疑惑編【全5話】
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凱旋の列を作り、劉備軍は城に帰還した。
帰還すると、二日後に劉備から労いの祝宴をひらくと知らせが入った。
「子龍様と宴会だなんて、初めてですね!」
○は声を弾ませ、心底嬉しそうに顔を目を輝かせた。
これまでは他国に呼ばれた宴席で緊張を強いられる席しか参加した事がなく、○としては女官たちに囲まれた趙雲を眺めるだけのものだった。
初めての身内だけの盛大な宴という行事に、○はすっかり浮足立っていた。
さらに今回は給仕ではなく、参加者として出席できる。
趙雲の腕にしがみつき、「楽しみですね」とはしゃぐ○に対し、趙雲は困ったような笑みを浮かべた。
「あまり羽目を外すなよ。背中にそれなりの火傷があるのだから、酔って血流が良くなったら痛むかもしれない」
そんな穏やかな会話を交わしていると、前方から門兵が慌ただしく駆け寄り、趙雲を呼び止めた。
帰還の手配に何か不備でもあったのかと思った趙雲は、○に「先に帰って片づけをしておいてくれ」と言って城門に向かう。
城門に行くと、そこには小蘭が立っていた。
道行く人間がチラリと振り返っている。
「おかえりなさい、趙雲。凱旋を見て無事を知ったら、話がしたくなって」
そう言って優雅に手を振る小蘭に、趙雲は全身が飛び上がるくらいの衝撃を受けた。
反射的に周囲を見渡して○の存在がない事を確認し、小蘭の肩を掴むと、彼女を城内から死角になる場所へと動かした。
○に見つかるのは不味い。
急に腕を引かれた小蘭は、何事かと言いたげに不思議そうな顔を浮かべている。
「そんなに慌ててどうしたの?」
「いや。そんなことより、小蘭の方こそどうした?なんの話が…」
「戦のあとは何かと入り用でしょう? 軟膏や薬草はいらないかしら。いいものを手配できるわよ」
戦の後は、こうした商人や薬売りが訪れることが多い。
小蘭もその目的で来たようだ。
屈託のない笑みを浮かべてそう提案した。
その言葉を聞いた時、趙雲の脳裏には、背中に火傷を負った○の姿が浮かんだ。
小蘭が言うように上質なものが手に入るなら、治りも早く、痕も残りにくくなるかもしれない。
趙雲は少し考え、○に与えるための軟膏を彼女から買い付けようと思いついた。
「……ちょうど入用なものがある。火傷によく効く、質の良い軟膏は扱ってないだろうか」
「いいわ。用意しておく。……ねえ、渡すとき、また食事に行かない?」
小蘭は親しげにそう告げた。
趙雲が返答に窮していると、その隙に畳みかける。
「今日は疲れているでしょうから……明日。ちょっと食事をするだけだもの、時間はそんなに取らせないわ。私の店の場所も教えておくわね。時間が出来たら迎えに来て?お酒の美味しいお店も見つけたの」
小蘭は店の場所を教えると微笑む。
趙雲は一瞬、躊躇を見せたが、漢中の幕舎にいた時に○が「背中を下にして寝るのも辛い」と言っていたのを思い出す。
少しでも早く効能の高い薬を手に入れてやりたいという思いが、その背中を押した。
「分かった。明日、少し時間を取ろう」
趙雲はそう約束し、小蘭と別れた。
城に戻った趙雲は、どこか胸がざわついていた。
「なんだったんですか?」
背後からいきなり声をかけられ、趙雲は飛び上がらんばかりに驚いた。
振り返ると○が立っていた。
「な、何とは何のことだ」
動揺を隠しきれず問い返す趙雲に、○は怪訝そうな視線を向ける。
「いえ……呼ばれて城門前に向かわれたので、何か不備でもあったのであればお手伝いしようかと思いまして」
(ああ、そのことか)
趙雲は心底安堵し、内心で大きく胸をなでおろした。
小蘭との事が知られたのではないと分かり、冷静な口調を取り繕った。
