兄妹編【全5話】
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翌日の夕刻。
約束の時間が近づき、三人は城門へと向かって歩いていたが、その道中の空気は実に対照的だった。
むくれた様子を隠そうともしない○は、前を歩く趙雲の後ろ姿を追いかけながら、その隣にいる大柄な兄を恨めしそうに睨みつける。
「せっかく子龍様と二人で行けると思ったのに」
妹の言葉に黙り込む兄。
前を行く趙雲はふっと振り返り、宥めるように声をかけた。
「まあ、そう言うな。兄君は成都の土地勘もないのだし、それに……お前にとっても、こうして家族と過ごすのは大事な時間だろう」
趙雲としては、この気持ちのモゾモゾが落ち着くまで荘がいてくれるのは大歓迎だが、そこは表に出さず、あくまで”大人の気遣い”としてもっともらしい理由を並べる。
すると、自分の窮地を救ってくれた上に完璧に庇ってくれた趙雲に、荘は感動したように腕を組み、深く頷いた。
「本当に話の分かる男だ!流石、五虎将軍と謳われるだけある。武勇だけでなく、その広い器と配慮、実に頼もしい」
「いえ……そんな……」
そんな二人に、○は舌打ちをした。
「チェッ。私の計画も台無しじゃない」
「計画?」
荘が眉間にしわを寄せて聞く。
「祭りの喧騒が遠くに聞こえる静かな川のほとりで、子龍様と隙間なくくっついて座って……お互いの体温を感じながら指を絡め、愛を囁き合い、月明かりの下でそっと口付けを交わす予定だったのに」
「なんだそれは!」
前を行く趙雲を睨みつける荘に、「知りません!勝手に言っているだけです!」と趙雲は反論した。
そして心底呆れた様にため息をつく。
「しかしお前の中の私の姿は、実物と随分とかけ離れている様だな。なんだそれは…」
「あくまでも計画です」
「…絶対に川のほとりになど行かぬからな。今日は兄君にへばりついている事にする」
「そうしろ。○と二人きりになるな。危険だ」
夕暮れ時の城門前は、祭りに向かう人々や待ち合わせをする者たちでひときわ混雑していた。
だが、その人混みの中でも一際目を引く、鮮やかな衣を纏った美しい娘・小蘭が立っている。
美しく着飾った彼女の姿に、周囲の男たちは通りすがりにチラチラと盗み見ていた。
彼女は○達を見つけると駆け寄ってきて、軽く挨拶を交わすと四人は歩き出す。
夕闇が迫る成都の街は、漢中王即位を祝う無数の灯籠に照らされて夢の中の光景の様だった。
いたるところから賑やかな笑い声が響き、酒の匂いも強い。
荘はがっしりと腕組みをしたまま隣の小蘭を見た。
「……随分と酔っている客が多い。あまり離れて歩くな。いつぞやのように不届きな男に絡まれても知らんからな」
その口ぶりはまるで妹に言い聞かせるような口調だった。
どうも照れているのか後ろの○に話しかけるつもりで話しているらしい。
しかし小蘭はとても嬉しそうにその腕に捕まっている。
後ろを並んで歩いていた○は、ふと思い至って隣の趙雲を見上げた。
「そういえば子龍様、私と二人で出かけても、ああいう事は絶対に言いませんよね」
いつも規律だの人目だのと距離を置く割には、肝心の危機管理についてはうるさく言ってこない。
その理由が気になって尋ねた○に、趙雲は口元を緩めた。
「ふふ、そうだな。戦働きをしている○が、そこらの男に不覚を取るとは到底思えんからな。言う必要がない」
そして前を行く荘が小蘭を時折庇う様に腕を広げるのを見て、可笑しそうに付け加えた。
「むしろ、万が一お前に絡もうとする者が現れたなら、相手の怪我を心配すべきだと思っている。案外、○は乱暴者だからな」
「ら、乱暴者…!?」
目を剥いて抗議する○に、趙雲は声を立てて笑った。
ずっとへの字口で小蘭と歩く荘。
その少し後ろを、○は趙雲と並んで歩いていた。
