疑惑編【全5話】
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翌朝。
差し込む朝の光で目を覚ました○は、まだ少し頭が重いのを感じながらも目を覚ました。
寝返りを打とうとして、ふと枕元に違和感を覚えた。
そこには自分の持ち物ではない、小さな美しい薬入れが置かれている。
繊細な花の細工が施されたそれは、ひと目で女性向けに作られたものだと分かる。
(これ……誰のだろ)
身体を起こしてぼんやりとその小箱を見つめていると、控えめに戸を叩く音がした。
「○、起きているか」
「あ、子龍様。おはようございます」
そう挨拶をした○の手元を見た趙雲は一瞬たじろぐ。
昨夜、酔って○の枕元に薬を置き忘れてしまったことに気付いた。
その様子に○は何かに気づき、「これ、もしかして子龍様の物ですか?」と聞いた。
女性の趣味で選んだようなそれを角度を変えて見ている○。
「あ、ああ…それは」
「綺麗な入れ物ですね」
「お前の…為に手に入れた薬だ。前に言っておいたろう」
「そういえば…火傷の薬ですか?」
「……店主が…女性に渡すと言ったら、その入れ物に…してくれたのだ」
趙雲はそう言葉を添えた。
本当は小蘭が趙雲への贈り物として彼女の好みで選んだもの。
つまり半分は小蘭から趙雲への贈り物だ。
しかしそんな事を知らない○は、「嬉しい!ありがとうございます!」と喜ぶ。
嘘が嘘を呼び、○が嬉しそうにすればするほど、趙雲をとんでもない罪悪感が襲う。
(……本当は、他の女性からの贈り物だったなどとは死んでも言えん。私はこんなにも簡単に嘘がつける人間だったのか)
己の不誠実さに頭痛すら覚えながら、趙雲は逃げるように鍛錬場へと向かった。
激しく身体を動かしていたかった。
一通りの鍛錬を終え、荒い息を整えていた時。
「朝から精が出るな」
声をかけてきたのは、同じく朝の修練を終えたらしい馬超だった。
彼は首にかけた手拭いで汗を拭いながら、周囲に人がいないのを確認してから話す。
「さっき、回廊で○に会ったぞ。……あの薬、なんと言って渡したんだ?」
「……何がですか」
「あいつ、お前から貰ったっていう薬の陶器を嬉しそうに自慢してたぞ。あの様子だと入手経路は言って…ない、よなぁ」
趙雲の心臓が痛む。
「あの薬が他の女からの贈り物だってことが後からバレてみろよ。最悪な事になりかねんぞ」
「……馬超殿、私は……どうすればいいと思いますか…」
消え入りそうな声で相談してきた同僚に、馬超はハハッと快活に笑い肩を力強く叩いた。
「決まってるだろ。バレる前にこちらから腹を括って全部ぶちまけるしかない。放置していると、嘘が嘘を呼んで取り返しがつかなくなるぞ」
「もう呼び始めており…どこから手を付ければいいのか…」
「とにかく、あの美人を何とかした方が良くないか?」
状況がなんとなく分かってきた馬超は顎に手を当てる。
「お前が惜しいと思う気持ちも分かるぞ。町の男が振り返る様な美人だったからな。あんなのが駆け寄ってきたら、男ならそりゃあ少しは未練も残るだろうよ」
「――そうではありません!ただ、なにか…ああして期待された顔をされるとそれを裏切る事が出来ず」
趙雲は思わず声を荒らげ、きっぱりと否定した。
成人する頃には城勤めだった趙雲は、女官や侍女が女性同士で争うのをずっと見てきた。
誰かを立てれば他の誰かがその者を叩く。
それならばと、とにかく女性に対しては誰にでもそれなりに優しくしておけば波風が立たない…という彼なりの処世術が染みついたものだった。
気付けば女性が自分に優しく微笑むのを崩す事に、どこか罪悪感を抱くようになっていた。
そこに来てみれば○は、「怒られるのはまだいいが、束縛されるのが嫌だ」という、とても珍しい存在と言える。
「お前、いい年して一体何をしてるんだ。戦場じゃあ万軍を相手にとんでもなく強いというのに……いくらなんでも拗らせすぎじゃないか?」
馬超は呆れたように容赦のない言葉を畳みかける。
「世の女たちも、あれだけもてはやす常勝の将・趙子龍が、中身はこんなに女々しくて優柔不断な男だと分かれば散っていくだろうに。そうなれば○は安心するだろう!」
