恋まとひ
昔々に交わした、ほんの小さな約束を、
彼が本当に覚えているとは思わなかった。
『俺が炎柱になった暁には、あの炎柱の羽織を纏った俺の姿を、君に見せに来よう!』
私よりほんの少しだけ年上の貴方は、あの時、幼い私に確かにそう誓ってくれたのだ。
勿論、私の方はそれをずっと覚えていた。
これは「好き」とか「恋」とか、私がまだそんな言葉さえ知らなかった幼い頃の話だ。
けれども私は、貴方を少しずつ知っていく度に、幼心にも、ずっと貴方と一緒に居られたらいいのに、と淡く思っていた。
だから貴方のその言葉は、長い年月を経ても、揺らめきながらずっと私の胸に灯っていた。
それでも貴方の方は、
きっともう忘れてしまったのだろうな。
そんな風にも思っていた。
◇◇◇◇◇
杏寿郎さんと私は、
幼い日に一緒に遊んだ仲だった。
私達は母親同士が親戚で、その縁で彼は子どもの頃、私の父が宮司をしているこの神社にしょっちゅう遊びに来ていた。
彼がここを訪れた時には、私達はいつも一緒に遊んで過ごした。だから二人の思い出は、思いの外、沢山ある。
例えば、こんなだ。
私達がある日遊んでいると、境内の大きな楠の木の根元に瓜がなっているのを見つけた。
「こんな所に瓜がなってる!」
子どもだった私達は、自然になっているそれに目を輝かせた。それはとても美しく碧い瓜だった。私達は当然それを採り、眺めているうちに当然食べてみたくなった。すると杏寿郎さんは突然、
「食べるなら、景色の良いところで食べたほうが良かろう!」
などと言い出した。
私も、成る程それはとても良い考えだ、と思った。
「この木でいいんじゃないか?」
彼は境内の中の、私でも登れそうな木を適当に選んだ。そして私達は、えっちらおっちらとその木に登り、その枝の上に二人で座った。
「なかなか良いねえ!」
「うむ、良いなあ!」
確かに景色は素晴らしく良かった。
そして私達の気分も素晴らしく爽快だった。
しかし齧った瓜は、見た目に反してどれも酷かった。口の中が苦さで痺れるように渋い。思わず私は、
「渋っ!」
と言ってバッと瓜を吐き出して、涙目になりながら瓜への文句を言った。
杏寿郎さんは、そんな私に隣で目を丸くしていたが、
「そんなに瓜は悪くないんじゃないか?」
と言いつつ、いざ自分もそれを齧ると、
「……っうわっ!酷い瓜だ!」
と瓜を罵りながら、体をバタつかせて吐き出してた。そしてその後は大声で笑った。
私はそんな杏寿郎さんの屈託なさを、隣でとても面白く見た。
その後、私達のそれは宮司である父に見つかったのだが、登った木は御神木の一本だった。
「神木の上に登った挙げ句に、食べたものを吐き出すとは何という罰当たりか!」
と、信じられない程に酷く怒られたのだが、ギャアギャア泣く私の隣で、杏寿郎さんは涙目で泣くのを我慢しながら、
「俺のせいだ。不甲斐なし…すまん」
と密かに私に謝ったが、その後結局、彼も泣いた。
でも私は、そんな彼はとても清々しくて、偉くて、そして男らしいと思った。
それから、こんなのだ。
夕暮れの神社の境内。
風鈴の音がかすかに鳴る、晩夏の空の下、私達は境内で鬼ごっこをしていた。
私は杏寿郎さんの背を追いかける。
彼は走るのが信じられぬ程速くて、捕まえるのが難しかった。いや、ほぼ捕まえたことはなかった。でも勝ち気な私は、彼を本気で捕まえるつもりで追いかけた。
力量の差は歴然としていたのだけれど、そんな時彼は私に決して手加減はせず、本気で逃げてくれた。けれども、絶望的に私を置いて先に行くこともなかった。
「大丈夫か? まだついて来られるか!」
時々彼はそんな風に、さりげなく私を気遣いながら、風のように走って逃げるのだった。私を振り返り笑う、その彼の汗ばんだ顔の中には、いつも金環の美しい瞳が光っていた。
こんな風に私達は、まだ神域の意味さえわからない程に幼かった。けれども、その時にはもう、私は朧気に気づいていたように思う。
杏寿郎さんが――この人が、強く優しく真っ直ぐで、とても得難い人だということを。
一緒にいると、彼のその強さや優しさに、心を奪われる瞬間が何度もあった。
だから私は、少しずつ彼を「特別に」思うようになっていた。
◇◇◇◇◇
