拓楽
(風邪をひいた丸子が澄野に看病される話:当たり前のように現パロ)
風邪なんて大嫌いだった。
頭も体もあちこち痛んで、熱に浮かされた体は服の衣擦れ一つ敏感に感じ取って気持ちが悪い。
熱いのに寒くて、眠りたいのにそれさえも許されずに、ただ夢現の境界で延々と責苦を受けているように感じた。
オレが悪い子だから、神様はオレに罰を与えるのだろうか。
両親に捨てられるような子供だから、誰も彼もがオレなんていないように素通りしていくのだろうか。
もし、オレが、幸せな家庭に生まれた子供だったら、風邪の時は何をしてもらえたんだろうか。
遠くに聞こえるガキどもの声を聞きながら、滲む視界に映る天井をただ見上げる。
誰かそばにいて欲しい。オレの隣で、心配そうに見ていて欲しい。それだけでいいから。それ以上望まないから。
そんなどうしようもない願い事を唱えながら、最後には気を失うように眠りについた。風邪の時はいつもそうだった。
グループホームの人たちはいつだって忙しい。もう大きくなったガキの面倒まで見ている暇はないのだ。
だからオレは一人でも大丈夫にならないとダメだ。もうお兄ちゃんなんだから。いつまでも甘えてなんていられない。
我慢。我慢。我慢の連続にいい加減嫌気がさす。オレの人生はずっとこの調子で進んで、最後にはこんな人生も悪くなかったとか寝言をほざいておっ死ぬのかよ。
そんなの───あんまりじゃねーか。
「───るこ……丸子…」
暗闇の中で、誰かに名前を呼ばれる。
頼りなさそうなのに、力強くも感じるその声に導かれるままに手を伸ばす。
すぐにはそいつの名前がでてこなかった。長い間忘れていたみたいに懐かしく感じる。
なんでもっと早く来なかったんだよ。そう文句の一つでも言ってやりたいのに、喉が痛くて名前を呼ぶのが精一杯だった。
「……すみの?」
そうだ。こいつは澄野だ。
オレを心配そうな顔で覗き込んでるその顔は、いつもなら笑っちまうくらいに間抜けヅラなのに、熱で朦朧としてる今だと泣けるくらいにカッコよく見えやがる。
澄野はまるで壊れ物に触るみたいにオレの額に触れる。そのくらいで壊れるほど柔じゃないのに、澄野の顔は真剣そのもので、オレの額に張り付いた髪を丁寧によけている。
黙って見ていると、すぐに額にひんやりと冷たいモノが貼られる。家に常備してる物じゃないから、澄野が買ってきたんだろう。
こんなのいらないのに。オレはいつも適当に濡れたタオルを自分で用意してたんだ。それでずっと大丈夫だったんだから───そう言いたいのに、やっぱり喉が痛くて、話すのを諦めた。どうせ澄野の金だし、好きにしたらいい。
「なんだか、静かな丸子ってすごく心配になるな」
澄野がオレの頭を、覚束ない手つきで撫でる。
その手は触れるのを躊躇うように、髪の表面をさわさわと行き来する。熱のせいで触れるもの全てが気持ち悪いはずなのに、なんでか澄野の手は気持ちがいい。
オレにそんなことする価値なんてないのに。この行為にいったいなんのメリットがあるんだ?
