このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

SSたち!



夏が、終わる。

大学へあがって初めての長期休暇がはじまったかと思ったら、もう半分くらいが過ぎ去ってしまった。といっても俺はただダラダラしていたわけではなく、前回の散々だった試験の結果に反省して、この暑い中でも練習室に足しげく通っていた。

…と、言ってしまうと聞こえはいいんだけど…、実は俺がちゃんと練習に通うことができているのにはもう一つ理由がある。それも、かなり邪な感じのやつ。


 明鏡音楽大学の校舎を出てすぐ、本当にすぐ近くにある小さな個人経営のカフェ「Andante」。練習の帰りにそこへ寄ることは、すっかりここ最近の俺の日課になっていた。というかそこへ行くことこそが、俺が練習を続けていられている大きな理由なのである。

 …そして今日もまた、練習室使用時間終了を告げるチャイムを背に、俺は荷物をまとめて足早に大学を後にしたのだった。


 カラン、と扉に付いたベルが心地の良い音を鳴らした。その音に奥のカウンターの女性が顔を上げ、こちらに声をかける。

「あら、いらっしゃい、奏くん」
 笑顔を向けてくれたこの女性は、麻里奈さん。Andanteのオーナーさんの親戚らしくて、割とお店にずっと居るので結構な頻度で顔を合わせるようになった。こんにちは、と麻里奈さんに挨拶をしながらも、俺はお店の中に視線を巡らせる。…そして、瞳に映す。その美しい人を。

「奏。いらっしゃい。練習おわりか?おつかれ」
 輝く大きな瞳を細めて、その人は笑う。少し暗めの赤み掛かった髪は後ろで纏められ、癖のある前髪は動く度にふわりと揺れる。俺よりも少し、いや…かなり小柄なその人は、美しい顔立ちも相まって、まるで精巧に作られた人形のようにキレイだ。…と、すっかり虜になってしまった自覚のある俺は思う。

 ああ、この笑顔…。この笑顔を見るために、俺は今日も頑張った…のである。―佐咲凛叶。この人こそが、俺のここ最近の全ての原動力といっても過言ではない。

「凜ちゃん…、ありがとう」
 今日一日の疲れがすべて昇華されたかのような夢見心地の中、俺は入り口近くのテーブル席に座った。まもなく、お盆にお冷を乗せて凜ちゃんが戻ってくる。
「ほい、お水。えーっと、何にする?」
「うーんと、じゃあホワイトモカ」
「おう」
 凜ちゃんはカウンターに向かって、麻里奈さん、ホワイトモカ~、と声をかける。奥から麻里奈さんの、はーい、という返事が聞こえた。

 遡るは1か月…いや、2か月くらい前。
 俺が初めての実技試験でとんでもやらかした点数を取ってしまったあの日、意気消沈の中ふらふらと辿り着いたのがこのカフェ、Andanteだった。
 いつも割と抜けている俺ではあるけど、その日はいつにも増して…ひどかった。色々…やらかしたことがあったのだが、…なのだが、後から考えてみると、そのおかげで俺は凜ちゃんと出会えた。ただの店員と客だった俺と凜ちゃんは、ひょんなことから、こうして名前を呼び合い、おしゃべりをするようになったのだ。


「…奏って、甘党?」

 凜ちゃんが俺の正面の椅子に腰かけながら言う。最近は、お客さんが少なければ凜ちゃんはいつもこんな感じだ。
「え、っと…そう、かも?何で…?」
「いや、いつも甘いやつ飲んでるから。ホワイトモカって結構激アマだろ?」
 そう、俺はここへ来た時は高確率で…8割がた、ホワイトモカを注文している。なぜなら、その味がとても気に入っているから。あの包まれるような甘さ…、思い出すだけで幸せな気持ちになってきた。

「うん、甘くておいしい。疲れが癒されるというか」 
「やっぱ甘党だ…」
「えっと…り、凜ちゃんは…?」
 微妙な顔をして俺の話をきいていた凜ちゃんに、もしかして甘い物が苦手なのかな、とか思いながらそう尋ねてみれば、凜ちゃんはケロッとした顔で答える。
「ん?俺もまあ、奏ほどではないかもしんないけど、」
 瞬間、俺の視界に飛び込んできたのは、ふわり、花のような柔らかい笑顔。
「甘いのも、好きだよ」
 その衝撃、さながら爆風のよう…。凜ちゃんと仲良くお話するようになって、俺はもう何度この爆撃を受けたかわからない。当の本人は、特に意識してやっているわけではないのだろう、平静を装うだけで必死の俺に、疑問すら抱かない始末だ。


「佐咲くーん、おねがーい」
 俺が必死に爆撃に耐えていたところへ、カウンターから麻里奈さんの声が聞こえた。凜ちゃんは、はーいと返事をしながら立ち上がり、カウンターへと向かう。
「ほい、ホワイトモカ」
 戻ってきた凜ちゃんの手から、ソーサーに乗ったカップが目の前に置かれる。俺は、ありがとう、と言い一口。ん~やっぱりおいしい…!甘さが染みる~…
「よかった。んじゃごゆっくり~」
 はっ。脳内でだけ呟いたはずの言葉に、凜ちゃんが返事をする。また口に出てたな…。