そんな彼は私の神社に来る時、時々立派な男の人と連れだって来ることがあった。
その人はとても背が高くて、金色の髪と金色の瞳をしていた。そしていつも黒い詰襟の服の上に、白くて長い羽織を羽織っているのだった。
私には、その男の人が誰なのかすぐにわかった。
だってその人は、隣にいる杏寿郎さんに全てがあまりにも似ていたから。
「父上は鬼殺隊の炎柱なんだ!」
杏寿郎さんは自分の父について、私に誇らしげに語った。
私も自分の父母から、鬼殺隊や柱について聞いていたから、彼のお父上がどんなお立場の方で、どんなに強いのか知っていた。
そしてゆくゆくは、杏寿郎さんも鬼殺隊に入り、炎柱になる運命だということも。
彼のお父上は、たまに杏寿郎さんと一緒にここを訪ね来ても、すぐに任務に呼ばれ出掛けてしまうことが多かった。
そんな時、私と杏寿郎さんは炎柱様を神社の境内まで見送りに行った。
「お気をつけて、父上! どうかご武運を!」
杏寿郎さんはいつも立派に見送った。
炎柱様はそれに頷くと、夕暮れ迫る空に風のように走り去っていくのだった。
杏寿郎さんは、そんなお父上の姿をいつも羨望の眼差しで見ているように見えた。
ある日、同じように炎柱様を見送った後、一緒に社殿に戻る道すがら、杏寿郎さんは私に聞いた。
「君は知っているか。父上がいつも羽織っておられる、あの白い羽織の意味を」
炎柱様の白い羽織――
それは炎柱様がいつも身につけて来るもので、身体をすっぽり覆うほどの長さがあった。
全体は美しい白色で、裾の部分だけまるで炎のような形の意匠になっていて、赤と黄色に美しく染められているのだった。
私が彼のその問いに、
「知らない」
と首を振ると、彼は少し胸を張って言った。
「あの羽織はな、代々我が家が継いできたものなんだ!」
それに私が、
「じゃ杏寿郎さんも、そのうちあれを羽織る?」
そう問うと、彼は、ははっ、と少し笑った。
「ああ、そうだな! でもすぐには無理なんだ。あれは、鬼殺隊の炎柱になった者だけが纏うのを許される特別なものでな! いつか俺も父上のような炎柱になって、あれを纏いたいと思っている!」
そんな力強く自らの決意を述べる彼に、
私は、
(杏寿郎さんは多分、なれるんじゃないかしら。いつも強いし立派だし。それにあの羽織、杏寿郎さんにもきっと似合う。だって、お顔も姿も炎柱様にそっくりだもの)
と思った。
私には、普段凛々しく在る彼が、いつか強くて立派な炎柱様になるのだと言われれば、それはとても自然なもののように感じられた。
「うん、きっとなれるよ!貴方にとっても似合うと思う、あの羽織。杏寿郎さんがあの羽織を着たところ見たいな!」
私がそう言うと、彼は大きく金色の目を見開き、少しはにかんだ顔をした。
「ありがとう! 君にそう言われると本当になれるような気がするな! ……では、約束しよう。俺が炎柱になった暁には、あの炎柱の羽織を纏った俺の姿を、君に見せに来よう!」
「うん、待ってる! 必ず来てね!」
私達は遠い昔、神社の社殿の前で、
そんな幼い約束をしたのだった。
◇◇◇◇◇
しかしそれ以降、杏寿郎さんとは会える機会が殆どなくなってしまった。
杏寿郎さんは十二歳になると鬼殺隊に入り、鬼狩りとして任務に出るようになったので、遊んでいる暇は全くなくなった。
その上、彼の母親が亡くなってしまったので、我が家と彼の家はだんだんと縁遠くなってしまったのだった。
それから随分、年月が経った。
私は十六になり、神社で巫女として家業を手伝う年齢になった。
その間、私は杏寿郎さんに一度も会ったことはなかった。でも私は、この神社の境内のあちこちを歩く度、彼との思い出と約束の事を思った。
そんなある日のことだ。
もう春はとうに過ぎ去り、まもなく夏が来るという頃なのに、その日の朝はうっすらと霧に包まれ視界が白く霞み、神社が鎮座するこの山は、妙に肌寒かった。
それでも私は巫女姿で箒を持ち、湿った空気の中、社殿前や境内を掃いてまわっていた。
そうしながら私は、前日に父が言っていた事をぼんやりと思い出していた。
『そういえば、煉獄様のところの杏寿郎さん、父上を継いで炎柱になられたらしい。明日、鬼殺隊の本部で杏寿郎さんの柱の任命式があるそうだ』
