疑惑編【全5話】
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翌日、城内は朝からザワザワしていた。
蓄えの乏しい劉備軍にとって、全軍を挙げた宴は極めて珍しい。
兵士も文官も、今日ばかりは浮き足立っていた。
これまで、宴会といえばいつも給仕の仕事をしていた○。
忙しなく動き回り、遠くから楽しげな笑い声を耳にするだけ。
それが今回は初めて、趙雲の隣に座って同じ時間を楽しめる。
だからこそ、今日の○は朝からずっとソワソワしていた。
そんな様子をどこかで見守っていたのだろう。
星彩が話しかけて来た。
「華美にするのが常に正解というわけではないけれど……女性は少し、お洒落をしてきていいのよ」
「お洒落……?」
「軽く化粧をしたり、髪形を変えたり。そんな感じ」
そう言われて、○は自室である趙雲の宿舎に向かった。
一方、趙雲は特に何の用意をするでもなく、居間でいつものように寛いでいた。
今日は宴会なのもあり非番だ。
すると宿舎の戸が開いて○が帰ってきた。
居間にいる趙雲に声をかけるでもなく、そのまま自分の部屋へと入って行ってしまう。
いつもならまず話しかけてくる○が静かなので、趙雲は何事かと○の部屋を覗いた。
部屋の中では○が衣装箪笥の前にしゃがみ込み、ゴソゴソと何かを探していた。
「何をしている、○」
「あ、子龍様。星彩にちょっとオシャレをしてきたらと言われて、化粧道具を探してるんです…確かこの辺りに、公安で星彩と一緒に選んだ物が……ずっと触ってなかったものですから」
鍛錬で汗をかく○は普段化粧をあまりしないが、公安にいた頃に星彩に教えてもらっていくつか用意はあった。
それを引っ張り出しておめかししようとする姿はなんだか新鮮だった。
「気にするな。ただの城内の宴の席だ。普段の姿を見られているのだから、何をしても一緒だろう」
「え…?それって、私がどんなボロをまとっていても、子龍様にとってはおめかししている様に見えるってことですか?」
「…皆がお前の様な考え方が出来れば、さぞかしこの世は平和だろうな」
夕方。
広間では主君・劉備を囲み、趙雲、黄忠、法正、馬超、張飛といった将たちが並んだ。
劉備は一人ひとりに温かい労いの言葉をかけ、直々に酒を振る舞った。
「皆、よくやってくれた。今日は心ゆくまで飲んでくれ」
劉備の柔和な笑みとともに宴が始まった。
劉備の側に座っていた趙雲も席を立ちあがり、自分の席に戻る。
そのすぐ隣に○も座った。
初めて経験する”趙雲の隣での晩酌”がとても嬉しい。
「酒が回ると背中が痛むかもしれない。飲みすぎるなよ」
「分かりました」
そう言いながら、○は嬉しそうに酒に口をつけた。
宴もたけなわとなれば、当初の厳かな空気はどこへやら…広間は喧騒に包まれた。
張飛を筆頭とした古参の将たちが、格好の獲物を見つけたと言わんばかりに趙雲を囲い込む。
普段は深酒を慎む趙雲も勢いに押され、次々と注がれる杯を断りきれずにいた。
○も気づけば周囲に星彩や彼女の侍女が座り、女性陣に囲まれている。
そこへ各席を千鳥足で回って場を盛り上げていた馬超が、楽しげに近づいて来た。
「おお!今日の女性陣は一段と華やかで、目が眩みそうだ」
馬超は女性たちの着こなしや髪飾りを上手に、かつ自然に褒めちぎった。
気取らない世辞に、侍女たちは頬を染めてクスクスと笑い合う。
そのまま馬超は、空いていた○の隣に腰を下ろす。
「おい、背中の火傷は大丈夫か?」
「はい、お陰様で」
そうして笑う○の手元を見て、馬超は笑った。
「なんだぁ、○。チビチビ飲んでるなぁ。もっと景気よくいかないのか?唇を尖らせて小鳥みたいに飲みやがって。可愛いやつめ!」
酔いが回っている馬超は、○の頭を無造作に撫で回す。
