espressivo!
ピンポーン、ピンポーン…
気持ちの良い朝。小鳥がさえずる声が小さく聞こえ、まさに理想の美しいサウンドに包まれた部屋に、来客のチャイムが響く。
重い瞼を押し上げると、カーテンの隙間から差し込む朝日が、健やかに眠る美しい寝顔を優しく照らしていた。
あー、また知らないうちに寝て、知らないうちに朝になってたな…。社会人になってまでそういうのはやめようと思いながらも、毎回やめられずにいる。
上半身だけ起き上がって掛け時計を見上げれば、針はおおよそ6時30分を示していた。
ピンポーン。
再び鳴り響くチャイムが、ボーっとしてしまっていた俺を現実に引き戻す。いけね、人を待たせてた!うちを訪ねてチャイムを鳴らす人間は多くない。加えてこの時間だ、来客の心当たりはたった一人。
俺はそこらに転がっていた寝間着をてきとうに拾い、頭から被りながら玄関へ急いだ。
「悪い、由佳さん、おはよう!いつも待たせちゃってホントすんません…!」
「弦一郎さん、おはようございます。こちらこそいつも朝早くからすみません…。出発一時間前なので来ました!」
俺がドアを開けるとそこには眩しい笑顔。フレッシュだ…。歳はあんまり俺と変わらないみたいだけど、一回りくらい若々しく思える。
彼女は千鳥由佳さん。俺の同居人である早川律人のマネージャーさんだ。朝起こしに来てくれるなんて明らかにマネージャーの業務外な気はするけど、由佳さんはこの眩しい笑顔でいつも律の世話を焼いてくれている。なんてホスピタリティ。…いや、というか、そうでもしないと律がちゃんと時間通りに来ないからそうせざるを得ないんだろうな…ホントごめん、由佳さん。
「いつも悪いな、由佳さん。どうぞどうぞ入ってて、律連れて来るから…」
「あ、どうも…」
由佳さんはペコリと会釈をして玄関へあがり、コーヒー淹れておきますね、と慣れた様子でリビングに消えていった。俺も律を起こすために寝室へ向かう。…最初頃由佳さんは、私が律人さんを起こしにいきましょうか?と名乗り出てくれてたんだけど、こういう時に大体律が服着てないということを学んでしまってか、最近はお部屋から出てくるまではリビングで待ってくれるようになった。俺もはじめは私生活駄々洩れすぎて心苦しく思ってたけど、あまりに律が気にしないからどうでもよくなっちまった…。こうして人間は環境に順応していくのだろう…。
律と俺は幼馴染で、長いこと一緒にいたし、一緒にヴィオラを弾いてきた。俺も別にしっかりしてるとは言えないタイプなんだけど、それでも律は比べ物にならないくらい危なっかしくて…。面倒を見続けた結果、色々あって気がついたら一緒に住んでいた。律は生活力もなにもまるで無いんだが、…音楽だけは恐ろしいほどにずば抜けてよく出来た。全くの素人だった時代の俺が聴いても、とりあえず音楽を仕事にしているという点ではプロに位置していると思われる今の俺が聴いても、律の演奏は他とは全然違う。上手いという言葉で片づけてしまうのは忍びないくらいに魅力を帯びたともすれば恐ろしさを感じる程の…つまり、極上の音楽だ、と俺は思う。実際世の中の下した評価も俺と同様だったみたいで、律は今、「麗しき新進気鋭の若手ヴィオリスト・早川律人」なんていわれて、ソロの演奏家として十分に生計を立てていける程度には活躍している。
…そんな麗しのヴィオリストが、起こされねえとグースカ寝続けて、マネージャーの世話が無いと一人前に働けないなんてのは誰も信じらんないだろうな…。
「律~、起きろって」
気持ちよさそうに眠るその寝顔に少し罪悪感を覚えながらも、声をかけて肩を揺する。すると律は、ん~、と唸りながらコロンと俺の方に転がってきた。
「起きたか?ホラ、とりあえず服着てくれ…お前パンツどこやったの」
「ん~無いもん…ね、げんいちろ、一緒に寝よ…」
と言ったかと思うと、律は俺の腕を掴んで、くい、と引っ張る。俺も大概ダメなもんで、ちょっとクラっときそうになったところを、息を吐いて堪える。
「はー…。ダメだってコラ、今日仕事朝からなんだろ?由佳さん来てるぞ」
「え…おしごと…」
「おいおい、自分の予定は把握しておけよ…」
絶望、みたいな顔をしてすがるような眼をこちらに向けてくる。そんな…、そんな顔したって駄目だ。…でも俺じゃなければ許しちまってたかもしれない。つくづく危ない男だ、律。
「しょうがねえな…律、ほら、とりあえずこれ、棚から出したから、履いて、服は~…これでいいか?仕事用のやつ、また由佳さんに選んでもらわねえとな~」
衣裳箪笥を開けた一番手前の下着と服を律の転がっているベッドに投げる。投げた先から、もそもそと律が身に付けていく。一通り着用して、律はゆっくりとベッドから降り、こちらに歩いてきた。
「ん~…弦一郎~…着た~」
「ん、よし。じゃリビング。由佳さんまってるぞ」
「うん…」
コクリと頷いて、律は俺の正面に来たかと思うと、ぎゅ、と小さく抱き着いた。
「律?」
俺を見上げる律の綺麗な顔が、花が咲いたように綻ぶ。
「おはよ、弦一郎…」
「ん!おはよ」
ああ今日も、一日が始まる。
