疑惑編【全5話】
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小蘭を店に送った趙雲は、城に戻っていった。
すると門兵が駆け寄る。
「趙雲殿、戻り次第、謁見の間に来てほしいと劉備様が」
「劉備殿が…?分かった」
趙雲は小さく頷くと、すぐさま長い回廊を渡り謁見の間の重い扉を開いた。
広々とした謁見の間の玉座には、柔和な笑みを浮かべた劉備が座っている。
そしてその前に堂々と立っているのは、先ほど路地裏で小蘭を助けた大男だった。
「おお、戻ったか趙雲! 急に呼び立ててすまないな」
劉備がいつも通り親しげに趙雲の名を呼んだ瞬間、大男が振り返った。
「趙雲。こちらの方、一体どなただと思う?」
にこやかにもったいぶる劉備だったが、大男は趙雲から目を離さないまま声を遮った。
「……失礼、劉備殿。確認したいのですが……この男が、あの『常山の趙子龍』でしょうか」
「ええ。我が軍が誇る猛将であり、私が最も信頼を寄せる、極めて誠実な男ですよ」
劉備が我が事のように誇らしげに胸を張って紹介する。
しかし、大男の口元はへの字に歪めている。
「誠実……。しかし劉備殿、私は先ほど市井で、この男が恐らく軍務中に”恋人と”睦まじくいるのを見ましてな」
「は……恋人?」
劉備は首をかしげて天井を見る。
「まだその様には聞いておりませんが…おや?まだ妹君にはお会いしていないと先ほど…」
大男の言葉。
劉備の困惑。
そして『妹君』。
趙雲はその場で硬直した。
(まさか…)
そんな趙雲の動揺など露知らず、劉備は手を叩いて嬉しそうに話す。
「ああ、紹介がまだだったな! 趙雲、驚くなよ。こちらにいらっしゃるのは、なんと○殿の兄上の荘殿だ。わざわざ訪ねて来られたのだぞ!」
謁見の間に沈黙が落ちる。
目の前で腕を組み、面白くなさそうに自分を睨みつけている大男。
先ほど自分が剣まで抜きかけ、挙句の果てに小蘭との関係を勘違いしている人物。
「私は妹の○より、趙子龍を追ってここにいると聞いておりましてな」
「? ええ。それはもう、○殿は趙雲を大変慕っておりますよ。彼女も趙雲と共に戦場に出て、見事に役目を果たしております」
劉備は何一つ疑うことなく、にこやかに頷いた。
兄の手前、普段は呼び捨てる○の事を敬称をつけて呼ぶ。
しかし、すぐに「おや?」と首を傾げる。
「しかし、恋人とは……。趙雲、ついに○殿の気持ちに応える決心がついたのか?」
劉備の純粋な瞳が趙雲に向けられた。
それが今の趙雲には残酷に突き刺さる。
「劉備殿…それは…」
趙雲はやっと声を絞り出した。
彼には先程、自分が小蘭といた所を見られている。
小蘭は趙雲の胸の中におり、小蘭は抱き着くようにしていた。
彼が小蘭の事を「恋人」と言ったことも受け入れて礼まで言った。
恐らく兄君・荘の目には、『妹に追わせておきながら、他の女と色恋沙汰にうつつを抜かしている不実な男』として映っているに違いない。
「劉備殿。貴殿にとっては誠実なのでしょうな。戦ぶりも素晴らしいと聞く。戦場に身を置いていれば耳に入る名ですから」
荘はあえて趙雲から視線を外し、劉備に向かって淡々と話しかける。
「趙雲の武勇と忠義は、我が軍にとってなくてはならない宝ですよ」
主君である劉備は、我が事のように嬉しそうに何度も頷く。
「しかし恐らく…貴殿も知らぬ女子を、この男は城の外で恋人にしておりますぞ」
「……は?」
劉備の笑顔がぴたりと止まった。
荘の視線が再び趙雲へと向けられる。
劉備も怪訝に思いながらも趙雲の顔を見た。
趙雲は戦場では決して見せることのない顔をしている。
引きつり、激しく動揺している。
長年行動を共にしてきた劉備には、趙雲のその尋常ではない様子だけで、兄君の言葉が全くの的外れではないことを察した。
なにかあったのだろう。
「劉備殿、申し訳ないが……妹を、○を引き取っても構わないだろうか」
重々しく告げられた荘の言葉に、劉備は「あー……」と困ったように視線を泳がせ、再びチラリと趙雲を見た。
「その、荘殿。○殿は今や我が軍にとって大事な戦力なのです。突然抜けると言われますと、軍としては少々困ってしまいます。それに彼女本人が何と言うか…」
劉備は苦しい表情を浮かべながらも、どうにか趙雲を庇おうとそう返した。
しかし荘は深く首を横に振った。
「このような男の尻を何年も追っていたかと思うと、兄として情けないのです。…我が村の女は外の男に弄ばれる者も多いので、仕方のない事でもありますが」
「弄ぶなど……っ」
その容赦のない言葉に、趙雲は思わず息を詰まらせた。
そんなつもりは毛頭ない。
「……荘殿、それは誤解です。私はそのような…」
「ならば、先ほど貴殿の胸の中にいたあの女子は誰だ?私が”恋人”と言った時にも双方受け入れていたではないか」
(どうしたものか……)
大至急で趙雲を庇ってやりたい劉備だったが、こと○の件に関しては、いつも融通の利かない趙雲だ。
ここで自分が下手に助け舟を出しても、余計に頑固になって状況がこじれる可能性がある。
しかも肝心の趙雲は後ろめたい事があるのか何も言わない。
劉備は完全に板挟みとなっていた。
「とりあえず、一度落ち着いて、お互いに話を……」
どうにか場を収めようと切り出した、その時。
「失礼いたします。○です。お呼びでしょうか、劉備様」
謁見の間に、今、最も響いてほしくない声が響く。
(しまった……!)
