兄妹編【全5話】
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荘が来て数日が経っていた。
その日の夜、連日開かれる宴会に少し顔を出しただけの趙雲だったが、帰りに馬超に捕まった。
何やら話がしたいと言われた。
城の東屋に呼ばれ、宴会場から持ってきた酒を並べて向かい合って座る。
杯を重ねるうちに、馬超は本題を切り出した。
「趙雲、一つ聞かせてくれ。○をどう思っている?」
「なんですか、藪から棒に」
趙雲が傾けた杯を止めた。
「実はな、荘殿に是非、婿にと言われているんだ。もし本当に、ただの部下や家族のようなものだと言うのなら、俺が彼女の兄君に申し立てたいと思っている。俺の妻として迎えたいとな。ま、言うだけタダだし」
その言葉に趙雲の顔がわずかに強張った。
酒のせいか。
あるいは気まぐれな感情の揺らぎか。
漢中勝利で浮足立つ城内の空気か。
先日聞いた○と荘の会話か。
色んな要素が合わさって趙雲は目を泳がせる。
趙雲は一口、残りの酒を煽ると、静かに口を開いた。
「……惚れている。○には、きちんと惚れているんだ。もう何年も前から」
「何年もって…何年前からだ」
「……分からぬほど前だ」
普段の趙雲からでは聞いた事もないような声だった。
顔もなんだか愁いを帯びている。
思わず馬超がこそばゆくなった。
「だが……それでも一線を越えるわけにはいかない。戦は絶えず、私は常に死と隣り合わせだ。ここ数年でも、何度離れ離れになったか。いつ帰らぬ人となるやもしれぬ男が、彼女の人生を縛り付けるわけにはいかないだろう」
馬超は「やっと白状したか」と楽しそうに笑った。
「なあ、まず、それは○相手では意味のない悩みではないか?」
馬超は鼻で笑い、己の杯に酒を注いだ。
「たとえお前が突き放した所で、あれがどこかに行くとも思えん。それにそうとは言っても他所に持っていかれるのも嫌なのだろう」
「…」
「ならば覚悟を決めるべきなのではないか?」
趙雲は深くため息をつく。
「○にこの事がバレたら、成都での私の威厳も何もかもが地に落ちます…」
「ああ、○の付き纏いが過激になるかもって事か」
「それだけではないのです!きっと今以上に世話を焼き、なにかあれば「浮気だ」「不埒だ」と騒ぎ立て飛んで来る。…それを許されたと思うに違いありません」
「そんな事は分からないだろう。きちんと妻の座を与えれば落ち着くかもしれん。起きてもいない事を考えすぎだ」
「駄目だ。絶対に駄目だ」
趙雲の声は、酒の勢いすら撥ね退けるほどに固かった。
その頑なな拒絶を聞きながら、不意に馬超が視線を逸らした。
途端に無視できない重厚な気配を感じ、趙雲は弾かれたように振り返る。
そこには腕を組み、厳格な面持ちで立つ男の姿があった。
趙雲の顔から一気に血の気が引いた。
○の兄であり、妹を想う心は人一倍強く、そして自分と同じく規律を重んじる男。
今の、あまりにも無防備な告白を聞かれていたことは明白だった。
「馬超殿!嵌めましたね!」
言うなり趙雲は立ち上がると、周囲の暗がりに○の影を探して視線を走らせる。
「○はおらん」
荘が言った。
その一言で趙雲はわずかに肩の力を抜いたが、今度は別の緊張が彼を襲う。
「まったく、面倒な男だな!」
笑う馬超。
「安心しろ。俺からは○に、今の話は言わん…しかし、それが聞けて安心した」
荘は重い杯を卓に置いた。
そして居住まいを正す。
「ならばこの先どうなるか分からんが、それまでは、妹を頼む」
そう言って趙雲に向かって頭を下げた。
「あれは我々兄弟が甘やかして育てたせいで、あのように奔放で世間知らずだ。常識も弁えず、貴殿には多大な迷惑をかけていることだろう。……しかし、あれでも俺にとっては可愛い妹なのだ。貴殿が全く相手にしておらんなら殴りつけてでも連れて帰るつもりだったが…今の言葉が聞けたのだ、あれを頼みたい」
彼の言葉には、兄としての切実な情愛が滲んでいた。