どこからか聞いてきた話を、父が何となく話していたのだ。
久々に聞く彼の名前を聞いた時、遠い昔の彼との約束のことを思う。
ーーああ。
あの好ましい少年は、炎柱になるという願いを叶えた時、あの炎柱だけが許される白い羽織を纏った姿を私に見せてくれると言っていた。
遂に杏寿郎さんは、あの頃憧れの眼差しで見ていたお父上のように、炎柱になったのか。
杏寿郎さんは、確か今年で十八になる筈だ。
今頃は、どんなに勇ましく凛々しい青年になっていることだろう。
私は、幼い頃の彼の姿を思い出し、そして炎柱になったその姿もまた、見たいものだと思った。
けれども、あれから私たちの間に交流はまったくなく、手紙さえも出したこともなかった。
鬼殺隊はとても厳しく、とても忙しい所だと聞く。
彼は、私との約束のことなど、とうに忘れているのだろうなあ。
その時、霧の中でも微かに鳴いていた鳥の声がふと止まる。
それに気がつき見回すと、ぼんやりした霧の向こう側から、参道の階段を登って来る人影がある。
ーー誰?
早朝の参拝だろうか。
霞んでいて良くは見えない。
しかし目を凝らしていると、少しずつその姿の輪郭が見えてきた。すると、それは見覚えのあるものだった。
黒の詰襟に、白くて長い羽織ーー。
私は目を見張った。
「……炎柱様?」
思わず呟いた私のその声に、階段を登りきったその影は、ふいに立ち止まった。
そして暫く黙って立ちすくんだが、私の方に向かい、静かに
「……君か?」
と言った。
その声は、深みのある知らない男性の声だった。
けれども。
私には思いあたる人がいる。
「………杏寿郎さん?」
私が恐る恐る問うてみると、その人影は止めていた足を早めてこちらに向かってくる。
そして霧の中からその姿を現した。
それからその人は私の前にやって来て、静かに再び足を止めた。
私はその人を見上げた。
その人は、確かに私の知っている炎柱様に良く似ていた。
けれども、もっとずっと若い。
金色の髪の毛、高い鼻梁。引き締まった唇に、きりりとした眉。
そこには清しい容貌をした、若々しい青年が立っていた。
私たちは互いに、暫し黙って見つめ合い、相手の顔を見回した。
「やあ!」
暫くして、彼は高い背丈からこちらを見下ろし、くしゃりと笑顔になった。
それから懐かしげに、
「ああ! やはり君だ!」
と言った。金環の瞳。
「ーーああ、何となんと!君は子どもの頃の面影がそのままなのだなあ!……そう、俺は煉獄杏寿郎だ! わかるだろうか?……久しいな!ご無沙汰してしまい、すまない!」
彼は「俺の方はだいぶ変わってしまっただろうか?」と言って、再び私に満面の笑みを向けた。
けれども、私にもすぐにわかったのだ。
その瞳、忘れようもない。
それは、私と小さな約束をした時よりすっかり大人になっていたけれど、懐かしい杏寿郎さんのものだったから。
そうして霧の中から、何とも幻想的に現れた杏寿郎さんは、気づけば、あの白い炎柱様の羽織を纏っている。
それは紛れもなく、彼が炎柱になった証だ。
私は彼のその姿に目を細めた。
「ああ、杏寿郎さん。ついに炎柱におなりになったんですね」
私がそう呟くと、彼ははにかんだような顔をして私を再び見下ろした。
「うむ、そうなんだ! …だから約束通り、この羽織を羽織った俺を、君に見せに来た!」
「……とてもとてもご立派です」
「ありがとう」と、噛みしめるように杏寿郎さんは言った。
「杏寿郎さん。昔の私との約束を覚えていて下さったんですね。来てくれて嬉しい。正直、もう、忘れているだろうと思っていた」
幼き日、私は彼をとても好きだった。
嬉しさと懐かしさと、そしてそれと共に、あの頃の彼への様々な心が、今、私の中に甦ってくる気がした。そんな心持ちで、私は親しみを込め彼にそう言った。
すると彼は、意外にもちょっと憤慨したような顔をした。
「忘れるわけがない!」
彼はちょっと大声を張り上げた。
そして間髪入れず、なんとこちらが予想だにしないことを言い出した。
「この事は、神の前で二人で確かに誓っただろう? それにな、俺にとってこれは、初恋の人との大事な約束だ。絶対に違えるわけにはいかない!」
「……………え?」
思いもよらぬことを言われ、私は止まった。
―――何?