「いや。…ええっと。…昔、世話になった薬売りがいてな。戦のあとで売り込みに来たらしい。お前の背中の火傷が気になっていたから、特別に効く薬を売って貰うことにした」
趙雲を○はじっと黙って見つめていたが、嬉しそうに笑顔を向けた。
「うれしいっ!私の為に、わざわざ薬を用意してくださるなんて!やっぱり子龍様は私の事を愛してくれているんですねっ」
そう喜ぶ姿に、趙雲は嘘をついているわけではないものの、どこか後ろめたいような居心地の悪さを感じた。
*****
翌日は非番ではあったが、戦場から持ち帰った装備や武器の手入れ、馬の世話などで、それぞれ朝から慌ただしく動いていた。
○は昼餉の後から姿の見えない趙雲を探して城内を歩き回っていた。
「もう!どこに行ったのかしら。せっかく久しぶりにゆっくり出来ると思って、お茶を買っておいたのに」
見つからない苛立ちから、○は不満げに口を尖らせた。
一方、趙雲は城下にある静かな茶屋の片隅にいた。
当初、小蘭は夕餉を共にしたいと言っていたが、時間を変えてもらったのだ。
昼餉のあとで小蘭の店を訪れた趙雲を、「夜まで町を歩かない?」と誘ってきた小蘭だが、万が一城の者に見られて○の耳に入ると厄介だ。
なにせ小蘭は美しくて目立つ。
それに、かつて呉において女性との酒の席で苦い経験を重ねてきた趙雲は、それを頑なに固辞した。
結局、昼と夜の間の人目の少ないこの時間帯に落ち着いたのだ。
小蘭は懐から、細かな細工の施された美しい陶器の入れ物を取り出す。
「このような高価そうな入れ物……相当に高い薬なのではないか?」
趙雲が怪訝そうに尋ねると、小蘭は艶然と微笑む。
「陶器は私が用意したのよ。貴女に渡すんだもの。ああ、お金はいらないわ」
「いや、駄目だ。それは受け取ってもらう。…これで足りるか?」
そう言って金の入った布袋を小蘭の前に置いた。
相場よりも多めに入れてある。
小蘭は中身を確認すると、「多すぎるんじゃない?」と言ったが、これは趙雲にとって内心、”罪悪感を拭う為の金”でもあった。
そんな趙雲の内心を知らず、小蘭は薬の容器を握らせるようにして、趙雲の両手を自らの手でそっと包み込んだ。
体温の高い○とは違う、ひんやりとした感触。
水仕事や鍛錬で荒れた○とは違う、細くて長い綺麗な指をしていた。
「でも火傷の軟膏なんて……怪我をしている様には見えないけど…どこを怪我したの? 塗ってあげましょうか」
小蘭はそう言ってからかうように微笑んだ。
趙雲は思わず視線を逸らし、短く答える。
「いや、私ではない。部下だ」
その答えに深入りすることなく、小蘭はお茶を一口すすると、熱を帯びた瞳で趙雲を見つめた。
「凱旋であなたを見た時、本当に安心したわ。それにやっぱり、立派な武将様なんだって思った。今回、大活躍だったって兵士が話しているのを聞いたの」
「まったく…外でその様な話を…」
「いいじゃない。城にいない私の唯一の情報源なのよ?一緒に城勤め出来る○さんが羨ましい」
頬杖をついて楽し気に微笑む小蘭は完璧だ。
「羨ましいなど…戦に出るのだから、危険な仕事だ」
「それはそうでしょうけど」
二人はとりとめのない会話をした。
夕餉の時間の前に二人は茶屋を出る。
店まで送ろうかと聞いたが、「途中でお得意さんのあいさつ回りをしながら帰るからいいわ」と言われた。
「また会えるかしら」
茶屋の前で立ち止まり、小蘭がしなだれかかるように聞いた。
趙雲は、「しばらく成都にいるのなら、道ですれ違うこともあるだろう」と答える。
「違うわよっ。そういう”会う”じゃなくて」
はっきりと向けられた言葉に、趙雲は口を閉ざした。
その位は気づいていた。
しかし正面から向き合うことを避け、のらりくらりと逸らし続けてきたのだが、こうも明白に突きつけられると、彼の悪癖とも言える優柔不断さが顔を出す。
