール・バラドの茹で卵をフォークで取り上げて頬張った。
「弁当に対する意見、か。そうだな……。このところ毎日世話になっているが、毎日違うメニューで、それが弁当箱を開くまでわからんのが面白いと思う。味については満足しているぞ」
「なるほどね。今日のメニューは、なんだかお酒が欲しくなってしまうわ」
「まったくだ。ここでこいつをアテにして冷やされた蒸留酒を呑めば、最高だろうに」
苦笑しながら話に応じるエスティニアンの横で冒険者は手帳を取り出すと、フォークをペンに持ち替えて彼の意見を書き記し始めた。
「ヒッポ便の拠点は厨房の片隅に飲食できる場所も拵えているから、たまにはそこへ呑みにいくのもいいんじゃない?」
「あいつら、荷運びだけでなく呑み屋も始めていたのか」
「うーん……。呑み屋というよりは、どの時間帯にも対応している軽食屋って感じかしら。メリードズメイハネやラストスタンドほど気取った雰囲気は無いから、ギガントガル採石場の石工さんたちが仕事帰りに立ち寄ったりもしているわ」
「ふむ。ならば、俺が鎧姿のままで行ったとしても、さして気に留められることは無いか」
エスティニアンのその口ぶりからは、不意に得た新しい飲食店の情報に対して一定以上の興味を抱いている風情を感じ取ることができた。
「そうね。でも席に日除けの傘はあっても屋根はないから、天気は気にした方がいいかも」
「確かに、サベネア島の雨の降り方は容赦がないからな。豪雨がクルザスの吹雪ほどに視界を遮るさまを最初に見たときは、言葉を失ったものだ」
「寒くはないという点が、吹雪と比べればマシかしら」
「ああ。豪快に濡れはするが、それで死ぬまでの事態にはならんからな」
肩を竦めながら語るエスティニアンの隣で手帳をいったん閉じた冒険者は、荷から二つのマグカップを取り出すと、次いで取り出した水筒から飲みものを注いで彼に差し出した。
「ヒッポ便でのお酒は後の楽しみに取っておいて、今はこれで」
「これは……水にレモンが入っているのか?」
受け取った飲みものを一口飲んで首を傾げ、二口目を口に含んでゆっくりと転がしてからエスティニアンは、自らの分としてマグカップに水を注いでいる最中の冒険者に質問をした。
「ご名答。冷やした水の中にレモンを一切れ入れているだけなんだけどね。この前メリードさんに教わったのよ。お酒が飲めないお客さん用の飲みもののひとつとして用意しているんですって。飲み過ぎて正体不明になったお客さんに「お酒のおかわり」として出すこともあるみたい。少し風味をつけるほかに、こうして暑い中で水を持ち歩いても傷まないようにする効果もあるのよ」
「ほう、面白いものだな」
レモン水の説明を終えてマグカップを傾けている冒険者にエスティニアンは視線を送りながら、微かにその口角を上げた。
「ちなみに、昨日のメニューは何だったの?」
「コメに様々な具材とスパイスが混ぜられた、ビリヤニという名の料理だ。具に細かな決まりごとは無いそうで、昨日はカニの肉が入っていたぞ。ハンサの肉が使われたものも食ったことがあるが、どちらも美味かったな」
「うわぁ……話を聞くだけで食べたくなっちゃう。昨日の材料は海のもので、今日は陸のものが使われているのね。もしかして、交互にしているのかしら」
「そこまで気にしてはいなかったが、そうであったのならば、毎日メニューが変わるのも道理だな。しかし……」
「しかし?」
一口大にちぎったフラットブレッドにバラドを擦り付けながら首を傾げる冒険者を見たエスティニアンは、直後に天を仰ぎ微かなため息を吐いてから話を続けた。
「ヒッポ便の弁当にイカが使われたことは、俺がここで昼飯を食うようになってからただの一度もないな。豊穣海ではイカが獲れるのだから、時々弁当に使われてもよかろうに、と。メニューの希望を問われて思い付くのは、そんなところか」
「貴方って、ほんとにイカが大好きなのね」
笑いをこぼしながら出された冒険者の返答を受け止めたエスティニアンの片眉が、なぜか僅かばかり上がった。
