長坂編【全3話】
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夜になり、行軍をやめ、各々が幕舎で休むころ。
趙雲が巡回を交代して陣に戻る途中。
月の光を明りにして何やら熱心に読んでいる○を見かけた。
人目に触れないようにコソコソしていて、見回りの為に警戒していないと見つけられなかったかもしれない。
「……○。こんな夜更けに何をしている。明日も歩き続けだ。早く寝なさい」
背後から声をかけると○は振り返った。
その手には月明かりの下でもはっきりと分かるほど、びっしりと文字の書き込まれた書付。
「あ……子龍様。ちょうどいいところに」
そう言った○に趙雲が近づく。
「子龍様は、私に『甘い言葉』をくれません。……月英さんのお話では、あの軍師の諸葛亮殿ですら、二人きりの時には月英さんにそれはそれは甘いお言葉を贈るというのに……」
「諸葛亮殿が……?」
趙雲は思わず絶句する。
あの、常に涼しい顔で天下を語る男が、妻の前でどのような顔をして甘言を告げるのか。
”聞いてはいけない他人の夫婦事情を聞いてしまった”という、気まずさが胸をかすめる。
「それは聞かなかったことにしよう。……それで。その、何やら怪しげな書付は一体何だ」
「これですか?月英さんと周倉さんに教わったものです。どれがいいか悩んでいましたが…ご本人に決めて頂こうかな」
そう言うと、「はい。どれでも選んで言ってみてください」と渡される。
それを見て趙雲の目はこれ以上ないほど大きく見開かれた。
『あなたの瞳は、戦場の篝火よりも私の心を熱く焦がす……』
『血に濡れた手であろうと、あなたを抱くことを許してくれ……』
『その細い腰を抱き寄せるたびに…』
「……なっ、なんだ、これは。これではまるで、房中書ではないか……!」
「ぼうちゅうしょ…?それは何ですか?」
「いや…それも考えなくていい」
本来なら思春期に同年代の子と話す内に知る様な事を、汗臭い暮らしに身を置いていた○はあまり知らないのだと察した。
”若いうちに遊んでおけ”というのもあながち間違っていない。
「月英さんは『これが王道よ』と仰っていました。こんなものなのではないのですか?」
「何を真剣に話し合っていたかと思えば…こういったものは少しずつ経験して知っていくもので…」
「今がその”経験”をしている時です」
「………余計な事を学ぶのはやめなさい」
「余計な事ではありません!凄く楽しかったです。試しに周倉さんにいくつか読んでいただきましたが、それでもドキドキしました…!でもやっぱり子龍様の声で聞きたくて」
「……周倉に……?」
趙雲の眉がピクリと跳ね上がる。
「一つだけでいいので、どれか言ってみてくださいませんか?」
しかし趙雲は眉間にしわを寄せると、その書付を握りつぶした。
「誰が考えたかも分からぬ借り物の言葉など、意味がないとは思わないのか?第一、今は行軍の真っ最中だ。軍機を乱してはならない」
「あらら…勿体ない。折角教えていただいたのに」
○は残念そうに口を尖らせたが、不意に何かを思い出すような顔になる。
「……でも、こんなに楽しいお話を、村の女の子たちは毎日していたのですね。私、そんなことも知らずに兄たちと稽古をするばっかりで何も知らなくて」
そう言って趙雲を見る。
「六歳のあの日。村で子龍様を初めて見た時……私の心には、まるで雷が落ちたような衝撃が走ったんです。この先、この人以外にはいないって。本当はあの影踏み、十五になるまでしてはいけなかったんです。だけど私は我慢できなくて。……子龍様にとっては…ご迷惑だったかもしれませんが」
月明かりに照らされた○の横顔は、いつもの天真爛漫な彼女ではなかった。
趙雲はその言葉を聞き、突き動かされるように彼女の隣へ歩み寄る。
