ピロートーク
部屋に差し込む月明かりが窓枠という筆を経て、シーツの海に沈む彼女の肌に柔らかな曲線で紋様を描いている。
建物の周囲に植えられた近東の樹木からは葉擦れが聞こえてくるが、風そのものは優しく、調度品に影響が及ぶほどではない。
今は凪いでいるシーツの海に冒険者が飛び込んだのは、二属時ほど前になるだろうか。
寝具が全てサベネアンシルクで整えられていることに驚き、楽し気に次々とそれらに触れては感触を確かめていた。
そんな彼女の様子は実にあどけなく、まるで観光地を訪れた町娘のようで。
瞬間の光景だけを切り取って彼女のことを知らぬ者に見せたならば、これが星を救った英雄の姿だとは誰も思わないだろう。
瀕死の状態で魔導船ラグナロクに奇跡の帰還を果たした者だとは、とても……。
ラザハンにあるメリードズメイハネで冒険者と何度目かの再会を果たしたエスティニアンは、彼女と共に飲食と街の散策という時を経て自らの逗留する宿へ至ったという半日の流れを振り返り、必要に迫られたとはいえあまりに通俗的なことをしたものだと苦笑をする。
その後の展開も同様に、至極通俗的で。
つまりは彼女の隣で同様にエスティニアンも、その肌でサベネアンシルクの感触を満喫し、そして月光を浴びていた。
いかにここが高温多湿な地域であっても、夜半の時間帯に汗を滲ませたままの素肌を曝し続けていては身体を冷やし過ぎてしまうだろう。
昂り猛った熱を存分に交し合ったとはいえ、今はこうして二人ともシーツの海に沈んでいるのだから。
意識を手放したまま横たわる冒険者の隣でそのように考えたエスティニアンは気怠い身体をゆっくりと起こし、足元側へと蹴り飛ばしていた大判のタオルケットを手繰り寄せて彼女の肌を覆うと、次いで自らもそれを被った。
──もしや、無理をさせてしまったのか?
タオルケットを被せたことに対して彼女が無反応であったため、エスティニアンの脳裏にはそのような懸念が湧きあがってしまった。
ヤ・シュトラのようにエーテルを視ることはできないが、冒険者から感じ取れる竜の魔力は先ほどから特に変わらず、普段その身に巡らせている状態と判断をすることができる。
そもそも彼女はリムサ・ロミンサで一筋縄ではいかぬ依頼をこなし、その報告をするために今回ラザハンを訪れたのだから。
となると、これはあくまでも許容できる範囲の内か?
ならば、この刺激はどうだろうか?
そのように考えて口角を上げ、今度は人差し指で脇腹をなぞってやると、彼女の身体は刺激から逃れるべく微かに跳ねた。
「ようやく気が付いたな……大丈夫か?」
「……いじわる」
冒険者はエスティニアンの側へと向き直り、彼を睨みつけてからクスクスと笑い始める。
「ハッ、言うに事欠いて意地悪ときたか。全く、心配のし損だ」
鼻で笑い、呆れた口調で応じたエスティニアンを見つめ直してきたその瞳からは、今しがたまで残っていたはずの艶が一瞬で取り払われていた。
その切り替えの早さを目の当たりにしたエスティニアンは、彼女の体調に憂慮の要なしという結論に至って密かに胸をなでおろす。
「心配されるほどに私、意識を飛ばしていた?」
「振り返れば少々長くはあったか。今日のお前の様子があまりに普通だったものだから、つい、この間宇宙の果てで死にかけた奴だったという点を失念してしまってな」
「で、冷静になってそれを思い直した、と」
冒険者の言葉にエスティニアンは頷き、話を続けた。
「そして俺自身の身体の件も、すっかり忘れてしまっていた。とはいえ、何の違和感もなく今こうしていられるのだから、この先も問題は無いと考えて差し支えないのだろう」
「そうね。残り半分の悩みとして貴方に言われた時、正直どうなっているのかしらと思ったのだけど……」
言葉を途切れさせた冒険者は右手をエスティニアンの左肩へと伸ばし、そっと触れる。
「この傷も、他のところの傷も、以前と全く変わっていないから。私としても違和感はなかったわ」
「身体の傷は、これまで関わってきた竜たちの生き様を俺が受け止めた証だからな。消されてしまっていたら、余計なことをするなとアゼムに苦情を突き付けていただろう」
「ふふっ。でも、どうやって?」
「窓口はお前だろうが」
笑いながら返事をしたエスティニアンは冒険者の頭に手を伸ばすと髪をぐしゃぐしゃとかき回し、次いで手櫛で梳きながらその手を滑らせて彼女の肩へと至らせた。
「悩みの残り半分が俺の身体についてだと言ったのは、ほぼ口実だ。お前があの時に負っていためちゃくちゃな傷が癒えているか否かを、この目でくまなく確かめてみたかったのさ」
言い終わるが早いかエスティニアンはタオルケットの端を掴んでめくり返し、検分をするかのように冒険者の素肌へと視線を走らせる。
「素人目ではあるが、改めて見ても気になるところは無いな。……安心した」
安堵の息を吐きながら目を伏せ、タオルケットを被せ直してきたエスティニアンを見て、冒険者は睨みつけられていないにも関わらず射すくめられたかのように、その身を縮こまらせた。
「……あの時は、随分と心配させちゃってたのね」
「当然だ。俺だけでなく皆が、一生分の心配をしただろうよ」
穏やかな口調で返された一言に冒険者が驚き見開いた目で改めて見つめたエスティニアンは、先ほどからに引き続き瞼を閉じたままでいる。
その限りなく重い言葉に対しての返答を冒険者が紡ぎ出す前に、エスティニアンの口が再び開かれた。
「俺はハイデリンとまみえるまで、神などというものは所詮、人が想像した結果の産物でしかないと考えていた。神頼みなど何の意味も無いものだ、と。しかし実際に対話をし、試練に皆で打ち克ったという事実を経て、俺たちの視点で神と位置付けるに足る存在は確かにあったのだと知ることができた。その途方もない能力もな。以降、お前に与えられた光の加護というものは、戦いでどんなに無茶をしても生き延びることができる護りだったのではなかろうかと……。そしてハイデリンが滅した後、加護の効果は果たしてどうなってしまったのだろうかと、漠然とではあるが考えていたのさ」
「光の加護……ね」
エスティニアンの述懐に対して、冒険者は苦笑をしながら応じる。
「エルピスで本人……ヴェーネスが私を視て確認してくれたのだけど、私たちが光の加護と呼んでいるものは、あらゆる状況でエーテルの変質を防ぐ魔法だそうなの」
「なんだと?」
驚きで目を開いたエスティニアンは、眉根を寄せると話を続けた。
「つまり、テンパード化を免れることができるという効果だけなのか?」
「ええ。過去視も含まれるのかと思っていたのだけど、それは古代人が持っている能力で、その片鱗が私たちの一部に現れているみたい。古代人は自分の意思で過去視を制御できるけど私たちにはそれができない。だけど、私たちはエーテルが薄くてデュナミスの影響を受けやすいから、デュナミスを感知できない古代人には不可能なことができる。それをヴェーネスに見られたから、ハイデリンはデュナミスを感知できる存在を作るべく、世界を分かつと決めたのかも。そして、過去視が出現した人を見つけては光の加護を与えていたんでしょうね、多分……」
