酒とスルメと男と女
階下から扉の開く音が聞こえ、次いで凍て付く外気が微かに店内へと忍び込む。
その扉が閉まる音に引き続き耳に入ってきたのは、ゆっくりと階段を上がってくる足音が一人分。
この時間帯に下から客が入るとは。
しかも下に留まらずこちらに上って来るとは、珍しい。
忘れられた騎士亭のマスター・ジブリオンはそのようなことを考え、足音の主を迎えるべく、カウンターの中から階下に繋がる階段の側へ視線をちらりと送る。
程なくして見慣れぬ赤黒い槍の穂先が。
次いで、雪のような白さの頭髪が、ジブリオンの目に飛び込んできた。
「久し振りだな」
客の男はジブリオンと同じ床に立ち、歩み寄りながらシンプルな再会の挨拶をよこす。
「いらっしゃい。誰かと思えば、お前さんか。今日は一人で?」
客の姿を認めた時点でジブリオンは正体を把握できていたが、彼が階下の入口から入店をしてきたことからその思惑を推測し、あえて名を呼ぶことはせずに応対をした。
客の男──元・蒼の竜騎士エスティニアンはおそらく、神殿騎士団本部の前を通ることを避けて入店を果たしたかったのだ、と。
「いや、じきに相棒が来る。なので、とりあえずはエールを一杯くれ」
「彼女が。……ああ、そうか。今日はあの日だったな」
ジブリオンが何事かを確認できた旨の一言を口にしながらエールで満たしたジョッキをひとつカウンターに置くと、エスティニアンはその前に座りエールを一口飲んでから応じた。
「そういうことだ。話が早くて助かる。ところで、肴を持ち込んでも構わんか?」
エスティニアンはそう言い鞄の中から一抱えの紙包みを取り出し、カウンターの上へと置く。
「それは?」
「東方の土産だ」
「ほう。ひとつ条件がある」
「条件だと?」
「まず、俺に食わせろ」
ククッ、と、堪えきれなかった笑いがエスティニアンの口端から零れ落ちる。
「何がおかしい?」
「いや、その言葉に二言はなかろうなと思ったのさ」
「二言などあるものか。店の中で食う物には俺が全責任を負うんだ。試食するのは当然のことだろう」
ジョッキを傾けながら未だ底意地の悪い薄笑いを浮かべているエスティニアンを見おろしながら首をかしげ、包みを開き中を検めた瞬間、ジブリオンは盛大に後悔した。
──なんなんだ、これは?
エスティニアンが肴と称して差し出してきた以上、目の前の代物が食品であることは確実なのだが、しかし。
手のひら程の面積の、しかし手のひらよりはかなり薄く干からびた茶色い袋状の物体に、これまた干からびた紐状の物体が納められており、一部がはみ出しているのだろうか。
十本ほどとなる紐状の部分を注視すれば、その表面の一部には小さな突起が規則的に並んでいる。
そんな形状のものがいくつも、見た感じ8イルムほどの高さに積み上げられている。
数は十枚ほどになるのだろうか。
控え目に言ってみても、気味が悪いことこの上ない。
──これを食う? どうやって?