「雷が落ちた、か…とんでもない衝撃だったろうな、それは」
彼女にとっての十二年は、単なる執着ではなく、その一瞬の衝撃を信じ続けた果てにあったのだ。
「○には、父も兄も世話になったし感謝もしているが、しかしやはり、その気持ちに応えることは出来ない」
「…」
「だがもう、勝手に出て行ったり、置いて行ったりはしない。それは約束する」
「子龍様……」
二人の間には沈黙が流れた。
月明かりの下。
○は「今こそ!」と言わんばかりに、月英に教わった通りにそっと目を閉じ、わずかに顎を引いて、その時を待った。
夜風に震える睫毛、期待に染まった頬。
しかし、返ってきたのは甘い感触ではなく、趙雲の深い深いため息。
「…………。○、いい加減にしなさい」
○が目を開けると、困った様に頭を抱えている趙雲がいた。
「甘い言葉の作法も知らぬと言いながら、なぜそうした誘い方だけは一人前に知っているのだ。誰に教わった。全く……呆れて物も言えん」
「ちぇっ……今なら、いい雰囲気だと思ったのに」
舌打ちをしてぷいっと横を向いた○は、いつもの彼女に戻っていた。
趙雲はその様子を横目で見ながら、ふっと口元を緩める。
呆れているのは本心だ。
けれど、その厄介さが、自分の心をどれほど温めてきたか。
「……長坂の、あの地獄のような泥沼の中で。貴殿の姿を見つけた時……。不謹慎にも、私は少しだけ嬉しかった」
あの時、趙雲は確かに「なぜここに!」と狼狽した。
こんな所にまでついてきた○に呆れたし、戦場から遠ざけたかったのにと苛立ちもした。
けれどその驚きの裏側にあったのは、絶望的な孤独の中、唯一自分のすべてを知る者が現れたことへの、救いのような安堵感だった。
「追ってきてくれて、ありがとう」
趙雲は、○の目を見ようとしない。
○はニッコリ微笑んだ。
「…今のが一番、甘い言葉でしたね」
そういうと趙雲の腕をぎゅっと抱きしめる。
趙雲は「離せ」と口では言うものの、抱きつかれた腕を引き抜こうとはしなかった。
趙雲が巡回を交代して陣に戻る途中。
月の光を明りにして何やら熱心に読んでいる○を見かけた。
人目に触れないようにコソコソしていて、見回りの為に警戒していないと見つけられなかったかもしれない。
「……○。こんな夜更けに何をしている。明日も歩き続けだ。早く寝なさい」
背後から声をかけると○は振り返った。
その手には月明かりの下でもはっきりと分かるほど、びっしりと文字の書き込まれた書付。
「あ……子龍様。ちょうどいいところに」
そう言った○に趙雲が近づく。
「子龍様は、私に『甘い言葉』をくれません。……月英さんのお話では、あの軍師の諸葛亮殿ですら、二人きりの時には月英さんにそれはそれは甘いお言葉を贈るというのに……」
「諸葛亮殿が……?」
趙雲は思わず絶句する。
あの、常に涼しい顔で天下を語る男が、妻の前でどのような顔をして甘言を告げるのか。
”聞いてはいけない他人の夫婦事情を聞いてしまった”という、気まずさが胸をかすめる。
「それは聞かなかったことにしよう。……それで。その、何やら怪しげな書付は一体何だ」
「これですか?月英さんと周倉さんに教わったものです。どれがいいか悩んでいましたが…ご本人に決めて頂こうかな」
そう言うと、「はい。どれでも選んで言ってみてください」と渡される。
それを見て趙雲の目はこれ以上ないほど大きく見開かれた。
『あなたの瞳は、戦場の篝火よりも私の心を熱く焦がす……』
『血に濡れた手であろうと、あなたを抱くことを許してくれ……』
『その細い腰を抱き寄せるたびに…』
「……なっ、なんだ、これは。これではまるで、房中書ではないか……!」
「ぼうちゅうしょ…?それは何ですか?」
「いや…それも考えなくていい」
本来なら思春期に同年代の子と話す内に知る様な事を、汗臭い暮らしに身を置いていた○はあまり知らないのだと察した。
