長坂編【全3話】
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長坂の戦いから数日。
劉備達一行は夏口に向かっていた。
「よぉ、趙雲!『お嫁さん』は元気にやってるか?」
行軍の最中、馬を引きながら歩いていると、豪快な笑い声を上げながら近づいて生きたのは張飛。
その隣には大きな荷物を担いだ周倉もニヤニヤしながら立っている。
「全く、隅に置けないですよねぇ、趙雲殿。こんな殺伐とした軍中に奥様を連れてこられるなんて。男衆はみんな羨ましがってますぜ。我が軍は女日照りですからねぇ」
周倉はしみじみと言う。
実のところ、彼は趙雲のあまりに隙のない厳格さに、少しばかり気後れを感じていた一人だ。
しかし○が来てからの趙雲は人間味のある困り顔を見せることが増え、以前よりもずっと話しやすくなったと感じていた。
当の趙雲は深いため息をつく。
「……貴殿らは、何も分かっておらぬのです。そんな色っぽい話ではなく…あやつは恐ろしい」
「 恐ろしい? あの小娘がか?」
張飛と周倉が顔を見合わせる。
数万の敵軍を前にした時すら、そんな事は言わない趙雲に驚く。
「少しでも他の女人と口をきこうものなら、どこからともなく現れて『浮気だ』『不埒』だと騒ぎ立てる…私にとっては恐ろしく辛い事なのです…思い込みが激しくて話も聞かず、ほとほと参っています」
眉間を抑えて苦しそうな趙雲。
「まぁ、常々規律正しくいようとする趙雲殿にとっては、言葉だけでも辛いんですかねえ。別に悪さしてないなら、俺は何言われても平気ですがねぇ」
「そうだな。どこかに邪な気持ちがあるから効いてんじゃねえか?」
二人に正論を言われる。
そんな事は分かっているが、○の執拗さといつも見られているような束縛感。
そしてあの騒ぎ方の面倒くささは当事者にしかわからないのかもしれない。
きっと彼らには「ただのヤキモチ」にしか見えていない。
「彼女、拳法の免許皆伝ですって?」
「らしいが、実際に使っているのは見たことがない。戦い方は滅茶苦茶だ」
「というと?」
「村にいた頃、彼女の”野盗退治”を見たのだが…戦いぶりはもはやチンピラだ。そこらの石を握りこんで殴ったり、倒れた男の頭を蹴飛ばしたり馬乗りになったり…どちらが野盗か分からなかった。喧嘩慣れし過ぎている。得体のしれない女だ」
想像がつかないその姿に、周倉と張飛は顔を見合わせた。
「へえ…というか趙雲殿。結局“お嫁さん”ではないってことですかい? あんなに仲睦まじく、死線を越えてきたっていうのに」
周倉が不思議そうに首を傾げると、趙雲は食い気味に否定した。
「当然だ! ずっと否定しているだろう!そもそもは、十二年前に一方的に交わされた約束を盾にしているだけだ!」
趙雲は、「影踏み」の顛末を、半ば愚痴るように話した。
幼い頃のたった一度の出来事を十二年間も温め続け、あろうことか勝手に「妻」を名乗り実家に居座り、さらには戦場まで追いかけてきた。
そのあまりにも一途で狂信的な○の話。
「……というわけだ。あれが勝手に押しかけてきただけで、私は一度として正式に求婚などしていないし、これからもするつもりはない。それだって何度も言っているが、曲解したりで聞いてくれない」
趙雲が言い切った瞬間、隣で話を聞いていた周倉が「あーっ!!」と天を仰いで頭を抱える。
「なんてこった! もし俺が、十二年前にその場所にいたならば! 俺が影を踏んでいれば、今頃、あの子と俺が結婚していたかもしれないってことですか!どこにあるんです、その村は!」
「周倉、貴殿は何を言っている……」
