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欲に囚われた末路(ひとくう)

「おう、銭ゲバ弁護士。今日もくたびれてんな」

「うるせえ、生臭坊主見習い。つか、今日も来たのか」

獄が仕事から帰ればそこには、まるで自分の家とでも言うかのように寛いでいる空却がいた。
何しにきたのだといえば、テーブルに用意された食事を見れば明白だが、
寺でのお勤めはどうしたんだと問いただしたい程には空却の顔を見ている気がする。

(今日は魚か)

合鍵を渡してから最初に使われた日に、何故いつも冷蔵庫が空っぽなんだと怒られた。
忙しくて買い物に行く時間もないし、適当に出前でも頼めば良いだろうと提案すれば、拙僧がいなかったら頼むのをめんどくさがって食べないだろ?と図星をつかれた。
そこまで言うなら黙って金を出そうと決めて、その日から食材配達サービスを利用する事になった。
それから空却は気まぐれに来ては届いた食材でいくつかの料理を作り置きしてくれるようになったのだ。
更に家政婦を雇えと自分で言っておきながら気が向けば掃除も軽くしてくれる。

(まるで、通い妻だな…)

少し前まで乱雑とした部屋が綺麗に整頓され、帰ってくれば美味い飯が用意されている。
暗く冷たい家に帰るのには慣れたと思っていたが、待っている人間がいる部屋はこうも明るいのかと驚いた。
仕事に生きる獄には家庭を求める男の心理が理解できなかったが、こうして過ごしてみるとなるほどこういう事かと思えてくる。

(何考えてんだ俺は…疲れてんのか?)

思わず頭を軽く振った。
そんな獄を見て空却がソファの上から訝しげにこちらを見ている。
「おい、獄、突っ立ったまま何してんだ?」
「あ、あぁ…いや、考え事だ」
脱いだジャケットを椅子に引っ掛け料理をレンジに突っ込む。
「お前はもう食べたのか?」
「とっくにな」
「じゃあなんでまだ俺の家にいんだよ」
「寺に帰ったらクソ親父がうるせえでな。獄の家にいるっつっとけば親父もそう文句は言わねえんだよ」
なんだそれは、と思わず呻く。
いつの間にか避難所のように扱われていたようだ。
文句の一つでも言おうかと思ったが、タイミングよくレンジの完了音が鳴り響く。
とりあえずは飯を食うかと喉まで出かかった文句を飲み込み、ご飯をよそった。
醤油で煮付けられた魚の良い香りが獄の腹を刺激する。
「そういや、今日は味噌汁ねえのか?」
「贅沢言うな。冷蔵庫におひたしも入ってるからそれも食えよ」
空却の言う通り、冷蔵庫には小鉢に入れられたおひたしがそこにあった。
きちんと副菜を用意するところなど、育ちの良さが現れているようで複雑な気持ちになるが、そんな気持ちを一旦無視して手を合わせる。

「いただきます」
「おう」

話題がなければお互いそこまで話すわけではない。
十四がいれば話は別だが今は2人だ。
空却はスマホを眺め、獄も食事に集中している。獄が箸で皿を突く音だけが部屋に響く。
そんな静かな部屋で、食べながらも獄が考えるのは仕事についてだった。
あの夜、空却に漏らしてしまった案件はいまだに進展らしい進展は迎えていなかった。
だが、母親は諦めていないし、獄もいじめが関わる以上諦めるつもりもない。
だが、心配なのは子供だ。相変わらず一言も喋る事ができない。
不可解なのはそこまで傷つけられているのに、学校には行こうとするのだ。そこが理解できなかった。
更にいえば、この案件にばかりかまっていられない現実だ。当然ながら他にも仕事はある。
書類の溜まった机を思い出して思わず重い溜息が漏れた。
「なんだ?不味かったか?」
「ん?いや、飯は美味い。美味いが、不味くなるような事を思い出しちまってな」
「はあ?んだそれ?」
「気にすんな」
食事が終わり食器を洗う。シンクに置いておくと空却が煩いので食べたらすぐ洗うようになった。
獄の母親が見れば空却に感謝の手紙と菓子折りでも送っているだろうな、なんてくだらない事を考えているうちにリビングでは空却が起き上がって上着を着ている。
「拙僧はそろそろ帰るからな」
「あ?もう帰んのか?じゃあ送って行く」
ほぼ無意識だった。今まで送って行くなんて言った事などないのに。
空却は素手だろうが、強い。カツアゲに会えばむしられて泣きついてくる十四とは違うのだ。治安の悪い道だろうが難なく帰るだろう。
案の定、訳がわからないといった顔で空却がこちらを見ている。
「馬鹿、女じゃねえんだから1人で帰れるっつうの!いいからテメェはサッサと風呂入って寝ろ!」
そう言ってさっさと玄関へと向かう空却の背中を追いかける。
「なあ、空却」
ドアに手をかけてもう出ようというところに声をかける。
「何だよ?まだなんか用があんのか?」
振り向いた空却の顔の顔を見て変に心臓が跳ねる。
何故か照れたように白い肌には赤みがさし、吊り目がちの大きな目は体格差のせいで自然と上目遣いになっている。長いまつ毛が照明に照らされて顔に影を作っており、まるで精巧に作られた人形のようだ。
つまり何が言いたいかというと、見慣れたこの顔が可愛く思えるのだ。このクソ生意気なクソガキがだ。
いつも見ているはずの顔を見て、こんな気持ちになるのはこまめに世話を焼いてもらっているからか、など獄本人にも分からない。
だからだろうか。