顔を上げると、今度は鋭い目で見据える。
「しかし勘違いしないでほしいのは、あれは守られるために貴殿を追っているわけではない。貴殿の実家が武門である事を聞いていたから、幼い頃より俺が厳しく仕込んだつもりだ。戦での貴殿の足枷になるなら捨ててくれてもいい。それで○が死んだとしても、俺は何も言うつもりはない。あれの選んだ人生であり、本人にもずっと言い聞かせてある」
○とは何度か戦に出てきたが、彼女は死にかけても趙雲に助けを求めることはなかった。
それはひとえに、この兄の教えだったのだろう。
荘の言葉に趙雲が深く頷くと、彼も納得した様に立ち上がった。
「さて。では、○を呼んでこよう。肴を準備させている。何かさせておかぬと貴殿について回るからな」
○をこの席に近づけさせない為の策らしい。
「我々がいがみ合っていると思い込み、四六時中『謝れ』とうるさくて敵わん。共に酒を飲み、安心させてやるのが一番だ」
嵐のような兄が去った後、趙雲は手元の杯を見つめたまま、大きく溜息をついた。
「ああ…言葉にしてしまった……なかった事にして欲しい」
小さく呟いた声に、馬超は笑った。
「兄さんたら急に『何か酒の肴を作れ』だなんて…。あり合わせで作ったから大したものじゃないですけど」
文句を言いながらも○はどこか嬉しそうだ。
途中で出会った星彩と張苞も輪に加わった。
○はいつも通り趙雲の隣に座ると、取り皿に盛り付ける。
「はい、子龍様。子龍様が前に美味しいっておっしゃってた煮物です」
「……ありがとう」
趙雲は短く応じ、○から差し出された皿を受け取る。
その様子を先ほどの告白を聞いてしまった馬超と荘は、なんとも言えない複雑な眼差しで見つめていた。
甲斐甲斐しく世話を焼く○と、内心の動揺を隠してそれを受ける趙雲。
その間に流れる空気は、他人が見ればいつも通りであろうが、今の彼らには以前のような「一方的な追いかけっこ」ではないように見える。
趙雲は二人の突き刺さるような視線を肌で感じ、たまらずにふいと目を逸らす。
「○、料理上手だな!」
「ええ、本当に美味しそう。趙雲殿、お相伴にあずかります」
何も知らない張苞と星彩が無邪気に箸を動かしながら会話に混ざってきて、趙雲は心底ホッとした。
宴は進み、東屋の中には賑わいが満ちていた。
自然と、○・星彩・張苞の三人と、趙雲・馬超・荘の三人で会話が進む。
なにか雰囲気がいつもと違い、ふと○が趙雲を見ると、趙雲は兄と酒を注ぎ合って飲んでいた。
片方が酒を飲み干すと、一拍も置かずに注ぎ返し、会話らしい会話もなくただひたすらに杯を往復させている。
○は真っ赤になっている兄を見て不安げに声をかけた。
「兄さん。子龍様はこう見えて案外お酒強いから、やめといた方が…」
しかし耳には入っていない様だ。
そんな○の肩を掴んだのは張苞。
彼は星彩と共に杯を差し出してきた。
張苞は父に似なかったのかさっさと酔っぱらって眠ってしまった。
その隣で、○は星彩と女同士の話に華を咲かせる。
すると突然、ドスン、と鈍い音を立てて、荘が卓に突っ伏した。
「あー、寝た。だから言ったのに」
○は苦笑いしながら立ち上がると、自分の羽織を脱いで、山のように大きな兄の背中にそっと掛ける。
「兄さん、こんなに大きな体をしてるのに、実はあんまりお酒が飲めないんです。無理して飲んじゃって…なにかあったんですか?」
○は不思議そうに首を傾げながら、酒で顔を真っ赤に染めている趙雲を覗き込んだ。
趙雲は空になった杯を握ったまま、視線の定まらない目でふらりと体を揺らしている。
軍務の免除がされていることもあって、いつもはしない深酒をしているらしい。
まだまだ飲めるぞ!と、今度は馬超に絡まれる趙雲。
普段、羽目を外すような事のない趙雲がこうして酔っぱらって過ごしていることが、○はなんだか嬉しかった。
宴が引ける頃。
○は、星彩に抱えられながら帰る張苞と共に先に帰っていった。
なので千鳥足の荘は、趙雲と馬超に抱えられながら宿舎に戻る。