「贅沢すぎますよ!一途に想い続けてくれて、置いて行かれても泣いたり臥せったりせずに戦場まで追いかけてきてくれる女なんて、この乱世に二人といませんぜ!ああ、羨ましい!今から上書きできねえもんか…」
趙雲は、自分の困惑が全く理解されず、むしろ「羨望」の対象になっていることに、さらに深い溜息をつく。
そういえば村でもこんな事を言われていた。
嫁がつかない男衆などは村の場所を何度も聞きに来たものだ。
影踏みをするかどうかは、あくまでも女性に決める権利があると聞いて引き下がっていったが。
「あの圧迫感が分からないのだろうな…少しでも隙を見せれば、私の性格を理解した上で、すぐにでも既成事実を作ろうと虎視眈々と狙っているのだぞ」
眉間にしわを寄せながらそっと自分の唇に触れる趙雲に、周倉はある日の夜に見かけた光景を思い出す。
「唇を狙われてるんですね、趙雲殿…」
「皆様。なんのお話です?楽しそうですね」
ひょっこりと顔を出したのは、いつの間にか背後にいた○。
”いきなり現れる”とはこの事か。
周倉は飛び上がって驚くが、すぐに持ち前のいたずら心を顔に出す。
「いやいや、○さん。ちょうど趙雲殿の話をしてたんですよ。…隅におけない人だなぁと思ってね。こんなに可愛くて尽くしてくれるお嫁さんがいながら、まさか、あんな人と……おっと、これは言っちゃ駄目なヤツだった」
周倉はわざとらしく口を押さえ、チラリと趙雲に視線を走らせる。
この文脈で「あんな」という言葉が指す、「ありもしない女性の影」を匂わせた悪戯。
○がサッと趙雲を見た。
「……子龍様。今の『あんな……』というのは、一体何のことでしょう? 心当たりがおありですか?」
「何のことだ? さっぱり分からん」
趙雲はその悪戯に気付いていないのか、(あんなって何だ?)という顔。
彼にとって、周倉の言葉は「意味不明な世間話」にしか聞こえていない。
「周倉、貴殿は何を言っているのだ。…ああ、もしかして先程の、馬を引くのを手伝ってくれた兵のことか?彼がどうかしたか」
「いやぁ、……そうじゃなくてですね……」
周倉はあまりの鈍感さに頭を抱える。
しかし、その趙雲の態度が、○からすればますます怪しい。
「もう!ちょっと目を離すとすぐこれなんですから!今度はどこの女を引っかけたんですか!」
「引っかける!?」
「すぐに鼻の下を伸ばして強く断らないから女性が寄ってくるんですよ」
「伸ばした事などない!」
しかし○は「悔しい!」と趙雲の胸に飛び込むと、その胸板を叩く。
一見かわいらしく見えるそれだが、力の強い○の”叩く”はなかなかのものだ。
ドン、ドン、と音がするし、趙雲の身体も少し揺れている。
常人なら結構痛そうだ。
「周倉、早く誤解を解いてくれ。貴殿のせいで私が謂れのない暴力を受けている…こうなるとしつこい」
「あ、いや……すんません」
と周倉は○に話しかけた。
「○さん、今の話は全部俺の作り話です! 趙雲殿は本当に、四六時中槍を磨くか馬を洗うかしかしてません! あんまり羨ましかったもんで、ちょっとからかってやろうと思っただけなんです!」
その言葉を聞いた途端、○の拳がぴたりと止まる。
趙雲は「ふぅ……」と安堵の溜息をつき、乱れた襟元を整えようとしたが、その際、引いていた馬につけていた荷物に腕が当たり、いくつか物が落ちる。
その中に、なにやら小さな手紙がひとつ。
○が拾うのを手伝おうとしゃがみこむと、文面が見えるように畳まれていたせいで書かれていた内容が丸見えだった。
趙雲が咄嗟に拾い上げたがもう遅い。
「あ、○。これは…」
先程の余裕の態度は消え失せて、何やらコソコソした態度で話す趙雲。