「俺が、お前に惚れてるって言ったらどうする?」

以前空却に聞かれた内容を思わず口にしてしまった。
「は…?」
ぽかんと口を開けて獄を見る顔は年相応だなと変なところで感心してしまう。
「なんてな、冗談だよ冗談。お前が女だったら良い嫁になりそうだなって思ってついな」
冗談じゃねえとか、いい歳こいたおっさんがきめぇこと言うなとか、そんな事を言われると思っていた。

なのに、返ってきたのはひどく傷ついた表情だった。

しかし、それも一瞬でいつもの生意気な顔を全面に出して笑う。
「ひゃはは、んな冗談かますとか疲れ過ぎだろ!おら、拙僧の見送りなんかいいからさっさと寝る支度でもしろ!歯ぁ磨き忘れんなよ!」
パタンと閉まったドアは空却など最初からいなかったとでも言うようにただ冷たくそこに佇んでいた。


帰路につく空却の頭の中では先程の獄の言葉が何度も繰り返されていた。
(惚れてるって言ったらどうする、だと?)
どうもしない。何故ならそれはただの冗談だからだ。
“女”だったら嫁にしたいと言われた。
それは男である空却にとっては脈もクソもない残酷な言葉だった。
はなから望みがあるなんて考えてもいなかったが、実際突きつけられれば強くなったと思った心が傷つく。
それでも離れる事は考えられないのだから末期なのだろう。
「拙僧がこんな柔だとは思わなかったな…こりゃ一から修行のやり直しか」
ハァと重く吐き出された息は空却の気持ちを軽くする事は出来なかった。



それはたまたま近くを通ったので獄の事務所に立ち寄った時のことだった。
「よお、獄おるか?」
「あっ、すみません。今、先生は来客対応中でして…。でも予定の時間も過ぎているのでもう終わると思いますよ」
「へえ?じゃあ待っててやるか」
ドサリと受付横に置いてあるソファへ腰を下ろす。
暇つぶしにスマホを開けば、十四からメッセージが入っていたのでそれに適当に返信する。
十四からの返事は早い。すぐに来たメッセージにまた適当に返していく。
そんなやりとりを何回か繰り返したところでガチャリとドアの開く音がした。

「天国先生、お忙しいのにこんなにお時間を頂いて本当にありがとうございます。」
「いえ、仕事ですから気にしないでください」

出てきたのは綺麗な服に身をまとった女と両腕に包帯を巻かれた、まだ小学生くらいの少年だった。
「ですが、報酬もいらないだなんて…せめてお食事だけでもご馳走させていただけませんか?」
その時、空却の頭に何か嫌なものがスッと通り過ぎた。

(なんだ…?)

「いえ、食事は用意されたものがあるので」
「どこかに頼まれてるんですか?それとも、お付き合いされている方でも…?」

「ちげえよ。そいつの飯は拙僧が用意してんだ」

突然上がった声に獄はまたかと呆れた顔を浮かべ、女は困惑気な表情を浮かべた。
「空却、お前また来てたのか?」
「えっと…こちらの方は?」
「あー、前に世話してやった奴でしてね。今でも付き合いがあるんですよ」
獄が無難な言葉を並べて紹介する。
女はそうですか、と呟いてそれ以上は踏み込まず、空却を探るように見た。
空却はその視線を無視して母親の後ろに縮こまるように立っている子供を見た。
「なあ、こいつがいじめられてるってガキか?」
空却が目線を合わせるように屈む。
「おい!口に気をつけろ!すみません、こいつ口が悪くて…」
獄が慌ててフォローするが、空却はお構いなしだ。
少年はどこを見ているのかわからない虚な目でただ下を向いている。
「おいガキ、拙僧を見ろ」
しかし、少年は動かない。
「ガキ、拙僧を、見ろ」
先ほどよりも強めにもう一度。
すると、ゆっくりとだが、少年の首が動いた。
目は合わないが空却の顔を見ているのは分かる。
「いいか?お前の母親が頼んだこの弁護士は口は悪りぃが腕は良い。無敗の弁護士だなんて大層な名前も付くくらいだ。」
口が悪いのは馬鹿ガキ共にだけだ、と獄の口から出そうになってグッと飲み込む。
「だから安心して任せればいい」
子供はその言葉に僅かに顔を歪めた。
「……お前…?」
「先生、すみません。そろそろ帰って夕ご飯の準備をしなければいけませんので…あの、あなたも私の子を元気付けてくれてありがとう」
空却が更に言葉を繋げようとしたが、人当たりのいい笑顔を浮かべた母親が割って入ってきたため、言おうとした言葉を探す事も出来ずに口をつぐんだ。
「こちらこそ引き止めてしまってすみません。おい、空却」
獄が空却に挨拶をしろと視線を寄越すが、空却はそれを無視して立ち上がり、女をまっすぐと見た。

「なあ、あんた。こいつは本当にいじめられているのか?」

そのあまりの言葉に獄の顔が一気に険しく歪む。
「おい!テメェ失礼にも程があんだろうが!!
すみません、こいつにはキツく言っておくので今日のところは俺の顔に免じて許してやってください」
ガッと空却の頭をつかんで無理矢理下げさせる。
女は少し困ったような顔で獄に微笑みかけた。
「いえ、その…大丈夫ですから。この方もきっとこの子の事を心配して聞いてくれたんだと思います。これ以上長居しても失礼ですので私たちはこれで」
そう言って軽く獄に頭を下げ、親子が足早に事務所から出て行った。
ドアの閉まる音と共に獄の手が空却の胸ぐらへと回る。
「おい、馬鹿ガキ。テメェ聞いて良いことと悪いことの区別もつかないのか?ぁあ?!」
「チッ、うぜぇな離せよ!テメェこそあの女の色気にでも騙されてるんじゃねえのか?」
空却の手が獄の手を振り払い、お互いに距離ができる。
「ぁあ?!どういう意味だおい!」

