欲に囚われた末路(ひとくう)
欲に囚われる事なかれ。
過ぎたる欲は道を踏み外す一歩となる。
散々聞かされた説法が今の自分に痛く染みる。
仏に仕える身でまさかこんな想いに振り回されるとは思わなかった。
これもまた修行のうちと割り切るにはどうにもこの感情は自分に食い込み過ぎているように思える。
ひとえに理由は相手が近すぎる存在なのが原因なのではないかと思う。
家族の契りを結んでおきながら望む関係は違うだなんてどこぞの安いB級ドラマのようではないか。
この想いを断ち切るにはどんな荒行をこなせばいいのだろうか、なんて思案するも答えなんてものは見つからない。
「そりゃそうか」
「あ?何がだ」
「別に、何でもねえよ」
16歳も年上のおっさんに抱いた恋心を散らすための修行だなんて聞いたことがない。
近くに来たからと気まぐれに立ち寄った、この男、天国獄の事務所で客でもないのに居座ってお茶を飲みながら波羅夷空却はぼんやりと考えた。
「なぁ、獄ァ。拙僧がもし、テメェに惚れ込んでるって言ったら…どうする?」
「はあ?何トチ狂った事、言ってんだ。頭に虫でも湧いたか?」
「ァア?!真面目に聞いてんだろうが!」
「もっとタチが悪いわ!お前が俺に惚れてる?勘弁してくれ…」
嫌そうにしかめられた顔に胸がグッと詰まる。
「まあ、そうだよな…」
「なんだ?誰か惚れてる女でもいるのか?別にどうでも良いが、恋バナしたいんだったら十四にでもしとけ」
どうでもいい、そう、この男にとって自分がどこの誰に惚れていようがどうでもいいのだ。
あぁ、なんて不毛な恋なのだろう。
「あの頭お花畑に話したらどえりゃあめんどくせぇことになんだろうが」
「だからって俺にする話でもねぇだろうが」
いつからこの感情が芽生えたかなんて分からないが、種を蒔かれたのはこの男に救われたあの日からだというのは分かる。
ただすぐに枯れると思っていたそれはゆっくりゆっくり根を張り、気づけば取り返しのつかないところまできてしまっていた。
「それより俺は仕事で忙しいんだ。さっさと失せろクソガキ」
「追い出したきゃ、それ相応の態度でお願いしな」
「何様なんだテメェは」
ハアー、と深いため息をついて、手元にある書類に目を落とす。どうやら空却を追い出すより仕事を片付ける方が体力を使わない事に気づいたようだった。
空却は来る途中で買ってきた少年漫画の雑誌を広げ、時間を潰す。
こうしていればこの弁護士の仕事が終わった後、美味い飯に食いつける事を知っているからだ。
なんだかんだと文句を言いつつ、世話を焼き、身内には甘いのだから空却にたかられてもそう文句は言えまい。
あと30分で事務所を閉めようかという時間だった。
不意にノック音が響いた。
「先生、お忙しいところすみません。お客様です。アポは取られていないとのことなのですが、いかがなさいますか?」
事務所の若い修習生が来客を知らせに来た。本来ならアポ無しの来客など遠慮を知らないどこぞのガキを除けば受付で止まるような要件だが、受付はどうやら電話対応で手が離せないらしい。
ドアの隙間から丁寧な口調で何か話しているのが聞こえる。
「あー、要件だけ聞いて改めて来てもらえ。」
「かしこまりました。失礼します。」
「なんだぁ?通さねえのか?」
「馬鹿言うな。テメェらみたいに急に来てどうにかしてくれなんて、本来なら追い返して終わりなんだよ。」
「お前、拙僧らのこと大好きだもんな」
「言ってろ馬鹿ガキが」
苛立たしげに舌打ちをして残りの仕事を片付ける。
そしていつものように時間は過ぎて、空却は飯にありつけるはずだった。
が、その日はどうも違ったようだ。
「ちょっと!困ります!」「天国先生!!」
バンっと勢いよく開いたドアから流れ込んできたのは先程来客を知らせに来た修習生と見たことのない若い女だった。
「天国先生!助けてください!お願いします!」
「困りますって!これ以上居座るようでしたら警察呼びますよ?!」
「先生はお金を積めばどんな案件でも受けてくれて、勝つことが出来るってお聞きしました!お金はあります!足りなければどんな事をしても用意します!お願いします!助けてください!」
そう言って女は床に額を擦り付けてその場にうずくまるように頭を下げた。
「先生、すみません。改めて来て欲しい旨を伝えた途端、とにかく先生に会わせろと騒ぎ始めて…」
事務所が防音になっているせいか分からなかったが、どうやらずっと外で騒いでいたらしい。
どうするのかと獄を見れば、面倒くさそうな雰囲気を隠しもせず眉をしかめている。
「あー、大変申し訳ないのですが、こちらもいくつか大事な案件を抱えているんです。急にいらっしゃっても対応出来かねます。急ぎでも対応してくれる別の弁護士がいますのでそちらで話を聞いてもらってください。」
「嫌です!他の弁護士だと負けてしまうかもしれません!私は絶対に負けられないんです!お願いします!私の子をどうか助けてください!」
「お子さん、ですか?」
獄の顔色が変わる。
「空却、出て行け。」
「ん、しゃあねぇ。飯は今度で我慢してやるよ」
真剣に向けられた獄の瞳はすでにその女に向かっていた。獄の仕事を邪魔する気はない。傍若無人に見える空却だが引くべき時は知っている。