「過去視の能力が発現した者たちに共通の体験をさせて、互いを結び付けるための足掛かりにした……と?」
「そうなのかな、って。私の場合は暁に、蛮神問題を解決するための切り札として勧誘されたから。アレンヴァルドは、おかしな夢を見たことを相談した人に暁を紹介されたと言っていたわ」
「イゼルはイシュガルドに生まれ暮らしていたが故に、光の加護を与えられはしたものの、お前のように暁と出会う機会には恵まれなかったと……」
エスティニアンの言葉に、冒険者は静かに頷いた。
生まれた場所や時代。
そのほんの少しの違いで、過去視や光の加護の情報共有ができず、その異能に悩まされただけの人も少なからず居たのだろう。
「あるいはイゼルの下に集った人たちの中に加護持ちが居たかもしれないけど、今となっては真相は闇の中……だわ」
「あいつの場合はお前と出逢えたことが救いになっているだろうさ。だからこそアバラシア雲海で俺たちの槍となってくれたのだからな。まさか星海の底で盾にまでなってくれるとは思わなかったが」
「ミンフィリアとイゼルの魂が人や蛮神の姿を顕せたのは、光の加護を与えられていた効果だったのかもしれないわね」
「彼女らの魂は星海の波に洗われてもエーテルが変質していなかった、ということか。確かに、想いの強さのみで考えるならば、道中でそれぞれの得物の姿となって顕れた者たちも引けを取らないだろうからな」
「そうよね。みんなには私、助けられてばかりだわ」
冒険者は寂しそうに笑うと、その目を伏せる。
「あれは、量産できた護魂の霊鱗を受けとる前だったかしら。ヴリトラに呼び止められて言われたの。私を中心に渦巻いている熱が、そばにいる人を燃やし尽くしてしまうことが恐ろしい、って。その時は単に、そばにいる燃やし尽くされた人というのは、オルシュファンやイゼルのように、私と関わって命を落としてしまった人のことを指してるんだと思ってた。でもウルティマ・トゥーレで、あの話は決して過去のことだけじゃないんだ、って痛感させられたわ。サンクレッドの時は誰も消えた瞬間を見なかったから、きっとどこかに居るはず、と不安な気持ちをごまかしていられたけど。目の前で貴方があんなにもあっさりと消えてしまったから、ヴリトラに言われたのはこういうことなんだ、って……」
伏せられたままの冒険者の目には、涙が溢れていた。
彼女の涙がシーツへとこぼれ落ちては吸い込まれてゆくさまを目の当たりにしたエスティニアンは沈痛な面持ちとなり、ウルティマ・トゥーレでの出来事についてを哲学者議会と各国の盟主に向けて提出するための報告書を作成するべく、暁の血盟の皆で最後に会議をした時のことを思い起こす。
冒険者が中心となっての状況説明が進むにつれ、常ならばあの手の事象についてを雄弁に語る筆頭であろうはずのヤ・シュトラとウリエンジェが、まず口をつぐんだ。
次にグ・ラハ・ティアが。
最後にアルフィノとアリゼーが、語ることを止めた。
そしてその後は冒険者の口からのみ、最果ての中心へと至るまでの経緯についての説明が淡々となされた。
つまりは語ることを止めた順に、サンクレッドとエスティニアンに続いて消えたのだ。
暁の仲間たちは、彼女の前から……。
「今まで私、沢山の人から数えきれないくらい同じことを言われてきたわ。あなたは希望の灯火なんだ、って」
紅い唇からか細い声で零れ出した訴えを真正面で受け止めたエスティニアンは、溢れ続ける涙を指の背で拭ってやり、目元に触れられたことで驚きようやく目を開いた彼女と暫しの間見つめ合う。
その状況に対してどう応じるべきかと、涙で潤んだ彼女の瞳に困惑の色が浮かび始めたその時、エスティニアンは何故か眉根を寄せると親指と中指で輪を作って直後に中指を弾き、冒険者の眉間に一撃を打ち込んだ。
「いっ……たぁ!」
想定外の返答が物理的にもたらされたことで驚き、眉間を掌で押さえ苦悶する冒険者に向けて、エスティニアンは意地の悪い笑みを浮かべてから口を開く。
「いつだったかに言っただろう? そんな言葉のためにお前は戦っているわけではないと。忘れたのか?」
その問いに驚いた冒険者は掌を外して頬を膨らませ、涙を湛えたままの目でエスティニアンを睨みつけた。
「覚えているわよ。そんな呼び方をするなと言ってくれた人は貴方が初めてだったから、とても嬉しくて。でも白状するとあの時はエドモン卿から盾を預けられたこともあって、オルシュファンなら私がこうすることを望んでいるはずだから……と思いながら前に進んでいたわ。空いてしまった大き過ぎる穴を埋めるには、それが手っ取り早かったのよね」
「……そうか」
仲間たちの前から二番手で消えてしまったエスティニアンに、ウルティマ・トゥーレで彼女が立て続けに被った喪失感を思い描くことはできない。
それに近いものとしてエスティニアンが思い描くことのできる彼女との共通体験は、教皇庁の氷天宮にある飛空艇発着場でオルシュファン卿を喪ってしまった惨劇だ。
「希望の灯火って、とても重たい言葉だけど、私をそう見ることで誰かが希望を持てるのなら、言われても別に構わないとも思ってた。そしてそれは、暁の仲間たちが私を支えてくれているからこそ……。だから希望の灯火というのは私だけじゃなくて暁全体のことなんだと、いつしかそう思うようになっていたわ。その漠然とした考え方が、ウルティマ・トゥーレで貴方が消えた時に、私の中ではっきりとした形になったの」
目の前で致命傷を負い落命してゆくオルシュファン卿を為す術もなく見守っていたあの時と同じような喪失感を、形こそ違えど彼女はウルティマ・トゥーレで喰らっていたのだ。
三度目からは、具体的に「こうなる」と理解した上で見守ることを、何度も、何度も。
あの最果ての地で、たった一人になるまで……。
なんという、強靭な精神力だろうか。
「……的外れな話になるかもしれんが、ひとつ教えておこう。ドラゴン族の時間感覚では、現在と過去の出来事はあまり区別されていない。いや、区別できていない、と言った方がいいのかもしれんな。それはひとえに長命であるがゆえのもので、彼らにとっては過去の出来事の寄せ集めが現在なのさ。つまりお前に向けてヴリトラが語ったことも、お前を見てお前だけについてを表現したものではない可能性があるだろう。それこそ何千年も前にヴリトラはアゼムの魂を宿していたヒトと出逢い、その生き様を見届けていたかもしれんのだからな」
「ドラゴン族には、そういう感覚が……。それって、貴方にしか分からないことよね」
冒険者は驚きとともに率直な感想を述べ、そして目尻に涙を残したまま微笑みを浮かべた。
「教えてくれてありがとう。あの時ヴリトラは兄さんや姉さんと言ってもいたから、ニーズヘッグやティアマットの悲劇に準えて話をしてくれたんだと解釈をしたんだけど、私以外にも同じような境遇に置かれた人が過去にいたのかもしれないって思っていれば、この先では少し気持ちに余裕ができそうだわ」
