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そう、あれは12年前――


全国の大舞台。海南大附属との2回戦。
3点差、残り20秒を切っていた。

「はやくよこせ!!」

俺は大声で叫んだ。
しかし、相手のディフェンスをくずせず、ボールが回らない。
瞬く間に、残り時間10秒……
5、4、3

「はやく……っ」

2、1――
ビッビーーッ

「試合終了っ!」

「さすが海南、逃げ切ったぞ」
「しかし、互角の試合だったな」

一斉に体育館に飛び交う歓声。
同時に、海南のベンチが飛び上がってガッツポーズをする。

もう終わったのか?

立ち尽くす俺の肩を叩いたのは、キャプテンだった。

「仙道……整列だ」

だが、その言葉は全く耳に入って来ない。
大量の汗が頬をつたっている。俺の顔を覗き込んだチームメイトが、驚きの表情を浮かべてから涙を滲ませた。
頬を濡らしているコレは、もしたしたら汗だけではないのかも知れない。
試合に負けたから?いや、それだけでないことは、この胸騒ぎでわかるのだ。
試合前に田岡先生に耳打ちする、マネージャーの青ざめた顔が頭に浮かぶ。

――仙道さんの、お母さんが――

母さん……

俺は整列とは反対の方向へ、よろよろと歩み出した。

「おい、仙道どこへ行く!」

霞んだ視線の先に体育館の扉が見え、気が付くとそこへ向かって駆け出していた。

「仙道!」

先生や係員の静止を振り切り、体育館の扉を勢い良く開け放って、正面の自動ドアをこじ開けるように外へ飛び出す。
途中で人とぶつかりそうになりながら、躓いて転びそうになりながら、夢中で走った。

「うわっ危ねえな!」
「なんだなんだ、選手が飛び出してきたぞ?」

ユニフォーム姿のまま一般道をひたすら走る俺が向かう先は……。

母さん―――!

タクシーを使えば速かったのだろうが、着の身着のまま飛び出した俺に、それを考える理由も、余裕も全く無かった。
あれだけ濡れていた頬は、向かい風ですっかり乾ききってしまった。

それから俺は、どれくらい走ったのかも分からぬまま母の病院へと駆け込んだ。エレベーターには目もくれず、階段を一気に駆け上っていく。試合で疲労していた身体は、嘘のように軽かった。

「か、母さんっ!!」

病室の扉を思い切り開けると、母が横たわるベッドの傍らで泣き崩れる父の姿があった。集まっていた親戚や知人のすすり泣く声が聞こえてくる。
ユニフォーム姿で現れた俺を見付けると、彼等の声は益々大きくなった。

「彰くん……」

な……んだよ、みんなして。泣いてんじゃねえよ。

「お母さんね……」

話しかけてきた親戚のおばさんの顔へ、俺は大きく目を見開いて訴える。

寝てるだけだろ?

「さっき……亡くなったのよ」

何を、言っているんだ。
嘘に決まってる。

「う…嘘だ」

頭を横に振りながら後ずさりすると、背中が部屋のドアにぶつかった。

「あ、彰くんっ!!」

後ろ手にドアノブを掴んで勢い良く扉を開けると、病室から飛び出した。

ハアッハアッ!

病棟の廊下をひたすら走った。
やがて非常口で行き止まりになると、力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。

「く……そっ、くそうっ!!」

廊下に拳を思い切り、何度も振り下ろした。
俺は何も出来なかった。
試合に勝つという約束も守れず、母の最期も見とれなかった。
結局、何一つ出来なかったんだ……。

先程までカラカラに乾いていた頬は、大量の涙で濡れていた。


――『ねえ、母さん。明日から全国大会があるんだ。』

『そう、やっと掴んだ全国の切符だものね。頑張って』

『うん。今年は東京で開催するから、すぐ勝利の報告に行けるよ』

『楽しみにしてるわね。……じゃあ、約束よ?』

『ああ、絶対約束する!』――


母さん、ごめん……


インターハイも終わり部活も引退、母も亡くなって、暫くは何も身が入らず学校も休みがちになり、放心状態が続いていた。あれだけ勉学にうるさかった父も、さすがに咎めることはしなかった。
冬になり、母の月命日が来た。
俺は初めて墓参りに行こうと決心した。それまでは母が亡くなったと認めたくなかったからだ。