「クガネで初めてスルメを食ったときは、単にその味が俺の好みに合致しただけだったんだがな」
「えっ? その言い方だと、今は違うの?」
途端に目を丸くし問い返してきた冒険者を見て、エスティニアンは次にその口角を上げながら頷く。
「まあ聞け。ウルティマ・トゥーレへと旅立つ直前に、俺がアルフィノに捕まって屋敷で茶を飲まされただろう。あのとき、あいつの母親に好きな食べものは何かと問われ、咄嗟にスルメと答えたわけだ」
「うん、それで?」
「そのときは東方にそのような食べものがあるのだという説明だけで終わったんだが、その後アルフィノが母親に望まれて、スルメを取り寄せてみたんだと」
「アメリアンスさんが、あのお屋敷で、スルメを……」
ルヴェユール邸の厨房でスルメが炙られる図を脳裏に思い描いてしまったのか、冒険者はなんとも複雑な表情をエスティニアンの前で浮かべることとなった。
「彼女がスルメの味にどのような感想を抱いたのかは知らんが、アルフィノはスルメの栄養についても興味を持ってな。そのときに取り寄せたスルメの一部を栄養学の権威に預けて、詳しく調べて貰ったんだそうだ」
「なるほど……アルフィノらしいわね」
「だろう? で、その調査結果をアルフィノから手紙で、つい最近知らされたのさ」
続きを待ち焦がれる冒険者の前で、エスティニアンはレモン水を一口飲み下してから話を続けた。
「イカは、筋肉を維持するための栄養を豊富に含んでいるのだと」
「へえぇ……」
エスティニアンは、感嘆のため息をこぼした冒険者の側に向き直る。
「しかも、それだけで調査報告は終わらなくてな。同じ栄養は肉や魚、卵などからも得ることができるが、それらには脂も含まれていて、ともすれば肥る元にもなってしまうそうだ。その一方で、イカには脂が無い。つまりイカは、筋肉の維持は必須で肥ることは許されない竜騎士にとって、極めて理想的な食品である。それがアルフィノの寄こしてくれた、イカの栄養学的な情報だ」
アルフィノを経由したこととはいえ、エスティニアンの口から語られるなど到底想像することのできなかった学術的な話題をにわかに消化することのできなかった冒険者は、先ほど自らのフォークに突き刺したテロール・バラドの茹で卵を目の前にかざしながら、ようやく口を開いた。
「これは肥る原因になりかねない。イカだと、そんなことはない……。つまり貴方は、もともと好きな食べものが自分にとって最適だったと証明されたことで、より好むようになった、と」
「そういうことだ。報告はアルフィノが俺に宛てて書いたものゆえに竜騎士という言葉が含められていたのだろうが、筋肉の維持と肥満の回避が必要なのは、なにも竜騎士に限った話ではない。筋肉の維持に効果的な食材で作られた弁当が時々届けば、星戦士団の連中の身体づくりにもより役立つだろうと考えてみたのさ」
冒険者は眺めていた茹で卵を呆然とした表情のまま口に入れ、目を閉じてじっくりと吟味した後にようやく口を開いた。
「そんなにも深い考えがあったとは……。話の始めでは、単に好きな食べもののことを言ってきたんだと誤解しちゃってたわ」
そう言いながらゆっくりと目を開き、肩を竦めて自嘲した冒険者を見たエスティニアンも、彼女に遅れて苦笑をする。
「気にするな。今の話は、あくまでも偶然が重なった末の産物だ。如何に栄養的に優れた食いものだとしても、それが不味ければ俺は二度と口にせんぞ」
「ふふっ。賢人パンと賢人サンドイッチを考えた人とは、絶対に分かり合えないわね」
「ああ。あれがシャーレアンでは廃れていないという点は、いまだに信じられんな」
エスティニアンは茹で卵を挟んだフラットブレッドを自らの頬の横に掲げてからニヤリと笑い、それを口へと放り込んだ。
「貴方の意見はヒッポ便に伝えておくけれど、お弁当の日替わりメニューにイカを盛り込むことは、今は難しいと思うわ」
弁当を平らげて二杯目のレモン水をマグカップに注ぎながら、冒険者は語り始めた。
「それは何故だ?」
マグカップを受け取りながら首を傾げるエスティニアンを見て、冒険者は苦笑をする。