何のことを言われているのか、良くわからない。
「いや、だからな。俺の方は昔からそうだった、という話だ。君のほうは、違ったか?」
そうではないかと思っていたのだがなあ、と彼は一人でぶつぶつと言った。
初恋の、人。
私はただただ、黙って彼の顔を見るしかなかった。
「よもや、君。実は今まで俺のことを忘れていたか」
そう言いながら、何となくグイと迫り来る杏寿郎さんに、私はとりあえずの言葉を探してみる。
「……いえ、私もずっと忘れないでいましたよ? …いましたけれども! でもあの…これは一体、どういう話?」
「そうか! それなら良いんだ! ところでな、これは君に土産だ!」
話が全く噛み合わない。
それなのに、彼はそれを全く気にする様子もなく、手に持っていた風呂敷包みを戸惑う私の目の前にグイと差し出した。
私は受け取るしかないではないか。
「え…お、お土産?」
「そう、それは瓜だ!」
「…瓜?!」
「うむ! 大丈夫、それは渋くないぞ! うちの畑で作ったものだ。まだちょっと早いかもしれないが、もう少ししたらもっと甘くなる。是非、食べてくれ!」
私はちょっと彼の勢いについて行くことができなかった。でも何故だか、あの苦い瓜の碧が思い出された。
どさりと腕に置かれた包みは、思いの外、重い。
こうして唖然と過ぎる彼との再びの邂逅に、私の頭はずっと混乱していた。
しかし、そんな私を揺さぶり起こすように、境内の木に止まっていた一羽のカラスが、
「カア」
と一声、鋭く鳴いた。
すると杏寿郎さんはその枝を見上げ、カラスに手をあげ小さく頷いた。そしてまた私の方を向き直った。
その時、私は気がついたのだ。
もしかしたら気のせいかもしれないが。
彼は今、少しだけ、顔が赤い。
「すまない。今日は所用の途中こちらに寄ったので、すぐに、行かねばならないんだ! 今日は、君との約束のみを果たしに来た。しかし…君とはまだ積もる話もある。また、改めて来てもいいだろうか?」
彼は、私に一所懸命そう問うた。
そこで私は、初めて少し冷静になって思った。
ああ。
私達が会えなかったこの年月、
貴方の中にも、ちゃんと私がいたのかしら。
私の幼き日の彼への淡い憧憬は、
そう思った瞬間、もっと深く色づいたものへ、変わったような気がした。
私が静かに頷くと、杏寿郎さんは少しホッとしたように微笑んだ。
それから彼は、
「ではまた!」
と言って踵を返した。
「杏寿郎さん!」
何かが始まるような。
そんな気がして、私はとっさに彼の背中を呼び止めた。
薄霧の中、彼は立ち止まり、ゆっくり私を振り向いた。
「その羽織、貴方にとても良く似合っているわ! 思っていたよりも、ずっとずっと! 私は、貴方のその姿を見たいと、ずっと待っていた!」
その言葉に彼は破顔した。
それからちょっと私に手を上げて、再び霧の中に消えて行った。
◇◇◇◇◇
神社の参道の階段を、一気に一番下まで駆け降りた杏寿郎は、はあ、と深いため息をついてしゃがみ込んだ。
そして両手で顔を覆い、小さな声で独りごちた。
「ああ、緊張した。…少し強引すぎただろうか。…いや、でも。こうでもせんと、今さら昔の想いを伝えることなど……。しかし、思い切ってこうして逢いに来てみれば、何だってあんなに直ぐに居るんだ!」
そうして突如伝えた己の言葉に、酷く驚いていた彼女の顔を思い出し、杏寿郎は顔をしかめてさらに赤くする。
それでも、彼女に掛けられた最後の言葉に、杏寿郎の顔が自然に緩むのだった。
けれども、まあ。
時間はかかってしまったが。
すべてはまた、再びここから。
「それにしても、今日の霧は何とも俺に好都合!」
杏寿郎は、嬉しげにキュッと口角を上げた。
そして纏う白の羽織をなびかせて立ち上がった。
それから彼は、彼女のいる神社を背に、
少し薄くなった霧の中を、
勇ましく走っていったのだ。
彼が本当に覚えているとは思わなかった。
『俺が炎柱になった暁には、あの炎柱の羽織を纏った俺の姿を、君に見せに来よう!』
私よりほんの少しだけ年上の貴方は、あの時、幼い私に確かにそう誓ってくれたのだ。
勿論、私の方はそれをずっと覚えていた。