「あれほどの事態は、今後起こらんに越したことはないがな」
「ふふっ、それはそうなんだけど」
ようやく涙が治まったのか、冒険者は短く笑って応じながら目元を拭い、ゆっくりと息を吐いた。
「はっきりとした形というのはね、蝋燭なの」
「蝋燭?」
先ほどからの話題が再開された形ではあったのだが、エスティニアンにとっては思いもよらぬ平凡な物の名が出されたことで、彼は疑問符とともに小首を傾げる結果となった。
「暁は未来を照らす蝋燭。みんなは蝋で、その中心で火を抱え続ける芯の役目が私。蝋と芯のどちらが欠けても、火を灯し続けることはできないでしょう?」
「ふむ、確かにな」
「だから火を灯した芯の……私の周りが熱で溶けるのは当然のこと。でも、どんなに蝋が溶けたとしても、その中で芯が立ってさえいれば、火が消えることはない。だったら私は、何があっても倒れなければいいんだ、と。ヴリトラに言われたことを、貴方が消えた時からそう置き換えて考えるようにしたの。メーティオンがリア・ターラの入り口で言っていた、サンクレッドの身体は消し飛んだけどすぐそばにいる、って話も、この考え方の土台になったわね。たとえこの先でみんなが消えたとしても、すぐそばにいるんだから、希望の灯火は絶対に消えない。立って進み続けて、消してなどやるものか、って」
「メーティオンが言ったことを、あの場で既に信じていたのか……!」
軍属として長年を過ごしてきたエスティニアンにとって、敵対する存在からもたらされた情報を鵜呑みにするなど、あってはならないことだった。
しかもあの場は最前線で、これ以上は無いほどに緊迫の度合いが高かったというのに。
彼女に断言され、問い返しに頷かれてもなおエスティニアンは全く理解が及ばず、彼はその表情を愕然とさせたままで話の続きを待った。
「エルピスでメーティオンのひとりと出逢って交流をして、ヘルメスからは宇宙に送り出した彼女たちに課した調査のことと、調査をするために与えた能力についてを聞かされて……。調査の報告には正確さが求められるでしょう? つまり、メーティオンは真実しか言わないように創られているの。自我を与えられているがゆえに、辛い調査結果の報告をためらうことはあってもね。だからあのときメーティオンから言われたことは、信じたくもないことだったけど、信じるしかなかったのよ」
そう言いながら浮かべられた彼女の寂しげな微笑は、エルピスで共に過ごしたメーティオンに向けられたものなのか。
あるいは、リア・ターラでメーティオンからの言葉を真っ向から受け止めた自らに対しての労いを意味しているのだろうか。
「お前ってやつは……」
改めて冒険者を見つめたエスティニアンは、穏やかな笑みを浮かべると彼女の頭にそっと手をあてがった。
「やはり、めちゃくちゃなやり方で難題を乗り越えるんだな」
再び髪をかき回されるのかと思いきや、あてがわれた手がその場にとどまり続けたことで冒険者は小首を傾げ、エスティニアンの表情がいつ変化するのだろうかと考えながら見つめ返す。
笑みを浮かべたままでいるエスティニアンの掌の熱が髪をかき分けてゆっくりと進み、肌で感じ取れるようになった時、冒険者は意を決して口を開いた。
「もしかして私、褒められてる?」
「そのつもりだが」
外から聞こえてくる葉擦れのみが室内に満ち、微かな驚きの表情となった二人は互いにそれを保ったまま見つめ合う。
その何とも言えぬ静寂は、冒険者が軽く噴き出すことで破られた。
「適切な褒め方を心得ていない点は認めるが、なにも笑うことはないだろう? あのとてつもない状況で、俺には微塵ほどの考えも及ばん対処法をお前は編み出したんだからな。純粋に讃えるべきと思ったまでだ」
「……ありがとう」
掌の下で照れくさそうに浮かべられた微笑みと返礼の言葉を受け取ったエスティニアンは目を細めると、彼女の頭を数回撫でてから手を離した。
「確かに、対処法は皆それぞれだったものね。リア・ターラでもレムナントでも、貴方は真っ先にメーティオンへ攻撃を仕掛けたわけだし」
「あれが俺のやり方だからな。全く通用しなかったのは、バブイルの塔でファダニエルの結界に弾かれた時以来か」
「メーティオンの匙加減で普通の攻撃が通用しないこともあるんだってリア・ターラで分かったのだから、その点では成果を上げたと思うけどね」
「フッ、色々な意味で皮肉なものだ」
苦笑をしながら自らの頭を掻くエスティニアンを見た冒険者は、容赦なく笑う。
「でも、そうして様々な可能性を次々と出していくことこそをハイデリンは私たちに期待していたんだと思うから。きっと、それで良かったのよ」
「まあ、結果的にはな。しかしそれを言うのならば、お前が転移装置を起動させ手放した行動も含まれることになるぞ。あれに、いったいお前はどんな可能性を見いだしていた? 腹立たしいほどに晴れやかな顔をして何ごとかを口走っていたとアリゼーが言っていたから、俺たちを逃がすことが主たる目的ではなく……。お前のことだ、何か魂胆があってのことだったのだろう?」
エスティニアンに問われた途端、それまで笑っていた冒険者の目が見開かれる。
「図星か。この際だ、洗いざらい白状してもらおうか」
そう言い口角を上げるエスティニアンを冒険者は改めて暫しの間見つめると、目を閉じて覚悟を決めたかのように深呼吸をした。
「攻撃を仕掛けた貴方が真っ先に吹き飛ばされて、その後に皆も次々と吹き飛ばされてしまったでしょう。そして私だけになったとき、ひとつの可能性に気付いたの。大柄なウリエンジェさんまでもが地面から引き剥がされたのに私が飛ばされないのは変だな、って。そもそもウリエンジェさんと同じエレゼン族の貴方が飛ばされているわけだし、私は槍を地面に突き刺していたわけでもないしね。地面に剣を突き立てて支えにして私を庇ってくれたラハも、結局は耐え切れなくなって飛ばされてしまった……。それで、これはもしかしたら、メーティオンの意思で私が残されているのかもしれない、と思ったのよ」
「……ほう」
若干の悪戯心をきっかけとして彼女を問い詰めたエスティニアンの表情は、話の途中で無意識のうちに真顔となり、彼は聞き終えると同時に感嘆を帯びた一言をこぼした。
「あの時、貴方の頭の中にも届いたんじゃないかしら? メーティオンが「その人たちを傷つけちゃダメ」って叫ぶ声が」
「ああ、確かに必死の叫びが頭の中で響いていたな。しかし、言っていることと行動が矛盾しているだろう?」
「あの場に行くまでずっとメーティオンの話を聞きながらだったから、沢山のメーティオンが合体した大きな姿も、引き続いてメーティオンだと思うわよね。確かにそうではあるんだけど、必死に叫んでいた声の主は別の個体……一羽だけ本来の青い鳥の姿を取り戻していた、合体には加わらなかったメーティオンなのよ」
