異説・紅の竜騎士
「お久しぶりね……今? 部屋の模様替えをしていて……えっ、道案内? ……は? カルボナーラ? できるけど……うん……あー、なるほど。材料を揃えなきゃならないから少し待たせるけど、そもそも突然の話だから構わないわよね? じゃ、再会の市のエーテライトで」
グリダニア領内の冒険者居住区にあるアパルトメント・リリーヒルズの一室で一方的な要求を突きつけられた冒険者は、呆然とした表情で通信の切れたリンクパールを見つめると、直後に苦笑混じりの溜め息を吐いた。
「珍しく連絡を寄越したかと思えば、何なのよ……。でもまあ、そこがエスティニアンらしいのかな」
冒険者は呟きながら雑然とした状態の部屋を見回し、そして調理師の装束に着替えると、リリーヒルズ玄関前のマーケットボード脇でリテイナーを呼び出した。
一方、相棒たる冒険者に言いたい放題の注文をつけた張本人であるエスティニアンは、アジムステップの一角にあるモル・イローの周囲で草を食む羊たちを険しい表情で眺めながら、通信を終えたリンクパールを懐に納めた。
「なんだ? 道案内と調理を頼んだだけにしちゃあ随分と殺気立ってるな。それじゃまるで決闘の申し込みをしたみたいだぞ? 羊たちに気取られる前に気を鎮めてくれよ」
「あ……ああ、すまん」
羊たちを気遣うジェンクシにそう言われたエスティニアンは、そこで初めて自身が気の乱れを隠せていなかったことを自覚し、思わず苦笑をした。
「決闘……か。そうじゃないが、まあ、そのくらいの覚悟は必要なのかもしれんな」
そうジェンクシに言いながら羊たちの前で膝を突き、歩み寄ってきた一頭の頭を撫で始めたエスティニアンは、その羊から頭突きを喰らい尻餅を搗いてしまった。
「当たって砕けろって言ってるのさ、そいつは」
「ハッ、まさか」
「多分な」
ジェンクシに笑われながら軽口をぶつけられたエスティニアンはその場に座り込んだまま、頭突きをしてきた羊の頭を再び撫で回して問い掛ける。
「そうなのか? お前……」
ようやく穏やかな表情となったエスティニアンの問いに頷くかのように、羊は何度も、その頭を縦に振っていた。
殺気立っているとジェンクシに指摘をされた状況にエスティニアンが陥った原因は、モル族の集落を訪れて挨拶を交わした族長テムルンとのやり取りにあった。
エスティニアンの人付き合いの悪さや口の悪さについては定評があり、イシュガルドの国内で彼と関わったことのある誰もが知るところではあったのだが、しかしそれはあくまで彼に邪竜討伐という全人生を賭けた悲願があったからであり、更に、イシュガルドでは最高の誉れとなる竜狩りの能力が、蒼の竜騎士の地位に上り詰めるまで突出していたが為にそれが彼の盾となり、国内ならばその若干の素行の悪さは大目に見て貰えるという環境であったからに他ならない。
国外の要人との会談の機会は、エスティニアンが蒼の竜騎士という要職に就いていた割に数えられる程度しか無く、そのように極めて重要な場に限っては彼が礼を失したことなどは無かった。
最も、エスティニアンが会談への列席を求められる機会が極端に少なかった点については、事務方の並々ならぬ努力の賜であるのだが。
ともあれ、会談の規模に大小の差こそあるが、この場でのテムルンへのエスティニアンが取った対応も、国外の要人向けのものであった。
イシュガルド国内でのみのエスティニアンの人となりを知る者がテムルンとの会談現場を目撃していたら、これは第八霊災の前触れなのではないかとの戦慄を覚えるほどに、この時の彼は礼節を重んじた、実に紳士的な姿であった。
──のであるが。
「お久しぶりです、テムルン族長。そろそろチーズの熟成具合を確認しても良い頃合いかと思い、伺いました」
テムルンの元へとシリナに案内をされたエスティニアンは、ゲルに入り会釈をすると彼女に今回の訪問の意図を告げた。
「おかえりなさい。私どもを気にかけて下さって嬉しいわ」
その返礼にエスティニアンが微かに驚く様を認めたテムルンは、次いで彼の背後の外の様子を伺い、首を傾げた。
「ところで、今日は彼女と一緒ではないの?」
「ええ。彼女とは、今は行動を共にしている訳ではありませんので」
癖なのか、軽く肩を竦めながら応じるエスティニアンを見て、テムルンはその小首を更に傾げる。
「あら、そうなの? この前いらした時は仲睦まじい様子だったから、いつも一緒なのかと思ったのだけど」
「以前は他の仲間と共に彼女と旅をしていましたが、目的を果たしてからは、互いに単独で各地を飛び回っていまして。その旅を通して彼女とはそれなりに気心の知れた間柄となったので、族長の目には先だっての我々がそのように映ったのでしょう」
国外の要人との会談で個人的な人間関係についての話題が出される事態などは、まかり間違えてもあり得ない。
万が一そのような展開になったとしても、常日頃のエスティニアンの振る舞い方であれば、要人に対しても「このあたりで勘弁していただきたい」といった感じの一言でこの手の話題は強制的に終わらせていたのであろうが、ことテムルンが相手となってはどうにも勘所を掴むことができず、彼は色々な意味で苦慮をしてしまっていた。