そのまま持ってきた雑誌を片手に部屋を出る。
バタンと閉じた扉からはもう何も聞こえない。
「十四でも誘って飯でも食いに行くかあ」
泣き虫のもう1人の家族を思い浮かべてその日は事務所を後にした。
あれからどれくらい経っただろうか。
特に用もないが何となく会いたくなるのが惚れた腫れたの面倒なところで、空却は隙を見つけては獄の事務所に来ていた。
が、いつも以上に忙しそうな獄は事務所にいる事自体少なく、行っても空振りに終わることがほとんどだった。
「チッ今日もいねぇのかよ」
「中々証言が集まらないみたいで手こずっているみたいですよ」
今日も受付まできたが、いつもは挨拶して通してくれるドアも中に主人がいないのであれば固く閉ざされたままだ。
「なんだよ、今日も飯食いっぱぐれか」
不満そうに目的はご飯だとぼやくが、受付からすれば天国先生が大好きで天国先生に懐いている、ただ会いたいだけの少年だ。
思わずフフッと笑えば、ぎろりと睨まれた。
だが、何だかんだと彼とはそれなりに長い付き合いがあるのだ。そんな鋭い眼光も慣れっこである。
「チッしゃあねぇ、帰るか…」
何となく、気まずくなって空却が踵を返そうとしたその時だった。
「じゃあ、また。」
「えぇ、どうぞよろしくお願いします。私達親子を見捨てないでいただきありがとうございます。」
事務所の大きなガラス窓の外でタクシーから降りてくる獄が見えた。
久しぶりに見る姿はくたびれており、明らかに疲れが滲み出ていた。
タクシーの中から挨拶しているのはあの日、事務所に乗り込んできた女だった。よく見えないが、小さな頭も見える。
恐らく女の子供だろう。
タクシーはそのまま走り出し獄はそれを見送ってから、事務所の中へと入ってくる。
「よぉ銭ゲバ弁護士、ずいぶんお疲れのようじゃねえか」
「何だ、生臭坊主見習い。見ての通りテメェに構ってる暇はねえ」
いつものように悪態もつくが、その声に張りはない。
「先生、おかえりなさい。コーヒーお入れしましょうか?」
「あぁ、すまないが頼む」「いや、獄の今日のお勤めはこれで終了だ」
「は?何言ってんだテメェ、勝手に決めんな!」
空却の瞳が真っ直ぐ獄を射抜く。
まるで全てを見透かされているような気分になり、獄はとっさに目を逸らしてしまった。
「依頼人に会う時はぜってぇ、疲れた姿なんか見せねぇくせになんだ?今日のそのくたびれた格好は。鏡も見る隙なかったってか?ご自慢のリーゼントも崩れてきてんじゃねぇか。
餓鬼の目に水見えずってな、夢中になりすぎてっと、大事なもん見落とすぞ」
「………ッ」
「悪いな、獄はこのまま連れ帰る。戸締りよろしくな」
「この馬鹿!勝手に…っ」
「かしこまりました。天国先生、お疲れ様です。私も流石に根詰め過ぎだと思いますよ。今日はもう急ぎの案件も無かったはずです。」
受付も加勢して2対1。空却の言うことも受付の言うことも間違っていない。流石に無理に自分の意見を押し通すほどの理由も持っていなかった獄はしぶしぶと言った態度で諦めた。
「チッ、帰る準備してくる」
「なんだ?今日は車か?バイクか?」
「バイクだが…」
「あ?!そんな顔してる奴の後ろになんか乗れっか!事故んだろ!タクシー呼べ!タクシー!」
「ぁあ?!俺がそんなヘマするわけねぇだろうが!!」
「拙僧はぜってぇ嫌だかんな!」
そもそも何故、空却が一緒に帰宅する事になっているのか。そこに突っ込めるほどの人間は残念ながら今ここにはいなかった。
バイクで帰る帰らないと言い合っているうちに有能な受付がタクシーを呼んで、結局そのままバイクを置いてタクシーで帰ることとなった。
何分もかからずに来たタクシーに獄を押し込みその隣に空却は座る。
やはり疲れていたのだろう。
車ならすぐに着く距離だが、その短い時間にタクシー内で眠ってしまった。
それは普段ならカッコつけて空却や十四には絶対見せない姿だった。
(何をそんな阿呆面晒すほど切羽詰まってんだか)
窓に寄りかかり眠る姿を見て呆れてしまう。
夢の中でも仕事をしているのか眉間の皺が深くなったり浅くなったりを繰り返している。
思わずその皺を伸ばすように手を伸ばす。
「拙僧といるのに夢の中でまでテメェを仕事に取られるのは我慢ならねぇな」
グニグニと結構な力で伸ばしているのに起きる気配もない。
「えーっと、お客さん、着きましたよ」
空却が獄の眉間の皺を伸ばすのに夢中になっているうちに獄の住むマンションに着いたようだ。
「おっ、わりぃな今起こすからよ。
オラ!いつまでも阿呆面晒してんじゃねえぞ!」
眉間に添えてた指を親指に引っ掛け、そのままデコピンを獄に叩きつける。
「い゛っっってえな!!クソガキ!」
「支払いよろしくな」
続きそうな文句を遮り、さっさと獄を車内に置いて歩道へ出る。
獄のマンションには十四とそれなりに遊びに来たことはあるが、1人で来るのは初めてかもしれない。
オートロックのため、獄がタクシーから降りてくるのを正面ドアの前に立って待つ。
「こんの馬鹿!もっと優しく起こせ優しく!つかお前は寺に帰るんじゃねえのか?!」
「拙僧が起こされる時はいつもあんな感じだ。