これは「好き」とか「恋」とか、私がまだそんな言葉さえ知らなかった幼い頃の話だ。
けれども私は、貴方を少しずつ知っていく度に、幼心にも、ずっと貴方と一緒に居られたらいいのに、と淡く思っていた。
だから貴方のその言葉は、長い年月を経ても、揺らめきながらずっと私の胸に灯っていた。
それでも貴方の方は、
きっともう忘れてしまったのだろうな。
そんな風にも思っていた。
◇◇◇◇◇
杏寿郎さんと私は、
幼い日に一緒に遊んだ仲だった。
私達は母親同士が親戚で、その縁で彼は子どもの頃、私の父が宮司をしているこの神社にしょっちゅう遊びに来ていた。
彼がここを訪れた時には、私達はいつも一緒に遊んで過ごした。だから二人の思い出は、思いの外、沢山ある。
例えば、こんなだ。
私達がある日遊んでいると、境内の大きな楠の木の根元に瓜がなっているのを見つけた。
「こんな所に瓜がなってる!」
子どもだった私達は、自然になっているそれに目を輝かせた。それはとても美しく碧い瓜だった。私達は当然それを採り、眺めているうちに当然食べてみたくなった。すると杏寿郎さんは突然、
「食べるなら、景色の良いところで食べたほうが良かろう!」
などと言い出した。
私も、成る程それはとても良い考えだ、と思った。
「この木でいいんじゃないか?」
彼は境内の中の、私でも登れそうな木を適当に選んだ。そして私達は、えっちらおっちらとその木に登り、その枝の上に二人で座った。
「なかなか良いねえ!」
「うむ、良いなあ!」
確かに景色は素晴らしく良かった。
そして私達の気分も素晴らしく爽快だった。
しかし齧った瓜は、見た目に反してどれも酷かった。口の中が苦さで痺れるように渋い。思わず私は、
「渋っ!」
と言ってバッと瓜を吐き出して、涙目になりながら瓜への文句を言った。
杏寿郎さんは、そんな私に隣で目を丸くしていたが、
「そんなに瓜は悪くないんじゃないか?」
と言いつつ、いざ自分もそれを齧ると、
「……っうわっ!酷い瓜だ!」
と瓜を罵りながら、体をバタつかせて吐き出してた。そしてその後は大声で笑った。
私はそんな杏寿郎さんの屈託なさを、隣でとても面白く見た。
その後、私達のそれは宮司である父に見つかったのだが、登った木は御神木の一本だった。
「神木の上に登った挙げ句に、食べたものを吐き出すとは何という罰当たりか!」
と、信じられない程に酷く怒られたのだが、ギャアギャア泣く私の隣で、杏寿郎さんは涙目で泣くのを我慢しながら、
「俺のせいだ。不甲斐なし…すまん」
と密かに私に謝ったが、その後結局、彼も泣いた。
でも私は、そんな彼はとても清々しくて、偉くて、そして男らしいと思った。
それから、こんなのだ。
夕暮れの神社の境内。
風鈴の音がかすかに鳴る、晩夏の空の下、私達は境内で鬼ごっこをしていた。
私は杏寿郎さんの背を追いかける。
彼は走るのが信じられぬ程速くて、捕まえるのが難しかった。いや、ほぼ捕まえたことはなかった。でも勝ち気な私は、彼を本気で捕まえるつもりで追いかけた。
力量の差は歴然としていたのだけれど、そんな時彼は私に決して手加減はせず、本気で逃げてくれた。けれども、絶望的に私を置いて先に行くこともなかった。
「大丈夫か? まだついて来られるか!」
時々彼はそんな風に、さりげなく私を気遣いながら、風のように走って逃げるのだった。私を振り返り笑う、その彼の汗ばんだ顔の中には、いつも金環の美しい瞳が光っていた。
こんな風に私達は、まだ神域の意味さえわからない程に幼かった。けれども、その時にはもう、私は朧気に気づいていたように思う。
杏寿郎さんが――この人が、強く優しく真っ直ぐで、とても得難い人だということを。
一緒にいると、彼のその強さや優しさに、心を奪われる瞬間が何度もあった。
だから私は、少しずつ彼を「特別に」思うようになっていた。
◇◇◇◇◇
そんな彼は私の神社に来る時、時々立派な男の人と連れだって来ることがあった。
その人はとても背が高くて、金色の髪と金色の瞳をしていた。そしていつも黒い詰襟の服の上に、白くて長い羽織を羽織っているのだった。