「貴方には彼女に負けないくらいの強さの、彼女のものとは似て非なる輝きが宿っているの。だから、あなた達はとてもお似合いだと思ったのよ」
エスティニアンにとってテムルンは、過去に一宿の恩を受けた部族の長でありシャーマンという肩書きを併せ持つ国外の要人、という枠に分類をされていたが、モル族という小規模な部族であるがゆえか、族長でありながら彼女の物腰は常に柔らかく、誰に対しても微に入り細を穿つものだった。
と同時にテムルンは、老齢の域に達した女性でもある。
酸いも甘いも噛み分けた高齢の女性という存在は、とかく身近な若者の身の回りを気に掛けることを娯楽の如くに楽しむきらいがあり、それについては彼女も例外ではなかった。
部族内の若者たちの事情は既にその全てが手の内にあるので、ありていに言ってしまえば、彼女はそちら方面ではこのところ、とても退屈をしていた。
つまり、テムルンを訪ねたエスティニアンは、鋭い爪と牙を持つ飢えた獣の前に突如現れた格好の獲物となってしまっていたのである。
(これは……最悪だ……)
そう思ったことすら悟られてしまうのではないかという懸念を抱きながらエスティニアンが懸命に平静を装っていると、テムルンはゆっくりと彼を見据えて言った。
「……そうね。光と闇? あるいは聖と邪、かしら? 例えとして適当ではないのかもしれないけれど」
テムルンがものの例えのひとつとして言ったに過ぎない聖と邪という言葉はエスティニアンにとっては威力があり過ぎるもので、彼が堪らずに微かな身じろぎをしてしまったことを、色々な意味で百戦錬磨のテムルンが見逃すはずはなかった。
テムルンは、全てを見透かしたような視線をエスティニアンに送りながら微笑み、そして話を続けた。
「とにかく、貴方の輝きを受け止めてわかちあうことができるのは、同じくらいの強さで輝いている人だと思うのよ。その様子では、少なからず心当たりがあるのではないかしら?」
「貴女には」
エスティニアンは片手で頭髪を軽く掻き回しながら深々と溜め息を吐き、観念をしたかのような表情となって言った。
「……とても敵いそうにはありません。それは、今日の神託に因るものですか?」
エスティニアンの問いにテムルンは一瞬その目を丸くすると、再び微笑んだ。
「半分くらいはそうかもしれないわね。今日の神託は、旅人の道を整えよ、というものだったから」
「半分……」
堪らずにエスティニアンは、ククッ、と、笑いを噛み殺せずに漏らしてしまう。
「道といえば、そろそろチーズの保管場所をご教示いただきたいのですが?」
「ああ、ごめんなさいね。つい、お節介に夢中になってしまって」
「お節介という自覚がおありでしたか」
開き直ったエスティニアンが苦笑をしながら放った苦情をテムルンはコロコロと笑いながら受け流し、その後ようやく彼の要求に半分だけ応じた。
「百一の啓示と呼ばれる、ウヤギル族が居留地にしている洞窟の片隅をお借りしてるわ。場所は……そうね。彼女に案内をして貰いなさい」
「お待たせ!」
リンクパール通信で宣言をされた通りに再会の市でしばらく待たされる形となっていたエスティニアンの前に、はつらつとした声と共に調理師姿の冒険者が現れた。
「武器を帯びていないお前の姿は、随分と新鮮なものだな」
「鎧姿じゃないエスティニアンを見るのも新鮮だわ。私のこれはこれで、なかなかのものでしょう?」
そう言いながらフライパンを槍のように構える彼女を見たエスティニアンは、槍の構えとしては非の打ち所の無い姿勢から来るその様子の珍妙さと、気心の知れた相手と接することで得られた心地の良い脱力感から、暫しの間笑いを止められない状況に陥った。
「突然の話だったから驚いたけど、あのチーズのその後は気になっていたから、誘ってもらえて嬉しいわ」
「だろうと思ってな」
エスティニアンはニヤリと笑い、話を続けた。
「とりあえず、先に移動をしてしまおう。百一の啓示という洞窟だそうだ。わかるか?」
冒険者は驚いた後に軽く噴き出すと、笑いの残った表情で応じた。
「一体どこへ行くのかと思えば……。道案内が必要なレベルじゃないわね。ここからほぼ真西よ。ついてきて」
ほどなくして百一の啓示にたどり着いた二人は、ウヤギル族の面々と挨拶を交わし、その後チーズが保管されている棚が置かれた一角へと向かった。
「ほう……。神託によっては移動をするというモル族に長期間の安定した保管環境が確保できるかどうかが気掛かりだったが、ここならば天変地異でも起きない限り問題は無さそうだな」
エスティニアンは棚が設えられた一角の天地と左右を見渡した後、人差し指を口に含んでから目の前に立てて風の流れを確認すると、棚の中からチーズをひとつ手に取り、扉をノックする要領で表面を軽く数回叩いてその感触を確かめた。
「経過は概ね順調、といったところか」
そう言いながらエスティニアンは冒険者の元へ歩み寄ると、手にしたチーズを差し出した。
「後は舌での確認だ。こいつを使ってカルボナーラを作ってくれ」
「わかったわ」