いつにないその姿に、張飛と周倉は首を傾げた。
既に○はその”太守の娘からの恋文”を見てしまっている。
「…この二年で、この様な文のやり取りをするほどに、親密な方が出来たんですね」
「いや、これは先方が勝手に…」
「不要なら捨てればいいじゃないですか」
「相手の立場もある。その辺には捨てられぬだろう」
「私には居場所一つ教えずに出て行って、手紙なんてくれたこともないのに…やっと追いついたと思ったらこんな…!――もう!」
プリプリと背を向けて去って行く○。
趙雲は慌てて周倉に馬を任せると、誤解を解こうとその背中を追う。
そんな彼の姿を見送った周倉と張飛。
「あんな調子じゃ、そりゃ『押しかけ女房』がまかり通っちまうよな」
「本当に。結局あんなに必死で説明しちゃって、まぁ」
「趙雲は押しに弱かったんだな!」
そういう張飛に、周倉は(それだけじゃないだろうな)と思う。
確かに趙雲は女性相手だと強く言えない様で、女性にどれだけ距離を詰めて話しかけられても穏やかに微笑んで、突き放したりはしない。
しかし○に対しての趙雲は、拒絶する言葉や態度が多く最初は皆おどろいていた。
それとは裏腹に、どこか暖かいものも感じる。
本人は自覚しているのか、あるいは認めたくないだけなのか。
結婚をする気はないというのは本心だろう。
二度と会わないつもりで故郷に置いてきたと言うのだから間違いない。
しかしその相手が再び目の前に現れて、彼の心境に変化をもたらす可能性もある。
周倉は隊列の少し前の方で、○に何やら話しかけている趙雲の横顔を見て、二人の距離感を想像していた。
行軍の最中。
束の間の休息が訪れると、そこには関羽たちにとってはいつもの光景があった。
関羽の傍らを、大きな荷物を抱えた周倉が、まるで忠実な大型犬のように「親分、喉は渇いてませんか!」「親分、この石は邪魔ですね!」と甲斐甲斐しく付き従っている。
その様子をじっと観察していた○は、周倉の動きに自分と同じ一途な匂いを感じ取った。
「周倉さん。……貴方は、関羽様を深く愛しておられるのですね?」
休憩時間に急にそんな事を言われた周倉は固まった。
「な、何を言い出すんですか、○殿!滅相もない。俺はただ、あの方の武勇と義に惚れ込んで、一生ついていこうと決めただけで……」
「ほら、私と同じじゃないですか。敬愛に性別なんて関係ありません」
「いや、だから違うって!そりゃ親分の為なら何でもやる覚悟だけど…」
「分かります!応援しますよ」
(ああ…趙雲殿の言っていた”思い込みが激しい”ってこれか)
「尊敬はしてるが『愛』とか言われるとな。どうせなら俺だって、親分に『喉が渇きましたか』なんて言うより、○殿みたいな可愛らしい子と、夕暮れに甘い言葉の一つでも囁き合いたいもんですよ。全く、趙雲殿が羨ましいぜ」
「甘い言葉……」
○は不思議そうに小首を傾げた。
「そういえば私、六歳の頃に子龍様とあのお約束をしてからは、いつかお側にいくことばかり考えていて、そういうことには疎いのかもしれません。村の同年代の女の子たちは、誰が格好いいとか、どんな風に愛を囁かれたいとか、そんな話ばかりしていましたが……私はその間、ずっと拳法ばかりでしたから。甘い言葉ってどんなものですか?」
○が周倉をまじまじと見つめながら呟く。
「趙雲殿はそういうのは…言う訳ないか」
「うーん、そうだなぁ」と思案する周倉。
そこに楽しそうに笑いながら月英が近づいてきた。
「なにやら楽しそうなお話をされておりますね。詳細をお伺いしても?」
その瞳には好奇心が宿っている。
○の隣に立つと、周倉と三人で何やら話し込んだ。
時折、○が「えぇ!」だとか「恥ずかしいですね」と囁く。
