Verse
「……じゃあ、またね。カイト」
「うん、またね」
額を合わせていた二人のボーカロイドが名残惜しむようにゆっくりと離れて見つめ合う。重ねた左手の薬指には華奢なリングがささやかに光を受けて煌めいた。
『verse(バース)』
夏休みに入る数日前、見ず知らずの人から変なDMが来た。会いませんかと書かれていた。
母子家庭で生まれ育ったオレは、世間一般的に息子が母に隠すようなこともあまり気にせず伝えるタイプだった。
だからその時も、母に言って、そんなの無視しろとか、会うなとか言われることを期待して報告した。
しかし母はその人のプロフィールをしばらく見て、別にいいよ、会っておいでと言ったのだ。
どうして、と聞けなかったけれどオレがそんな顔をしていたのを見たのか、母は「その人はあなたの血縁みたいなものだから」と言ってきた。
何だ、「みたいなもの」って。
プロフィール写真には青みがかった黒の髪色をした、雰囲気だけは爽やかそうな青年が写っていた。
___
バスに乗るのは高校受験の時以来だ。
時間通りに来ないし、人は多いし、揺れるし、がちゃがちゃした音を立てるから苦手だ。
相手の要求してきた住所は都心からローカル線で2時間近くかかる場所だった。
まだ駅を出た時は住宅街という雰囲気があったが、このバスに乗ってからというもの、段々と山道に入っている気がする。……今、落石注意の看板があった。
誘拐でもされたらどうしよう、とそんな不安はずっと思考の片隅にある。スマホはまだアンテナが繋がっている。
目的のバス停までもう少し時間がある。
アナウンスを聞き逃さないようにと注意を凝らしていたが、前のパネルにバス停の名前が表示されるようなのでもういいかと思い、首にかけていたヘッドホンを着け直した。
音楽を聴き始めれば目的地まではそう遠くなかった。料金を支払うと運転手は変わった人を見るかのように視線を上から下へ往復させていた。ヘッドホンをしているからか、若いからか、その辺りの理由だろうと思った。
降りたバス停から百メートルほど歩いた先に彼はいた。木陰で汗を拭って、オレを待っている様子だった。
その道路に他に人は一人もいないから、近付くオレにすぐに気付いてこちらに手を振ってきた。音楽を止めてヘッドホンを外すと彼の声より先に蝉の鳴き声がけたたましく耳に流れ込んできた。
「こんにちは。君はレンくん?」
「……どうして名前を知っているんですか」
「どうしてって、君がそれを望んだからだよ」
「……えっと」
なんだこの人。オレはSNSのハンドルネームしか伝えてないのに。話は噛み合わないし、やっぱりやばい人だったのかな。
「レンくん、前と全然変わらないのに僕のこと覚えてないんだね。多分すぐ思い出すよ」
「昔あなたにお会いしましたか、オレ」
「うん、君が生まれてからずっと一緒にいたよ。……今日は遠くまでお疲れさま。家すぐ近くだから」
そう言ってなんの確認も取らず手を取られた。
男同士だとか知らない人に急にとか混乱したが、何より一番驚いたのは彼の手が驚くほど冷たいことだった。
七月も終わる頃の真夏日だというのにこの人は長袖を着ている。
彼はもしかして人間じゃないのかと、この状況ではそんなまともじゃない発想ぐらいしか浮かばなかった。
人間かどうかを聞くのははばかられるが、何でもいいから次に相手が話す前になにか言わなければ。こちらの情報が割られてばかりでは不平等だ。
「あの……お兄さんの、名前は何ですか」
「僕の名前は海(かい)だけど……でも僕お兄さんって言われるの好きだから、良かったらお兄さんって呼んでよ」
(かい……)
どこかで聞いたことあるような、しかしすぐに気のせいだろうと思った。同じ音の言葉なんて沢山ある。
名前を呼ぶのは少し抵抗があったのでオレは言われた通りに返した。
「……お兄さん」
「うん」
彼は嬉しそうな顔をしていた。本当にそう呼ばれるのが好きなのか。兄弟でも居るのだろうか。あるいはいないから呼ばれたいとか。
そう言えば彼のSNSでの名前は実名から取っていたようだった。顔も名も晒して、危ない人だ。