彼女は驚きの表情で受け取ったチーズを見つめると、その正体を確かめるように恐る恐る指の腹を押しつけ、次いで鼻を寄せて匂いを嗅いだ。
「ほんとに、チーズになってる……」
呆然としながらの冒険者の呟きに、エスティニアンは苦笑をして応じた。
「手順通りに作業をしたんだ、当たり前だろう。……まあ、クルザスで作っていたものとは微妙に味が違っているとは思うが」
「それって、羊が違うから?」
「だな。細かく言えば、その羊に与える草や水も違うし、クルザスは山岳でこちらは草原と、羊の飼育環境も全てが違っている。そして羊の他に違うのは、塩だ。全て材料としては同じだが、産地が変わればそれぞれ風味も変わるというわけさ」
「なんか……」
「どうした?」
困惑の表情を浮かべている冒険者の様子にエスティニアンが首を傾げると、彼女はそれまで見つめていた手の中のチーズからようやく顔を上げ、微笑を湛えた。
「びっくりしちゃって。この前仕込みをした時もそうだったけど、こんな話を聴けるとは思ってもみなかったから。なんだか、エスティニアンじゃないみたい」
「俺は俺だ。今の話は、ほぼ親父の受け売りだからな。いつでもできた話だぞ」
「でも、イシュガルドにいた時にはしなかったじゃない。そこが変わったな、って思ったのよ」
「そんな俺を変えた張本人の癖に、今さら何を言いやがる」
「あっ、そういえばそうだったわ」
そう言いながら笑う冒険者を見てエスティニアンは口角を上げると、残りのチーズの状態を確認するために再び棚の側へと向かった。
その後二人は黙々とそれぞれの作業に没頭をしたために、洞窟内には主に調理器具の立てる音が響き、しばらくするとそれに加熱された食材から立ち上る香りが加わり、辺りに漂い始める。
そんな中でエスティニアンは、ひとつずつチーズの表面にブラシを丁寧にかけた後、裏返して上下を入れ替え、それまで風が当たっていなかった部分を露出させることで、この先の熟成が均等に進むよう整えていた。
エスティニアンが作業を終えた直後に完成をさせられるよう下ごしらえをしていた冒険者は、彼が戻ると仕上げを手早く済ませて二皿のカルボナーラを並べ、それとは別に空の皿をフォークと共に手渡した。
「なんだ? 一皿ずつ食えばいいだろう?」
首を傾げるエスティニアンに向かって、ふふん、と、冒険者は得意気に鼻を鳴らした。
「リテイナーにカルボナーラの材料を一式、と頼んだら、当たり前なんだけどストーンチーズも入れてくれててね。さっきの話を聞いて、エスティニアンが作ったものと市場に出回っているものとで食べ比べてみようかと思ったのよ」
「なるほど。もし露骨に味が違っていた場合は、今後の資料として配合を調整する必要があるしな」
「でしょう? こっちがエスティニアンのチーズで作った分よ」
「おう」
エスティニアンは短く応えると、冒険者が指し示した側ではない皿に盛られたカルボナーラを先に選んで手元の皿に取り分けた。
二種類のカルボナーラは二人によって跡形もなく完食され、冒険者は食器類の後片付けを、エスティニアンは火の始末を始めた。
「充分に熟成されたものと比べれば当然だが、このチーズが未熟である点は否めないな」
「塩が塩として少し残っている、って感じ? もう少し寝かせておけば馴染んでくるのかしら?」
その問いにエスティニアンは、火元から冒険者へと視線を移すと頷いた。
「多分な。次に確認をしに来る時には、また料理をしてくれるか」
「何それ? 私は専属料理人じゃないわよ?」
「ククク……それはそうだな」
エスティニアンは笑いながら火の始末を終えると立ち上がり、冒険者の隣に座り直した。
「では聞くが、お前は俺の何だ?」
先のやり取りを受けての形ではあるが、同時に唐突とも取れるエスティニアンの質問に冒険者は驚き、しばらくの間思案をした。
「そうね……。妹弟子で、かつての旅の仲間で、相棒。こんなところかしら?」
「なるほどな。その逆は?」
「命を掛けて助けた、大切な人よ」
その迷いの無い即答にエスティニアンが驚き言葉を失う様を見て、冒険者はその首を傾げる。
「……どうしたの?」
そう冒険者が問い掛けてなおしばらくの間エスティニアンは沈黙を続けた後に、ようやくその口を開いた。
「ファウネムを鎮める前に、己を見つめ直すために旅をしてきたと俺が言ったのを覚えているか?」
「ええ、もちろん」
エスティニアンは冒険者が頷いたのを確認するとその視線を、ちょうど自らの正面に位置する形となっていたチーズが並ぶ棚へと移してから話を続けた。
「蒼の竜騎士の地位を返上したことで、俺は言うなれば殆ど空の状態になった気がしてな。しばらくの間は竜詩戦争で犠牲となった者たちの慰霊を目的として各地を巡っていたんだが、いずれそれもひと段落を迎えるわけだ」
「うん」
「そんな中で時折、お前と逢うことになって。……まあ、バスカロンの酒場の時は、まんまと誘き寄せられたわけだが」
「ふふっ。あれは、準備をしている段階から楽しかったわね」
楽しげに笑う冒険者をエスティニアンはちらりと横目で見ると、軽く舌打ちをする。