「わあ、子龍様、見てください。この生地、すごく綺麗な色ですね。こんな織物、初めて見ました」
○は途中の露店で立ち止まると、趙雲の腕を取って引っ張った。
「近頃は劉備殿の名に寄せられて、周辺から珍しい品を持った商人が集まっているらしい。この国の市場がさらに栄えれば、これほど喜ばしいことはないな」
趙雲はいつものように生真面目に国の行く末を語るが、その声は祭の熱気のせいなのかどこか柔らかい。
○はさりげなく腕に捕まる力を強めて、身体をくっつけた。
趙雲の身体が少し強張る。
その時、少し前を行く兄が振り返った。
「小蘭殿があっちの屋台が気になるらしい。行くぞ」
(なによ。勝手に行けばいいのに…)
バレない様に距離を置こうとしていたのに、ちゃっかり兄は○達との距離を測っている。
呼ばれて○達はそちらに歩き出した。
すると周囲がざわつく。
「広場で、胡の演奏が始まるらしいぞ!」
「有名な弾き手らしい!」
「急ごう!」
そんな声と共に人が波のように動き出した。
荘と小蘭の姿が、一瞬にして人の群れに遮られる。
○もその突然の人波に足を取られ、体ごと持っていかれそうになった。
「○、危ない」
趙雲に強い力で肩を引き寄せられた。
体格のいい趙雲に庇われながら人の川を抜ける。
趙雲が一息つくと、腕の中の○は感動した様に趙雲を見上げていた。
その顔は感動に震えており、「私を庇ってくださった」とジーンとしている。
「そ、それはまぁ…はぐれでもしたら大変だからな」
そう言って手を離す。
それから周囲を見渡すも、人が多くて荘達が見えなくなってしまった。
「兄さんはともかく、小蘭さんが心配です」
○は背伸びをして周囲を見渡したが、いくら巨体の兄とはいえ、これだけの数の人間が動いてしまっては簡単には見つけられない。
かなり遠くまで流されてしまったのだろう。
「どこ行ったんでしょう。あっちの方を探してみますか?」
○が少し離れた賑やかな通りを指差すと、不意にその腕を、趙雲が掴んだ。
「兄君も大人だ。小蘭がいれば無茶もしないだろう。それよりも…折角だ。少し、私に付き合わないか?」
「え!」
思わぬ誘いに、○の胸は一気に高鳴った。
もしや、はぐれたのを良いことに、二人きりで祭りを回ろうと言ってくれているのではないか。
そんな甘い展開を期待して、○は弾む心で彼の後ろをついていった。
しかし辿り着いたのは、華やかな出店とはおよそ縁遠い、硬質な油と鉄の匂いが漂う武具店だった。
祭の日なのに武骨なこの店は通常営業だ。
(武具店…まあ、そんな事だと思った)
期待が大きかっただけに、○は内心でがっくりと肩を落とす。
趙雲が店主と何か話しているので、なんとなく○は棚を見て待つ。
ガッカリはしたが、見てみればなかなか楽しい。
小物を見ていると趙雲が木箱を受け取って戻ってきた。
店の外に出て、○はその木箱を見る。
「何か購入されたんですか?」
「ああ。ここでは何だから、あちらへ行こう」
趙雲に促され、祭りの喧騒から少し外れた静かな小道へと向かう。
そこには木陰に小さな長椅子が置かれていた。
趙雲は○に座るよう勧めると、自らも隣に腰掛け、膝の上でそっと木箱の蓋を開けた。
「んん?なんですか?」
○が興味津々で中を覗き込むと、そこに入っていたのは武具ではなく、滑らかな白磁に繊細な絵付けが施された、実に綺麗な茶碗だった。
「あの店は、私が戦に使う武具の修繕などでよく立ち寄るのだが、店主が商人との繋がりが広くてな。頼めばこういった工芸品も融通してくれるのだ。以前、店先で見かけて意匠が大変気に入ったので、取り寄せてもらっていた」
趙雲の言葉を聴きながら、○は不思議に思った。
(気に入ったということは、現物をもう見ているはずよね? なのに、わざわざ取り寄せてもらったの……?)