からかわれて○が顔を赤くしていると、星彩が割って入る。
「馬超殿、そのあたりにしてください。○はあまりお酒が強くありません。あまり無理に飲ませないでください」
父親譲りの飲みっぷりを見せる星彩は、なみなみと注がれた己の杯を一気に干す。
馬超は肩をすくめて、酒を注ごうとした手を引っ込めた。
星彩の鋭い視線に苦笑しつつも、馬超の目はふと、○が身に纏っている衣服へと向いた。
見た事のない平服だ。
「なんだ?平服を新調したのか?いい色じゃないか」
「えっ!気付いてくださいました?」
少し酔って上気した頬で、○は嬉しそうに袖を詰まんで微笑む。
「ほら、これ以前、子龍様のお仕事の邪魔をしなかったご褒美に見立ててくださいってお願いした…」
「ああ!本当に行ったのか」
「はい。子龍様が照れちゃって、すぐ選んですぐ帰ってきちゃいましたけど」
にこにこして衣服の裾をなでる○を見て、馬超は「へえ」と意外そうに眉を上げた。
「似合うじゃないか。流石、お前と何年も一緒にいるだけはある。肌の色とも合っているし、袖の仕立ても活動的な○に丁度いいな」
馬超が率直に褒めると、○は「本当ですか?うれしい!」とさらに顔を輝かせた。
「見立てている間は、私の事だけを考えてくださってたんです…とても幸せな時間でした」
両手を頬に添えてうっとりする○。
その言葉は、少し離れた席からこちらの様子をずっと窺っていた趙雲の耳にも、雑音を通り抜けて届いていた。
張飛たちに囲まれ杯を回されながらも、趙雲の意識の半分は○に向いていた。
最初は馬超に小蘭の事を言われまいかと聞き耳を立てていたが、話の方向が変わっている。
確かに今日○が着ている服は、以前、彼女に請われて趙雲が選んだものだった。
考えてみれば、『勿体ないからいざという時の為に取っておきます』としまい込み、今日初めてその服に袖を通した○。
自室から出てきた時に服を見せる様に現れたが、趙雲はそこでもただ一言の褒め言葉すら口にしていなかった。
それを今、馬超がまるで自分の手柄であるかのように○の装いを自然に褒め、それに対して○がこれ以上ないほど嬉しそうに微笑んでいる。
趙雲の視線が微かに険しさを帯びたのを、隣の席で肴を突いていた法正は見逃さなかった。
面白いものを見つけたように笑うと、趙雲の杯に酒を注ぎながら、わざとらしく声を張り上げた。
「そりゃあ、馬超殿はもてますな。何気ない一言で女心を掴むのが実に上手だ。我々も見習わねばなりません」
法正の言葉に、近くにいた張飛の配下である呉班が「全くだ」と笑いながら同意する。
「馬超殿は話がうまいですからね。あの甘い言葉に当てられて、本気になってしまう女性が後を絶たないと聞きます。おいそれと近づけたら、うちの娘なんかひとたまりもありませんよ」
「違いねえ!」
隣で膝を叩いて笑うのは張飛。
豪快に笑うと、趙雲の肩を叩く。
「ここにいる趙雲だって、面構えがいいから女に人気なんだぜ?だけどお前ぇは、いかんせん頭が堅すぎる。結局『凛々しくて素敵なお方ね』とちやほやされて、繋がらねえんだよな!」
「……張飛殿、からかわないでいただきたい。私は女性からの人気など不要なのです」
「趙雲殿には、○殿がいますからね」
「いや、そういう事ではなく…○も例外ではありません」
他の将にもからかわれる趙雲はいつもよりも饒舌だ。
面白がる法正の追撃。
「ところで、趙雲殿。ずっと男として気になっていた事があります」
「?…なんでしょうか」
「あれだけ○殿に熱烈に付き纏われているわけですが……ここだけの話、男としての『そっち』のほうは、一体どう処理されているのです?暇がないでしょう」
「――は」
あまりに露骨な、男性同士の夜の詮索会話。