純粋に疑問だったが、それを澄野に問うことはできない。なぜなら喉がものすごく痛いからだ。決して頭を撫で続けて欲しいわけじゃない。
「何か食べられそうか? いつも丸子に用意してもらったばかりで自信ないけど、雑炊ぐらいなら作れると思う…」
雑炊ぐらいならって、オメーの得意料理はカップ麺かインスタントラーメンだろうが。見栄張ってんじゃねーよ。
まったく、オレが風邪をひいててよかったな。頭はずっとズキズキするし、節々は身じろぎするだけで悲鳴をあげたくなるほどに痛い───そんな状態では、かろうじて首を縦に振ることしかできない。不可抗力というやつだ。
澄野はオレのジェスチャーに何を勘違いしているのか、嬉しそうに顔を綻ばせている。
オレに飯を用意することの何がそんなに嬉しいんだ。面倒なだけじゃねえか。
「じゃあ、急いで用意するよ。もしなにかあったら、声……は難しいよな。ええと、なにかあったかな……」
さっさと作りにいけよ。
少しの間いなくなったくらいでオレが死ぬとでも思ってんのか、澄野は引き出しを開けて、なにやらうんうんと探し物をしている。
少ししてお目当てのものを見つけたのか、澄野は取ってこいができた犬みたいにこっちに駆け寄ってくる。背後にブンブンと振れる尻尾の幻覚まで見えてきやがった。いよいよオレは限界かもしれねえ。
「ほらこれ。前に面影がお土産にくれた鈴。何に使うんだって仕舞い込んでたけど、これなら声を出さずにオレを呼べるんじゃないか?」
澄野の手がそうっと遠慮がちに、寝ているオレの顔の前に鈴を置く。その際にチリっと小さく鈴が音を立てる。
よくこんなもの覚えてたな。いい加減考えるのも疲れてきて、ぼんやりと面影に渡された時のことを思い出す。なんだっけな。地方に仕事に行った際に、立ち寄った土産屋で買ったとかなんとか、確かそんなものだったはずだ。
まさかこいつに世話になる日がくるとは、オレだって驚きだ。でもまあ、どうせ雑炊なんて一時間もかからずにできるだろうし、一眠りしてる間に終わるだろ。
オレは黙ったまま目を閉じる。額の冷却シートはすっかりぬるくなっていた。それでもわざわざ変えてもらうほどじゃない。
「オレは行くけど、何かあったら呼んでくれよ」
名残惜しそうな声で去っていく澄野に、心の中だけで返事をする。
何かってなんだよ。風邪ひいて寝てるだけなんだから、いちいち人を呼びつけるようなことするわけないだろ。
風邪なんて、おとなしく寝てれば治るんだよ。
いつだってそうだったんだから……。
でも、目を閉じてもいつもより心細くならなかった。暗闇の向こうで、澄野がオレのために雑炊を作っている姿が浮かんでくる。
慣れない手つきで包丁を握り、スマホを覗き込みながら料理する澄野が見える。その危なっかしい姿は見ていてイライラするのに、なんでだろう、ずっと見ていたかった。
*
ふっ、と意識が浮上する。
長いこと寝ていた気もするが、部屋に時計がないせいで今が何時かもわからない。スマホは側に置いておくとつい触っちまうから遠ざけてある。
澄野はまだ雑炊を作ってるのか。手際悪すぎるだろ。それともまだそんなに時間が経ってないのかもしれない。
「……はっ……はっ……」
いや、もしかしたら澄野なんてオレの都合のいい夢なんじゃねえか。オレはずっと一人で、どれだけ待っても誰も姿を見せないんじゃねえか。
そんなことありえねえってわかってる。わかってるのに嫌な予感がずっと離れなくて、不安が体を締め付けるように絡みついてくる。
澄野、澄野───どれだけ心の中で呼んだって届くはずがない。
どんどん呼吸ができなくなる。体が震える。息が止まる。早く。早く。早く。
───何かあったら呼んでくれよ。
澄野の言葉を思い出して、気がついたら鈴に手を伸ばしていた。
チリン…チリン…とあまりにも小さな音だった。
それなのに、ドアを隔てた先から澄野のドタドタと品のない足音が聞こえてくるもんだから、オレは黙ってバカみてえに鈴を鳴らし続けた。
「丸子! なにかあったのか!!」
ドアを壊すんじゃないかって勢いで、澄野が部屋に飛び込んでくる。
いつも、賃貸なんだから気を遣えって言うのは澄野の方なのに、そんな小言も何処かに置き忘れたみたいだ。
「はー……」
自然と、息ができる。
オレが呼んだら───澄野がきてくれた。
それだけのことが、どうしてこんなにもオレを安心させるんだ。
澄野の手にはお玉が握られたままだし、服のあちこちに飛んだ何かの汁の汚れが目を引く。たかだか雑炊ひとつを作るだけで、随分苦戦しているようだ。
もっと普段からお手伝いさせるべきだったか?