「そのまんまの意味だ!仕事で残業だ何だと言っておきながらあの女といるんじゃねえのか?!テメェはいつから嘘と真実の見分けもつかなくなったんだ!クソ弁護士!!」

空却のその言葉を理解するのに一瞬、空白が生まれる。
「は?何言って…」
「あのガキ、安心して任せろっつったときすげえ苦しそうな顔しやがった。…ありゃ、嘘ついてるやつが罪悪感もった時によくする顔だ」
「どういう事だ、おい?」
「知らねえよ!だからあの女に聞いたんだろうが!」
声を荒げて苛立ちをあらわにする空却とは反対に獄の声音は静かになっていく。
獄の耳元ではドクドクと嫌な音で鳴る心臓がまるで警告しているようにうるさい。
「…依頼人が嘘をついてる、だと?あれだけ状況証拠があるっつうのに、あれが全部嘘だと?…じゃあ、あの傷は何だっつうんだ?あの傷も嘘だっていうのか?!」
「だから知らねえって言っとるが!!」
獄が怒鳴り、更に空却が怒鳴り返す。
しばらく睨み合いは続いたが、しだいに糸の切れた人形のように獄の体から力が抜けて肩が落ちる。こんな事をしていても答えは出ないからだ。
獄は空却の事を信用している。
こういう事で嘘をつくような人間ではないし、空却の観察眼は馬鹿にはできないくらい正確なのも知っている。
だが仕事上、なんの証拠もなく空却の言い分をまるごと信じるわけにもいかない。
他人の人生がかかっているのだ。

「悪いが、少し1人で考えたい。誰の意見も聞きたくない。完全に第三者の視点で考えたい。この事務所にも俺の家にもしばらく近づくな。勿論、俺にもだ。お前の事は信用しているが、お前のその勘みたいなものを完全に信じるわけにもいかねえ。」

そう言葉を残し、獄は扉の向こうへ消えてしまった。

――――――――――――
数時間後。

「おい、俺は近づくなと言っていたはずだが?」

考えがまとまらず、仕事にもならないため早めに帰宅してみればそこには近づくなと言っておいたはずの空却がいた。
「それはクソ弁護士の都合であって拙僧には関係ない」
「あのなぁ…お前の我儘に付き合ってる暇は俺にはねえんだよ。色々世話焼いてくれんのは感謝してるが、こっちはいじめられている子供1人の人生かけて仕事してんだ!」
苛立たしげにジャケットを脱ぎ捨てる。
空却は静かに獄を見るだけだ。
「なのに、仕事は溜まる一方で全然進展しねえ。挙げ句の果てには嘘の可能性があるだあ?ざけんじゃねえぞ!!」
ガンッと机に拳が打ち付けられる。
「今まであの案件にどれだけの時間を割いたと思っているんだ!どれだけの人間を巻き込んで調査したと思ってる!嘘だと思いたくねえ!思いたくねえが……クソ!!」
吐き出された愚痴の数々は獄の苛立ちを解消するのに役にはたたなかったようで、険しく歪んだ顔は元には戻らない。
静かに空却の口が開いた。
「気ぃ済んだか?」
「……さあな」
自分より一回り以上も下の男に大人気なく当たり散らしている自覚はあるのだろう。
獄は空却とは目も合わせずそのまま寝室に消えていった。
空却は仕方がないと言わんばかりに溜息をついて帰る支度を始めた。
そもそも今日来たのは獄の言う事を聞くのが嫌だとかそんな子供っぽい理由ではなく、冷蔵庫に入っている食材を使い切ってしまおうと思ったからだ。
獄に任せれば3日もしないうちに食材がゴミ箱行きになるのは明白である。
どうせ今日も帰るのが遅いだろうと思っていたため、帰る前に少しゆっくりしようとしたのが失敗だった。
「ひとやぁ、飯は作ってあるから適当に食べろ。あとカタがついたら団子持って寺に顔出せよ。それでチャラにしてやる」
閉ざされた寝室の前でそれだけを言い残し、獄の返事を待たずに部屋を出る。
どうせ、返事を待ったところで今の獄からは本心ではない取り繕った言葉しか貰えないからだ。
(人に散々ガキだガキだと言っておきながら、寝室に籠るなんてテメェもガキみてえなことしてんじゃねえか)
きっと、獄もそう思って今頃後悔しているであろうことは容易く想像ができた。
そのうち気まずそうに団子を持って、寺に来るだろうと空却は気持ちを切り替えてマンションの共同玄関を出る。

その時だった。

ドンっと何かがぶつかってきた衝撃と共にバチバチっと破裂音のようなものが空却の耳を叩く。
一瞬で体が硬直しその場に立っていられなくなる。それがスタンガンだと知ったのはだいぶ後になってからだ。
そのまま倒れるかと思った空却を支えたのはぶつかってきた人間だった。
フードを目深に被っており誰かは分からないが、背格好からして女だろう。
口を開こうにも痺れて全身の筋肉が動かないうえに、湿った何かで口を覆われた。

