逢いたい
海を見つめながら、独り浜辺に佇む。
追い詰められたとき、逃げ出したくなるとき、俺はここを訪れる。
海に入ったりはしない。ただ眺めているだけでいい。景色を肌で感じ潮騒を聞くだけで安心するのは、この海が遠く湘南の地まで続いているからだ。遙か彼方まで続く青の景色を、何時までも目に焼き付けていた。
ここにいるだけであいつと繋がっている気がするんだ。
いつものように、波打ち際をゆっくりと歩き出す。砂が靴の中に入り込むのが煩わしくなって、履いていたスニーカーを脱ぎ捨て裸足になった。足の指で砂を掴む感触がたまらなく好きだ。
こんな束の間の癒やしを求め、俺は練習をエスケープしてはこの場所へやってくる。いつまでも変わらずこの癖が抜けきらないのは、自分でも呆れるほどだ。
変わった事と言えば……きつく叱ってくれる先生や、必死に俺を探し回ってくれたチームメイトがもういないという事。
そう、今俺を迎えに来る奴なんていないんだ、誰も……
暫く歩いていると、背後からザッザッと砂を踏みしめる音が聞こえてきた。段々とそれはこちらに近付いて来るようだ。振り向くと、陽の光が眩しくて人物がよく確認できなかったが、こちらに手を振りながら走り寄ってくるようにも見えた。
―『仙道っ!』
えっ?
自分の名を呼ばれた気がした。
眩しさに顔をしかめながら見たその姿は、何となく……
こちらに手を振って、髪を揺らしながら駆けてくる。
まさか!?
「……っ」
声をかけようと息を吸い込んだ瞬間、近付いて来た人物は、俺には一切目もくれず前を走り抜けていった。
「は、はは……」
突っ立てた髪をぐしゃりと掻いて、苦笑した。
「バカ、だな」
まだあどけない少年だった。
サーフボードを抱えた父親らしき男性に抱きついて、親しげに何やら話している姿が微笑ましい。
外人の少年と見間違えるとは、とうとうホームシックでいかれちまったか。
ここがどこだと思ってる?落ち着けよ……
自分に言い聞かせ、一つ大きな深呼吸をしてからゆっくり瞳を閉じた。
「仙道っ!」
くそっ、まただ。
輝かしい太陽のような笑顔が浮かび、俺の名を呼ぶ声が頭の中をエコーする。
「仙道っ!」
まだ消えないのか、ちくしょう。
何時もなら海を見るだけで癒されるのに……その声で胸が締め付けられそうだ。
逢いたい――
「仙道っ!!」
何故おまえの声が頭から抜けない?
それにしても、いやにはっきりと……
「おい、仙道ってば!」
今度は耳元で声がした。
さすがにこれはエコーなのか疑わしくなり、俺は恐る恐る目を開く。
「何回お前の名前呼ばせんだよっ!」
「あ……えっ?」
突然現れた目の前の光景が、暫く理解できなかった。
顔を紅潮させながらこちらを睨みつけるのは、俺が一番逢いたかった相手。
「こ、しの……?」
何度か目をこすってみたが、どうやらこれは現実か。
見慣れたチェック柄の上着を羽織り、海外に来るには小さすぎるリュックを担いで、俺を見上げる越野が仁王立ちしていた。
上着からは白い生地がチラリと覗く。卒業した今でも愛用する、白い陵南Tシャツ。
練習が終わってから急いで着替えて荷物をまとめ、電車に飛び乗って空港へと向かう……そんな彼の行動が、その出で立ちから想像できた。
黒いサラサラの髪の毛は、寝ぐせでぐしゃぐしゃになっている。
久しぶりに見る姿、顔、そして声――
変わってないな。
「越野……」
俺の視線に耐えきれなくなった越野は、慌てて目をそらした。
「あ…えっと、あれだよ。く、くじ引き当たっちゃってさ。よくあるやつ……旅行券、アメリカの旅……っ!」
越野の片腕を掴み、自分の胸へ一気に引き寄せ、抱き締めた。
「……そっか」
耳まで赤くして早口になるのは、照れ隠しのサイン。
見え透いた嘘が、こんなにも嬉しいと感じたのは初めてだ。独りで旅行もしたことない奴が、この地に辿り着くまでどれだけ緊張していたか。
俺のために苦労してここまで会いに来てくれたことに、今たまらなく幸せを感じる。
「あ、仙道。人が見てるって……」
「大丈夫。こんなの、こっちじゃ挨拶代わりだ」
夢じゃ、ないよな?
俺を呼ぶ声は、空耳なんかじゃなかった。
まったく、アメリカ人の子供をお前と見間違うくらいイかれてたなんて、恥ずかしくてとても言えない。
今度こそ本物の――俺の恋人。
抱きしめた越野の身体からは、汗と潮の懐かしい匂いがして……
俺達がいるこの場所が一瞬、湘南の海のような錯覚に陥った。
「越野」
顔を埋めてきた彼の髪をやさしくなでると、くぐもった声が聞こえてきた。
「ったくお前さ、こっちでもさぼり癖治んないのかよ」
「ああ、わりぃ」
更にきつく抱きしめる。
越野はそれに応えるかのように、ゆっくり俺の背中に腕を回し、呟いた。
「……また探しに来てやったぜ」