「青い……。もしや、ラグナロクにお前の帰還を予告しに来た、あいつか?」
「戦いの後に、船まで道を繋げると言って先に飛んで行ったから、多分、同じメーティオンだと思うわ」
驚きとともに自らが最後に遭遇したメーティオンについてを確認したエスティニアンは、表情をこわばらせたまま話の続きを待った。
「もう想像で話をすることしかできないけど、青いあの子は、エルピスで私と逢ったメーティオンそのものだと思うの。逢ってすぐに私のエーテルが薄いことを感じ取って仲間だと思ってくれて、仲良くしてほしいと言ってくれた……。そのあと、二人で暫くの間エルピスでお使いをして回ったのよ。そのことがメーティオンにとっては新鮮な出来事だったのかもしれないわ。それまであの子の周りはエーテルの濃い古代人ばかりで、自分と性質が似た別の存在と行動することは無かったはずだから」
「なるほど。その他愛もないことが、あいつにとっては楽しく嬉しい記憶になっていた、と。そしてお前は、主従関係でも意識を共有する姉妹たちでもない、唯一の存在として位置付けられたわけか」
「ええ。友だちと思ってもらえていたらいいな、って考えていたわ」
エスティニアンの解釈に冒険者は頷くと、話を続ける。
「エルピスであの子が姉妹たちからの絶望的な報告を受け取って苦しみ始めた時、私はその心の叫びを聞き取って一緒に苦しんでしまったの。彼女の心とデュナミスで繋がったらしくて。だからその時から、ほんの少しではあるけれどメーティオンの苦しみを直接知る唯一の存在にも、私はなっているのよね」
「それはまるで……俺とニーズヘッグのようだな」
ぽつりとこぼされたエスティニアンの呟きに、冒険者は驚きの表情となった。
「そうね、それが一番似ている気がする……。ニーズヘッグの苦悩は私も理解しているつもりだけど、それでも、貴方やファウネムから伝え聞いた形だものね。そうして受け取った内容はどうしてもぼやけてしまうから、貴方がニーズヘッグの心に直接触れて理解した状態には遠く及ばないわ」
冒険者は語りながら、寝室の片隅にある槍掛けに置かれた魔槍へと視線を送る。
超一流職人の手による最高級のラザハン工芸品だと一目で分かる槍掛けは、室内にある他の調度品とは明らかに調和が取れておらず、魔槍を置かずとも単体で既に異彩を放っている。
おそらくはエスティニアンを招くにあたって、ヴリトラが特別に指示を出してこの宿に届けさせたものなのだろう。
エスティニアンと共に星を救う一員となった「兄」を遇するためのものとして。
ウルティマ・トゥーレでエスティニアンがアル・エンドと……正確には生前の、今際の際のアル・エンドの魂を再現したメーティオンと対峙した時。
ニーズヘッグは槍に内包している魔力で、アーテリスに住まうドラゴン族たちの想いをエスティニアンと共に代弁していたのだろう。
ミドガルズオルムに竜星を離れる決断をさせるに至った全ての脅威が払われた今、この星の守護者たらんとしたニーズヘッグの魂は、どのような想いで見守ってくれているのだろうか。
「エルピスで、短かったけど楽しい時を私と過ごしたことと、絶望的な報告を受け取った時に私が一緒に苦しんだことは、彼女を通じて全てのメーティオンが共有しているはず。その上でもし「あえて私を残している」のなら、彼女が絶望に染まる直前に望んだことを私が目の前で叶えてみせれば、それを答えとして受け取ってもらえて、あの状況を切り抜けられるかもしれない。そう思って転移装置を使ったの」
「最後に何を望まれていたんだ?」
「みんなを護って、と」
あの場で皆を護るという答えをメーティオンに見せるためには、それが最速かつ確実な方法だったのだろう。
事実、暁の七人は転移されたことで護られたのだから。
──しかし。
「一人残ることで護ったという意思表示をするために、お前は転移装置を手放したのか?」
あの時点で全員がラグナロクに転移することは、たとえ体勢を立て直せたとしても単に問題を先送りとするに等しい。
それはメーティオンの逆鱗に触れる行為ともなっただろう。
「そうね。あとは、人払いの要望に応じた、って感じかしら」
「なんだと?」
疑問符と共に眉間に深い皺を刻んだエスティニアンの前で冒険者は微笑みながら、自らの頬の横に人差し指を立てて見せた。
「メーティオンが私以外を吹き飛ばしたのは、私だけに話をしたいのかもしれないと思って。ほら、相談をするときって、色々と事情が分かっている人を相手にして、できれば一対一がいいじゃない? それが、転移装置を手放した理由よ」
「まったく……」
途端に呆然となったエスティニアンの前で、冒険者は笑みを浮かべながらも肩を竦める。
「……あの状況で、まさかお悩み受付係をしていたとはな」
「メーティオンから話を聞けるようになるまでには、少し時間がかかったけどもね。そこは、アゼムのクリスタルに力を借りたわ。消えずに形が残っているということはすなわち、このクリスタルには役立つ場がまだあるということでしょう、ヴェーネス、エメトセルク? って」
全てを打ち明けたことで冒険者は晴れやかな表情を見せ、対するエスティニアンは呆れの上に安堵を重ねるという実に奇妙な表情を彼女の前で浮かべると、直後に身を捩って天井を仰ぎ、深々とため息をついた。
建物の周囲に植えられた近東の樹木からは葉擦れが聞こえてくるが、風そのものは優しく、調度品に影響が及ぶほどではない。
今は凪いでいるシーツの海に冒険者が飛び込んだのは、二属時ほど前になるだろうか。
寝具が全てサベネアンシルクで整えられていることに驚き、楽し気に次々とそれらに触れては感触を確かめていた。
そんな彼女の様子は実にあどけなく、まるで観光地を訪れた町娘のようで。
瞬間の光景だけを切り取って彼女のことを知らぬ者に見せたならば、これが星を救った英雄の姿だとは誰も思わないだろう。
瀕死の状態で魔導船ラグナロクに奇跡の帰還を果たした者だとは、とても……。
ラザハンにあるメリードズメイハネで冒険者と何度目かの再会を果たしたエスティニアンは、彼女と共に飲食と街の散策という時を経て自らの逗留する宿へ至ったという半日の流れを振り返り、必要に迫られたとはいえあまりに通俗的なことをしたものだと苦笑をする。
その後の展開も同様に、至極通俗的で。
つまりは彼女の隣で同様にエスティニアンも、その肌でサベネアンシルクの感触を満喫し、そして月光を浴びていた。
いかにここが高温多湿な地域であっても、夜半の時間帯に汗を滲ませたままの素肌を曝し続けていては身体を冷やし過ぎてしまうだろう。
昂り猛った熱を存分に交し合ったとはいえ、今はこうして二人ともシーツの海に沈んでいるのだから。
意識を手放したまま横たわる冒険者の隣でそのように考えたエスティニアンは気怠い身体をゆっくりと起こし、足元側へと蹴り飛ばしていた大判のタオルケットを手繰り寄せて彼女の肌を覆うと、次いで自らもそれを被った。
──もしや、無理をさせてしまったのか?