戦場でも平然と敵を屠る趙雲の顔が凍り付く。
周囲も「いい所に目を付けた」「そう言えば」と騒ぎだす。
「何言ってやがる、法正!そりゃ一回くらいはしてるに決まってんだろ!失礼な事言うな!」
趙雲を庇うつもりなのかそうでないのか、堂々とそういう張飛の声を遮る。
「張飛殿! 法正殿も、何を仰るか……!その様な事は断じて…!」
「ええ!してねえのか!?」
趙雲は慌てて声を潜め、周囲を制そうとした。
しかし酔っている男たちの下世話な興味に火をつけてしまったのは明らかだった。
恨みがましく法正を睨むも、「いや何、ただの男同士の世間話ですよ」と法正は楽しそうに肩をすくめる。
「○殿は健康的な身体をされていそうだ」などと言われて、○のその様な姿を想像されたくもない趙雲は何度も否定する。
しかし言えば言うほど男たちの格好の餌食となり、次々と酒を勧められていった。
一方、女性たちの席では、○がすっかり酔い潰れかけていた。
せっかくの趙雲との宴会だったが、結局、趙雲は諸将に連れて行かれてしまい、自分は自分で星彩や馬超にあてられて飲んでしまいこの体たらく。
(せっかく、子龍様と一緒に宴会に出られると思ったのに……。でも、宴会って、こんなものなのかな……)
○は眠たげな目で、自分の前に置かれた小さな器を残念そうに覗き込んだ。
けれど、ふと思い直す。
かつて呉の面々と飲んだ時、あちらの宴会では趙雲の周りを見目麗しい女官たちが大勢で取り囲んでいた。
それに比べれば、今の彼はむさくるしい男性陣の荒々しい酒盛りに揉まれているだけだ。
(……まあ、女の人に囲まれているわけじゃないんだから、全然いい)
そう自分に言い聞かせていると、ついに耐えきれなくなって机にべったりと突っ伏してしまった。
「……ちょっと、きもちわるい……」
小さく呻いて目を閉じるが、目を閉じたら閉じたで、自分の身体がグルグルと回っているようなひどい目眩に襲われる。
そのすぐ隣では、すっかり酔いが回って身振り手振りが大きくなった星彩と馬超が、なにやら熱く語り合っていた。
○は「宴会とはなんぞや」と考えながら気づいたら眠っていた。
夜が更けた頃。
ようやく長く賑やかだった宴会がお開きの時間を迎えた。
諸将や兵たちは口々に笑い合い、千鳥足でそれぞれの私邸や部屋へと帰り始めていく。
最終的に劉備まで参加して散々からかわれ続けていた趙雲は、劉備と肩を組んで去っていく張飛を見送ったあと、ようやく男たちの包囲網から解放された。
強い酒を次々と煽らされたせいか、趙雲の顔は微かに赤い。
馬超の酔っぱらう様子を見て、(あれなら小蘭の話はしていないだろう)と少しホッとした。
そこでは、すでに他の侍女たちも片付けや退席を始めており、残っているのは数人だけだった。
その真ん中に、いまだ飲んでいる馬超と星彩がいる。
隣には完全に机と同化している○。
馬超の肘置きにされていた。
そこに近づくと、馬超達も趙雲に気付く。
「おっと、ようやくお出ましだな」
馬超がにやにやと、酔った勢いでからかうように片手を挙げた。
「宴はもう終わりだ。帰らなくては……○、大丈夫か。私だ、わかるか?」
言いながら○の肩を支えて上半身を起こす。
「…子龍さま…せっかく……いっしょに、お酒、……」
そういうと疲れたように目を閉じた。
趙雲はまた机に突っ伏した○を背負い込む。
それを見ていた馬超が、可笑しそうに声を上げて笑った。
「おいおい。そういう時はこう…横抱きにしてやれよ。本当に色気のないやつだな」
「この方が運びやすい。それに、横抱きでは彼女の背中の傷に障る恐れがある」
「はいはい。…あ、俺も帰るぞ」
馬超は肩をすくめると、自分の上着を引っ掴んで立ち上がった。
彼の宿舎は隣なので、帰り道は同じだ。
