文
伊地知は事務作業の激務で肩の痛みを感じ、和らげようと軽くストレッチがてらに腕を上に伸ばすとバキバキっと音がした。
ひと息つこうとデスクに置かれた缶コーヒーを手に取ると随分と軽く、振ってみればいつの間にか飲み干していたらしく空だった。
「休憩ついでに行きますか」
ガランとしている事務室では誰からも返事はなく少しだけ寂しさを覚えながら、伊地知はさっさと自販機へと行こうと廊下に出ると誰かにドンッとぶつかった。
「うっ!す、すみませーー」
「上司にぶつかるとは良い度胸だね」
「ごごごご五条さん!!」
ーーああ、なんて運が悪いんだ。
伊地知はぶつかってしまった相手を見て、絶望した。
全身真っ黒で、彼の特徴として一番である目隠し。そして、ぶつかった詫びとして何を要求してやろうかという笑顔が似合いすぎる男は伊地知の先輩であり上司である五条悟だった。
「気付かず、すみませんでした」
「この溢れ出る良い男オーラの僕に?」
「つ、疲れてまして」
「ふーん?可哀想にそんなに仕事が忙しいの?」
主に貴方のせいで忙しさが倍増してるんですけどね、と口から零れそうになったのを堪えつつ、伊地知はもう一度「すみませんでした」と深々と謝った。
機嫌を損ねさせたら、もっと無理難題を押し付けられないからだ。
「ま、確かにクマ凄いもんね」
「そうでしょうか?」
「あと、唇荒れてるね」
そう言って五条は伊地知の唇を親指の腹で撫でた。ゾワリと背筋が震えたが、気付いていないのか否か五条はスリスリと撫でてくる。
「ご、五条さん」
「僕は優しいから、リップクリームを塗ってあげよう」
ゴソゴソとポケットを漁って取り出されたリップクリームはピンクを基調とした鮮やかで可愛らしいパッケージだった。
どう見ても女性用の物だ。なぜ、それを選んだのか不思議に思いながらも伊地知の意思はお構いなしに丁寧に塗られていった。
ふんわりと香ってきたのは恐らく柑橘系で、疲れていた事もあって一瞬癒されそうになったが状況的にはそれどころではなかった。
「あ、あの」
リップクリームが塗り終わって満足した五条にやっとの事で声を上げると、どうした?と言わんばかりに不思議そうな顔をしている。
「どう見ても貴方に似合わないですよね、それ」
「あ、これ?釘崎が買ったけど、香りがやっぱり嫌で使ってないからってくれたんだよね」
「そうですか……」
いや、だからと言って貰うのだろうかと思ったがこの男なら何も気にせず使えるものは使うのだろう。
だが、問題はそれだけでなく五条本人が使っているリップクリームを他人ーーしかも、部下であり後輩であり冴えない男相手に塗るだろうか。
いや、普通なら塗らない。どう考えても塗る訳がない。
「えーっと」
「何?まだ何かあるの?」
「私に使っても良かったんですか?」
「別に」
「そ、うですか」
「じゃ、僕は忙しいから行くね」
伊地知はヒラヒラと手を降りながら去っていく五条に呆然としながらも、悪い夢でも見たのだと納得させて当初の目的であった自販機に向かった。
自販機の所へとたどり着くも未だにふわふわとした頭では何を飲むかと決められずに悩んでいると騒がしい声が聞こえてきた。
「あれ?伊地知さんだ!おーい!!」
ぶんぶんと遠くから手を振るのは虎杖だった。側には控えめな会釈をする伏黒と虎杖と同じように手を振る釘崎も居た。
「珍しいね、こんなところで」
「ええ、少し気分転換も兼ねて」
「伊地知さんも大変だもんね。五条先生に振り回されてさ」
「あの人は遠慮なんてものをしないからな」
「そー!そー!」
「ははっ」
言いたい放題に言われているが全くその通りなので否定も出来ないが、こうやって軽口を叩くのはそれだけ慕われているという事だろうと伊地知は思った。
「伊地知さんもたまには断ってもーー。んん?」
「ど、どうしました?虎杖君」
急にクンクンと何かを嗅ぐように首を傾げる虎杖はそれを確かめようとじりじりと伊地知に近付いた。
「五条先生と同じ匂いがする」
「はい!?」
「うん、やっぱり同じ匂いだ」
「え?何々?加齢臭?」
「それは伊地知さんに失礼だろ」
ーー今の五条さんが聞いたら泣くのでは?とツッコミを入れたくなった瞬間、「あ!」と釘崎が声を張り上げた。
「リップクリームよ!私が押し付……あげたやつと同じよ!!」
「そうなの?」
「うん、香りが好きじゃないやつだったから覚えてるわ」
