関羽編
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鍛錬場の隅にある井戸端で、○は無造作に裾を捲り上げ、汚れた足を洗っていた。
その姿を離れた場所から数人の若兵たちが熱心に眺めていた。
日に焼けた健康的な肌と、引き締まった肢体は、女官のものとはまた違った魅力があるのだろう。
殺風景な鍛錬場の中では目を引く。
「そこで何をしている」
冷徹な声が兵士たちの背中に突き刺さる。
振り返った彼らは、そこに立つ趙雲を見て頭を下げた。
「あ、いや、その、趙将軍……!」
「持ち場に戻れ」
言葉少なな叱責に、兵士たちは立ち去って行った。
彼らが去ったあと、趙雲は無意識に○へと視線を向けた。
○が初めて趙雲の村に来てから十年近く時が過ぎているのもあるのか、すっかり大人びた艶がある様に見えた。
(またあの様な恰好で…なぜああも無頓着なのだろう)
眉間にしわを寄せて○を見ていると。
「おい。そんなに見つめたら、○に穴が開くぞ」
現れたのは、面白そうに口角を上げている馬超だった。
「……見てなどいません」
「嘘つけ。瞬きもせずに見つめておいて」
そう言いながら笑う馬超を軽く睨む。
○への気持ちを吐露してからと言うもの、馬超はこうしてからかってくるが、代わりに○に対しての態度が大きく変わった。
彼なりに気を遣ってくれているらしい。
「馬超殿、○はここ最近、変わったと思いませんか。……雰囲気というか、以前とはどこか違う様な」
「ん?前からあんな感じじゃないか?変わった様には見えない」
そこまで言って、ああ…と口角をあげる。
「変わったのはお前の気持ちなんじゃないか?見る目が変わるというヤツだ」
一瞬静かになる。
「……まさか」
ぶっきらぼうに、言い聞かせるようにつぶやいた。
趙雲が馬超とそんな話をしていると、鍛錬場の入り口から関興が入ってきた。
「ん?関興殿は江陵にいるはずだろう」
「ああ…今朝到着したのです。後ほど改めて報告があると思いますが、関羽殿が樊城を攻め立てており于禁を降伏させたそうです。援軍補充と報告の為に関興が遣わされたのです」
「おお!それは朗報ではないか!なんだ、冷静だな」
「劉備殿は随分と喜んでおられました。ただ…まだ完全に落としたわけではないので、私としては様子見ではないかと考えています」
「ふうん」
そんな話をしながら、○と関興が話しているのを見る。
会話内容は聞こえない。
二人は親し気に二三の言葉を交わす。
関興の顔は○の前でだけはどこか年相応の青年のように和らいでいる。
やがて彼は、懐から小さな陶器を取り出し、○へと手渡す。
受け取った○が嬉しそうに蓋を開けると鼻を近づけた。
中には香油が入っていたようで、○は中身を指ですくうと髪につけた。
その仕草は趙雲も見たことがない。
「ははあ…あの二人、仲がいいんだな。歳が近いし」
隣で馬超が呑気な声を出す。
趙雲は何も答えない。
関興が○に向ける眼差し。
それは、単なる戦友に向けられるものとは明らかに質が異なっているように思う。
「あまり怖い顔をするな」
馬超は愉快そうに肩をすくめ、髪を馴染ませる○と関興の姿を眺めながら言葉を続けた。
「○には○の交友関係がある。それを全てお前が管理するというわけにもいかぬだろう。……それに、お前こそ○の見ていない所でも女子と話したりするのだから、お互い様じゃないか」
馬超の言葉は至極真っ当だ。
彼が女性に絶大な人気を誇るのは、こうした執着のなさと、相手を縛らない気質があるからなのだろう。
「そういう事ではありません。管理などと…。これは、節操の問題です」
趙雲は腕組みをした。
自分は軍務上、必要があって女性の伝令や文官と接しているに過ぎない。
だが今の関興の振る舞いはどうだろう。