「あっ、スルメだ!」
客の要望を受けて業務上試食をしなければならないが、異物としか解釈できない目の前の代物を口に運ぶことを本能が完全に拒絶しているという二律背反の状態で固まっていたジブリオンに、頭上から女の声が浴びせられた。
──助かった。
いや、助かったわけではないが、この不気味な物体の試食というかつてない試練の開始に、僅かばかりの猶予が与えられた。
そう思いジブリオンは安堵の息を吐いてから頭上を仰ぎ、声の主の姿を確認する。
視線の先では一人の女が、上の入口のフロアから身を乗り出しカウンターの上を伺っていた。
「よう、いらっしゃい。兄弟子殿がお待ちかねだぞ」
思考の混乱が続きながらも咄嗟に別の代名詞でエスティニアンを名指しし、訪れた客に応対をする姿は、長年に渡って様々な酔客をあしらうという激戦をくぐり抜けてきた酒場の店主ならではといえよう。
そんなジブリオンに向けて階段を下りながら会釈をして、イシュガルドの英雄・光の戦士が、その相棒たるエスティニアンの隣の座席に納まった。
「二人でスルメを睨みつけているだなんて、どうしたの?」
「土産をここで肴にしていいかと聞いたら、店内で食わせるものは、まずマスターが試食をせねばならんのだと。それで待っているわけさ」
「なるほどね。でも」
冒険者はそこで言葉を切り、ジブリオンに向き直って話を続けた。
「初めて見るものだからどうやって食べればいいのか迷っているんじゃ? ジブリオンさん?」
「あ、ああ。その前に聞きたいんだが、スルメと言ったか? 一体これは何なんだ? 見た感じ、干された葉物野菜か?」
食品を扱う仕事を長年しているがゆえについ出てしまった、このジブリオンの素朴な疑問は、結果として彼自身を更に追い詰めるものとなった。
「これはイカという、海に棲む軟体動物を干したものなんですよ」
「軟体……動物……?」
途端に表情を引き攣らせたジブリオンの前で、一方のエスティニアンはといえば、彼はその首を傾げる。
「俺はイカが海の生き物なのだとは聞いたが、スルメの状態でしか見たことがない。軟体動物と言われても、生きた姿がどんなものなのか想像できんな」
「イシュガルドは山国だから海のものと縁遠いわけだし、イメージできないのは当然よね」
冒険者は肩をすくめて苦笑をすると、目の前のスルメを指差しながら説明を始めた。
「この部分が頭で、こっちの袋状の側は胴体。胴体のてっぺんにある翼みたいな形の部分がヒレで、泳ぐときにこれを使って舵取りをするの。泳ぎの推進力自体は、口から水を吐き出すことで得ているわ。こちらは足で、そのうちの長い二本は触腕。足と触腕に付いているのは吸盤で、足や腕を獲物に巻き付けて、更に吸盤で固定して逃がさないようにするのよ。特殊な攻撃としては、墨を吐いて浴びせかけてくることもあるわ」
エレゼンの男性二人は、冒険者がイカの生態についての説明をする様子を固唾を飲んで見守っていたが、中でもジブリオンの引き攣った表情は、話が進むにつれて絶体絶命の状況に追い込まれた騎兵のそれへと変化していった。
できることならば全速力でこの場から逃げ出したいが、騎兵時代に脚を負傷し全速力で走ることができない身では、それも叶わない。
いや。
たとえ負傷前のように走ることができたとしても、蒼の竜騎士として名を轟かせた目の前の二人から逃げおおせることなど、万にひとつもあり得ないのだが。
「……小さなだけで、コイツはモンスターなんだな」
やっとのことでイカの説明に対する率直な感想を述べ、これで最低限の接客応対はできたと思いながらため息を吐いたジブリオンに、冒険者の次の発言は更に追い討ちをかけることとなる。
「そうそう、この姿で大きなモンスターもいるんですよ」
「いるのか!」
純粋に驚き、声をあげたエスティニアンを見て冒険者は頷くと話を続けた。
「その大きいイカはクラーケンと呼ばれていて、船乗りに恐れられている存在なの。私はサスタシャとハルブレーカー・アイルという場所で遭遇したけど、あんなのしか見る機会が無ければ捕まえる気にもなれないでしょうから、こちらにイカがいないのではなく食文化が生まれる機会が無かっただけなんだと思うわ」
「捕まえる気が失せるほどにでかいのか?」
「ええ。足の長さだけで少なくとも十ヤルム以上あるから」
ガタッ、という音が、カウンターの内と外でほぼ同時に立てられた。
「……そりゃ無理だな。その大きさの竜ならばまだしも、海に引きずり込まれてしまっては打つ手がなくなるというものだ」