劉備は青ざめる。
○にも「会わせたい人がいるから、昼の休憩が明けたら謁見の間へ来るように」と言い渡していたのだ。
扉の向こうから歩いてきた○は、中央に立つ趙雲と、その隣にそびえ立つ巨体を見て目を丸くした。
「兄さん!? え……もう到着したの? 来るとは聞いていたけど、村から一月はかかると思ったのに…」
○は驚きのあまり声を上げたが、すぐに嬉しそうに駆け寄る。
「あ、子龍様にはもう先にお会いしたのね。あのね、兄さん、子龍様はとっても……」
「――○」
言い終わる前に、荘は○の手首をつかむ。
「荷物をまとめろ。このような不埒な男の側に、これ以上置いてはおけん。お前を村に連れて帰る」
「不埒?」
「お前が『一度、子龍様と会ってほしい』と何度も手紙を送ってくるから来てみれば……。町でこの男は、お前では到底及ばぬ見目の女子を『恋人』と認めていたぞ。何をしてるんだ、お前は」
「え…」
「お前はあの男に弄ばれていたのだ。そんなことも気づかずに何年も…情けない!」
兄の言う事が理解できずに首をかしげる○。
二人のこれまでの歩みと、趙雲がどれほど不器用ながらも○を大切に思っているかを知る劉備は身を乗り出す。
「お待ちください、荘殿! 確かに状況は複雑そうですが、趙雲は彼女をそんな風に扱う男ではありません」
「そうです…誤解があります」
やっと趙雲もそう言って踏み出すが、まだどこかで誤魔化せる箇所を探してしまい言葉が出ない。
「何が違うのだろう。城下の路地裏で美しい女子が貴殿の胸に飛び込まんばかりに縋り付き、貴殿もそれを恋人だと認め、守るように立ちはだかったではないか!」
「それは……っ!ああ、どこから話せばいいのか…」
まごつく趙雲をじっと見ていた○。
しばらく茫然としていたが、小さく「子龍様…」と呟いた。
息が詰まるような沈黙の中、○は拳を握りしめた。
「……また浮気ですか!? どうせまた相手に押し切られて、はっきり断れなかったんでしょ! もうっ!ちょっと信用して目を離したら、すぐにこれなんですから!」
荘が思わず手を緩め、劉備が素っ頓狂な声を上げた。
当の趙雲はといえば、あまりの衝撃に開いた口が塞がらない。
悲しみに沈むかと思われた○の口から飛び出したのは、あまりにも趙雲の悪癖を熟知した叱責だった。
(良かった。 ○は、趙雲の拗らせ気質を完全に理解してくれている……)
自分の事の様にホッとする劉備。
しかし、言われた趙雲はそれどころではない。
安堵よりも先に、あまりにも人聞きの悪い言葉に抗弁した。
「また…などと……っ! 人聞きの悪いことを言わないでくれ!そもそも…我々は女性関係をどうこう言われる関係ではない!」
これはいつもの趙雲の言い分ではあるが、今ここでそれを言うのは良くなかった。
○はいつもの事とばかりに「まだそんな事いってるんですか!」と憤慨するが、兄は違う。
「○。もういい加減にしろ」
その低く厳しい声に、○がビクリと肩を揺らす。
「分かっただろう。お前の一人相撲だ。こんなことではないかと思っていた。……我らの村の…あの『影踏み』の儀式を外の男と行い、それに翻弄され傷ついて村に戻ってくる女を、私はこれまで何人も見てきた。まさか我が妹がとは思っていたが」
荘の言葉は、妹を案じる兄としての本心だった。
形骸化した古い儀式の約束に縛られ、それを利用した村の外の男に都合よく扱われているだけではないのか、と。
「違うの、兄さん! 子龍様はね、こういう…だらしない……じゃなくて、女性関係のいざこざに巻き込まれやすいというか。ほら、格好良いから寄ってくる人が多いのよ!だから私が見張ってなくちゃ」
なんとか取り持とうと必死な○だったが、荘は呆れたように首を横に振るばかり。
「まったく……。六つの頃から“子龍様、子龍様”とうるさくし、免許皆伝をもらうや否や村の許嫁も勝手に破談にして飛び出したかと思えばこれか。情けない」
「許嫁なんて、兄さんたちが勝手に決めたんでしょ! 私は最初から認めてなかった!」
「何を言うか。六つで勝手に影踏みの儀を執り行い、あの男に執着するお前をそれでも引き取ると言ってくれたのだ。有り難い話だったのだぞ!」
「ありがた迷惑よ!犬や猫じゃあるまいし!それに影踏みに負けたから付いてきたんじゃなくて、子龍様を見た時にビビッときたの!」
兄妹喧嘩が始まり、劉備は「まあまあ、二人とも」となだめようとするが、どこか性質の似た兄妹の耳には届かない。
「お前という奴は、本当に昔から頑固で人の話を聞かん……!」
「兄さんこそ、過保護すぎるのよ!なんで貴族でも武家でもない村娘なのに、兄さんに将来の相手まで決められなくちゃならないの!昔からその心配ばっかり!」
「村の因習があるからだ!お前は村の男と結婚するのが一番! ちゃんと目星もつけてきた! 趙子龍とうまくいっているのならつゆ知らず…お前を連れて帰ると言っても、今なおあの男はだんまりではないか! 連れて帰るぞ!」
そう言って○の腕を引っ張る兄に、足を踏ん張る○。
思い切りその腕を振りほどくと趙雲に抱き着いた。
「子龍様もなんとか言ってください!戦ではあれほどお強いのに、どうしてそんなに黙り込んでいるんですか!? 何か事情がおありなんでしょう!? だって、子龍様だって……きっと私のこと……っ!」
「その様な不潔な男に抱きつくな!!」
すかさず荘の腕が伸びて○を引き剥がそうとする。
それでも趙雲の服の袖を引っ張る○。
「○、落ち着いてくれ。とりあえずお前も手を離し…」
「――『お前』だと……?」
荘が恐ろしい形相で趙雲を睨み据える。
「○に対しては恋人ではないと言い切り、城下には別の女子がいる。そのくせ妹を馴れ馴れしく呼び、我が物顔で側に置いている……。貴殿は妹を、一体どのような立場で扱っているのだ」
ついに矛先が趙雲へと向けられる。
「まぁまぁ、荘殿。この趙雲という男は、戦場では恐ろしいほどに果断ですが、私生活においては色々と考えすぎてしまう嫌いがありまして」