霊園に入ると、墓の前に父が座り込んでいた。

「父さん…」

そこで墓石を撫でながら涙する父を見た時、母の言葉がどこからか聞こえてきた気がした。

――『彰、あなたは一人息子なのよ。将来は、必ずお父さんを助けてあげてね』――

肩を震わせる父の後ろ姿を目に焼き付けながら、俺は誓った。

母さん、もう約束を破ったりはしないよ。今度こそ、守ってみせる。


「彰、母さんはお前がバスケをする姿が、一番好きだったな」

「……はい」

「推薦の話も来ているそうじゃないか。これからも母さんの好きだったバスケを……続けたらどうだ」

「いえ。バスケをすることは、もうありません。俺は、大学の経済学部へ進みたいんです」

「あ、彰?」

「俺は、父さんの会社を継ぎます。母さんとの約束ですから」

そう俺は、母の墓前へ語りかけるように応えた。





――静まり返った部屋に、時計の秒針の音だけが響いていた。

「宏明……」

目の前の宏明の瞳から、大粒の涙が流れ続けていた。
涙を拭うが、またすぐに溢れて頬を濡らしてしまう。
俺は静かに言った。

「俺のために……泣いてくれてるのか?」

宏明の涙を軽く親指で拭って、赤く腫れた瞼にそっと口付けた。

「うっ……」

そのまま涙で濡れた頬へ、そして唇へ……
優しくキスをした。
ゆっくり唇を離すと、潤んだ瞳で見詰められ、たまらず強く抱き寄せた。

「宏明……」

今は、目の前の宏明が愛しくて仕方がない。

「ありがとうな」

耳元で囁いた言葉に応えるように、宏明はそっと俺の背に腕を回した。


暫く俺たちは寄り添いながら、ベッドの上に腰掛けていた。

「落ち着いたか?」

「ごめん……」

「だから、謝んなって」

側にあったティッシュ箱を差し出す。宏明は勢い良く鼻をかむと、大きく息をついた。

「俺、あきらはずっと恵まれた環境で育ったと思ってた……まさか、そんな辛い過去を背負ってたなんて……」

鼻をすすりながら、掠れ声で続ける。

「……試合を観戦してる時のあきら、何だか遠くを見てるみたいだった。あの時、お母さんを思い出してたんだよね?」

俺は瞼を伏して微笑んだ。

「お前を見てると、何故か色々思い出しちまうよ」

「……辛いこと思い出させちゃって、ごめん」

「ほら、またすぐ謝る」

下を向いた頭に自分の額を軽くコツンとぶつけてやる。宏明は照れくさそうに笑った。
まったく、可愛い奴だ……
って、思うの何回目だ?

そう、全ての始まりは、あの事故での出逢いからだったんだ。
最初は煩わしいと思っていたお前が、何故か懐かしくて、それでいて新鮮で……。
バスケを忘れかけていた俺に、様々な物を見せてくれた。そして思い出させてくれた。
直に三十路になろうという男が、一端の社長である男が……
昔の自分を忘れぬよう、今は宏明、お前の青春に一緒に染まっていたいんだ。
少しくらい、いいだろ?

俺は隣に座る宏明へ、満面の笑みを贈った。

「そうだ。俺も謝らなきゃいけないな」

「えっ、何?」

自分の唇をチョンチョンと指さす。

「また、奪っちまった」

瞬時に宏明の頬が赤くなっていく。

「そっ、そうだよ!またどさくさに紛れて、い……いきなり」

「ふっ。セカンドキス、だな」

「なっ!!」

耳まで赤くして……。
だから、ついついからかいたくなっちまうんだ。

「3回目もしてやろうか~?」

顎をグイと掴んで顔を近づける。

「こっ、このエロおやじっ!」


宏明の母に挨拶をすませて家を出ると、辺りは夕暮れに包まれていた。

「あきら、今日は忙しいのにありがとう」

「いや、お前の母さんにご挨拶出来て良かったよ。じゃあ、またな」

愛車に乗り込みドアを閉めると、何となく寂しそうに立ち尽くす宏明の姿がバックミラーに見えた。
俺は窓を開け、腕を出して手招きした。
何だろう、という表情で駆け寄って覗き込んで来た顔を、グイッと掴んだ。

「うわっ!!」

唇を耳元に近づけ、そっと囁く。

「また……連絡する」

宏明は顔を真っ赤にして耳を押さえながら、相変わらず威勢の良い声で返事をした。

「お、おうっ!」

アクセルを踏み込むと愛車をオープンカーにし、後ろの見送りに手を高く上げて応える。

「あきらっ、またなー」

宏明は車が見えなくなるまで手を振り続けていた。


責任とれよな――だと?
ふっ、あんな事言っといて……。
その言葉、そっくりそのまま突き返してやろう。
この俺を本気にさせちまったんだ。


お前にも責任とってもらわないとな。


つづく。