私には、その男の人が誰なのかすぐにわかった。
だってその人は、隣にいる杏寿郎さんに全てがあまりにも似ていたから。
「父上は鬼殺隊の炎柱なんだ!」
杏寿郎さんは自分の父について、私に誇らしげに語った。
私も自分の父母から、鬼殺隊や柱について聞いていたから、彼のお父上がどんなお立場の方で、どんなに強いのか知っていた。
そしてゆくゆくは、杏寿郎さんも鬼殺隊に入り、炎柱になる運命だということも。
彼のお父上は、たまに杏寿郎さんと一緒にここを訪ね来ても、すぐに任務に呼ばれ出掛けてしまうことが多かった。
そんな時、私と杏寿郎さんは炎柱様を神社の境内まで見送りに行った。
「お気をつけて、父上! どうかご武運を!」
杏寿郎さんはいつも立派に見送った。
炎柱様はそれに頷くと、夕暮れ迫る空に風のように走り去っていくのだった。
杏寿郎さんは、そんなお父上の姿をいつも羨望の眼差しで見ているように見えた。
ある日、同じように炎柱様を見送った後、一緒に社殿に戻る道すがら、杏寿郎さんは私に聞いた。
「君は知っているか。父上がいつも羽織っておられる、あの白い羽織の意味を」
炎柱様の白い羽織――
それは炎柱様がいつも身につけて来るもので、身体をすっぽり覆うほどの長さがあった。
全体は美しい白色で、裾の部分だけまるで炎のような形の意匠になっていて、赤と黄色に美しく染められているのだった。
私が彼のその問いに、
「知らない」
と首を振ると、彼は少し胸を張って言った。
「あの羽織はな、代々我が家が継いできたものなんだ!」
それに私が、
「じゃ杏寿郎さんも、そのうちあれを羽織る?」
そう問うと、彼は、ははっ、と少し笑った。
「ああ、そうだな! でもすぐには無理なんだ。あれは、鬼殺隊の炎柱になった者だけが纏うのを許される特別なものでな! いつか俺も父上のような炎柱になって、あれを纏いたいと思っている!」
そんな力強く自らの決意を述べる彼に、
私は、
(杏寿郎さんは多分、なれるんじゃないかしら。いつも強いし立派だし。それにあの羽織、杏寿郎さんにもきっと似合う。だって、お顔も姿も炎柱様にそっくりだもの)
と思った。
私には、普段凛々しく在る彼が、いつか強くて立派な炎柱様になるのだと言われれば、それはとても自然なもののように感じられた。
「うん、きっとなれるよ!貴方にとっても似合うと思う、あの羽織。杏寿郎さんがあの羽織を着たところ見たいな!」
私がそう言うと、彼は大きく金色の目を見開き、少しはにかんだ顔をした。
「ありがとう! 君にそう言われると本当になれるような気がするな! ……では、約束しよう。俺が炎柱になった暁には、あの炎柱の羽織を纏った俺の姿を、君に見せに来よう!」
「うん、待ってる! 必ず来てね!」
私達は遠い昔、神社の社殿の前で、
そんな幼い約束をしたのだった。
◇◇◇◇◇
しかしそれ以降、杏寿郎さんとは会える機会が殆どなくなってしまった。
杏寿郎さんは十二歳になると鬼殺隊に入り、鬼狩りとして任務に出るようになったので、遊んでいる暇は全くなくなった。
その上、彼の母親が亡くなってしまったので、我が家と彼の家はだんだんと縁遠くなってしまったのだった。
それから随分、年月が経った。
私は十六になり、神社で巫女として家業を手伝う年齢になった。
その間、私は杏寿郎さんに一度も会ったことはなかった。でも私は、この神社の境内のあちこちを歩く度、彼との思い出と約束の事を思った。
そんなある日のことだ。
もう春はとうに過ぎ去り、まもなく夏が来るという頃なのに、その日の朝はうっすらと霧に包まれ視界が白く霞み、神社が鎮座するこの山は、妙に肌寒かった。
それでも私は巫女姿で箒を持ち、湿った空気の中、社殿前や境内を掃いてまわっていた。
そうしながら私は、前日に父が言っていた事をぼんやりと思い出していた。
『そういえば、煉獄様のところの杏寿郎さん、父上を継いで炎柱になられたらしい。明日、鬼殺隊の本部で杏寿郎さんの柱の任命式があるそうだ』
どこからか聞いてきた話を、父が何となく話していたのだ。
久々に聞く彼の名前を聞いた時、遠い昔の彼との約束のことを思う。
