09.邪教の輩〜邪神ノ再来〜
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あ、あ、あ、あ⋯⋯。
あえぎ声を上げながら体をしならせた女の影が壁に大きく映じる。
まるで何かの生き物のように、黒い影は何度も跳ね上がり身をくねらせた。
朽ちた堂の中には、ねっとりとまとわりつくような空気が充満していた。
じり、と音を立てた灯火近くには──だめだ、見ちゃいけない!
見てはいけない。見たくない。
そう思うのに、勝手に進んでいく。
その先には──嫌だ。
その奥には──見ちゃだめだ。
どくり、と心臓が凍りついた。
そこには──両の目が大きく、くり抜かれた──⋯⋯あ、あ、あ、お願い、やめて。
坊主の低い声が、ひたすらに何かを唱えている。
女は振り乱した髪を汗ばんだ肌につけながら、ああ、と悦びに満ちた声を上げた。
その下には、別の何かがいる。
嫌だ嫌だ、見たくない。知りたくない。
祭壇の、上には。──ああっ!
女の、下には──あ、あ、あ。
⋯⋯──
⋯⋯──裸の男がいた。
がらんどうとした両の目が。男のいやらしい目が。わた、しを。私を!!
──両の目に、とらわれた。
あ、あ、あ、あ、あ⋯⋯。
髑髏が、男が、にたりと笑った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ふと、弁慶は目を覚ました。
何かの音が聞こえる。──人のうめき声だ。
「優樹くん?」
呼びかけても、返事はない。
暗くて何も見えない。──また、悪夢にうなされているのか。
手探りで見つけた手打ち石を用い、灯油を器に浸していた台に火をつける。
ぼんやりと室内に明かりが満ちていく。
うめき声の主は、びっしょりと汗をかいていた。
「優樹くん、大丈夫ですか」
肩を軽く揺するも、まったく目を覚ます様子はない。
浅い呼吸が繰り返し聞こえるだけである。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
オン、オン、オン、オン──⋯⋯オン⋯⋯ギャチギャカネイ──オン、オン。
うるさい、やめて、静かにして──。
坊主の声が頭の中に反響する。
むっとするような匂いに、頭がくらくらとする。
これは⋯⋯抹香の匂いだ。
髑髏が、男が、私を見ている。
何もない穴が、情欲に支配された目が、私を見ている。
嫌だ、怖い。気持ち悪い。
男が激しく腰を動かすと、上にまたがっていた女は甲高い声を上げた。──気持ち悪い。
これは、とても嫌なものだ。気持ち悪い。とても気持ち悪い。
──それを見ながら動物的な欲求にうずく自分が、たまらなく気持ち悪い。
目を、離せない。
強く惹かれる。
自分が、たまらなくけがらわしい。
ぐったりとする女を──男は床に投げ捨てた。
「ああ、ようやく⋯⋯まみえることが、できた。⋯⋯もう、仮の容れ物は──」
次の瞬間、女の体は──刀身につらぬかれていた。男が手にしたそれで。
ぴしゃぴしゃ、と鮮血が飛び散った。
顔に、どろりとした感触が伝う。
むっとした臭いが混ざり合った。
あ、あ、あ、あ、あ⋯⋯びくびくと体を痙攣させた女がおぞましいうめき声を上げる。
「──いりませぬ。⋯⋯あなたが、いてくれるなら、私には」
さあ、と男は手を伸ばした。
抹香の匂いが近づく。
さあ、さあ、さあ、さあ。
ぐにゃり、と視界が歪む。
オン、オン、オン、オン⋯⋯ギャチギャカニエイ──。
がたがたと、体の震えが止まらない。
誰か、誰かお願い、助けて。
さあ、さあ!
どくどく、と心臓が早鐘を打つ。
男が、男の手が、近づいてくる。
額から垂れた返り血が、唇に触れる。
これは──⋯⋯。
どくどくどく。
さあ!