趙雲の宿舎前で、「大丈夫だ。これ以上、馬超殿に迷惑をかけられん。ここからは私が」と、荘を引き取った。
趙雲は重い荘の腕を肩に回してなんとか宿舎の中へ入った。
○の部屋に入ると、すでに○は寝台で大の字で寝ていた。
その寝台の下に荘の為の布団が敷いてあり、そこにそっと寝かせた。
床にしゃがみこんでから立ち上がったからか、立ちくらみのような激しい酔いが回った趙雲はその場に座り込んだ。
○の寝ている寝台にもたれると、寝台の上に腕を置く。
酔いを少しでも醒まそうと深く息を吐いた。
(こんなに酔ったのは久しぶりだな…)
普段は劉備の隣に控えているために、酒なんて口をつける程度だ。
すると、ゴン、と趙雲の頭に何かが当たる。
見ると○が大きく寝がえりを打って趙雲の頭に足が当たっている。
相当酔っているのか、しかめっ面をして唸っている。
趙雲がその足を少し乱暴に壁際に放ると、○が目を開けた。
しばらくは天井を見ていたが、次に視線を下ろして趙雲を見た。
趙雲の姿を認めると、にんまり微笑んで「飲みすぎたかもしれません…」と、寝台に置いてある趙雲の手に自分の手を重ねる。
「○、やめろ」
そう言って手を振り払うが、ふざけている様な顔で「目がグルグルします」と言いながら、すぐにまた手を重ねてくる。
趙雲の指先がふらふらと動く。
○の前髪に触れてみる。
少し驚いた様だが○は嬉しそうに笑った。
何をするつもりもでもなかった。
趙雲はなんとなく…○の顔よく見ようと思ったのか、覗き込むように顔を近づけた。
寝台に寝転ぶ○と、床に座る趙雲の視線の高さが合う。
酔いで視界がグラグラした。
「…○?」
互いの酒の匂いが混じる程の至近距離で、確認するように名を呼ぶと、○は掠れた声で応えた。
趙雲の指が彼女の頬に触れ、酒のせいもあって熱っぽい視線が絡み合うが。
「……は き そ う」
○が急に顔色を変え、趙雲を突き飛ばさんばかりの勢いで寝台から跳ね起きると、口を押さえて脱兎のごとく部屋を飛び出していった。
静まり返った室内。
取り残された趙雲は、唇が触れる寸前だった格好のまま、寝台に顔を埋めた。
やがて我に返った趙雲の口から、乾いた笑いが漏れた。
「……ふっ、はは……それはないだろう、○……」
あまりにも劇的な台無し加減。
格好がつかないにも程がある。
(まあ、考えてみればずっと気分が悪そうだったな…)
趙雲は立つのも面倒になって、荘の隣に転がって声を押し殺しながら笑った。
酒の熱も、先ほどまでの胸の高鳴りも、すべてが可笑しさに上書きされていく。
隣では○の兄が大いびきをかいている。
「全く…柄にもない事をするものではないな」
自分と○はこんな事ばかりだ、とつくづく思った。
(やはり酒の勢いなんて、碌なことがない……)
趙雲は重い頭痛と共にそう自分に言い聞かせて眠りについた。
肺を圧迫されるような苦しさに、趙雲は意識を取り戻した。
まだ早朝なのか、部屋の中は薄暗い。
(…くるしい)
気付くと、右からも左からも重量と圧力がかかっている。
ようやく目を開けると、自分がとんでもない状況になっていることに気付く。
左側からは、寝台から転げ落ちた○が床で眠る趙雲の脇腹に膝を入れて、自分の隙間を最大限使って大の字になろうとしている。
右側からは、荘が寝返りのついでか丸太の様な腕を趙雲の胸の上に乗せている。
兄妹は互いに真ん中にいる趙雲に寄ってきて、ぎゅうぎゅう詰めだった。
「…………」
趙雲はしばし天井を見つめた。
二人の重みと、二人の体温。
さらに酒臭さ。
そして昨夜自分が○に何をしようとしたのか。
趙雲は動く気も失せて諦めたように溜息をつくと、もう一度重い瞼を閉じた。
朝、最初に目を覚ました荘は、目を開けた途端に至近距離にあった趙雲の寝顔に心臓が飛び出しそうになった。
雷に打たれたような勢いで飛び起き、混乱する頭を必死に働かせる。
(なぜこの男が俺の目の前に……いや、俺がこの男の布団に侵入したのか!?)