わざわざ江陵から贈り物を持参し、あろうことか髪につけるような物を贈るなど。
そしてそれを目の前でつけて見せる○にも少しの苛立ちがある。
(……まったく節操のない)
普段、自分に対して「浮気だ」と騒ぎ立てる○が、あの様に過ごしていることに不快感があった。
関興は趙雲たちに気づいていたのだろう。
○に何かを話し、顔を趙雲たちの方に向けた。
言われてようやく気づいた○が、顔を輝かせて駆け寄ってくる。
彼女はいつものように趙雲の腕を取った。
「子龍様!今夜、 張苞と関興、星彩とで、夕餉を外でとってもいいですか?」
趙雲は反射的に○の腕を外しながら、「好きにすればいい」とそっけなく言い、その手元の陶器を見た。
その視線に気づいた○は、その陶器を持ち上げる。
「あ、これ、関興にもらいました! 荊州で流行っている香りだそうです。いい匂いですよ」
鼻先に陶器を近づけようとする○を、趙雲は僅かに身を引いて制した。
「そうか。……結構なものをいただいたら、礼の品を用意しなくてはな」
趙雲の言葉に関興が笑う。
「趙雲殿は、まるでお母上のようですね。○の交友関係にそこまで気を配られるとは」
その言葉には年上の将への敬意と共に、どこか余裕のある揶揄いが含まれていた。
隣にいた馬超が、堪えきれずに大きな笑い声を上げた。
夜、○は関興達と食事に出かけた。
趙雲は自室で書物に目を落としながら、さりげなく○の帰宅を待っていた。
○が関興たちと外食に出てから、かなりの時間が経過している。
すると入り口の戸が開く音がする。
どこかおぼつかない足音。
○が帰ってきたのだろう。
趙雲は書物を置き廊下を覗くが、○はそのまま自室へ直行した様でもうその姿はない。
部屋を覗き込むと、○は布団も被らずに寝台に転がっていた。
(まったく…酒でも飲んだのか)
そっと近づくと、○の下に入り込んだ布団を引っ張り上げて上にかけてやった。
その時。
○が呟いた。
「関興、大丈夫だから……離して。……足、治ってないんだから……」
○は酔いと眠気でそう言いながら、手で趙雲の身体を押し返した。
その言葉を聞いた瞬間、趙雲の思考は数年前の記憶へと飛んだ。
劉備軍が成都へ進軍する際、○は公安で関興と共に留守居役を務めていた。
あの時期、関興が足を骨折して療養していたことを趙雲は報告書で知っている。
もしや”足が治っていない”というのは、公安での事だろうか。
「離して」という言葉が、どのような状況で発せられたものなのかが分からない。
「○、起きろ。……○」
趙雲は問いただそうと○の肩を軽く揺すったが、○は小さく唸るだけで寝ようとしている。
そのまま寝入った○を趙雲は無言で見下ろした。
朝日が居間に差し込む中、○が目を覚まして水を飲もうと居間に行くと、先に起きていた趙雲が座っていた。
「あ、おはようございます、子龍様」
○が快活に声をかけるが、趙雲は視線を落としたまま「…ああ」とだけ言った。
そういう日もあるので、○は特に疑問も抱かずに洗濯物を集める。
そんな彼女の背中に向かって、趙雲が声をかけた。
「昨夜寝ぼけて、私を関興だと勘違いし『足がどうこう…離して』などと言っていたが…」
「え?」
○は首を傾げ、何かを思い出すしぐさをした。
やがて心当たりに突き当たったのか、「もしかしてあの時の事、言ったんでしょうか」 と小さく声を上げた。
「公安にいた時、骨折した関興の歩く練習に付き合っていたんです。そうしたらよろけてしまって…それを支えたのです。もしかしたらその時の事を酔っぱらって口ずさんだのでしょうか。そのくらいしか心当たりが…」
○がそこまで話した時、宿舎の戸口から声がした。
現れたのは話題の主である関興。
彼は昨夜、○が星彩に貸したままになっていた手拭いを預かってきたのだという。