一触即発の空気の中、見かねた劉備が主君としての威厳を湛えた声で助け舟を出した。
「実の兄君の前で恐縮ですが、私も彼女を家族の様に見守り、彼女も私を支えてくれました。そうして近くで見てきた私から言わせてもらえば、趙雲は決して、貴殿が思うような不誠実な扱いはしておらぬかと」
主君のその言葉に、荘はふん、と不承不承といった様子で鼻を鳴らした。
劉備の真っ直ぐで誠実な眼差しを受け止めるうちに、少しだけその頑なな肩の力が抜ける。
「では、あの女はなんだ」
ここまで来たら、もう全てを話すしかなくなった趙雲は覚悟を決めた。
そもそもここで何も言わなければ、○は村に連れて帰られてしまう。
それは阻止したかった。
話の内容は自身の優柔不断を曝け出すもので情けないが、幸いここには劉備しかいない。
○の視線が趙雲に向けられる。
「全てお話します。○、殿も聞いてほしい。まず私は、おま…貴殿にいくつか……嘘をついた」
その告白に○は目を見開き、荘はさらに険しい顔で身構える。
「今朝、渡した薬。あれは薬師から貰ったものではない。……荘殿が”恋人”だと誤解している女性から…買ったものだ」
キュッと目元がきつくなる○から目をそらさずに続けた。
「彼女は、貴殿も一度私の村で会った小蘭だ。覚えているか?」
そう言われて○は思い出す。
趙雲が幼い頃に憧れていたという同郷の綺麗な女性だ。
「彼女が偶然、成都に来ていた。商隊に身を置いているというから、貴殿の火傷のためにと薬を見繕ってもらった。……だが、渡されたのがあの妙に可愛らしい陶器でな。女性から受け取ったものだと正直に言えば怒るだろうと……私はとっさに、薬師から貰ったものだと嘘をついたのだ」
趙雲の言葉に○は呆然としながらも、どこか妙に納得していた。
武骨な趙雲が選ぶにはあまりに不釣り合いな、あの華やかな入れ物。
それは小蘭が選んだものだったのだ。
「小蘭の事を荘殿に”恋人”だと誤解されたままに否定しなかったのは…人目を引く中、事細かに事情を説明するわけにもいかなかったからだ。彼女には世話になった手前、無礼を働くこともできず……そのまま話を合わせてしまった。これが全てだ…」
趙雲は○をジッとみた。
「気付けば嘘に嘘を重ね、小蘭にもいい顔をして嘘の上塗りでこんなことになってしまった。本当に申し訳ない」
静まり返った謁見の間で、趙雲の謝罪が響く。
劉備は黙ってその様子を見守り、荘は鼻を鳴らした。
「……昼の巡回、本当は、私のことが心配でついてきてほしくなかったのではなく、小蘭さんに鉢合わせるのが嫌だっただけなのですね」
○の声は低く、どこか呆れたような、それでいてひどく悲しげな響きを帯びていた。
「…そうだ」
「私が小蘭さんの話を聞いたら、怒ると思ったんですか」
「……怒ると思った。それに、近頃の貴殿は私に過度に干渉しなくなっていた。それが崩れるのも嫌だった」
趙雲の告白は、あまりにも正直だった。
波風を立てたくないという、彼の臆病な配慮がこんな騒ぎになってしまっている。
それを聞いた荘は、怒りを通り越して大きな溜息をつき、呆れ果てたように首を振った。
「劉備殿。やはりこの男は駄目です。武芸は超一流かもしれんが、この様に頼りなき男に妙齢の妹を預けてはおけません。……それに○。お前もいい加減にしろ。そもそもこれだけ経っても何の進展もない関係など、お前に勝ち目はないという事だ。趙子龍ほどの武人になればそれこそ引く手あまた。お前が近くにいてはそれらの妨げになるだけだ」
今度は宥めて連れ帰ろうとするその言葉に、劉備は慌てる。
「いえ、荘殿。それは彼が……彼なりの立場を考えて、そういう言い方をしただけであって……」
だが、劉備はそこで言葉を飲み込んだ。
趙雲の○に抱く気持ちは、長く二人を見てきた自分は痛いほど分かっている。
しかし、それを今、他人が代わりに説明したところで何の意味があるのか。
これは趙雲自身の口から、自ら伝えるべきことだと思った。
「帰るぞ、○」
荘は○の腕を引いた。
すると咄嗟にその荘の手首を趙雲がつかむ。
驚いて○が趙雲を見る。
「…本人は、嫌がっているではありませんか」
「なに?」
低くくぐもった声でそう言った趙雲の腕の力に、荘が顔を覗き込む。
○は「子龍様…」と、微笑んだ。
「帰らない!」
趙雲と荘を見比べて微笑む○。
「嘘をつかれていた事は腹が立つけど、それは子龍様が……愛しているとは言えないまでも、私に嫌われたくないと思ってくださってる証拠でしょ。…ね、子龍様」
○がそう言って顔を覗き込むと、趙雲はたじろいで荘の手を解放する。
「そ、そう、だな……。……嫌われたくなかったのは事実だ」
趙雲は絞り出すようにそう答えるのが精一杯だった。
そのあまりに情けない…しかし必死な様子を横で見ていた荘は大きく唸った。
「……劉備殿。妹は、とんでもなく面倒な男に惚れてしまったようだ」
あきらめと深い困惑の混じった荘の言葉に、劉備は(この期に及んで、まだその程度の事しか言えぬか…)と内情では呆れ果て苦笑した。
一方で○は、「子龍様はなんだかんだで私の事を大切に想ってくださってるわ」と、勝利したような顔で趙雲の腕に捕まっている。
「まあいい。では、とりあえずしばらく様子を見せてもらう。お前も私に嘘をついている可能性があるからな」
荘は、趙雲にべったりと寄り添う○を指さした。
「嘘?」
心当たりがないという顔で首を傾げる○に、荘は懐から一通の書状を取り出した。
「お前からの手紙には毎度、『子龍様と仲良く暮らしている』『子龍様とうまくいっている』と書いていたではないか。どこがうまくいっている。先ほどまでの体たらくは何だ。お前はただ、一方的にこの男を追い回しているだけではないのか」
「いってるわ。嘘じゃない。捉え方の問題よ」
○はあっさりと言い返す。
たまに見られる趙雲からの気持ちを寄せ集めて、それで満足し、今もこうして追い続けているのだと察する。