「……どうだろうな」
結局、それ以上の言葉は出てこなかった。
「まあいいわ。また、食事に行きましょ」
小蘭はそれ以上追及せず手を振り、雑踏の中へと消えていった。
趙雲が小さく溜息をつき、去りゆく背中を見送っていると。
「俺は見てしまった」
背後から突き刺さるような声が聞こえた。
驚いて振り向くと、そこには腕を組み、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべた馬超が立っている。
「いやぁ、美人だな」
馬超は去りゆく小蘭の背中を眺め、感心したように笑った。
趙雲は表情を変えず、「同郷の者で」とだけ短く返した。
「あの美人と漢中に行く前にも会ってたな。あの時は遠目に見ただけだったが……まだ関係があったのか」
「関係などと…」
「そういえば○が一日お前を探していたぞ。バレたらまずいんじゃないか? あんな美人と二人きりだなんて、○が知ったら泣くぞ」
馬超は趙雲の女性関係に目くじらを立てる○を、まだちゃんと見たことがない。
だから”泣く”と思った様だ。
「……○は泣くような人間ではありません。所かまわず怒り散らして、部屋を滅茶苦茶にされるのが目に見えています。まあ…それはいいのですが」
「いいのか」
「その後、おそらく数日間は監視されるでしょうね…○の束縛はとてつもないのです。酷い時は厠の前までついて来る始末。成都に来てからはだいぶ落ち着いて、まだあの姿を晒していないのに…」
趙雲は未来の惨状を予見したのか、心底げっそりとした様子で漏らした。
成都での自分の印象が上書きされてしまいかねない。
「ははっ! 前に○が言っていた『子龍様は女性に対してだけは本当に優柔不断なんです』っていうのは、どうやら本当だったんだな」
「○は馬超殿にまで、そのような話を……」
趙雲は頭を抱え深く項垂れた。
「そもそも、彼女とは何もありません。ただ薬を譲り受けていただけです」
そう言って手元の薬を馬超に突き出す。
「それに私が○に申し訳なさを感じる必要などありません。○が勝手に『妻になる』と言い出して、無理についてきただけのことなのですから」
趙雲は自分に言い聞かせるように、努めて毅然とした口調で言い放った。
その言葉を聞いた馬超は意外そうに目を丸くした。
他の古参と比べてここにいる期間は短いが、趙雲と○の間柄に関しては馬超としても思う所があった。
趙雲は不自然に顔を背け、馬超の追求を避けたが、馬超はその程度の誤魔化しで引き下がる男ではない。
「ならば、あの女性のことも正直に話せばいいだろう。何をそんなに怯えている?」
馬超は、趙雲が握りしめている美しい薬の容器を指差した。
「あと、その薬を渡すときには何て説明するんだ?まさか同郷の美人と茶屋で逢瀬をして手に入れてきたと、正直に言うわけではあるまい。…また適当な嘘でもつくのか?」
これに関してはすでに”世話になった薬売りから買う”と嘘をついてしまっている。
趙雲は言葉に詰まった。
○の為にと手配した薬だったが、その経緯を話せば彼女がどう反応するかは火を見るより明らかだ。
正直に話せば激昂され、嘘をつけば後が怖い。
「……薬は薬です。効能さえ確かならば、出所など問題ではないはずです」
苦し紛れの趙雲の反論は、馬超の失笑を買うに十分なものだった。
城に戻ると、門の近くを落ち着きのない様子でウロウロしている○の姿が目に入った。
城内に趙雲がいないので、帰ってくるのを待っていたらしい。
彼女は趙雲の姿を捉えるなり、弾かれたように駆け寄ってきた。
「もう! 昼餉の後からずっと探していたんですよ。一体どこに行っていたんですか!」
趙雲が返答に窮していると、隣にいた馬超がにやにやしながら口を開いた。
