07.邪教の輩〜悪夢、一時ノ微睡ミ〜
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──あ、あ、あ、あ。
嫌だ、と思った。
聞きたくない。
むせかえるようなこの匂いも、まとわりつくようなこの声たちも、嫌だ。
──あ、あ、あ、ああっ!
うるさい、と耳をふさぎたくなる。
──オン、オン、オン、オン。
低く重苦しい声が幾重にも重なって聞こえてきて、頭がくらくらとする。
お願い、やめて。
さあ、さあ、さあ!
突然聞こえてきた声に、びくりと身を震わせる。
さあ、さあ、さあ!
自分を呼ぶ声に、振り返って逃げようとする。
だが、体が鉛のように重く、地面に吸い寄せられるように動かない。
さあ! さあ! ──こちらに!
黒い装束の男たちにまわりを囲まれる。
四肢をつかまれたわけでもないのに、男たちの手が自分にまとわりつくような錯覚を覚えた。
そのまま自分の意思ではなしに、前へ前へと運ばれていく。
いやだ、嫌だ、やめて。
どんどん、体は前へ前へと──部屋の奥へと運ばれていく。
嫌だ、行きたくない。
抵抗しても、着物が乱れるばかりで足は進む。
いやだ、嫌だ、いやだいやだ!
さあ、さあ──!
祭壇の上にあるものが、しきりに影を揺らしていた。
見たくない、この先にあるものを、見たくない。
だって、ここの本尊は──。
大きく身をくねらせる影の前にさらけだすかのように体を押される。
あ、あ、あ、あ、あ。
その声は、誰のものだったのか。
あ、あ、あ──ああっ!
いやだ、怖い、怖いっ、こわい!
あえぐように、口が何度も吐息をこぼす。
あ、ああああ。
ああ、怖い、その先が怖い。
あっあっああ!
影が──逆光で顔の見えない男がしきりに体を動かすたびに、女の声が響き渡る。
顔の見えない男は、下に組み敷いた者を見ながら笑った気がした。
むせかえるほどに充満した匂いに、くらくらとする。
男がいる方へ、ぼんやりと一歩足を前に進める。
──求めるな。
頭の中で響く声に、びくりと身を震わせる。
──近づけば、とらわれるぞ。
誰、だれだろう。
わからない。わからないけれど、もう、どうでもいい。
あ、あ、あ、あ、あ、あっ。
不快だった甲高い女の声も、どこか遠くに聞こえた。
男は何かを待っているかのように、恍惚とした笑みを口に浮かべていた。
──さっきまで、顔は見えなかったはずなのに。顔かたちが薄ぼんやりと見えている気がした。
──求め⋯⋯な。
頭の中の声がかすれていく。
──明け方ま⋯⋯耐え⋯⋯。
あああ、ああっ。
「早く、私を求めて。気高きお方」
男の声だけが、はっきりと聞こえた。
「ああ、気高きお方。早く、早く私のものに⋯⋯」
男が熱をはらんだ声を上げながら、体の動きを早めていく。
オン、オン、オン、オン、あっあっあっああっ!
その先を、見たくない。
それなのに、意識がぼんやりとしていく。
黒装束の男たちに取り込まれたまま、床に膝をつく。
灯に照らされて、黒装束の姿形が揺れ動いているように見えた。
人間のようで、人間でないような。
影のように、男たちの姿が長く伸びたり縮んだり、揺らいで見えた。
まぶたが重くて仕方ない。
目を閉じたまま、たくさんの手が伸びてくるような感覚がした。
ああ、やめて。
体にせまってきた感覚に、震える。
目を開けられない。
体が動かない。
やめて、そんな風に。
無数の手から伝わる未知の感覚に声を上げようとする。
だが、あるはずのない手で覆われたように声が出せない。
無数の手に押さえつけられているかのように体が動かせない。
呼吸だけがひたすらに乱れていく。
逃れようとするのに、体に力が入らない。
苦しくて身悶えすれば、ようやく息を吸うことができた。
あ、あ、あ、あ、あ──。
甲高い女の声が、すぐ近くで聞こえた。
あ、あ、あ、ああっ──。
艶を含んだ女の声が耳の奥から聞こえてくるようであった。
もがこうとすればするほど体中が熱を帯びていく。
意識せずに体が震えた。
無数の手から逃れようとする。
やめて。
そんな風に──。
──はっと目を開け、目の前にせまる男の姿に優樹は悲鳴を上げた。
押しのけて逃れようとする体を背中から抱きかかえられ、「やめて!」と普段の自分からは考えられないほどの甲高い声が出た。
「大丈夫、僕ですよ」
耳朶を打つ声に、荒々しい呼吸が次第に落ち着いていく。
抱きしめる力強い腕のぬくもりに、震える体が落ち着きを取り戻していく。