夜風が吹き抜ける静かな廊下を進むうち、○は彼の首に腕を回したまま唸っている。
その気恥ずかしさを誤魔化すように、趙雲は思わず「……重いな」とブツブツと独り言のようにつぶやいた。
「だったら俺が代わってやろうか?」
馬超がからかうように腕を伸ばす。
「いい、結構だ。どうせ同じ宿舎なのだから、私がこのまま部屋まで運ぶ。馬超殿の手を煩わせるまでもない」
「ハハッ、冗談だよ。言い訳がましいな」
楽しそうな馬超の声を聞きながら、趙雲は黙々と歩いた。
○の部屋に入り寝台に寝かせると、道中の緊張から一気に解放されたせいか、趙雲も少しふらついた。
思わず寝台の隅に座る。
呼吸を整えようとしたその時、寝台の上の○が「いたぁ…」と苦しげに小さく呻いた。
仰向けになったことで、背中の火傷が寝具に擦れて痛んだのだろう。
○は不快そうに身をよじると、そのまま壁側を向いて横を向いた。
ただでさえ一度深く眠ると少々のことでは起きない○だ。
お酒の力も手伝ってか、そのまま熟睡してしまった。
壁を向いて丸くなる○の背中を見つめていると、背中の火傷がとても気になった。
そして趙雲は自室のあの薬のこと思い出す。
(このままでは、また明日も渡しそびれる。…いや、それどころか、また言い訳を考えて躊躇するだけだ。それにいい薬を塗って一晩寝れば、大分違うかもしれん)
酒の勢いというものは恐ろしい。
普段の冷静な趙雲ならしない様な事を思いつく。
趙雲は一度自室に戻るとあの美しい陶器の薬入れを手に取り、再び○の部屋へと引き返した。
寝台の傍らに腰を下ろすと、寝息を立てている○の首の後ろ、平服の襟元の生地をグイッと手前に引っ張る。
そこに出来た隙間から、薬を取った手を差し込むと、寝入っている彼女を起こさぬよう慎重に薬を塗った。
思っていたより広範囲に火傷をしていた○に驚きながらも(今、目を覚まされたらまずい)とハラハラする。
火傷に薬を塗り終え、衣服からそっと手を引き抜いた趙雲は、満足げに自室に戻っていった。
蓄えの乏しい劉備軍にとって、全軍を挙げた宴は極めて珍しい。
兵士も文官も、今日ばかりは浮き足立っていた。
これまで、宴会といえばいつも給仕の仕事をしていた○。
忙しなく動き回り、遠くから楽しげな笑い声を耳にするだけ。
それが今回は初めて、趙雲の隣に座って同じ時間を楽しめる。
だからこそ、今日の○は朝からずっとソワソワしていた。
そんな様子をどこかで見守っていたのだろう。
星彩が話しかけて来た。
「華美にするのが常に正解というわけではないけれど……女性は少し、お洒落をしてきていいのよ」
「お洒落……?」
「軽く化粧をしたり、髪形を変えたり。そんな感じ」
そう言われて、○は自室である趙雲の宿舎に向かった。
一方、趙雲は特に何の用意をするでもなく、居間でいつものように寛いでいた。
今日は宴会なのもあり非番だ。
すると宿舎の戸が開いて○が帰ってきた。
居間にいる趙雲に声をかけるでもなく、そのまま自分の部屋へと入って行ってしまう。
いつもならまず話しかけてくる○が静かなので、趙雲は何事かと○の部屋を覗いた。
部屋の中では○が衣装箪笥の前にしゃがみ込み、ゴソゴソと何かを探していた。
「何をしている、○」
「あ、子龍様。星彩にちょっとオシャレをしてきたらと言われて、化粧道具を探してるんです…確かこの辺りに、公安で星彩と一緒に選んだ物が……ずっと触ってなかったものですから」
鍛錬で汗をかく○は普段化粧をあまりしないが、公安にいた頃に星彩に教えてもらっていくつか用意はあった。
それを引っ張り出しておめかししようとする姿はなんだか新鮮だった。
「気にするな。ただの城内の宴の席だ。普段の姿を見られているのだから、何をしても一緒だろう」