「趙雲はさっきまで城下で茶を「馬超殿!」
趙雲は咄嗟に馬超の言葉を遮った。
「?……茶が、どうかしたんですか?」
「いや、何でもない。……それより、何か用だったか?」
「一緒にお茶を飲もうと思って用意していたんです。でももう夕餉の時間ですね。行きましょう」
○に促され、三人は揃って食堂へと向かうことになった。
つい先ほど、茶屋で菓子と茶を存分に振る舞われたばかりの趙雲だったが、○の手前、それを言い出す勇気はなかった。
一方、事情を知っている馬超は、趙雲の腹の具合を察して「食えるのか?」と楽しげ笑う。
趙雲は重い腹を抱え、楽しそうに歩く○の背中を複雑な心境で見つめた。
夕餉を終え、昼間に出来なかった武具の手入れをようやく済ませて私邸に戻った趙雲。
すると、○の部屋から月英の声が漏れ聞こえてきた。
「いけませんよ、○さん。ちゃんと薬を塗らないから、寝転んだ時に痛むのです。火傷を甘く見てはいけません」
月英に諭されている○の、申し訳なさそうな返事も聞こえる。
趙雲は懐にある、小蘭から受け取った上等な薬入れに手を触れた。
これを使えば○の痛みも早く引くかもしれないが、その場で足を引き止めた。
月英は鋭い。
もしこの場に割って入り、出所を伏せて薬を差し出したとする。
○は自分からのものなら無条件で喜んで終わるだろうが、月英は違う。
見た事のない容器に、単純な好奇心から出所を突き詰めてくるかもしれない。
ここでうまく切り抜けたとして、大喜びした○にもし後に入手経路が知られたらどうなるか。
馬超の言った「嘘でもつくのか」という言葉が、呪いのように趙雲の脳裏をよぎった。
趙雲は薬を懐に入れると、○の部屋の戸を叩いた。
中から月英の落ち着いた声が返ってきて、衣を整える微かな音のあと、「○さんは今、薬を塗っている最中です。私がお伺いしましょう」と、月英が静かに廊下へ姿を現した。
「○の火傷は、それほど酷いのですか?」
趙雲の問いに、月英は少しだけ表情を和らげて答えた。
「直接松明が当たったようですから。少し熱を持っていて横になるときに障るようですが、幸い化膿はしていません。あとは日にち薬といったところでしょう。心配はいりませんよ」
月英の説明を聞き、趙雲は安堵する。
日にち薬で治る程度であれば、あえて今、出所の説明に困るような上等な薬を出す必要はないのではないか。
そんな考えが頭をよぎったからだ。
「趙雲殿?それだけですか?」
その問いに趙雲は首を縦に振ると、自室に戻った。
自室に戻った趙雲は重い体を寝台に投げ出した。
天井の梁を見つめていると、別れ際に馬超が言った言葉が蘇る。
「本当にあの美人に困っているなら、”自分には決まった相手がいる”とはっきり言えばいいだろう。別にそれこそ嘘でもいいではないか。それをしないのは、心のどこかにいやらしい気持ちがあるからじゃないのか?……まあ、あれだけの美人だ、手元に置いておきたい気持ちも分からなくはないが」
馬超はそこで一度言葉を切ると、意地の悪い笑みを深めてこう続けた。
「ちなみに○は、俺が口説き文句を並べても『私には子龍様がいますのでお断りします』と即答だったぞ」
趙雲はただ静かに目を閉じた。
○は昔からそうだ。
一点の曇りもなく熱烈な愛情表現をしてくる。
それなのに自分は、過去の知人というだけの小蘭との間に線を引けず、○に言えないような密会をし、挙句の果てには貰った薬をどう渡すべきか…
火傷をしている○に渡すべきなのに、保身のために嘘の算段までしている。
(……いやらしい気持ちか)
馬超の言葉を否定しきれない自分がいた。
小蘭への未練ではない。
そもそも彼女とは故郷が同じだけで、幼い頃の自分など見向きもされなかった。
それでも美しく成長した彼女に好意を寄せられ、強く拒絶しきれなかったのは男の性なのか。