* * * * *
「由佳さん~おはよう~…」
ヴィオラを抱きしめた律を先頭に、その後ろを追って俺がリビングに入ると、由佳さんがコーヒーを保温ポットに詰めているところだった。ああ、由佳さん、すっかりうちの戸棚事情に詳しくなっちゃって…。むしろ俺と律より詳しいんじゃないか?最早。
「おはようございます!律人さん。ご飯、パンでいいですよね?最近お気に入りっぽかったやつ買ってきました!午前はインタビューなので…」
ああ、由佳さん、律の好みにも詳しくなっちゃって…。生き生きとした由佳さんと対照的に、律はしょんもりし始めた。
「ん…いんたびゅー…」
「おい、嫌そうな顔すんな」
「だって…」
どういうことかというと、律は演奏の仕事が一番好きで、こういう…、インタビューとか、演奏に掠らない感じの内容の仕事があまり好きではない。そうはいっても仕事なんだからちゃんとやってくれんと困るよな、由佳さんにこれ以上迷惑かけるわけにもいかんし。
保温ポットを片手にキッチンから戻ってきた由佳さんは、しょんぼり縮こまってしまった律を元気づけるように話す。
「あ、でも録音もありますよ!インタビューも、律人さん楽しみにしてたじゃないですか、緊急来日されてるヴァイオリニストの…」
途端、由佳さんの声をかき消すかのような大きな声で律が飛び跳ねる。
「ジュリア・スコットさん!!」
その突然の大声に、わ、と由佳さんがあわやポットを落としそうになり、俺も思わず、うわ、と声に出てしまった。対して律は、瞳を輝かせてオーディオコンポのある棚に吸い寄せられていく。
「そうだったそうだった…今日だったのか、それ…わああ楽しみ…!ジュリア・スコットさんっていったら、ほら、弦一郎、小さいころから一緒によくきいたじゃない、この名盤!この時のソリスト、はあ~…この4曲目、特にいい…、最高~…出だしの音から音の切れ目まで全部が美しい、どうしてこんな風になるんだろう…、何を考えて、どうやって音をつくって、ああ…ききたいことが山ほど…」
「りーつ、律!」
突然よく回り始めた口も、コンポを起動させてCDを再生しようとする手も全くとまる様子が無く、見かねてさすがに律を制止する。特に強いアクションをしたわけではないんだけど、後ろから抱きしめてやればこうしてしっかり止まるところ、律はこうでよかったと思う。
「律、落ち着け。あくまで仕事ってこと忘れんなよ。…まあお前のことだから内容は心配してないけど…、とりあえず、ちゃんと由佳さんのいう事をきくんだぞ」
「うん・・・」
一度落ち着くと、律はいつも通りの静けさを取り戻した。俺の言葉に、コクコクと頷く。それを見て満足気に深く頷いた由佳さんは、よし!と打ち手をひとつ。
「じゃあ律人さん、そろそろ行きましょうか。撮影もあるから身なりはメイクさんが入ってくれますし…、とりあえず楽器だけはちゃんと背負いました?楽譜入れてあります?」
「ん。大丈夫…」
すっかりお母さんのようになってしまった由佳さんが持ち物などをひとつひとつ確認し、その度律がコクコクと頷く。確認が全て済んだのか、由佳さんがこちらを向いて高らかに出発を宣言した。
「ではいってきます、弦一郎さん!本日もお騒がせしました…」
深々とお辞儀をする由佳さんに、俺もなんとなくそうしないといけない気がして、慌てて礼をする。
「いやいやこちらこそ、いつもほんと世話になるな…律のこと、よろしく頼みます」
「はい!大事な律人さん、本日もしっかりお預かりいたします!」
もう既に大きな仕事をひとつ終えた、みたいな感じの由佳さん。本当にお疲れ様ですうちの子がすみません…。
そんなやりとりを見ているのかいないのか、律がとてとて、と俺の方に駆け寄り、ぎゅ、と小さく抱き着く。
「いってきます…」
これは、いつもの律のルーティンみたいなものだ。こうしてみると可愛いんだけどな、手のかかる子ほど、じゃないけど…。
「おう、いってらっしゃい」
律の頭をポンポン、と叩いてやる。律は、がんばる、と嬉しそうに笑った。
もはや毎回のことなので慣れすぎてしまった由佳さんも、微笑みながら俺たちを見守ってくれる。
「いこ、由佳さん…」
「はい!」
くるりと踵を返し、律は移動用の車に乗り込む。それを見届けてから、由佳さんも運転席へ座った。出発の準備を整えた由佳さんが、助手席の窓を開け、笑顔で手をあげる。
「ではいってまいります!」
「はーい。いってらっしゃい。よろしく~」
俺も手をあげて応え、後部座席から笑顔で手を振る律にも手を振りかえして見送る。住宅街だし、安全速度ではあるけれども、車はみるみるうちに離れて小さくなっていった。
「…今日も無事行ったか…」
由佳さんもそうだが、俺からしてみても、律を送り出すのは朝の一仕事、って感じだ。大きく息を吐いて、文字通り、これで一息つける。とはいえ、律とのこの日常が嫌いではなく、できることならずっと…と思ってしまう自分に、大概だなあ、と思うのだった。
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