女の──魂の味。
どくん、と心臓が大きく脈打った。
──にやり、と優樹は笑った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
はっ、と弁慶は息を飲んだ。
重く閉ざされていた優樹のまぶたが開く。
「よかった⋯⋯目を覚ましましたね」
ゆっくりと視線を動かす優樹に、ほっと息をなでおろす。
「だいぶうなされていましたよ。悪い夢でも見ていましたか」
「⋯⋯⋯⋯驚いたな」
ゆっくりと身を起こしながら、優樹は物珍しいものでも見るように首をめぐらせた。
「わたしは⋯⋯眠りについていたはずなんだがな」
「すみません、ひどく汗をかいていてずっとうなされていたの、で」
答えながら、弁慶は違和感を覚えた。
優樹の物の言い方が少しおかしい気がする。それに、雰囲気もどこか──。
「まさかこうやって起こされることがあろうとはな⋯⋯」
ふわり、と笑った優樹と視線が合う。弁慶は言いしれずどきりとした。
いつもと変わらぬ姿のはずなのに、体のかしげ方が妙になまめかしく見えた。
とっくりとこちらを見つめてくるその瞳も、どこか気だるげでまぶたが色香を放っているようであった。
「まったく、人の子はいつの世も、どこの国でもおもしろいことをしでかしてくれるようだ」
弁慶は息を飲み込んだ。この雰囲気。物言い。まさか──。
「荼枳尼天⋯⋯」
「ひさしいな、人の子よ。⋯⋯といっても、わたしにとっては瞬きほどの時の流れだが⋯⋯その見目が変わらぬところを見ると、あのときからそう時は経っていないようだな」
「一体何のようです。まさか、また優樹くんの体を──」
一気に詰めかけてきた弁慶に、優樹は苛立たしそうに眉根を寄せた。
「勘違いするなよ。人間。⋯⋯普段冷静沈着にことを運んでいた軍師殿も、心奪われた相手が絡んでいるとなると、随分と落ちぶれた態度をとるということか?」
息をつき、乱雑に前髪をかきあげる。
⋯⋯まったく、
優樹──いや、荼枳尼天は頭を振った。
溺れ亡くなるところを助けたにも関わらず、命の泥棒扱いまでされて恨まれもした。
ただ約定通りのことをしようとしただけにも関わらず、だ。
なぜこうも自分はめぐまれない星の元に派生したのだろうか。
「⋯⋯わたしは自らすすんで眠りについた。⋯⋯心地の良い昼寝をうるさい坊主の声で邪魔され、無理矢理起こされたこっちの身にもなってほしいな」
荼枳尼天はあてつけのようににやりと笑った。
「それにしても⋯⋯そなたずいぶんと臆病者みたいだな。それとも不能なのか?」
「⋯⋯どういう意味です」
荼枳尼天はのどの奥で低く笑った。
「なぜ愛しい者が目の前にいるのに、さっさと自分のものにしてしまわないんだ。これじゃ女の立つ瀬がないじゃないか。こんなにそばにいて、夜も同じ屋根の下にいるというのに手出しもされないとは」
「⋯⋯なぜあなたにそのようなことを言われなくてはいけないんです」
「仕方ないだろう。視えてしまっているんだからな。⋯⋯ちょっと嫌だと言われて腰を抜かしたのか? ⋯⋯随分と小心者だな」
「僕は──」
「そなた、勘違いしているんじゃないのか。⋯⋯いつまでも愛しい者との時間が続いていくなど、どうして思っていられるんだ? 悠長なことを言っていると、いつ別れのときが来るかわからないぞ。特に、この者に残された時間は普通の者よりも少ないだろうに」
弁慶は口をつぐんだ。
目を閉じると、詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
「⋯⋯ええ、そうですね。どこかの神が、彼女の体の中に勝手に入り込んでくれたおかげでね」
荼枳尼天は片眉を上げた。
そして、ああ、そうか、と目を伏せる。
自分がいま姿を借りている人の子と自分の関係を知っているのは、白龍の神子だけであったか。