慌てて周囲を見渡す。
趙雲の向こう側…本来なら寝台の上にいるはずの○が床に転がり落ちている。
それだけならまだしも、○は背中を向けている趙雲の背中に膝を突き刺し、腕を彼の上に乗せている。
どうやら趙雲は、○の猛烈な寝相から逃げるように荘の方を向いて眠ていたらしい。
そのせいで趙雲と壮が向かい合って寝ている構図になっていたようだ。
(天下の名将を、兄妹揃って袋叩きにするような形で寝ていたとは…いや…まさか俺が引き込んだのか!?酔って記憶がない!)
壮はゾッとした。
○の部屋は狭く、床に大の大人が三人で横並びで寝ると立ち上がる隙間がない。
寝台に戻る様に言おうと趙雲越しに○の身体を揺すっていると、○より先に趙雲が目を覚ました。
「…………おはようございます」
掠れた声で挨拶をされると、荘は固まった。
「あ、いや! これは……その、決して怪しい事ではない!」
「分かっております。……○の寝相でしょう」
趙雲が苦笑しながら、自分の上に乗っている○の手を退けようと持ち上げる。
すると○は寝ぼけたまま趙雲の背中に抱き着いた。
背後から趙雲のうなじの辺りに顔を埋め、強くしがみつく。
それは抱き着くというよりも首を絞める様だ。
その様子に荘は慌てて○を引き剥がしにかかる。
趙雲はもはや、抗うことを完全に諦めた。
右には大慌てで妹を引っぱりまわす兄。
左には首を絞めんばかりに抱き着く妹。
○が二人いるような感覚を覚えながら、まだくらくらする頭をなんとかしたくて趙雲は目を閉じた。
その日の夜、連日開かれる宴会に少し顔を出しただけの趙雲だったが、帰りに馬超に捕まった。
何やら話がしたいと言われた。
城の東屋に呼ばれ、宴会場から持ってきた酒を並べて向かい合って座る。
杯を重ねるうちに、馬超は本題を切り出した。
「趙雲、一つ聞かせてくれ。○をどう思っている?」
「なんですか、藪から棒に」
趙雲が傾けた杯を止めた。
「実はな、荘殿に是非、婿にと言われているんだ。もし本当に、ただの部下や家族のようなものだと言うのなら、俺が彼女の兄君に申し立てたいと思っている。俺の妻として迎えたいとな。ま、言うだけタダだし」
その言葉に趙雲の顔がわずかに強張った。
酒のせいか。
あるいは気まぐれな感情の揺らぎか。
漢中勝利で浮足立つ城内の空気か。
先日聞いた○と荘の会話か。
色んな要素が合わさって趙雲は目を泳がせる。
趙雲は一口、残りの酒を煽ると、静かに口を開いた。
「……惚れている。○には、きちんと惚れているんだ。もう何年も前から」
「何年もって…何年前からだ」
「……分からぬほど前だ」
普段の趙雲からでは聞いた事もないような声だった。
顔もなんだか愁いを帯びている。
思わず馬超がこそばゆくなった。
「だが……それでも一線を越えるわけにはいかない。戦は絶えず、私は常に死と隣り合わせだ。ここ数年でも、何度離れ離れになったか。いつ帰らぬ人となるやもしれぬ男が、彼女の人生を縛り付けるわけにはいかないだろう」
馬超は「やっと白状したか」と楽しそうに笑った。
「なあ、まず、それは○相手では意味のない悩みではないか?」
馬超は鼻で笑い、己の杯に酒を注いだ。
「たとえお前が突き放した所で、あれがどこかに行くとも思えん。それにそうとは言っても他所に持っていかれるのも嫌なのだろう」
「…」
「ならば覚悟を決めるべきなのではないか?」
趙雲は深くため息をつく。
「○にこの事がバレたら、成都での私の威厳も何もかもが地に落ちます…」
「ああ、○の付き纏いが過激になるかもって事か」
「それだけではないのです!きっと今以上に世話を焼き、なにかあれば「浮気だ」「不埒だ」と騒ぎ立て飛んで来る。…それを許されたと思うに違いありません」