___
彼の家なのかはよく分からないが、案内された場所はテレビなんかで見たことあるような古い家屋だった。縁側がある。ドアが引き戸だ。
マンションのワンルーム暮らしのオレには縁遠すぎて何もかも新鮮で部屋に連れられるあいだも辺りをきょろきょろ見回していた。
「すごいでしょ。ここ、僕のお城なの」
「え、他に家族……とかは」
「実家はもっと都市に近い場所にあるよ。母もそこにいる。ここは離れって言うのかな。療養で僕だけここにいるんだ」
「療養……」
やっぱり、先の手の異常な冷たさは理由があったんだ。それにしたって病人を一人放置しておくなんてことあるだろうか。
「療養って体(てい)で、多分捨てられたんだ。母は多分僕のことが怖いから」
「……」
「意味が、分かんないです。どうして……」
次から次に彼のことを明かされて驚いた。
彼は病気でここで一人で寂しいからここに人を呼んだのか?それにしたってどうして見ず知らずのオレなんかを。でもこの人は昔から知ってるって。
「レンくんのお母さんだって、こんな所に君ひとりで来させるなんて、普通じゃない同士だよ」
「……母は」
大事に隠していた引き出しの中身を勝手に暴かれたような、そんな悪寒がした。
なんだこの人は。何を知っているんだ。
病人だからと油断していた数秒前の自分を悔いた。
「…………普通の人です、少なくとも、あなたより……」
母は、普通の人だ……。普通の……。
舐めるような目線。
何をした訳でもないのに息を切らし上気した顔。
俺の名を呼ぶ声。
夕暮れ時、電気の付いていない母の部屋でされたこと。
「ふふ、普通なんてどこにもないから普通って言い切ればいいのに」
「っ、あ」
押し倒されて、目の前が真っ暗になった。
まだ昼下がりだと言うのに。そう言えばこの部屋は電気がついていない。外の景色が映画館のスクリーンみたいに見える。あれは、縁側だ。
緑が鮮やかで、蝉時雨がスピーカーから流れてくる。
「その顔じゃ普通の人じゃないって言ってるみたいだ」
「オレのこと、襲うつもりで呼んだんですか」
「そう、って言ったらどうする?」
「……」
冷たい手がシャツの裾を捲って、そこから腹を指でなぞられた。母も、緊張している時はよく手が冷たくなっていた。そんなになるぐらいならしなければいいのにと思っていた。
その時の感情が即物的だったのか、自分もその熱に浮かされたのか今ではよく分からない。
「……母からも、……小学校高学年から、中学卒業まで続いてました。両親がいる友達に両親の仲の良さを聞いたことがあったから、シングルの母はオレのこと夫代わりに見てたのかなって考えたりしてました」
「なるほどね……」
お兄さんと称する彼がオレのことを知っている前提に話を進めた。彼は相槌を打ちながら愛撫を始めた。頬に手が寄せられる。
「だから、別に今までもあった事なので好きにしてください。……“お兄さん“が寂しいなら相手になります」
「……ありがとう、レンくん」
そう言った時、彼は眉を寄せて泣きそうな顔になった。やっぱり、彼は寂しかったんだ。想像が当たって安心した。
___
「なにか感じた?」
「ううん、"嬉しい"し"幸せ"だけど何も感じない」
「やっぱり早くパートナーを見つけなきゃ……」
「そうだね、"秘密"で作った指輪もいつまで持つか分からない」
「早くカイトに触れたい」
「僕も」
──
「お兄さん、部屋に冷房とかないんですか」
「あ〜ストーブは外の倉庫にあったんだけど、扇風機もそこにあるのかな……ここに来たの1月のことだったからさ、暑さ対策したこと無かった」
八月前の気候はこの家がいくら風通しが良いとは言っても意識し出すと耐えきれるものではなかった。汗が滝のように流れてくる。脱水症状になりそうだ。
バスに乗る前にコンビニで買ったスポーツドリンクがあって良かった。
半分ほど飲んで、残りを彼に渡した。彼は間接キスになっちゃうね、とはにかみながら飲んでいた。先程それよりも大変なことをしていたというのに。
結論から言うと、彼はちゃんと人間だった。