タクシーも行っちまったしな。いいから早く中入れろ」
獄が降りた瞬間、タクシーはもう用済みとばかりに走り去って行った。
ぐちぐちと文句を言いつつロックを解除して中へと入っていく。
「そもそも、俺を休ませるために早く帰したんじゃねぇのか?なんでテメェが着いて来る必要があるんだよ。」
「あ?拙僧は癒し系だからな。疲労困憊なくたびれたオッサンをわざわざ癒してやるために着いてきてやったんだろうが。感謝しろ」
「こんなガラのわりぃ癒し系なんかいるか!ったく、余計疲れるわ」
獄の部屋はかなり上の階だ。ちょうど良いタイミングで来たエレベーターに乗り込む。
そこで、何かを思い出したように獄が呻いた。
「あーっと、部屋散らかってるけど文句言うなよ」
「なんだ?掃除屋入ってねぇのか?あれ良いよな、うちの寺でも雇えばいいのに」
「それじゃ、修行になんねえだろうが。
あー、最近は家でも仕事してたからハウスキーパーは入れてねぇんだ。外部の人間入れて個人情報抜かれたら勝つ負けるどころの話じゃねえからな」
「なんだそんなに忙しいのかよ?無敗の弁護士の名前守るのも一苦労だな」
そんな雑談をしながら着いた獄の部屋は空却の想像以上に散らかっていた。
綺麗好きの獄の部屋はいつもモデルルームみたいに綺麗に整頓されているが、今は見る影もない。
まさに男の一人暮らしといった風景だ。
「おいおい、なんだこりゃ。泥棒でも入ったか?」
「だから文句言うなっつうの。あー、俺はシャワー浴びて来る。お前は適当に座ってろ」
獄は一度ベッドルームへ引っ込み、着替えを持ってバスルームへと消えて行った。
「座れったって座るところもねぇだろうが」
空却はソファに引っかかったままのタオルや洋服を集めて、放置されたままの洗濯カゴにぽんぽん入れていく。
そうこうしているうちに次は山と積もっている灰皿が気になって来る。
遠慮のない空却は勝手に台所へ行ってゴミ袋を引っ張り出してそこにタバコの吸い殻をまとめて放り込む。念のため水を軽くかけて縛りゴミ箱へ。と、そこでシンクに洗い物が溜まっていることに気が付く。ついでだとばかりにスポンジを手に取った。
それは獄がシャワーを浴びているたった15分間の出来事だった。
「うお!なんか綺麗になってんな?」
「獄ぁ、冷蔵庫になんも入ってねぇじゃねえか!いつも何食ってんだテメェ!」
「あ?外で食ったり、宅配頼んだり…あとは、カップ麺とかか?」
「チッ!んなもん食えっか!なんか食いもん買って来る!」
「いや、お前それ俺の財布だろうが!」
「テメェの食うもん買ってきてやんだから当たりめぇだろうが!」
玄関に置いた獄の財布と鍵を乱暴にポケットに突っ込み空却はそのままマンションを出る。
出てすぐスマホには一通りの文句と共同玄関を開けるためのやり方が簡単に説明されたメッセージが送られてきた。
(こういうところは気が利くんだよな)
空却は近場のスーパーに立ち寄り適当に食べ物をカゴに入れていく。
2人分の食料なんてそんな多いものでもない。
スーパーを一回りしてすぐに獄の部屋へと帰る。
そんなに時間をかけたつもりはないが、帰れば獄はソファで横になってまた寝息を立てていた。
「ったくこのオッサンはしょうがねぇな」
買い物袋をキッチンに置いてそっと近寄る。
「また、んなところに皺寄せてら」
「……んゔ」
眉間の皺を伸ばすように指で撫でさする。
いつもは一本の乱れも許されないほどに綺麗にセットされた髪も、シャワーの後では跡形もない。
珍しいもんを見たと頭の形に沿って指を滑らせる。
意外と柔らかいその髪は手の動きに合わせて指の間をスルリとすり抜けていく。
それを何回か繰り返すうちに獄の眉間の皺が薄れているのに気がついた。
「頭撫でられて機嫌直すたぁ、とんだガキだな」
思わず、ひゃはは、と小さな声で笑ってしまう。
「っし!このでっけぇガキのために飯でも用意してやるか」
獄が起きたのはその香りに腹の虫が盛大に煽られたからだ。
「…なん、だ?」
「よお、獄ぁやっと起きたか?」
寝起きでボーッとする頭で声のした方を見れば、空却がダイニングに置いてある椅子に膝を抱えるようにして座っていた。
椅子にくらいきちんと座れと小言も言いたくなるがそれよりも興味を惹かれるものがテーブルの上に並べられていた。
「なかなか良いタイミングじゃねぇか。もう一回デコピンで起こせなかったのは残念だったけどな。飯は出来てんぞ」
「なんだ…?どこで買ってきたんだ?近くに和食扱ってるとこなんてあったか?」
のそりと立ち上がりテーブルを覗けばそこにはにんじん、インゲン、じゃがいも、豚肉と鮮やかな彩りの煮物が真ん中にドンと置かれていた。その隣には焼いた肉が大皿に雑に盛られている。匂いからして生姜焼きだろう。
テーブルの両端には豚汁だろうか。色んな具と一緒に艶やかな油が浮いた味噌汁が炊き立ての白いご飯の隣に置かれている。味噌は赤味噌だ。さすが分かっている。
どれが獄を起こした原因かはわからないが空腹の前にそれを追及することは無粋であった。
「美味そうだな。コンビニか?最近はあっためるだけでもそれなりのもんが食えるから便利だよな」
だが、その割にはきちんと食器に移し替えられている。