(いや、竜であってもその大きさでは、お前さんたち以外の人間が狩るのは無理だろうが……)
エスティニアンの発言に心の中で異を唱えたジブリオンは、その隣に座る冒険者がやにわに荷の中を漁り始める様子を認める。
その直後、ジブリオンの背筋にはゾクリと、嫌な予感を覚えた際に見舞われる特有の感覚が走り抜けた。
この流れで次に出されるのは、間違いなく碌なものではない。
「これがね、そのクラーケンの足の切れ端なの。これが十ヤルムくらいの長さで」
「何故そんなものを持ち歩いているんだお前は!?」
冒険者が荷から引きずり出したものを見た瞬間、二人のエレゼンは再びそれぞれの陣地で後ずさり、エスティニアンは辛うじて相棒に向けて、苦言の形となった質問を一気にぶち撒ける。
言葉を出すことすらままならなかったジブリオンは、その場で微かに頷くことで静かにエスティニアンの言葉に同意をすることしかできずにいた。
「スルメの状態でしか見たことないって言うから、干す前のイカはこんな見た目なんだって、これを見れば部分的にでもわかるだろうと思って。まあ拡大版になってしまうのだけど」
クラーケンの足の切れ端──ゲソと呼ばれる、不規則にうねうねと蠢く物体を両手で抱えながら、冒険者は悪びれもせずに返す。
冒険者の発言はエスティニアンの質問に答えた形ではなかったのだが、その点に気付く余裕が既に二人のエレゼンには残されていなかった。
「わかった。わかったからそいつを早くしまえ」
イカの生体に限りなく近いらしい物体を初めて見て衝撃を受けたのか、エスティニアンは天井へと視線を逃がしながら相棒に向けてひらひらと片手を振り、速やかに次の行動に移せと促す。
エスティニアンの要求を受けて冒険者がゲソを片付けると、二人のエレゼンは示し合わせたかのように同じタイミングで、深々と溜め息を吐いた。
「で、食べ方なんですけどね」
やたら膨大となった余談の後、何ごとも無かったかのような口調で冒険者が語り始めた。
「つまりは乾燥させた保存食なので、ジブリオンさんがご存知なものに例えるとビーフジャーキーと似たようなものと考えればいいんじゃないかと。これは直火か炭火で軽く炙って、適当な大きさに裂いて食べるんです」
「……なるほど。まずは炙ればいいんだな」
ついにその時が来てしまったかといった風情でジブリオンはトングを手に取り、積み重ねられたスルメの一枚をつまみ上げる。
その様子からは未だ素手でスルメに触ることに抵抗があるのだろうことが伺えたが、炙るとなるとトングでつまんでいる方が結果的に都合は良い。
ともあれ、ジブリオンは炭火の上でスルメを炙り始め、両面に程よく焼き色が付いた頃には香ばしい香りが周囲に漂い始める。
「このくらいでいいのか?」
そう言いながらジブリオンは焼き上げたスルメを皿に載せて二人の前に置き、次に冒険者へエールを差し出した。
「そうだな。しかし、試食はしないでいいのか?」
スルメの焼き具合に合格点を出したエスティニアンが試練もとい試食についてを蒸し返すと、ジブリオンは苦笑をしながら両手を上げた。
「今回だけは特例だ。お前さんたちが食べ始めてからにさせてくれ」
エスティニアンと冒険者がスルメを肴にエールを飲み始め、スルメの量が半分ほどに削られた時点で、ようやくジブリオンが胴体の一片を手に取った。
「そちらの方が見た目の抵抗は少なかろうな」
「まあな」
エスティニアンの一言に苦笑をしながらジブリオンは手に取った一片のスルメを口に放り込み、意を決して噛み締める。
「……なるほど。干されたことで旨味が凝縮されて、噛むことでそれが染み出してくるという寸法か」
「そんなところだろう。しかし食べ比べてみると、炭火よりもオーン・カイに炙らせた方が美味いな、こいつは」
「えっ? オーン・カイがスルメを?」
ジブリオンに向けられたエスティニアンの話に冒険者が割り込む。
「ああ。成り行きで一度あいつと東方に足を運んでな。その時に何度か炙らせたのさ」
「へえぇ。隠れた才能って感じかしら」
「それほど大袈裟なものではなかろうが、東方でなければ気付けなかったかもしれん」
楽しげに話すエスティニアンと、彼の話でクスクスと笑う冒険者をジブリオンは交互に見た後に話を繋いだ。
「そのオーン・カイという奴は、料理人なのか?」
「いや、竜だ」
「……は?」
エスティニアンの回答を軽く十回は脳裏で繰り返してなお、ジブリオンは疑問符を吐き出すことしかできなかった。
それはそうだろう。