不思議そうな顔をする○が何を考えているのか察したのだろう。
趙雲は一つ、咳ばらいをした。
箱の中をよく見ると、同じ意匠の茶碗がもう一つ入っている。
趙雲は見つめてくる○から視線を逸らした。
「いつも就寝前に茶をいれてくれるからな。……一応、お前の分もいるかと思った」
「子龍様…」
同じものをもう一つ購入するために取り寄せていたのだ。
さらに、これからの時間も共にするような品を選んでくれた。
「うれしいっ!末永く使えるものを選んでくださるなんて!」
○は堪えきれずに、膝の上の木箱を庇うようにして趙雲の首へと飛びついた。
「○! 困る…っ、急に暴れては危ない……!」
趙雲は慌てて箱を置き○の肩を掴み、剥がそうと力をこめた。
しかし、そうして押し問答をしているうちに、ふと二人の目が合う。
趙雲の脳裏にあの夜の記憶が鮮明に蘇る。
酒の匂いと微睡みの中で、あと少しというところまで唇を近づけながら何もしなかったあの未遂事件。
聞けばあの夜の記憶がない○は、腕の中でそっと目を閉じた。
「誰も見てませんよ」
小さく、掠れた声で囁く。
その相変わらず真っすぐな好意に、視線を○の唇へと落とした。
これに触れたらもう後戻りが出来なくなる。
しかし、これに触れればモゾモゾした気持ちがなくなるのかもしれない。
「…子龍様」
少し目を開けて催促するように囁く○。
趙雲も目を閉じて○の肩を抱き、今度こそと触れようとしたその時。
「なにをしとるんだ――趙子龍」
低く地響きのような声が、小道の奥から響き渡った。
趙雲が弾かれたように声のした方を見ると、裏道の曲がり角から、これ以上ないほど眉間に深い皺を寄せた荘が顔を出していた。
そのすぐ後ろには、顔を真っ赤にした小蘭が恥ずかしそうに控えている。
「貴殿は体躯が大きいからな、遠くからでもすぐに分かったぞ。人混みを抜けて、ようやく見つけたと思えば…まさか、このような人気のない小道で…!あの夜の言葉は何だったのだ!」
”あの夜”とはもちろん、馬超に話した「○とは一線を越えられない」というものだ。
「ち、違います!これは…っ、茶碗の…!」
慌ててよく分からない事を口走る趙雲だが、隣の○はまだ目を閉じ趙雲にもたれかかって待っている。
「○!お前もいつまで人前でそうしているつもりだ、馬鹿者!」
「――馬鹿だと!?」
地響きの様の怒声が響く。
「いくら貴殿が稀代の猛将であろうと、俺の目の前で妹を愚弄することは許さんぞ!」
「い、いや……しかし荘殿! この状況、この行動は、兄君である貴殿としても叱るべき場面ではありませんか!? ……言わせていただければ、○のこのような突飛で規律を顧みない大胆な行動は、元を正せば貴殿のこれまでの教育の賜物とも言えますよ!」
あの冷静沈着な趙雲が、完全に我を忘れて反論した。
○とどこか似ている荘に、つい売り言葉に買い言葉を発する。
「何だと!? 俺の育て方が悪いと言うのか!」
「……いい機会なので、はっきりと言わせていただきます」
趙雲は完全に我を忘れて、日頃の冷静さからは想像もつかない声を出す。
「○は十七まで村にいたはずですが、男女間の……そう言ったことに、あまりにも無頓着で、私は何年も散々振り回されてきたのです! 女性にその辺りの事を何も教えずに無防備なまま外の世界へ出すなど、なんと無責任なことか!自分で言うのもなんですが、私でなければそれこそ適当に遊ばれていたかもしれないのですよ!」
趙雲の脳裏には恐ろしい光景が蘇る。
男の朝の生理現象も知らず騒ぎ立て、”あんな大きさのモノが入るのでしょうか”と真剣に考え、男兄弟と過ごしたからか趙雲の布団に平気で入り込む。
花嫁修業はさせておいて、ソッチ方面の”女性として気を付ける事”は何も教えていなかった癖に、○の貞操にやたらと口出しをする荘に少し引っかかるものがあった。
