第十三章 拗ねる兄、嫉妬する弟
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後日ふたたび那須党の借り屋をたずねたとき──つんとそっぽを向いた十郎に、優樹はうっと胸を押さえた。
「あの⋯⋯十郎さん」
「なんだい」
いつもならば穏やかな笑みで出迎えてくれるはずなのに、つんとした表情であまり目も合わせてくれない。
「その⋯⋯まだ⋯⋯あれですか、先日のこと⋯⋯」
「他の者たちの前では言わないでくれと約束したはずだよ。それさえも君は違えると言うの?」
「うっ⋯⋯すみません⋯⋯」
まさかたった一言で十郎の機嫌をここまで損ねるとは思ってもおらず、優樹は頭を悩ませた。
「もう優樹殿のことなんて知らないよ」
「⋯⋯⋯⋯」
十郎の様子に、ふと既視感を覚えて思わず閉口する。
「⋯⋯兵法のことだって、もう一緒に考えてあげないよ」
「⋯⋯⋯⋯わかりました。⋯⋯今日もあっちの方で待ってますね」
「⋯⋯行かないよ。私は一人で書物を読むんだから。一人で暇を持て余していればいい」
「わかりました。待ってますね」
「⋯⋯行かないと言っているでしょ」
「そうですか。でも、待ってますね」
十郎はちらりと優樹のことを横目で見やる。
「⋯⋯そこまで言うなら行ってあげなくもないよ」
「本当ですか、ありがとうございます」
十郎の表情を見て──よし、大丈夫だ、と優樹は濡れ縁の方へ向かった。
優樹の脳裏には、近所の小さい子が癇癪を起こしたときの姿が思い出されていた。
二人のやりとりを傍目で見ていた周りの者たちは、ざわざわと落ち着きなく稽古の準備をしていた。
「ずいぶんと仲が良いご様子ですな! 十郎殿」
「君にはそう見えるの、七郎。⋯⋯どこがだい、仲良くなんて⋯⋯」
言いながら、ふと十郎は手を止めた。
そして、ふ、と笑いをこぼしたかと思うと──快活な声を上げて笑った。
物静かに淡い微笑みを浮かべるのが常の彼にしては珍しい。
「まったく、子犬には困ったものだよね。⋯⋯ああ、おかしいな」
さっきまでの様子は嘘だったかのようにご機嫌な様子で弓と矢をたずさえ的の前に立った十郎の背を──与一は見つめた。
「兄上には一体どんな策を使ったんだ?」
邸の奥で飲み物の準備をしていた優樹は、背後からかけられた声に振り返った。
「なんのことですか?」
「兄上があのように心開くのは珍しい。⋯⋯というより、弟である私や郎党たちの前ではあんな姿見せたことがないぞ。一体どんな手練を使ったんだ」
「それは⋯⋯」
誰にも言うな、という十郎の言葉を思い出し、優樹は目を泳がせた。
「内緒です、私たち二人の⋯⋯そもそも心を開いているって言えるんですか、あの態度で」
お茶でもあればもっと休憩らしく落ち着けるのになあ、と思いながら杯に水を差していく。
⋯⋯まあ、甘えられているからこそのあの態度なのかな、と小さい子を彷彿とさせるような物言いを思い出し、思わず笑みがこぼれる。
「──私にも言えないことなのか」
まるでのぞき込むように体の横の台に手をついてきた与一に、つい目線をやる。
与一はあまり感情の見えない表情で台に置かれた杯を見つめていた。
その横顔に──あれ? と優樹は思わず目を引きつけられてしまう。
「⋯⋯もしかして与一さん、拗ねてます?」
弾かれたように顔を上げた与一と目が合う。
そんな彼は⋯⋯虚を突かれたようにたじろいでいるように見えた。
⋯⋯かと思うと少しむっとした様子を見せた。
「⋯⋯なんで笑っているんだ」
あれ、笑っていただろうか、と思わず口元に手をやる。
「いえ、与一さんと十郎さんの拗ねた表情、そっくりだなって」
やっぱり兄弟なんだな、と思いながら笑みをこぼしていると、顔をそらして与一は難しい表情を深めたような気がした。
そんな様子を見て、どことなく譲を相手にしているときと似たような気持ちになってくる。
そういえば頼もしいとはいえ、彼は年下なのだ。
からかいたい気分がむくむくと顔をもたげてくる。
「──二人だけの内緒話に妬いちゃいました?」