「ちげえよ馬鹿!拙僧が作ったに決まってんだろ!」
「は?!お前が…?これを…?」
まるで信じられないという視線を向けられた空却は不機嫌そうに顔を歪めた。
「あ?文句あんのか?」
「いや、だってお前、料理なんか出来たのか?」
「修行の一環でやらされるんだよ。肉は流石に寺じゃ調理しねえけどな。一通りの事は出来る」
「あー、そうか。あそこの飯は修行僧の当番制だったか」
「ん、最近じゃ十四も頑張ってんぞ。盛り付けに妙にこだわるから飯の時間が遅くなって仕方ねぇ」
思い出して不満げに口を尖らせる。
「…食っても、良いか?」
普段なら美味そうな飯を前にしての雑談も悪くはないが、朝からまともに食事をとっていない獄にそんな余裕はない。
そんな獄を見て満足そうに空却は笑う。
「おう!食え!」
空却がでかい声でいただきますと手を合わせる。
それに合わせて獄も手を合わせる。
いただきますの挨拶なんて一人で暮らしを始めてから次第に言わなくなっていたが、空却と十四が毎回きちんと挨拶するものだから獄もするクセがついた。
それから食事は無言で進む。
大皿に盛られた肉はもう無い。ご飯は既に2人とも二杯目だ。
やっと箸が置かれたのは全ての皿を綺麗に空にした後だった。
「久しぶりに家庭料理ってやつを食ったな…」
「あー、食った食った!やっぱ肉はうめえ!」
満足そうに椅子にもたれかかる。
満腹の状態でしばらくじっとしていれば食後の一杯が欲しくなるのが人間だ。
「獄、拙僧は緑茶で良いぞ」
「俺に食後の一杯入れろたぁ良い度胸してんな」
「洗いもんやってやっからその間に入れろっつってんだよ」
「あん?そういう事ならしゃあねぇ…だがコーヒーで我慢しろ。緑茶なんか置いてねえ」
「買ってある。最近のスーパーは便利だな。急須までちゃんと売ってんだぜ?」
「お前、それ俺の金だろうが」
いくら使ったんだとボヤきながらもその半分は自分の胃に収まったものだから文句も言いづらい。
とりあえず、獄は慣れた手つきで自分の分のコーヒーをドリッパーにセットして、次に慣れない手つきで急須を触る。
その様子をどこかおかしそうに見ながらサッサと洗い物を済ませる。
2人分の食器など寺での洗い物に比べればすぐだ。
「おい獄、無駄に急須を動かすな渋みが出るだろうが。テメェのコーヒーと同じでゆっくり待ってやらねぇと」
「文句があんならテメェでやれ」
「ったくしょうがねぇな。今度、美味い茶の淹れ方をこの拙僧が教えてやる。ありがたく思えよ。
だがまあ今日は仕方ねぇから、これで我慢してやる」
「本当に何様なんだ」
「波羅夷空却様だ。崇め奉ってくれても良いんだぜ?」
「遠慮する」
ソファに2人並んで座り、一息つく。
無音だが、不思議と居心地の悪い感じはしない。ゆったりと落ち着いた雰囲気が部屋を流れる。
最初に口を開いたのは空却だった。
「そんなにしんどい案件なのか?」
「………そうでもないさ」
「拙僧の前で弱味なんか見せねぇテメェが、阿呆面晒して寝るなんてよっぽどの事だろうが」
「守秘義務がある」
「知ってる。別に全てまるまる話せなんて言ってねぇだろうが」
僅かに訪れる沈黙。そのうち獄は諦めたようにハァと深い溜息をついてポツポツと独り言のように話し出す。
「依頼人の息子がな…虐めを受けているらしいんだが、そのストレスで口がきけなくなっていてな。そのせいで上手く証言が集まらない」
「そうか」
「学校側は認めねぇ。それはいつもの事なんだが、どうも依頼人と学校側の意見が決定的に食い違っているようにも思える」
「あぁ」
「息子には虐められたと思われる打撲痕や形跡が確かにある。だが、がんとして誰にやられたとかは言わない」
「へえ」
「学校側もそんな事実はないと一点張りだが、母親は絶対に学校から受けた虐めだと。
このまま裁判に持っていっても良いが、いまいち勝ちが見えねぇ。おかげで被害者宅と学校と事務所を行ったり来たり、行ったり来たり…」
「結局ほとんど話したな」
案に話しすぎだと諌める。
「疲れてんのかもな。お前は他人にベラベラしゃべる奴じゃねえって知ってるしな」
「ひゃは、随分買い被ってくれてるんだな」
「別に。というか、お前いつ帰るんだ?」
「テメェが寝るまで」
「ガキじゃねえんだ。寝かしつけまで必要ねぇよ」
「だったら合鍵よこせ」
「なんでそんな話になるんだ。テメェに合鍵やるとか泥棒に渡るより厄介だ」
「いいから黙ってよこせ。いいか、拙僧は勘弁だぞ。家族がある日、35歳独身男性の弁護士が過労死〜だなんてテロップ流されてニュースに載るなんて」
一瞬、想像してしまった。
今日はたまたま空却が居たが、居なければあのまま残業をして夜遅くに帰り、さらに持ち帰った仕事で頭を悩ませカップラーメンにお湯を入れて腹を膨らませるだけの作業を済ませ、散らかった部屋に洗い物をまた一つ積み重ねて泥沼に沈むように寝ただろう。
このままいけば空却が語った内容も無くはない未来である。
「心配すんな。死んでねえかたまに見に来る程度だ」
「ついでに掃除して、飯作ってくれても良いぞ」
「んなもん、家政婦でも雇いな」
その日、空却は天国獄の部屋の合鍵を手に入れた。
過ぎたる欲は道を踏み外す一歩となる。