いや、当たり前の話なんだけれど、初めて触れた時は氷のようだったから。でも、行為を進めていくうち蒼白い顔も幾らか赤く染まったし、彼のものはオレのと変わらないぐらい熱かった。
「あ……お湯沸かさなきゃ」
「お茶でも飲むんですか」
「ううん、薬を飲むから白湯を作らないといけないの」
彼は起き上がろうとしていたが、自分の方がすぐに動けそうだったのでそれを制した。
「横になっててください。オレが沸かしてきます」
「本当?ありがとう」
ここに来るまでに台所を見たから場所は把握していた。どうやら、お兄さんはこの家の使う場所を最低限にしてそこだけ行き来しやすいように解放してるようだった。今のところの移動範囲だけ見るとうちとほとんど変わりない。
広間は文字通りやたら広かったけれど。
朝にもヤカンを使ったのか水切りかごにヤカンが入っていた。
布巾で軽く拭って水を入れて、火にかける。生活してるというから当然の話ではあるが水やガスが通っていて少し驚いた。急にここに暮らすことになった彼はどんな気持ちだったのだろう。療養なのに、全ての家事を彼ひとりでしていたように見える。
お湯を沸かす間そんな疑問ばかり浮かんで仕方なかった。手持ち無沙汰になった手が台所で適当なリズムを叩く。
「それって三拍子?」
「あ……えっと、そうですね、とくに意識はしてなかったんですけど」
下着姿のままお兄さんが台所にやってきた。
指で叩くのは気づいたらどこでもやってしまう癖だ。音を立ててないと落ち着かなくて、一度授業中にやらかして怒られたことがある。
「お湯が沸いたら蓋を開けて十分ぐらいそのまま沸かしておいてね」
「お兄さんは何の病気なんですか」
「病気じゃなくて寿命かな。薬飲んでもあんまり意味は無いんだけど、レンくんには会いたかったから」
「……寿命?」
頭からいくつもの疑問が浮かんで、そのままの顔で彼を見たら彼はとても困った顔をしていた。わかりやすいぐらい適当に話を逸らされた。
「……あとで、扇風機持ってこようか」
「うん、またね」
額を合わせていた二人のボーカロイドが名残惜しむようにゆっくりと離れて見つめ合う。重ねた左手の薬指には華奢なリングがささやかに光を受けて煌めいた。
『verse(バース)』
夏休みに入る数日前、見ず知らずの人から変なDMが来た。会いませんかと書かれていた。
母子家庭で生まれ育ったオレは、世間一般的に息子が母に隠すようなこともあまり気にせず伝えるタイプだった。
だからその時も、母に言って、そんなの無視しろとか、会うなとか言われることを期待して報告した。
しかし母はその人のプロフィールをしばらく見て、別にいいよ、会っておいでと言ったのだ。
どうして、と聞けなかったけれどオレがそんな顔をしていたのを見たのか、母は「その人はあなたの血縁みたいなものだから」と言ってきた。
何だ、「みたいなもの」って。
プロフィール写真には青みがかった黒の髪色をした、雰囲気だけは爽やかそうな青年が写っていた。
___
バスに乗るのは高校受験の時以来だ。
時間通りに来ないし、人は多いし、揺れるし、がちゃがちゃした音を立てるから苦手だ。
相手の要求してきた住所は都心からローカル線で2時間近くかかる場所だった。
まだ駅を出た時は住宅街という雰囲気があったが、このバスに乗ってからというもの、段々と山道に入っている気がする。……今、落石注意の看板があった。
誘拐でもされたらどうしよう、とそんな不安はずっと思考の片隅にある。スマホはまだアンテナが繋がっている。
目的のバス停までもう少し時間がある。
アナウンスを聞き逃さないようにと注意を凝らしていたが、前のパネルにバス停の名前が表示されるようなのでもういいかと思い、首にかけていたヘッドホンを着け直した。
音楽を聴き始めれば目的地まではそう遠くなかった。料金を支払うと運転手は変わった人を見るかのように視線を上から下へ往復させていた。ヘッドホンをしているからか、若いからか、その辺りの理由だろうと思った。
降りたバス停から百メートルほど歩いた先に彼はいた。木陰で汗を拭って、オレを待っている様子だった。