いやオレはお母さんかよ。なんでオレが可愛い息子ちゃんよろしく澄野を教育してやらねえといけねえんだよ。
「ごめん。長いこと待たせちゃったか?」
ベッド脇に膝をついて、澄野がこちらを覗き込んでくる。
用もなく呼び付けられたのに、少しも怒っていない。面倒くさいやつだって呆れもしない。なんなんだこいつ。何が目的でこんなにも優しくしてくれるんだよ。
「その、やってみたら意外と難しくてさ。でも大丈夫だ。味見してみたけど結構上手くできたと思う」
澄野の言葉に思わず笑ってしまう。
こっちは風邪ひいてて味がわからねーんだから、なんだっていいのによ。
澄野があんまりにも自信満々にそう言うもんだから、全然腹なんて空いてなかったのに、くう〜と体が反応する。
別にこれは生理的反応だからな!
しばらく何も食べてなかったし、せっかく作ってもらったんだから食べてやらねえと悪いよなってだけの話だ。
「ははっ、よかった。食欲があるならよくなってきてるんだよな」
オレの腹の音を聞いて笑う澄野の笑顔が、あいつらの笑顔と重なって見える。
グループホームの兄弟たちも、よく笑って泣いて、目まぐるしく表情を変えていた。
けど──澄野の笑顔は、あいつらのどれとも違っていた。
あいつらもオレも、所詮世間から捨てられた厄介者だ。他に行くあてがないから寄せ集められた仮の家族にすぎない。
そのはずなのに、なんでかな。
澄野といると、あいつらのことばっか思い出す。
まるで“本当の家族”を思い出すみたいに懐かしくて、そんな自分がちょっと、腹立たしかった。
風邪をひいた時だって、兄弟たちは、移るといけないからと施設の人に遠ざけられて、誰も近くに寄ってこなかった。
それでもドア越しに、「丸子にいちゃん、もうよくなった?」って幼い声が聞こえてきたのを覚えてる。
やっと離れられたのに。
それでもオレの中に居座り続ける太々しい連中を、今になって思い出すなんて、バカみてえだ。
「えっ、泣くほど辛いのかっ?! ヤバい。救急車って何番だっけ?!」
は、泣いてねーし。ていうかいくら焦っても119くらいは覚えとけよ。いやいい。澄野はそのまんま忘れてろ。ぜってーかけんじゃねえぞ。
同居人が泣き出したくらいで救急車を呼ぶ奴なんて、迷惑以外の何者でもない。
オレは慌てて涙を拭って、澄野を手招く。喉の痛みはだいぶマシになったが、話す気分でもないから黙ったまま呼びつける。
むしろ今声を出したら、言わなくてもいいことを言ってしまいそうだった。
「何かして欲しいことでもあるのか? なんでも言ってくれよ」
近づいてくる澄野の腕を掴んで、じっと視線を合わせる。
「丸子?」
……風邪なんて、大嫌いだった。
頭は痛いわ、関節は痛いわ、吐き気はするわ。おまけに体は熱いのに寒いなんて訳のわからない状態になって、もう散々だ。
グループホームにいた時は、忙しい人たちの邪魔をしたくなくて、自分から看病を断ったんだ。物分かりのいい子だと思ってもらえるように。
そのくせ一人になると、放っておかれたような気分になって落ち込んで、誰かにそばにいてほしいと願ってた。何がしたいんだって感じだよな。
本当は、オレがどれだけ遠慮しても、無理矢理にでも側にいて欲しかったんだ。
「すみの……」
風邪でイカれた喉から声を絞り出す。
「腹…減ったから、食わせろよ」
今はこれが精一杯だ。