「星彩が、返し忘れたから届けてほしいと。……ん?どうかしましたか?」
趙雲の重さに関興が訪ねた。
「いや、なに。公安で関興が骨折したと聞いたのを思い出し、予後はどうかという話をしていた」
趙雲は努めて冷静に言った。
隣にいる○はその緊張感に気づく様子もなく、あっけらかんとする。
「ほら、関興が躓いて私が支えた時にこう…抱きつく?みたいになっちゃったでしょ。その話を説明していて」
「抱きつく」という言葉が妙に浮いて聞こえる。
それを聞いた関興はしばし沈黙した後、何かを悟ったように趙雲の瞳を真っ向から見据えた。
「ああ、俺が○を抱きしめたくなってした、アレですね」
○が驚きのあまり、抱えていた洗濯物を落とさんばかりに飛び上がった。
居間の空気が鋭くなる。
「でも、○はそうは思っていなかったでしょうね。……俺が抱きしめても気づかずに、倒れないかどうかを気にしていましたから。でも、そうしていると落ち着いたので、しばらく抱きしめさせてもらいました」
「待ってよ!関興ったら!冗談ばっかり!もー、嫌だわ〜」
○は慌てて二人の間に割って入り、おどけたように笑ってみせた。
場の空気を少しでも和らげようという彼女なりの気遣いだったが、関興は真剣な面持ち。
趙雲は腕組みをして話を聞いている。
「まぁ、○がその方がいいならそれで」
関興はそれだけ言い残すと踵を返して出て行った。
静まり返った居間に、趙雲の重く、大きな溜息が落ちた。
「子、子龍様……?」
恐る恐る顔を覗き込もうとした○に対し趙雲が向けたのは、○に向けたことのない険しい形相だった。
「お前は……私に対して、やれ浮気だなんだと騒ぐくせに…自分はどうなのだ」
その声は低く、そして明らかに怒っていた。
「常々思っていたが、○も○だ! 前から思っていたが、あまりに隙が多すぎる!」
趙雲は怒鳴り声に近い声を出す。
日常生活での趙雲からは考えられない声だった。
「誰にでも愛想よく振る舞っておいて、私のことを夫だ浮気だ破廉恥だなんだと……。口では熱烈なことを言いながら、実のところ何を考えているのか…私には意味が分からん! 挙句、他の男と酔い潰れて帰ってきて、あのような醜態を晒すとは!」
吐き捨てる言葉は、長く堰き止めていた本音でもあった。
それが嫉妬からくるものだという事にも気付かないままに、思った事をそのままぶちまける。
その後にはドッと疲労感が押し寄せた。
「はぁ……お前といる事に、…もう、疲れた…」
激昂の果てに漏れたのは、力のない一言だった。
ふっと趙雲の腕組みをしていた肩の力が抜ける。
そのまま机に肘をつくと頭を支え俯く。
「私がお前を認めないのは、お前を軽んじているからではない。……いや、もういい。何を言っても、どうせお前には届かぬのだろう」
そう言ったきり顔を上げない趙雲に、○はただ言葉を失う。
趙雲の大声に馬超が戸口に立っていた。
「おい、外まで聞こえているぞ!」
居間まで進んできた馬超は、机に肘をつく趙雲とその前に立つ○を見た。
「あまりに言い過ぎだぞ、趙雲」
しかし趙雲は深く項垂れたまま溜息をつき、○もまた、床の一点を見つめたまま一言も発しない。
断絶のような冷たい空気が流れた。
「……私が、無神経でした。子龍様を傷つけていたのですね……」
ぽつりと、○が小さく呟いた。
いつもの明るさは消え失せ、その声には深い後悔が滲んでいた。
のろのろと持っていた洗濯物を籠に入れる。
「諸葛亮殿に呼ばれていますので、失礼します」
○は深く頭を下げると、逃げるように宿舎を飛び出していった。
静かな宿舎で趙雲は微動だにしない。
「あの様に声を張り上げて……お前らしくもない」
馬超が呆れたように、どこか同情を込めた声で趙雲に声をかけた。
「○の気持ちなんて、お前が痛いほどに分かっているだろうに」
趙雲は顔をあげず、答えない。