「何であんたなんか―ー」

女が何かを呟いていたが、その言葉を理解する前に空却の意識は遠のいた。




空却が部屋から出て行ったのが分かった。
散々当たり散らして最後は気まで遣わせてしまった。なんて情けない。もっとスマートに帰すことなんていくらでも出来ただろう。
波のような後悔の念が獄に押し寄せる。
部屋着に着替えて寝室から出ればそこにはシンと静まり返った空間しかない。
とりあえず何か冷たいものでも飲んで頭を冷やそうと冷蔵庫を見れば、いくつかあった野菜や肉が消え、代わりにタッパに詰められた料理がいくつか並んでいた。
それを見て、また後悔する。
(歳下のガキにこんな面倒見てもらって、最悪だろ俺…。一番高い団子買って行っても許される気がしねえ)
しばらくは空却がわがままを言っても文句言わず聞いてやろうと決心した。
冷蔵庫から目的のミネラルウォーターを取り出して一気にあおる。空っぽの胃に冷たい液体が満たされていくのがわかる。
腹は空いているが、なんとなく食べる気にはなれず、そのままミネラルウォーターとウイスキーを手に取りソファへ座る。
何も入っていない胃に酒を入れるのは良くないと分かっていても、今はとにかく酔いたくて仕方がなかった。
(………そういや仕事が落ち着いたら、アイツはもうこの家には来なくなるんだろうか…?)
何人もの女と付き合ってきたが、何かあればその度に彼女より仕事を選んできては別れを繰り返してきた。
やがて、付き合うという行為自体が面倒くさくなりそういった付き合いとは疎遠になっていった。
1人が寂しいだなんて今更言うつもりはない。
ましてや相手は空却だ。チームのリーダーであり、会おうと思わなくてもなんだかんだ事務所に遊びに来る迷惑極まりないガキ。
そんな奴にわざわざ家に来てもらって世話をしてもらわなくても、またハウスキーパーを雇えばそれで済む話だ。惜しむような金ではない。

だが、それは空却と2人で過ごす空間が心地良いと知る前の話だった。

家なんてただ休むだけの場所だったのに、早く帰りたいと望む場所に変わっていったのはいつからだったか。
「……惚れていたらどうする、か」
最初にあっちから聞いてきた時はタチの悪い冗談だと思っていた。だからちょっとした意趣返しに同じ事を聞いただけのはずだった。
あの時、傷ついたように顔を歪めた空却の顔が忘れられない。
それでもなんとか忘れようと獄は更にグラスを煽った。


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最初に目についたのはやたら眩しい蛍光灯だった。
次に聞こえてきたのは何かを叩く音だ。
よく喧嘩する空却にはあまりに聞き覚えのある音で、何事だとそちらの方を向こうとするが、体がうまく動かないことに気がつく。
見ればグルグルと縄で体を巻かれているようだった。
「何だこりゃ…」
なんとか抜け出そうと体を動かすが指先が痺れていてうまくいかない。
「…くそっ」

バシンッ

再度音が鳴り響く。
音の方を見れば半開きになっている襖の向こうに人がいるのが分かる。
(…前に喧嘩を買った奴らの仕業か?)
身に覚えがあり過ぎて誰の仕業か特定するのは難しかった。
ひとまず敵の姿を確認しようと何とか体をよじって体勢を変え、襖の向こうを覗く。
「は、ぁ……?」

そこに見えたのはあの獄が必死で助けようとしている子供を棒で叩く母親であるはずの女の姿だった。

女はその顔に感情を乗せることなくただただそれが仕事であるかのように子供に手を振り下ろす。子供は必死に体を丸めて衝撃を和らげようとしているが、大人と子供では力が違いすぎる。衝撃を逃し切れずによろめき、無防備になってしまったところにまた棒が叩きつけられる。
「てめっおい!何してやがんだ!!」
そんな様子を黙って見ることなど到底出来るはずもなく、空却が女に向かって叫ぶ。
すると女が殴るのをやめて空却の方を向いた。
「あら、もう起きちゃったの?結構な量の麻薬だったんだけど…やっぱり、口から吸っただけじゃそんなに効かないのかしらね」
ブツブツと呟きながらこちらに向かって歩いてくる。その手に握られた棒はそのままに。
「何でテメェの子供殴ってやがる…ッ!アイツはいじめで怪我したんじゃねぇんか?!」
「あら、違うって気づいてたんじゃないの?まぁ、どちらでもいいけど」
女が空却の目の前まで来て空却を見下ろした。まるで、生理的に受け入れられないものを見ているような嫌悪感をまとって。
「ねえ、あなた天国先生のなんなのかしら?」
「あいつは拙僧の家族だ!獄に近づく目的はなんだ?」
「家族?血縁者ではないでしょう?あなたあの空厳寺の息子らしいじゃない。とてもじゃないけど寺の息子には見えないわねぇ」
女は空却の質問には答えず、世間話をするかのように言葉をつなげる。手に持った棒があまりに異質に見えるほどにその声音は普通である。
「ねえ、あなた天国先生の事、好きでしょう?わかるわ。だっていやらしい目で天国先生のこと見ていたものね。家族だなんて言って天国先生に近づいて恥ずかしいと思わない?」
「うるせえ、テメェこそ獄に近づいた目的は何か言え!何でテメェのガキを殴る必要がある!」
「あの子は私と先生が一緒になる為のただの道具よ。私が産んだんだもの、私がどう使おうと私の勝手でしょ?
先生はね、私の運命の人なの。見てたでしょう?私の子供を助けるためにあんなに必死になって!可愛い人よね、私に好かれようと一生懸命で」
「頭イカれてんのか?!」
心の底からの気持ちを吐いた瞬間、バシンッと空却の顔に思い切り棒が振り抜かれる。そこに躊躇など一切ない。
「失礼な人。図々しく天国先生の部屋に入り込むだけあるわ。…けど、まぁいいわ。それももう終わり。あなたはこれから私のことを襲う馬鹿な暴漢者になるんですもの」
「はぁ?どういう意味だ」
暴漢しようにも出来ないこんな状況に、女の言っている事が本気で理解できなかった。
「いいからもう一度眠っててちょうだい。あなたのその声、耳障りだわ」
そう言って女は何かの液体を布に湿らせ、再び空却の口を覆った。
湧いて出てくる女への悪態を口にする事なく、空却の意識が再び闇の中へ落ちていく。