甘え方なんて誰からも教わらなかったし、甘えていい環境でもなかった。今だって、オレが甘えた途端に、澄野が面倒に感じて嫌われるんじゃないかって怯えてる。
それでも、伸ばされた手を掴んでみたかった。
何度振り払っても、懲りずに何度も差し伸べてくれた手を、信じたいと思っちまったんだ。
「……っ、すぐ持ってくる!」
いったいオレがどんな顔をすれば、澄野にこんな顔をさせられるんだ。誰でもいいから鏡を持ってきてくれ。今後も積極的に活用してやるからよ。
慌てて台所に向かう澄野の背中を見ても、もう不思議と寂しさを感じなかった。
*
まだ立ち上がるのは危ないからと、お盆に乗せられた雑炊を差し出される。
いつも使うお椀の中に盛り付けられた雑炊は、澄野にしてはうまそうな見た目をしていた。澄野なら、もっと漫画みたいな、紫色に煮えたぎった物体Xを持ってきてもおかしくねえからな。
暖かい湯気のおかげか鼻が通って、温かい湯気と共に匂いを感じられる。米の甘やかな香りに、卵や野菜の香りも混じって、それはまさに夢にまで見た芳しさだった。
これは、不器用な澄野が自分のためだけに用意してくれた雑炊だ。この世にたった一つだけの、オレのためだけの優しさがそこにはあった。
「あっ、悪い。まだ辛いよな。オレが食べさせてやるよ」
「へっ…」
泣きそうなのを堪えていると、レンゲを持てなくて困っていると判断した澄野がさっとお椀を手に取る。
澄野は一口よりも少ない量をレンゲに取ると、フーフーと息を吹きかけて冷ましだした。兄弟にやってやったことはあっても、誰かにしてもらうのは初めてだな。
こっち側の景色って、こんな感じなのか──
「丸子、ほら、あーん」
「あ、……んっ」
レンゲごと口に入れられた雑炊は、程よい温かさだった。
鼻は通っても、味覚はまだ鈍っているようだ。正直塩気は感じるが、美味いのか不味いのかはよくわからない。ちょっと火を通しすぎている気がしなくもないが、病人食ならこんなものだろう。
夢にまで見たものというのは、得てして現実になったらこんなものだ。
その後も、澄野に差し出されるままにパクパクと食べ続ける。もともと大した量もなかったお椀の中身は、あっという間に空になった。
次第に味がわかるようになっても、めちゃくちゃ普通だった。可もなく不可もない。澄野みたいな味だ。
これならオレが作った方が絶対にうまい確信がある。
「おかわりするか…?」
なのに、澄野があんまりにも期待した目で見てくるもんだから、断ることなんてできなかった。まあまだ腹は減ってたし、不味くねえならなんだって食うけどよ。…不味くても食わなきゃいけねー時は食うしかないしな。
それに、オレだけのために作られたもんを残すなんてもったいねーもん。澄野の雑炊は一粒残らずオレのものだ。誰にも渡さねえ。
「ん、仕方ねーから、食べてやるよ」
「ははっ、素直じゃないな」
「言っとくけどな、別に味は普通だからな」
「はいはい」
なにが、はいはいだ。本当にわかってんのか。
「喉も良くなったみたいで安心したよ。この調子なら、明日には熱も下がってるんじゃないか」
澄野に言われて気づく。
いつもだったらまだ痛くて苦しいはずなのに、もうすっかりいつもの調子を取り戻している。やっぱり金なのか。冷却シートに抗生物質……健康は金で買うしかねーってのか?!