「サベネアンカラマリは警戒心が強くてすぐに逃げてしまうから熟練の漁師さんしか獲ることができなくて、ヒッポ便が作るお弁当の食材としては高すぎるのよ。メリードズメイハネで出されるカラマリ・リピエーニやカラマラキア・ティガニタは、どちらもけっこういい値段が付けられているでしょう?」
「……確かに。サベネアンカラマリそのものも、安いという印象は抱けないな」
「そう。高い値段をつけても料理を売ることができるお店が、サベネアンカラマリを仕入れるの。そしてヒッポ便のお弁当は毎日同じ、手ごろな値段で売っているから、そのとき安く仕入れられた食材を使って工夫をしているのよ」
「ふむ。弁当が毎日違うメニューになっているのには、そういう理由が」
エスティニアンの言葉に大きく頷いた冒険者は、話を続けた。
「多分、ね。だから、お弁当にイカを使うとしたら別の安い……例えば紅玉海のシロイカなら使えるかもしれないけど。でもヒッポ便が使っている食材は現状、サベネア島内で調達してるものばかりだから、一種類だけを東方から仕入れるってことは難しいと思うのよ。ヒッポ便がもっと有名になって、東アルデナード商会と安定した取り引きができるようになったりしたら、そのときはシロイカを仕入れてお弁当に使えるようになるかもしれないけれど」
「なるほど。となると、この近辺で別の……」
そこで言葉を途切れさせ、記憶を手繰るそぶりを見せ始めたエスティニアンをしばらく見つめていた冒険者は、再び彼の口が開かれるまで待つべく、自らのマグカップをゆっくりと傾けた。
「なあ相棒。この間ヴォイドゲートへと向かう道中で、何種類かの大きめな海洋生物に寄ってたかって襲われただろう。あの中に、胴がマナカッターの船体ほどの大きさのイカが含まれていたと思うんだが、覚えているか?」
エスティニアンから出された突飛な質問に驚いた冒険者もまた記憶を手繰ることを余儀なくされ、しばしの沈黙の後、彼女は目を見開いてからその口を開いた。
「……確かに居たわね。海底に入ってからの遺跡の中で、大きなタコやカニに混じって、イカも」
冒険者をの言葉に大きく頷いたエスティニアンは、話を続ける。
「あいつなら向こうから襲ってくるのだから、あの海域に赴きさえすれば探さずとも済む。そして苦もなく排除した俺たちならば、容易に狩ることができる」
「あのイカなら、一匹で沢山の食材にできる……」
結論を汲み取った形の返答を寄こした冒険者をエスティニアンは改めて見つめると、楽し気にその口角を上げた。
「これから試してみるか?」
「ええ! やってみましょう!」
かくして紅の竜騎士たちは、急遽その日の午後を豊穣海の大イカ探索に費やすこととした。
そんな日々を送るのは、ファーンデールで羊たちの世話をしていた時以来だ。
星戦士団の団員たちに戦闘技術を指南しながら、エスティニアンは自らの置かれた立場をそのように準えていた。
ヴリトラからの依頼で請け負った星戦士団への戦闘技術指南の内容を、エスティニアンはヴォイドからの帰還後、対妖異に特化した形へ転換させた。
それを、遠くない将来ヴリトラの留守を再び預かるのだという意気込みに満ち溢れた団員たちは、瞬く間にそれぞれの手中へと収めていった。
現在は新しい技術の習熟度を上げる段階へと移行し、各自が充実した時間を使っている形となっているのだろう。
戦いと戦いの谷間にある平穏ではあるが、その平穏の期間を現状ではこちらで管理できているという、なんとも奇妙な状況だ。
敵は、ヴォイドゲートを開かぬ限り襲来しない。
そのような状況であるがゆえ、そして次のヴォイド探索計画開始の時が決められていない状態でもあるために、星戦士団の日常は、脅威に備えひたすらに戦闘技術の練度を上げていながらも、実に穏やかなものだった。
抜けるような青空を見上げれば、太陽の運行は今しがた折り返し地点を僅かに過ぎたようだ。
そろそろナブディーンから休息の号令がかけられる頃合いだろうか。
そんな予想に反し、エスティニアンの耳に飛び込んできたのは。
「みなさーん! 交代でお弁当の時間にして下さーい!」