いつになく大きな声で言い合う趙雲。
○の兄のその性格が、そうさせるのかもしれない。
その声は祭の雑踏に消えていく。
○と小蘭は二人が言い合いを終えるまで、故郷の話に花を咲かせていた。
約束の時間が近づき、三人は城門へと向かって歩いていたが、その道中の空気は実に対照的だった。
むくれた様子を隠そうともしない○は、前を歩く趙雲の後ろ姿を追いかけながら、その隣にいる大柄な兄を恨めしそうに睨みつける。
「せっかく子龍様と二人で行けると思ったのに」
妹の言葉に黙り込む兄。
前を行く趙雲はふっと振り返り、宥めるように声をかけた。
「まあ、そう言うな。兄君は成都の土地勘もないのだし、それに……お前にとっても、こうして家族と過ごすのは大事な時間だろう」
趙雲としては、この気持ちのモゾモゾが落ち着くまで荘がいてくれるのは大歓迎だが、そこは表に出さず、あくまで”大人の気遣い”としてもっともらしい理由を並べる。
すると、自分の窮地を救ってくれた上に完璧に庇ってくれた趙雲に、荘は感動したように腕を組み、深く頷いた。
「本当に話の分かる男だ!流石、五虎将軍と謳われるだけある。武勇だけでなく、その広い器と配慮、実に頼もしい」
「いえ……そんな……」
そんな二人に、○は舌打ちをした。
「チェッ。私の計画も台無しじゃない」
「計画?」
荘が眉間にしわを寄せて聞く。
「祭りの喧騒が遠くに聞こえる静かな川のほとりで、子龍様と隙間なくくっついて座って……お互いの体温を感じながら指を絡め、愛を囁き合い、月明かりの下でそっと口付けを交わす予定だったのに」
「なんだそれは!」
前を行く趙雲を睨みつける荘に、「知りません!勝手に言っているだけです!」と趙雲は反論した。
そして心底呆れた様にため息をつく。
「しかしお前の中の私の姿は、実物と随分とかけ離れている様だな。なんだそれは…」
「あくまでも計画です」
「…絶対に川のほとりになど行かぬからな。今日は兄君にへばりついている事にする」
「そうしろ。○と二人きりになるな。危険だ」
夕暮れ時の城門前は、祭りに向かう人々や待ち合わせをする者たちでひときわ混雑していた。
だが、その人混みの中でも一際目を引く、鮮やかな衣を纏った美しい娘・小蘭が立っている。
美しく着飾った彼女の姿に、周囲の男たちは通りすがりにチラチラと盗み見ていた。
彼女は○達を見つけると駆け寄ってきて、軽く挨拶を交わすと四人は歩き出す。
夕闇が迫る成都の街は、漢中王即位を祝う無数の灯籠に照らされて夢の中の光景の様だった。
いたるところから賑やかな笑い声が響き、酒の匂いも強い。
荘はがっしりと腕組みをしたまま隣の小蘭を見た。
「……随分と酔っている客が多い。あまり離れて歩くな。いつぞやのように不届きな男に絡まれても知らんからな」
その口ぶりはまるで妹に言い聞かせるような口調だった。
どうも照れているのか後ろの○に話しかけるつもりで話しているらしい。
しかし小蘭はとても嬉しそうにその腕に捕まっている。
後ろを並んで歩いていた○は、ふと思い至って隣の趙雲を見上げた。
「そういえば子龍様、私と二人で出かけても、ああいう事は絶対に言いませんよね」
いつも規律だの人目だのと距離を置く割には、肝心の危機管理についてはうるさく言ってこない。
その理由が気になって尋ねた○に、趙雲は口元を緩めた。
「ふふ、そうだな。戦働きをしている○が、そこらの男に不覚を取るとは到底思えんからな。言う必要がない」
そして前を行く荘が小蘭を時折庇う様に腕を広げるのを見て、可笑しそうに付け加えた。
「むしろ、万が一お前に絡もうとする者が現れたなら、相手の怪我を心配すべきだと思っている。案外、○は乱暴者だからな」
「ら、乱暴者…!?」
目を剥いて抗議する○に、趙雲は声を立てて笑った。
ずっとへの字口で小蘭と歩く荘。