なんて、それももちろんあるんだろうけど、多分、澄野が付きっきりで看病してくれたのが一番なんだろうな。
「まだまだたくさんあるからな」
オレの回復を素直に喜ぶ澄野を見ていると、全身がむず痒くなる。こいつ、マジでオレのことが好きなんだな。
どれだけ体を重ねても半信半疑だった澄野の好意を、今更ながら実感する。ぶっちゃけ男はエロいことをするためなら平気で嘘をつくからな。セックス中の愛してるは信じるなってことだ。
だからこうして澄野が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるのが、新鮮で、なんだかすごく、幸せだった。
風邪を引くのなんて、ツイてねえと思ってたけど、案外悪くないかもな。
あーあ。オレってやつは、こんなに弱くなっちまって。この先もし一人になったら、ぽっくりと死んじまいそうだ。
そんなのは御免だから、澄野は責任をとって最後まで側にいろよ。勝手に置いてったらマジで許さねえ。
オレを一人で生きれなくさせた罪は重いんだからな。
「食べ終わったら薬の時間だからな」
「ギニャーーーー! 薬は嫌いなんだよおおおっっ」
前言撤回。やっぱり風邪なんて最低だ。
終わり
風邪なんて大嫌いだった。
頭も体もあちこち痛んで、熱に浮かされた体は服の衣擦れ一つ敏感に感じ取って気持ちが悪い。
熱いのに寒くて、眠りたいのにそれさえも許されずに、ただ夢現の境界で延々と責苦を受けているように感じた。
オレが悪い子だから、神様はオレに罰を与えるのだろうか。
両親に捨てられるような子供だから、誰も彼もがオレなんていないように素通りしていくのだろうか。
もし、オレが、幸せな家庭に生まれた子供だったら、風邪の時は何をしてもらえたんだろうか。
遠くに聞こえるガキどもの声を聞きながら、滲む視界に映る天井をただ見上げる。
誰かそばにいて欲しい。オレの隣で、心配そうに見ていて欲しい。それだけでいいから。それ以上望まないから。
そんなどうしようもない願い事を唱えながら、最後には気を失うように眠りについた。風邪の時はいつもそうだった。
グループホームの人たちはいつだって忙しい。もう大きくなったガキの面倒まで見ている暇はないのだ。
だからオレは一人でも大丈夫にならないとダメだ。もうお兄ちゃんなんだから。いつまでも甘えてなんていられない。
我慢。我慢。我慢の連続にいい加減嫌気がさす。オレの人生はずっとこの調子で進んで、最後にはこんな人生も悪くなかったとか寝言をほざいておっ死ぬのかよ。
そんなの───あんまりじゃねーか。
「───るこ……丸子…」
暗闇の中で、誰かに名前を呼ばれる。
頼りなさそうなのに、力強くも感じるその声に導かれるままに手を伸ばす。
すぐにはそいつの名前がでてこなかった。長い間忘れていたみたいに懐かしく感じる。
なんでもっと早く来なかったんだよ。そう文句の一つでも言ってやりたいのに、喉が痛くて名前を呼ぶのが精一杯だった。
「……すみの?」
そうだ。こいつは澄野だ。
オレを心配そうな顔で覗き込んでるその顔は、いつもなら笑っちまうくらいに間抜けヅラなのに、熱で朦朧としてる今だと泣けるくらいにカッコよく見えやがる。
澄野はまるで壊れ物に触るみたいにオレの額に触れる。そのくらいで壊れるほど柔じゃないのに、澄野の顔は真剣そのもので、オレの額に張り付いた髪を丁寧によけている。
黙って見ていると、すぐに額にひんやりと冷たいモノが貼られる。家に常備してる物じゃないから、澄野が買ってきたんだろう。
こんなのいらないのに。オレはいつも適当に濡れたタオルを自分で用意してたんだ。それでずっと大丈夫だったんだから───そう言いたいのに、やっぱり喉が痛くて、話すのを諦めた。どうせ澄野の金だし、好きにしたらいい。
「なんだか、静かな丸子ってすごく心配になるな」
澄野がオレの頭を、覚束ない手つきで撫でる。
その手は触れるのを躊躇うように、髪の表面をさわさわと行き来する。熱のせいで触れるもの全てが気持ち悪いはずなのに、なんでか澄野の手は気持ちがいい。
オレにそんなことする価値なんてないのに。この行為にいったいなんのメリットがあるんだ?
