最終話
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待っている。
そう書かれていた。
気持ちを鎮めるように、懐に押し込んだ紙切れを手で押さえた。
あの場所ではないか、と予感のようなものだけを頼りに馬の手綱を操る。
ひたすらに木々を抜けていく。
青々と広がる大空の下、草の生い茂った平地が目の前に広がった。
緑ばかりが広がる大地の中、異物のようにそこだけ影が浮かんでいた。
その姿を目にした瞬間、心臓が跳ね上がり息が詰まった。
ただただ手綱を操り、馬で駆けていく。
馬のいななきと蹄の音に気がついたのか、その影がこちらを振り返った。
驚いたように見開かれた瞳が自分の姿をとらえたことに、胸の底がうずく。
はやる気持ちのままに歩みを止めようとする馬から降り、影に駆け寄った。
しゃがみ込んだまま見上げてきた人影を、勢いのまま抱きしめる。
後ろに倒れ込みそうになったその人を、引き寄せるように腕に力を込めた。
「べ、んけいさ⋯⋯ん?」
ずっと聞きたかった声が自分の名を呼んだことに、胸の底がうずいた。
「いっ、た⋯⋯苦しい、です⋯⋯」
もがくように自分の胸を押し返そうとする手の感触さえも、心を震わせた。
「⋯⋯よく、顔を見せて」
頬に手を当て顔をのぞき込めば、視線が交わる。
ずっと閉ざされていた瞳に自分の姿が映り込んでいることに、息が震えた。
存在をたしかめるように頬に手を押し当てれば、目を白黒とさせながら瞳が伏せられた。
「あ、の⋯⋯戦いは、終わったんですか⋯⋯?」
真っ先に口にされた言葉に、自分でも意識せずに憤りが湧いてくるのを感じた。
よりによって一番に確認することがそれなのか、と抑えきれない感情が湧き上がってくる。
「⋯⋯鎌倉と平泉の戦いは、とっくのとうに終わりましたよ。幾月も前にね。政子様の身柄の返却などを条件に、鎌倉の軍を撤退させ、一応の不可侵の契りを交わしました。長く呪詛にとらわれていた黒龍の逆鱗が破壊されたことにより応龍も復活し、この世界に龍神の加護も戻りました」
語気が荒くならないように、息をこらえる。
自分でもなぜこれほどまでに感情が昂るのか測りかねた。
「どうして、目が覚めてこんなところに⋯⋯あんな置き手紙だけ残して。どれだけ皆が君のことを心配していたと思って」
抑えようと思うのに、語気が荒くなってしまう。
「それに、なぜあのとき自分の胸を刺すようなまねを。傷にもならず何事もなかったからよかったものの⋯⋯」
「あ、あの⋯⋯戦いの途中から、記憶が曖昧で⋯⋯なんとなくは覚えているんですけど⋯⋯。それ、に⋯⋯手紙⋯⋯? 私もなんでここにいるのか⋯⋯さっき目が覚めたと思ったらここに横たわっていて⋯⋯」
困惑したようにこちらを見上げてくる優樹に、弁慶も思わず口を閉ざす。
普段の冷静な彼なら、もっと早く色々気がつくことがあったはずだった。
そもそもこの世界の文字の読み書きに不得手な優樹が、流麗な文字で言葉を記せるはずもなく、まして和歌にのせて思いを告げることなどできるはずがないと。
何かをこらえるように口をさまよわせていた弁慶は、息をつくと優樹の体を抱き寄せた。
何も言わずにただ抱き寄せて肩口に額を押し当てる様に、優樹は体が熱くなるのを感じた。
胸の底のうずきが耐え難く、やんわりと押し返そうとするが、込めた以上の力で体が抱き寄せられる。
「⋯⋯ずっと、君の目が覚めるのを待っていました。何日も、何ヶ月も」
静かに落とされた言葉の重みに、優樹は口を閉ざした。
優樹にとっては、戦いの最中で意識がなくなり気がついたら目が覚めた、といった感覚である。