「あの悪戯の手の内を明かされた時こそ呆れはしたものの、久し振りにお前と、顔と槍を合わせることができた点は、不思議と心地が良くてな。その時は半信半疑だったが、後に何度かお前と逢ったことで、その感覚が勘違いでは無いのではないかという考え方に傾いてきたわけだ」
「それは、妹弟子の面目躍如、といったところかしら?」
「お前と共に修行をしたのならばそうかもしれんが、違うな」
即座に否定をされてしまった冒険者は微かに眉根を寄せた視線をエスティニアンに送り、話の先を促す。
「今回、俺が一人でモル族を訪ねたことで、お節介な族長にあれこれと言われてしまったわけだが、しかしお陰でその感覚について、ようやく確信に至ることができた」
「何を言われたのかはわからないけど、スッキリとできたんなら良かったんじゃない?」
「ああ」
エスティニアンは短く答えた後、深々と息を吐いた。
「ドラゴンズエアリーの件についてを、俺たちは被害者だとお前は言ったが、あれは俺の気の緩みが招いたことの一環でもあると俺は考えている。今さらだが、まずは謝罪をさせてほしい。辛い思いをさせてしまって、申し訳なかった」
「……わかったわ」
それまでのあっけらかんとした状態から途端に神妙な面持ちとなった冒険者は、噛み締めるようにその一言を、頭を下げているエスティニアンに返した。
「圧倒的な魔力で身体を支配されていたとはいえ、俺の身体がお前を傷付けたという点は変えようのない事実だ。お前の口から今、俺を大切に思ってくれているという話を聞いてなお、俺は、この身がお前に触れることを許されるか否かという答えを出せないでいる。こういうことは、当事者の男が決めるべきではないからな」
あの事件以降、延々と抱え続けていたのであろう心境を搾り出すように述懐するエスティニアンを見た冒険者は、彼の膝の上に置かれた手に自らの手をそっと重ね、それに驚く彼をじっと見つめた後に微笑んだ。
「私たちはティオマンや、名前も知らない邪竜の眷属たちを沢山殺してしまったわ。そのことを考えたら、あの場で私が殺されてもおかしくはなかったと思うの。お互いに辛い出来事ではあったけど、何とか乗り越えて今があるんだから。さっき、誘ってもらえて嬉しいって言ったでしょう? あれが私の気持ちよ。生きているのに逢えなくなってしまう方が、私には辛いわ」
「触れても、構わないのか?」
「いいに決まっているでしょう。許す、と言えばいい?」
その優しげな言葉とは裏腹に上目遣いで睨み付ける冒険者を見たエスティニアンは、その顔を綻ばせると話を続けた。
「では、言わせて貰おう。その感覚というのは、ついぞ忘れていたものでな」
「うん」
「俺の、家族になってくれないか」
「……えっ? それってどういうこ」
驚きの表情を見せた冒険者の後頭部に片手を伸ばして抱き込んだエスティニアンは、彼女の口から紡ぎ出されかけていた問い返しの言葉を、唇を重ねることで封印した。
「……こういうことだ」
本懐を遂げた形となるエスティニアンに対して冒険者は、あまりに衝撃的な展開に対応し切れず、その頭を盛大に混乱させていた。
「あのっ、その、ええと……」
ようやく解放された彼女の唇からは困惑の断片が次々と零れ落ち、その様を見たエスティニアンは楽しげに笑う。
「何だ、そんなに驚かせてしまったか?」
「だって、私……」
「どうした?」
「私、エレゼンじゃないわ」
想定外の反応をされてしまったエスティニアンは、一瞬その目を見開いた後に笑い飛ばした。
「そんなことは知っている」
「だって、イシュガルドでは、こういうことはタブーなんでしょう?」
「らしいな。しかし俺は元々そんな慣習は馬鹿馬鹿しいと考えていたし、アイメリクならば今後、その辺りも変えていくだろうよ」
「馬鹿馬鹿しいって……思ってたの?」
「ああ。考えてもみろ。本当に許されないことならば、ヒルダのような混血は存在しないだろう? ドラゴン族から見れば、俺たちはどちらも「ヒト」だ。違うか、相棒?」
真顔でエスティニアンからそう言われてしまった冒険者は、ようやく納得をしたように微笑むと、その身を彼の懐に預けてからクスクスと笑う。
「そういえば、オーン・カイが言っていたわ。エスティニアンは少し身体の大きいヒトで、私はそれより小さいヒトだって。それでいいのね」
「フッ、あのチビも、たまにはいいことを言いやがる」
エスティニアンがそう言いながらコックタイの先端を摘み、スルリと引き抜いていった感触を襟元に覚えた冒険者は、慌ててその身を起こすと、掌を自らの胸前に立てて盾とした。
「だめだめだめ! ここで、これ以上はだめ!! すぐそこにウヤギル族の人たちが居るもの!!」
「ほう? ここでこれ以上が駄目なのであれば、他の場所でなら構わんと? ならば、お前の部屋か?」
いつの間にか捕食者の貌となっていたエスティニアンは口角を上げ、手の内にある獲物の挙動を愉しむように冒険者へと問い掛ける。
「……私の部屋も、今は駄目だわ。模様替えをしている最中に、誰かさんに呼び出されたんだもの」
「そりゃまた、随分と間の悪い奴が居たもんで」
「まったく、誰のせいだと……。行き先は私が決めればいいのね?」
「ああ、そうしてくれ」