純粋に疑問だったが、それを澄野に問うことはできない。なぜなら喉がものすごく痛いからだ。決して頭を撫で続けて欲しいわけじゃない。
「何か食べられそうか? いつも丸子に用意してもらったばかりで自信ないけど、雑炊ぐらいなら作れると思う…」
雑炊ぐらいならって、オメーの得意料理はカップ麺かインスタントラーメンだろうが。見栄張ってんじゃねーよ。
まったく、オレが風邪をひいててよかったな。頭はずっとズキズキするし、節々は身じろぎするだけで悲鳴をあげたくなるほどに痛い───そんな状態では、かろうじて首を縦に振ることしかできない。不可抗力というやつだ。
澄野はオレのジェスチャーに何を勘違いしているのか、嬉しそうに顔を綻ばせている。
オレに飯を用意することの何がそんなに嬉しいんだ。面倒なだけじゃねえか。
「じゃあ、急いで用意するよ。もしなにかあったら、声……は難しいよな。ええと、なにかあったかな……」
さっさと作りにいけよ。
少しの間いなくなったくらいでオレが死ぬとでも思ってんのか、澄野は引き出しを開けて、なにやらうんうんと探し物をしている。
少ししてお目当てのものを見つけたのか、澄野は取ってこいができた犬みたいにこっちに駆け寄ってくる。背後にブンブンと振れる尻尾の幻覚まで見えてきやがった。いよいよオレは限界かもしれねえ。
「ほらこれ。前に面影がお土産にくれた鈴。何に使うんだって仕舞い込んでたけど、これなら声を出さずにオレを呼べるんじゃないか?」
澄野の手がそうっと遠慮がちに、寝ているオレの顔の前に鈴を置く。その際にチリっと小さく鈴が音を立てる。
よくこんなもの覚えてたな。いい加減考えるのも疲れてきて、ぼんやりと面影に渡された時のことを思い出す。なんだっけな。地方に仕事に行った際に、立ち寄った土産屋で買ったとかなんとか、確かそんなものだったはずだ。
まさかこいつに世話になる日がくるとは、オレだって驚きだ。でもまあ、どうせ雑炊なんて一時間もかからずにできるだろうし、一眠りしてる間に終わるだろ。
オレは黙ったまま目を閉じる。額の冷却シートはすっかりぬるくなっていた。それでもわざわざ変えてもらうほどじゃない。
「オレは行くけど、何かあったら呼んでくれよ」
名残惜しそうな声で去っていく澄野に、心の中だけで返事をする。
何かってなんだよ。風邪ひいて寝てるだけなんだから、いちいち人を呼びつけるようなことするわけないだろ。
風邪なんて、おとなしく寝てれば治るんだよ。
いつだってそうだったんだから……。
でも、目を閉じてもいつもより心細くならなかった。暗闇の向こうで、澄野がオレのために雑炊を作っている姿が浮かんでくる。
慣れない手つきで包丁を握り、スマホを覗き込みながら料理する澄野が見える。その危なっかしい姿は見ていてイライラするのに、なんでだろう、ずっと見ていたかった。
*
ふっ、と意識が浮上する。
長いこと寝ていた気もするが、部屋に時計がないせいで今が何時かもわからない。スマホは側に置いておくとつい触っちまうから遠ざけてある。
澄野はまだ雑炊を作ってるのか。手際悪すぎるだろ。それともまだそんなに時間が経ってないのかもしれない。
「……はっ……はっ……」
いや、もしかしたら澄野なんてオレの都合のいい夢なんじゃねえか。オレはずっと一人で、どれだけ待っても誰も姿を見せないんじゃねえか。
そんなことありえねえってわかってる。わかってるのに嫌な予感がずっと離れなくて、不安が体を締め付けるように絡みついてくる。
澄野、澄野───どれだけ心の中で呼んだって届くはずがない。
どんどん呼吸ができなくなる。体が震える。息が止まる。早く。早く。早く。
───何かあったら呼んでくれよ。
澄野の言葉を思い出して、気がついたら鈴に手を伸ばしていた。
チリン…チリン…とあまりにも小さな音だった。
それなのに、ドアを隔てた先から澄野のドタドタと品のない足音が聞こえてくるもんだから、オレは黙ってバカみてえに鈴を鳴らし続けた。
「丸子! なにかあったのか!!」
ドアを壊すんじゃないかって勢いで、澄野が部屋に飛び込んでくる。
いつも、賃貸なんだから気を遣えって言うのは澄野の方なのに、そんな小言も何処かに置き忘れたみたいだ。
「はー……」
自然と、息ができる。
オレが呼んだら───澄野がきてくれた。
それだけのことが、どうしてこんなにもオレを安心させるんだ。
澄野の手にはお玉が握られたままだし、服のあちこちに飛んだ何かの汁の汚れが目を引く。たかだか雑炊ひとつを作るだけで、随分苦戦しているようだ。
もっと普段からお手伝いさせるべきだったか?