「え?空却が帰ってないんですか?」
朝、出勤前に灼空からかかってきた電話で何かが起こっている事を知った。
空却は確かに昨日の晩に帰ったはずだ。
無断外泊なんてこれが初めてではないし、空却はそれなりに腕っ節のたつ男だ。
その為、特に心配している訳ではないが、最近獄の家に入り浸っている事を知っていた灼空が獄の家に泊まったのだと勘違いをして、迷惑になってないかと確認の連絡をしてきたのだ。
「はい、分かりました、もし見かけたら伝えておきます。…いえ、とんでもありません。では、失礼します。」
灼空の少し怒ったような声に適当に相槌を打ちながら電話を切る。
嫌な胸騒ぎが獄を動かす。空却のスマホに電話をかけるが機械的なアナウンスが流れるだけで一向に繋がらない。
事務所へ向かって、開口一番に空却が来ているか尋ねたが、誰も見ていないと返事をする。
十四にもそれとなく聞いてみたが、返事は一緒だ。
自由気ままな猫のような男だ。そのうちまた気まぐれに顔を出すだろうとか、もう寺に帰って灼空にいつも通り怒鳴られているんじゃないかとか色々考えが巡るがそのどれもが獄の胸騒ぎを宥めるのに役立たない。
「先生、すみません。あの、例の依頼人の方からお電話が入ってます」
例の依頼人とは空却が嘘をついていると疑ったあの親子だろう。
獄は回ってきた電話を自分のデスクの上で受け取る。
「はい、天国です」
「先生!!助けてくださいっ!あのっ頭の赤い男の人が急に押しかけてきて…っ、部屋がめちゃくちゃにっ…けっ警察に電話しようと思ったんですけど、先生の知り合いだったから…私どうしたら」
頭の赤い男というと、獄が思いつくのはただ1人だ。
「空却がそこにいるんですか?場所はどこですか?!」
何故、空却が依頼人の家へ押しかけているのかなど考えている暇はなかった。
動揺している依頼人からなんとか場所を聞き出し、まだ何か言っている電話を切って、乗ってきたばかりのバイクに再びまたがった。
聞いた住所は知っている店の近くのアパートだ。
迷わずに行けるだろうとエンジンをかけて走り出す。
何故か依頼人を心配するより先に空却の顔が浮かび、アクセルを回す手に力が入る。



「天国先生!」
到着してすぐ部屋のインターホンを押すと女が勢いよく飛び出して獄の胸へ飛び込んできた。
よほど怖かったのかガタガタと肩が震えている。
「大丈夫ですか?」
「私も何が何だかよくわからなくて…っ、急に押しかけてきて、部屋をめちゃくちゃにされたんです…っ、天国先生に近づくなって…息子にも暴力を振るわれて…」
スンスンと鼻を鳴らしながら女は涙を流す。
「落ち着いてください。息子さんは無事なんですか?それから空却は部屋の中にいるんですか?」
「はい、息子は私を庇って殴られたので今は部屋に隠してます。ただ…必死にこちらも抵抗して手元にあった棒を振り回したら男の頭に当たって気絶してしまって…。先生、私、どうすれば…」
女の言葉を聞き、獄はとりあえず現状を把握しようと家に入った。
それはひどい有様だった。椅子やチェストが倒され、物がいたるところに散らばっている。
ガラスなどが割れた形跡はない為、歩く分には危険はなさそうだが、とにかく足の踏み場もないくらい荒れていた。
なんとか物を避けながら奥に進めば、一番奥に襖で仕切られた部屋があり、そこに空却が倒れていた。
「空却?!」
咄嗟に駆け寄ろうとするが、獄の腕を掴み止めたのは女だった。
「先生っ危ないですっ!いつまた起き上がって暴れるか…」
「いえ、大丈夫ですから。ただ、念のため息子さんと一緒に隠れるか、外にいてください。」
「そんな!先生がここに残るなら私もここにいますっ先生が心配ですし…なんでこんな事したのか聞きたい…」
女はそう言ってそっと獄の腕から手を離した。
手が離されるとすぐに獄は倒れている空却のそばまで寄って、しゃがみ顔にある打撲痕を確認した。
白い肌に赤黒く腫れ上がったそれは痛々しく目立つが息は安定しており、すぐに救急車を呼ばなくても大丈夫そうで、ひとまず安心する。
そうはいっても出来ればすぐに病院に連れて行きたいのが本音であるが、女の言う通り本当に空却の仕業だとしたら訳を聞かなければならない。場合によってはまた空却のためにまた裁判に立たなければならないかもしれないのだ。
「おい、空却、空却!」
肩を軽く叩いて起こす。
「んぅ…なん、だ?…あ?縄がねぇな…ここは…」
起こされた空却は自分の体を確かめるようにもぞもぞと動き出す。
傷が痛むのか、動きは緩慢だ。
「空却、お前、俺の質問に答えられるか?」
「ひとや…?なんでここに…?」
「んなもん俺が聞きてえよ。なんで、テメェが俺の依頼人の家にいて、挙げ句の果てに暴れまわってるんだ?!」
「なんだ…?何言ってんだ…?」
そこで初めて空却は部屋を見渡す。
「なんだ、これ?」
「テメェがやったって聞いとるが?」
「はあ?拙僧が?!んな事やる訳ねぇだろ!」
身に覚えのないことを言われ流石の空却も焦るがそこに間髪入れずに女の声が割って入ってくる。
「嘘よ!あなた急に押しかけてきて私に殴りかかってきたじゃない!息子は私を庇おうとして怪我までしたのよ?!」
「女…っ?!てめっガキ痛めつけてたのはどっちだ?!拙僧はテメェが棒でガキしばいてるの見てんだぞ?!」
「嘘はやめて!ただでさえ息子がいじめられて大変なのにどうしてこんな真似が出来るの?!」
わあっと女が泣き出す。側から見れば完全に被害者だ。
しかし女の涙に怯むほど空却は優しい人間ではない。
「いいか女、悪因悪化ってなよく言ったもんで、悪い行いをすれば必ずテメェに返ってくるんだよ。いい加減、嘘をつくのはやめろ」
空却がゆっくりと立ち上がり、女を真っ直ぐに睨みつける。
「嘘じゃないわ!私、知っているのよ。天国先生が好きで、女の私に嫉妬したんでしょう?男の貴方じゃどう頑張っても天国先生に愛されることはないからって、そうやって私を悪者にしようとしてるのね?!」
目に涙を浮かべ、女も負けじと空却を睨みつけるが空却も言われっぱなしでは終わらない。