「そんな事は分からないだろう。きちんと妻の座を与えれば落ち着くかもしれん。起きてもいない事を考えすぎだ」
「駄目だ。絶対に駄目だ」
趙雲の声は、酒の勢いすら撥ね退けるほどに固かった。
その頑なな拒絶を聞きながら、不意に馬超が視線を逸らした。
途端に無視できない重厚な気配を感じ、趙雲は弾かれたように振り返る。
そこには腕を組み、厳格な面持ちで立つ男の姿があった。
趙雲の顔から一気に血の気が引いた。
○の兄であり、妹を想う心は人一倍強く、そして自分と同じく規律を重んじる男。
今の、あまりにも無防備な告白を聞かれていたことは明白だった。
「馬超殿!嵌めましたね!」
言うなり趙雲は立ち上がると、周囲の暗がりに○の影を探して視線を走らせる。
「○はおらん」
荘が言った。
その一言で趙雲はわずかに肩の力を抜いたが、今度は別の緊張が彼を襲う。
「まったく、面倒な男だな!」
笑う馬超。
「安心しろ。俺からは○に、今の話は言わん…しかし、それが聞けて安心した」
荘は重い杯を卓に置いた。
そして居住まいを正す。
「ならばこの先どうなるか分からんが、それまでは、妹を頼む」
そう言って趙雲に向かって頭を下げた。
「あれは我々兄弟が甘やかして育てたせいで、あのように奔放で世間知らずだ。常識も弁えず、貴殿には多大な迷惑をかけていることだろう。……しかし、あれでも俺にとっては可愛い妹なのだ。貴殿が全く相手にしておらんなら殴りつけてでも連れて帰るつもりだったが…今の言葉が聞けたのだ、あれを頼みたい」
彼の言葉には、兄としての切実な情愛が滲んでいた。
顔を上げると、今度は鋭い目で見据える。
「しかし勘違いしないでほしいのは、あれは守られるために貴殿を追っているわけではない。貴殿の実家が武門である事を聞いていたから、幼い頃より俺が厳しく仕込んだつもりだ。戦での貴殿の足枷になるなら捨ててくれてもいい。それで○が死んだとしても、俺は何も言うつもりはない。あれの選んだ人生であり、本人にもずっと言い聞かせてある」
○とは何度か戦に出てきたが、彼女は死にかけても趙雲に助けを求めることはなかった。
それはひとえに、この兄の教えだったのだろう。
荘の言葉に趙雲が深く頷くと、彼も納得した様に立ち上がった。
「さて。では、○を呼んでこよう。肴を準備させている。何かさせておかぬと貴殿について回るからな」
○をこの席に近づけさせない為の策らしい。
「我々がいがみ合っていると思い込み、四六時中『謝れ』とうるさくて敵わん。共に酒を飲み、安心させてやるのが一番だ」
嵐のような兄が去った後、趙雲は手元の杯を見つめたまま、大きく溜息をついた。
「ああ…言葉にしてしまった……なかった事にして欲しい」
小さく呟いた声に、馬超は笑った。
「兄さんたら急に『何か酒の肴を作れ』だなんて…。あり合わせで作ったから大したものじゃないですけど」
文句を言いながらも○はどこか嬉しそうだ。
途中で出会った星彩と張苞も輪に加わった。
○はいつも通り趙雲の隣に座ると、取り皿に盛り付ける。
「はい、子龍様。子龍様が前に美味しいっておっしゃってた煮物です」
「……ありがとう」
趙雲は短く応じ、○から差し出された皿を受け取る。
その様子を先ほどの告白を聞いてしまった馬超と荘は、なんとも言えない複雑な眼差しで見つめていた。
甲斐甲斐しく世話を焼く○と、内心の動揺を隠してそれを受ける趙雲。
その間に流れる空気は、他人が見ればいつも通りであろうが、今の彼らには以前のような「一方的な追いかけっこ」ではないように見える。
趙雲は二人の突き刺さるような視線を肌で感じ、たまらずにふいと目を逸らす。
「○、料理上手だな!」