意地悪く笑いながら頷くエスティニアンに行き先を告げることなく、冒険者は彼を巻き込む形でテレポを詠唱した。
グリダニア領内の冒険者居住区にあるアパルトメント・リリーヒルズの一室で一方的な要求を突きつけられた冒険者は、呆然とした表情で通信の切れたリンクパールを見つめると、直後に苦笑混じりの溜め息を吐いた。
「珍しく連絡を寄越したかと思えば、何なのよ……。でもまあ、そこがエスティニアンらしいのかな」
冒険者は呟きながら雑然とした状態の部屋を見回し、そして調理師の装束に着替えると、リリーヒルズ玄関前のマーケットボード脇でリテイナーを呼び出した。
一方、相棒たる冒険者に言いたい放題の注文をつけた張本人であるエスティニアンは、アジムステップの一角にあるモル・イローの周囲で草を食む羊たちを険しい表情で眺めながら、通信を終えたリンクパールを懐に納めた。
「なんだ? 道案内と調理を頼んだだけにしちゃあ随分と殺気立ってるな。それじゃまるで決闘の申し込みをしたみたいだぞ? 羊たちに気取られる前に気を鎮めてくれよ」
「あ……ああ、すまん」
羊たちを気遣うジェンクシにそう言われたエスティニアンは、そこで初めて自身が気の乱れを隠せていなかったことを自覚し、思わず苦笑をした。
「決闘……か。そうじゃないが、まあ、そのくらいの覚悟は必要なのかもしれんな」
そうジェンクシに言いながら羊たちの前で膝を突き、歩み寄ってきた一頭の頭を撫で始めたエスティニアンは、その羊から頭突きを喰らい尻餅を搗いてしまった。
「当たって砕けろって言ってるのさ、そいつは」
「ハッ、まさか」
「多分な」
ジェンクシに笑われながら軽口をぶつけられたエスティニアンはその場に座り込んだまま、頭突きをしてきた羊の頭を再び撫で回して問い掛ける。
「そうなのか? お前……」
ようやく穏やかな表情となったエスティニアンの問いに頷くかのように、羊は何度も、その頭を縦に振っていた。
殺気立っているとジェンクシに指摘をされた状況にエスティニアンが陥った原因は、モル族の集落を訪れて挨拶を交わした族長テムルンとのやり取りにあった。
エスティニアンの人付き合いの悪さや口の悪さについては定評があり、イシュガルドの国内で彼と関わったことのある誰もが知るところではあったのだが、しかしそれはあくまで彼に邪竜討伐という全人生を賭けた悲願があったからであり、更に、イシュガルドでは最高の誉れとなる竜狩りの能力が、蒼の竜騎士の地位に上り詰めるまで突出していたが為にそれが彼の盾となり、国内ならばその若干の素行の悪さは大目に見て貰えるという環境であったからに他ならない。
国外の要人との会談の機会は、エスティニアンが蒼の竜騎士という要職に就いていた割に数えられる程度しか無く、そのように極めて重要な場に限っては彼が礼を失したことなどは無かった。
最も、エスティニアンが会談への列席を求められる機会が極端に少なかった点については、事務方の並々ならぬ努力の賜であるのだが。
ともあれ、会談の規模に大小の差こそあるが、この場でのテムルンへのエスティニアンが取った対応も、国外の要人向けのものであった。
イシュガルド国内でのみのエスティニアンの人となりを知る者がテムルンとの会談現場を目撃していたら、これは第八霊災の前触れなのではないかとの戦慄を覚えるほどに、この時の彼は礼節を重んじた、実に紳士的な姿であった。
──のであるが。
「お久しぶりです、テムルン族長。そろそろチーズの熟成具合を確認しても良い頃合いかと思い、伺いました」
テムルンの元へとシリナに案内をされたエスティニアンは、ゲルに入り会釈をすると彼女に今回の訪問の意図を告げた。
「おかえりなさい。私どもを気にかけて下さって嬉しいわ」
その返礼にエスティニアンが微かに驚く様を認めたテムルンは、次いで彼の背後の外の様子を伺い、首を傾げた。
「ところで、今日は彼女と一緒ではないの?」
「ええ。彼女とは、今は行動を共にしている訳ではありませんので」
癖なのか、軽く肩を竦めながら応じるエスティニアンを見て、テムルンはその小首を更に傾げる。
「あら、そうなの? この前いらした時は仲睦まじい様子だったから、いつも一緒なのかと思ったのだけど」
「以前は他の仲間と共に彼女と旅をしていましたが、目的を果たしてからは、互いに単独で各地を飛び回っていまして。その旅を通して彼女とはそれなりに気心の知れた間柄となったので、族長の目には先だっての我々がそのように映ったのでしょう」
国外の要人との会談で個人的な人間関係についての話題が出される事態などは、まかり間違えてもあり得ない。
万が一そのような展開になったとしても、常日頃のエスティニアンの振る舞い方であれば、要人に対しても「このあたりで勘弁していただきたい」といった感じの一言でこの手の話題は強制的に終わらせていたのであろうが、ことテムルンが相手となってはどうにも勘所を掴むことができず、彼は色々な意味で苦慮をしてしまっていた。
「貴方には彼女に負けないくらいの強さの、彼女のものとは似て非なる輝きが宿っているの。だから、あなた達はとてもお似合いだと思ったのよ」