いやオレはお母さんかよ。なんでオレが可愛い息子ちゃんよろしく澄野を教育してやらねえといけねえんだよ。
「ごめん。長いこと待たせちゃったか?」
ベッド脇に膝をついて、澄野がこちらを覗き込んでくる。
用もなく呼び付けられたのに、少しも怒っていない。面倒くさいやつだって呆れもしない。なんなんだこいつ。何が目的でこんなにも優しくしてくれるんだよ。
「その、やってみたら意外と難しくてさ。でも大丈夫だ。味見してみたけど結構上手くできたと思う」
澄野の言葉に思わず笑ってしまう。
こっちは風邪ひいてて味がわからねーんだから、なんだっていいのによ。
澄野があんまりにも自信満々にそう言うもんだから、全然腹なんて空いてなかったのに、くう〜と体が反応する。
別にこれは生理的反応だからな!
しばらく何も食べてなかったし、せっかく作ってもらったんだから食べてやらねえと悪いよなってだけの話だ。
「ははっ、よかった。食欲があるならよくなってきてるんだよな」
オレの腹の音を聞いて笑う澄野の笑顔が、あいつらの笑顔と重なって見える。
グループホームの兄弟たちも、よく笑って泣いて、目まぐるしく表情を変えていた。
けど──澄野の笑顔は、あいつらのどれとも違っていた。
あいつらもオレも、所詮世間から捨てられた厄介者だ。他に行くあてがないから寄せ集められた仮の家族にすぎない。
そのはずなのに、なんでかな。
澄野といると、あいつらのことばっか思い出す。
まるで“本当の家族”を思い出すみたいに懐かしくて、そんな自分がちょっと、腹立たしかった。
風邪をひいた時だって、兄弟たちは、移るといけないからと施設の人に遠ざけられて、誰も近くに寄ってこなかった。
それでもドア越しに、「丸子にいちゃん、もうよくなった?」って幼い声が聞こえてきたのを覚えてる。
やっと離れられたのに。
それでもオレの中に居座り続ける太々しい連中を、今になって思い出すなんて、バカみてえだ。
「えっ、泣くほど辛いのかっ?! ヤバい。救急車って何番だっけ?!」
は、泣いてねーし。ていうかいくら焦っても119くらいは覚えとけよ。いやいい。澄野はそのまんま忘れてろ。ぜってーかけんじゃねえぞ。
同居人が泣き出したくらいで救急車を呼ぶ奴なんて、迷惑以外の何者でもない。
オレは慌てて涙を拭って、澄野を手招く。喉の痛みはだいぶマシになったが、話す気分でもないから黙ったまま呼びつける。
むしろ今声を出したら、言わなくてもいいことを言ってしまいそうだった。
「何かして欲しいことでもあるのか? なんでも言ってくれよ」
近づいてくる澄野の腕を掴んで、じっと視線を合わせる。
「丸子?」
……風邪なんて、大嫌いだった。
頭は痛いわ、関節は痛いわ、吐き気はするわ。おまけに体は熱いのに寒いなんて訳のわからない状態になって、もう散々だ。
グループホームにいた時は、忙しい人たちの邪魔をしたくなくて、自分から看病を断ったんだ。物分かりのいい子だと思ってもらえるように。
そのくせ一人になると、放っておかれたような気分になって落ち込んで、誰かにそばにいてほしいと願ってた。何がしたいんだって感じだよな。
本当は、オレがどれだけ遠慮しても、無理矢理にでも側にいて欲しかったんだ。
「すみの……」
風邪でイカれた喉から声を絞り出す。
「腹…減ったから、食わせろよ」
今はこれが精一杯だ。
甘え方なんて誰からも教わらなかったし、甘えていい環境でもなかった。今だって、オレが甘えた途端に、澄野が面倒に感じて嫌われるんじゃないかって怯えてる。
それでも、伸ばされた手を掴んでみたかった。
何度振り払っても、懲りずに何度も差し伸べてくれた手を、信じたいと思っちまったんだ。
「……っ、すぐ持ってくる!」
いったいオレがどんな顔をすれば、澄野にこんな顔をさせられるんだ。誰でもいいから鏡を持ってきてくれ。今後も積極的に活用してやるからよ。
慌てて台所に向かう澄野の背中を見ても、もう不思議と寂しさを感じなかった。