陣の全体に響き渡る、聞き慣れた女の声だった。
エスティニアンと冒険者は弁当箱を携えて大型天幕の上に登ると、海を見渡す形でそれぞれ腰を下ろした。
「お前は本当に、何にでも首を突っ込むんだな」
「ヒッポ便は立ち上げの時から関わっているから、時々様子を見に来ているの。私自身はそんなつもりは無いんだけど、相談役と呼ばれたりもしてるのよ」
「ふむ。それで今日は弁当配達の仕事を引き受けた、と」
「これは引き受けたんじゃなくて、無理を言って代わってもらったの。ちょうど沢山のお弁当をカートに積み込んでいるところを見かけて、話を聞いたら届け先がここだったから、私が自分のお弁当も持って配達をすれば、こうして貴方と一緒にランチタイムを過ごせるな、って。そんな思い付きでね」
今に至るまでの経緯を説明しながら屈託のない笑みを浮かべる冒険者を見て、エスティニアンもその目を細める。
「ふむ、悪くない思い付きだ」
「でしょ。思い付きついでに、お弁当の感想やメニューの希望があったら聞かせてもらえるかしら? ちょっとした意見でも、ヒッポ便の今後に活かせると思うの」
冒険者はエスティニアンに質問を投げかけると、自らの弁当箱に納まっているテロール・バラドの茹で卵をフォークで取り上げて頬張った。
「弁当に対する意見、か。そうだな……。このところ毎日世話になっているが、毎日違うメニューで、それが弁当箱を開くまでわからんのが面白いと思う。味については満足しているぞ」
「なるほどね。今日のメニューは、なんだかお酒が欲しくなってしまうわ」
「まったくだ。ここでこいつをアテにして冷やされた蒸留酒を呑めば、最高だろうに」
苦笑しながら話に応じるエスティニアンの横で冒険者は手帳を取り出すと、フォークをペンに持ち替えて彼の意見を書き記し始めた。
「ヒッポ便の拠点は厨房の片隅に飲食できる場所も拵えているから、たまにはそこへ呑みにいくのもいいんじゃない?」
「あいつら、荷運びだけでなく呑み屋も始めていたのか」
「うーん……。呑み屋というよりは、どの時間帯にも対応している軽食屋って感じかしら。メリードズメイハネやラストスタンドほど気取った雰囲気は無いから、ギガントガル採石場の石工さんたちが仕事帰りに立ち寄ったりもしているわ」
「ふむ。ならば、俺が鎧姿のままで行ったとしても、さして気に留められることは無いか」
エスティニアンのその口ぶりからは、不意に得た新しい飲食店の情報に対して一定以上の興味を抱いている風情を感じ取ることができた。
「そうね。でも席に日除けの傘はあっても屋根はないから、天気は気にした方がいいかも」
「確かに、サベネア島の雨の降り方は容赦がないからな。豪雨がクルザスの吹雪ほどに視界を遮るさまを最初に見たときは、言葉を失ったものだ」
「寒くはないという点が、吹雪と比べればマシかしら」
「ああ。豪快に濡れはするが、それで死ぬまでの事態にはならんからな」
肩を竦めながら語るエスティニアンの隣で手帳をいったん閉じた冒険者は、荷から二つのマグカップを取り出すと、次いで取り出した水筒から飲みものを注いで彼に差し出した。
「ヒッポ便でのお酒は後の楽しみに取っておいて、今はこれで」
「これは……水にレモンが入っているのか?」
受け取った飲みものを一口飲んで首を傾げ、二口目を口に含んでゆっくりと転がしてからエスティニアンは、自らの分としてマグカップに水を注いでいる最中の冒険者に質問をした。
「ご名答。冷やした水の中にレモンを一切れ入れているだけなんだけどね。この前メリードさんに教わったのよ。お酒が飲めないお客さん用の飲みもののひとつとして用意しているんですって。飲み過ぎて正体不明になったお客さんに「お酒のおかわり」として出すこともあるみたい。少し風味をつけるほかに、こうして暑い中で水を持ち歩いても傷まないようにする効果もあるのよ」
「ほう、面白いものだな」
レモン水の説明を終えてマグカップを傾けている冒険者にエスティニアンは視線を送りながら、微かにその口角を上げた。