タオルケットを被せたことに対して彼女が無反応であったため、エスティニアンの脳裏にはそのような懸念が湧きあがってしまった。
ヤ・シュトラのようにエーテルを視ることはできないが、冒険者から感じ取れる竜の魔力は先ほどから特に変わらず、普段その身に巡らせている状態と判断をすることができる。
そもそも彼女はリムサ・ロミンサで一筋縄ではいかぬ依頼をこなし、その報告をするために今回ラザハンを訪れたのだから。
となると、これはあくまでも許容できる範囲の内か?
ならば、この刺激はどうだろうか?
そのように考えて口角を上げ、今度は人差し指で脇腹をなぞってやると、彼女の身体は刺激から逃れるべく微かに跳ねた。
「ようやく気が付いたな……大丈夫か?」
「……いじわる」
冒険者はエスティニアンの側へと向き直り、彼を睨みつけてからクスクスと笑い始める。
「ハッ、言うに事欠いて意地悪ときたか。全く、心配のし損だ」
鼻で笑い、呆れた口調で応じたエスティニアンを見つめ直してきたその瞳からは、今しがたまで残っていたはずの艶が一瞬で取り払われていた。
その切り替えの早さを目の当たりにしたエスティニアンは、彼女の体調に憂慮の要なしという結論に至って密かに胸をなでおろす。
「心配されるほどに私、意識を飛ばしていた?」
「振り返れば少々長くはあったか。今日のお前の様子があまりに普通だったものだから、つい、この間宇宙の果てで死にかけた奴だったという点を失念してしまってな」
「で、冷静になってそれを思い直した、と」
冒険者の言葉にエスティニアンは頷き、話を続けた。
「そして俺自身の身体の件も、すっかり忘れてしまっていた。とはいえ、何の違和感もなく今こうしていられるのだから、この先も問題は無いと考えて差し支えないのだろう」
「そうね。残り半分の悩みとして貴方に言われた時、正直どうなっているのかしらと思ったのだけど……」
言葉を途切れさせた冒険者は右手をエスティニアンの左肩へと伸ばし、そっと触れる。
「この傷も、他のところの傷も、以前と全く変わっていないから。私としても違和感はなかったわ」
「身体の傷は、これまで関わってきた竜たちの生き様を俺が受け止めた証だからな。消されてしまっていたら、余計なことをするなとアゼムに苦情を突き付けていただろう」
「ふふっ。でも、どうやって?」
「窓口はお前だろうが」
笑いながら返事をしたエスティニアンは冒険者の頭に手を伸ばすと髪をぐしゃぐしゃとかき回し、次いで手櫛で梳きながらその手を滑らせて彼女の肩へと至らせた。
「悩みの残り半分が俺の身体についてだと言ったのは、ほぼ口実だ。お前があの時に負っていためちゃくちゃな傷が癒えているか否かを、この目でくまなく確かめてみたかったのさ」
言い終わるが早いかエスティニアンはタオルケットの端を掴んでめくり返し、検分をするかのように冒険者の素肌へと視線を走らせる。
「素人目ではあるが、改めて見ても気になるところは無いな。……安心した」
安堵の息を吐きながら目を伏せ、タオルケットを被せ直してきたエスティニアンを見て、冒険者は睨みつけられていないにも関わらず射すくめられたかのように、その身を縮こまらせた。
「……あの時は、随分と心配させちゃってたのね」
「当然だ。俺だけでなく皆が、一生分の心配をしただろうよ」
穏やかな口調で返された一言に冒険者が驚き見開いた目で改めて見つめたエスティニアンは、先ほどからに引き続き瞼を閉じたままでいる。
その限りなく重い言葉に対しての返答を冒険者が紡ぎ出す前に、エスティニアンの口が再び開かれた。
「俺はハイデリンとまみえるまで、神などというものは所詮、人が想像した結果の産物でしかないと考えていた。神頼みなど何の意味も無いものだ、と。しかし実際に対話をし、試練に皆で打ち克ったという事実を経て、俺たちの視点で神と位置付けるに足る存在は確かにあったのだと知ることができた。その途方もない能力もな。以降、お前に与えられた光の加護というものは、戦いでどんなに無茶をしても生き延びることができる護りだったのではなかろうかと……。そしてハイデリンが滅した後、加護の効果は果たしてどうなってしまったのだろうかと、漠然とではあるが考えていたのさ」
「光の加護……ね」
エスティニアンの述懐に対して、冒険者は苦笑をしながら応じる。
「エルピスで本人……ヴェーネスが私を視て確認してくれたのだけど、私たちが光の加護と呼んでいるものは、あらゆる状況でエーテルの変質を防ぐ魔法だそうなの」
「なんだと?」
驚きで目を開いたエスティニアンは、眉根を寄せると話を続けた。
「つまり、テンパード化を免れることができるという効果だけなのか?」
「ええ。過去視も含まれるのかと思っていたのだけど、それは古代人が持っている能力で、その片鱗が私たちの一部に現れているみたい。古代人は自分の意思で過去視を制御できるけど私たちにはそれができない。だけど、私たちはエーテルが薄くてデュナミスの影響を受けやすいから、デュナミスを感知できない古代人には不可能なことができる。それをヴェーネスに見られたから、ハイデリンはデュナミスを感知できる存在を作るべく、世界を分かつと決めたのかも。そして、過去視が出現した人を見つけては光の加護を与えていたんでしょうね、多分……」
「過去視の能力が発現した者たちに共通の体験をさせて、互いを結び付けるための足掛かりにした……と?」
「そうなのかな、って。私の場合は暁に、蛮神問題を解決するための切り札として勧誘されたから。アレンヴァルドは、おかしな夢を見たことを相談した人に暁を紹介されたと言っていたわ」
「イゼルはイシュガルドに生まれ暮らしていたが故に、光の加護を与えられはしたものの、お前のように暁と出会う機会には恵まれなかったと……」
エスティニアンの言葉に、冒険者は静かに頷いた。
生まれた場所や時代。
そのほんの少しの違いで、過去視や光の加護の情報共有ができず、その異能に悩まされただけの人も少なからず居たのだろう。
「あるいはイゼルの下に集った人たちの中に加護持ちが居たかもしれないけど、今となっては真相は闇の中……だわ」
