幕間 塩むすび
人間の体というものは、わからない。人の身を得てまだ半日も経っていないのだから当たり前なのかもしれないが、それでもわからないことだらけだ。
たとえば、先程奇怪な音が鳴ったと思ったら、主が俺の方を見て瞬きをしたことなどはその最たる例である。
「あっ、お腹、空きましたよね……どうしよう、何かあるかなあ……」
主は立ち上がって部屋の外へと出ようとする。口ぶりから察するに、どうやら俺のお腹が「すいた」ということのようだが、主にはお腹の中を見る能力でもあるのだろうかと腹部を擦りながら考える。
「お腹……?」
考えてもさっぱりわからない。そんな思いからかつい口をついた言葉に、主は振り向いた。
*
塩がパラパラと米の上に落とされる。何やら透明な布の上に米を置いて、主がたどたどしい手つきで握り始める。炊きたての米の匂いを思わず吸い込んで、ぐう、とまたあの奇怪な音が鳴った。
ギュッ、ギュッ、と規則的な音が止まって、主が透明な布を開いた。中から出てきた米の塊は、何と言ったか。主にこの肉体を与えられるより前、刀として振るわれていた頃、何度も目にしたもの。たしか、人間が口にするものだった。
「こんなものしかないけれど……塩むすびです」
「塩むすび……」
そうだ、おむすびだ。米を握って、手のひらに収まる大きさにしたものだったはずだ。
「来たばかりだから、食糧がそんなになくて、でもお米ならあったから。それで私、そんなに料理が得意じゃなくて、とりあえずこれくらいしかできなくって……」
お腹の足しくらいにはなると思うの、と主は俺に“塩むすび”を差し出した。
「あの、食べるのが不安なら私が先に食べましょうか?」
「いや、いい。……すまない」
人間が食べるのは見てきたが、自分が口にするのはもちろん初めてだ。手で掴んで、口に持っていって、山になっているてっぺんを口に含んだ。瞬間、初めての感覚が口の中に広がった。人の身を得る前、人間が頬張っていたのを少し羨ましく思っていたが、まさかこれほどとは。
「……あ、あるじ」
「はいっ」
「これが、美味い、ってことなのか……?」
主を見ると、目を丸くしてから気が抜けたように笑った。
「ちょっと恥ずかしいですけど……、はい。美味い、になってくれたら嬉しいですね」
頬を赤くして笑う主は、もう一つの塩むすびを手に取り、口を開く。
「ねえ、山姥切国広さん。さっきよりもお腹が膨らんだ感じがしませんか?」
「ああ。言われてみればそんな気がするな」
「説明が難しいんですけど、さっきまでの凹んだ感じが『お腹が空いた』ってこと。それから、ぐるるる、って音は、お腹が空いた時に鳴る音です」
「あれが……」
あの奇怪な音と妙な感覚の正体。それを、主は俺に教えた。
これが人の身を得ることなのだと、俺は漠然と考える。
「刀剣男士の――付喪神のみなさんは、食べなくても死ぬことはないそうです。でも、こうやってご飯を食べないと疲れが溜まる」
「疲れが溜まるとどうなるんだ?」
「うーん、そうですね……、本来の力を発揮しにくくなりますし、その状態で戦場に出るのは危険です」
そうか、と俺は呟いた。多少傷が残るくらいなら構わないが、動けなくなるのは困る。主の刀としてやっていくと決めた今、それが戦場ならば尚更だ。
「なので、できれば私と同じ時間にご飯を食べましょう。人間は大体、一日に三回ご飯を食べるんです。寝て起きた後に朝ご飯、正午頃にお昼ご飯、今くらいの時間に晩ご飯、というふうに」
「わかった」
頷いた俺に、主はほっと息を吐いた。その様子を眺めていると、主と目が合う。すぐにそれが逸らされて、またこちらを向く。迷いが見える。戦場に放り込んだら一瞬だろうと、そう思ってしまうような目だった。
やがて主は躊躇いがちに口を開いた。こちらの様子を伺うように、けれど真っ直ぐに俺に目をやりながら。
「あの……」
「なんだ」
「あなたのこと、切国さん、とお呼びしても良いでしょうか……?」
声音に手入れ部屋で聞いた時のような覇気はない。本当に同じ人間なのかと疑いたくなるような、弱々しさだ。
それにしても。きりくにさん――馴染みのない響きだが、まさか俺の呼び名なのだろうか。意図が掴めず主を見返すと、何やら紙に文字を書き始めた。白い紙に浮かび上がる文字は、山、姥、切、国、広――山姥切国広。俺の名だ。