「確かに貴様の言う通り、拙僧は獄に惚れている!だが、それでテメェに嫉妬だあ?見向きもされねえからって変な言いがかりしてんじゃねえ!」

「いや空却、お前なに言って…」
その突然の告白に驚いたのは獄である。
しかし、全てを言い切る前に腕に女が絡みついて空却から引き離される。
「先生!聞きましたか?あの男、やっぱり先生の事やらしい目で見ていたんです!信じられません!嫉妬でこんな事までするなんてっ」
ピッタリと胸を押しつけて獄を見上げる涙を浮かべた瞳に何故か微塵も同情を感じられないのは女の言っていることが理解できないからだろうか。
「だから、ただの客のテメェに嫉妬なんかする訳ねぇだろうが!」
「ただの客じゃないわよ。天国先生は私のために無償で弁護まで受けてくださったのよ。たくさんの時間を私に使ってくれているの!あなたみたいなガサツで口の悪い人間が近くにいるよりずっと良いって事じゃない」
そこまで聞いて黙って聞いていた獄がその腕から女を引き剥がす。
「お言葉ですが、いじめに関する依頼であれば全て無償で引き受けています。貴女にだけではありません。この空却にも昔、無償で弁護しました。あと、貴女のためにではありません。貴女の息子さんのために俺は仕事をしているんだ…勘違いするんじゃねえ」
低く、怒りのこもった声が漏れ出る。
初めて聞く獄その言葉を信じられない顔で見つめる。
「嘘よ、なんで…?なんでなんでなんで?先生は私が好きなはずよ…なのになんで?この男がいるから?あぁ、そっか、そうだわ。先生、この男に弱みを握られてるんでしょ?そうに違いないわ。じゃなきゃ先生が私を否定する訳ない…大丈夫よ、先生。私が邪魔者を排除してあげる…」
明らかに様子がおかしくなった女が何かを取り出した。
「それはまさか…違法マイクか?!」
女の手に握られていたのは正規のマイクとは明らかに違うマイクだった。
「先生、今、お助けしますね…」
キイィンとマイクの起動音が鳴る。
身を守ろうと身構えるが、残念なことに空却は攫われてきたため自身のマイクは手元に無い。
そして残念なことに獄も急いでここに来たため持って来ていなかった。
どうしようかと考える暇もなく、女のラップとも言えない憎しみのこもった言葉の羅列が衝撃波となって獄と空却を襲う。

それは無意識に近い行動だった。

空却が獄の腕を引っ張り覆い被さるように獄を庇ったのだ。
しかし2度も薬を嗅がされた上に怪我も負わされていれば流石の空却でも衝撃には耐えらない。床に叩きつけられるように倒れ込み意識が遠のいていく中で必死に空却の名前を呼ぶ獄の声とサイレンの音が僅かに聞こえた。