趙雲は深く、重い溜息を吐き、なかなか眠りにつくことが出来なかった。
帰還すると、二日後に劉備から労いの祝宴をひらくと知らせが入った。
「子龍様と宴会だなんて、初めてですね!」
○は声を弾ませ、心底嬉しそうに顔を目を輝かせた。
これまでは他国に呼ばれた宴席で緊張を強いられる席しか参加した事がなく、○としては女官たちに囲まれた趙雲を眺めるだけのものだった。
初めての身内だけの盛大な宴という行事に、○はすっかり浮足立っていた。
さらに今回は給仕ではなく、参加者として出席できる。
趙雲の腕にしがみつき、「楽しみですね」とはしゃぐ○に対し、趙雲は困ったような笑みを浮かべた。
「あまり羽目を外すなよ。背中にそれなりの火傷があるのだから、酔って血流が良くなったら痛むかもしれない」
そんな穏やかな会話を交わしていると、前方から門兵が慌ただしく駆け寄り、趙雲を呼び止めた。
帰還の手配に何か不備でもあったのかと思った趙雲は、○に「先に帰って片づけをしておいてくれ」と言って城門に向かう。
城門に行くと、そこには小蘭が立っていた。
道行く人間がチラリと振り返っている。
「おかえりなさい、趙雲。凱旋を見て無事を知ったら、話がしたくなって」
そう言って優雅に手を振る小蘭に、趙雲は全身が飛び上がるくらいの衝撃を受けた。
反射的に周囲を見渡して○の存在がない事を確認し、小蘭の肩を掴むと、彼女を城内から死角になる場所へと動かした。
○に見つかるのは不味い。
急に腕を引かれた小蘭は、何事かと言いたげに不思議そうな顔を浮かべている。
「そんなに慌ててどうしたの?」
「いや。そんなことより、小蘭の方こそどうした?なんの話が…」
「戦のあとは何かと入り用でしょう? 軟膏や薬草はいらないかしら。いいものを手配できるわよ」
戦の後は、こうした商人や薬売りが訪れることが多い。
小蘭もその目的で来たようだ。
屈託のない笑みを浮かべてそう提案した。
その言葉を聞いた時、趙雲の脳裏には、背中に火傷を負った○の姿が浮かんだ。
小蘭が言うように上質なものが手に入るなら、治りも早く、痕も残りにくくなるかもしれない。
趙雲は少し考え、○に与えるための軟膏を彼女から買い付けようと思いついた。
「……ちょうど入用なものがある。火傷によく効く、質の良い軟膏は扱ってないだろうか」
「いいわ。用意しておく。……ねえ、渡すとき、また食事に行かない?」
小蘭は親しげにそう告げた。
趙雲が返答に窮していると、その隙に畳みかける。
「今日は疲れているでしょうから……明日。ちょっと食事をするだけだもの、時間はそんなに取らせないわ。私の店の場所も教えておくわね。時間が出来たら迎えに来て?お酒の美味しいお店も見つけたの」
小蘭は店の場所を教えると微笑む。
趙雲は一瞬、躊躇を見せたが、漢中の幕舎にいた時に○が「背中を下にして寝るのも辛い」と言っていたのを思い出す。
少しでも早く効能の高い薬を手に入れてやりたいという思いが、その背中を押した。
「分かった。明日、少し時間を取ろう」
趙雲はそう約束し、小蘭と別れた。
城に戻った趙雲は、どこか胸がざわついていた。
「なんだったんですか?」
背後からいきなり声をかけられ、趙雲は飛び上がらんばかりに驚いた。
振り返ると○が立っていた。
「な、何とは何のことだ」
動揺を隠しきれず問い返す趙雲に、○は怪訝そうな視線を向ける。
「いえ……呼ばれて城門前に向かわれたので、何か不備でもあったのであればお手伝いしようかと思いまして」
(ああ、そのことか)
趙雲は心底安堵し、内心で大きく胸をなでおろした。
小蘭との事が知られたのではないと分かり、冷静な口調を取り繕った。
「いや。…ええっと。…昔、世話になった薬売りがいてな。戦のあとで売り込みに来たらしい。お前の背中の火傷が気になっていたから、特別に効く薬を売って貰うことにした」