ーーああ。
あの好ましい少年は、炎柱になるという願いを叶えた時、あの炎柱だけが許される白い羽織を纏った姿を私に見せてくれると言っていた。
遂に杏寿郎さんは、あの頃憧れの眼差しで見ていたお父上のように、炎柱になったのか。
杏寿郎さんは、確か今年で十八になる筈だ。
今頃は、どんなに勇ましく凛々しい青年になっていることだろう。
私は、幼い頃の彼の姿を思い出し、そして炎柱になったその姿もまた、見たいものだと思った。
けれども、あれから私たちの間に交流はまったくなく、手紙さえも出したこともなかった。
鬼殺隊はとても厳しく、とても忙しい所だと聞く。
彼は、私との約束のことなど、とうに忘れているのだろうなあ。
その時、霧の中でも微かに鳴いていた鳥の声がふと止まる。
それに気がつき見回すと、ぼんやりした霧の向こう側から、参道の階段を登って来る人影がある。
ーー誰?
早朝の参拝だろうか。
霞んでいて良くは見えない。
しかし目を凝らしていると、少しずつその姿の輪郭が見えてきた。すると、それは見覚えのあるものだった。
黒の詰襟に、白くて長い羽織ーー。
私は目を見張った。
「……炎柱様?」
思わず呟いた私のその声に、階段を登りきったその影は、ふいに立ち止まった。
そして暫く黙って立ちすくんだが、私の方に向かい、静かに
「……君か?」
と言った。
その声は、深みのある知らない男性の声だった。
けれども。
私には思いあたる人がいる。
「………杏寿郎さん?」
私が恐る恐る問うてみると、その人影は止めていた足を早めてこちらに向かってくる。
そして霧の中からその姿を現した。
それからその人は私の前にやって来て、静かに再び足を止めた。
私はその人を見上げた。
その人は、確かに私の知っている炎柱様に良く似ていた。
けれども、もっとずっと若い。
金色の髪の毛、高い鼻梁。引き締まった唇に、きりりとした眉。
そこには清しい容貌をした、若々しい青年が立っていた。
私たちは互いに、暫し黙って見つめ合い、相手の顔を見回した。
「やあ!」
暫くして、彼は高い背丈からこちらを見下ろし、くしゃりと笑顔になった。
それから懐かしげに、
「ああ! やはり君だ!」
と言った。金環の瞳。
「ーーああ、何となんと!君は子どもの頃の面影がそのままなのだなあ!……そう、俺は煉獄杏寿郎だ! わかるだろうか?……久しいな!ご無沙汰してしまい、すまない!」
彼は「俺の方はだいぶ変わってしまっただろうか?」と言って、再び私に満面の笑みを向けた。
けれども、私にもすぐにわかったのだ。
その瞳、忘れようもない。
それは、私と小さな約束をした時よりすっかり大人になっていたけれど、懐かしい杏寿郎さんのものだったから。
そうして霧の中から、何とも幻想的に現れた杏寿郎さんは、気づけば、あの白い炎柱様の羽織を纏っている。
それは紛れもなく、彼が炎柱になった証だ。
私は彼のその姿に目を細めた。
「ああ、杏寿郎さん。ついに炎柱におなりになったんですね」
私がそう呟くと、彼ははにかんだような顔をして私を再び見下ろした。
「うむ、そうなんだ! …だから約束通り、この羽織を羽織った俺を、君に見せに来た!」
「……とてもとてもご立派です」
「ありがとう」と、噛みしめるように杏寿郎さんは言った。
「杏寿郎さん。昔の私との約束を覚えていて下さったんですね。来てくれて嬉しい。正直、もう、忘れているだろうと思っていた」
幼き日、私は彼をとても好きだった。
嬉しさと懐かしさと、そしてそれと共に、あの頃の彼への様々な心が、今、私の中に甦ってくる気がした。そんな心持ちで、私は親しみを込め彼にそう言った。
すると彼は、意外にもちょっと憤慨したような顔をした。
「忘れるわけがない!」
彼はちょっと大声を張り上げた。
そして間髪入れず、なんとこちらが予想だにしないことを言い出した。
「この事は、神の前で二人で確かに誓っただろう? それにな、俺にとってこれは、初恋の人との大事な約束だ。絶対に違えるわけにはいかない!」
「……………え?」
思いもよらぬことを言われ、私は止まった。
―――何?