趙雲は、きっぱりとそう言い張る○と、自分を値踏みするように見つめる荘の視線の間で、ただひたすら居心地悪そうに身を固くしていた。
「……とにかく、兄君。貴殿がここに留まられる間、私が責任を持って貴殿の生活の不自由がないよう計らいましょう」
趙雲がようやく絞り出したその言葉に、劉備は頷く。
「そうだな。まずは積もる話もあるだろう。城の案内からしてはどうだろうか」と締めくくり、あまりにも騒がしい謁見の時間は幕を閉じることとなった。
「でも、まさか小蘭さんといたなんて…」
謁見の間を出て、静まり返った廊下に出るなり、○がぽつりと呟いた。
すぐ後ろでは荘が睨みを利かせている。
「それは……許せ」と、趙雲は短く答えた。
「どうせまた断り切れなくて、抱き着かれたり身体を触られたりしてたんですよね……」
なんとなく光景が思い浮かぶ○の足取りが重くなる。
「なんだかそういう事を考えてたら…結局、私もそのうちの一人なんじゃないかって思えるんですよね、時々」
○は滅多に泣かない。
怒ったり拗ねたりはするが、泣いたり悲しそうにすることは酔った時以外になかった。
そんな○が少し悲しそうな横顔を見せる。
張飛にも星彩にも言われた事がある。
『趙雲があの性格だから、○の押しかけ女房は成立している』と。
どれほど側にいても、結局自分は”押し切った女性たち”と何が違うのか。
そんな不安が、言葉の端々に滲んでいた。
趙雲は言葉を詰まらせた。
その後ろで、荘の鼻息が一段と荒くなる。
「だから諦めろ。お前もその他大勢の一人だ」
「もー、兄さんはうるさい!」
○は眉間にしわを寄せて振り向く。
「うるさい、ではない。女ざかりを見込みのない男を追い回して過ごし、行き遅れたらどうする!現に町の女に気付いていなかったろう!あのままあの女とねんごろにでもなり子供でも出来てみろ。お前などあっさり捨てられるのが関の山だ」
「飛躍し過ぎでしょ!変な事いわないでよ!子龍様はそんな事しないの!」
「言い切れる根拠がどこにある!あの女子にも好き勝手抱き着かれ、今はお前にへばりつかれてもそのままだ。拒まぬということは、受け入れているも同義だ。男という生き物を甘く見るな!」
「そりゃ兄さんは小蘭さんに抱き着かれたら死ぬほど興奮するでしょうけど、兄さんと違って子龍様は女性に慣れてるの!」
「慣れている!?」
目をむく兄君。
そして流石の趙雲もその言い様に驚く。
兄妹の激しい言い争いの中心に据えられ、趙雲はもはや生きた心地がしなかった。
荘の言葉は極論に過ぎるが、○の自分に対する評価もなかなかのもの。
廊下を通る兵たちが遠巻きにこの修羅場を伺い、趙雲はただ深く項垂れるしかなかった。
そこに正面から馬超が歩いてきた。
彼はその快活な笑みを浮かべたまま、傍らに立つ荘を○の兄だとも知らず、いつもの調子で○に話しかけた。
「なんだ、○。また趙雲にべったりか。お前もいつまでもうだつの上がらぬ男より、いっそ俺にしておけばいいものを」
その冗談めかしたいつもの挨拶に、趙雲はギクリとして顔を強張らせた。
この状況で最も聞かれたくない言葉だ。
荘が一歩前に出る。
「……貴殿ならば、うだつが上がるのか?」
馬超の頭一つ分程大きい荘を見上げて、馬超は笑った。
「おお!立派な御方だな。初めて見る顔だ。……まあ、そうだな!俺なら煮え切らぬ態度は取らんつもりだ!」
馬超は豪快に笑い飛ばし、胸を張って言い放った。
○からすれば、馬超がからかう時に使う「いつもの調子」であり、女性相手ならあの真面目な星彩にすら言う台詞なのだが、荘の受け取り方は違った。
「貴殿、名は?」
「馬孟起だ。西涼の馬超と言えば、この辺りでは少しは知られているはずだがな」
荘の口角が、今日初めて微かに上がった。
趙雲を見る時とは明らかに違う、好意的な眼差し。
荘は馬超の肩をガシリと掴んだ。
「馬超殿と言ったか。城の案内を頼めるか?その折、話がしたい。妹に煮え切らぬ態度を続ける男より、貴殿のような快活そうな男の方が、身内としては話が早そうだ」
「??なんだ?まあ、案内くらいなら」
そう言って二人で歩きだすのを見送った○はため息をつく。
○の周囲で男を見れば、すぐにああして”婿探し”の様な事をするのは相変わらずだ。
そして隣で石のように固まっている趙雲を見上げた。
「子龍様、なんだか今日は……いつになく大人しかったですね」
○が呆れたように声をかける。
すると趙雲は、苦渋に満ちた表情で視線を落とした。
「……それはそうだろう。お前に嘘をついてまで、隠れて女性と会い……」
「会い……? まさか、待ち合わせまでして会ってたんですか!? 偶然に見かけたとかではなく?」
○の声に鋭さが増す。
先ほど「成都に来ていた」とは聞いたが、わざわざ約束をして会っていたとは聞いていない。
○はジリッと趙雲に詰め寄り、その顔を覗き込む。
「そういえばそうですよね…薬を頼んだって仰ってから受け取りまで日があります。それに女性から買ったってだけならあんなに隠す必要だってなかったはずですから。やましい事がおありなんですよね」
(しまった……)
正直に話そうとするあまり、言わなくてもいい詳細まで口を滑らせてしまった。
「…あの場では詳細を省いただけだ」
「またそれですか!それで兄さんに小蘭さんの事を恋人だと勘違いされたのに!?」
「言い忘れだ。詳しく聞かれたら話すつもりでいた」
「なんですかそれ!待ち合わせまでして会うなんて…逢瀬じゃないですか!悔しいー!私と出かけたらさっさと帰るくせに!」
「服を引っ張るな!伸びる!」
劉備は遠く離れていく二人の背中を眺めていた。
(あの喧嘩は、客観的に見ればまさに痴話喧嘩そのものなのだが……)
趙雲は○の追及から逃げるように早歩きで自室へと向かっている。
その背中に纏わりつきながら文句を言う○。
「離れろ!人目がある」と厳しく突き放すようなことを言いながら、火傷の痛みが残るであろう○だからか、普段の様な雑な身体の捌き方はせずにいる。
