第十八章 別れの涙とぬくもり
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屋島から引き上げてきた源氏軍。
快勝の知らせを聞いて優樹はほっと胸をなでおろした。
望美も譲も、みんな無事だ。
全面的な対決には至らず、平家は平知盛が陣を構えている彦島の方へと西下していったという。
(屋島の次⋯⋯そして彦島、ということは、次は壇ノ浦の戦い)
源平、最後の戦いとなるはずだ。
京へと帰還した源氏軍は、準備が整い次第、平家が逃れたという彦島の方へ進軍するとのことであった。
将臣の顔が浮かんで、優樹は目を伏せる。
⋯⋯考えても、自分にはどうすることもできない。
無力さだけが胸に広がっていく。
優樹は庭先を見つめた。
冬の間に花はとうに枯れていた。春の花が咲くにはまだ遠い。
「⋯⋯そういえば、那須党の人たちにずっと会ってないな」
戦後処理が忙しいとのことで、譲も会いに来るのは控えるようにと言われていると聞いた。
屋島の戦いに入る前から、しばらく会っていない。
望美たちから聞いた、与一の扇の的当ての話を思い出す。
「見てみたかったな、私も⋯⋯」
そのとき、ふいに外から聞こえてきた音に顔を上げる。
閑散とした昼下がりには似つかわしくない音が、遠くから聞こえてきた。
どこかで聞いたことのある音だ。
はっとして、思わず門の方へと向かっていく。
「お出かけですか? それにしても珍しい。つい先ほど、鹿の鳴く声が聞こえたんですよ」
衛士の言葉に曖昧に笑みを浮かべる。
はやる気持ちに足を急かされ門をくぐり抜けると、またその音が聞こえた。
意識を集中させ、方向を探る。
そう遠くないはずだ。
路地の陰に隠れるようにして、その人影はいた。
気配に気づいたのか、その人影は口元に寄せていた手を下ろして顔を上げた。
「まさか、本当に来るとは。やってみるものだな」
「どうしたんですか、与一さん。こんなところで」
与一はにっと笑みを浮かべた。
「なに、鹿狩りをしようと思ったら、見事狙いの大物がこの鹿笛に寄せられてきたわけだ」
「なんですか、それ。まんまと私はつられてきたってわけですか。⋯⋯ひさしぶりですね。ちょうど与一さんのことを考えていたから、びっくりしました」
優樹の屈託のない笑みに虚をつかれたのか、与一は一瞬言葉を詰まらせたかと思うと言葉を探るように口を開いた。
「そうか⋯⋯。実は、今日は優樹殿に別れを告げに来たんだ」
「別、れ⋯⋯ですか? 急に、どうしたんですか」
与一はいつも通り口元に笑みを浮かべてはいたが、その頬が少し強張っているように見えたのは気のせいであろうか。
「鎌倉殿より命が下ってな。鎌倉の方へ馳せ参じるように言われた。⋯⋯だから、九郎殿の元で戦に参加できるのも、先の屋島の戦いで最後となるかもしれない。平家追討まで、もう少しといったところで⋯⋯途中で抜けることになって心苦しいが⋯⋯最後に顔が見れてよかった」
「そ、う⋯⋯だったんですか。⋯⋯それなら、わざわざ鹿笛で呼ばなくても⋯⋯今なら邸に譲もいますよ」
「いや、いい。あまり目立ちたくないんだ。色々事情があってな。譲には優樹殿の口からよろしく伝えてくれ。⋯⋯他の者には、私が会いに来たことは内緒にしておくんだぞ」
なんでですか、という問いは彼の瞳の奥から感じられる真剣さに口に出せなかった。
与一はふと息をこぼして柔らかな笑みを向けてきた。
「短い間ではあったが、ともに過ごせてよかった」
「私も、です」
「その⋯⋯」
言いよどむ与一を優樹は見つめた。
別れが惜しい。互いにそう思っていることは言葉にしなくてもわかった。
だが、別れを前にして何を言えば良いのかわからない。
「達者、でな。⋯⋯譲に聞いたが、優樹殿たちの故郷は鎌倉なんだろう? またどこかで会うこともあるだろう。そのときにまた語らおう」
優樹は言葉が詰まった。
元の世界に戻れば、一生会うこともなくなる。
そして──。
⋯⋯元の世界に戻れるかもわからない。
自分の知っている史実に近い形でことが進んでいる。
そうだとすれば、九郎の元に身を寄せている自分たちはどうなるのだろう。
返事をしようとする言葉の代わりに、ぐっとせり上がってくるものを抑えることができなかった。
「⋯⋯なんだ、泣くな。永遠の別れでもないだろうに」
「⋯⋯もう、会うこともないかもしれません」
ああ、どうしてこんなことを言ってしまう。
また会いましょうと、たった一言言えばすむ話なのに。
「どうして、そんなことを言う。らしくないな。⋯⋯頼むから泣くな。どうすればいいのか、わからなくなる」
与一の手が、優樹の頬に伸ばされようとして、宙をさまよう。
はらはらと、涙は止まることを知らずにあふれるばかりだ。
どうしてこんなに悲しいのか。
わからない。ただこの人との別れが、たまらなく惜しい。
そこまでの思いを抱いていたことに、自分でも意外な気持ちになった。
「また、会いにくるさ」
その言葉がうれしくてうなずいて──首を横に振った。
九郎一行である自分たちと親密な様子を見せて、頼朝の不興を買いはしないだろうか。
そんなの、自分の妄想でしかない。
けれど、ささいなことでこの人に、この人が守りたいものに不幸がかかるとしたら、たまらなく嫌だと思った。
「なんだ、私に会いに来てほしくないのか?」
首を横に振れば、与一は苦笑した。
「どっちなんだ。そんなに泣きじゃくっては、
優樹は涙をぬぐった。
けれど、あとからあとからあふれてくる。
ぎこちない様子で、大きな手が頭をなでてくる。──かと思うと、力強く引き寄せられた。
頭をかき抱くようにされ、与一の肩に顔をうずめる。
「⋯⋯遠く離れていても、心はともにある。いつだって、優樹殿のことを思っているさ」
おさまりかけた涙がふたたびあふれ出し、優樹は思いのままに与一の背に手をまわした。
人との別れとは、こんなにも悲しく思うものだっただろうか。
いつ死ぬかもわからない、こんな時代だからだろうか。
同じ世界を生きられない人とわかっているからだろうか。
「私も、思っています。⋯⋯どうかお元気で」