どれだけの思いで、この人が自分を待っていたのか。どれだけの思いを募らせていたのか、推し量ることができない。
「⋯⋯望美さんたちも、君が目覚めるのをずっと待っていました。⋯⋯応龍は力を取り戻し、いつでも元の世界に帰ることができます」
──みんなで、元の世界に帰ろう。
いつの日か心に刻んだ思いが浮かび上がってくる。
その思いで、ずっとずっと駆け抜けてきた。
「本当に⋯⋯全部⋯⋯全部終わったんですね」
ほっとしたような、拍子抜けするような、よくわからない感情が胸の中でごちゃまぜになる。
「⋯⋯いつの日か、君に約束しましたね。絶対に君を元の世界に帰すと」
指先が、頬に伸ばされる。
「⋯⋯その約束、反故にさせてください」
落とされた言葉に「え⋯⋯?」と意識せずに声がこぼれる。
「⋯⋯僕は、君に元の世界に帰ってほしくない。僕のそばにずっといてほしい」
体にまわされていた腕に力がこもる。
「⋯⋯僕の隣で、ともに生きてほしいです」
普段見たことのないような表情で見つめられ、意識せず顔に熱が集まった。
緊張が伝染してきたかのように胸の底がうずく。
何も言葉を返されないことにこらえきれなくなったのか、赤らめた顔をそらした姿に思わず目がいってしまう。
大人びた姿しか見たことがなかったから、知らなかった。今目の前にいる人は、年端もいかない少年のように見えた。
何か言わないと。返さないと、と思うのに、頭の中が真っ白になって言葉が出てこない。
「あ、の⋯⋯弁慶さん⋯⋯」
緊張でのどの奥がしめつけられるようで、息が震えた。
声を出そうとするほどに緊張が高まり、顔を伏せる。
「ずっと⋯⋯ずっと、私、元の世界に帰りたいって思って⋯⋯だから⋯⋯」
その先の言葉を頭の中で思い浮かべるほどに、のどがしめつけられた。
緊張で、息が震えてしまう。
でも、言うなら今しかないと顔を上げた瞬間、肩をつかまれ言葉を止める。
意味のならない声だけがこぼれた。
やわらかな感触。
男の口で唇をふさがれたことに、目を見開く。
驚いて後ろ手をついて身を引こうとするも、そのままぐっと体を押され小さな悲鳴が口からこぼれた。
後ろに倒れ込んだ背中が、無数に生い茂った草にやわく受け止められる。
両手をついたまま見下ろしてくる男の顔を、驚いて見つめる。
その表情に、言葉を失ってしまった。
男の口が、何かを言おうとさまよって閉ざされる。
開かれた口から、引きつるような音を発する吐息がこぼれ出た。
「⋯⋯そんな言葉、聞きたくない。そんな言葉聞く耳を、僕は持っていない」
感情をこらえようとするかのような表情で荒く言葉を吐き出され、優樹は息を飲み込んだ。
初めてぶつけられるむき出しの感情に、圧倒されてしまう。
「あ、の、だから、私⋯⋯っ」
自分の言った言葉を思い返し、焦りが湧いてくる。
早く言葉の続きを、と思った口から、声が出ることはなかった。
近づいてきた唇で口をふさがれ、体がびくりと跳ねる。
反射的に押し返そうとした手をつかまれ、地面に押さえつけられる。
ついばむなんて優しい言葉では表せない。
こぼす吐息さえも許さないかのように、何度も唇で覆われる。
手首を押さえていた手が滑り、指が絡め合わされる。
息を求めて開かれた唇がふさがれる。
思わずそらそうとした顔を両手ではさまれ、押さえつけられる。
吐息が熱い。体が、熱い。
「お願いだから、帰らないで。僕のそばにいて」
吐息交じりの、まるで駄々をこねる子どものような懇願に、返事をすることさえ許されない。
言葉を紡ごうとしても、わずかでも声を出すのを許さないように、唇でふさがれてしまう。
告げようとする言葉の先を聞くのを恐れるように、あえぐように口を開くたびに何度も唇で覆われる。