その少し後ろを、○は趙雲と並んで歩いていた。
「わあ、子龍様、見てください。この生地、すごく綺麗な色ですね。こんな織物、初めて見ました」
○は途中の露店で立ち止まると、趙雲の腕を取って引っ張った。
「近頃は劉備殿の名に寄せられて、周辺から珍しい品を持った商人が集まっているらしい。この国の市場がさらに栄えれば、これほど喜ばしいことはないな」
趙雲はいつものように生真面目に国の行く末を語るが、その声は祭の熱気のせいなのかどこか柔らかい。
○はさりげなく腕に捕まる力を強めて、身体をくっつけた。
趙雲の身体が少し強張る。
その時、少し前を行く兄が振り返った。
「小蘭殿があっちの屋台が気になるらしい。行くぞ」
(なによ。勝手に行けばいいのに…)
バレない様に距離を置こうとしていたのに、ちゃっかり兄は○達との距離を測っている。
呼ばれて○達はそちらに歩き出した。
すると周囲がざわつく。
「広場で、胡の演奏が始まるらしいぞ!」
「有名な弾き手らしい!」
「急ごう!」
そんな声と共に人が波のように動き出した。
荘と小蘭の姿が、一瞬にして人の群れに遮られる。
○もその突然の人波に足を取られ、体ごと持っていかれそうになった。
「○、危ない」
趙雲に強い力で肩を引き寄せられた。
体格のいい趙雲に庇われながら人の川を抜ける。
趙雲が一息つくと、腕の中の○は感動した様に趙雲を見上げていた。
その顔は感動に震えており、「私を庇ってくださった」とジーンとしている。
「そ、それはまぁ…はぐれでもしたら大変だからな」
そう言って手を離す。
それから周囲を見渡すも、人が多くて荘達が見えなくなってしまった。
「兄さんはともかく、小蘭さんが心配です」
○は背伸びをして周囲を見渡したが、いくら巨体の兄とはいえ、これだけの数の人間が動いてしまっては簡単には見つけられない。
かなり遠くまで流されてしまったのだろう。
「どこ行ったんでしょう。あっちの方を探してみますか?」
○が少し離れた賑やかな通りを指差すと、不意にその腕を、趙雲が掴んだ。
「兄君も大人だ。小蘭がいれば無茶もしないだろう。それよりも…折角だ。少し、私に付き合わないか?」
「え!」
思わぬ誘いに、○の胸は一気に高鳴った。
もしや、はぐれたのを良いことに、二人きりで祭りを回ろうと言ってくれているのではないか。
そんな甘い展開を期待して、○は弾む心で彼の後ろをついていった。
しかし辿り着いたのは、華やかな出店とはおよそ縁遠い、硬質な油と鉄の匂いが漂う武具店だった。
祭の日なのに武骨なこの店は通常営業だ。
(武具店…まあ、そんな事だと思った)
期待が大きかっただけに、○は内心でがっくりと肩を落とす。
趙雲が店主と何か話しているので、なんとなく○は棚を見て待つ。
ガッカリはしたが、見てみればなかなか楽しい。
小物を見ていると趙雲が木箱を受け取って戻ってきた。
店の外に出て、○はその木箱を見る。
「何か購入されたんですか?」
「ああ。ここでは何だから、あちらへ行こう」
趙雲に促され、祭りの喧騒から少し外れた静かな小道へと向かう。
そこには木陰に小さな長椅子が置かれていた。
趙雲は○に座るよう勧めると、自らも隣に腰掛け、膝の上でそっと木箱の蓋を開けた。
「んん?なんですか?」
○が興味津々で中を覗き込むと、そこに入っていたのは武具ではなく、滑らかな白磁に繊細な絵付けが施された、実に綺麗な茶碗だった。
「あの店は、私が戦に使う武具の修繕などでよく立ち寄るのだが、店主が商人との繋がりが広くてな。頼めばこういった工芸品も融通してくれるのだ。以前、店先で見かけて意匠が大変気に入ったので、取り寄せてもらっていた」
趙雲の言葉を聴きながら、○は不思議に思った。
(気に入ったということは、現物をもう見ているはずよね? なのに、わざわざ取り寄せてもらったの……?)