「え…?それって、私がどんなボロをまとっていても、子龍様にとってはおめかししている様に見えるってことですか?」
「…皆がお前の様な考え方が出来れば、さぞかしこの世は平和だろうな」
夕方。
広間では主君・劉備を囲み、趙雲、黄忠、法正、馬超、張飛といった将たちが並んだ。
劉備は一人ひとりに温かい労いの言葉をかけ、直々に酒を振る舞った。
「皆、よくやってくれた。今日は心ゆくまで飲んでくれ」
劉備の柔和な笑みとともに宴が始まった。
劉備の側に座っていた趙雲も席を立ちあがり、自分の席に戻る。
そのすぐ隣に○も座った。
初めて経験する”趙雲の隣での晩酌”がとても嬉しい。
「酒が回ると背中が痛むかもしれない。飲みすぎるなよ」
「分かりました」
そう言いながら、○は嬉しそうに酒に口をつけた。
宴もたけなわとなれば、当初の厳かな空気はどこへやら…広間は喧騒に包まれた。
張飛を筆頭とした古参の将たちが、格好の獲物を見つけたと言わんばかりに趙雲を囲い込む。
普段は深酒を慎む趙雲も勢いに押され、次々と注がれる杯を断りきれずにいた。
○も気づけば周囲に星彩や彼女の侍女が座り、女性陣に囲まれている。
そこへ各席を千鳥足で回って場を盛り上げていた馬超が、楽しげに近づいて来た。
「おお!今日の女性陣は一段と華やかで、目が眩みそうだ」
馬超は女性たちの着こなしや髪飾りを上手に、かつ自然に褒めちぎった。
気取らない世辞に、侍女たちは頬を染めてクスクスと笑い合う。
そのまま馬超は、空いていた○の隣に腰を下ろす。
「おい、背中の火傷は大丈夫か?」
「はい、お陰様で」
そうして笑う○の手元を見て、馬超は笑った。
「なんだぁ、○。チビチビ飲んでるなぁ。もっと景気よくいかないのか?唇を尖らせて小鳥みたいに飲みやがって。可愛いやつめ!」
酔いが回っている馬超は、○の頭を無造作に撫で回す。
からかわれて○が顔を赤くしていると、星彩が割って入る。
「馬超殿、そのあたりにしてください。○はあまりお酒が強くありません。あまり無理に飲ませないでください」
父親譲りの飲みっぷりを見せる星彩は、なみなみと注がれた己の杯を一気に干す。
馬超は肩をすくめて、酒を注ごうとした手を引っ込めた。
星彩の鋭い視線に苦笑しつつも、馬超の目はふと、○が身に纏っている衣服へと向いた。
見た事のない平服だ。
「なんだ?平服を新調したのか?いい色じゃないか」
「えっ!気付いてくださいました?」
少し酔って上気した頬で、○は嬉しそうに袖を詰まんで微笑む。
「ほら、これ以前、子龍様のお仕事の邪魔をしなかったご褒美に見立ててくださいってお願いした…」
「ああ!本当に行ったのか」
「はい。子龍様が照れちゃって、すぐ選んですぐ帰ってきちゃいましたけど」
にこにこして衣服の裾をなでる○を見て、馬超は「へえ」と意外そうに眉を上げた。
「似合うじゃないか。流石、お前と何年も一緒にいるだけはある。肌の色とも合っているし、袖の仕立ても活動的な○に丁度いいな」
馬超が率直に褒めると、○は「本当ですか?うれしい!」とさらに顔を輝かせた。
「見立てている間は、私の事だけを考えてくださってたんです…とても幸せな時間でした」
両手を頬に添えてうっとりする○。
その言葉は、少し離れた席からこちらの様子をずっと窺っていた趙雲の耳にも、雑音を通り抜けて届いていた。
張飛たちに囲まれ杯を回されながらも、趙雲の意識の半分は○に向いていた。
最初は馬超に小蘭の事を言われまいかと聞き耳を立てていたが、話の方向が変わっている。
確かに今日○が着ている服は、以前、彼女に請われて趙雲が選んだものだった。
考えてみれば、『勿体ないからいざという時の為に取っておきます』としまい込み、今日初めてその服に袖を通した○。
自室から出てきた時に服を見せる様に現れたが、趙雲はそこでもただ一言の褒め言葉すら口にしていなかった。