劉備は長年趙雲を見てきたが、今でも長坂で○を連れ帰ってきた時の趙雲の顔が忘れられないでいた。
それまでの凛とした厳しい目元が僅かに綻んでいて、内心驚いたものだ。
しかし趙雲はこれを絶対に認めないし、「その様な事はありません」と真顔で言い張るのだろう。
劉備はそんな趙雲の未来を見ていたいと思った。
一方、趙雲は背後から攻め立てる○をかわしながら思った。
(……しかし。やはり兄妹だな。よく似ている。完全に親族だ)
怒鳴り散らす勢いと言い、思い込んだら止まらない頑固さと言い。
(あの兄にしてこの妹あり、か)
趙雲は複雑な表情のまま、○を引きずりスタスタと廊下を進んでいくのだった。
すると門兵が駆け寄る。
「趙雲殿、戻り次第、謁見の間に来てほしいと劉備様が」
「劉備殿が…?分かった」
趙雲は小さく頷くと、すぐさま長い回廊を渡り謁見の間の重い扉を開いた。
広々とした謁見の間の玉座には、柔和な笑みを浮かべた劉備が座っている。
そしてその前に堂々と立っているのは、先ほど路地裏で小蘭を助けた大男だった。
「おお、戻ったか趙雲! 急に呼び立ててすまないな」
劉備がいつも通り親しげに趙雲の名を呼んだ瞬間、大男が振り返った。
「趙雲。こちらの方、一体どなただと思う?」
にこやかにもったいぶる劉備だったが、大男は趙雲から目を離さないまま声を遮った。
「……失礼、劉備殿。確認したいのですが……この男が、あの『常山の趙子龍』でしょうか」
「ええ。我が軍が誇る猛将であり、私が最も信頼を寄せる、極めて誠実な男ですよ」
劉備が我が事のように誇らしげに胸を張って紹介する。
しかし、大男の口元はへの字に歪めている。
「誠実……。しかし劉備殿、私は先ほど市井で、この男が恐らく軍務中に”恋人と”睦まじくいるのを見ましてな」
「は……恋人?」
劉備は首をかしげて天井を見る。
「まだその様には聞いておりませんが…おや?まだ妹君にはお会いしていないと先ほど…」
大男の言葉。
劉備の困惑。
そして『妹君』。
趙雲はその場で硬直した。
(まさか…)
そんな趙雲の動揺など露知らず、劉備は手を叩いて嬉しそうに話す。
「ああ、紹介がまだだったな! 趙雲、驚くなよ。こちらにいらっしゃるのは、なんと○殿の兄上の荘殿だ。わざわざ訪ねて来られたのだぞ!」
謁見の間に沈黙が落ちる。
目の前で腕を組み、面白くなさそうに自分を睨みつけている大男。
先ほど自分が剣まで抜きかけ、挙句の果てに小蘭との関係を勘違いしている人物。
「私は妹の○より、趙子龍を追ってここにいると聞いておりましてな」
「? ええ。それはもう、○殿は趙雲を大変慕っておりますよ。彼女も趙雲と共に戦場に出て、見事に役目を果たしております」
劉備は何一つ疑うことなく、にこやかに頷いた。
兄の手前、普段は呼び捨てる○の事を敬称をつけて呼ぶ。
しかし、すぐに「おや?」と首を傾げる。
「しかし、恋人とは……。趙雲、ついに○殿の気持ちに応える決心がついたのか?」
劉備の純粋な瞳が趙雲に向けられた。
それが今の趙雲には残酷に突き刺さる。
「劉備殿…それは…」
趙雲はやっと声を絞り出した。
彼には先程、自分が小蘭といた所を見られている。
小蘭は趙雲の胸の中におり、小蘭は抱き着くようにしていた。
彼が小蘭の事を「恋人」と言ったことも受け入れて礼まで言った。
恐らく兄君・荘の目には、『妹に追わせておきながら、他の女と色恋沙汰にうつつを抜かしている不実な男』として映っているに違いない。
「劉備殿。貴殿にとっては誠実なのでしょうな。戦ぶりも素晴らしいと聞く。戦場に身を置いていれば耳に入る名ですから」
荘はあえて趙雲から視線を外し、劉備に向かって淡々と話しかける。
「趙雲の武勇と忠義は、我が軍にとってなくてはならない宝ですよ」
主君である劉備は、我が事のように嬉しそうに何度も頷く。
「しかし恐らく…貴殿も知らぬ女子を、この男は城の外で恋人にしておりますぞ」
「……は?」
劉備の笑顔がぴたりと止まった。
荘の視線が再び趙雲へと向けられる。
劉備も怪訝に思いながらも趙雲の顔を見た。
趙雲は戦場では決して見せることのない顔をしている。
引きつり、激しく動揺している。
長年行動を共にしてきた劉備には、趙雲のその尋常ではない様子だけで、兄君の言葉が全くの的外れではないことを察した。
なにかあったのだろう。
「劉備殿、申し訳ないが……妹を、○を引き取っても構わないだろうか」
重々しく告げられた荘の言葉に、劉備は「あー……」と困ったように視線を泳がせ、再びチラリと趙雲を見た。
「その、荘殿。○殿は今や我が軍にとって大事な戦力なのです。突然抜けると言われますと、軍としては少々困ってしまいます。それに彼女本人が何と言うか…」
劉備は苦しい表情を浮かべながらも、どうにか趙雲を庇おうとそう返した。
しかし荘は深く首を横に振った。
「このような男の尻を何年も追っていたかと思うと、兄として情けないのです。…我が村の女は外の男に弄ばれる者も多いので、仕方のない事でもありますが」
「弄ぶなど……っ」
その容赦のない言葉に、趙雲は思わず息を詰まらせた。
そんなつもりは毛頭ない。
「……荘殿、それは誤解です。私はそのような…」
「ならば、先ほど貴殿の胸の中にいたあの女子は誰だ?私が”恋人”と言った時にも双方受け入れていたではないか」
(どうしたものか……)
大至急で趙雲を庇ってやりたい劉備だったが、こと○の件に関しては、いつも融通の利かない趙雲だ。
ここで自分が下手に助け舟を出しても、余計に頑固になって状況がこじれる可能性がある。
しかも肝心の趙雲は後ろめたい事があるのか何も言わない。
劉備は完全に板挟みとなっていた。
「とりあえず、一度落ち着いて、お互いに話を……」
どうにか場を収めようと切り出した、その時。
「失礼いたします。○です。お呼びでしょうか、劉備様」
謁見の間に、今、最も響いてほしくない声が響く。
(しまった……!)