顔をそらしてわずかな隙間から声を出そうとしても、すぐさま吐息ごと閉じ込められてしまう。
すがりつくように何度も繰り返される行為に、胸が苦しくなる。
何度も引きつるように息を吸って必死に繰り返す様が、男の余裕のなさを見せつけるかのようであった。
必死な表情が、泣きそうになるのをこらえているかのように見えた。
落ち着くのを待とうとどれだけ応えても、止むことがない。
請われるままに背に腕をまわしても、終わることがない。
抵抗が弱まっただけ、むさぼるように深さが増すばかりであった。
息が、苦しい。
それは、何度も繰り返し覆ってくる唇のせいなのか、震える胸の鼓動によるものだったのか。
苦しくて肩を押し返そうとすれば、それが神経を逆なでにしたようであった。
少しの解放を願う短い言の葉さえ、逆鱗に触れるようであった。
荒々しい感情を隠そうとしない男に圧倒され、逃れるように体ごと背けようとすれば、肩をつかまれ地面に押さえつけられた。
少しでも抵抗すれば、激しさを増してむさぼり尽くすように唇を何度も覆われた。
ただ、応じることしか許さないと言うように。
請われるままにふたたび背に手をまわし、ただただ必死で応えた。
それだけでは足りないというように、懇願されるままにしがみついた。
ただ応え続ける様にようやく感情が鎮まってきたのか、荒々しかったものが、ついばむような優しいものに変わっていく。
ほっとして、つい顔をそらして深く息を吐き出し吸い込んだ。
背に回した腕を滑らせるように、力をゆるめてしまったから。
そんなことがまた、逆鱗になるとは思わなくて。
そんなつもりじゃないのに。
つい身じろぎをして反射的に肩を押し返せば、それさえも琴線に触れたようであった。
ただ応えることしか許さない。
一心に求め続けることしか、許さない。
絶対的に逆らわない姿勢を求めているかのようであった。
全身で、態度で示せと言われているかのように、何度も繰り返され、少しでも気を緩めれば、鋭い視線に射抜かれた。
寸分の隙もなく一心に集中して応え続けなければ、解放しないとでもいうように。
自分からしがみついて、わずかに離れる唇を追い求める様を見せるまで、何度も、何度でも。
それが当然だと態度に表れるまで、互いに求め合うのが当たり前なのだと全身に覚え込まされる。
心の奥底から求めている様を自ら晒し出し、それ以外の選択など存在しないと示し続けるまで、繰り返された。
なりふりかまわず応え続ければ、吐息と一緒に声が漏れ出た。
荒くなる吐息に混ざる声を取りつくろうことなんて、とっくのとうにやめていた。
抑える素振りを見せれば、どうなるかなんてわかっている。
わずかな抵抗を無意識にでも見せるたびに、何度も体に覚え込まされた。
抵抗すること自体がおかしなことであるのだと、繰り返し教え込むかのように唇を覆われ、自ら求めることを要求するように抱き寄せられた。
全部さらけだして、あらわになったすべてを前に屈して、目の前の人と同じくらいむさぼるように求めないかぎり終わらない。
ようやく解放されたときには、唇同士が名残惜しむように水気混じりの音を立てた。
求めるように追いかけた唇に、男の瞳が満たされたように揺れた。
行き場を失った唇に、ふたたびやわく口づけが落とされる。
離れては求めるように近づく唇を確かめるように、ゆっくりと浅くついばまれる。
ふたたび深まってもなんら抵抗する様も見せず受け入れ、むしろ離れまいとする姿に男の抱き寄せる力が強まった。
離れようと浅くなっては深まることを何度も繰り返し、どちらともなくようやく離れた。
震えていた呼吸を落ち着けると、口元を押さえて優樹は目をそらした。
「あ、の⋯⋯さっきの言葉。最後まで、言わせてください」