ジブリオンの知るエスティニアンは、竜と見れば片っ端から殺してきた男だ。
エスティニアンが槍を振るい駆け抜けた後には竜の死骸しか残らない。
イシュガルドでそう言われていた男が竜と連れ立って東方にまで足を運ぶなど、そして竜と協力してスルメを炙るなど、天地がひっくり返ったとしか……。
「……そうか。竜詩戦争が終わったことで、イシュガルドは天地がひっくり返ったも同然だったな」
ならば、この男の生き様が以前とはまるで別ものになっているのも、頷けるというものだ。
途端に納得をしたジブリオンは自らに言い聞かせるように呟くと、穏やかな笑みを浮かべて目の前の二人を見る。
イシュガルドの歴史でこの二人が忘れられた騎士になることはないが、少なくとも今は誰に気付かれることもなく、あの日と同じ席に座り、しかし今日はスルメを咥えながら酒を酌み交わし笑っている。
このような光景が見られるなど、あの日には想像すらできなかったというのに。
本当に、良い時代となったものだ。
そう考えながらジブリオンは二人のジョッキが干されかけていることを確認し、次に出すべき酒の準備を始める。
あの日開けなかった酒を、彼らは翌年のこの日に開けた。
同じ酒を用意し、また、この日にこの場で開ける。
それは彼ら二人だけの儀式であり、それを知るのはジブリオンだけだった。
ジブリオンは黙って二人の前に三つのグラスを置き、用意していた酒をボトルごと預ける。
二人は無言でそれらを受け取り、冒険者が黙礼をジブリオンへと送る。
そしてジブリオンは、空となったエールのジョッキを片付ける。
「ついでにもう一枚、炙ってくれ」
「おう」
片手をジョッキで塞がれていたジブリオンはエスティニアンの注文に短く応じると、空いている側の手でスルメを一枚つまみ上げ、その様子を見た二人に笑われることとなった。
直後、炙られた二枚目のスルメが二人の前に差し出される。
次にジブリオンが彼らに提供するものは、暫しの時間だ。
二人はボトルの封を切り三つのグラスに酒を注ぐと、一つずつを手に取った。
そしてカウンターに残された一つのグラスに向けて、それぞれのグラスを掲げる。
それからはボトルが空になるまで、多くを語ることなく過ごす。
それが、銀剣の騎士へ二人の元・蒼の竜騎士が捧げる、祈りの時間だった。
その扉が閉まる音に引き続き耳に入ってきたのは、ゆっくりと階段を上がってくる足音が一人分。
この時間帯に下から客が入るとは。
しかも下に留まらずこちらに上って来るとは、珍しい。
忘れられた騎士亭のマスター・ジブリオンはそのようなことを考え、足音の主を迎えるべく、カウンターの中から階下に繋がる階段の側へ視線をちらりと送る。
程なくして見慣れぬ赤黒い槍の穂先が。
次いで、雪のような白さの頭髪が、ジブリオンの目に飛び込んできた。
「久し振りだな」
客の男はジブリオンと同じ床に立ち、歩み寄りながらシンプルな再会の挨拶をよこす。
「いらっしゃい。誰かと思えば、お前さんか。今日は一人で?」
客の姿を認めた時点でジブリオンは正体を把握できていたが、彼が階下の入口から入店をしてきたことからその思惑を推測し、あえて名を呼ぶことはせずに応対をした。
客の男──元・蒼の竜騎士エスティニアンはおそらく、神殿騎士団本部の前を通ることを避けて入店を果たしたかったのだ、と。
「いや、じきに相棒が来る。なので、とりあえずはエールを一杯くれ」
「彼女が。……ああ、そうか。今日はあの日だったな」
ジブリオンが何事かを確認できた旨の一言を口にしながらエールで満たしたジョッキをひとつカウンターに置くと、エスティニアンはその前に座りエールを一口飲んでから応じた。
「そういうことだ。話が早くて助かる。ところで、肴を持ち込んでも構わんか?」
エスティニアンはそう言い鞄の中から一抱えの紙包みを取り出し、カウンターの上へと置く。
「それは?」
「東方の土産だ」
「ほう。ひとつ条件がある」
「条件だと?」
「まず、俺に食わせろ」
ククッ、と、堪えきれなかった笑いがエスティニアンの口端から零れ落ちる。
「何がおかしい?」
「いや、その言葉に二言はなかろうなと思ったのさ」
「二言などあるものか。店の中で食う物には俺が全責任を負うんだ。試食するのは当然のことだろう」
ジョッキを傾けながら未だ底意地の悪い薄笑いを浮かべているエスティニアンを見おろしながら首をかしげ、包みを開き中を検めた瞬間、ジブリオンは盛大に後悔した。
──なんなんだ、これは?