「…よくもそれだけ人の傷をえぐる様な事を…」
「よくもその様な事が言えるな!○には平気で噓をついて、あの美人には”嘘でもいいから”心に決めた女がいると言う事も出来ない。その矛盾が気になるだけさ。お前、自分で思っているほど、○の事を考えていないんじゃないか?」
趙雲はただただ沈黙するしかなかった。
昼に身支度を整える為に自室に戻ると、○の部屋から話し声が聞こえる。
月英の声だ。
「ちゃんと医務室に行かなくては駄目ですよ」と、窘められている。
面倒がって医務室に行かない○を気にして、背中に薬を塗りに来てくれたらしい。
「そうだ。ほら、これ。子龍様が用意してくださったんです。これなら自室で塗れます。いい薬だそうです」
その声に趙雲はヒヤリとする。
こうして○周囲に言い回っているのだろう。
「まぁ……美しい。細工も丁寧でとても素敵です。殿方でこのようなものが選べるなんて」
月英が感嘆の声を漏らしている。
「子龍様が、お知り合いの薬師の方から購入されたそうです。女性用にとこの陶器に入れてくださったのだと」
○の声は弾んでおり、心から趙雲の心遣いを信じ切っているのが伝わってくる。
「このような趣味の良い入れ物が選べる薬師がいるのですね。どちらの方でしょう。私もお願いしたいです」
「子龍様にお願いしてみますか?」
(……まずいな)
そんな会話が趙雲の胸に刺さる。
逃げるように自室に滑り込んだ。
(これ以上、嘘を重ねるわけにはいかない……!)
自室で着替えをしながら、ある決心をする。
(戦場に生き、いつ命を落とすかも定まらぬこの私が、特定の誰かを傍に置くことはないと、誤解のないように小蘭に伝えればいい)
とはいえ何度そう言っても付き纏う○もいるが、(○は人より図々しいだけだ。一般的な人間はこれで理解してもらえるだろう)と自分に言い聞かせる。
「よし!」と、気合を入れて部屋を出ると、ちょうど月英も○の部屋から出てくるところだった。
○も見送りの為に廊下にいた。
「趙雲殿。戻ってらしたのですね。お留守の間に勝手にお邪魔してしまい、失礼しました」
「いえ。○の為に来て下さったのでしょう」
そう挨拶する二人。
○は趙雲のいで立ちに巡回に行くのだと察する。
「子龍様、私も巡回について行ってよろしいですか?」
「えっ…!」
これから小蘭に今さっき決めた事を伝えに行こうと思っていたし、なによりその前に向こうに見つかれば鉢合わせる事になる。
「…いや、お前は背中の火傷がまだ治りきっていないだろう。今日は安静にしていなさい」
趙雲は努めて冷静に、突き放すような口調にならないよう気をつけながら諭した。
「え…?でも普通に仕事も家事もいつも通りしていましたよ?」
何故、巡回だけは駄目なのか…と○は趙雲を見上げる。
「いいから、安静にしていろっ」
食い下がる彼女に、趙雲は思わず語気が強まった。
○と月英が少し驚いたように瞬きをすると、慌てて視線をそらしながら咳ばらいをする。
「ええと…そう、戦で城が手薄だったこともあり、少し治安に不安がある。お前に何かあれば気が気でないからな。ここに居た方がいい」
そう言ってチラリと○を見ると、感動したように目を輝かせている。
「子龍様、そんなにも私の事を心配して下さるんですか?」
「も、もちろんだ。さあ、お前は部屋でゆっくりしていなさい。…ああ、私の服がほつれてしまってな。この直しを頼めるか?」
趙雲は『一日出てこないでくれ』という願いを込めて、用事を作って○を部屋の中に送る。
隣でその様子を見ていた月英も微笑んでいる。
「大勢の前では○さんに冷たく見えても、こうして自室で過ごしている間は仲睦まじいものなのですね」
そんな月英にも申し訳ない気持ちになりながら、趙雲は巡回に出かけた。
○を首尾よく部屋に押し込んだ趙雲は、巡回に向かった。
話す内容は考えたものの、それらをどう切り出すべきなのか…思考を巡らせながら歩いていると、不意に「おお、趙雲様ではございませんか!」と声をかけられた。
振り返ると、それは小蘭の商隊の男だった。