指の隙間から漏れる吐息は、ひどく重いものだった。
その姿を離れた場所から数人の若兵たちが熱心に眺めていた。
日に焼けた健康的な肌と、引き締まった肢体は、女官のものとはまた違った魅力があるのだろう。
殺風景な鍛錬場の中では目を引く。
「そこで何をしている」
冷徹な声が兵士たちの背中に突き刺さる。
振り返った彼らは、そこに立つ趙雲を見て頭を下げた。
「あ、いや、その、趙将軍……!」
「持ち場に戻れ」
言葉少なな叱責に、兵士たちは立ち去って行った。
彼らが去ったあと、趙雲は無意識に○へと視線を向けた。
○が初めて趙雲の村に来てから十年近く時が過ぎているのもあるのか、すっかり大人びた艶がある様に見えた。
(またあの様な恰好で…なぜああも無頓着なのだろう)
眉間にしわを寄せて○を見ていると。
「おい。そんなに見つめたら、○に穴が開くぞ」
現れたのは、面白そうに口角を上げている馬超だった。
「……見てなどいません」
「嘘つけ。瞬きもせずに見つめておいて」
そう言いながら笑う馬超を軽く睨む。
○への気持ちを吐露してからと言うもの、馬超はこうしてからかってくるが、代わりに○に対しての態度が大きく変わった。
彼なりに気を遣ってくれているらしい。
「馬超殿、○はここ最近、変わったと思いませんか。……雰囲気というか、以前とはどこか違う様な」
「ん?前からあんな感じじゃないか?変わった様には見えない」
そこまで言って、ああ…と口角をあげる。
「変わったのはお前の気持ちなんじゃないか?見る目が変わるというヤツだ」
一瞬静かになる。
「……まさか」
ぶっきらぼうに、言い聞かせるようにつぶやいた。
趙雲が馬超とそんな話をしていると、鍛錬場の入り口から関興が入ってきた。
「ん?関興殿は江陵にいるはずだろう」
「ああ…今朝到着したのです。後ほど改めて報告があると思いますが、関羽殿が樊城を攻め立てており于禁を降伏させたそうです。援軍補充と報告の為に関興が遣わされたのです」
「おお!それは朗報ではないか!なんだ、冷静だな」
「劉備殿は随分と喜んでおられました。ただ…まだ完全に落としたわけではないので、私としては様子見ではないかと考えています」
「ふうん」
そんな話をしながら、○と関興が話しているのを見る。
会話内容は聞こえない。
二人は親し気に二三の言葉を交わす。
関興の顔は○の前でだけはどこか年相応の青年のように和らいでいる。
やがて彼は、懐から小さな陶器を取り出し、○へと手渡す。
受け取った○が嬉しそうに蓋を開けると鼻を近づけた。
中には香油が入っていたようで、○は中身を指ですくうと髪につけた。
その仕草は趙雲も見たことがない。
「ははあ…あの二人、仲がいいんだな。歳が近いし」
隣で馬超が呑気な声を出す。
趙雲は何も答えない。
関興が○に向ける眼差し。
それは、単なる戦友に向けられるものとは明らかに質が異なっているように思う。
「あまり怖い顔をするな」
馬超は愉快そうに肩をすくめ、髪を馴染ませる○と関興の姿を眺めながら言葉を続けた。
「○には○の交友関係がある。それを全てお前が管理するというわけにもいかぬだろう。……それに、お前こそ○の見ていない所でも女子と話したりするのだから、お互い様じゃないか」
馬超の言葉は至極真っ当だ。
彼が女性に絶大な人気を誇るのは、こうした執着のなさと、相手を縛らない気質があるからなのだろう。
「そういう事ではありません。管理などと…。これは、節操の問題です」
趙雲は腕組みをした。
自分は軍務上、必要があって女性の伝令や文官と接しているに過ぎない。
だが今の関興の振る舞いはどうだろう。
わざわざ江陵から贈り物を持参し、あろうことか髪につけるような物を贈るなど。
そしてそれを目の前でつけて見せる○にも少しの苛立ちがある。
(……まったく節操のない)