「どうして、伊地知さんからしてるんだ?」
「えっあっいや、その、これは」
正直に言える訳がなかった。子供じみた言い方をすると間接キスをしたようなもので、この3人の教師である男と現場を共にした事の多い補助監督の男がリップクリームで間接キスをした事実を聞かせるなんて教育に悪すぎる。
伊地知は何とかこの場を切り抜けられないかといつも以上に脳ミソをフル回転させた。
「こ、これはですね」
「おっや~?何してんの?」
「あ!五条先生じゃん!」
「あ!じゃないよ君たち、何か忘れてない?」
「何かってーー。あっ」
伏黒は「先輩達との約束」と呟いた。
それを聞いた虎杖と釘崎は「ヤバい!!」と口を揃えて叫ぶと駆け出して行った。
それを追うように駆け出した伏黒は伊地知に先程と同じように会釈をして去っていった。
「元気、ですね」
「それより、伊地知さ」
「はい」
「僕が来なかったらどうしてたの?」
「そそそそそれは」
「良かったね、僕がほーんと優しくてさ」
ケラケラと笑いながら自販機でお汁粉を買っているが、そもそもの原因を作ったのは五条である。勿論、そんな事を言ったらマジビンタされるのがオチなので伊地知は言葉を飲み込んだ。
「あんな事、他の人にもしないでください。通報されかねませんよ?」
「する訳ないじゃん」
「貴方ならやりかねないからです」
「伊地知だけだよ」
「また、貴方はそうやってからかってーー」
効果は無くとも恨みがましく睨んでやろうかと五条の顔を見ると、普段の茶化すような雰囲気ではなかった。
その様子にゴクリと唾を飲み込み、たじろぐと逃がさないと言わんばかりに詰め寄ってくる。
「あっあの、五条さん」
「唇から同じ香りがするなんて、キスしたみたいだよね」
「はっ!?」
「なーんてね!」
パッと伊地知を解放するように離れる五条は普段通りだった。
「早く伊地知も仕事戻れよ。僕からの頼み事も早くね」
「わ、解ってますよ」
「終わったら御褒美に今度は本当にしてやるからさ」
「なっ……!!」
伊地知が反論する前に五条は逃げるように消えていた。
一人残された伊地知は腰が抜けたのかズルズルとその場に座り込むと「ズルい人だ」とぼやいた。
ひと息つこうとデスクに置かれた缶コーヒーを手に取ると随分と軽く、振ってみればいつの間にか飲み干していたらしく空だった。
「休憩ついでに行きますか」
ガランとしている事務室では誰からも返事はなく少しだけ寂しさを覚えながら、伊地知はさっさと自販機へと行こうと廊下に出ると誰かにドンッとぶつかった。
「うっ!す、すみませーー」
「上司にぶつかるとは良い度胸だね」
「ごごごご五条さん!!」
ーーああ、なんて運が悪いんだ。
伊地知はぶつかってしまった相手を見て、絶望した。
全身真っ黒で、彼の特徴として一番である目隠し。そして、ぶつかった詫びとして何を要求してやろうかという笑顔が似合いすぎる男は伊地知の先輩であり上司である五条悟だった。
「気付かず、すみませんでした」
「この溢れ出る良い男オーラの僕に?」
「つ、疲れてまして」
「ふーん?可哀想にそんなに仕事が忙しいの?」
主に貴方のせいで忙しさが倍増してるんですけどね、と口から零れそうになったのを堪えつつ、伊地知はもう一度「すみませんでした」と深々と謝った。
機嫌を損ねさせたら、もっと無理難題を押し付けられないからだ。
「ま、確かにクマ凄いもんね」
「そうでしょうか?」
「あと、唇荒れてるね」
そう言って五条は伊地知の唇を親指の腹で撫でた。ゾワリと背筋が震えたが、気付いていないのか否か五条はスリスリと撫でてくる。
「ご、五条さん」
「僕は優しいから、リップクリームを塗ってあげよう」
ゴソゴソとポケットを漁って取り出されたリップクリームはピンクを基調とした鮮やかで可愛らしいパッケージだった。
どう見ても女性用の物だ。なぜ、それを選んだのか不思議に思いながらも伊地知の意思はお構いなしに丁寧に塗られていった。
ふんわりと香ってきたのは恐らく柑橘系で、疲れていた事もあって一瞬癒されそうになったが状況的にはそれどころではなかった。
「あ、あの」
リップクリームが塗り終わって満足した五条にやっとの事で声を上げると、どうした?と言わんばかりに不思議そうな顔をしている。
「どう見ても貴方に似合わないですよね、それ」
「あ、これ?釘崎が買ったけど、香りがやっぱり嫌で使ってないからってくれたんだよね」