エスティニアンにとってテムルンは、過去に一宿の恩を受けた部族の長でありシャーマンという肩書きを併せ持つ国外の要人、という枠に分類をされていたが、モル族という小規模な部族であるがゆえか、族長でありながら彼女の物腰は常に柔らかく、誰に対しても微に入り細を穿つものだった。
と同時にテムルンは、老齢の域に達した女性でもある。
酸いも甘いも噛み分けた高齢の女性という存在は、とかく身近な若者の身の回りを気に掛けることを娯楽の如くに楽しむきらいがあり、それについては彼女も例外ではなかった。
部族内の若者たちの事情は既にその全てが手の内にあるので、ありていに言ってしまえば、彼女はそちら方面ではこのところ、とても退屈をしていた。
つまり、テムルンを訪ねたエスティニアンは、鋭い爪と牙を持つ飢えた獣の前に突如現れた格好の獲物となってしまっていたのである。
(これは……最悪だ……)
そう思ったことすら悟られてしまうのではないかという懸念を抱きながらエスティニアンが懸命に平静を装っていると、テムルンはゆっくりと彼を見据えて言った。
「……そうね。光と闇? あるいは聖と邪、かしら? 例えとして適当ではないのかもしれないけれど」
テムルンがものの例えのひとつとして言ったに過ぎない聖と邪という言葉はエスティニアンにとっては威力があり過ぎるもので、彼が堪らずに微かな身じろぎをしてしまったことを、色々な意味で百戦錬磨のテムルンが見逃すはずはなかった。
テムルンは、全てを見透かしたような視線をエスティニアンに送りながら微笑み、そして話を続けた。
「とにかく、貴方の輝きを受け止めてわかちあうことができるのは、同じくらいの強さで輝いている人だと思うのよ。その様子では、少なからず心当たりがあるのではないかしら?」
「貴女には」
エスティニアンは片手で頭髪を軽く掻き回しながら深々と溜め息を吐き、観念をしたかのような表情となって言った。
「……とても敵いそうにはありません。それは、今日の神託に因るものですか?」
エスティニアンの問いにテムルンは一瞬その目を丸くすると、再び微笑んだ。
「半分くらいはそうかもしれないわね。今日の神託は、旅人の道を整えよ、というものだったから」
「半分……」
堪らずにエスティニアンは、ククッ、と、笑いを噛み殺せずに漏らしてしまう。
「道といえば、そろそろチーズの保管場所をご教示いただきたいのですが?」
「ああ、ごめんなさいね。つい、お節介に夢中になってしまって」
「お節介という自覚がおありでしたか」
開き直ったエスティニアンが苦笑をしながら放った苦情をテムルンはコロコロと笑いながら受け流し、その後ようやく彼の要求に半分だけ応じた。
「百一の啓示と呼ばれる、ウヤギル族が居留地にしている洞窟の片隅をお借りしてるわ。場所は……そうね。彼女に案内をして貰いなさい」
「お待たせ!」
リンクパール通信で宣言をされた通りに再会の市でしばらく待たされる形となっていたエスティニアンの前に、はつらつとした声と共に調理師姿の冒険者が現れた。
「武器を帯びていないお前の姿は、随分と新鮮なものだな」
「鎧姿じゃないエスティニアンを見るのも新鮮だわ。私のこれはこれで、なかなかのものでしょう?」
そう言いながらフライパンを槍のように構える彼女を見たエスティニアンは、槍の構えとしては非の打ち所の無い姿勢から来るその様子の珍妙さと、気心の知れた相手と接することで得られた心地の良い脱力感から、暫しの間笑いを止められない状況に陥った。
「突然の話だったから驚いたけど、あのチーズのその後は気になっていたから、誘ってもらえて嬉しいわ」
「だろうと思ってな」
エスティニアンはニヤリと笑い、話を続けた。
「とりあえず、先に移動をしてしまおう。百一の啓示という洞窟だそうだ。わかるか?」
冒険者は驚いた後に軽く噴き出すと、笑いの残った表情で応じた。
「一体どこへ行くのかと思えば……。道案内が必要なレベルじゃないわね。ここからほぼ真西よ。ついてきて」
ほどなくして百一の啓示にたどり着いた二人は、ウヤギル族の面々と挨拶を交わし、その後チーズが保管されている棚が置かれた一角へと向かった。
「ほう……。神託によっては移動をするというモル族に長期間の安定した保管環境が確保できるかどうかが気掛かりだったが、ここならば天変地異でも起きない限り問題は無さそうだな」
エスティニアンは棚が設えられた一角の天地と左右を見渡した後、人差し指を口に含んでから目の前に立てて風の流れを確認すると、棚の中からチーズをひとつ手に取り、扉をノックする要領で表面を軽く数回叩いてその感触を確かめた。
「経過は概ね順調、といったところか」
そう言いながらエスティニアンは冒険者の元へ歩み寄ると、手にしたチーズを差し出した。
「後は舌での確認だ。こいつを使ってカルボナーラを作ってくれ」
「わかったわ」
彼女は驚きの表情で受け取ったチーズを見つめると、その正体を確かめるように恐る恐る指の腹を押しつけ、次いで鼻を寄せて匂いを嗅いだ。
「ほんとに、チーズになってる……」
呆然としながらの冒険者の呟きに、エスティニアンは苦笑をして応じた。