「奇遇ですね!すぐそこの店で取引の交渉をしていたんですよ。ちょっと待っていてください、今、小蘭を呼んできますから!」
「あ、いや、私は巡回の途中で――」
趙雲の制止も聞かず、男は当然のように店へと走っていってしまった。
そしてすぐに奥から小蘭が華やいだ笑顔を浮かべて姿を現した。
「まあ!偶然ね、こんなところで会えるなんて嬉しいわ」
嬉しそうに駆け寄ってくる彼女の姿を見て、趙雲はハッと我に返った。
深く考え込むあまり、大切な前提を見失いかけていたことに気づいたのだ。
(待て……考えてみれば、私は何度か彼女に誘われて食事をしただけで、別に小蘭から告白をされたわけでも何でもない。それなのに、いきなり『特定の誰かを傍に置くことはない』などと切り出すのは、自意識が過剰すぎてあまりにも滑稽ではないか……?)
言わんとしていることの趣旨が、あまりにも的外れな気がしてしまい、趙雲は完全に切り出し方を見失ってしまった。
そんな趙雲に小蘭は親しげに微笑みかける。
「ねえ、ちょうど一息つこうと思っていたの。すぐそこに良い店があるから、少しお茶でも行きましょ?」
「……すまない、小蘭。今は軍務の巡回中なのだ。職務中にその様なことは出来ない」
早くこの場を離れなくては…と必死だが、小蘭も簡単には引き下がらない。
「そうなの? 残念だわ……。じゃあ、お昼休憩の時はどうかしら? 少しの時間でもいいから、お願い」
まっすぐに見つめてくるその瞳に、趙雲はそれ以上の拒絶の言葉を見つけられなかった。
ここで無下に断るのも、『薬を用意してもらったらもう用はない』と言うようで不義理に思えたからだ。
「……わかった。昼休憩の間だけならば」
「本当? 嬉しい、待っているわね」
店の前で待ち合わせることにしてどうにかその場を放れた趙雲は、周囲を見回してから息をついた。
最近の○は趙雲に対する信頼が深まったのか、以前のように彼の行動に過度に干渉しなくなった。
そして今日も、自分が部屋に押し込んだ理由を聞いてあんなに嬉しそうにした。
そんな姿が激しい後ろめたさとなって趙雲の胸を締め付ける。
だがその一方で、もう一人の自分が冷ややかに囁く。
『そもそも、お前と○は恋仲でも何でもない、押しかけて来ただけの同居人だ。ならば、自分が誰と昼飯を食べようが、○に咎められる筋合いも、罪悪感を覚える必要もないはずだ』
恋仲ではない、だから自由なはずだ。
そう自分に言い聞かせるたびに、昨夜、○の背中に触れた瞬間に思った事と、薬を手にして微笑む○の顔が脳裏に浮かんだ。
約束の昼休憩になり、趙雲は小蘭に指定された店へと向かった。
胸中にあるのは、相変わらずの重い葛藤だ。
○を裏切っているような後ろめたさと、「いや、恋仲でもないのだから」という必死の言い訳が、頭の中で何度も衝突している。
重い溜息を一つ吐き、目的の店に行く為の角を曲がった、その時だった。
人通りの少ない路地の奥に異様な空気が漂っていた。
見れば、関羽ほどの大男の前に小蘭が立ち尽くしている。
彼女の肩は小刻みに震えており、泣いている様だった。
「何をしている!」
趙雲はそう怒鳴って血相を変え二人の間に割って入った。
小蘭の肩を抱き寄せるようにして庇う。
しかしその大男は怯む風もなく、ただフンと鼻を鳴らすと、太い腕を組みながら趙雲を値踏みするような目で睨み据えてきた。
その佇まいは、ただの民衆ではない。
一触即発の空気が流れたが、小蘭が趙雲の胸の中から言う。
「違うの。この方は……この方は、私がタチの悪い男たちに絡まれているのを見かねて、助けてくださったの」
「……何?」
趙雲は驚き、抜こうとしていた剣から手を離した。
「助けてくれた?」
「ええ。この方がいなければ、私は今頃どうなっていたか……」
小蘭は趙雲の腕に触れたまま安堵の溜息をつく。
趙雲もまた、彼女の無事を確認できた安心と見知らぬ男への警戒心、そして小蘭が胸の中にいることへの形容し難い気まずさが入り混じる。
大男は腕を組んだまま、重みのある口調で趙雲に話しかけた。
「恋人を、このような治安の悪い場所に女を一人で立たせるな」
(……恋人?)
