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プロローグ

 それは、早咲きの桜が見頃を過ぎようとしている頃のことだった。
 十六回目の誕生日。薄紅の花が青天に映える気持ちの良い昼下がり。朝晩と比べて冷え込みもいくらかましになるその時間に、少女は桜をぼんやりと眺めていた。美しいものを眺めていると、注意力は少しばかり散漫になるというもの。この時の彼女とて例外ではなく、よく晴れた日に上下黒のスーツを一つも着崩すことなく身に纏った男性がこちらへと近付いてくるのに気が付いていなかった。

「すみません。少し、お時間よろしいですか?」

 よって、少女が男性に気が付いたのは話しかけられてからとなってしまったのである。
 身なりがおかしいわけではない。むしろ親戚のお葬式帰りだと言われても違和感を覚えないほど隙がなく、きちんと整えられた格好だった。あえて不審点を挙げるとするならば、そんな格好の人が見知らぬ女子高校生に声をかけているという点である。
 ここまでは少々不思議に思いながらも不審者の類だとかそんなことは夢にも思っていなかったのだが、次の瞬間、男性から発された言葉に少女は硬直した。

「――――様でお間違いないでしょうか?」

 耳を疑った。そして、目を見開いた。
 男性は、少女の名前を知っていた。
 この男性が知り合いにいた覚えがない。家はここから少し離れているから、会ったことのないご近所さんという説は薄い。思わず後退りをした少女に対して、男性はあくまでも想定の範囲内というように落ち着き払った態度で小さな紙を手渡した。

「……時の、政府」

 左上に肩書き。真ん中に一番大きく、目の前の男性の名前、と思われる文字が並んでいた。白地に黒の明朝体で構成されたシンプルなそれ。
 男性は、単刀直入に、要件を述べた。
 審神者という存在を知っているか。
 自分たちに手を貸してはくれないか。
 名刺と冊子だけ渡して去っていった男性は、どこからどう見ても普通の人だった。話しかけてさえ来なければ、そこにいたことすら忘れてしまったかもしれない、それくらい普通の、どこにでもいるような人物だった。
 しかし、“審神者”――その文字列には、その言葉の響きには、自分の知らない、どこか遠くの世界の言葉のような、そんな印象を受けた。
 ひとまず冊子の表紙に目を通した。五振りの刀剣が並べられた写真は、恐ろしさと懐かしさの混ざった不思議な感情を呼び起こした。



 そんな早春のとある日から、幾年の時が流れた。
 少女は慣れない和装に身を包み、白い扉の前に立っていた。あの日彼女に名刺を手渡した男性――時の政府の職員は、扉を開き、入室を促した。
 扉と同じく白を基調とした部屋には、五つの台座にそれぞれ一振りずつ刀が並べられている。無機質で、音もなく静かなその空間。そこに並べられている刀の、この世のものとは思えないほどの存在感に圧倒される。
 どの刀も、冊子で見たよりずっと力強く、鋭い。
 それでも、一目見た瞬間に「これだ」とわかった。まるで、すうと心に水が流れ込んでくるような感覚。
 選び、慎重に抱えたまま移動して、名を紡ぐ。


「山姥切国広」


 花吹雪の向こう側から現れた神様は、今まで目にした何よりも綺麗に思えた。
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