「手順通りに作業をしたんだ、当たり前だろう。……まあ、クルザスで作っていたものとは微妙に味が違っているとは思うが」
「それって、羊が違うから?」
「だな。細かく言えば、その羊に与える草や水も違うし、クルザスは山岳でこちらは草原と、羊の飼育環境も全てが違っている。そして羊の他に違うのは、塩だ。全て材料としては同じだが、産地が変わればそれぞれ風味も変わるというわけさ」
「なんか……」
「どうした?」
困惑の表情を浮かべている冒険者の様子にエスティニアンが首を傾げると、彼女はそれまで見つめていた手の中のチーズからようやく顔を上げ、微笑を湛えた。
「びっくりしちゃって。この前仕込みをした時もそうだったけど、こんな話を聴けるとは思ってもみなかったから。なんだか、エスティニアンじゃないみたい」
「俺は俺だ。今の話は、ほぼ親父の受け売りだからな。いつでもできた話だぞ」
「でも、イシュガルドにいた時にはしなかったじゃない。そこが変わったな、って思ったのよ」
「そんな俺を変えた張本人の癖に、今さら何を言いやがる」
「あっ、そういえばそうだったわ」
そう言いながら笑う冒険者を見てエスティニアンは口角を上げると、残りのチーズの状態を確認するために再び棚の側へと向かった。
その後二人は黙々とそれぞれの作業に没頭をしたために、洞窟内には主に調理器具の立てる音が響き、しばらくするとそれに加熱された食材から立ち上る香りが加わり、辺りに漂い始める。
そんな中でエスティニアンは、ひとつずつチーズの表面にブラシを丁寧にかけた後、裏返して上下を入れ替え、それまで風が当たっていなかった部分を露出させることで、この先の熟成が均等に進むよう整えていた。
エスティニアンが作業を終えた直後に完成をさせられるよう下ごしらえをしていた冒険者は、彼が戻ると仕上げを手早く済ませて二皿のカルボナーラを並べ、それとは別に空の皿をフォークと共に手渡した。
「なんだ? 一皿ずつ食えばいいだろう?」
首を傾げるエスティニアンに向かって、ふふん、と、冒険者は得意気に鼻を鳴らした。
「リテイナーにカルボナーラの材料を一式、と頼んだら、当たり前なんだけどストーンチーズも入れてくれててね。さっきの話を聞いて、エスティニアンが作ったものと市場に出回っているものとで食べ比べてみようかと思ったのよ」
「なるほど。もし露骨に味が違っていた場合は、今後の資料として配合を調整する必要があるしな」
「でしょう? こっちがエスティニアンのチーズで作った分よ」
「おう」
エスティニアンは短く応えると、冒険者が指し示した側ではない皿に盛られたカルボナーラを先に選んで手元の皿に取り分けた。
二種類のカルボナーラは二人によって跡形もなく完食され、冒険者は食器類の後片付けを、エスティニアンは火の始末を始めた。
「充分に熟成されたものと比べれば当然だが、このチーズが未熟である点は否めないな」
「塩が塩として少し残っている、って感じ? もう少し寝かせておけば馴染んでくるのかしら?」
その問いにエスティニアンは、火元から冒険者へと視線を移すと頷いた。
「多分な。次に確認をしに来る時には、また料理をしてくれるか」
「何それ? 私は専属料理人じゃないわよ?」
「ククク……それはそうだな」
エスティニアンは笑いながら火の始末を終えると立ち上がり、冒険者の隣に座り直した。
「では聞くが、お前は俺の何だ?」
先のやり取りを受けての形ではあるが、同時に唐突とも取れるエスティニアンの質問に冒険者は驚き、しばらくの間思案をした。
「そうね……。妹弟子で、かつての旅の仲間で、相棒。こんなところかしら?」
「なるほどな。その逆は?」
「命を掛けて助けた、大切な人よ」
その迷いの無い即答にエスティニアンが驚き言葉を失う様を見て、冒険者はその首を傾げる。
「……どうしたの?」
そう冒険者が問い掛けてなおしばらくの間エスティニアンは沈黙を続けた後に、ようやくその口を開いた。
「ファウネムを鎮める前に、己を見つめ直すために旅をしてきたと俺が言ったのを覚えているか?」
「ええ、もちろん」
エスティニアンは冒険者が頷いたのを確認するとその視線を、ちょうど自らの正面に位置する形となっていたチーズが並ぶ棚へと移してから話を続けた。
「蒼の竜騎士の地位を返上したことで、俺は言うなれば殆ど空の状態になった気がしてな。しばらくの間は竜詩戦争で犠牲となった者たちの慰霊を目的として各地を巡っていたんだが、いずれそれもひと段落を迎えるわけだ」
「うん」
「そんな中で時折、お前と逢うことになって。……まあ、バスカロンの酒場の時は、まんまと誘き寄せられたわけだが」
「ふふっ。あれは、準備をしている段階から楽しかったわね」
楽しげに笑う冒険者をエスティニアンはちらりと横目で見ると、軽く舌打ちをする。
「あの悪戯の手の内を明かされた時こそ呆れはしたものの、久し振りにお前と、顔と槍を合わせることができた点は、不思議と心地が良くてな。その時は半信半疑だったが、後に何度かお前と逢ったことで、その感覚が勘違いでは無いのではないかという考え方に傾いてきたわけだ」
