06.邪教の輩〜壺、黒装束ノ男〜
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はあ、と熱い吐息をこぼし、男は手のひらにある髪紐を見つめた。
それに顔を近づけると、すう、と匂いを嗅いだ。
ああ、と男は恍惚とした表情を浮かべた。
「⋯⋯これで、私とあなたは⋯⋯つながる」
く、ふふ⋯⋯と男は声にならぬ笑い声を漏らした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ふう、と優樹は吐息をこぼした。
どうも最近、夢見が悪い。
見た夢の中身をすべて思い出せるわけではないが、目覚めたときの倦怠感がここのところずっと続いている。
「ああ、ねえ! ちょっと見てよ!」
ばん! と突然背中を叩かれ「あだぁっ!」と優樹は悲鳴を上げた。
「ねえ、これすごいのよ!」
涙目を浮かべる優樹のことなどいざ知らず。
ふくよかな女性はこじんまりとした壺をこれ見よがしに目の前に差し出してきた。
「持っているだけで想い人と添い遂げることができる壺なんですって! 本当かしら〜」
「え⋯⋯っと⋯⋯」
⋯⋯それは、なんというかそのぅ⋯⋯いわゆる安物を高い値で売りつけるという⋯⋯アレでは。
「あなたは徳が高い方だから、仏の導きによりただでこれを差し上げますですって! もう! なにかしらねえ! 私ったらそんなにすごいものを持っているのかしらあ〜」
優樹は片眉を上げた。──ただで?
「へえ⋯⋯それは⋯⋯って、ん?」
まじまじと見つめ、優樹は既視感を覚えた。
この壺⋯⋯どこかで。
「ふふふ、あなたも私のように徳のある生き方をしていれば、良いことあるかもしれないわよ! じゃあね!」
「あはは、じゃあ⋯⋯」
思わず笑顔で手を振った優樹は、はたと動きを止めた。
⋯⋯⋯⋯今の人誰だろう。
そう思ったときには、女の人の背は遠く離れていた。
「えーと⋯⋯」
近所のおばちゃん? 属性というものは、いつの時代も変わらないようだ。
「さ、さーてと。気を取り直して、薬草を摘みに行こうかなっ」
よいしょっと、空の籠を背負い直し優樹は足を進めた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「変な壺を渡す男の姿、ですか」
九郎に会って早々に出された話題に、弁慶は眉をひそめた。
「ああ。最近市井で、その変な壺の話を聞いてな。それを持っていれば仏の御利益がもらえるとか、想い人と添い遂げられるとかなんとか。⋯⋯俺はそういう類のことはくわしくない。お前なら何か知っているんじゃないかと思ってな」
「⋯⋯先日言っていた泰衡殿の忠告と関係があるかもしれない、ということですね。君⋯⋯泰衡殿には首を突っ込むなと言われると踏んで、僕に相談というわけですか」
う、と肩をすくめた腐れ縁の友に、やれやれと首を振る。
「御利益のある壺ね⋯⋯。そう言われても、あまりにも大きなくくりすぎ、て⋯⋯」
ふと、口をつぐんだ弁慶に九郎は眉をひそめた。
「どうした、弁慶。何か心当たりが」
「いえ⋯⋯少し、ね。その壺、本物を確かめてみたいですね。見れば何かとっかかりを得ることができるかもしれない」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「薬草⋯⋯これも薬草。薬、草⋯⋯? って、だめだ。やっぱりわからない⋯⋯」
地面に座り込むと、優樹は空を見上げた。
「う〜ん、弁慶さんに教えてもらったから、最近はけっこうわかるようになったと思ったんだけど⋯⋯。やっぱり、いまだに見分けがつかないのがあるなあ⋯⋯」
膝の上で頬杖をつきながら優樹はうなった。
一陣の風が吹き、木の葉がこすれる音が響き渡る。
甲高い鳥の鳴き声がいくつも聞こえてくる。
自然の音に耳をすませていると、気持ちが凪いでいく。
「⋯⋯いっか。持って帰って弁慶さんに判断してもらおう」
籠の中に薬草⋯⋯と思わしきものを詰め終わると、優樹は立ち上がった。
「⋯⋯早く帰って弁慶さんに教え、て」
しばらく歩みを進めたところで、優樹は立ち止まった。
口をつぐんで、周りに視線を走らせる。
なんだか、変な感じだ。
この違和感は何だろう。
振り返っても、何もない。
ただ来た道があるだけだ。
でも、変だ。
自分の内に眠る本能が警鐘を鳴らしている。
なんだ、この感じ。
何かが──。
はっと優樹は顔を上げた。
そうか、と気がついた。
ここには、ないのだ。
さっきまであった──。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「なるほど、これがその行商人から渡された壺なんですね」
「はい。これを持っていれば意中の殿方の心がわかり、想いを通わせることができると」
ぽぽぽ、と顔を赤らめて年若い女性が夢見心地に語る。