----------

(眩しい…)
うっすらと開いた瞼の隙間から光が刺す。
またしても見知らぬ天井だ。
今回は縛られたりはしていないらしい。
「どこだ…ここ」
開いた口はカラカラと乾いており、言葉がかすれている。
少し視線をずらせば、自分の腕に管が繋がっているのが見える。その管を追っていけば、ぽたぽたと袋に詰められた液体が管の中で垂れていた。点滴だ。
そこでようやくここが病院であることを理解した。周りに人がいないから個室だろう。
とりあえず、体を起こそうと力を入れようとするがどうにも上手くいかない。
諦めて、看護師か医者が来るのを待とうかと再び天井を眺めていたところで、人が入ってきた。
「空却…?」
「ぁ…ひとや?」
「空却…っ!お前、目が覚めたのか?!」
空却の姿を確認した獄が早足にベッドサイドまで寄ってくる。
「大丈夫か?なんか変なところはないか?」
見下ろしてくる顔はどこかやつれていて、目の下には薄く隈がはっていた。
「テメェこそ、入院したほうがいいツラしてんぞ」
「うるせえ、黙って寝てろ」
聞いておいて黙れとはなんだと文句も言いたいが、その前に張り付いてくる喉の渇きが気になる。
「獄、喉渇いた」
「あー、ちょっと待ってろ。看護師に何か飲んでも良いか聞いてきてやる」
そう言って部屋を出たが、すぐに看護師を引き連れて戻ってきた。
看護師は点滴をいじりながら空却に気持ち悪くないか、痛いところはないかなど、いくつか質問をして、胃の負担にならない飲み物なら良いと許可をくれた。
それを聞いた獄が近くの自動販売機まですぐに飲み物を買いに行ってくれる。
「おら、とりあえずはこれで我慢しろ」
差し出されたのはミネラルウォーターだ。
「コーラはねえの?」
「胃に負担のないものって言われただろうが」
「つか、起き上がれねぇ」
体に力がうまく入らずペットボトルは受け取れるが、肝心の飲む体制まで取ることが出来ない。
獄はひとつため息をついて空却の背中に腕を回し入れ、空却の体を起こして腰のあたりに枕を差し込んで座らせた。
「どうだ、キツくねぇか?」
「ん、悪くねぇ」
空却が自力で座っているのを確認して獄もベッドサイドにある椅子へ腰掛ける。
早速とばかりに空却はペットボトルに入っている水を全て飲み干す勢いであおった。冷たい水が乾いた体に気持ちよく通っていく。
「っはあー…んで?拙僧は何がどうなってここにいんだ?」
「あー、そうだな…色々あったんだが、どこから説明すりゃいいんだ?」
どうやら空却が寝ている間に事は大きく進んだらしい。
「…あの子供」
唸りながらどう説明するか悩む獄にボソリと空却がつぶやく。
「あ?」
「あの女のガキはどうなった?」
「あぁ、あの子供か…。いまは児童保護局に保護されているが、その後は父親かもしくは親戚に預けられる形になると思う」
「……そうか」
そこを皮切りに獄が話し始めたコトの真相は思ったより複雑で単純だった。



始まりは女が夫に捨てられ、女としての魅力がもう無いのだと絶望し、代わりに母親としての評価を欲しがった事からだった。
だがしかし、どんなに一生懸命家事をこなし、仕事をしても思ったような評価は得られない。
当然だ。
そんな風に子育てをする母親はたくさんいるのだから。
そうやって正解のない世界で必死に正解以上のものを探そうと悶々としていた時に、話題作りについた小さな嘘が歯車を狂わすきっかけになってしまった。

消しゴムを取られたらしい、悪口を言われているらしい、いつも片付けを押しつけられるらしい。だから学校にも相談してどうすれば良いか子供としっかり話し合っている。子供を守るためならなんだってしたいの。
良い母親を演じるための嘘で友人に息子がいじめられていると相談した結果、それは女の自尊心を満たすのに十分な結果をもたらしてくれたのだ。

―かわいそうに。
―貴女は一生懸命やってるよ。
―子供を守る良い母親だね。
―こんな良い母親を捨てるなんて最低な男だよ。

そんな言葉をもっともっとと欲しがるうちに段々と嘘の内容がエスカレートしていった。
そして友人は女の嘘を信じ込み、日に日に内容が酷くなるいじめの相談を真剣に受け、弁護士に相談したほうがいいと言って獄の事務所のホームページを見せたのだ。

歯車が大きく狂い出したのはそこからだった。
女は一目見て獄を気に入り、経歴を調べてさらに惚れ込んでしまった。

獄は正義感の強い男だ。とりわけいじめに関しては有無を言わさず、いじめた相手にそれ相応の対価を支払わせる。
そんな男を振り向かせるには嘘を本当にしなければならないと考えた女は実の息子を殴り、喋ることを禁じて本格的にいじめを自作自演し始めたのだ。
息子の怪我を見て獄はそれはそれは親子の事を心配し、懸命にいじめから守ろうと動いてくれた。

女が勘違いをするほどに。

だが、獄からすれば相手がこの親子でなくとも同じように仕事をしただろうし、結婚願望などない男だ。アプローチされても意に介さず、ただ仕事に集中していただろう。
しかし、悲劇のヒロインになりきっている女はその事が理解できず、獄と一緒になれないのは邪魔者がいるからと考えた。
その時、たまたま現れたのが空却だったのだ。
獄にまとわりつき、更に獄にご飯を作って世話までしているという。やりとりを見ていれば仕事上の関係ではなく親密な関係であることは明らかで、空却の存在は女の勘違いを加速させる結果となった。
そこで女はどうにか空却を排除しようと空却に襲われたふりをして空却への信用を落とそうとしたのがことの顛末である。
いつまで嘘を吐き続けるつもりだったのかはわからないが、虐待の罪は重い。女は精神異常と診断され、精神病棟に閉じ込められる事となったが、獄がなんとか有罪に持ち込もうと奮闘中である。