「ええ、本当に美味しそう。趙雲殿、お相伴にあずかります」
何も知らない張苞と星彩が無邪気に箸を動かしながら会話に混ざってきて、趙雲は心底ホッとした。
宴は進み、東屋の中には賑わいが満ちていた。
自然と、○・星彩・張苞の三人と、趙雲・馬超・荘の三人で会話が進む。
なにか雰囲気がいつもと違い、ふと○が趙雲を見ると、趙雲は兄と酒を注ぎ合って飲んでいた。
片方が酒を飲み干すと、一拍も置かずに注ぎ返し、会話らしい会話もなくただひたすらに杯を往復させている。
○は真っ赤になっている兄を見て不安げに声をかけた。
「兄さん。子龍様はこう見えて案外お酒強いから、やめといた方が…」
しかし耳には入っていない様だ。
そんな○の肩を掴んだのは張苞。
彼は星彩と共に杯を差し出してきた。
張苞は父に似なかったのかさっさと酔っぱらって眠ってしまった。
その隣で、○は星彩と女同士の話に華を咲かせる。
すると突然、ドスン、と鈍い音を立てて、荘が卓に突っ伏した。
「あー、寝た。だから言ったのに」
○は苦笑いしながら立ち上がると、自分の羽織を脱いで、山のように大きな兄の背中にそっと掛ける。
「兄さん、こんなに大きな体をしてるのに、実はあんまりお酒が飲めないんです。無理して飲んじゃって…なにかあったんですか?」
○は不思議そうに首を傾げながら、酒で顔を真っ赤に染めている趙雲を覗き込んだ。
趙雲は空になった杯を握ったまま、視線の定まらない目でふらりと体を揺らしている。
軍務の免除がされていることもあって、いつもはしない深酒をしているらしい。
まだまだ飲めるぞ!と、今度は馬超に絡まれる趙雲。
普段、羽目を外すような事のない趙雲がこうして酔っぱらって過ごしていることが、○はなんだか嬉しかった。
宴が引ける頃。
○は、星彩に抱えられながら帰る張苞と共に先に帰っていった。
なので千鳥足の荘は、趙雲と馬超に抱えられながら宿舎に戻る。
趙雲の宿舎前で、「大丈夫だ。これ以上、馬超殿に迷惑をかけられん。ここからは私が」と、荘を引き取った。
趙雲は重い荘の腕を肩に回してなんとか宿舎の中へ入った。
○の部屋に入ると、すでに○は寝台で大の字で寝ていた。
その寝台の下に荘の為の布団が敷いてあり、そこにそっと寝かせた。
床にしゃがみこんでから立ち上がったからか、立ちくらみのような激しい酔いが回った趙雲はその場に座り込んだ。
○の寝ている寝台にもたれると、寝台の上に腕を置く。
酔いを少しでも醒まそうと深く息を吐いた。
(こんなに酔ったのは久しぶりだな…)
普段は劉備の隣に控えているために、酒なんて口をつける程度だ。
すると、ゴン、と趙雲の頭に何かが当たる。
見ると○が大きく寝がえりを打って趙雲の頭に足が当たっている。
相当酔っているのか、しかめっ面をして唸っている。
趙雲がその足を少し乱暴に壁際に放ると、○が目を開けた。
しばらくは天井を見ていたが、次に視線を下ろして趙雲を見た。
趙雲の姿を認めると、にんまり微笑んで「飲みすぎたかもしれません…」と、寝台に置いてある趙雲の手に自分の手を重ねる。
「○、やめろ」
そう言って手を振り払うが、ふざけている様な顔で「目がグルグルします」と言いながら、すぐにまた手を重ねてくる。
趙雲の指先がふらふらと動く。
○の前髪に触れてみる。
少し驚いた様だが○は嬉しそうに笑った。
何をするつもりもでもなかった。
趙雲はなんとなく…○の顔よく見ようと思ったのか、覗き込むように顔を近づけた。
寝台に寝転ぶ○と、床に座る趙雲の視線の高さが合う。
酔いで視界がグラグラした。
「…○?」
互いの酒の匂いが混じる程の至近距離で、確認するように名を呼ぶと、○は掠れた声で応えた。