顔を近づけてにやり、と笑うと与一は感情を押し隠すようにぐ、とあごを引いた。
だが、わずかばかりにのぞけた動揺に優樹は小さい笑い声をこぼした。
「お兄さんがとられたと思ったんですか?」
「──⋯⋯⋯⋯」
ひとしきり笑って──優樹は驚いて声を上げた。
頭を左右から両手で挟まれたかと思うと、与一が顔を近づけてきた。
「⋯⋯兄上にもそのような態度をとっているのか。そうやって誰にでも彼にでも子犬みたいにじゃれつくようなまねをするものじゃない」
「子犬ってなんですか⋯⋯離してくださ⋯⋯」
「そうやって人をからかうような物言いをしたんじゃないのか。だから兄上もあのような態度を⋯⋯」
「お兄さんに失礼な態度をとったと思ったんですか、そんなことするわけ⋯⋯」
するわけ⋯⋯。
優樹はあれ、と口ごもった。
あのときは、冗談を言う形で素性を隠そうとしたから⋯⋯。
冗談⋯⋯。
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯どうなんだ」
むぐ⋯⋯と優樹は口を引き結んで目をそらした。
「あれは⋯⋯不可抗力です」
「何がなんだ。兄上になんと言ったんだ」
「言いません⋯⋯」
「言え、兄上とどんな話をしていた」
「⋯⋯嫌です」
「気持ちを弄ぶようなことでも言ったんじゃないのか」
むぐぐ⋯⋯と思わず口ごもる。
少年のように高揚した十郎の表情と、落ち込んだ様子を思い出す。
「⋯⋯私にそんなつもりはなかったんです」
「なくても相手にとっては思わせぶりな態度だったんじゃないのか」
うぐ⋯⋯と優樹はそらすことも叶わぬ顔をそむけようと首を動かす。ちらりと与一を見れば、機嫌を損ねているのは見てとれた。
十郎の態度を思い出し、居心地悪く目を伏せる。
「⋯⋯与一さんも怒っているんですか」
「⋯⋯⋯⋯」
そんなことない、といつもの快活な様子で言ってくれるのではないか、というわずかな期待を込めふたたびちらりと見上げる。
与一は口を引き結んだまま何も言ってくれない。
⋯⋯いい加減、この手も離してくれないかな。
与一にとっては同性のつもりでも、優樹にとっては異性に触れられ間近にせまられている状況である。
多少なりとも気恥ずかしさはある。
大きなざらついた手のひらを否が応でも感じざるを得ない。
そっと手を添えると、ぴくりと与一の指先が揺れた。
優樹の手に誘導されるように、静かに手が離れていく。
「別に⋯⋯怒ってはいない。そうやって子犬みたいにしゅんとするな」
「なんでずっと犬に例えるんですか⋯⋯」
与一は息をつき腰に手を当てると、そっぽを向いた。
「いいか、兄上にからかうような物言いはもう二度とするなよ」
「わかりましたよ⋯⋯本当にお兄さんのこと好きなんですね」
「⋯⋯なんでそうなる」
「だってお兄さんのことからかわれて怒って⋯⋯。内緒話をされて拗ねて」
急に頭をなでられ──かなり乱雑で力任せに髪をこねくり回されていると言ってもいい──優樹は首をすぼめた。
「いたっ⋯⋯なんですかっ」
「ああ、そうだな、好きだな! っ好きだよ! だからこそ腹立たしくもなってくる!」
「やめてくださいって! 一応私は年上なんですからね!」
「なら少しは年長の者らしく振る舞え」
手を離され、優樹はうぐぐ⋯⋯と与一をねめつけながら手櫛で髪を整えた。
「⋯⋯そうやってみんな私のことを子ども扱いするんです。稚児みたいなのは見た目だけなんですからね」
「どこがだ、子犬みたいに振る舞っておいて何が大人だ」
「だから犬ってなんなんですか」
「犬は犬だ。誰にでも彼にでもしっぽを振り回すな」
だからなんで犬なんだ、と優樹はむぐぐ、と与一をにらみつける。
「ちゃんと可愛がらないと、噛みつかれても知りませんからね」
「子犬に噛まれても甘噛みにもならないから心配するな」
「本気で噛みますよ」
「猟犬の躾なら多少は心得ているさ」
「誰が猟犬ですか」
ふん、と優樹はあごをとがらせ、水差しの続きを再開した。
そんな優樹の横顔を、与一も目を細め口をむすっとさせながら見つめていた。