「用があるなら迎えに行くか、もっと安全な場所を選べ。一歩間違えれば、この女は今頃どうなっていたか分からんぞ」
否定すべき言葉はいくつもあったが、今この公衆の面前で小蘭との関係をわざわざ説明するのは、かえって彼女の体面を汚すことになると思った。
趙雲は苦渋の選択として、その誤解を受け入れる事にした。
「いや。状況を把握せず失礼した。この方を助けていただき、感謝する」
趙雲は深く頭を下げた。
そんな趙雲に何も言わず、大男はのっしのっしと雑踏の奥へと立ち去っていった。
残された趙雲は、自身の胸に身を預けて涙を拭っている小蘭を見る。
「小蘭。確かにあの男の言うとおりだ。このような所で待ち合わせてはいけなかった」
「ううん、ここを指定したのは私だもの。趙雲こそごめんなさい、私のせいで不必要に怒られてしまって」
「…いや、それはいい」
そう言って小蘭の肩を掴んで身体を離す。
「でも恋人だなんて……誤解をされたみたいで、ごめんね」
まだ少し赤い目でそう言う小蘭に、趙雲は「いや…」としか返せなかった。
差し込む朝の光で目を覚ました○は、まだ少し頭が重いのを感じながらも目を覚ました。
寝返りを打とうとして、ふと枕元に違和感を覚えた。
そこには自分の持ち物ではない、小さな美しい薬入れが置かれている。
繊細な花の細工が施されたそれは、ひと目で女性向けに作られたものだと分かる。
(これ……誰のだろ)
身体を起こしてぼんやりとその小箱を見つめていると、控えめに戸を叩く音がした。
「○、起きているか」
「あ、子龍様。おはようございます」
そう挨拶をした○の手元を見た趙雲は一瞬たじろぐ。
昨夜、酔って○の枕元に薬を置き忘れてしまったことに気付いた。
その様子に○は何かに気づき、「これ、もしかして子龍様の物ですか?」と聞いた。
女性の趣味で選んだようなそれを角度を変えて見ている○。
「あ、ああ…それは」
「綺麗な入れ物ですね」
「お前の…為に手に入れた薬だ。前に言っておいたろう」
「そういえば…火傷の薬ですか?」
「……店主が…女性に渡すと言ったら、その入れ物に…してくれたのだ」
趙雲はそう言葉を添えた。
本当は小蘭が趙雲への贈り物として彼女の好みで選んだもの。
つまり半分は小蘭から趙雲への贈り物だ。
しかしそんな事を知らない○は、「嬉しい!ありがとうございます!」と喜ぶ。
嘘が嘘を呼び、○が嬉しそうにすればするほど、趙雲をとんでもない罪悪感が襲う。
(……本当は、他の女性からの贈り物だったなどとは死んでも言えん。私はこんなにも簡単に嘘がつける人間だったのか)
己の不誠実さに頭痛すら覚えながら、趙雲は逃げるように鍛錬場へと向かった。
激しく身体を動かしていたかった。
一通りの鍛錬を終え、荒い息を整えていた時。
「朝から精が出るな」
声をかけてきたのは、同じく朝の修練を終えたらしい馬超だった。
彼は首にかけた手拭いで汗を拭いながら、周囲に人がいないのを確認してから話す。
「さっき、回廊で○に会ったぞ。……あの薬、なんと言って渡したんだ?」
「……何がですか」
「あいつ、お前から貰ったっていう薬の陶器を嬉しそうに自慢してたぞ。あの様子だと入手経路は言って…ない、よなぁ」
趙雲の心臓が痛む。
「あの薬が他の女からの贈り物だってことが後からバレてみろよ。最悪な事になりかねんぞ」