不思議そうな顔をする○が何を考えているのか察したのだろう。
趙雲は一つ、咳ばらいをした。
箱の中をよく見ると、同じ意匠の茶碗がもう一つ入っている。
趙雲は見つめてくる○から視線を逸らした。
「いつも就寝前に茶をいれてくれるからな。……一応、お前の分もいるかと思った」
「子龍様…」
同じものをもう一つ購入するために取り寄せていたのだ。
さらに、これからの時間も共にするような品を選んでくれた。
「うれしいっ!末永く使えるものを選んでくださるなんて!」
○は堪えきれずに、膝の上の木箱を庇うようにして趙雲の首へと飛びついた。
「○! 困る…っ、急に暴れては危ない……!」
趙雲は慌てて箱を置き○の肩を掴み、剥がそうと力をこめた。
しかし、そうして押し問答をしているうちに、ふと二人の目が合う。
趙雲の脳裏にあの夜の記憶が鮮明に蘇る。
酒の匂いと微睡みの中で、あと少しというところまで唇を近づけながら何もしなかったあの未遂事件。
聞けばあの夜の記憶がない○は、腕の中でそっと目を閉じた。
「誰も見てませんよ」
小さく、掠れた声で囁く。
その相変わらず真っすぐな好意に、視線を○の唇へと落とした。
これに触れたらもう後戻りが出来なくなる。
しかし、これに触れればモゾモゾした気持ちがなくなるのかもしれない。
「…子龍様」
少し目を開けて催促するように囁く○。
趙雲も目を閉じて○の肩を抱き、今度こそと触れようとしたその時。
「なにをしとるんだ――趙子龍」
低く地響きのような声が、小道の奥から響き渡った。
趙雲が弾かれたように声のした方を見ると、裏道の曲がり角から、これ以上ないほど眉間に深い皺を寄せた荘が顔を出していた。
そのすぐ後ろには、顔を真っ赤にした小蘭が恥ずかしそうに控えている。
「貴殿は体躯が大きいからな、遠くからでもすぐに分かったぞ。人混みを抜けて、ようやく見つけたと思えば…まさか、このような人気のない小道で…!あの夜の言葉は何だったのだ!」
”あの夜”とはもちろん、馬超に話した「○とは一線を越えられない」というものだ。
「ち、違います!これは…っ、茶碗の…!」
慌ててよく分からない事を口走る趙雲だが、隣の○はまだ目を閉じ趙雲にもたれかかって待っている。
「○!お前もいつまで人前でそうしているつもりだ、馬鹿者!」
「――馬鹿だと!?」
地響きの様の怒声が響く。
「いくら貴殿が稀代の猛将であろうと、俺の目の前で妹を愚弄することは許さんぞ!」
「い、いや……しかし荘殿! この状況、この行動は、兄君である貴殿としても叱るべき場面ではありませんか!? ……言わせていただければ、○のこのような突飛で規律を顧みない大胆な行動は、元を正せば貴殿のこれまでの教育の賜物とも言えますよ!」
あの冷静沈着な趙雲が、完全に我を忘れて反論した。
○とどこか似ている荘に、つい売り言葉に買い言葉を発する。
「何だと!? 俺の育て方が悪いと言うのか!」
「……いい機会なので、はっきりと言わせていただきます」
趙雲は完全に我を忘れて、日頃の冷静さからは想像もつかない声を出す。
「○は十七まで村にいたはずですが、男女間の……そう言ったことに、あまりにも無頓着で、私は何年も散々振り回されてきたのです! 女性にその辺りの事を何も教えずに無防備なまま外の世界へ出すなど、なんと無責任なことか!自分で言うのもなんですが、私でなければそれこそ適当に遊ばれていたかもしれないのですよ!」
趙雲の脳裏には恐ろしい光景が蘇る。
男の朝の生理現象も知らず騒ぎ立て、”あんな大きさのモノが入るのでしょうか”と真剣に考え、男兄弟と過ごしたからか趙雲の布団に平気で入り込む。
花嫁修業はさせておいて、ソッチ方面の”女性として気を付ける事”は何も教えていなかった癖に、○の貞操にやたらと口出しをする荘に少し引っかかるものがあった。
いつになく大きな声で言い合う趙雲。
○の兄のその性格が、そうさせるのかもしれない。
その声は祭の雑踏に消えていく。
○と小蘭は二人が言い合いを終えるまで、故郷の話に花を咲かせていた。