「あいつの場合はお前と出逢えたことが救いになっているだろうさ。だからこそアバラシア雲海で俺たちの槍となってくれたのだからな。まさか星海の底で盾にまでなってくれるとは思わなかったが」
「ミンフィリアとイゼルの魂が人や蛮神の姿を顕せたのは、光の加護を与えられていた効果だったのかもしれないわね」
「彼女らの魂は星海の波に洗われてもエーテルが変質していなかった、ということか。確かに、想いの強さのみで考えるならば、道中でそれぞれの得物の姿となって顕れた者たちも引けを取らないだろうからな」
「そうよね。みんなには私、助けられてばかりだわ」
冒険者は寂しそうに笑うと、その目を伏せる。
「あれは、量産できた護魂の霊鱗を受けとる前だったかしら。ヴリトラに呼び止められて言われたの。私を中心に渦巻いている熱が、そばにいる人を燃やし尽くしてしまうことが恐ろしい、って。その時は単に、そばにいる燃やし尽くされた人というのは、オルシュファンやイゼルのように、私と関わって命を落としてしまった人のことを指してるんだと思ってた。でもウルティマ・トゥーレで、あの話は決して過去のことだけじゃないんだ、って痛感させられたわ。サンクレッドの時は誰も消えた瞬間を見なかったから、きっとどこかに居るはず、と不安な気持ちをごまかしていられたけど。目の前で貴方があんなにもあっさりと消えてしまったから、ヴリトラに言われたのはこういうことなんだ、って……」
伏せられたままの冒険者の目には、涙が溢れていた。
彼女の涙がシーツへとこぼれ落ちては吸い込まれてゆくさまを目の当たりにしたエスティニアンは沈痛な面持ちとなり、ウルティマ・トゥーレでの出来事についてを哲学者議会と各国の盟主に向けて提出するための報告書を作成するべく、暁の血盟の皆で最後に会議をした時のことを思い起こす。
冒険者が中心となっての状況説明が進むにつれ、常ならばあの手の事象についてを雄弁に語る筆頭であろうはずのヤ・シュトラとウリエンジェが、まず口をつぐんだ。
次にグ・ラハ・ティアが。
最後にアルフィノとアリゼーが、語ることを止めた。
そしてその後は冒険者の口からのみ、最果ての中心へと至るまでの経緯についての説明が淡々となされた。
つまりは語ることを止めた順に、サンクレッドとエスティニアンに続いて消えたのだ。
暁の仲間たちは、彼女の前から……。
「今まで私、沢山の人から数えきれないくらい同じことを言われてきたわ。あなたは希望の灯火なんだ、って」
紅い唇からか細い声で零れ出した訴えを真正面で受け止めたエスティニアンは、溢れ続ける涙を指の背で拭ってやり、目元に触れられたことで驚きようやく目を開いた彼女と暫しの間見つめ合う。
その状況に対してどう応じるべきかと、涙で潤んだ彼女の瞳に困惑の色が浮かび始めたその時、エスティニアンは何故か眉根を寄せると親指と中指で輪を作って直後に中指を弾き、冒険者の眉間に一撃を打ち込んだ。
「いっ……たぁ!」
想定外の返答が物理的にもたらされたことで驚き、眉間を掌で押さえ苦悶する冒険者に向けて、エスティニアンは意地の悪い笑みを浮かべてから口を開く。
「いつだったかに言っただろう? そんな言葉のためにお前は戦っているわけではないと。忘れたのか?」
その問いに驚いた冒険者は掌を外して頬を膨らませ、涙を湛えたままの目でエスティニアンを睨みつけた。
「覚えているわよ。そんな呼び方をするなと言ってくれた人は貴方が初めてだったから、とても嬉しくて。でも白状するとあの時はエドモン卿から盾を預けられたこともあって、オルシュファンなら私がこうすることを望んでいるはずだから……と思いながら前に進んでいたわ。空いてしまった大き過ぎる穴を埋めるには、それが手っ取り早かったのよね」
「……そうか」
仲間たちの前から二番手で消えてしまったエスティニアンに、ウルティマ・トゥーレで彼女が立て続けに被った喪失感を思い描くことはできない。
それに近いものとしてエスティニアンが思い描くことのできる彼女との共通体験は、教皇庁の氷天宮にある飛空艇発着場でオルシュファン卿を喪ってしまった惨劇だ。
「希望の灯火って、とても重たい言葉だけど、私をそう見ることで誰かが希望を持てるのなら、言われても別に構わないとも思ってた。そしてそれは、暁の仲間たちが私を支えてくれているからこそ……。だから希望の灯火というのは私だけじゃなくて暁全体のことなんだと、いつしかそう思うようになっていたわ。その漠然とした考え方が、ウルティマ・トゥーレで貴方が消えた時に、私の中ではっきりとした形になったの」
目の前で致命傷を負い落命してゆくオルシュファン卿を為す術もなく見守っていたあの時と同じような喪失感を、形こそ違えど彼女はウルティマ・トゥーレで喰らっていたのだ。
三度目からは、具体的に「こうなる」と理解した上で見守ることを、何度も、何度も。
あの最果ての地で、たった一人になるまで……。
なんという、強靭な精神力だろうか。
「……的外れな話になるかもしれんが、ひとつ教えておこう。ドラゴン族の時間感覚では、現在と過去の出来事はあまり区別されていない。いや、区別できていない、と言った方がいいのかもしれんな。それはひとえに長命であるがゆえのもので、彼らにとっては過去の出来事の寄せ集めが現在なのさ。つまりお前に向けてヴリトラが語ったことも、お前を見てお前だけについてを表現したものではない可能性があるだろう。それこそ何千年も前にヴリトラはアゼムの魂を宿していたヒトと出逢い、その生き様を見届けていたかもしれんのだからな」
「ドラゴン族には、そういう感覚が……。それって、貴方にしか分からないことよね」
冒険者は驚きとともに率直な感想を述べ、そして目尻に涙を残したまま微笑みを浮かべた。
「教えてくれてありがとう。あの時ヴリトラは兄さんや姉さんと言ってもいたから、ニーズヘッグやティアマットの悲劇に準えて話をしてくれたんだと解釈をしたんだけど、私以外にも同じような境遇に置かれた人が過去にいたのかもしれないって思っていれば、この先では少し気持ちに余裕ができそうだわ」