その道路に他に人は一人もいないから、近付くオレにすぐに気付いてこちらに手を振ってきた。音楽を止めてヘッドホンを外すと彼の声より先に蝉の鳴き声がけたたましく耳に流れ込んできた。
「こんにちは。君はレンくん?」
「……どうして名前を知っているんですか」
「どうしてって、君がそれを望んだからだよ」
「……えっと」
なんだこの人。オレはSNSのハンドルネームしか伝えてないのに。話は噛み合わないし、やっぱりやばい人だったのかな。
「レンくん、前と全然変わらないのに僕のこと覚えてないんだね。多分すぐ思い出すよ」
「昔あなたにお会いしましたか、オレ」
「うん、君が生まれてからずっと一緒にいたよ。……今日は遠くまでお疲れさま。家すぐ近くだから」
そう言ってなんの確認も取らず手を取られた。
男同士だとか知らない人に急にとか混乱したが、何より一番驚いたのは彼の手が驚くほど冷たいことだった。
七月も終わる頃の真夏日だというのにこの人は長袖を着ている。
彼はもしかして人間じゃないのかと、この状況ではそんなまともじゃない発想ぐらいしか浮かばなかった。
人間かどうかを聞くのははばかられるが、何でもいいから次に相手が話す前になにか言わなければ。こちらの情報が割られてばかりでは不平等だ。
「あの……お兄さんの、名前は何ですか」
「僕の名前は海(かい)だけど……でも僕お兄さんって言われるの好きだから、良かったらお兄さんって呼んでよ」
(かい……)
どこかで聞いたことあるような、しかしすぐに気のせいだろうと思った。同じ音の言葉なんて沢山ある。
名前を呼ぶのは少し抵抗があったのでオレは言われた通りに返した。
「……お兄さん」
「うん」
彼は嬉しそうな顔をしていた。本当にそう呼ばれるのが好きなのか。兄弟でも居るのだろうか。あるいはいないから呼ばれたいとか。
そう言えば彼のSNSでの名前は実名から取っていたようだった。顔も名も晒して、危ない人だ。
___
彼の家なのかはよく分からないが、案内された場所はテレビなんかで見たことあるような古い家屋だった。縁側がある。ドアが引き戸だ。
マンションのワンルーム暮らしのオレには縁遠すぎて何もかも新鮮で部屋に連れられるあいだも辺りをきょろきょろ見回していた。
「すごいでしょ。ここ、僕のお城なの」
「え、他に家族……とかは」
「実家はもっと都市に近い場所にあるよ。母もそこにいる。ここは離れって言うのかな。療養で僕だけここにいるんだ」
「療養……」
やっぱり、先の手の異常な冷たさは理由があったんだ。それにしたって病人を一人放置しておくなんてことあるだろうか。
「療養って体(てい)で、多分捨てられたんだ。母は多分僕のことが怖いから」
「……」
「意味が、分かんないです。どうして……」
次から次に彼のことを明かされて驚いた。
彼は病気でここで一人で寂しいからここに人を呼んだのか?それにしたってどうして見ず知らずのオレなんかを。でもこの人は昔から知ってるって。
「レンくんのお母さんだって、こんな所に君ひとりで来させるなんて、普通じゃない同士だよ」
「……母は」
大事に隠していた引き出しの中身を勝手に暴かれたような、そんな悪寒がした。
なんだこの人は。何を知っているんだ。
病人だからと油断していた数秒前の自分を悔いた。
「…………普通の人です、少なくとも、あなたより……」
母は、普通の人だ……。普通の……。
舐めるような目線。
何をした訳でもないのに息を切らし上気した顔。
俺の名を呼ぶ声。
夕暮れ時、電気の付いていない母の部屋でされたこと。
「ふふ、普通なんてどこにもないから普通って言い切ればいいのに」
「っ、あ」
押し倒されて、目の前が真っ暗になった。
まだ昼下がりだと言うのに。そう言えばこの部屋は電気がついていない。外の景色が映画館のスクリーンみたいに見える。あれは、縁側だ。
緑が鮮やかで、蝉時雨がスピーカーから流れてくる。
「その顔じゃ普通の人じゃないって言ってるみたいだ」
「オレのこと、襲うつもりで呼んだんですか」
「そう、って言ったらどうする?」