何のことを言われているのか、良くわからない。
「いや、だからな。俺の方は昔からそうだった、という話だ。君のほうは、違ったか?」
そうではないかと思っていたのだがなあ、と彼は一人でぶつぶつと言った。
初恋の、人。
私はただただ、黙って彼の顔を見るしかなかった。
「よもや、君。実は今まで俺のことを忘れていたか」
そう言いながら、何となくグイと迫り来る杏寿郎さんに、私はとりあえずの言葉を探してみる。
「……いえ、私もずっと忘れないでいましたよ? …いましたけれども! でもあの…これは一体、どういう話?」
「そうか! それなら良いんだ! ところでな、これは君に土産だ!」
話が全く噛み合わない。
それなのに、彼はそれを全く気にする様子もなく、手に持っていた風呂敷包みを戸惑う私の目の前にグイと差し出した。
私は受け取るしかないではないか。
「え…お、お土産?」
「そう、それは瓜だ!」
「…瓜?!」
「うむ! 大丈夫、それは渋くないぞ! うちの畑で作ったものだ。まだちょっと早いかもしれないが、もう少ししたらもっと甘くなる。是非、食べてくれ!」
私はちょっと彼の勢いについて行くことができなかった。でも何故だか、あの苦い瓜の碧が思い出された。
どさりと腕に置かれた包みは、思いの外、重い。
こうして唖然と過ぎる彼との再びの邂逅に、私の頭はずっと混乱していた。
しかし、そんな私を揺さぶり起こすように、境内の木に止まっていた一羽のカラスが、
「カア」
と一声、鋭く鳴いた。
すると杏寿郎さんはその枝を見上げ、カラスに手をあげ小さく頷いた。そしてまた私の方を向き直った。
その時、私は気がついたのだ。
もしかしたら気のせいかもしれないが。
彼は今、少しだけ、顔が赤い。
「すまない。今日は所用の途中こちらに寄ったので、すぐに、行かねばならないんだ! 今日は、君との約束のみを果たしに来た。しかし…君とはまだ積もる話もある。また、改めて来てもいいだろうか?」
彼は、私に一所懸命そう問うた。
そこで私は、初めて少し冷静になって思った。
ああ。
私達が会えなかったこの年月、
貴方の中にも、ちゃんと私がいたのかしら。
私の幼き日の彼への淡い憧憬は、
そう思った瞬間、もっと深く色づいたものへ、変わったような気がした。
私が静かに頷くと、杏寿郎さんは少しホッとしたように微笑んだ。
それから彼は、
「ではまた!」
と言って踵を返した。
「杏寿郎さん!」
何かが始まるような。
そんな気がして、私はとっさに彼の背中を呼び止めた。
薄霧の中、彼は立ち止まり、ゆっくり私を振り向いた。
「その羽織、貴方にとても良く似合っているわ! 思っていたよりも、ずっとずっと! 私は、貴方のその姿を見たいと、ずっと待っていた!」
その言葉に彼は破顔した。
それからちょっと私に手を上げて、再び霧の中に消えて行った。
◇◇◇◇◇
神社の参道の階段を、一気に一番下まで駆け降りた杏寿郎は、はあ、と深いため息をついてしゃがみ込んだ。
そして両手で顔を覆い、小さな声で独りごちた。
「ああ、緊張した。…少し強引すぎただろうか。…いや、でも。こうでもせんと、今さら昔の想いを伝えることなど……。しかし、思い切ってこうして逢いに来てみれば、何だってあんなに直ぐに居るんだ!」
そうして突如伝えた己の言葉に、酷く驚いていた彼女の顔を思い出し、杏寿郎は顔をしかめてさらに赤くする。
それでも、彼女に掛けられた最後の言葉に、杏寿郎の顔が自然に緩むのだった。
けれども、まあ。
時間はかかってしまったが。
すべてはまた、再びここから。
「それにしても、今日の霧は何とも俺に好都合!」
杏寿郎は、嬉しげにキュッと口角を上げた。
そして纏う白の羽織をなびかせて立ち上がった。
それから彼は、彼女のいる神社を背に、
少し薄くなった霧の中を、
勇ましく走っていったのだ。
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