「あれほどの事態は、今後起こらんに越したことはないがな」
「ふふっ、それはそうなんだけど」
ようやく涙が治まったのか、冒険者は短く笑って応じながら目元を拭い、ゆっくりと息を吐いた。
「はっきりとした形というのはね、蝋燭なの」
「蝋燭?」
先ほどからの話題が再開された形ではあったのだが、エスティニアンにとっては思いもよらぬ平凡な物の名が出されたことで、彼は疑問符とともに小首を傾げる結果となった。
「暁は未来を照らす蝋燭。みんなは蝋で、その中心で火を抱え続ける芯の役目が私。蝋と芯のどちらが欠けても、火を灯し続けることはできないでしょう?」
「ふむ、確かにな」
「だから火を灯した芯の……私の周りが熱で溶けるのは当然のこと。でも、どんなに蝋が溶けたとしても、その中で芯が立ってさえいれば、火が消えることはない。だったら私は、何があっても倒れなければいいんだ、と。ヴリトラに言われたことを、貴方が消えた時からそう置き換えて考えるようにしたの。メーティオンがリア・ターラの入り口で言っていた、サンクレッドの身体は消し飛んだけどすぐそばにいる、って話も、この考え方の土台になったわね。たとえこの先でみんなが消えたとしても、すぐそばにいるんだから、希望の灯火は絶対に消えない。立って進み続けて、消してなどやるものか、って」
「メーティオンが言ったことを、あの場で既に信じていたのか……!」
軍属として長年を過ごしてきたエスティニアンにとって、敵対する存在からもたらされた情報を鵜呑みにするなど、あってはならないことだった。
しかもあの場は最前線で、これ以上は無いほどに緊迫の度合いが高かったというのに。
彼女に断言され、問い返しに頷かれてもなおエスティニアンは全く理解が及ばず、彼はその表情を愕然とさせたままで話の続きを待った。
「エルピスでメーティオンのひとりと出逢って交流をして、ヘルメスからは宇宙に送り出した彼女たちに課した調査のことと、調査をするために与えた能力についてを聞かされて……。調査の報告には正確さが求められるでしょう? つまり、メーティオンは真実しか言わないように創られているの。自我を与えられているがゆえに、辛い調査結果の報告をためらうことはあってもね。だからあのときメーティオンから言われたことは、信じたくもないことだったけど、信じるしかなかったのよ」
そう言いながら浮かべられた彼女の寂しげな微笑は、エルピスで共に過ごしたメーティオンに向けられたものなのか。
あるいは、リア・ターラでメーティオンからの言葉を真っ向から受け止めた自らに対しての労いを意味しているのだろうか。
「お前ってやつは……」
改めて冒険者を見つめたエスティニアンは、穏やかな笑みを浮かべると彼女の頭にそっと手をあてがった。
「やはり、めちゃくちゃなやり方で難題を乗り越えるんだな」
再び髪をかき回されるのかと思いきや、あてがわれた手がその場にとどまり続けたことで冒険者は小首を傾げ、エスティニアンの表情がいつ変化するのだろうかと考えながら見つめ返す。
笑みを浮かべたままでいるエスティニアンの掌の熱が髪をかき分けてゆっくりと進み、肌で感じ取れるようになった時、冒険者は意を決して口を開いた。
「もしかして私、褒められてる?」
「そのつもりだが」
外から聞こえてくる葉擦れのみが室内に満ち、微かな驚きの表情となった二人は互いにそれを保ったまま見つめ合う。
その何とも言えぬ静寂は、冒険者が軽く噴き出すことで破られた。
「適切な褒め方を心得ていない点は認めるが、なにも笑うことはないだろう? あのとてつもない状況で、俺には微塵ほどの考えも及ばん対処法をお前は編み出したんだからな。純粋に讃えるべきと思ったまでだ」
「……ありがとう」
掌の下で照れくさそうに浮かべられた微笑みと返礼の言葉を受け取ったエスティニアンは目を細めると、彼女の頭を数回撫でてから手を離した。
「確かに、対処法は皆それぞれだったものね。リア・ターラでもレムナントでも、貴方は真っ先にメーティオンへ攻撃を仕掛けたわけだし」
「あれが俺のやり方だからな。全く通用しなかったのは、バブイルの塔でファダニエルの結界に弾かれた時以来か」
「メーティオンの匙加減で普通の攻撃が通用しないこともあるんだってリア・ターラで分かったのだから、その点では成果を上げたと思うけどね」
「フッ、色々な意味で皮肉なものだ」
苦笑をしながら自らの頭を掻くエスティニアンを見た冒険者は、容赦なく笑う。
「でも、そうして様々な可能性を次々と出していくことこそをハイデリンは私たちに期待していたんだと思うから。きっと、それで良かったのよ」
「まあ、結果的にはな。しかしそれを言うのならば、お前が転移装置を起動させ手放した行動も含まれることになるぞ。あれに、いったいお前はどんな可能性を見いだしていた? 腹立たしいほどに晴れやかな顔をして何ごとかを口走っていたとアリゼーが言っていたから、俺たちを逃がすことが主たる目的ではなく……。お前のことだ、何か魂胆があってのことだったのだろう?」
エスティニアンに問われた途端、それまで笑っていた冒険者の目が見開かれる。
「図星か。この際だ、洗いざらい白状してもらおうか」
そう言い口角を上げるエスティニアンを冒険者は改めて暫しの間見つめると、目を閉じて覚悟を決めたかのように深呼吸をした。
「攻撃を仕掛けた貴方が真っ先に吹き飛ばされて、その後に皆も次々と吹き飛ばされてしまったでしょう。そして私だけになったとき、ひとつの可能性に気付いたの。大柄なウリエンジェさんまでもが地面から引き剥がされたのに私が飛ばされないのは変だな、って。そもそもウリエンジェさんと同じエレゼン族の貴方が飛ばされているわけだし、私は槍を地面に突き刺していたわけでもないしね。地面に剣を突き立てて支えにして私を庇ってくれたラハも、結局は耐え切れなくなって飛ばされてしまった……。それで、これはもしかしたら、メーティオンの意思で私が残されているのかもしれない、と思ったのよ」
「……ほう」