「……」
冷たい手がシャツの裾を捲って、そこから腹を指でなぞられた。母も、緊張している時はよく手が冷たくなっていた。そんなになるぐらいならしなければいいのにと思っていた。
その時の感情が即物的だったのか、自分もその熱に浮かされたのか今ではよく分からない。
「……母からも、……小学校高学年から、中学卒業まで続いてました。両親がいる友達に両親の仲の良さを聞いたことがあったから、シングルの母はオレのこと夫代わりに見てたのかなって考えたりしてました」
「なるほどね……」
お兄さんと称する彼がオレのことを知っている前提に話を進めた。彼は相槌を打ちながら愛撫を始めた。頬に手が寄せられる。
「だから、別に今までもあった事なので好きにしてください。……“お兄さん“が寂しいなら相手になります」
「……ありがとう、レンくん」
そう言った時、彼は眉を寄せて泣きそうな顔になった。やっぱり、彼は寂しかったんだ。想像が当たって安心した。
___
「なにか感じた?」
「ううん、"嬉しい"し"幸せ"だけど何も感じない」
「やっぱり早くパートナーを見つけなきゃ……」
「そうだね、"秘密"で作った指輪もいつまで持つか分からない」
「早くカイトに触れたい」
「僕も」
──
「お兄さん、部屋に冷房とかないんですか」
「あ〜ストーブは外の倉庫にあったんだけど、扇風機もそこにあるのかな……ここに来たの1月のことだったからさ、暑さ対策したこと無かった」
八月前の気候はこの家がいくら風通しが良いとは言っても意識し出すと耐えきれるものではなかった。汗が滝のように流れてくる。脱水症状になりそうだ。
バスに乗る前にコンビニで買ったスポーツドリンクがあって良かった。
半分ほど飲んで、残りを彼に渡した。彼は間接キスになっちゃうね、とはにかみながら飲んでいた。先程それよりも大変なことをしていたというのに。
結論から言うと、彼はちゃんと人間だった。
いや、当たり前の話なんだけれど、初めて触れた時は氷のようだったから。でも、行為を進めていくうち蒼白い顔も幾らか赤く染まったし、彼のものはオレのと変わらないぐらい熱かった。
「あ……お湯沸かさなきゃ」
「お茶でも飲むんですか」
「ううん、薬を飲むから白湯を作らないといけないの」
彼は起き上がろうとしていたが、自分の方がすぐに動けそうだったのでそれを制した。
「横になっててください。オレが沸かしてきます」
「本当?ありがとう」
ここに来るまでに台所を見たから場所は把握していた。どうやら、お兄さんはこの家の使う場所を最低限にしてそこだけ行き来しやすいように解放してるようだった。今のところの移動範囲だけ見るとうちとほとんど変わりない。
広間は文字通りやたら広かったけれど。
朝にもヤカンを使ったのか水切りかごにヤカンが入っていた。
布巾で軽く拭って水を入れて、火にかける。生活してるというから当然の話ではあるが水やガスが通っていて少し驚いた。急にここに暮らすことになった彼はどんな気持ちだったのだろう。療養なのに、全ての家事を彼ひとりでしていたように見える。
お湯を沸かす間そんな疑問ばかり浮かんで仕方なかった。手持ち無沙汰になった手が台所で適当なリズムを叩く。
「それって三拍子?」
「あ……えっと、そうですね、とくに意識はしてなかったんですけど」
下着姿のままお兄さんが台所にやってきた。
指で叩くのは気づいたらどこでもやってしまう癖だ。音を立ててないと落ち着かなくて、一度授業中にやらかして怒られたことがある。
「お湯が沸いたら蓋を開けて十分ぐらいそのまま沸かしておいてね」
「お兄さんは何の病気なんですか」
「病気じゃなくて寿命かな。薬飲んでもあんまり意味は無いんだけど、レンくんには会いたかったから」
「……寿命?」
頭からいくつもの疑問が浮かんで、そのままの顔で彼を見たら彼はとても困った顔をしていた。わかりやすいぐらい適当に話を逸らされた。
「……あとで、扇風機持ってこようか」
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