いやだ、嫌だ、いやだ。怖い。──何を見ていたのだろう。
とても、恐ろしい夢を見ていた。そのはずなのに、思い出せない。思い出したくない。
自分でもわけがわからずに、涙があふれた。
「⋯⋯だいぶ、うなされていました」
いまだに心が震えて、何かを言うのもためらった。
ただただすがりつくように優しく抱きしめてくる男にしがみついてすすり泣く。
何も言わずにただ抱きしめ返してくるぬくもりが、ゆっくりと恐怖に震える心をなぐさめてくれた。
袂にしがみついていた手を男の背中にまわし、力強く抱きしめた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
弁慶は、ここ最近一番とも言えるくらい大きなため息をついた。
腕の中におさまり寝息を立てている優樹の肩を、背中を、何度目かわからぬほどにぐっと手で引き寄せる。
悪夢でも見ていたのか、ふと目が覚めた暗闇の中で聞こえてきたうめき声の主は、落ち着かせるために抱きしめているとふたたび寝入ってしまった。
思えば、
⋯⋯合意のもとで自分たちはともに暮らすようになったと思っているが、今日に至るまで優樹は自分とまこと夫婦になることを怖がっていた。
折を見てそういう雰囲気に持ち込もうとするが、あきらかにおびえの目を向けられると先に進めなくなる。
焦って、すべてを失うようなことはしたくない。
優樹のつむじに唇を寄せ、今宵何度目かわからぬ小さなうめき声を喉の奥に押し留める。
⋯⋯自分の頭の算段とは裏腹に、体の奥底で本能は膨れ上がる。
自分の内側で、理性と本能が嵐のように渦巻く。
双方の攻防に、眠気などとっくに吹き飛ばされていた。
早く、夜明けが来てほしい。
そう思う頭とは裏腹に、腕の中のぬくもりにほっとゆるみ熱をはらむ体は、終わらない夜を求めていた。
それでも朝はやってくる。
「僕は町の方で色々と調べたいことがあるので、このあとすぐに出たいと思います」
声をかければ、ともに
その姿を、弁慶はじっと見つめた。
「あの⋯⋯今日は私も一緒に行っていいですか?」
自然と目線が合わさり、普段通りの様子で話す優樹の姿に、意識せず笑みがこぼれた。
⋯⋯⋯⋯今朝方のことを思い出し、内心では盛大に息をついたのは内緒だ。
眠ろうと思っても眠れない。
体がようやく眠る様子を見せてくれたのは、空も白んでからであった。
ほんの少し眠ったような気もするが、すぐに目が覚めた。
もう普段なら起きる頃合いだと思いながら、腕の中のぬくもりを抱き寄せた。
初めて味わうぬくもりとまどろみを手放すのは、あまりにも惜しかった。
そんな幸せも、急にもぞもぞとし始めた腕の中のぬくもりによって終わりを告げられた。
まだ夢現のように小さく漏れた声が愛らしく思えて、笑みがこぼれた。
様々な方向に絡んで所々跳ねている髪を、優しくなでつけるとまぶたが開いた。
目線が合って、ぼんやりとしていた目がだんだんと見開かれていく。
その様子に、ああ、そうだ。しまったな、と思っても遅い。
いまさらながらにそのことに気がつくとは。
やわらかくまどろんでいた体がかちこちに強張る姿に、さて、どうしたものかな、と笑顔のまま頭の中で高速に算段を進める。
とりあえず、言い訳だけさせてほしい。
その後、朝餉を迎えるまであまり目線を合わせてくれず、挙動不審にあちこちに体をぶつけたり物を落としたりしていた妻が、ようやく普通に話してくれたのでうれしい。
「ええ、もちろん。ただおもしろい散策になるかはわかりませんが」
「かまいません、その⋯⋯」
目を伏せ口ごもる優樹の姿に、弁慶は無意識に注意が強く向いた。
手にしていた椀と箸に、力が込もっているように見える。
「昨日、ちょっとおかしなことがあって⋯⋯」
不安げな優樹の表情に、弁慶の顔も真剣味を帯びる。
話を聞き終えた弁慶は、あごに指を当てた。
「⋯⋯たしかに、気になりますね。黒装束の男たちに、白い狐。音のない世界⋯⋯」
「最近、夢見も悪いから、疲れがたまっているのかな、とか⋯⋯げ、幻覚まで見てしまったのかな、とか色々思っていたんですけど。妙に⋯⋯本物のように見えて、記憶にも残っているから。⋯⋯ちょっと一人で出歩くのが怖く感じて」
「⋯⋯そのことについても、調べられることがあったら調べてみましょうか。何か破魔の結界でも張れたら良いですが、生憎そういうのが得意なのは景時⋯⋯鎌倉は遠いですからね」
ふと、弁慶は目を伏せた。
「⋯⋯ああ、そういえば、陰陽術を得意とする人がいましたね。ここ平泉にも」