それを今、馬超がまるで自分の手柄であるかのように○の装いを自然に褒め、それに対して○がこれ以上ないほど嬉しそうに微笑んでいる。
趙雲の視線が微かに険しさを帯びたのを、隣の席で肴を突いていた法正は見逃さなかった。
面白いものを見つけたように笑うと、趙雲の杯に酒を注ぎながら、わざとらしく声を張り上げた。
「そりゃあ、馬超殿はもてますな。何気ない一言で女心を掴むのが実に上手だ。我々も見習わねばなりません」
法正の言葉に、近くにいた張飛の配下である呉班が「全くだ」と笑いながら同意する。
「馬超殿は話がうまいですからね。あの甘い言葉に当てられて、本気になってしまう女性が後を絶たないと聞きます。おいそれと近づけたら、うちの娘なんかひとたまりもありませんよ」
「違いねえ!」
隣で膝を叩いて笑うのは張飛。
豪快に笑うと、趙雲の肩を叩く。
「ここにいる趙雲だって、面構えがいいから女に人気なんだぜ?だけどお前ぇは、いかんせん頭が堅すぎる。結局『凛々しくて素敵なお方ね』とちやほやされて、繋がらねえんだよな!」
「……張飛殿、からかわないでいただきたい。私は女性からの人気など不要なのです」
「趙雲殿には、○殿がいますからね」
「いや、そういう事ではなく…○も例外ではありません」
他の将にもからかわれる趙雲はいつもよりも饒舌だ。
面白がる法正の追撃。
「ところで、趙雲殿。ずっと男として気になっていた事があります」
「?…なんでしょうか」
「あれだけ○殿に熱烈に付き纏われているわけですが……ここだけの話、男としての『そっち』のほうは、一体どう処理されているのです?暇がないでしょう」
「――は」
あまりに露骨な、男性同士の夜の詮索会話。
戦場でも平然と敵を屠る趙雲の顔が凍り付く。
周囲も「いい所に目を付けた」「そう言えば」と騒ぎだす。
「何言ってやがる、法正!そりゃ一回くらいはしてるに決まってんだろ!失礼な事言うな!」
趙雲を庇うつもりなのかそうでないのか、堂々とそういう張飛の声を遮る。
「張飛殿! 法正殿も、何を仰るか……!その様な事は断じて…!」
「ええ!してねえのか!?」
趙雲は慌てて声を潜め、周囲を制そうとした。
しかし酔っている男たちの下世話な興味に火をつけてしまったのは明らかだった。
恨みがましく法正を睨むも、「いや何、ただの男同士の世間話ですよ」と法正は楽しそうに肩をすくめる。
「○殿は健康的な身体をされていそうだ」などと言われて、○のその様な姿を想像されたくもない趙雲は何度も否定する。
しかし言えば言うほど男たちの格好の餌食となり、次々と酒を勧められていった。
一方、女性たちの席では、○がすっかり酔い潰れかけていた。
せっかくの趙雲との宴会だったが、結局、趙雲は諸将に連れて行かれてしまい、自分は自分で星彩や馬超にあてられて飲んでしまいこの体たらく。
(せっかく、子龍様と一緒に宴会に出られると思ったのに……。でも、宴会って、こんなものなのかな……)
○は眠たげな目で、自分の前に置かれた小さな器を残念そうに覗き込んだ。
けれど、ふと思い直す。
かつて呉の面々と飲んだ時、あちらの宴会では趙雲の周りを見目麗しい女官たちが大勢で取り囲んでいた。
それに比べれば、今の彼はむさくるしい男性陣の荒々しい酒盛りに揉まれているだけだ。
(……まあ、女の人に囲まれているわけじゃないんだから、全然いい)
そう自分に言い聞かせていると、ついに耐えきれなくなって机にべったりと突っ伏してしまった。
「……ちょっと、きもちわるい……」
小さく呻いて目を閉じるが、目を閉じたら閉じたで、自分の身体がグルグルと回っているようなひどい目眩に襲われる。