散々聞かされた説法が今の自分に痛く染みる。
仏に仕える身でまさかこんな想いに振り回されるとは思わなかった。
これもまた修行のうちと割り切るにはどうにもこの感情は自分に食い込み過ぎているように思える。
ひとえに理由は相手が近すぎる存在なのが原因なのではないかと思う。
家族の契りを結んでおきながら望む関係は違うだなんてどこぞの安いB級ドラマのようではないか。
この想いを断ち切るにはどんな荒行をこなせばいいのだろうか、なんて思案するも答えなんてものは見つからない。
「そりゃそうか」
「あ?何がだ」
「別に、何でもねえよ」
16歳も年上のおっさんに抱いた恋心を散らすための修行だなんて聞いたことがない。
近くに来たからと気まぐれに立ち寄った、この男、天国獄の事務所で客でもないのに居座ってお茶を飲みながら波羅夷空却はぼんやりと考えた。
「なぁ、獄ァ。拙僧がもし、テメェに惚れ込んでるって言ったら…どうする?」
「はあ?何トチ狂った事、言ってんだ。頭に虫でも湧いたか?」
「ァア?!真面目に聞いてんだろうが!」
「もっとタチが悪いわ!お前が俺に惚れてる?勘弁してくれ…」
嫌そうにしかめられた顔に胸がグッと詰まる。
「まあ、そうだよな…」
「なんだ?誰か惚れてる女でもいるのか?別にどうでも良いが、恋バナしたいんだったら十四にでもしとけ」
どうでもいい、そう、この男にとって自分がどこの誰に惚れていようがどうでもいいのだ。
あぁ、なんて不毛な恋なのだろう。
「あの頭お花畑に話したらどえりゃあめんどくせぇことになんだろうが」
「だからって俺にする話でもねぇだろうが」
いつからこの感情が芽生えたかなんて分からないが、種を蒔かれたのはこの男に救われたあの日からだというのは分かる。
ただすぐに枯れると思っていたそれはゆっくりゆっくり根を張り、気づけば取り返しのつかないところまできてしまっていた。
「それより俺は仕事で忙しいんだ。さっさと失せろクソガキ」
「追い出したきゃ、それ相応の態度でお願いしな」
「何様なんだテメェは」
ハアー、と深いため息をついて、手元にある書類に目を落とす。どうやら空却を追い出すより仕事を片付ける方が体力を使わない事に気づいたようだった。
空却は来る途中で買ってきた少年漫画の雑誌を広げ、時間を潰す。
こうしていればこの弁護士の仕事が終わった後、美味い飯に食いつける事を知っているからだ。
なんだかんだと文句を言いつつ、世話を焼き、身内には甘いのだから空却にたかられてもそう文句は言えまい。
あと30分で事務所を閉めようかという時間だった。
不意にノック音が響いた。
「先生、お忙しいところすみません。お客様です。アポは取られていないとのことなのですが、いかがなさいますか?」
事務所の若い修習生が来客を知らせに来た。本来ならアポ無しの来客など遠慮を知らないどこぞのガキを除けば受付で止まるような要件だが、受付はどうやら電話対応で手が離せないらしい。
ドアの隙間から丁寧な口調で何か話しているのが聞こえる。
「あー、要件だけ聞いて改めて来てもらえ。」
「かしこまりました。失礼します。」
「なんだぁ?通さねえのか?」
「馬鹿言うな。テメェらみたいに急に来てどうにかしてくれなんて、本来なら追い返して終わりなんだよ。」
「お前、拙僧らのこと大好きだもんな」
「言ってろ馬鹿ガキが」
苛立たしげに舌打ちをして残りの仕事を片付ける。
そしていつものように時間は過ぎて、空却は飯にありつけるはずだった。
が、その日はどうも違ったようだ。
「ちょっと!困ります!」「天国先生!!」
バンっと勢いよく開いたドアから流れ込んできたのは先程来客を知らせに来た修習生と見たことのない若い女だった。
「天国先生!助けてください!お願いします!」
「困りますって!これ以上居座るようでしたら警察呼びますよ?!」
「先生はお金を積めばどんな案件でも受けてくれて、勝つことが出来るってお聞きしました!お金はあります!足りなければどんな事をしても用意します!お願いします!助けてください!」
そう言って女は床に額を擦り付けてその場にうずくまるように頭を下げた。
「先生、すみません。改めて来て欲しい旨を伝えた途端、とにかく先生に会わせろと騒ぎ始めて…」
事務所が防音になっているせいか分からなかったが、どうやらずっと外で騒いでいたらしい。
どうするのかと獄を見れば、面倒くさそうな雰囲気を隠しもせず眉をしかめている。
「あー、大変申し訳ないのですが、こちらもいくつか大事な案件を抱えているんです。急にいらっしゃっても対応出来かねます。急ぎでも対応してくれる別の弁護士がいますのでそちらで話を聞いてもらってください。」
「嫌です!他の弁護士だと負けてしまうかもしれません!私は絶対に負けられないんです!お願いします!私の子をどうか助けてください!」
「お子さん、ですか?」
獄の顔色が変わる。
「空却、出て行け。」
「ん、しゃあねぇ。飯は今度で我慢してやるよ」
真剣に向けられた獄の瞳はすでにその女に向かっていた。獄の仕事を邪魔する気はない。傍若無人に見える空却だが引くべき時は知っている。
そのまま持ってきた雑誌を片手に部屋を出る。