*
まだ立ち上がるのは危ないからと、お盆に乗せられた雑炊を差し出される。
いつも使うお椀の中に盛り付けられた雑炊は、澄野にしてはうまそうな見た目をしていた。澄野なら、もっと漫画みたいな、紫色に煮えたぎった物体Xを持ってきてもおかしくねえからな。
暖かい湯気のおかげか鼻が通って、温かい湯気と共に匂いを感じられる。米の甘やかな香りに、卵や野菜の香りも混じって、それはまさに夢にまで見た芳しさだった。
これは、不器用な澄野が自分のためだけに用意してくれた雑炊だ。この世にたった一つだけの、オレのためだけの優しさがそこにはあった。
「あっ、悪い。まだ辛いよな。オレが食べさせてやるよ」
「へっ…」
泣きそうなのを堪えていると、レンゲを持てなくて困っていると判断した澄野がさっとお椀を手に取る。
澄野は一口よりも少ない量をレンゲに取ると、フーフーと息を吹きかけて冷ましだした。兄弟にやってやったことはあっても、誰かにしてもらうのは初めてだな。
こっち側の景色って、こんな感じなのか──
「丸子、ほら、あーん」
「あ、……んっ」
レンゲごと口に入れられた雑炊は、程よい温かさだった。
鼻は通っても、味覚はまだ鈍っているようだ。正直塩気は感じるが、美味いのか不味いのかはよくわからない。ちょっと火を通しすぎている気がしなくもないが、病人食ならこんなものだろう。
夢にまで見たものというのは、得てして現実になったらこんなものだ。
その後も、澄野に差し出されるままにパクパクと食べ続ける。もともと大した量もなかったお椀の中身は、あっという間に空になった。
次第に味がわかるようになっても、めちゃくちゃ普通だった。可もなく不可もない。澄野みたいな味だ。
これならオレが作った方が絶対にうまい確信がある。
「おかわりするか…?」
なのに、澄野があんまりにも期待した目で見てくるもんだから、断ることなんてできなかった。まあまだ腹は減ってたし、不味くねえならなんだって食うけどよ。…不味くても食わなきゃいけねー時は食うしかないしな。
それに、オレだけのために作られたもんを残すなんてもったいねーもん。澄野の雑炊は一粒残らずオレのものだ。誰にも渡さねえ。
「ん、仕方ねーから、食べてやるよ」
「ははっ、素直じゃないな」
「言っとくけどな、別に味は普通だからな」
「はいはい」
なにが、はいはいだ。本当にわかってんのか。
「喉も良くなったみたいで安心したよ。この調子なら、明日には熱も下がってるんじゃないか」
澄野に言われて気づく。
いつもだったらまだ痛くて苦しいはずなのに、もうすっかりいつもの調子を取り戻している。やっぱり金なのか。冷却シートに抗生物質……健康は金で買うしかねーってのか?!
なんて、それももちろんあるんだろうけど、多分、澄野が付きっきりで看病してくれたのが一番なんだろうな。
「まだまだたくさんあるからな」
オレの回復を素直に喜ぶ澄野を見ていると、全身がむず痒くなる。こいつ、マジでオレのことが好きなんだな。
どれだけ体を重ねても半信半疑だった澄野の好意を、今更ながら実感する。ぶっちゃけ男はエロいことをするためなら平気で嘘をつくからな。セックス中の愛してるは信じるなってことだ。
だからこうして澄野が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるのが、新鮮で、なんだかすごく、幸せだった。
風邪を引くのなんて、ツイてねえと思ってたけど、案外悪くないかもな。
あーあ。オレってやつは、こんなに弱くなっちまって。この先もし一人になったら、ぽっくりと死んじまいそうだ。
そんなのは御免だから、澄野は責任をとって最後まで側にいろよ。勝手に置いてったらマジで許さねえ。
オレを一人で生きれなくさせた罪は重いんだからな。
「食べ終わったら薬の時間だからな」
「ギニャーーーー! 薬は嫌いなんだよおおおっっ」
前言撤回。やっぱり風邪なんて最低だ。
終わり