その様子を、嫌な予感を掠めながら趙雲は遠目に見ていた。
劉備達一行は夏口に向かっていた。
「よぉ、趙雲!『お嫁さん』は元気にやってるか?」
行軍の最中、馬を引きながら歩いていると、豪快な笑い声を上げながら近づいて生きたのは張飛。
その隣には大きな荷物を担いだ周倉もニヤニヤしながら立っている。
「全く、隅に置けないですよねぇ、趙雲殿。こんな殺伐とした軍中に奥様を連れてこられるなんて。男衆はみんな羨ましがってますぜ。我が軍は女日照りですからねぇ」
周倉はしみじみと言う。
実のところ、彼は趙雲のあまりに隙のない厳格さに、少しばかり気後れを感じていた一人だ。
しかし○が来てからの趙雲は人間味のある困り顔を見せることが増え、以前よりもずっと話しやすくなったと感じていた。
当の趙雲は深いため息をつく。
「……貴殿らは、何も分かっておらぬのです。そんな色っぽい話ではなく…あやつは恐ろしい」
「 恐ろしい? あの小娘がか?」
張飛と周倉が顔を見合わせる。
数万の敵軍を前にした時すら、そんな事は言わない趙雲に驚く。
「少しでも他の女人と口をきこうものなら、どこからともなく現れて『浮気だ』『不埒』だと騒ぎ立てる…私にとっては恐ろしく辛い事なのです…思い込みが激しくて話も聞かず、ほとほと参っています」
眉間を抑えて苦しそうな趙雲。
「まぁ、常々規律正しくいようとする趙雲殿にとっては、言葉だけでも辛いんですかねえ。別に悪さしてないなら、俺は何言われても平気ですがねぇ」
「そうだな。どこかに邪な気持ちがあるから効いてんじゃねえか?」
二人に正論を言われる。
そんな事は分かっているが、○の執拗さといつも見られているような束縛感。
そしてあの騒ぎ方の面倒くささは当事者にしかわからないのかもしれない。
きっと彼らには「ただのヤキモチ」にしか見えていない。
「彼女、拳法の免許皆伝ですって?」
「らしいが、実際に使っているのは見たことがない。戦い方は滅茶苦茶だ」
「というと?」
「村にいた頃、彼女の”野盗退治”を見たのだが…戦いぶりはもはやチンピラだ。そこらの石を握りこんで殴ったり、倒れた男の頭を蹴飛ばしたり馬乗りになったり…どちらが野盗か分からなかった。喧嘩慣れし過ぎている。得体のしれない女だ」
想像がつかないその姿に、周倉と張飛は顔を見合わせた。
「へえ…というか趙雲殿。結局“お嫁さん”ではないってことですかい? あんなに仲睦まじく、死線を越えてきたっていうのに」
周倉が不思議そうに首を傾げると、趙雲は食い気味に否定した。
「当然だ! ずっと否定しているだろう!そもそもは、十二年前に一方的に交わされた約束を盾にしているだけだ!」
趙雲は、「影踏み」の顛末を、半ば愚痴るように話した。
幼い頃のたった一度の出来事を十二年間も温め続け、あろうことか勝手に「妻」を名乗り実家に居座り、さらには戦場まで追いかけてきた。
そのあまりにも一途で狂信的な○の話。
「……というわけだ。あれが勝手に押しかけてきただけで、私は一度として正式に求婚などしていないし、これからもするつもりはない。それだって何度も言っているが、曲解したりで聞いてくれない」
趙雲が言い切った瞬間、隣で話を聞いていた周倉が「あーっ!!」と天を仰いで頭を抱える。
「なんてこった! もし俺が、十二年前にその場所にいたならば! 俺が影を踏んでいれば、今頃、あの子と俺が結婚していたかもしれないってことですか!どこにあるんです、その村は!」
「周倉、貴殿は何を言っている……」