普段、自分に対して「浮気だ」と騒ぎ立てる○が、あの様に過ごしていることに不快感があった。
関興は趙雲たちに気づいていたのだろう。
○に何かを話し、顔を趙雲たちの方に向けた。
言われてようやく気づいた○が、顔を輝かせて駆け寄ってくる。
彼女はいつものように趙雲の腕を取った。
「子龍様!今夜、 張苞と関興、星彩とで、夕餉を外でとってもいいですか?」
趙雲は反射的に○の腕を外しながら、「好きにすればいい」とそっけなく言い、その手元の陶器を見た。
その視線に気づいた○は、その陶器を持ち上げる。
「あ、これ、関興にもらいました! 荊州で流行っている香りだそうです。いい匂いですよ」
鼻先に陶器を近づけようとする○を、趙雲は僅かに身を引いて制した。
「そうか。……結構なものをいただいたら、礼の品を用意しなくてはな」
趙雲の言葉に関興が笑う。
「趙雲殿は、まるでお母上のようですね。○の交友関係にそこまで気を配られるとは」
その言葉には年上の将への敬意と共に、どこか余裕のある揶揄いが含まれていた。
隣にいた馬超が、堪えきれずに大きな笑い声を上げた。
夜、○は関興達と食事に出かけた。
趙雲は自室で書物に目を落としながら、さりげなく○の帰宅を待っていた。
○が関興たちと外食に出てから、かなりの時間が経過している。
すると入り口の戸が開く音がする。
どこかおぼつかない足音。
○が帰ってきたのだろう。
趙雲は書物を置き廊下を覗くが、○はそのまま自室へ直行した様でもうその姿はない。
部屋を覗き込むと、○は布団も被らずに寝台に転がっていた。
(まったく…酒でも飲んだのか)
そっと近づくと、○の下に入り込んだ布団を引っ張り上げて上にかけてやった。
その時。
○が呟いた。
「関興、大丈夫だから……離して。……足、治ってないんだから……」
○は酔いと眠気でそう言いながら、手で趙雲の身体を押し返した。
その言葉を聞いた瞬間、趙雲の思考は数年前の記憶へと飛んだ。
劉備軍が成都へ進軍する際、○は公安で関興と共に留守居役を務めていた。
あの時期、関興が足を骨折して療養していたことを趙雲は報告書で知っている。
もしや”足が治っていない”というのは、公安での事だろうか。
「離して」という言葉が、どのような状況で発せられたものなのかが分からない。
「○、起きろ。……○」
趙雲は問いただそうと○の肩を軽く揺すったが、○は小さく唸るだけで寝ようとしている。
そのまま寝入った○を趙雲は無言で見下ろした。
朝日が居間に差し込む中、○が目を覚まして水を飲もうと居間に行くと、先に起きていた趙雲が座っていた。
「あ、おはようございます、子龍様」
○が快活に声をかけるが、趙雲は視線を落としたまま「…ああ」とだけ言った。
そういう日もあるので、○は特に疑問も抱かずに洗濯物を集める。
そんな彼女の背中に向かって、趙雲が声をかけた。
「昨夜寝ぼけて、私を関興だと勘違いし『足がどうこう…離して』などと言っていたが…」
「え?」
○は首を傾げ、何かを思い出すしぐさをした。
やがて心当たりに突き当たったのか、「もしかしてあの時の事、言ったんでしょうか」 と小さく声を上げた。
「公安にいた時、骨折した関興の歩く練習に付き合っていたんです。そうしたらよろけてしまって…それを支えたのです。もしかしたらその時の事を酔っぱらって口ずさんだのでしょうか。そのくらいしか心当たりが…」
○がそこまで話した時、宿舎の戸口から声がした。
現れたのは話題の主である関興。
彼は昨夜、○が星彩に貸したままになっていた手拭いを預かってきたのだという。
「星彩が、返し忘れたから届けてほしいと。……ん?どうかしましたか?」
趙雲の重さに関興が訪ねた。
「いや、なに。公安で関興が骨折したと聞いたのを思い出し、予後はどうかという話をしていた」