バタンと閉じた扉からはもう何も聞こえない。
「十四でも誘って飯でも食いに行くかあ」
泣き虫のもう1人の家族を思い浮かべてその日は事務所を後にした。
あれからどれくらい経っただろうか。
特に用もないが何となく会いたくなるのが惚れた腫れたの面倒なところで、空却は隙を見つけては獄の事務所に来ていた。
が、いつも以上に忙しそうな獄は事務所にいる事自体少なく、行っても空振りに終わることがほとんどだった。
「チッ今日もいねぇのかよ」
「中々証言が集まらないみたいで手こずっているみたいですよ」
今日も受付まできたが、いつもは挨拶して通してくれるドアも中に主人がいないのであれば固く閉ざされたままだ。
「なんだよ、今日も飯食いっぱぐれか」
不満そうに目的はご飯だとぼやくが、受付からすれば天国先生が大好きで天国先生に懐いている、ただ会いたいだけの少年だ。
思わずフフッと笑えば、ぎろりと睨まれた。
だが、何だかんだと彼とはそれなりに長い付き合いがあるのだ。そんな鋭い眼光も慣れっこである。
「チッしゃあねぇ、帰るか…」
何となく、気まずくなって空却が踵を返そうとしたその時だった。
「じゃあ、また。」
「えぇ、どうぞよろしくお願いします。私達親子を見捨てないでいただきありがとうございます。」
事務所の大きなガラス窓の外でタクシーから降りてくる獄が見えた。
久しぶりに見る姿はくたびれており、明らかに疲れが滲み出ていた。
タクシーの中から挨拶しているのはあの日、事務所に乗り込んできた女だった。よく見えないが、小さな頭も見える。
恐らく女の子供だろう。
タクシーはそのまま走り出し獄はそれを見送ってから、事務所の中へと入ってくる。
「よぉ銭ゲバ弁護士、ずいぶんお疲れのようじゃねえか」
「何だ、生臭坊主見習い。見ての通りテメェに構ってる暇はねえ」
いつものように悪態もつくが、その声に張りはない。
「先生、おかえりなさい。コーヒーお入れしましょうか?」
「あぁ、すまないが頼む」「いや、獄の今日のお勤めはこれで終了だ」
「は?何言ってんだテメェ、勝手に決めんな!」
空却の瞳が真っ直ぐ獄を射抜く。
まるで全てを見透かされているような気分になり、獄はとっさに目を逸らしてしまった。
「依頼人に会う時はぜってぇ、疲れた姿なんか見せねぇくせになんだ?今日のそのくたびれた格好は。鏡も見る隙なかったってか?ご自慢のリーゼントも崩れてきてんじゃねぇか。
餓鬼の目に水見えずってな、夢中になりすぎてっと、大事なもん見落とすぞ」
「………ッ」
「悪いな、獄はこのまま連れ帰る。戸締りよろしくな」
「この馬鹿!勝手に…っ」
「かしこまりました。天国先生、お疲れ様です。私も流石に根詰め過ぎだと思いますよ。今日はもう急ぎの案件も無かったはずです。」
受付も加勢して2対1。空却の言うことも受付の言うことも間違っていない。流石に無理に自分の意見を押し通すほどの理由も持っていなかった獄はしぶしぶと言った態度で諦めた。
「チッ、帰る準備してくる」
「なんだ?今日は車か?バイクか?」
「バイクだが…」
「あ?!そんな顔してる奴の後ろになんか乗れっか!事故んだろ!タクシー呼べ!タクシー!」
「ぁあ?!俺がそんなヘマするわけねぇだろうが!!」
「拙僧はぜってぇ嫌だかんな!」
そもそも何故、空却が一緒に帰宅する事になっているのか。そこに突っ込めるほどの人間は残念ながら今ここにはいなかった。
バイクで帰る帰らないと言い合っているうちに有能な受付がタクシーを呼んで、結局そのままバイクを置いてタクシーで帰ることとなった。
何分もかからずに来たタクシーに獄を押し込みその隣に空却は座る。
やはり疲れていたのだろう。
車ならすぐに着く距離だが、その短い時間にタクシー内で眠ってしまった。
それは普段ならカッコつけて空却や十四には絶対見せない姿だった。
(何をそんな阿呆面晒すほど切羽詰まってんだか)
窓に寄りかかり眠る姿を見て呆れてしまう。
夢の中でも仕事をしているのか眉間の皺が深くなったり浅くなったりを繰り返している。
思わずその皺を伸ばすように手を伸ばす。
「拙僧といるのに夢の中でまでテメェを仕事に取られるのは我慢ならねぇな」
グニグニと結構な力で伸ばしているのに起きる気配もない。
「えーっと、お客さん、着きましたよ」
空却が獄の眉間の皺を伸ばすのに夢中になっているうちに獄の住むマンションに着いたようだ。
「おっ、わりぃな今起こすからよ。
オラ!いつまでも阿呆面晒してんじゃねえぞ!」
眉間に添えてた指を親指に引っ掛け、そのままデコピンを獄に叩きつける。
「い゛っっってえな!!クソガキ!」
「支払いよろしくな」
続きそうな文句を遮り、さっさと獄を車内に置いて歩道へ出る。
獄のマンションには十四とそれなりに遊びに来たことはあるが、1人で来るのは初めてかもしれない。
オートロックのため、獄がタクシーから降りてくるのを正面ドアの前に立って待つ。
「こんの馬鹿!もっと優しく起こせ優しく!つかお前は寺に帰るんじゃねえのか?!」
「拙僧が起こされる時はいつもあんな感じだ。
タクシーも行っちまったしな。いいから早く中入れろ」
獄が降りた瞬間、タクシーはもう用済みとばかりに走り去って行った。
