01.あのあと⋯⋯
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かっぽかっぽ、と小気味の良いひづめの音が響く。
天上には一面の青空。
緑の混ざった香りが運ばれてくる。
優樹は冷や汗をだらだらと流しながらうつむいていた。
背中からは、これ以上ないほど人の体温を感じていた。というよりも、完全に密着していて暑いくらいだ。
そして、両脇は手綱を握った人の腕で覆われている。
どうしよう、やりすぎたかな。
いやいや、でもいきなりすぎたから⋯⋯。
ぶるぶる、と目の前で震えた馬の耳に思わずびくりとする。
いきなりあんなことされれば誰だって抵抗するって⋯⋯。
優樹は、この重苦しい空気の発端となった出来事を思い返した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「──何をおっぱじめようとしてるんですかーっ!!」
組み敷かれたままに優樹は臨戦態勢に入った。
肌に手を這わせようとしてきた男の手首を押さえるようにつかみかかる。
「あ⋯⋯っ」
だが、あっさりといなされ、逆に両手首を片手でつかまれ頭上に押さえつけられた。
「い、いやだ⋯⋯」
優樹は泣きそうになりながら懇願するように男を見上げた。
その瞬間、男は息を小さく詰めてぽつりと呟いた。
「⋯⋯あおっているんですか?」
「ばっかですかあなたは!!」
「馬鹿⋯⋯? そう、馬鹿ですか⋯⋯」
いままで面と向かって罵倒する言葉を浴びせられたことがなかったことも加味して、弁慶はややむかっとした様子で笑った。
優樹もつい反射的に罵声の言葉をあげてしまったことにはっと口をつぐんだ。
人に向かってなんてことを!! と顔を青くし⋯⋯たわけではなく、っやべえ殺される!!! という恐怖に襲われていた。
「⋯⋯そうですね。ええ、そうですよ。僕は馬鹿ですよ。大馬鹿野郎ですよ。超がつくほどの大馬鹿男ですよ。凡愚も良いところ、衆愚の中でも下の下の下、愚か者の骨頂ですよ」
あわわわわわわ⋯⋯っ、と優樹は震えた。
弁慶さんがおかしくなった! めちゃくちゃ自虐ネタかましてきている!!
頬に手を当てられ、びくっと優樹は体を震わせた。
「⋯⋯ずっと目を覚まさない君のもとに毎日通って、花を送り続けるほどには馬鹿でしたよ。確かなものなんてないのに、毎日毎日祈るように君が戻る日を待つくらい、愚か者でしたよ」
静かに落とされた言葉に、優樹は今度こそ本当に口をつぐんでしまった。
自分にとっては、平泉の戦いの中で意識を失い、その後すぐに目が覚めたような感覚なのだ。
本当に、一夜の眠りについたくらいに。
だから、わからない。
どれだけの思いで目の前の人物が日々過ごしていたかなんて。
この人の想いの熱量なんてわからない。
「弁慶、さ⋯⋯」
っておい、何、良い雰囲気つくったからオッケーだよね、みたいに着物の中に手を滑り込ませようとしてるんだよ!
がっしりと優樹は男の両手首をつかんだ。
だが、力でかなうはずもなくふたたび両手首を押さえ込まれ、地面に押さえつけられる。
必死で抵抗しようとするが、またもや片手で両手首をねじふせられる。
もう一方の手が袴の紐にかかり、勢いよく引かれる。
「っ⋯⋯⋯⋯」
優樹は反射的に両膝を閉じようとした。
だが、男の膝が間に割り込んできた。
その瞬間、あ、やばい、と思うも、目の奥がじわりと熱を持った。
男は、はっとした顔で身を引いた。
そして、ゆっくりと後ろを振り向いた。
安堵すると同時に、その動作に優樹はどことなく違和感を覚えた。
「⋯⋯なんです、君まで僕の邪魔をするんですか」
えっ? と優樹は目を丸くした。
この人、誰に向かって話しているの?
優樹はひじで上体を持ち上げると、弁慶の視線の先を見た。
そこには──立派なたてがみを持った馬が。
弁慶がここまで乗ってきた馬であった。
その口には、弁慶の外套のすそがくわえられている。
つぶらで大きな瞳は、何かを訴えかけるように弁慶をじっと見ていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
なーんてことがあったな。
⋯⋯⋯⋯。
優樹は感慨深く自分を乗せている馬のたてがみを見やった。
ありがたや、馬さまさまである。
彼⋯⋯いや、彼女? わからないが、この馬さまさまのおかげで自分の貞操は守られるにいたった。
あのあとの、ぶすくれた表情をした弁慶の顔がいまだに目に焼きついている。
弁慶は組み敷いていた状態から解放してくれたが、そのあと体から発していた殺気たるや、だ。
だが、こうやって一緒に馬に乗せて帰ってくれているのだから、完全に怒っているわけではないだろう。
⋯⋯いや、むしろ一人あの野原に置いていかれた方がありがたかったかもしれない。
背後から重苦しい空気を発され続け、馬上故に逃れることもできない。
いつも自分より大人だ、なんでも余裕でいなしてしまう、本心が見えない、と思っていただけに、この状況は想定外であった。
こんな風に真正面から感情をぶつけられることがなかったからこそ、どう対処すれば良いかわからない。
どうしたものか⋯⋯。
「いっだあ!」
突然首筋に痛みが走り、優樹は叫んだ。
理由はすぐさまわかった。後ろにいる男にがぶりと噛みつかれたのだ。
「な、なな何してるんですかああっ!」
振り返ろうとするも、慣れない馬上であったため慌てて視線を前に向ける。
「⋯⋯心底腹が立っているんですよ、君に」
低い声が首筋にかかり、思わずぶるりと震えた。
かっぽかっぽと静かに響くひづめの音が嫌に耳についた。
「そんなに僕のことが嫌でしたか」
「そ⋯⋯」
そんなことは、と言いたかったが、そういった行為がすぐさまできるかと聞かれればそれは別問題であった。
嫌悪感、とまでは言わないが、受け入れがたい気恥ずかしさのようなものがあった。
なんて返せば良いのだろう、と優樹が一人百面相をしていると、くすくす、と首筋に息がかかった。
「冗談ですよ。⋯⋯そんなに身を固めなくても、とって食いやしないと言うのにね」
先ほどよりも明るい声音に、優樹は息をついた。
良かった、機嫌が良くなった。思わずほっと胸をなでおろす。
⋯⋯って、あれ。さっき問答無用でとって食われそうになった気が⋯⋯。
⋯⋯⋯⋯。
優樹は小さく頭を振り、思考を手放した。
世の中忘れた方が良いことも多いのだ。
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