「結局は惚れた腫れたが産んだ結果だったって事か」
「まぁ、そういう事だな。あの後、同じアパートの住民が騒ぎに気付いて通報したみたいですぐに警察が来てな。コトが大きくなって真相が明らかになったんだが…。お前、どれくらい寝ていたか分かるか?」
「あ?1日かそこらじゃねえのか?」
「5日だよ。お前は5日も目を覚さなかったんだ。麻薬と違法マイクの所為みたいだがな…」
そこで獄の言葉が切れる。どうしたのかと見れば、後悔に歪めた顔がそこにあった。
「いいか、お前が俺を庇うなんざ百年早いんだよ。あんま心配かけさせるな…十四なんか見舞いに来るたび泣き通しだ」
どうやらこの男は空却が庇った事をひどく気にしていたらしい。空却が勝手にやった事なのだから気にする必要などないというのに。
「5日か、通りで体が思い通りに動かないわけだ……。しかし、十四はともかくテメェが心配してくれるとはな」
意外だと笑えばパシンと頭を軽くはたかれる。
「当たり前だ。家族だろうが」
「…そうか。当たり前か…」
思わぬ言葉にじわりと胸が暖かくなる。
だが余韻に浸る間も無く思い出したように獄が口を開いた。

「なあ空却。お前、俺に惚れてるって本気なのか?」

あの時、女に言った言葉をどうやら覚えていたらしい。
空却は珍しく困った顔で獄から顔を逸らした。
「んあ?あー、まあな…。だが、テメェが気にするような事でもねえよ。元々墓場まで持っていこうと思ってたんだ。聞かなかった事にしてそれで終わりにしようぜ」
「は?何言ってんだ。俺の答えはどうでもいいって事か?」
「どうでもいいっつうかよ、無かったことにしようって話だ。テメェにとっても都合の良い話だろうが」
空却は元々この想いが届くとは思っていない。家族だと言ってもらえるだけで十分なのだ。
あの告白も獄に向けてきちんとしたものではないし、売り言葉に買い言葉とはよく言ったもので、完全にイレギュラーな事だった。そのため獄が一言忘れると言えば空却もそうか、と言って終わりにしようと思っていた。
だが、獄は違ったようだ。
「はあ?ざけんじゃねえ!こちとら答え出すために、ろくに眠れもしなかったんだぞ?!」
「は?」
どうやら獄はきちんと答えを用意してくれていたらしい。
空却はどういう事だと考え、ひとつ頭に浮かんだ内容に、なるほどそういう事かと納得した。
「チッ、しょうがねぇな。おら聞いてやっからさっさとフれよ!…ったく、ちゃんと告ったわけでもねえのに律儀なこった」
「なんで、フラれる前提なんだよ」
「テメェの女の好みは知ってんだよ。癒し系で家庭的、そんで夜はスゲェって女だろ?このむっつりエロ弁護士が」
「いや、お前、どこでんな情報手に入れたんだ?!」
「掃除してる時にちょっとな。隠すならもっと上手く隠しとけよ、あれじゃあ普通に見つかんぞ?」
ひゃははと笑えば、気まずげに獄の顔が空却から逸らされる。
「あー、今度から気ぃつけるわ……って、そうじゃなくてだな!その、なんだ、一応ちゃんと考えてだな…お前が良けりゃ付き合いてえ、とは…思う」
予想もしてなかった答えに空却の金色の瞳が溢れ落ちそうなくらい見開かれる。
「は…?どうした?もしかして、あの女の違法マイクで頭おかしくなったんか?」
「アホ、お前じゃあるまいし俺がそんなヘマするか。いいか俺は…お前が俺を庇って気ぃ失った時、お前を失うかと思って本気で肝が冷えた。何日も目を覚さないお前を見て二度とお前が俺を見る事はないかもしれないと覚悟して、守れなかった自分をぶん殴りたかった。…多分ここまでは十四が同じ状況になっても俺は同じことを思うだろう。だが、違うことが一個あった」
その強い視線が空却を真っ直ぐに突き刺す。
「お前が目を覚ました時、きっと俺に何も言わずにその想いを捨てて、俺じゃない他の奴と一緒になるんじゃねえかって考えた。お前が本気で付き合うだなんだを考えてたらもっと早くに伝えてきてただろうしな」
獄の手が空却へ伸びてくる。まるで、生きていることを確かめるように手のひらを首にそえた。獄の熱が皮膚から伝わってくる。

「だが、そんなもん許せるわけねえなって…」

僅かに獄の手に力が入り僅かに首が絞まる。息はできるが少し苦しい。
「ひとや」
「なあ、空却。俺も初めて知ったんだが、俺は割と嫉妬深い男だったみたいでな…お前が世話してくれていた時に俺のために作ってくれた飯を、違う奴の為に作る時が来るのかと思ったらとてもじゃねえけど我慢出来ないんだよ。知っての通り俺は家庭的な奴がタイプだしな」
「拙僧は癒し系でもなけりゃ夜もスゴくはねえが?」
「前に自分で癒し系とかほざいてただろうが。それから夜は任せろ。俺がきちんとスゴくしてやるよ」
首にあてられた手がスリ、と空却の肌を撫でる。
明らかに性的意図が込められたその動きに空却の肌が粟立つ。
「このっムッツリくそスケベ弁護士が」
「うるせえ、いいからテメェは素直にハイって返事しときゃ良いんだよ」
獄の体が前のめりになり、そのまま空却の額と獄の額がピタリとくっつく。
「なあ空却、俺のもんになれよ」
「はあ?バカちげぇだろ?テメェが拙僧のもんになるんだろうが」

返事がないのは合わさった唇のせいか。それとも分かりきった答えは必要ないと飲み込んだせいか。
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