「ちなみに、昨日のメニューは何だったの?」
「コメに様々な具材とスパイスが混ぜられた、ビリヤニという名の料理だ。具に細かな決まりごとは無いそうで、昨日はカニの肉が入っていたぞ。ハンサの肉が使われたものも食ったことがあるが、どちらも美味かったな」
「うわぁ……話を聞くだけで食べたくなっちゃう。昨日の材料は海のもので、今日は陸のものが使われているのね。もしかして、交互にしているのかしら」
「そこまで気にしてはいなかったが、そうであったのならば、毎日メニューが変わるのも道理だな。しかし……」
「しかし?」
一口大にちぎったフラットブレッドにバラドを擦り付けながら首を傾げる冒険者を見たエスティニアンは、直後に天を仰ぎ微かなため息を吐いてから話を続けた。
「ヒッポ便の弁当にイカが使われたことは、俺がここで昼飯を食うようになってからただの一度もないな。豊穣海ではイカが獲れるのだから、時々弁当に使われてもよかろうに、と。メニューの希望を問われて思い付くのは、そんなところか」
「貴方って、ほんとにイカが大好きなのね」
笑いをこぼしながら出された冒険者の返答を受け止めたエスティニアンの片眉が、なぜか僅かばかり上がった。
「クガネで初めてスルメを食ったときは、単にその味が俺の好みに合致しただけだったんだがな」
「えっ? その言い方だと、今は違うの?」
途端に目を丸くし問い返してきた冒険者を見て、エスティニアンは次にその口角を上げながら頷く。
「まあ聞け。ウルティマ・トゥーレへと旅立つ直前に、俺がアルフィノに捕まって屋敷で茶を飲まされただろう。あのとき、あいつの母親に好きな食べものは何かと問われ、咄嗟にスルメと答えたわけだ」
「うん、それで?」
「そのときは東方にそのような食べものがあるのだという説明だけで終わったんだが、その後アルフィノが母親に望まれて、スルメを取り寄せてみたんだと」
「アメリアンスさんが、あのお屋敷で、スルメを……」
ルヴェユール邸の厨房でスルメが炙られる図を脳裏に思い描いてしまったのか、冒険者はなんとも複雑な表情をエスティニアンの前で浮かべることとなった。
「彼女がスルメの味にどのような感想を抱いたのかは知らんが、アルフィノはスルメの栄養についても興味を持ってな。そのときに取り寄せたスルメの一部を栄養学の権威に預けて、詳しく調べて貰ったんだそうだ」
「なるほど……アルフィノらしいわね」
「だろう? で、その調査結果をアルフィノから手紙で、つい最近知らされたのさ」
続きを待ち焦がれる冒険者の前で、エスティニアンはレモン水を一口飲み下してから話を続けた。
「イカは、筋肉を維持するための栄養を豊富に含んでいるのだと」
「へえぇ……」
エスティニアンは、感嘆のため息をこぼした冒険者の側に向き直る。
「しかも、それだけで調査報告は終わらなくてな。同じ栄養は肉や魚、卵などからも得ることができるが、それらには脂も含まれていて、ともすれば肥る元にもなってしまうそうだ。その一方で、イカには脂が無い。つまりイカは、筋肉の維持は必須で肥ることは許されない竜騎士にとって、極めて理想的な食品である。それがアルフィノの寄こしてくれた、イカの栄養学的な情報だ」
アルフィノを経由したこととはいえ、エスティニアンの口から語られるなど到底想像することのできなかった学術的な話題をにわかに消化することのできなかった冒険者は、先ほど自らのフォークに突き刺したテロール・バラドの茹で卵を目の前にかざしながら、ようやく口を開いた。
「これは肥る原因になりかねない。イカだと、そんなことはない……。つまり貴方は、もともと好きな食べものが自分にとって最適だったと証明されたことで、より好むようになった、と」
「そういうことだ。報告はアルフィノが俺に宛てて書いたものゆえに竜騎士という言葉が含められていたのだろうが、筋肉の維持と肥満の回避が必要なのは、なにも竜騎士に限った話ではない。筋肉の維持に効果的な食材で作られた弁当が時々届けば、星戦士団の連中の身体づくりにもより役立つだろうと考えてみたのさ」