趙雲の指が彼女の頬に触れ、酒のせいもあって熱っぽい視線が絡み合うが。
「……は き そ う」
○が急に顔色を変え、趙雲を突き飛ばさんばかりの勢いで寝台から跳ね起きると、口を押さえて脱兎のごとく部屋を飛び出していった。
静まり返った室内。
取り残された趙雲は、唇が触れる寸前だった格好のまま、寝台に顔を埋めた。
やがて我に返った趙雲の口から、乾いた笑いが漏れた。
「……ふっ、はは……それはないだろう、○……」
あまりにも劇的な台無し加減。
格好がつかないにも程がある。
(まあ、考えてみればずっと気分が悪そうだったな…)
趙雲は立つのも面倒になって、荘の隣に転がって声を押し殺しながら笑った。
酒の熱も、先ほどまでの胸の高鳴りも、すべてが可笑しさに上書きされていく。
隣では○の兄が大いびきをかいている。
「全く…柄にもない事をするものではないな」
自分と○はこんな事ばかりだ、とつくづく思った。
(やはり酒の勢いなんて、碌なことがない……)
趙雲は重い頭痛と共にそう自分に言い聞かせて眠りについた。
肺を圧迫されるような苦しさに、趙雲は意識を取り戻した。
まだ早朝なのか、部屋の中は薄暗い。
(…くるしい)
気付くと、右からも左からも重量と圧力がかかっている。
ようやく目を開けると、自分がとんでもない状況になっていることに気付く。
左側からは、寝台から転げ落ちた○が床で眠る趙雲の脇腹に膝を入れて、自分の隙間を最大限使って大の字になろうとしている。
右側からは、荘が寝返りのついでか丸太の様な腕を趙雲の胸の上に乗せている。
兄妹は互いに真ん中にいる趙雲に寄ってきて、ぎゅうぎゅう詰めだった。
「…………」
趙雲はしばし天井を見つめた。
二人の重みと、二人の体温。
さらに酒臭さ。
そして昨夜自分が○に何をしようとしたのか。
趙雲は動く気も失せて諦めたように溜息をつくと、もう一度重い瞼を閉じた。
朝、最初に目を覚ました荘は、目を開けた途端に至近距離にあった趙雲の寝顔に心臓が飛び出しそうになった。
雷に打たれたような勢いで飛び起き、混乱する頭を必死に働かせる。
(なぜこの男が俺の目の前に……いや、俺がこの男の布団に侵入したのか!?)
慌てて周囲を見渡す。
趙雲の向こう側…本来なら寝台の上にいるはずの○が床に転がり落ちている。
それだけならまだしも、○は背中を向けている趙雲の背中に膝を突き刺し、腕を彼の上に乗せている。
どうやら趙雲は、○の猛烈な寝相から逃げるように荘の方を向いて眠ていたらしい。
そのせいで趙雲と壮が向かい合って寝ている構図になっていたようだ。
(天下の名将を、兄妹揃って袋叩きにするような形で寝ていたとは…いや…まさか俺が引き込んだのか!?酔って記憶がない!)
壮はゾッとした。
○の部屋は狭く、床に大の大人が三人で横並びで寝ると立ち上がる隙間がない。
寝台に戻る様に言おうと趙雲越しに○の身体を揺すっていると、○より先に趙雲が目を覚ました。
「…………おはようございます」
掠れた声で挨拶をされると、荘は固まった。
「あ、いや! これは……その、決して怪しい事ではない!」
「分かっております。……○の寝相でしょう」
趙雲が苦笑しながら、自分の上に乗っている○の手を退けようと持ち上げる。
すると○は寝ぼけたまま趙雲の背中に抱き着いた。
背後から趙雲のうなじの辺りに顔を埋め、強くしがみつく。
それは抱き着くというよりも首を絞める様だ。
その様子に荘は慌てて○を引き剥がしにかかる。
趙雲はもはや、抗うことを完全に諦めた。
右には大慌てで妹を引っぱりまわす兄。
左には首を絞めんばかりに抱き着く妹。
○が二人いるような感覚を覚えながら、まだくらくらする頭をなんとかしたくて趙雲は目を閉じた。