「贅沢すぎますよ!一途に想い続けてくれて、置いて行かれても泣いたり臥せったりせずに戦場まで追いかけてきてくれる女なんて、この乱世に二人といませんぜ!ああ、羨ましい!今から上書きできねえもんか…」
趙雲は、自分の困惑が全く理解されず、むしろ「羨望」の対象になっていることに、さらに深い溜息をつく。
そういえば村でもこんな事を言われていた。
嫁がつかない男衆などは村の場所を何度も聞きに来たものだ。
影踏みをするかどうかは、あくまでも女性に決める権利があると聞いて引き下がっていったが。
「あの圧迫感が分からないのだろうな…少しでも隙を見せれば、私の性格を理解した上で、すぐにでも既成事実を作ろうと虎視眈々と狙っているのだぞ」
眉間にしわを寄せながらそっと自分の唇に触れる趙雲に、周倉はある日の夜に見かけた光景を思い出す。
「唇を狙われてるんですね、趙雲殿…」
「皆様。なんのお話です?楽しそうですね」
ひょっこりと顔を出したのは、いつの間にか背後にいた○。
”いきなり現れる”とはこの事か。
周倉は飛び上がって驚くが、すぐに持ち前のいたずら心を顔に出す。
「いやいや、○さん。ちょうど趙雲殿の話をしてたんですよ。…隅におけない人だなぁと思ってね。こんなに可愛くて尽くしてくれるお嫁さんがいながら、まさか、あんな人と……おっと、これは言っちゃ駄目なヤツだった」
周倉はわざとらしく口を押さえ、チラリと趙雲に視線を走らせる。
この文脈で「あんな」という言葉が指す、「ありもしない女性の影」を匂わせた悪戯。
○がサッと趙雲を見た。
「……子龍様。今の『あんな……』というのは、一体何のことでしょう? 心当たりがおありですか?」
「何のことだ? さっぱり分からん」
趙雲はその悪戯に気付いていないのか、(あんなって何だ?)という顔。
彼にとって、周倉の言葉は「意味不明な世間話」にしか聞こえていない。
「周倉、貴殿は何を言っているのだ。…ああ、もしかして先程の、馬を引くのを手伝ってくれた兵のことか?彼がどうかしたか」
「いやぁ、……そうじゃなくてですね……」
周倉はあまりの鈍感さに頭を抱える。
しかし、その趙雲の態度が、○からすればますます怪しい。
「もう!ちょっと目を離すとすぐこれなんですから!今度はどこの女を引っかけたんですか!」
「引っかける!?」
「すぐに鼻の下を伸ばして強く断らないから女性が寄ってくるんですよ」
「伸ばした事などない!」
しかし○は「悔しい!」と趙雲の胸に飛び込むと、その胸板を叩く。
一見かわいらしく見えるそれだが、力の強い○の”叩く”はなかなかのものだ。
ドン、ドン、と音がするし、趙雲の身体も少し揺れている。
常人なら結構痛そうだ。
「周倉、早く誤解を解いてくれ。貴殿のせいで私が謂れのない暴力を受けている…こうなるとしつこい」
「あ、いや……すんません」
と周倉は○に話しかけた。
「○さん、今の話は全部俺の作り話です! 趙雲殿は本当に、四六時中槍を磨くか馬を洗うかしかしてません! あんまり羨ましかったもんで、ちょっとからかってやろうと思っただけなんです!」
その言葉を聞いた途端、○の拳がぴたりと止まる。
趙雲は「ふぅ……」と安堵の溜息をつき、乱れた襟元を整えようとしたが、その際、引いていた馬につけていた荷物に腕が当たり、いくつか物が落ちる。
その中に、なにやら小さな手紙がひとつ。
○が拾うのを手伝おうとしゃがみこむと、文面が見えるように畳まれていたせいで書かれていた内容が丸見えだった。
趙雲が咄嗟に拾い上げたがもう遅い。
「あ、○。これは…」
先程の余裕の態度は消え失せて、何やらコソコソした態度で話す趙雲。
いつにないその姿に、張飛と周倉は首を傾げた。
既に○はその”太守の娘からの恋文”を見てしまっている。