冒険者は眺めていた茹で卵を呆然とした表情のまま口に入れ、目を閉じてじっくりと吟味した後にようやく口を開いた。
「そんなにも深い考えがあったとは……。話の始めでは、単に好きな食べもののことを言ってきたんだと誤解しちゃってたわ」
そう言いながらゆっくりと目を開き、肩を竦めて自嘲した冒険者を見たエスティニアンも、彼女に遅れて苦笑をする。
「気にするな。今の話は、あくまでも偶然が重なった末の産物だ。如何に栄養的に優れた食いものだとしても、それが不味ければ俺は二度と口にせんぞ」
「ふふっ。賢人パンと賢人サンドイッチを考えた人とは、絶対に分かり合えないわね」
「ああ。あれがシャーレアンでは廃れていないという点は、いまだに信じられんな」
エスティニアンは茹で卵を挟んだフラットブレッドを自らの頬の横に掲げてからニヤリと笑い、それを口へと放り込んだ。
「貴方の意見はヒッポ便に伝えておくけれど、お弁当の日替わりメニューにイカを盛り込むことは、今は難しいと思うわ」
弁当を平らげて二杯目のレモン水をマグカップに注ぎながら、冒険者は語り始めた。
「それは何故だ?」
マグカップを受け取りながら首を傾げるエスティニアンを見て、冒険者は苦笑をする。
「サベネアンカラマリは警戒心が強くてすぐに逃げてしまうから熟練の漁師さんしか獲ることができなくて、ヒッポ便が作るお弁当の食材としては高すぎるのよ。メリードズメイハネで出されるカラマリ・リピエーニやカラマラキア・ティガニタは、どちらもけっこういい値段が付けられているでしょう?」
「……確かに。サベネアンカラマリそのものも、安いという印象は抱けないな」
「そう。高い値段をつけても料理を売ることができるお店が、サベネアンカラマリを仕入れるの。そしてヒッポ便のお弁当は毎日同じ、手ごろな値段で売っているから、そのとき安く仕入れられた食材を使って工夫をしているのよ」
「ふむ。弁当が毎日違うメニューになっているのには、そういう理由が」
エスティニアンの言葉に大きく頷いた冒険者は、話を続けた。
「多分、ね。だから、お弁当にイカを使うとしたら別の安い……例えば紅玉海のシロイカなら使えるかもしれないけど。でもヒッポ便が使っている食材は現状、サベネア島内で調達してるものばかりだから、一種類だけを東方から仕入れるってことは難しいと思うのよ。ヒッポ便がもっと有名になって、東アルデナード商会と安定した取り引きができるようになったりしたら、そのときはシロイカを仕入れてお弁当に使えるようになるかもしれないけれど」
「なるほど。となると、この近辺で別の……」
そこで言葉を途切れさせ、記憶を手繰るそぶりを見せ始めたエスティニアンをしばらく見つめていた冒険者は、再び彼の口が開かれるまで待つべく、自らのマグカップをゆっくりと傾けた。
「なあ相棒。この間ヴォイドゲートへと向かう道中で、何種類かの大きめな海洋生物に寄ってたかって襲われただろう。あの中に、胴がマナカッターの船体ほどの大きさのイカが含まれていたと思うんだが、覚えているか?」
エスティニアンから出された突飛な質問に驚いた冒険者もまた記憶を手繰ることを余儀なくされ、しばしの沈黙の後、彼女は目を見開いてからその口を開いた。
「……確かに居たわね。海底に入ってからの遺跡の中で、大きなタコやカニに混じって、イカも」
冒険者をの言葉に大きく頷いたエスティニアンは、話を続ける。
「あいつなら向こうから襲ってくるのだから、あの海域に赴きさえすれば探さずとも済む。そして苦もなく排除した俺たちならば、容易に狩ることができる」
「あのイカなら、一匹で沢山の食材にできる……」
結論を汲み取った形の返答を寄こした冒険者をエスティニアンは改めて見つめると、楽し気にその口角を上げた。
「これから試してみるか?」
「ええ! やってみましょう!」
かくして紅の竜騎士たちは、急遽その日の午後を豊穣海の大イカ探索に費やすこととした。
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