趙雲を○はじっと黙って見つめていたが、嬉しそうに笑顔を向けた。
「うれしいっ!私の為に、わざわざ薬を用意してくださるなんて!やっぱり子龍様は私の事を愛してくれているんですねっ」
そう喜ぶ姿に、趙雲は嘘をついているわけではないものの、どこか後ろめたいような居心地の悪さを感じた。
*****
翌日は非番ではあったが、戦場から持ち帰った装備や武器の手入れ、馬の世話などで、それぞれ朝から慌ただしく動いていた。
○は昼餉の後から姿の見えない趙雲を探して城内を歩き回っていた。
「もう!どこに行ったのかしら。せっかく久しぶりにゆっくり出来ると思って、お茶を買っておいたのに」
見つからない苛立ちから、○は不満げに口を尖らせた。
一方、趙雲は城下にある静かな茶屋の片隅にいた。
当初、小蘭は夕餉を共にしたいと言っていたが、時間を変えてもらったのだ。
昼餉のあとで小蘭の店を訪れた趙雲を、「夜まで町を歩かない?」と誘ってきた小蘭だが、万が一城の者に見られて○の耳に入ると厄介だ。
なにせ小蘭は美しくて目立つ。
それに、かつて呉において女性との酒の席で苦い経験を重ねてきた趙雲は、それを頑なに固辞した。
結局、昼と夜の間の人目の少ないこの時間帯に落ち着いたのだ。
小蘭は懐から、細かな細工の施された美しい陶器の入れ物を取り出す。
「このような高価そうな入れ物……相当に高い薬なのではないか?」
趙雲が怪訝そうに尋ねると、小蘭は艶然と微笑む。
「陶器は私が用意したのよ。貴女に渡すんだもの。ああ、お金はいらないわ」
「いや、駄目だ。それは受け取ってもらう。…これで足りるか?」
そう言って金の入った布袋を小蘭の前に置いた。
相場よりも多めに入れてある。
小蘭は中身を確認すると、「多すぎるんじゃない?」と言ったが、これは趙雲にとって内心、”罪悪感を拭う為の金”でもあった。
そんな趙雲の内心を知らず、小蘭は薬の容器を握らせるようにして、趙雲の両手を自らの手でそっと包み込んだ。
体温の高い○とは違う、ひんやりとした感触。
水仕事や鍛錬で荒れた○とは違う、細くて長い綺麗な指をしていた。
「でも火傷の軟膏なんて……怪我をしている様には見えないけど…どこを怪我したの? 塗ってあげましょうか」
小蘭はそう言ってからかうように微笑んだ。
趙雲は思わず視線を逸らし、短く答える。
「いや、私ではない。部下だ」
その答えに深入りすることなく、小蘭はお茶を一口すすると、熱を帯びた瞳で趙雲を見つめた。
「凱旋であなたを見た時、本当に安心したわ。それにやっぱり、立派な武将様なんだって思った。今回、大活躍だったって兵士が話しているのを聞いたの」
「まったく…外でその様な話を…」
「いいじゃない。城にいない私の唯一の情報源なのよ?一緒に城勤め出来る○さんが羨ましい」
頬杖をついて楽し気に微笑む小蘭は完璧だ。
「羨ましいなど…戦に出るのだから、危険な仕事だ」
「それはそうでしょうけど」
二人はとりとめのない会話をした。
夕餉の時間の前に二人は茶屋を出る。
店まで送ろうかと聞いたが、「途中でお得意さんのあいさつ回りをしながら帰るからいいわ」と言われた。
「また会えるかしら」
茶屋の前で立ち止まり、小蘭がしなだれかかるように聞いた。
趙雲は、「しばらく成都にいるのなら、道ですれ違うこともあるだろう」と答える。
「違うわよっ。そういう”会う”じゃなくて」
はっきりと向けられた言葉に、趙雲は口を閉ざした。
その位は気づいていた。
しかし正面から向き合うことを避け、のらりくらりと逸らし続けてきたのだが、こうも明白に突きつけられると、彼の悪癖とも言える優柔不断さが顔を出す。
「……どうだろうな」
結局、それ以上の言葉は出てこなかった。