劉備は青ざめる。
○にも「会わせたい人がいるから、昼の休憩が明けたら謁見の間へ来るように」と言い渡していたのだ。
扉の向こうから歩いてきた○は、中央に立つ趙雲と、その隣にそびえ立つ巨体を見て目を丸くした。
「兄さん!? え……もう到着したの? 来るとは聞いていたけど、村から一月はかかると思ったのに…」
○は驚きのあまり声を上げたが、すぐに嬉しそうに駆け寄る。
「あ、子龍様にはもう先にお会いしたのね。あのね、兄さん、子龍様はとっても……」
「――○」
言い終わる前に、荘は○の手首をつかむ。
「荷物をまとめろ。このような不埒な男の側に、これ以上置いてはおけん。お前を村に連れて帰る」
「不埒?」
「お前が『一度、子龍様と会ってほしい』と何度も手紙を送ってくるから来てみれば……。町でこの男は、お前では到底及ばぬ見目の女子を『恋人』と認めていたぞ。何をしてるんだ、お前は」
「え…」
「お前はあの男に弄ばれていたのだ。そんなことも気づかずに何年も…情けない!」
兄の言う事が理解できずに首をかしげる○。
二人のこれまでの歩みと、趙雲がどれほど不器用ながらも○を大切に思っているかを知る劉備は身を乗り出す。
「お待ちください、荘殿! 確かに状況は複雑そうですが、趙雲は彼女をそんな風に扱う男ではありません」
「そうです…誤解があります」
やっと趙雲もそう言って踏み出すが、まだどこかで誤魔化せる箇所を探してしまい言葉が出ない。
「何が違うのだろう。城下の路地裏で美しい女子が貴殿の胸に飛び込まんばかりに縋り付き、貴殿もそれを恋人だと認め、守るように立ちはだかったではないか!」
「それは……っ!ああ、どこから話せばいいのか…」
まごつく趙雲をじっと見ていた○。
しばらく茫然としていたが、小さく「子龍様…」と呟いた。
息が詰まるような沈黙の中、○は拳を握りしめた。
「……また浮気ですか!? どうせまた相手に押し切られて、はっきり断れなかったんでしょ! もうっ!ちょっと信用して目を離したら、すぐにこれなんですから!」
荘が思わず手を緩め、劉備が素っ頓狂な声を上げた。
当の趙雲はといえば、あまりの衝撃に開いた口が塞がらない。
悲しみに沈むかと思われた○の口から飛び出したのは、あまりにも趙雲の悪癖を熟知した叱責だった。
(良かった。 ○は、趙雲の拗らせ気質を完全に理解してくれている……)
自分の事の様にホッとする劉備。
しかし、言われた趙雲はそれどころではない。
安堵よりも先に、あまりにも人聞きの悪い言葉に抗弁した。
「また…などと……っ! 人聞きの悪いことを言わないでくれ!そもそも…我々は女性関係をどうこう言われる関係ではない!」
これはいつもの趙雲の言い分ではあるが、今ここでそれを言うのは良くなかった。
○はいつもの事とばかりに「まだそんな事いってるんですか!」と憤慨するが、兄は違う。
「○。もういい加減にしろ」
その低く厳しい声に、○がビクリと肩を揺らす。
「分かっただろう。お前の一人相撲だ。こんなことではないかと思っていた。……我らの村の…あの『影踏み』の儀式を外の男と行い、それに翻弄され傷ついて村に戻ってくる女を、私はこれまで何人も見てきた。まさか我が妹がとは思っていたが」
荘の言葉は、妹を案じる兄としての本心だった。
形骸化した古い儀式の約束に縛られ、それを利用した村の外の男に都合よく扱われているだけではないのか、と。
「違うの、兄さん! 子龍様はね、こういう…だらしない……じゃなくて、女性関係のいざこざに巻き込まれやすいというか。ほら、格好良いから寄ってくる人が多いのよ!だから私が見張ってなくちゃ」
なんとか取り持とうと必死な○だったが、荘は呆れたように首を横に振るばかり。
「まったく……。六つの頃から“子龍様、子龍様”とうるさくし、免許皆伝をもらうや否や村の許嫁も勝手に破談にして飛び出したかと思えばこれか。情けない」
「許嫁なんて、兄さんたちが勝手に決めたんでしょ! 私は最初から認めてなかった!」
「何を言うか。六つで勝手に影踏みの儀を執り行い、あの男に執着するお前をそれでも引き取ると言ってくれたのだ。有り難い話だったのだぞ!」
「ありがた迷惑よ!犬や猫じゃあるまいし!それに影踏みに負けたから付いてきたんじゃなくて、子龍様を見た時にビビッときたの!」
兄妹喧嘩が始まり、劉備は「まあまあ、二人とも」となだめようとするが、どこか性質の似た兄妹の耳には届かない。
「お前という奴は、本当に昔から頑固で人の話を聞かん……!」
「兄さんこそ、過保護すぎるのよ!なんで貴族でも武家でもない村娘なのに、兄さんに将来の相手まで決められなくちゃならないの!昔からその心配ばっかり!」
「村の因習があるからだ!お前は村の男と結婚するのが一番! ちゃんと目星もつけてきた! 趙子龍とうまくいっているのならつゆ知らず…お前を連れて帰ると言っても、今なおあの男はだんまりではないか! 連れて帰るぞ!」
そう言って○の腕を引っ張る兄に、足を踏ん張る○。
思い切りその腕を振りほどくと趙雲に抱き着いた。
「子龍様もなんとか言ってください!戦ではあれほどお強いのに、どうしてそんなに黙り込んでいるんですか!? 何か事情がおありなんでしょう!? だって、子龍様だって……きっと私のこと……っ!」
「その様な不潔な男に抱きつくな!!」
すかさず荘の腕が伸びて○を引き剥がそうとする。
それでも趙雲の服の袖を引っ張る○。
「○、落ち着いてくれ。とりあえずお前も手を離し…」
「――『お前』だと……?」
荘が恐ろしい形相で趙雲を睨み据える。
「○に対しては恋人ではないと言い切り、城下には別の女子がいる。そのくせ妹を馴れ馴れしく呼び、我が物顔で側に置いている……。貴殿は妹を、一体どのような立場で扱っているのだ」
ついに矛先が趙雲へと向けられる。
「まぁまぁ、荘殿。この趙雲という男は、戦場では恐ろしいほどに果断ですが、私生活においては色々と考えすぎてしまう嫌いがありまして」
一触即発の空気の中、見かねた劉備が主君としての威厳を湛えた声で助け舟を出した。
「実の兄君の前で恐縮ですが、私も彼女を家族の様に見守り、彼女も私を支えてくれました。そうして近くで見てきた私から言わせてもらえば、趙雲は決して、貴殿が思うような不誠実な扱いはしておらぬかと」