若干の悪戯心をきっかけとして彼女を問い詰めたエスティニアンの表情は、話の途中で無意識のうちに真顔となり、彼は聞き終えると同時に感嘆を帯びた一言をこぼした。
「あの時、貴方の頭の中にも届いたんじゃないかしら? メーティオンが「その人たちを傷つけちゃダメ」って叫ぶ声が」
「ああ、確かに必死の叫びが頭の中で響いていたな。しかし、言っていることと行動が矛盾しているだろう?」
「あの場に行くまでずっとメーティオンの話を聞きながらだったから、沢山のメーティオンが合体した大きな姿も、引き続いてメーティオンだと思うわよね。確かにそうではあるんだけど、必死に叫んでいた声の主は別の個体……一羽だけ本来の青い鳥の姿を取り戻していた、合体には加わらなかったメーティオンなのよ」
「青い……。もしや、ラグナロクにお前の帰還を予告しに来た、あいつか?」
「戦いの後に、船まで道を繋げると言って先に飛んで行ったから、多分、同じメーティオンだと思うわ」
驚きとともに自らが最後に遭遇したメーティオンについてを確認したエスティニアンは、表情をこわばらせたまま話の続きを待った。
「もう想像で話をすることしかできないけど、青いあの子は、エルピスで私と逢ったメーティオンそのものだと思うの。逢ってすぐに私のエーテルが薄いことを感じ取って仲間だと思ってくれて、仲良くしてほしいと言ってくれた……。そのあと、二人で暫くの間エルピスでお使いをして回ったのよ。そのことがメーティオンにとっては新鮮な出来事だったのかもしれないわ。それまであの子の周りはエーテルの濃い古代人ばかりで、自分と性質が似た別の存在と行動することは無かったはずだから」
「なるほど。その他愛もないことが、あいつにとっては楽しく嬉しい記憶になっていた、と。そしてお前は、主従関係でも意識を共有する姉妹たちでもない、唯一の存在として位置付けられたわけか」
「ええ。友だちと思ってもらえていたらいいな、って考えていたわ」
エスティニアンの解釈に冒険者は頷くと、話を続ける。
「エルピスであの子が姉妹たちからの絶望的な報告を受け取って苦しみ始めた時、私はその心の叫びを聞き取って一緒に苦しんでしまったの。彼女の心とデュナミスで繋がったらしくて。だからその時から、ほんの少しではあるけれどメーティオンの苦しみを直接知る唯一の存在にも、私はなっているのよね」
「それはまるで……俺とニーズヘッグのようだな」
ぽつりとこぼされたエスティニアンの呟きに、冒険者は驚きの表情となった。
「そうね、それが一番似ている気がする……。ニーズヘッグの苦悩は私も理解しているつもりだけど、それでも、貴方やファウネムから伝え聞いた形だものね。そうして受け取った内容はどうしてもぼやけてしまうから、貴方がニーズヘッグの心に直接触れて理解した状態には遠く及ばないわ」
冒険者は語りながら、寝室の片隅にある槍掛けに置かれた魔槍へと視線を送る。
超一流職人の手による最高級のラザハン工芸品だと一目で分かる槍掛けは、室内にある他の調度品とは明らかに調和が取れておらず、魔槍を置かずとも単体で既に異彩を放っている。
おそらくはエスティニアンを招くにあたって、ヴリトラが特別に指示を出してこの宿に届けさせたものなのだろう。
エスティニアンと共に星を救う一員となった「兄」を遇するためのものとして。
ウルティマ・トゥーレでエスティニアンがアル・エンドと……正確には生前の、今際の際のアル・エンドの魂を再現したメーティオンと対峙した時。
ニーズヘッグは槍に内包している魔力で、アーテリスに住まうドラゴン族たちの想いをエスティニアンと共に代弁していたのだろう。
ミドガルズオルムに竜星を離れる決断をさせるに至った全ての脅威が払われた今、この星の守護者たらんとしたニーズヘッグの魂は、どのような想いで見守ってくれているのだろうか。
「エルピスで、短かったけど楽しい時を私と過ごしたことと、絶望的な報告を受け取った時に私が一緒に苦しんだことは、彼女を通じて全てのメーティオンが共有しているはず。その上でもし「あえて私を残している」のなら、彼女が絶望に染まる直前に望んだことを私が目の前で叶えてみせれば、それを答えとして受け取ってもらえて、あの状況を切り抜けられるかもしれない。そう思って転移装置を使ったの」
「最後に何を望まれていたんだ?」
「みんなを護って、と」
あの場で皆を護るという答えをメーティオンに見せるためには、それが最速かつ確実な方法だったのだろう。
事実、暁の七人は転移されたことで護られたのだから。
──しかし。
「一人残ることで護ったという意思表示をするために、お前は転移装置を手放したのか?」
あの時点で全員がラグナロクに転移することは、たとえ体勢を立て直せたとしても単に問題を先送りとするに等しい。
それはメーティオンの逆鱗に触れる行為ともなっただろう。
「そうね。あとは、人払いの要望に応じた、って感じかしら」
「なんだと?」
疑問符と共に眉間に深い皺を刻んだエスティニアンの前で冒険者は微笑みながら、自らの頬の横に人差し指を立てて見せた。
「メーティオンが私以外を吹き飛ばしたのは、私だけに話をしたいのかもしれないと思って。ほら、相談をするときって、色々と事情が分かっている人を相手にして、できれば一対一がいいじゃない? それが、転移装置を手放した理由よ」
「まったく……」
途端に呆然となったエスティニアンの前で、冒険者は笑みを浮かべながらも肩を竦める。
「……あの状況で、まさかお悩み受付係をしていたとはな」
「メーティオンから話を聞けるようになるまでには、少し時間がかかったけどもね。そこは、アゼムのクリスタルに力を借りたわ。消えずに形が残っているということはすなわち、このクリスタルには役立つ場がまだあるということでしょう、ヴェーネス、エメトセルク? って」
全てを打ち明けたことで冒険者は晴れやかな表情を見せ、対するエスティニアンは呆れの上に安堵を重ねるという実に奇妙な表情を彼女の前で浮かべると、直後に身を捩って天井を仰ぎ、深々とため息をついた。
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