「それは、妹弟子の面目躍如、といったところかしら?」
「お前と共に修行をしたのならばそうかもしれんが、違うな」
即座に否定をされてしまった冒険者は微かに眉根を寄せた視線をエスティニアンに送り、話の先を促す。
「今回、俺が一人でモル族を訪ねたことで、お節介な族長にあれこれと言われてしまったわけだが、しかしお陰でその感覚について、ようやく確信に至ることができた」
「何を言われたのかはわからないけど、スッキリとできたんなら良かったんじゃない?」
「ああ」
エスティニアンは短く答えた後、深々と息を吐いた。
「ドラゴンズエアリーの件についてを、俺たちは被害者だとお前は言ったが、あれは俺の気の緩みが招いたことの一環でもあると俺は考えている。今さらだが、まずは謝罪をさせてほしい。辛い思いをさせてしまって、申し訳なかった」
「……わかったわ」
それまでのあっけらかんとした状態から途端に神妙な面持ちとなった冒険者は、噛み締めるようにその一言を、頭を下げているエスティニアンに返した。
「圧倒的な魔力で身体を支配されていたとはいえ、俺の身体がお前を傷付けたという点は変えようのない事実だ。お前の口から今、俺を大切に思ってくれているという話を聞いてなお、俺は、この身がお前に触れることを許されるか否かという答えを出せないでいる。こういうことは、当事者の男が決めるべきではないからな」
あの事件以降、延々と抱え続けていたのであろう心境を搾り出すように述懐するエスティニアンを見た冒険者は、彼の膝の上に置かれた手に自らの手をそっと重ね、それに驚く彼をじっと見つめた後に微笑んだ。
「私たちはティオマンや、名前も知らない邪竜の眷属たちを沢山殺してしまったわ。そのことを考えたら、あの場で私が殺されてもおかしくはなかったと思うの。お互いに辛い出来事ではあったけど、何とか乗り越えて今があるんだから。さっき、誘ってもらえて嬉しいって言ったでしょう? あれが私の気持ちよ。生きているのに逢えなくなってしまう方が、私には辛いわ」
「触れても、構わないのか?」
「いいに決まっているでしょう。許す、と言えばいい?」
その優しげな言葉とは裏腹に上目遣いで睨み付ける冒険者を見たエスティニアンは、その顔を綻ばせると話を続けた。
「では、言わせて貰おう。その感覚というのは、ついぞ忘れていたものでな」
「うん」
「俺の、家族になってくれないか」
「……えっ? それってどういうこ」
驚きの表情を見せた冒険者の後頭部に片手を伸ばして抱き込んだエスティニアンは、彼女の口から紡ぎ出されかけていた問い返しの言葉を、唇を重ねることで封印した。
「……こういうことだ」
本懐を遂げた形となるエスティニアンに対して冒険者は、あまりに衝撃的な展開に対応し切れず、その頭を盛大に混乱させていた。
「あのっ、その、ええと……」
ようやく解放された彼女の唇からは困惑の断片が次々と零れ落ち、その様を見たエスティニアンは楽しげに笑う。
「何だ、そんなに驚かせてしまったか?」
「だって、私……」
「どうした?」
「私、エレゼンじゃないわ」
想定外の反応をされてしまったエスティニアンは、一瞬その目を見開いた後に笑い飛ばした。
「そんなことは知っている」
「だって、イシュガルドでは、こういうことはタブーなんでしょう?」
「らしいな。しかし俺は元々そんな慣習は馬鹿馬鹿しいと考えていたし、アイメリクならば今後、その辺りも変えていくだろうよ」
「馬鹿馬鹿しいって……思ってたの?」
「ああ。考えてもみろ。本当に許されないことならば、ヒルダのような混血は存在しないだろう? ドラゴン族から見れば、俺たちはどちらも「ヒト」だ。違うか、相棒?」
真顔でエスティニアンからそう言われてしまった冒険者は、ようやく納得をしたように微笑むと、その身を彼の懐に預けてからクスクスと笑う。
「そういえば、オーン・カイが言っていたわ。エスティニアンは少し身体の大きいヒトで、私はそれより小さいヒトだって。それでいいのね」
「フッ、あのチビも、たまにはいいことを言いやがる」
エスティニアンがそう言いながらコックタイの先端を摘み、スルリと引き抜いていった感触を襟元に覚えた冒険者は、慌ててその身を起こすと、掌を自らの胸前に立てて盾とした。
「だめだめだめ! ここで、これ以上はだめ!! すぐそこにウヤギル族の人たちが居るもの!!」
「ほう? ここでこれ以上が駄目なのであれば、他の場所でなら構わんと? ならば、お前の部屋か?」
いつの間にか捕食者の貌となっていたエスティニアンは口角を上げ、手の内にある獲物の挙動を愉しむように冒険者へと問い掛ける。
「……私の部屋も、今は駄目だわ。模様替えをしている最中に、誰かさんに呼び出されたんだもの」
「そりゃまた、随分と間の悪い奴が居たもんで」
「まったく、誰のせいだと……。行き先は私が決めればいいのね?」
「ああ、そうしてくれ」
意地悪く笑いながら頷くエスティニアンに行き先を告げることなく、冒険者は彼を巻き込む形でテレポを詠唱した。
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