主君のその言葉に、荘はふん、と不承不承といった様子で鼻を鳴らした。
劉備の真っ直ぐで誠実な眼差しを受け止めるうちに、少しだけその頑なな肩の力が抜ける。
「では、あの女はなんだ」
ここまで来たら、もう全てを話すしかなくなった趙雲は覚悟を決めた。
そもそもここで何も言わなければ、○は村に連れて帰られてしまう。
それは阻止したかった。
話の内容は自身の優柔不断を曝け出すもので情けないが、幸いここには劉備しかいない。
○の視線が趙雲に向けられる。
「全てお話します。○、殿も聞いてほしい。まず私は、おま…貴殿にいくつか……嘘をついた」
その告白に○は目を見開き、荘はさらに険しい顔で身構える。
「今朝、渡した薬。あれは薬師から貰ったものではない。……荘殿が”恋人”だと誤解している女性から…買ったものだ」
キュッと目元がきつくなる○から目をそらさずに続けた。
「彼女は、貴殿も一度私の村で会った小蘭だ。覚えているか?」
そう言われて○は思い出す。
趙雲が幼い頃に憧れていたという同郷の綺麗な女性だ。
「彼女が偶然、成都に来ていた。商隊に身を置いているというから、貴殿の火傷のためにと薬を見繕ってもらった。……だが、渡されたのがあの妙に可愛らしい陶器でな。女性から受け取ったものだと正直に言えば怒るだろうと……私はとっさに、薬師から貰ったものだと嘘をついたのだ」
趙雲の言葉に○は呆然としながらも、どこか妙に納得していた。
武骨な趙雲が選ぶにはあまりに不釣り合いな、あの華やかな入れ物。
それは小蘭が選んだものだったのだ。
「小蘭の事を荘殿に”恋人”だと誤解されたままに否定しなかったのは…人目を引く中、事細かに事情を説明するわけにもいかなかったからだ。彼女には世話になった手前、無礼を働くこともできず……そのまま話を合わせてしまった。これが全てだ…」
趙雲は○をジッとみた。
「気付けば嘘に嘘を重ね、小蘭にもいい顔をして嘘の上塗りでこんなことになってしまった。本当に申し訳ない」
静まり返った謁見の間で、趙雲の謝罪が響く。
劉備は黙ってその様子を見守り、荘は鼻を鳴らした。
「……昼の巡回、本当は、私のことが心配でついてきてほしくなかったのではなく、小蘭さんに鉢合わせるのが嫌だっただけなのですね」
○の声は低く、どこか呆れたような、それでいてひどく悲しげな響きを帯びていた。
「…そうだ」
「私が小蘭さんの話を聞いたら、怒ると思ったんですか」
「……怒ると思った。それに、近頃の貴殿は私に過度に干渉しなくなっていた。それが崩れるのも嫌だった」
趙雲の告白は、あまりにも正直だった。
波風を立てたくないという、彼の臆病な配慮がこんな騒ぎになってしまっている。
それを聞いた荘は、怒りを通り越して大きな溜息をつき、呆れ果てたように首を振った。
「劉備殿。やはりこの男は駄目です。武芸は超一流かもしれんが、この様に頼りなき男に妙齢の妹を預けてはおけません。……それに○。お前もいい加減にしろ。そもそもこれだけ経っても何の進展もない関係など、お前に勝ち目はないという事だ。趙子龍ほどの武人になればそれこそ引く手あまた。お前が近くにいてはそれらの妨げになるだけだ」
今度は宥めて連れ帰ろうとするその言葉に、劉備は慌てる。
「いえ、荘殿。それは彼が……彼なりの立場を考えて、そういう言い方をしただけであって……」
だが、劉備はそこで言葉を飲み込んだ。
趙雲の○に抱く気持ちは、長く二人を見てきた自分は痛いほど分かっている。
しかし、それを今、他人が代わりに説明したところで何の意味があるのか。
これは趙雲自身の口から、自ら伝えるべきことだと思った。
「帰るぞ、○」
荘は○の腕を引いた。
すると咄嗟にその荘の手首を趙雲がつかむ。
驚いて○が趙雲を見る。
「…本人は、嫌がっているではありませんか」
「なに?」
低くくぐもった声でそう言った趙雲の腕の力に、荘が顔を覗き込む。
○は「子龍様…」と、微笑んだ。
「帰らない!」
趙雲と荘を見比べて微笑む○。
「嘘をつかれていた事は腹が立つけど、それは子龍様が……愛しているとは言えないまでも、私に嫌われたくないと思ってくださってる証拠でしょ。…ね、子龍様」
○がそう言って顔を覗き込むと、趙雲はたじろいで荘の手を解放する。
「そ、そう、だな……。……嫌われたくなかったのは事実だ」
趙雲は絞り出すようにそう答えるのが精一杯だった。
そのあまりに情けない…しかし必死な様子を横で見ていた荘は大きく唸った。
「……劉備殿。妹は、とんでもなく面倒な男に惚れてしまったようだ」
あきらめと深い困惑の混じった荘の言葉に、劉備は(この期に及んで、まだその程度の事しか言えぬか…)と内情では呆れ果て苦笑した。
一方で○は、「子龍様はなんだかんだで私の事を大切に想ってくださってるわ」と、勝利したような顔で趙雲の腕に捕まっている。
「まあいい。では、とりあえずしばらく様子を見せてもらう。お前も私に嘘をついている可能性があるからな」
荘は、趙雲にべったりと寄り添う○を指さした。
「嘘?」
心当たりがないという顔で首を傾げる○に、荘は懐から一通の書状を取り出した。
「お前からの手紙には毎度、『子龍様と仲良く暮らしている』『子龍様とうまくいっている』と書いていたではないか。どこがうまくいっている。先ほどまでの体たらくは何だ。お前はただ、一方的にこの男を追い回しているだけではないのか」
「いってるわ。嘘じゃない。捉え方の問題よ」
○はあっさりと言い返す。
たまに見られる趙雲からの気持ちを寄せ集めて、それで満足し、今もこうして追い続けているのだと察する。
趙雲は、きっぱりとそう言い張る○と、自分を値踏みするように見つめる荘の視線の間で、ただひたすら居心地悪そうに身を固くしていた。
「……とにかく、兄君。貴殿がここに留まられる間、私が責任を持って貴殿の生活の不自由がないよう計らいましょう」
趙雲がようやく絞り出したその言葉に、劉備は頷く。
「そうだな。まずは積もる話もあるだろう。城の案内からしてはどうだろうか」と締めくくり、あまりにも騒がしい謁見の時間は幕を閉じることとなった。