優樹がそう言うが早いか、手首をつかんできた男にびくりとした。
唇を覆われる前に思わず叫ぶ。
「言わせてくれないなら元の世界に帰ります⋯⋯っ」
体を揺らし、無言で見下ろしてきた男を横目で見やる。
その表情に、思わず目を泳がせてしまう。
唇を引き結んで感情をこらえるように見下ろしてくる様に、動揺があふれる。
普段の彼からは想像もできない姿であった。
本当に年端もいかない少年のようだ。
ああ、違う。そうじゃない。早く言わないと。
「⋯⋯私、ずっと元の世界に帰りたいと思って、だから⋯⋯頑張ってきました」
緊張でのどがしめつけられる。
「け、ど⋯⋯こっちの世界に、残りたいです」
ああ、言え。言え。と心臓の鼓動がのどまでせり上がってきそうになる。
「⋯⋯弁慶さんのことが、好きだから」
こらえきれずに、目をそらし顔を腕で覆った。
自分でも驚くくらいに顔に熱が集中する。
「⋯⋯って、言おうとしたんです」
恥ずかしさをごまかすために付け加えるも、無言の返しに身悶えする。
肩に触れてきた手に、びくりと体が跳ねた。
「⋯⋯まぎらわしい言い方なんか、しないでください」
普段出さないような、憤りをないまぜにしたような声音に、震える。
彼がどんな表情をしていたかなど、見る余裕もなかった。
「弁慶さんが、最後まで言わせてくれな⋯⋯」
「もう、いいから。もう黙ってて⋯⋯」
顔を覆っていた手をつかまれ、ふたたび口を唇でふさがれる。
体の奥底から指先にかけて、甘いしびれが駆け抜けていく。
「僕も、君のことが好きだから⋯⋯」
何度も唇をついばまれた後に落とされた言葉に、目を見開く。
見つめ返せば、赤く染まった顔で目をそらされた。
言葉を返す前に、ふたたび唇が落ちてくる。
何度も気持ちを確認するように口づけが落ちてくる。
合間に、何度も熱っぽい言葉が落とされ、胸が震えた。
吐息交じりの小さな囁きが、水気を含んで熱く伝わってくる。
ろくに返事をする前についばまれ、せめてもと絡み合わされた指に力を込めた。
開きかけた口から、何度も声を混ぜた吐息だけがこぼれていく。
まるで地上に縫いとめるように、両手を地面に押さえつけられたまま何度も唇をついばまれる。
背に手をまわしたい、とやわく力を込めても、すぐに押さえつけられてしまう。
何も言うなという言葉通りに、何かを口にする隙さえ与えてくれない。
もう全部身を委ねてしまおう、と体の力を抜き、抑えていた声もそのまま吐息にのせた。
手首の拘束が外れても、繰り返されるものが深まっても、なすがままに応えて、自分でも聞いたことのない声がこぼれることもかまわず吐息をもらした。
伝えられる言葉と同じくらい、ねだるように落とされた言葉の数々に、一つずつ応えていく。
好きだと応えても、全身で応えても、足りないのだというように繰り返し請われた。
何度も好きだと言葉を落としていくうちに、その言霊自体が自分に想いを刻むようであった。
熱におかされたように、ぼんやりとしていく。
体の感覚にまかせるままに、懇願されずとも何度も言葉を落とし、繰り返される行為に応えた。
──が、
「⋯⋯なんですか」
「な、なん⋯⋯なんですかはこっちの台詞ですよ!! 何して⋯⋯っ」
「⋯⋯馬鹿ですか君は。男にとって口づけは開戦の
ば、馬鹿!?
初めてぶつけられた罵りの言葉に思わず言葉を失ってしまう。
「か、開戦⋯⋯? 狼煙⋯⋯? っ⋯⋯何おっぱじめようとしてるんですかー!!!」
さっきまでのしっとりとした空気はどこへいったのやら。
優樹の大声が、青空の下高く突き抜けていった。
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