「そうですか……」
いや、だからと言って貰うのだろうかと思ったがこの男なら何も気にせず使えるものは使うのだろう。
だが、問題はそれだけでなく五条本人が使っているリップクリームを他人ーーしかも、部下であり後輩であり冴えない男相手に塗るだろうか。
いや、普通なら塗らない。どう考えても塗る訳がない。
「えーっと」
「何?まだ何かあるの?」
「私に使っても良かったんですか?」
「別に」
「そ、うですか」
「じゃ、僕は忙しいから行くね」
伊地知はヒラヒラと手を降りながら去っていく五条に呆然としながらも、悪い夢でも見たのだと納得させて当初の目的であった自販機に向かった。
自販機の所へとたどり着くも未だにふわふわとした頭では何を飲むかと決められずに悩んでいると騒がしい声が聞こえてきた。
「あれ?伊地知さんだ!おーい!!」
ぶんぶんと遠くから手を振るのは虎杖だった。側には控えめな会釈をする伏黒と虎杖と同じように手を振る釘崎も居た。
「珍しいね、こんなところで」
「ええ、少し気分転換も兼ねて」
「伊地知さんも大変だもんね。五条先生に振り回されてさ」
「あの人は遠慮なんてものをしないからな」
「そー!そー!」
「ははっ」
言いたい放題に言われているが全くその通りなので否定も出来ないが、こうやって軽口を叩くのはそれだけ慕われているという事だろうと伊地知は思った。
「伊地知さんもたまには断ってもーー。んん?」
「ど、どうしました?虎杖君」
急にクンクンと何かを嗅ぐように首を傾げる虎杖はそれを確かめようとじりじりと伊地知に近付いた。
「五条先生と同じ匂いがする」
「はい!?」
「うん、やっぱり同じ匂いだ」
「え?何々?加齢臭?」
「それは伊地知さんに失礼だろ」
ーー今の五条さんが聞いたら泣くのでは?とツッコミを入れたくなった瞬間、「あ!」と釘崎が声を張り上げた。
「リップクリームよ!私が押し付……あげたやつと同じよ!!」
「そうなの?」
「うん、香りが好きじゃないやつだったから覚えてるわ」
「どうして、伊地知さんからしてるんだ?」
「えっあっいや、その、これは」
正直に言える訳がなかった。子供じみた言い方をすると間接キスをしたようなもので、この3人の教師である男と現場を共にした事の多い補助監督の男がリップクリームで間接キスをした事実を聞かせるなんて教育に悪すぎる。
伊地知は何とかこの場を切り抜けられないかといつも以上に脳ミソをフル回転させた。
「こ、これはですね」
「おっや~?何してんの?」
「あ!五条先生じゃん!」
「あ!じゃないよ君たち、何か忘れてない?」
「何かってーー。あっ」
伏黒は「先輩達との約束」と呟いた。
それを聞いた虎杖と釘崎は「ヤバい!!」と口を揃えて叫ぶと駆け出して行った。
それを追うように駆け出した伏黒は伊地知に先程と同じように会釈をして去っていった。
「元気、ですね」
「それより、伊地知さ」
「はい」
「僕が来なかったらどうしてたの?」
「そそそそそれは」
「良かったね、僕がほーんと優しくてさ」
ケラケラと笑いながら自販機でお汁粉を買っているが、そもそもの原因を作ったのは五条である。勿論、そんな事を言ったらマジビンタされるのがオチなので伊地知は言葉を飲み込んだ。
「あんな事、他の人にもしないでください。通報されかねませんよ?」
「する訳ないじゃん」
「貴方ならやりかねないからです」
「伊地知だけだよ」
「また、貴方はそうやってからかってーー」
効果は無くとも恨みがましく睨んでやろうかと五条の顔を見ると、普段の茶化すような雰囲気ではなかった。
その様子にゴクリと唾を飲み込み、たじろぐと逃がさないと言わんばかりに詰め寄ってくる。
「あっあの、五条さん」
「唇から同じ香りがするなんて、キスしたみたいだよね」
「はっ!?」
「なーんてね!」
パッと伊地知を解放するように離れる五条は普段通りだった。
「早く伊地知も仕事戻れよ。僕からの頼み事も早くね」
「わ、解ってますよ」
「終わったら御褒美に今度は本当にしてやるからさ」
「なっ……!!」
伊地知が反論する前に五条は逃げるように消えていた。
一人残された伊地知は腰が抜けたのかズルズルとその場に座り込むと「ズルい人だ」とぼやいた。
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