趙雲は努めて冷静に言った。
隣にいる○はその緊張感に気づく様子もなく、あっけらかんとする。
「ほら、関興が躓いて私が支えた時にこう…抱きつく?みたいになっちゃったでしょ。その話を説明していて」
「抱きつく」という言葉が妙に浮いて聞こえる。
それを聞いた関興はしばし沈黙した後、何かを悟ったように趙雲の瞳を真っ向から見据えた。
「ああ、俺が○を抱きしめたくなってした、アレですね」
○が驚きのあまり、抱えていた洗濯物を落とさんばかりに飛び上がった。
居間の空気が鋭くなる。
「でも、○はそうは思っていなかったでしょうね。……俺が抱きしめても気づかずに、倒れないかどうかを気にしていましたから。でも、そうしていると落ち着いたので、しばらく抱きしめさせてもらいました」
「待ってよ!関興ったら!冗談ばっかり!もー、嫌だわ〜」
○は慌てて二人の間に割って入り、おどけたように笑ってみせた。
場の空気を少しでも和らげようという彼女なりの気遣いだったが、関興は真剣な面持ち。
趙雲は腕組みをして話を聞いている。
「まぁ、○がその方がいいならそれで」
関興はそれだけ言い残すと踵を返して出て行った。
静まり返った居間に、趙雲の重く、大きな溜息が落ちた。
「子、子龍様……?」
恐る恐る顔を覗き込もうとした○に対し趙雲が向けたのは、○に向けたことのない険しい形相だった。
「お前は……私に対して、やれ浮気だなんだと騒ぐくせに…自分はどうなのだ」
その声は低く、そして明らかに怒っていた。
「常々思っていたが、○も○だ! 前から思っていたが、あまりに隙が多すぎる!」
趙雲は怒鳴り声に近い声を出す。
日常生活での趙雲からは考えられない声だった。
「誰にでも愛想よく振る舞っておいて、私のことを夫だ浮気だ破廉恥だなんだと……。口では熱烈なことを言いながら、実のところ何を考えているのか…私には意味が分からん! 挙句、他の男と酔い潰れて帰ってきて、あのような醜態を晒すとは!」
吐き捨てる言葉は、長く堰き止めていた本音でもあった。
それが嫉妬からくるものだという事にも気付かないままに、思った事をそのままぶちまける。
その後にはドッと疲労感が押し寄せた。
「はぁ……お前といる事に、…もう、疲れた…」
激昂の果てに漏れたのは、力のない一言だった。
ふっと趙雲の腕組みをしていた肩の力が抜ける。
そのまま机に肘をつくと頭を支え俯く。
「私がお前を認めないのは、お前を軽んじているからではない。……いや、もういい。何を言っても、どうせお前には届かぬのだろう」
そう言ったきり顔を上げない趙雲に、○はただ言葉を失う。
趙雲の大声に馬超が戸口に立っていた。
「おい、外まで聞こえているぞ!」
居間まで進んできた馬超は、机に肘をつく趙雲とその前に立つ○を見た。
「あまりに言い過ぎだぞ、趙雲」
しかし趙雲は深く項垂れたまま溜息をつき、○もまた、床の一点を見つめたまま一言も発しない。
断絶のような冷たい空気が流れた。
「……私が、無神経でした。子龍様を傷つけていたのですね……」
ぽつりと、○が小さく呟いた。
いつもの明るさは消え失せ、その声には深い後悔が滲んでいた。
のろのろと持っていた洗濯物を籠に入れる。
「諸葛亮殿に呼ばれていますので、失礼します」
○は深く頭を下げると、逃げるように宿舎を飛び出していった。
静かな宿舎で趙雲は微動だにしない。
「あの様に声を張り上げて……お前らしくもない」
馬超が呆れたように、どこか同情を込めた声で趙雲に声をかけた。
「○の気持ちなんて、お前が痛いほどに分かっているだろうに」
趙雲は顔をあげず、答えない。
指の隙間から漏れる吐息は、ひどく重いものだった。
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