元々、もっと早くにこぼれ落ちていくはずだった命をすくい上げたというのに。
本当に報われない。──自分が器の中にあることで肉体に負担をかけていたのは事実ではあったが。
自分が声をかけなければ、すべての魂魄は器から抜け出して黄泉に降っていたはずなのに。
「そうだな⋯⋯そなたは知らなんだ。この子とわたしの関係を」
だが、言うべきことでもなかろうと言葉を飲み込んだ。
「⋯⋯どうして、今日言おうと封じた言葉を明日も同じように告げられると信じているんだ? 一時の平穏の世に、とんとふぬけてしまったのか。明日の夜明けをともに見られると、なぜ夢想できる?」
「そのようなこと、あなたに──」
弁慶ははっと息を飲み込んだ。
淡い笑みを浮かべた優樹の体がせまってきたかと思うと、ぐっと顔を近づけられる。
あぐらをかいていた足へとまたがれ、着物の
「実体を持っている人間というのは、不便だな。⋯⋯この世のものは移りゆき、栄えし者もいつかは滅ぶ。だからこそ、肉体に固執する。⋯⋯愛しい者の心だけでは満足などいかないだろう?」
手をつかまれ、着物の袷に指先が導かれる。
「っ⋯⋯⋯⋯」
弁慶は顔をしかめた。自尊心が色香に抗おうとする。
だが、自分の体に染み込んでいる動物の本能が拒絶を鈍らせる。
自分のうちで急激に膨らんでいく衝動を、ぐ、と息を詰めてこらえた。
手のひらから伝わる感触に、何もかもが鈍っていく。
指先がなまめかしく絡め合わされ、人差し指がやんわりとなぞられる。
甘い果実を
普段優樹がしない淫靡な目で見上げられ、弁慶は思わず優樹の体を突き飛ばした。
「戯れ言がすぎます」
弁慶は自分の内で荒れ狂っている衝動を吐き出すように、震える息を吐き出した。
「くそっ⋯⋯わたしも引きずられているのか? ⋯⋯人間め、大層なことをしてくれるじゃないか⋯⋯」
優樹の声で優樹ではない言葉が吐き出され、弁慶は顔を上げる。
はだけた胸元が目に入り、顔をそむけた。
荼枳尼天は苦々しそうな表情で顔をなでつけた。
肉体を持っている分、人間の肉欲の衝動が直接駆け上がってきているのを感じていた。
闇夜の中で瞳をぎらりと輝かせながら低くのどの奥で笑いをこぼす。
「⋯⋯そんなにわたしの力を欲してその
弁慶はとまどいながら視線を動かした。
相も変わらずはだけた姿の優樹がそこにいたが、不思議と先ほどの淫靡な色香は消え去っていた。
いつぞや見た仏の座像のように、神聖な気高い空気をそこに感じた。
「⋯⋯そなたはまたわたしのせいだと睨みをきかせるのだろうが、忠告しておいてやる。この者⋯⋯邪な心を持っている者に狙われているぞ。⋯⋯正確にはわたしを宿しているこの者の体をな。特に、闇夜が支配する時間帯には気をつけることだな」
「⋯⋯それは、一体どういう──」
突然、がくりと優樹の体が傾き、弁慶は慌てて支えた。
思わず抱きかかえれば、静かに寝息を立てている優樹がそこにはいた。
「⋯⋯なんですか、謎だけ残して消え去るなんて」
優樹の安静を確認すると、深く息をつき、抱きしめる力を強くした。
はだけている首筋に吸い寄せられるように、唇を寄せる。
『⋯⋯どうして、今日言おうと封じた言葉を明日も同じように告げられると信じているんだ? 一時の平穏の世に、とんとふぬけてしまったのか。明日の夜明けをともに見られると、なぜ夢想できる?』
⋯⋯そうだ、どうして、信じていられた?
ともにいられるだけで、あまりにも幸せだったから。
同じ世界に閉じ込めても、この腕の中に閉じ込めても、二人を分かつ不変のものがあるというのに。
閉じられたまぶたに口づけを落とす。
まぶたが開くことも、反応が返ってくることもない。
伝わってくるぬくもりだけが、まだ別れのときが告げられていないのだと教えてくれた。