「……馬超殿、私は……どうすればいいと思いますか…」
消え入りそうな声で相談してきた同僚に、馬超はハハッと快活に笑い肩を力強く叩いた。
「決まってるだろ。バレる前にこちらから腹を括って全部ぶちまけるしかない。放置していると、嘘が嘘を呼んで取り返しがつかなくなるぞ」
「もう呼び始めており…どこから手を付ければいいのか…」
「とにかく、あの美人を何とかした方が良くないか?」
状況がなんとなく分かってきた馬超は顎に手を当てる。
「お前が惜しいと思う気持ちも分かるぞ。町の男が振り返る様な美人だったからな。あんなのが駆け寄ってきたら、男ならそりゃあ少しは未練も残るだろうよ」
「――そうではありません!ただ、なにか…ああして期待された顔をされるとそれを裏切る事が出来ず」
趙雲は思わず声を荒らげ、きっぱりと否定した。
成人する頃には城勤めだった趙雲は、女官や侍女が女性同士で争うのをずっと見てきた。
誰かを立てれば他の誰かがその者を叩く。
それならばと、とにかく女性に対しては誰にでもそれなりに優しくしておけば波風が立たない…という彼なりの処世術が染みついたものだった。
気付けば女性が自分に優しく微笑むのを崩す事に、どこか罪悪感を抱くようになっていた。
そこに来てみれば○は、「怒られるのはまだいいが、束縛されるのが嫌だ」という、とても珍しい存在と言える。
「お前、いい年して一体何をしてるんだ。戦場じゃあ万軍を相手にとんでもなく強いというのに……いくらなんでも拗らせすぎじゃないか?」
馬超は呆れたように容赦のない言葉を畳みかける。
「世の女たちも、あれだけもてはやす常勝の将・趙子龍が、中身はこんなに女々しくて優柔不断な男だと分かれば散っていくだろうに。そうなれば○は安心するだろう!」
「…よくもそれだけ人の傷をえぐる様な事を…」
「よくもその様な事が言えるな!○には平気で噓をついて、あの美人には”嘘でもいいから”心に決めた女がいると言う事も出来ない。その矛盾が気になるだけさ。お前、自分で思っているほど、○の事を考えていないんじゃないか?」
趙雲はただただ沈黙するしかなかった。
昼に身支度を整える為に自室に戻ると、○の部屋から話し声が聞こえる。
月英の声だ。
「ちゃんと医務室に行かなくては駄目ですよ」と、窘められている。
面倒がって医務室に行かない○を気にして、背中に薬を塗りに来てくれたらしい。
「そうだ。ほら、これ。子龍様が用意してくださったんです。これなら自室で塗れます。いい薬だそうです」
その声に趙雲はヒヤリとする。
こうして○周囲に言い回っているのだろう。
「まぁ……美しい。細工も丁寧でとても素敵です。殿方でこのようなものが選べるなんて」
月英が感嘆の声を漏らしている。
「子龍様が、お知り合いの薬師の方から購入されたそうです。女性用にとこの陶器に入れてくださったのだと」
○の声は弾んでおり、心から趙雲の心遣いを信じ切っているのが伝わってくる。
「このような趣味の良い入れ物が選べる薬師がいるのですね。どちらの方でしょう。私もお願いしたいです」
「子龍様にお願いしてみますか?」
(……まずいな)
そんな会話が趙雲の胸に刺さる。
逃げるように自室に滑り込んだ。
(これ以上、嘘を重ねるわけにはいかない……!)