そのすぐ隣では、すっかり酔いが回って身振り手振りが大きくなった星彩と馬超が、なにやら熱く語り合っていた。
○は「宴会とはなんぞや」と考えながら気づいたら眠っていた。
夜が更けた頃。
ようやく長く賑やかだった宴会がお開きの時間を迎えた。
諸将や兵たちは口々に笑い合い、千鳥足でそれぞれの私邸や部屋へと帰り始めていく。
最終的に劉備まで参加して散々からかわれ続けていた趙雲は、劉備と肩を組んで去っていく張飛を見送ったあと、ようやく男たちの包囲網から解放された。
強い酒を次々と煽らされたせいか、趙雲の顔は微かに赤い。
馬超の酔っぱらう様子を見て、(あれなら小蘭の話はしていないだろう)と少しホッとした。
そこでは、すでに他の侍女たちも片付けや退席を始めており、残っているのは数人だけだった。
その真ん中に、いまだ飲んでいる馬超と星彩がいる。
隣には完全に机と同化している○。
馬超の肘置きにされていた。
そこに近づくと、馬超達も趙雲に気付く。
「おっと、ようやくお出ましだな」
馬超がにやにやと、酔った勢いでからかうように片手を挙げた。
「宴はもう終わりだ。帰らなくては……○、大丈夫か。私だ、わかるか?」
言いながら○の肩を支えて上半身を起こす。
「…子龍さま…せっかく……いっしょに、お酒、……」
そういうと疲れたように目を閉じた。
趙雲はまた机に突っ伏した○を背負い込む。
それを見ていた馬超が、可笑しそうに声を上げて笑った。
「おいおい。そういう時はこう…横抱きにしてやれよ。本当に色気のないやつだな」
「この方が運びやすい。それに、横抱きでは彼女の背中の傷に障る恐れがある」
「はいはい。…あ、俺も帰るぞ」
馬超は肩をすくめると、自分の上着を引っ掴んで立ち上がった。
彼の宿舎は隣なので、帰り道は同じだ。
夜風が吹き抜ける静かな廊下を進むうち、○は彼の首に腕を回したまま唸っている。
その気恥ずかしさを誤魔化すように、趙雲は思わず「……重いな」とブツブツと独り言のようにつぶやいた。
「だったら俺が代わってやろうか?」
馬超がからかうように腕を伸ばす。
「いい、結構だ。どうせ同じ宿舎なのだから、私がこのまま部屋まで運ぶ。馬超殿の手を煩わせるまでもない」
「ハハッ、冗談だよ。言い訳がましいな」
楽しそうな馬超の声を聞きながら、趙雲は黙々と歩いた。
○の部屋に入り寝台に寝かせると、道中の緊張から一気に解放されたせいか、趙雲も少しふらついた。
思わず寝台の隅に座る。
呼吸を整えようとしたその時、寝台の上の○が「いたぁ…」と苦しげに小さく呻いた。
仰向けになったことで、背中の火傷が寝具に擦れて痛んだのだろう。
○は不快そうに身をよじると、そのまま壁側を向いて横を向いた。
ただでさえ一度深く眠ると少々のことでは起きない○だ。
お酒の力も手伝ってか、そのまま熟睡してしまった。
壁を向いて丸くなる○の背中を見つめていると、背中の火傷がとても気になった。
そして趙雲は自室のあの薬のこと思い出す。
(このままでは、また明日も渡しそびれる。…いや、それどころか、また言い訳を考えて躊躇するだけだ。それにいい薬を塗って一晩寝れば、大分違うかもしれん)
酒の勢いというものは恐ろしい。
普段の冷静な趙雲ならしない様な事を思いつく。
趙雲は一度自室に戻るとあの美しい陶器の薬入れを手に取り、再び○の部屋へと引き返した。
寝台の傍らに腰を下ろすと、寝息を立てている○の首の後ろ、平服の襟元の生地をグイッと手前に引っ張る。
そこに出来た隙間から、薬を取った手を差し込むと、寝入っている彼女を起こさぬよう慎重に薬を塗った。
思っていたより広範囲に火傷をしていた○に驚きながらも(今、目を覚まされたらまずい)とハラハラする。
火傷に薬を塗り終え、衣服からそっと手を引き抜いた趙雲は、満足げに自室に戻っていった。