エスティニアンが肴と称して差し出してきた以上、目の前の代物が食品であることは確実なのだが、しかし。
手のひら程の面積の、しかし手のひらよりはかなり薄く干からびた茶色い袋状の物体に、これまた干からびた紐状の物体が納められており、一部がはみ出しているのだろうか。
十本ほどとなる紐状の部分を注視すれば、その表面の一部には小さな突起が規則的に並んでいる。
そんな形状のものがいくつも、見た感じ8イルムほどの高さに積み上げられている。
数は十枚ほどになるのだろうか。
控え目に言ってみても、気味が悪いことこの上ない。
──これを食う? どうやって?
「あっ、スルメだ!」
客の要望を受けて業務上試食をしなければならないが、異物としか解釈できない目の前の代物を口に運ぶことを本能が完全に拒絶しているという二律背反の状態で固まっていたジブリオンに、頭上から女の声が浴びせられた。
──助かった。
いや、助かったわけではないが、この不気味な物体の試食というかつてない試練の開始に、僅かばかりの猶予が与えられた。
そう思いジブリオンは安堵の息を吐いてから頭上を仰ぎ、声の主の姿を確認する。
視線の先では一人の女が、上の入口のフロアから身を乗り出しカウンターの上を伺っていた。
「よう、いらっしゃい。兄弟子殿がお待ちかねだぞ」
思考の混乱が続きながらも咄嗟に別の代名詞でエスティニアンを名指しし、訪れた客に応対をする姿は、長年に渡って様々な酔客をあしらうという激戦をくぐり抜けてきた酒場の店主ならではといえよう。
そんなジブリオンに向けて階段を下りながら会釈をして、イシュガルドの英雄・光の戦士が、その相棒たるエスティニアンの隣の座席に納まった。
「二人でスルメを睨みつけているだなんて、どうしたの?」
「土産をここで肴にしていいかと聞いたら、店内で食わせるものは、まずマスターが試食をせねばならんのだと。それで待っているわけさ」
「なるほどね。でも」
冒険者はそこで言葉を切り、ジブリオンに向き直って話を続けた。
「初めて見るものだからどうやって食べればいいのか迷っているんじゃ? ジブリオンさん?」
「あ、ああ。その前に聞きたいんだが、スルメと言ったか? 一体これは何なんだ? 見た感じ、干された葉物野菜か?」
食品を扱う仕事を長年しているがゆえについ出てしまった、このジブリオンの素朴な疑問は、結果として彼自身を更に追い詰めるものとなった。
「これはイカという、海に棲む軟体動物を干したものなんですよ」
「軟体……動物……?」
途端に表情を引き攣らせたジブリオンの前で、一方のエスティニアンはといえば、彼はその首を傾げる。
「俺はイカが海の生き物なのだとは聞いたが、スルメの状態でしか見たことがない。軟体動物と言われても、生きた姿がどんなものなのか想像できんな」
「イシュガルドは山国だから海のものと縁遠いわけだし、イメージできないのは当然よね」
冒険者は肩をすくめて苦笑をすると、目の前のスルメを指差しながら説明を始めた。
「この部分が頭で、こっちの袋状の側は胴体。胴体のてっぺんにある翼みたいな形の部分がヒレで、泳ぐときにこれを使って舵取りをするの。泳ぎの推進力自体は、口から水を吐き出すことで得ているわ。こちらは足で、そのうちの長い二本は触腕。足と触腕に付いているのは吸盤で、足や腕を獲物に巻き付けて、更に吸盤で固定して逃がさないようにするのよ。特殊な攻撃としては、墨を吐いて浴びせかけてくることもあるわ」
エレゼンの男性二人は、冒険者がイカの生態についての説明をする様子を固唾を飲んで見守っていたが、中でもジブリオンの引き攣った表情は、話が進むにつれて絶体絶命の状況に追い込まれた騎兵のそれへと変化していった。
できることならば全速力でこの場から逃げ出したいが、騎兵時代に脚を負傷し全速力で走ることができない身では、それも叶わない。
いや。
たとえ負傷前のように走ることができたとしても、蒼の竜騎士として名を轟かせた目の前の二人から逃げおおせることなど、万にひとつもあり得ないのだが。