「まあいいわ。また、食事に行きましょ」
小蘭はそれ以上追及せず手を振り、雑踏の中へと消えていった。
趙雲が小さく溜息をつき、去りゆく背中を見送っていると。
「俺は見てしまった」
背後から突き刺さるような声が聞こえた。
驚いて振り向くと、そこには腕を組み、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべた馬超が立っている。
「いやぁ、美人だな」
馬超は去りゆく小蘭の背中を眺め、感心したように笑った。
趙雲は表情を変えず、「同郷の者で」とだけ短く返した。
「あの美人と漢中に行く前にも会ってたな。あの時は遠目に見ただけだったが……まだ関係があったのか」
「関係などと…」
「そういえば○が一日お前を探していたぞ。バレたらまずいんじゃないか? あんな美人と二人きりだなんて、○が知ったら泣くぞ」
馬超は趙雲の女性関係に目くじらを立てる○を、まだちゃんと見たことがない。
だから”泣く”と思った様だ。
「……○は泣くような人間ではありません。所かまわず怒り散らして、部屋を滅茶苦茶にされるのが目に見えています。まあ…それはいいのですが」
「いいのか」
「その後、おそらく数日間は監視されるでしょうね…○の束縛はとてつもないのです。酷い時は厠の前までついて来る始末。成都に来てからはだいぶ落ち着いて、まだあの姿を晒していないのに…」
趙雲は未来の惨状を予見したのか、心底げっそりとした様子で漏らした。
成都での自分の印象が上書きされてしまいかねない。
「ははっ! 前に○が言っていた『子龍様は女性に対してだけは本当に優柔不断なんです』っていうのは、どうやら本当だったんだな」
「○は馬超殿にまで、そのような話を……」
趙雲は頭を抱え深く項垂れた。
「そもそも、彼女とは何もありません。ただ薬を譲り受けていただけです」
そう言って手元の薬を馬超に突き出す。
「それに私が○に申し訳なさを感じる必要などありません。○が勝手に『妻になる』と言い出して、無理についてきただけのことなのですから」
趙雲は自分に言い聞かせるように、努めて毅然とした口調で言い放った。
その言葉を聞いた馬超は意外そうに目を丸くした。
他の古参と比べてここにいる期間は短いが、趙雲と○の間柄に関しては馬超としても思う所があった。
趙雲は不自然に顔を背け、馬超の追求を避けたが、馬超はその程度の誤魔化しで引き下がる男ではない。
「ならば、あの女性のことも正直に話せばいいだろう。何をそんなに怯えている?」
馬超は、趙雲が握りしめている美しい薬の容器を指差した。
「あと、その薬を渡すときには何て説明するんだ?まさか同郷の美人と茶屋で逢瀬をして手に入れてきたと、正直に言うわけではあるまい。…また適当な嘘でもつくのか?」
これに関してはすでに”世話になった薬売りから買う”と嘘をついてしまっている。
趙雲は言葉に詰まった。
○の為にと手配した薬だったが、その経緯を話せば彼女がどう反応するかは火を見るより明らかだ。
正直に話せば激昂され、嘘をつけば後が怖い。
「……薬は薬です。効能さえ確かならば、出所など問題ではないはずです」
苦し紛れの趙雲の反論は、馬超の失笑を買うに十分なものだった。
城に戻ると、門の近くを落ち着きのない様子でウロウロしている○の姿が目に入った。
城内に趙雲がいないので、帰ってくるのを待っていたらしい。
彼女は趙雲の姿を捉えるなり、弾かれたように駆け寄ってきた。
「もう! 昼餉の後からずっと探していたんですよ。一体どこに行っていたんですか!」
趙雲が返答に窮していると、隣にいた馬超がにやにやしながら口を開いた。
「趙雲はさっきまで城下で茶を「馬超殿!」
趙雲は咄嗟に馬超の言葉を遮った。