”若いうちに遊んでおけ”というのもあながち間違っていない。
「月英さんは『これが王道よ』と仰っていました。こんなものなのではないのですか?」
「何を真剣に話し合っていたかと思えば…こういったものは少しずつ経験して知っていくもので…」
「今がその”経験”をしている時です」
「………余計な事を学ぶのはやめなさい」
「余計な事ではありません!凄く楽しかったです。試しに周倉さんにいくつか読んでいただきましたが、それでもドキドキしました…!でもやっぱり子龍様の声で聞きたくて」
「……周倉に……?」
趙雲の眉がピクリと跳ね上がる。
「一つだけでいいので、どれか言ってみてくださいませんか?」
しかし趙雲は眉間にしわを寄せると、その書付を握りつぶした。
「誰が考えたかも分からぬ借り物の言葉など、意味がないとは思わないのか?第一、今は行軍の真っ最中だ。軍機を乱してはならない」
「あらら…勿体ない。折角教えていただいたのに」
○は残念そうに口を尖らせたが、不意に何かを思い出すような顔になる。
「……でも、こんなに楽しいお話を、村の女の子たちは毎日していたのですね。私、そんなことも知らずに兄たちと稽古をするばっかりで何も知らなくて」
そう言って趙雲を見る。
「六歳のあの日。村で子龍様を初めて見た時……私の心には、まるで雷が落ちたような衝撃が走ったんです。この先、この人以外にはいないって。本当はあの影踏み、十五になるまでしてはいけなかったんです。だけど私は我慢できなくて。……子龍様にとっては…ご迷惑だったかもしれませんが」
月明かりに照らされた○の横顔は、いつもの天真爛漫な彼女ではなかった。
趙雲はその言葉を聞き、突き動かされるように彼女の隣へ歩み寄る。
「雷が落ちた、か…とんでもない衝撃だったろうな、それは」
彼女にとっての十二年は、単なる執着ではなく、その一瞬の衝撃を信じ続けた果てにあったのだ。
「○には、父も兄も世話になったし感謝もしているが、しかしやはり、その気持ちに応えることは出来ない」
「…」
「だがもう、勝手に出て行ったり、置いて行ったりはしない。それは約束する」
「子龍様……」
二人の間には沈黙が流れた。
月明かりの下。
○は「今こそ!」と言わんばかりに、月英に教わった通りにそっと目を閉じ、わずかに顎を引いて、その時を待った。
夜風に震える睫毛、期待に染まった頬。
しかし、返ってきたのは甘い感触ではなく、趙雲の深い深いため息。
「…………。○、いい加減にしなさい」
○が目を開けると、困った様に頭を抱えている趙雲がいた。
「甘い言葉の作法も知らぬと言いながら、なぜそうした誘い方だけは一人前に知っているのだ。誰に教わった。全く……呆れて物も言えん」
「ちぇっ……今なら、いい雰囲気だと思ったのに」
舌打ちをしてぷいっと横を向いた○は、いつもの彼女に戻っていた。
趙雲はその様子を横目で見ながら、ふっと口元を緩める。
呆れているのは本心だ。
けれど、その厄介さが、自分の心をどれほど温めてきたか。
「……長坂の、あの地獄のような泥沼の中で。貴殿の姿を見つけた時……。不謹慎にも、私は少しだけ嬉しかった」
あの時、趙雲は確かに「なぜここに!」と狼狽した。
こんな所にまでついてきた○に呆れたし、戦場から遠ざけたかったのにと苛立ちもした。
けれどその驚きの裏側にあったのは、絶望的な孤独の中、唯一自分のすべてを知る者が現れたことへの、救いのような安堵感だった。
「追ってきてくれて、ありがとう」
趙雲は、○の目を見ようとしない。
○はニッコリ微笑んだ。
「…今のが一番、甘い言葉でしたね」
そういうと趙雲の腕をぎゅっと抱きしめる。
趙雲は「離せ」と口では言うものの、抱きつかれた腕を引き抜こうとはしなかった。