「あ、佐咲くん、もうあがっちゃっていいわよ」
麻里奈さんがカウンターから凛ちゃんに声をかける。凛ちゃんは壁にかけてある時計を見、もうそんな時間か、とつぶやいた。
「あ、そうそう。裏にみんなから預かったプレゼントとか、あとうちからのささやかな差し入れがあるから、食べて帰るなりしてね~」
「あー…ありがと、麻里奈さん。いただきます」
「あそうだ、奏くんと一緒に席で食べたら?お客さんも少ないし。コーヒー出してあげるっ」
 麻里奈さんは言うや否や、コーヒーメーカーに手を伸ばす。凛ちゃんは少し慌てた様子でこちらを見た。

「え、けど奏、なんか作業しに来たんじゃ…」
 実際、いつも俺はこのカフェで、課題とか楽譜の見直しとか、机上で出来る作業をしていることが多い。とはいえ、それは凜ちゃんを拝むという第一目標を果たすためのおまけに過ぎない。…というわけで、凜ちゃんと同じ机でお茶できるなんてラッキーの方が断然優先したいことなのだが、そんな事情はひとつも知らない凜ちゃんは、こちらを伺うように見つめている。

「お、俺は全然…!凜ちゃんがいいなら…お話、したい、なー…」
 まさか俺の邪すぎる行動の全てをバラすわけにはいかず、どう言ったらいいかと悩みながら結局言い淀んでしまった。カウンターでコーヒーを注いでいる麻里奈さんが、全てわかっているよと言わんばかりの視線を送ってくる。

「そうか?んじゃあお邪魔するか」
 俺の言葉をそのままに受け取った凜ちゃんは、そう言ってカウンターの方へ向かう。
「うんうん。お疲れ様、佐咲くん」
「ありがとうございます。じゃあ、お先にー」
 にこ、と柔らかい笑顔が咲く。凜ちゃんの笑う時の癖なのかもしれないけど、顔立ちのおかげか、その笑顔はめちゃくちゃに魅力的で正面から見ずとも心臓が跳ねる。嬉しそうな麻里奈さんを横目に、凜ちゃんはエプロンを外しながらバックヤードに入っていった。


 凜ちゃんとお茶できるのか…ちょっとドキドキしながらホワイトモカを啜る。凜ちゃんが消えていったカウンターの方へ視線をやると、依然として眩しい笑顔の麻里奈さんがにこにこしている。こちらをみていたのか、ばっちりと目が合ってしまった。

「え、と…いつも、ありがとうございます…?」
「やだなあ、こっちのセリフですよお客さん」

 とかいいながら、麻里奈さんはコーヒーを俺の正面の席に置いた。恐らく、凜ちゃんの分のコーヒー。そして俺に近づいたかと思ったら、声のトーンを2段階くらい落として耳打ちする。

「…ねえねえ、ぶっちゃけ、佐咲くんのこと狙ってるの?」
「え…え!?」
 思わずカップを手の中から落としてしまいそうになりながら、俺は麻里奈さんを二度見した。大体把握されているんだろうとは思っていたけど、まさかこんなに直球で聞かれると思わず…そんな俺の様子をみて、麻里奈さんは逆にちょっと驚いたような顔をしていた。
「え…だって、佐咲くんのために来てるんだよね?」
「う…えっと…」
「ふふ、素直でよろしい。可愛いもんねえ…私も、佐咲くん見てると眼福だなあって思うよ」
「そう…ですよね…ハッ。預かったプレゼントって、もしかして、そういうファンの人とかがいっぱいいるってことですか…!?」
「え?あー、ううん、それはね…」


 麻里奈さんの言葉の途中で、凜ちゃんが奥から戻ってきた。その手に持つお盆の上には、いくつかのカットケーキが並んだお皿が乗っている。
「お待たせ、奏。麻里奈さん、ケーキありがと。こんなにもらっちまっていいの…?」
「もちろん♪お誕生日おめでとう、佐咲くん」

 そうか、お誕生日…だからケーキやプレゼントがあったってことか。疑問が一気に晴れて、ちょっとすっきり…え?

「え!?…り、凛ちゃんお誕生日なの…!?」
「うん、そーだけど…」

 だいぶオーバーに驚いた俺に、不思議そうな顔をする凛ちゃん。相変わらずにこにこしている麻里奈さんに、はやく教えておいてくださいよ、と思いながら俺は鞄を漁る。…が、その甲斐なく、普段持ち歩いている個包装のアメとチョコレートくらいしか出てこなかった。

「お、おめでとう…!え、え、ごめん今こんなものしか…」
 そういっておずおずと差し出したアメとチョコ数粒を、凛ちゃんは笑いながら受け取ってくれた。
「ふ…ありがとな。こうやって当日に誰かと顔合わせてケーキ食ってるだけで嬉しいよ」