「……小さなだけで、コイツはモンスターなんだな」
やっとのことでイカの説明に対する率直な感想を述べ、これで最低限の接客応対はできたと思いながらため息を吐いたジブリオンに、冒険者の次の発言は更に追い討ちをかけることとなる。
「そうそう、この姿で大きなモンスターもいるんですよ」
「いるのか!」
純粋に驚き、声をあげたエスティニアンを見て冒険者は頷くと話を続けた。
「その大きいイカはクラーケンと呼ばれていて、船乗りに恐れられている存在なの。私はサスタシャとハルブレーカー・アイルという場所で遭遇したけど、あんなのしか見る機会が無ければ捕まえる気にもなれないでしょうから、こちらにイカがいないのではなく食文化が生まれる機会が無かっただけなんだと思うわ」
「捕まえる気が失せるほどにでかいのか?」
「ええ。足の長さだけで少なくとも十ヤルム以上あるから」
ガタッ、という音が、カウンターの内と外でほぼ同時に立てられた。
「……そりゃ無理だな。その大きさの竜ならばまだしも、海に引きずり込まれてしまっては打つ手がなくなるというものだ」
(いや、竜であってもその大きさでは、お前さんたち以外の人間が狩るのは無理だろうが……)
エスティニアンの発言に心の中で異を唱えたジブリオンは、その隣に座る冒険者がやにわに荷の中を漁り始める様子を認める。
その直後、ジブリオンの背筋にはゾクリと、嫌な予感を覚えた際に見舞われる特有の感覚が走り抜けた。
この流れで次に出されるのは、間違いなく碌なものではない。
「これがね、そのクラーケンの足の切れ端なの。これが十ヤルムくらいの長さで」
「何故そんなものを持ち歩いているんだお前は!?」
冒険者が荷から引きずり出したものを見た瞬間、二人のエレゼンは再びそれぞれの陣地で後ずさり、エスティニアンは辛うじて相棒に向けて、苦言の形となった質問を一気にぶち撒ける。
言葉を出すことすらままならなかったジブリオンは、その場で微かに頷くことで静かにエスティニアンの言葉に同意をすることしかできずにいた。
「スルメの状態でしか見たことないって言うから、干す前のイカはこんな見た目なんだって、これを見れば部分的にでもわかるだろうと思って。まあ拡大版になってしまうのだけど」
クラーケンの足の切れ端──ゲソと呼ばれる、不規則にうねうねと蠢く物体を両手で抱えながら、冒険者は悪びれもせずに返す。
冒険者の発言はエスティニアンの質問に答えた形ではなかったのだが、その点に気付く余裕が既に二人のエレゼンには残されていなかった。
「わかった。わかったからそいつを早くしまえ」
イカの生体に限りなく近いらしい物体を初めて見て衝撃を受けたのか、エスティニアンは天井へと視線を逃がしながら相棒に向けてひらひらと片手を振り、速やかに次の行動に移せと促す。
エスティニアンの要求を受けて冒険者がゲソを片付けると、二人のエレゼンは示し合わせたかのように同じタイミングで、深々と溜め息を吐いた。
「で、食べ方なんですけどね」
やたら膨大となった余談の後、何ごとも無かったかのような口調で冒険者が語り始めた。
「つまりは乾燥させた保存食なので、ジブリオンさんがご存知なものに例えるとビーフジャーキーと似たようなものと考えればいいんじゃないかと。これは直火か炭火で軽く炙って、適当な大きさに裂いて食べるんです」
「……なるほど。まずは炙ればいいんだな」
ついにその時が来てしまったかといった風情でジブリオンはトングを手に取り、積み重ねられたスルメの一枚をつまみ上げる。
その様子からは未だ素手でスルメに触ることに抵抗があるのだろうことが伺えたが、炙るとなるとトングでつまんでいる方が結果的に都合は良い。
ともあれ、ジブリオンは炭火の上でスルメを炙り始め、両面に程よく焼き色が付いた頃には香ばしい香りが周囲に漂い始める。
「このくらいでいいのか?」
そう言いながらジブリオンは焼き上げたスルメを皿に載せて二人の前に置き、次に冒険者へエールを差し出した。