自室で着替えをしながら、ある決心をする。
(戦場に生き、いつ命を落とすかも定まらぬこの私が、特定の誰かを傍に置くことはないと、誤解のないように小蘭に伝えればいい)
とはいえ何度そう言っても付き纏う○もいるが、(○は人より図々しいだけだ。一般的な人間はこれで理解してもらえるだろう)と自分に言い聞かせる。
「よし!」と、気合を入れて部屋を出ると、ちょうど月英も○の部屋から出てくるところだった。
○も見送りの為に廊下にいた。
「趙雲殿。戻ってらしたのですね。お留守の間に勝手にお邪魔してしまい、失礼しました」
「いえ。○の為に来て下さったのでしょう」
そう挨拶する二人。
○は趙雲のいで立ちに巡回に行くのだと察する。
「子龍様、私も巡回について行ってよろしいですか?」
「えっ…!」
これから小蘭に今さっき決めた事を伝えに行こうと思っていたし、なによりその前に向こうに見つかれば鉢合わせる事になる。
「…いや、お前は背中の火傷がまだ治りきっていないだろう。今日は安静にしていなさい」
趙雲は努めて冷静に、突き放すような口調にならないよう気をつけながら諭した。
「え…?でも普通に仕事も家事もいつも通りしていましたよ?」
何故、巡回だけは駄目なのか…と○は趙雲を見上げる。
「いいから、安静にしていろっ」
食い下がる彼女に、趙雲は思わず語気が強まった。
○と月英が少し驚いたように瞬きをすると、慌てて視線をそらしながら咳ばらいをする。
「ええと…そう、戦で城が手薄だったこともあり、少し治安に不安がある。お前に何かあれば気が気でないからな。ここに居た方がいい」
そう言ってチラリと○を見ると、感動したように目を輝かせている。
「子龍様、そんなにも私の事を心配して下さるんですか?」
「も、もちろんだ。さあ、お前は部屋でゆっくりしていなさい。…ああ、私の服がほつれてしまってな。この直しを頼めるか?」
趙雲は『一日出てこないでくれ』という願いを込めて、用事を作って○を部屋の中に送る。
隣でその様子を見ていた月英も微笑んでいる。
「大勢の前では○さんに冷たく見えても、こうして自室で過ごしている間は仲睦まじいものなのですね」
そんな月英にも申し訳ない気持ちになりながら、趙雲は巡回に出かけた。
○を首尾よく部屋に押し込んだ趙雲は、巡回に向かった。
話す内容は考えたものの、それらをどう切り出すべきなのか…思考を巡らせながら歩いていると、不意に「おお、趙雲様ではございませんか!」と声をかけられた。
振り返ると、それは小蘭の商隊の男だった。
「奇遇ですね!すぐそこの店で取引の交渉をしていたんですよ。ちょっと待っていてください、今、小蘭を呼んできますから!」
「あ、いや、私は巡回の途中で――」
趙雲の制止も聞かず、男は当然のように店へと走っていってしまった。
そしてすぐに奥から小蘭が華やいだ笑顔を浮かべて姿を現した。
「まあ!偶然ね、こんなところで会えるなんて嬉しいわ」
嬉しそうに駆け寄ってくる彼女の姿を見て、趙雲はハッと我に返った。
深く考え込むあまり、大切な前提を見失いかけていたことに気づいたのだ。
(待て……考えてみれば、私は何度か彼女に誘われて食事をしただけで、別に小蘭から告白をされたわけでも何でもない。それなのに、いきなり『特定の誰かを傍に置くことはない』などと切り出すのは、自意識が過剰すぎてあまりにも滑稽ではないか……?)