ぐちぐちと文句を言いつつロックを解除して中へと入っていく。
「そもそも、俺を休ませるために早く帰したんじゃねぇのか?なんでテメェが着いて来る必要があるんだよ。」
「あ?拙僧は癒し系だからな。疲労困憊なくたびれたオッサンをわざわざ癒してやるために着いてきてやったんだろうが。感謝しろ」
「こんなガラのわりぃ癒し系なんかいるか!ったく、余計疲れるわ」
獄の部屋はかなり上の階だ。ちょうど良いタイミングで来たエレベーターに乗り込む。
そこで、何かを思い出したように獄が呻いた。
「あーっと、部屋散らかってるけど文句言うなよ」
「なんだ?掃除屋入ってねぇのか?あれ良いよな、うちの寺でも雇えばいいのに」
「それじゃ、修行になんねえだろうが。
あー、最近は家でも仕事してたからハウスキーパーは入れてねぇんだ。外部の人間入れて個人情報抜かれたら勝つ負けるどころの話じゃねえからな」
「なんだそんなに忙しいのかよ?無敗の弁護士の名前守るのも一苦労だな」
そんな雑談をしながら着いた獄の部屋は空却の想像以上に散らかっていた。
綺麗好きの獄の部屋はいつもモデルルームみたいに綺麗に整頓されているが、今は見る影もない。
まさに男の一人暮らしといった風景だ。
「おいおい、なんだこりゃ。泥棒でも入ったか?」
「だから文句言うなっつうの。あー、俺はシャワー浴びて来る。お前は適当に座ってろ」
獄は一度ベッドルームへ引っ込み、着替えを持ってバスルームへと消えて行った。
「座れったって座るところもねぇだろうが」
空却はソファに引っかかったままのタオルや洋服を集めて、放置されたままの洗濯カゴにぽんぽん入れていく。
そうこうしているうちに次は山と積もっている灰皿が気になって来る。
遠慮のない空却は勝手に台所へ行ってゴミ袋を引っ張り出してそこにタバコの吸い殻をまとめて放り込む。念のため水を軽くかけて縛りゴミ箱へ。と、そこでシンクに洗い物が溜まっていることに気が付く。ついでだとばかりにスポンジを手に取った。
それは獄がシャワーを浴びているたった15分間の出来事だった。
「うお!なんか綺麗になってんな?」
「獄ぁ、冷蔵庫になんも入ってねぇじゃねえか!いつも何食ってんだテメェ!」
「あ?外で食ったり、宅配頼んだり…あとは、カップ麺とかか?」
「チッ!んなもん食えっか!なんか食いもん買って来る!」
「いや、お前それ俺の財布だろうが!」
「テメェの食うもん買ってきてやんだから当たりめぇだろうが!」
玄関に置いた獄の財布と鍵を乱暴にポケットに突っ込み空却はそのままマンションを出る。
出てすぐスマホには一通りの文句と共同玄関を開けるためのやり方が簡単に説明されたメッセージが送られてきた。
(こういうところは気が利くんだよな)
空却は近場のスーパーに立ち寄り適当に食べ物をカゴに入れていく。
2人分の食料なんてそんな多いものでもない。
スーパーを一回りしてすぐに獄の部屋へと帰る。
そんなに時間をかけたつもりはないが、帰れば獄はソファで横になってまた寝息を立てていた。
「ったくこのオッサンはしょうがねぇな」
買い物袋をキッチンに置いてそっと近寄る。
「また、んなところに皺寄せてら」
「……んゔ」
眉間の皺を伸ばすように指で撫でさする。
いつもは一本の乱れも許されないほどに綺麗にセットされた髪も、シャワーの後では跡形もない。
珍しいもんを見たと頭の形に沿って指を滑らせる。
意外と柔らかいその髪は手の動きに合わせて指の間をスルリとすり抜けていく。
それを何回か繰り返すうちに獄の眉間の皺が薄れているのに気がついた。
「頭撫でられて機嫌直すたぁ、とんだガキだな」
思わず、ひゃはは、と小さな声で笑ってしまう。
「っし!このでっけぇガキのために飯でも用意してやるか」
獄が起きたのはその香りに腹の虫が盛大に煽られたからだ。
「…なん、だ?」
「よお、獄ぁやっと起きたか?」
寝起きでボーッとする頭で声のした方を見れば、空却がダイニングに置いてある椅子に膝を抱えるようにして座っていた。
椅子にくらいきちんと座れと小言も言いたくなるがそれよりも興味を惹かれるものがテーブルの上に並べられていた。
「なかなか良いタイミングじゃねぇか。もう一回デコピンで起こせなかったのは残念だったけどな。飯は出来てんぞ」
「なんだ…?どこで買ってきたんだ?近くに和食扱ってるとこなんてあったか?」
のそりと立ち上がりテーブルを覗けばそこにはにんじん、インゲン、じゃがいも、豚肉と鮮やかな彩りの煮物が真ん中にドンと置かれていた。その隣には焼いた肉が大皿に雑に盛られている。匂いからして生姜焼きだろう。
テーブルの両端には豚汁だろうか。色んな具と一緒に艶やかな油が浮いた味噌汁が炊き立ての白いご飯の隣に置かれている。味噌は赤味噌だ。さすが分かっている。
どれが獄を起こした原因かはわからないが空腹の前にそれを追及することは無粋であった。
「美味そうだな。コンビニか?最近はあっためるだけでもそれなりのもんが食えるから便利だよな」
だが、その割にはきちんと食器に移し替えられている。
「ちげえよ馬鹿!拙僧が作ったに決まってんだろ!」
「は?!お前が…?これを…?」