 う、またそのすごい風速の破壊力を持つ笑顔…。何回くらっても全然慣れない。俺が自分との闘いをしている間に、凛ちゃんが、麻里奈さん、いただきまーす、と言い、はいはーい、召し上がれ~と返ってきているのが聞こえた。


 それにしても誰かと顔合わせて、って…よく考えてみたら、凛ちゃんって自分のお誕生日にこんなとこでバイトしてていいの!?…恋人、いないのかな、とか…不謹慎にもちょっと期待してしまっているなんて大概なんだけど…。

「俺も、偶然だけど、こうしてお誕生日を一緒にすごせてうれしい…」
「はは、ありがとな。ん、うまい~」
 本当においしいんだろうな…とこっちに思わせるような表情で凛ちゃんはケーキを口に運んでいく。一口食べる毎に、その大きな瞳はキラキラと輝きを増し、見ているこっちまで幸せになってきた。端的に言って、可愛いすぎる。


「…あ、一口食う?」
 じっと見つめていた俺をどう思ったのか、凛ちゃんはそう言って、ケーキ一口分くらいを刺したフォークを、ことも無げに俺の口元に運んできた。いや、それ、食べるの?俺が?その手から…?!

「?あれ、奏、甘いの好きだよな…?」
 慌てふためく俺に、凛ちゃんは不思議そうな顔をしている。…いや、わかってる。傍から見たら絶対に俺がおかしいということはわかってるんだけど、どうにも心臓の音が静まらない。
 しっかりしろ、奏…!自分に喝をいれてやっと、俺は普通に…振舞えているのだろうか、果たして…。

「…うん、甘いの好き。もらっていいの?」
「ん、食ってみて。ほんとにうまいよ」

 笑顔の眩しい凛ちゃんがフォークを差し出す。もう心を決めるしかない。むしろ、こんなチャンスがそうそう巡ってくるとも限らないんだし、神様からのご褒美だと思って、受け入れよう…。ありがとう、神様…。

 混沌とした気持ちの中、それを咀嚼して味がわかるのだろうかという俺の心配をよそに、口の中にパッと甘みが広がった。

「え…お、おいしい~!」
「だろ?」

 俺の心からの反応に、凛ちゃんは満足気に笑う。穏やかに笑う表情とはまた違った、無邪気な表情がまた可愛らしくて、俺は心が忙しい。
 そんな様子を見ていた麻里奈さんが、喜んでもらえてよかった。と微笑む。凛ちゃんもケーキを食べ勧めながら満開の笑顔。
「やっぱここのケーキは最高にうまいよな~。麻里奈さん、ほんとすげえ」
「ふふ、ありがとう。そういえば、佐咲くんはこれで晴れて、お酒解禁だね?飲む予定ないの?」
「そういやそうだったな…。今んとこ予定はないけど…うまいのかな、お酒って」
「人によると思うけど、佐咲くんは結構どんな味も好きだから、おいしいと思うかもしれないわね」

 お酒…、自分にとってはまだ2年も先の話だし、大人の世界だなーと、俺は漠然と思っている。凛ちゃんは、お酒解禁なんだ。意外とそう遠くもないことなのかな。って…

「…え?…ちょっとまって…」
「?どうした」
「凛ちゃん、今年で成人なの…?」
「え?うん」
 まさかと思ったけど、やっぱり…!凛ちゃんは突然どうしたのかという顔だ。
「う、うそでしょ…!!凛ちゃん、年上だったんだ。俺、ずっと同い年だと思って…!」
 衝撃の事実に打ちひしがれている俺に、凛ちゃんは未だ何を言っているのかわからんという感じだ。斜め上のあたりに視線を泳がせて、脳を回転させている。
「ん?奏、大学生なんだよな…?あ、1年か?」
 漸く話が見えてきた、と凛ちゃんは俺に向き直る。
「うん…凛ちゃん、2年生だったの…? ご、ごめんずっと…俺、なんて馴れ馴れしいことを…!」
 なんかもう衝撃的すぎて、脳処理が現在進行形の俺は、ひとまずめちゃくちゃに申し訳なくなって気がついたら謝罪していた。が、それを聞いた凛ちゃんは、思わず、といった感じで吹き出したかと思うと、声を上げて笑い始める。

「ふふ、あはは!別にいーよ!これまでどおりにしてくれ、調子狂う。年が違うったってたかだか1年だろ?そんな変わんないから気にすんな」

 笑いが止まらないどころか涙まで浮かべながら尚も笑い続ける凛ちゃんに、楽しそうで可愛い…と思いながらも、そんなに笑わなくてもいいんじゃないの、とちょっと思う。俺の不服そうな顔を見て、凛ちゃんは更に楽しそう。もう、凛ちゃんが楽しいならそれでいいや…。

「はは、来年、奏が二十歳になったら、一緒に酒飲もうな」

 なおも笑い続ける凛ちゃんに、それでも、当たり前に来年も一緒にいてくれるつもりなんだなと思って、胸の中が温かい。その頃には今よりもっと、近しい関係になれていたりするのだろうか…。俺の努力次第か。心の中で密かに、頑張ろうと自分を鼓舞したのであった…。
3/5ページ
スキ