数式と温泉(ビッグボディ×フェニックス)

ゴン、と鈍い音がした。リビングのほうだ。一体何の音なのかとビッグボディが足を運ぶと、両手で額を押さえたフェニックスが、ドアの前でしゃがみ込んでいた。
「ど、どうした!?」
「……ドアに、ぶつかった」
フェニックスは今朝から様子がおかしかった。何をしていても上の空で、ブツブツと小声で何かつぶやき続けて、ビッグボディが理由をたずねると、夜中に思いだした数式がどうしても解けないのだ、という。その態のまま用事でも思いついたのだろう、立って、歩いて――半開きになっていたドアにぶつかったらしい。
ビッグボディはフェニックスをソファに座らせると、ぬれタオルを作り、打撲で赤らんだ額の紋章にあててやった。
「このまま冷やしてろ」
「すまん」
読書とか、あるいはキーボードを叩くとか、何かに夢中になって心ここにあらずということはフェニックスにもまれにある。だけど必要なときは瞬時に頭を切り替えられるし、そもそも桁違いに優れた彼の頭脳が、たった一つのタスクで処理落ちするなど本来あり得ないのだ。
「夏のあいだ、ずっと暑かったから疲れてるんだろう。お前は体力もないほうだし」
「それは誰かさんと比べたらの話だろう」
苦笑いをうかべたフェニックスの言う通り、ビッグボディを基準にしたら誰もが虚弱体質だ。それでも確かに季節の変わり目のせいか、いつもに比べると身体が重いような気はしていた。
「なあフェニックス、温泉でも行って少し休まないか?」

あのあとビッグボディは「オレに任せておけ」といって、あっという間に段取りをたてた。彼が選んだのは山あいの宿であったため、移動はクルマ一択となった。
当日、フェニックスの操るルミナスサンドメタリックのボルボV90は朝の早い時間に首都圏を抜け、ハイウェイを降りた。そこから国道を経て、昼近くになって山道を登っていた。道中の天気は上々で、陽ざしの差しこむ車内はむしろ暑いくらいだ。
ビッグボディも免許は所持しているが、その巨躯ゆえに運転の際に不都合が生じるため、ほとんどの場合、ハンドルはフェニックスが握っている。
ようやっと旅館にたどり着き、未舗装の駐車場にクルマを乗り入れると、ぶつかり合った玉石がジャリジャリ音をたてた。建物の玄関先では季節外れの朱いカンナが過ぎた夏を惜しんでいる。宿は外観に劣らず、内装もまた年月を感じさせるつくりで、廊下の端にはどこかの商店の屋号が記された姿見が据えられていた。
通された部屋は二十畳ほどの和室で、中央に大きな座卓があり、夜はそれを部屋の隅に寄せて床を延べるのだろう。家ではベッドに並んで寝ているが、二人が使っているベッドは縦横の幅を思いきり広くとった特注品で、既製品のベッドだとツインですらビッグボディの巨体が収まるかどうか怪しい。それならいっそ今日のように布団を何枚か敷いて休むほうがまだマシというものだ。そうすれば寝ぼけて床に落ちることもない。

荷物をといた二人はさっそく風呂にむかった。
脱衣所で服を脱ぎすて(もちろんマスクはかぶったままだ)、浴室の引き戸を開けると、一面に湯けむりが立ちこめていた。シャワーで身体を流し、さっそく露天風呂に向かう。岩塊を組みあげて作られた湯船に竹の樋が差しかけられ、そこから流れこむ源泉のおだやかな水音が風情をかもし出していた。
ビッグボディが湯に足をさし入れると、いくつものさざ波がたった。フェニックスもあとに続く。
「あぁ、なんていい気持ちなんだ!」
ビッグボディは首もとまで湯に沈んで手足を大きく伸ばした。いつもは体育座りでもするように膝をかかえて湯船につかっているのだから、まさに天国だろう。フェニックスもまた肩までつかり、久しぶりの温泉に全身が温まるとともに心までほぐれていくのを感じていた。
フェニックスは王位争奪戦のインターバル期間に、マンモスマンにすすめられて生まれて初めて温泉に行った。そこで見るもの食べるものは何もかもが豊かで珍しく、彼はその体験をとても気にいって、今でもフェニックスは温泉が好きなのだった。

ふいに内湯に続くドアが開き、、年端もいかない子どもが姿を現した。彼はビッグボディの姿を見るなり「おっきい!」と叫んだ。実際その通りなので気を悪くすることもなく、ビッグボディはあいさつ代わりに手をふった。すると、子どもはザブザブと湯をかき分け二人のそばにやって来て、ざぶんと湯につかった。
「一人かい?」
「ううん、パパがいる」
ビッグボディの問いかけにハキハキも答えるあたり、物おじしない性格のようだ。
フェニックスはその様子を見ていつもながら面倒見のいいことだと思った。
ハッキリ言ってビッグボディは目立つ。街なかにいても周囲に比べ頭一つ――いや二つか三つ分背が高いうえに、ごく目立たない装いでも、顔や首、手の肌がビビッドピンクをしているのだから、当然といえば当然だ。そしてそのせいで、何か困ったことがあったり、助けてほしい人が、すぐ彼に近寄ってくる。それでまた、そういう相手に頼まれると、性分ゆえにそれを断れないのがこの男なのだった。
「ひーくん、どこだ?」
向こうで父親らしき声が聞こえた。果たしてその声に子どもは「ぼくここ!」と大きな返事を返し、若い男が姿を現した。彼は息子のとなりに二人の超人がいることに気がつくと、一瞬驚いた表情を浮かべたが「おくつろぎのところにすみません」と頭を下げ、子どもを連れていった。
「元気のいい子だ」
「お前はいつも子どもや動物に好かれるな」
「根が単純だからな、分かるんだろう」
「そんなつもりで言ったわけじゃない」
「分かってるさ。でも、オレにもお前にも、あんな頃があったんだもんな……なぁフェニックス、オレは今でも不思議なんだが、何で王妃様はあんな、オレたちみたいな庶民が通う病院で産んだんだろう。お抱えの医者がいくらでもいただろうに」
ビッグボディの言うとおり、あの日、あの場所で王家の嫡男が産まれたことで、運命の歯車が回りだしたのだ。
「オレも気になって、調べたことがある。あれは、当時の政策だったらしい」
キン肉族はずい分長いあいだ政情不安が続いていた。それを平らかにし、世の安定を築いたのが第56代大王キン肉タツノリだった。彼は「治世において王は民に寄りそい、能くその暮らしを理解しなければならない」ととなえた。第57代王妃が我が子を出産する際に、キン肉星第8病院を選んだのも、その教えに従った結果であった。
「なるほどね、それならオレたちを引き合わせたのも、先々代の王様ってことか。それにしても、お前はほんと何でもよく知っている……っていうか、知らずにはいられないんだな。だから、きっと、あんなふうに疲れちまうんだろう」
ビッグボディは空を見上げながら感じ入ったようにつぶやいた。
のぼせる寸前で湯からあがった二人は脱衣所で浴衣に手を通した。と、いってもサイズが合うのはフェニックスだけで、ビッグボディは「浴衣を着てこそ温泉気分が味わえるのに」とブツクサ言いながら持参したTシャツとショートパンツを身につけた。
フェニックスは着替えをしているビッグボディを横目で盗み見た。すっかり温まったピンクの肌からほんのり湯気がたち、なぜだか妙になまめかしさを感じた彼はあわてて目をそらした。
(――何を考えているんだ、オレは)
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