まるで信じられないという視線を向けられた空却は不機嫌そうに顔を歪めた。
「あ?文句あんのか?」
「いや、だってお前、料理なんか出来たのか?」
「修行の一環でやらされるんだよ。肉は流石に寺じゃ調理しねえけどな。一通りの事は出来る」
「あー、そうか。あそこの飯は修行僧の当番制だったか」
「ん、最近じゃ十四も頑張ってんぞ。盛り付けに妙にこだわるから飯の時間が遅くなって仕方ねぇ」
思い出して不満げに口を尖らせる。
「…食っても、良いか?」
普段なら美味そうな飯を前にしての雑談も悪くはないが、朝からまともに食事をとっていない獄にそんな余裕はない。
そんな獄を見て満足そうに空却は笑う。
「おう!食え!」
空却がでかい声でいただきますと手を合わせる。
それに合わせて獄も手を合わせる。
いただきますの挨拶なんて一人で暮らしを始めてから次第に言わなくなっていたが、空却と十四が毎回きちんと挨拶するものだから獄もするクセがついた。
それから食事は無言で進む。
大皿に盛られた肉はもう無い。ご飯は既に2人とも二杯目だ。
やっと箸が置かれたのは全ての皿を綺麗に空にした後だった。
「久しぶりに家庭料理ってやつを食ったな…」
「あー、食った食った!やっぱ肉はうめえ!」
満足そうに椅子にもたれかかる。
満腹の状態でしばらくじっとしていれば食後の一杯が欲しくなるのが人間だ。
「獄、拙僧は緑茶で良いぞ」
「俺に食後の一杯入れろたぁ良い度胸してんな」
「洗いもんやってやっからその間に入れろっつってんだよ」
「あん?そういう事ならしゃあねぇ…だがコーヒーで我慢しろ。緑茶なんか置いてねえ」
「買ってある。最近のスーパーは便利だな。急須までちゃんと売ってんだぜ?」
「お前、それ俺の金だろうが」
いくら使ったんだとボヤきながらもその半分は自分の胃に収まったものだから文句も言いづらい。
とりあえず、獄は慣れた手つきで自分の分のコーヒーをドリッパーにセットして、次に慣れない手つきで急須を触る。
その様子をどこかおかしそうに見ながらサッサと洗い物を済ませる。
2人分の食器など寺での洗い物に比べればすぐだ。
「おい獄、無駄に急須を動かすな渋みが出るだろうが。テメェのコーヒーと同じでゆっくり待ってやらねぇと」
「文句があんならテメェでやれ」
「ったくしょうがねぇな。今度、美味い茶の淹れ方をこの拙僧が教えてやる。ありがたく思えよ。
だがまあ今日は仕方ねぇから、これで我慢してやる」
「本当に何様なんだ」
「波羅夷空却様だ。崇め奉ってくれても良いんだぜ?」
「遠慮する」
ソファに2人並んで座り、一息つく。
無音だが、不思議と居心地の悪い感じはしない。ゆったりと落ち着いた雰囲気が部屋を流れる。
最初に口を開いたのは空却だった。
「そんなにしんどい案件なのか?」
「………そうでもないさ」
「拙僧の前で弱味なんか見せねぇテメェが、阿呆面晒して寝るなんてよっぽどの事だろうが」
「守秘義務がある」
「知ってる。別に全てまるまる話せなんて言ってねぇだろうが」
僅かに訪れる沈黙。そのうち獄は諦めたようにハァと深い溜息をついてポツポツと独り言のように話し出す。
「依頼人の息子がな…虐めを受けているらしいんだが、そのストレスで口がきけなくなっていてな。そのせいで上手く証言が集まらない」
「そうか」
「学校側は認めねぇ。それはいつもの事なんだが、どうも依頼人と学校側の意見が決定的に食い違っているようにも思える」
「あぁ」
「息子には虐められたと思われる打撲痕や形跡が確かにある。だが、がんとして誰にやられたとかは言わない」
「へえ」
「学校側もそんな事実はないと一点張りだが、母親は絶対に学校から受けた虐めだと。
このまま裁判に持っていっても良いが、いまいち勝ちが見えねぇ。おかげで被害者宅と学校と事務所を行ったり来たり、行ったり来たり…」
「結局ほとんど話したな」
案に話しすぎだと諌める。
「疲れてんのかもな。お前は他人にベラベラしゃべる奴じゃねえって知ってるしな」
「ひゃは、随分買い被ってくれてるんだな」
「別に。というか、お前いつ帰るんだ?」
「テメェが寝るまで」
「ガキじゃねえんだ。寝かしつけまで必要ねぇよ」
「だったら合鍵よこせ」
「なんでそんな話になるんだ。テメェに合鍵やるとか泥棒に渡るより厄介だ」
「いいから黙ってよこせ。いいか、拙僧は勘弁だぞ。家族がある日、35歳独身男性の弁護士が過労死〜だなんてテロップ流されてニュースに載るなんて」
一瞬、想像してしまった。
今日はたまたま空却が居たが、居なければあのまま残業をして夜遅くに帰り、さらに持ち帰った仕事で頭を悩ませカップラーメンにお湯を入れて腹を膨らませるだけの作業を済ませ、散らかった部屋に洗い物をまた一つ積み重ねて泥沼に沈むように寝ただろう。
このままいけば空却が語った内容も無くはない未来である。
「心配すんな。死んでねえかたまに見に来る程度だ」
「ついでに掃除して、飯作ってくれても良いぞ」
「んなもん、家政婦でも雇いな」
その日、空却は天国獄の部屋の合鍵を手に入れた。
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