「九郎、先ほど女性に見せてもらった壺、僕も見覚えがありますよ」
聞き込みを終え、木陰の下で休みながら口を開いた弁慶に九郎は身を乗り出す。
「本当か?」
「僕も、行商人から渡されたことがあるんですよ。文言は変わりますが、似たような謳い文句を告げられながらね」
「なんだって? それ、今も持っているのか?」
「ええ。たしか
弁慶は、そのときに起こった出来事を振り返った。
突然、触れ合った人の心がわかるようになったという優樹。
あれも、思えばおかしな話だ。
消えていたはずの壺が、ふたたび宙から落ちてきたという。
それと同時に優樹の身に起こった異変も収まった。
「はは、それにしても弁慶。お前、優樹を迎え入れたんだから、わざわざそんなものをもらわずと、も⋯⋯」
恋愛成就の物品をもらうなど武蔵坊弁慶らしからぬ、と笑った九郎は、目の前の男の顔を見て言葉を詰まらせた。
ぎろり、とにらみつける目。普段人を丸め込むような穏やかな表情が、ぶすくれた少年のような顔をしていた。
⋯⋯なんだか懐かしい顔つきだ。五条大橋辺りで知り合った当初、よくこんなふてくされたような、やさぐれたような顔をしていた気がする。
「ふふ、ふふふ⋯⋯」
いきなりのどの奥で笑い始めた腐れ縁の友に、九郎は顔を引きつらせた。
「⋯⋯ええ、そうですね。迎え入れましたよ。ともに暮らしていますよ。それでも一緒にいて相手の心の内まで見通せたら苦労しませんよね? ⋯⋯僕だって不安になるときだってあるんですよ。あのとき、僕の方こそ、その壺とやらの御利益を授けてほしかったくらいだな!」
目の前に卓があったら勢いよく叩きつけていた、いや投げ飛ばしていたんじゃなかろうかというくらいの勢いで弁慶は息巻き始めた。
「ま、まあ、男女の仲というのは計り知れない。近くにいればいるほど、想えば想うほど、わからなくなるものだからな」
言いながら、あれ? なんで恋に奥手の俺がこんなことを語っているんだろう⋯⋯と九郎はなんとも言えぬ気持ちになった。
「⋯⋯九郎。その壺にまつわる話なんですが、少しおかしなことがあったんですよ──」
急に真剣味を帯びた弁慶に、九郎は顔を上げた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
──静かすぎる。
優樹は自分の肌が粟立つのを感じた。
ここには、さっきまであったはずの音がないのだ。
まるでこの空間だけが切り取られたかのように。
チリン、と甲高い音が聞こえてきて、優樹は周囲を見回した。
静かな空間で、嫌にその音が響いた。
チリン、チリン、チリン──⋯⋯。
オン──⋯⋯オン、オン──⋯⋯。
甲高い音にまぎれて聞こえてきた低重音に、ひゅっ、とのどが変な音を立てた。
この、音は。これは。
急に自分の立っている場所がぐにゃりと歪んだような感覚に陥る。
嫌だ、この音は。
オン、オン、オン──⋯⋯。
また、私は夢を見ているのか。
オン、オン、オン──⋯⋯。
優樹は耳をふさいだ。
うるさい、うるさいうるさい。
シャン、シャンシャンシャン。
何か金属を振るったような音が鳴り響く。
どくどくどく、と心臓が波打つ。
気がついたら、墨染めの着物に身を包んだ男たちが周囲にいた。
汗が噴き出す。
オン、オン、オン──⋯⋯オン、オン。
ああ、頭がおかしくなる。
男たちは遠くにいるはずなのに、男たちの手が自分の四肢に絡みついているような錯覚を覚えた。
オン、オン、オン──⋯⋯オン、オン。
逃げよう、と走り出そうとするのに、自分の足が思うように動かない。
ひどく重たい。
触れてもいない手のひらが、まとわりついてくるようであった。
地面に手をつき、荒く息を吐き出す。
男たちは円陣になり、じわじわと距離を詰めてくる。
オン、オン、オン──⋯⋯オン、オン。
嫌だ、嫌だお願いやめて。
頭が重たい。
意識を失いそうになる。
くたりと、頭が地面に垂れる。
逃げようとするのに、足ががくがくと震える。
男たちの手が、伸びてくる。
その手があと少しで届きそうになった、そのとき──。
突然、風が巻き起こった。
かさかさと木々がざわめく音が響く。
地に落ちていた木の葉が風に巻き上げられ、旋回する。
視界の端を、淡く光を放つ何かが横切った。
優樹は目を見開いた。
白い狐。
大きな狐が自分を取り囲むようにぐるり、としっぽとその体を寄せてきた。
ざわざわと木の葉がかすれ合う音がする。
ぐるぐると、木の葉が空を舞っていく。
ふわり、と大きな白い尻尾が顔の前をさえぎり、優樹は思わず目を閉じた。
次に目を開けたとき、優樹は虚を突かれた。
何も、いない。
白い狐も、黒染めの衣をまとった男たちも。
地面にも空にも、木の葉はない。
鬱蒼と生い茂る草があるだけだ。
ピーチチチ⋯⋯と鳥の鳴き声が響き渡る。
まるで狐に化かされた気分だ。
「⋯⋯って言うのかな、こういうの」
応えてくれる者は、どこにもいない。