「でも、まさか小蘭さんといたなんて…」
謁見の間を出て、静まり返った廊下に出るなり、○がぽつりと呟いた。
すぐ後ろでは荘が睨みを利かせている。
「それは……許せ」と、趙雲は短く答えた。
「どうせまた断り切れなくて、抱き着かれたり身体を触られたりしてたんですよね……」
なんとなく光景が思い浮かぶ○の足取りが重くなる。
「なんだかそういう事を考えてたら…結局、私もそのうちの一人なんじゃないかって思えるんですよね、時々」
○は滅多に泣かない。
怒ったり拗ねたりはするが、泣いたり悲しそうにすることは酔った時以外になかった。
そんな○が少し悲しそうな横顔を見せる。
張飛にも星彩にも言われた事がある。
『趙雲があの性格だから、○の押しかけ女房は成立している』と。
どれほど側にいても、結局自分は”押し切った女性たち”と何が違うのか。
そんな不安が、言葉の端々に滲んでいた。
趙雲は言葉を詰まらせた。
その後ろで、荘の鼻息が一段と荒くなる。
「だから諦めろ。お前もその他大勢の一人だ」
「もー、兄さんはうるさい!」
○は眉間にしわを寄せて振り向く。
「うるさい、ではない。女ざかりを見込みのない男を追い回して過ごし、行き遅れたらどうする!現に町の女に気付いていなかったろう!あのままあの女とねんごろにでもなり子供でも出来てみろ。お前などあっさり捨てられるのが関の山だ」
「飛躍し過ぎでしょ!変な事いわないでよ!子龍様はそんな事しないの!」
「言い切れる根拠がどこにある!あの女子にも好き勝手抱き着かれ、今はお前にへばりつかれてもそのままだ。拒まぬということは、受け入れているも同義だ。男という生き物を甘く見るな!」
「そりゃ兄さんは小蘭さんに抱き着かれたら死ぬほど興奮するでしょうけど、兄さんと違って子龍様は女性に慣れてるの!」
「慣れている!?」
目をむく兄君。
そして流石の趙雲もその言い様に驚く。
兄妹の激しい言い争いの中心に据えられ、趙雲はもはや生きた心地がしなかった。
荘の言葉は極論に過ぎるが、○の自分に対する評価もなかなかのもの。
廊下を通る兵たちが遠巻きにこの修羅場を伺い、趙雲はただ深く項垂れるしかなかった。
そこに正面から馬超が歩いてきた。
彼はその快活な笑みを浮かべたまま、傍らに立つ荘を○の兄だとも知らず、いつもの調子で○に話しかけた。
「なんだ、○。また趙雲にべったりか。お前もいつまでもうだつの上がらぬ男より、いっそ俺にしておけばいいものを」
その冗談めかしたいつもの挨拶に、趙雲はギクリとして顔を強張らせた。
この状況で最も聞かれたくない言葉だ。
荘が一歩前に出る。
「……貴殿ならば、うだつが上がるのか?」
馬超の頭一つ分程大きい荘を見上げて、馬超は笑った。
「おお!立派な御方だな。初めて見る顔だ。……まあ、そうだな!俺なら煮え切らぬ態度は取らんつもりだ!」
馬超は豪快に笑い飛ばし、胸を張って言い放った。
○からすれば、馬超がからかう時に使う「いつもの調子」であり、女性相手ならあの真面目な星彩にすら言う台詞なのだが、荘の受け取り方は違った。
「貴殿、名は?」
「馬孟起だ。西涼の馬超と言えば、この辺りでは少しは知られているはずだがな」
荘の口角が、今日初めて微かに上がった。
趙雲を見る時とは明らかに違う、好意的な眼差し。
荘は馬超の肩をガシリと掴んだ。
「馬超殿と言ったか。城の案内を頼めるか?その折、話がしたい。妹に煮え切らぬ態度を続ける男より、貴殿のような快活そうな男の方が、身内としては話が早そうだ」
「??なんだ?まあ、案内くらいなら」
そう言って二人で歩きだすのを見送った○はため息をつく。
○の周囲で男を見れば、すぐにああして”婿探し”の様な事をするのは相変わらずだ。
そして隣で石のように固まっている趙雲を見上げた。
「子龍様、なんだか今日は……いつになく大人しかったですね」
○が呆れたように声をかける。
すると趙雲は、苦渋に満ちた表情で視線を落とした。
「……それはそうだろう。お前に嘘をついてまで、隠れて女性と会い……」
「会い……? まさか、待ち合わせまでして会ってたんですか!? 偶然に見かけたとかではなく?」
○の声に鋭さが増す。
先ほど「成都に来ていた」とは聞いたが、わざわざ約束をして会っていたとは聞いていない。
○はジリッと趙雲に詰め寄り、その顔を覗き込む。
「そういえばそうですよね…薬を頼んだって仰ってから受け取りまで日があります。それに女性から買ったってだけならあんなに隠す必要だってなかったはずですから。やましい事がおありなんですよね」
(しまった……)
正直に話そうとするあまり、言わなくてもいい詳細まで口を滑らせてしまった。
「…あの場では詳細を省いただけだ」
「またそれですか!それで兄さんに小蘭さんの事を恋人だと勘違いされたのに!?」
「言い忘れだ。詳しく聞かれたら話すつもりでいた」
「なんですかそれ!待ち合わせまでして会うなんて…逢瀬じゃないですか!悔しいー!私と出かけたらさっさと帰るくせに!」
「服を引っ張るな!伸びる!」
劉備は遠く離れていく二人の背中を眺めていた。
(あの喧嘩は、客観的に見ればまさに痴話喧嘩そのものなのだが……)
趙雲は○の追及から逃げるように早歩きで自室へと向かっている。
その背中に纏わりつきながら文句を言う○。
「離れろ!人目がある」と厳しく突き放すようなことを言いながら、火傷の痛みが残るであろう○だからか、普段の様な雑な身体の捌き方はせずにいる。
劉備は長年趙雲を見てきたが、今でも長坂で○を連れ帰ってきた時の趙雲の顔が忘れられないでいた。
それまでの凛とした厳しい目元が僅かに綻んでいて、内心驚いたものだ。
しかし趙雲はこれを絶対に認めないし、「その様な事はありません」と真顔で言い張るのだろう。
劉備はそんな趙雲の未来を見ていたいと思った。
一方、趙雲は背後から攻め立てる○をかわしながら思った。
(……しかし。やはり兄妹だな。よく似ている。完全に親族だ)
怒鳴り散らす勢いと言い、思い込んだら止まらない頑固さと言い。
(あの兄にしてこの妹あり、か)
趙雲は複雑な表情のまま、○を引きずりスタスタと廊下を進んでいくのだった。