「そうだな。しかし、試食はしないでいいのか?」
スルメの焼き具合に合格点を出したエスティニアンが試練もとい試食についてを蒸し返すと、ジブリオンは苦笑をしながら両手を上げた。
「今回だけは特例だ。お前さんたちが食べ始めてからにさせてくれ」
エスティニアンと冒険者がスルメを肴にエールを飲み始め、スルメの量が半分ほどに削られた時点で、ようやくジブリオンが胴体の一片を手に取った。
「そちらの方が見た目の抵抗は少なかろうな」
「まあな」
エスティニアンの一言に苦笑をしながらジブリオンは手に取った一片のスルメを口に放り込み、意を決して噛み締める。
「……なるほど。干されたことで旨味が凝縮されて、噛むことでそれが染み出してくるという寸法か」
「そんなところだろう。しかし食べ比べてみると、炭火よりもオーン・カイに炙らせた方が美味いな、こいつは」
「えっ? オーン・カイがスルメを?」
ジブリオンに向けられたエスティニアンの話に冒険者が割り込む。
「ああ。成り行きで一度あいつと東方に足を運んでな。その時に何度か炙らせたのさ」
「へえぇ。隠れた才能って感じかしら」
「それほど大袈裟なものではなかろうが、東方でなければ気付けなかったかもしれん」
楽しげに話すエスティニアンと、彼の話でクスクスと笑う冒険者をジブリオンは交互に見た後に話を繋いだ。
「そのオーン・カイという奴は、料理人なのか?」
「いや、竜だ」
「……は?」
エスティニアンの回答を軽く十回は脳裏で繰り返してなお、ジブリオンは疑問符を吐き出すことしかできなかった。
それはそうだろう。
ジブリオンの知るエスティニアンは、竜と見れば片っ端から殺してきた男だ。
エスティニアンが槍を振るい駆け抜けた後には竜の死骸しか残らない。
イシュガルドでそう言われていた男が竜と連れ立って東方にまで足を運ぶなど、そして竜と協力してスルメを炙るなど、天地がひっくり返ったとしか……。
「……そうか。竜詩戦争が終わったことで、イシュガルドは天地がひっくり返ったも同然だったな」
ならば、この男の生き様が以前とはまるで別ものになっているのも、頷けるというものだ。
途端に納得をしたジブリオンは自らに言い聞かせるように呟くと、穏やかな笑みを浮かべて目の前の二人を見る。
イシュガルドの歴史でこの二人が忘れられた騎士になることはないが、少なくとも今は誰に気付かれることもなく、あの日と同じ席に座り、しかし今日はスルメを咥えながら酒を酌み交わし笑っている。
このような光景が見られるなど、あの日には想像すらできなかったというのに。
本当に、良い時代となったものだ。
そう考えながらジブリオンは二人のジョッキが干されかけていることを確認し、次に出すべき酒の準備を始める。
あの日開けなかった酒を、彼らは翌年のこの日に開けた。
同じ酒を用意し、また、この日にこの場で開ける。
それは彼ら二人だけの儀式であり、それを知るのはジブリオンだけだった。
ジブリオンは黙って二人の前に三つのグラスを置き、用意していた酒をボトルごと預ける。
二人は無言でそれらを受け取り、冒険者が黙礼をジブリオンへと送る。
そしてジブリオンは、空となったエールのジョッキを片付ける。
「ついでにもう一枚、炙ってくれ」
「おう」
片手をジョッキで塞がれていたジブリオンはエスティニアンの注文に短く応じると、空いている側の手でスルメを一枚つまみ上げ、その様子を見た二人に笑われることとなった。
直後、炙られた二枚目のスルメが二人の前に差し出される。
次にジブリオンが彼らに提供するものは、暫しの時間だ。
二人はボトルの封を切り三つのグラスに酒を注ぐと、一つずつを手に取った。
そしてカウンターに残された一つのグラスに向けて、それぞれのグラスを掲げる。
それからはボトルが空になるまで、多くを語ることなく過ごす。
それが、銀剣の騎士へ二人の元・蒼の竜騎士が捧げる、祈りの時間だった。
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