「…この二年で、この様な文のやり取りをするほどに、親密な方が出来たんですね」
「いや、これは先方が勝手に…」
「不要なら捨てればいいじゃないですか」
「相手の立場もある。その辺には捨てられぬだろう」
「私には居場所一つ教えずに出て行って、手紙なんてくれたこともないのに…やっと追いついたと思ったらこんな…!――もう!」
プリプリと背を向けて去って行く○。
趙雲は慌てて周倉に馬を任せると、誤解を解こうとその背中を追う。
そんな彼の姿を見送った周倉と張飛。
「あんな調子じゃ、そりゃ『押しかけ女房』がまかり通っちまうよな」
「本当に。結局あんなに必死で説明しちゃって、まぁ」
「趙雲は押しに弱かったんだな!」
そういう張飛に、周倉は(それだけじゃないだろうな)と思う。
確かに趙雲は女性相手だと強く言えない様で、女性にどれだけ距離を詰めて話しかけられても穏やかに微笑んで、突き放したりはしない。
しかし○に対しての趙雲は、拒絶する言葉や態度が多く最初は皆おどろいていた。
それとは裏腹に、どこか暖かいものも感じる。
本人は自覚しているのか、あるいは認めたくないだけなのか。
結婚をする気はないというのは本心だろう。
二度と会わないつもりで故郷に置いてきたと言うのだから間違いない。
しかしその相手が再び目の前に現れて、彼の心境に変化をもたらす可能性もある。
周倉は隊列の少し前の方で、○に何やら話しかけている趙雲の横顔を見て、二人の距離感を想像していた。
行軍の最中。
束の間の休息が訪れると、そこには関羽たちにとってはいつもの光景があった。
関羽の傍らを、大きな荷物を抱えた周倉が、まるで忠実な大型犬のように「親分、喉は渇いてませんか!」「親分、この石は邪魔ですね!」と甲斐甲斐しく付き従っている。
その様子をじっと観察していた○は、周倉の動きに自分と同じ一途な匂いを感じ取った。
「周倉さん。……貴方は、関羽様を深く愛しておられるのですね?」
休憩時間に急にそんな事を言われた周倉は固まった。
「な、何を言い出すんですか、○殿!滅相もない。俺はただ、あの方の武勇と義に惚れ込んで、一生ついていこうと決めただけで……」
「ほら、私と同じじゃないですか。敬愛に性別なんて関係ありません」
「いや、だから違うって!そりゃ親分の為なら何でもやる覚悟だけど…」
「分かります!応援しますよ」
(ああ…趙雲殿の言っていた”思い込みが激しい”ってこれか)
「尊敬はしてるが『愛』とか言われるとな。どうせなら俺だって、親分に『喉が渇きましたか』なんて言うより、○殿みたいな可愛らしい子と、夕暮れに甘い言葉の一つでも囁き合いたいもんですよ。全く、趙雲殿が羨ましいぜ」
「甘い言葉……」
○は不思議そうに小首を傾げた。
「そういえば私、六歳の頃に子龍様とあのお約束をしてからは、いつかお側にいくことばかり考えていて、そういうことには疎いのかもしれません。村の同年代の女の子たちは、誰が格好いいとか、どんな風に愛を囁かれたいとか、そんな話ばかりしていましたが……私はその間、ずっと拳法ばかりでしたから。甘い言葉ってどんなものですか?」
○が周倉をまじまじと見つめながら呟く。
「趙雲殿はそういうのは…言う訳ないか」
「うーん、そうだなぁ」と思案する周倉。
そこに楽しそうに笑いながら月英が近づいてきた。
「なにやら楽しそうなお話をされておりますね。詳細をお伺いしても?」
その瞳には好奇心が宿っている。
○の隣に立つと、周倉と三人で何やら話し込んだ。
時折、○が「えぇ!」だとか「恥ずかしいですね」と囁く。
その様子を、嫌な予感を掠めながら趙雲は遠目に見ていた。