「?……茶が、どうかしたんですか?」
「いや、何でもない。……それより、何か用だったか?」
「一緒にお茶を飲もうと思って用意していたんです。でももう夕餉の時間ですね。行きましょう」
○に促され、三人は揃って食堂へと向かうことになった。
つい先ほど、茶屋で菓子と茶を存分に振る舞われたばかりの趙雲だったが、○の手前、それを言い出す勇気はなかった。
一方、事情を知っている馬超は、趙雲の腹の具合を察して「食えるのか?」と楽しげ笑う。
趙雲は重い腹を抱え、楽しそうに歩く○の背中を複雑な心境で見つめた。
夕餉を終え、昼間に出来なかった武具の手入れをようやく済ませて私邸に戻った趙雲。
すると、○の部屋から月英の声が漏れ聞こえてきた。
「いけませんよ、○さん。ちゃんと薬を塗らないから、寝転んだ時に痛むのです。火傷を甘く見てはいけません」
月英に諭されている○の、申し訳なさそうな返事も聞こえる。
趙雲は懐にある、小蘭から受け取った上等な薬入れに手を触れた。
これを使えば○の痛みも早く引くかもしれないが、その場で足を引き止めた。
月英は鋭い。
もしこの場に割って入り、出所を伏せて薬を差し出したとする。
○は自分からのものなら無条件で喜んで終わるだろうが、月英は違う。
見た事のない容器に、単純な好奇心から出所を突き詰めてくるかもしれない。
ここでうまく切り抜けたとして、大喜びした○にもし後に入手経路が知られたらどうなるか。
馬超の言った「嘘でもつくのか」という言葉が、呪いのように趙雲の脳裏をよぎった。
趙雲は薬を懐に入れると、○の部屋の戸を叩いた。
中から月英の落ち着いた声が返ってきて、衣を整える微かな音のあと、「○さんは今、薬を塗っている最中です。私がお伺いしましょう」と、月英が静かに廊下へ姿を現した。
「○の火傷は、それほど酷いのですか?」
趙雲の問いに、月英は少しだけ表情を和らげて答えた。
「直接松明が当たったようですから。少し熱を持っていて横になるときに障るようですが、幸い化膿はしていません。あとは日にち薬といったところでしょう。心配はいりませんよ」
月英の説明を聞き、趙雲は安堵する。
日にち薬で治る程度であれば、あえて今、出所の説明に困るような上等な薬を出す必要はないのではないか。
そんな考えが頭をよぎったからだ。
「趙雲殿?それだけですか?」
その問いに趙雲は首を縦に振ると、自室に戻った。
自室に戻った趙雲は重い体を寝台に投げ出した。
天井の梁を見つめていると、別れ際に馬超が言った言葉が蘇る。
「本当にあの美人に困っているなら、”自分には決まった相手がいる”とはっきり言えばいいだろう。別にそれこそ嘘でもいいではないか。それをしないのは、心のどこかにいやらしい気持ちがあるからじゃないのか?……まあ、あれだけの美人だ、手元に置いておきたい気持ちも分からなくはないが」
馬超はそこで一度言葉を切ると、意地の悪い笑みを深めてこう続けた。
「ちなみに○は、俺が口説き文句を並べても『私には子龍様がいますのでお断りします』と即答だったぞ」
趙雲はただ静かに目を閉じた。
○は昔からそうだ。
一点の曇りもなく熱烈な愛情表現をしてくる。
それなのに自分は、過去の知人というだけの小蘭との間に線を引けず、○に言えないような密会をし、挙句の果てには貰った薬をどう渡すべきか…
火傷をしている○に渡すべきなのに、保身のために嘘の算段までしている。
(……いやらしい気持ちか)
馬超の言葉を否定しきれない自分がいた。
小蘭への未練ではない。
そもそも彼女とは故郷が同じだけで、幼い頃の自分など見向きもされなかった。
それでも美しく成長した彼女に好意を寄せられ、強く拒絶しきれなかったのは男の性なのか。
趙雲は深く、重い溜息を吐き、なかなか眠りにつくことが出来なかった。