「ずっと考えていたんです。山姥切国広さんのことをどうお呼びしたらいいんだろうって」
そう言いながら、主は「切」と「国」を丸で囲んだ。
「本当はこんなふうに山姥切国広さんってお呼びしたいんですけど、あんまり長いと有事の時すぐに呼べなくて困るとこんのすけに聞きまして」
「……まあ、俺たちはあんたに呼ばれると駆けつけられるようだからな。すぐ呼ばれるに越したことはない」
「そういうことがないように気をつけるつもりではいるのですが、念には念を、と思いまして」
これもこんのすけから言われたことなんですけどね、と主は笑い、言葉を続ける。
「それで、あなたのことを呼んでいるとすぐにわかって、長くない呼び名ということで……その、切国さん、と」
なるほど、山姥切と国広から取って「切国」というわけか。ようやく合点がいき、口には出さずに「切国」と繰り返す。
しかし――俺は、目の前の主を見て、率直に思ったことを口に出した。
「呼び名など、あんたの好きに呼べばいいだろう」
山姥切と呼ばれたならば訂正を入れるつもりだが、それ以外であれば口を出すつもりはない。俺は刀なのだから。そう付け加えたが、主は首を振る。
「そういうわけにはいきませんよ。名前はその存在を表す大事なものですから、目の前にいるのならご本刀の許可を得なければ」
「……あんた、結構頑固だって言われないか」
「……否定はしません」
そう言って、主は俺を見た。声と同じように、不安そうな目。
変な人間だと、そう思う。写しとは何かを知ったうえで俺を初期刀にと、俺が良いんだと、そう言った。主なのだから、持ち主なのだから好きにすればいいのに、わざわざ刀に許可を求めた。しかも、二度も。
本当におかしな主だ。そう思うのに、不快だという感情は湧いてこなかった。
「構わない」
「……え」
「構わないと、言ってるんだ」
「ほ、本当ですか!」
なぜ主は嬉しそうなのか。なぜ俺はこの主の言うことを受け入れようと思ったのか。わからないことは増える一方なのだろう。
だが、やはり目の前の主を拒絶しようとは思わない。むしろ、どちらかと言えば好ましく思っていることは事実だった。
「改めて、よろしくお願いしますね。切国さん」
「ああ」
人の身を得て初めて口にした食べ物は、とてもあたたかかく、とても美味かった。
たとえば、先程奇怪な音が鳴ったと思ったら、主が俺の方を見て瞬きをしたことなどはその最たる例である。
「あっ、お腹、空きましたよね……どうしよう、何かあるかなあ……」
主は立ち上がって部屋の外へと出ようとする。口ぶりから察するに、どうやら俺のお腹が「すいた」ということのようだが、主にはお腹の中を見る能力でもあるのだろうかと腹部を擦りながら考える。
「お腹……?」
考えてもさっぱりわからない。そんな思いからかつい口をついた言葉に、主は振り向いた。
*
塩がパラパラと米の上に落とされる。何やら透明な布の上に米を置いて、主がたどたどしい手つきで握り始める。炊きたての米の匂いを思わず吸い込んで、ぐう、とまたあの奇怪な音が鳴った。
ギュッ、ギュッ、と規則的な音が止まって、主が透明な布を開いた。中から出てきた米の塊は、何と言ったか。主にこの肉体を与えられるより前、刀として振るわれていた頃、何度も目にしたもの。たしか、人間が口にするものだった。
「こんなものしかないけれど……塩むすびです」
「塩むすび……」
そうだ、おむすびだ。米を握って、手のひらに収まる大きさにしたものだったはずだ。
「来たばかりだから、食糧がそんなになくて、でもお米ならあったから。それで私、そんなに料理が得意じゃなくて、とりあえずこれくらいしかできなくって……」
お腹の足しくらいにはなると思うの、と主は俺に“塩むすび”を差し出した。
「あの、食べるのが不安なら私が先に食べましょうか?」
「いや、いい。……すまない」
人間が食べるのは見てきたが、自分が口にするのはもちろん初めてだ。手で掴んで、口に持っていって、山になっているてっぺんを口に含んだ。瞬間、初めての感覚が口の中に広がった。人の身を得る前、人間が頬張っていたのを少し羨ましく思っていたが、まさかこれほどとは。
「……あ、あるじ」
「はいっ」
「これが、美味い、ってことなのか……?」
主を見ると、目を丸くしてから気が抜けたように笑った。
「ちょっと恥ずかしいですけど……、はい。美味い、になってくれたら嬉しいですね」