言わんとしていることの趣旨が、あまりにも的外れな気がしてしまい、趙雲は完全に切り出し方を見失ってしまった。
そんな趙雲に小蘭は親しげに微笑みかける。
「ねえ、ちょうど一息つこうと思っていたの。すぐそこに良い店があるから、少しお茶でも行きましょ?」
「……すまない、小蘭。今は軍務の巡回中なのだ。職務中にその様なことは出来ない」
早くこの場を離れなくては…と必死だが、小蘭も簡単には引き下がらない。
「そうなの? 残念だわ……。じゃあ、お昼休憩の時はどうかしら? 少しの時間でもいいから、お願い」
まっすぐに見つめてくるその瞳に、趙雲はそれ以上の拒絶の言葉を見つけられなかった。
ここで無下に断るのも、『薬を用意してもらったらもう用はない』と言うようで不義理に思えたからだ。
「……わかった。昼休憩の間だけならば」
「本当? 嬉しい、待っているわね」
店の前で待ち合わせることにしてどうにかその場を放れた趙雲は、周囲を見回してから息をついた。
最近の○は趙雲に対する信頼が深まったのか、以前のように彼の行動に過度に干渉しなくなった。
そして今日も、自分が部屋に押し込んだ理由を聞いてあんなに嬉しそうにした。
そんな姿が激しい後ろめたさとなって趙雲の胸を締め付ける。
だがその一方で、もう一人の自分が冷ややかに囁く。
『そもそも、お前と○は恋仲でも何でもない、押しかけて来ただけの同居人だ。ならば、自分が誰と昼飯を食べようが、○に咎められる筋合いも、罪悪感を覚える必要もないはずだ』
恋仲ではない、だから自由なはずだ。
そう自分に言い聞かせるたびに、昨夜、○の背中に触れた瞬間に思った事と、薬を手にして微笑む○の顔が脳裏に浮かんだ。
約束の昼休憩になり、趙雲は小蘭に指定された店へと向かった。
胸中にあるのは、相変わらずの重い葛藤だ。
○を裏切っているような後ろめたさと、「いや、恋仲でもないのだから」という必死の言い訳が、頭の中で何度も衝突している。
重い溜息を一つ吐き、目的の店に行く為の角を曲がった、その時だった。
人通りの少ない路地の奥に異様な空気が漂っていた。
見れば、関羽ほどの大男の前に小蘭が立ち尽くしている。
彼女の肩は小刻みに震えており、泣いている様だった。
「何をしている!」
趙雲はそう怒鳴って血相を変え二人の間に割って入った。
小蘭の肩を抱き寄せるようにして庇う。
しかしその大男は怯む風もなく、ただフンと鼻を鳴らすと、太い腕を組みながら趙雲を値踏みするような目で睨み据えてきた。
その佇まいは、ただの民衆ではない。
一触即発の空気が流れたが、小蘭が趙雲の胸の中から言う。
「違うの。この方は……この方は、私がタチの悪い男たちに絡まれているのを見かねて、助けてくださったの」
「……何?」
趙雲は驚き、抜こうとしていた剣から手を離した。
「助けてくれた?」
「ええ。この方がいなければ、私は今頃どうなっていたか……」
小蘭は趙雲の腕に触れたまま安堵の溜息をつく。
趙雲もまた、彼女の無事を確認できた安心と見知らぬ男への警戒心、そして小蘭が胸の中にいることへの形容し難い気まずさが入り混じる。
大男は腕を組んだまま、重みのある口調で趙雲に話しかけた。
「恋人を、このような治安の悪い場所に女を一人で立たせるな」
(……恋人?)
「用があるなら迎えに行くか、もっと安全な場所を選べ。一歩間違えれば、この女は今頃どうなっていたか分からんぞ」
否定すべき言葉はいくつもあったが、今この公衆の面前で小蘭との関係をわざわざ説明するのは、かえって彼女の体面を汚すことになると思った。
趙雲は苦渋の選択として、その誤解を受け入れる事にした。
「いや。状況を把握せず失礼した。この方を助けていただき、感謝する」
趙雲は深く頭を下げた。
そんな趙雲に何も言わず、大男はのっしのっしと雑踏の奥へと立ち去っていった。
残された趙雲は、自身の胸に身を預けて涙を拭っている小蘭を見る。
「小蘭。確かにあの男の言うとおりだ。このような所で待ち合わせてはいけなかった」
「ううん、ここを指定したのは私だもの。趙雲こそごめんなさい、私のせいで不必要に怒られてしまって」
「…いや、それはいい」
そう言って小蘭の肩を掴んで身体を離す。
「でも恋人だなんて……誤解をされたみたいで、ごめんね」
まだ少し赤い目でそう言う小蘭に、趙雲は「いや…」としか返せなかった。