頬を赤くして笑う主は、もう一つの塩むすびを手に取り、口を開く。
「ねえ、山姥切国広さん。さっきよりもお腹が膨らんだ感じがしませんか?」
「ああ。言われてみればそんな気がするな」
「説明が難しいんですけど、さっきまでの凹んだ感じが『お腹が空いた』ってこと。それから、ぐるるる、って音は、お腹が空いた時に鳴る音です」
「あれが……」
あの奇怪な音と妙な感覚の正体。それを、主は俺に教えた。
これが人の身を得ることなのだと、俺は漠然と考える。
「刀剣男士の――付喪神のみなさんは、食べなくても死ぬことはないそうです。でも、こうやってご飯を食べないと疲れが溜まる」
「疲れが溜まるとどうなるんだ?」
「うーん、そうですね……、本来の力を発揮しにくくなりますし、その状態で戦場に出るのは危険です」
そうか、と俺は呟いた。多少傷が残るくらいなら構わないが、動けなくなるのは困る。主の刀としてやっていくと決めた今、それが戦場ならば尚更だ。
「なので、できれば私と同じ時間にご飯を食べましょう。人間は大体、一日に三回ご飯を食べるんです。寝て起きた後に朝ご飯、正午頃にお昼ご飯、今くらいの時間に晩ご飯、というふうに」
「わかった」
頷いた俺に、主はほっと息を吐いた。その様子を眺めていると、主と目が合う。すぐにそれが逸らされて、またこちらを向く。迷いが見える。戦場に放り込んだら一瞬だろうと、そう思ってしまうような目だった。
やがて主は躊躇いがちに口を開いた。こちらの様子を伺うように、けれど真っ直ぐに俺に目をやりながら。
「あの……」
「なんだ」
「あなたのこと、切国さん、とお呼びしても良いでしょうか……?」
声音に手入れ部屋で聞いた時のような覇気はない。本当に同じ人間なのかと疑いたくなるような、弱々しさだ。
それにしても。きりくにさん――馴染みのない響きだが、まさか俺の呼び名なのだろうか。意図が掴めず主を見返すと、何やら紙に文字を書き始めた。白い紙に浮かび上がる文字は、山、姥、切、国、広――山姥切国広。俺の名だ。
「ずっと考えていたんです。山姥切国広さんのことをどうお呼びしたらいいんだろうって」
そう言いながら、主は「切」と「国」を丸で囲んだ。
「本当はこんなふうに山姥切国広さんってお呼びしたいんですけど、あんまり長いと有事の時すぐに呼べなくて困るとこんのすけに聞きまして」
「……まあ、俺たちはあんたに呼ばれると駆けつけられるようだからな。すぐ呼ばれるに越したことはない」
「そういうことがないように気をつけるつもりではいるのですが、念には念を、と思いまして」
これもこんのすけから言われたことなんですけどね、と主は笑い、言葉を続ける。
「それで、あなたのことを呼んでいるとすぐにわかって、長くない呼び名ということで……その、切国さん、と」
なるほど、山姥切と国広から取って「切国」というわけか。ようやく合点がいき、口には出さずに「切国」と繰り返す。
しかし――俺は、目の前の主を見て、率直に思ったことを口に出した。
「呼び名など、あんたの好きに呼べばいいだろう」
山姥切と呼ばれたならば訂正を入れるつもりだが、それ以外であれば口を出すつもりはない。俺は刀なのだから。そう付け加えたが、主は首を振る。
「そういうわけにはいきませんよ。名前はその存在を表す大事なものですから、目の前にいるのならご本刀の許可を得なければ」
「……あんた、結構頑固だって言われないか」
「……否定はしません」
そう言って、主は俺を見た。声と同じように、不安そうな目。
変な人間だと、そう思う。写しとは何かを知ったうえで俺を初期刀にと、俺が良いんだと、そう言った。主なのだから、持ち主なのだから好きにすればいいのに、わざわざ刀に許可を求めた。しかも、二度も。
本当におかしな主だ。そう思うのに、不快だという感情は湧いてこなかった。
「構わない」
「……え」
「構わないと、言ってるんだ」
「ほ、本当ですか!」
なぜ主は嬉しそうなのか。なぜ俺はこの主の言うことを受け入れようと思ったのか。わからないことは増える一方なのだろう。
だが、やはり目の前の主を拒絶しようとは思わない。むしろ、どちらかと言えば好ましく思っていることは事実だった。
「改めて、よろしくお願いしますね。切国さん」
「ああ」
人の身を得て初めて口にした食べ物は、とてもあたたかかく、とても美味かった。