漢中編【全3話】
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漢中の険しい山道に、劉備軍の行軍の音が響き渡る。
本陣を構えた趙雲は、遠方の山々を見据えていた。
先に出立した馬超や張飛による陽動作戦は既に始まっており、静まり返った渓谷には嵐の前の静けさが漂っている。
出撃の時を待つ黄忠の隊に、副官として組み込まれた○が並ぶ。
老将黄忠は、自らの愛馬の手綱を握りながら、隣に並ぶ○の背中を豪快に叩いて笑った。
「先ほどお前さんと並んで馬を駆けてみたが、やはり女子は体が軽いからか、驚くほど速いのう! その身軽さがあれば、夏侯淵の懐にも容易く潜り込めよう。期待しとるぞ、○!」
「はい!」
元気よく応える○だったが、その様子を少し離れた場所から見ていた趙雲が声をかけた。
「○。黄忠殿にしっかりついて行くんだぞ。深追いは厳禁だ」
趙雲は○の馬の鞍を一つ一つ確認するように手を触れる。
○が力強く頷くと趙雲は本陣へと戻っていった。
やがて、遠方の空に一筋の煙が上がった。
陽動作戦の成功を知らせる合図だ。
黄忠の号令と共に○は愛馬の腹を蹴った。
定軍山の険しい山道は細く曲がりくねる。
黄忠と○が率いる精鋭たちは、一列になって進む。
馬を飛ばし、先陣を切るのは○の役目だ。
行く手を阻む敵の斥候や伏兵に○が突っ込み炙りだした所を、背後から黄忠が矢で射貫いて行く。
囮役になる事の多い趙雲と共に戦場に出ていた○は、知らぬ間に囮がうまくなっていた。
そして外さない黄忠の矢は連携の取れた行軍となる。
ついに定軍山の頂を制圧したその時、眼下に広大な曹操軍の陣営が姿を現した。
中心に小さく夏侯淵と思しき姿が見える。
(夏侯淵殿、か…)
○は趙雲の村を出てから彼に合流できるまでの一年間を思い出す。
記憶の中で自分に声をかけてくる、無骨で快活な男の顔。
○は偶然、曹操軍が他国の軍勢と小競り合いをしている所に迷い込んでしまった。
さっさと退散しようとしたが、女だという理由で追い回されて逃げていた時、助けてくれたのが夏侯淵だ。
夏侯淵は、○が人を探して旅をしていると話すと、趙雲の名前は教えなかったが”戦場に身を置く人だ”と聞いて、見つかるまで同道しないかと提案した。
「探してる野郎が見つかったら、出てっていいからよ!」と笑い、曹操を紹介してもらい、曹操も夏侯淵の登用だからと歓迎してくれた。
馬超にはとてもじゃないけど言えないが、曹操の事は世に言われるほどの”奸雄”ではないと思っている。
さらに長坂で趙雲の名を聞き飛び出した際、夏侯淵は○が誰を探していたのか気付いていたように思う。
「行かせてやりてえが、お前を追わない訳にはいかんのよ。俺に捕まったら諦めろよ」
そう言って○が逃げる時間を与えてから指揮を執っていた気配があった。
あの日、夏侯淵が趙雲に会えるよう背中を押してくれたようなものだ。
(駄目だな…思い出しちゃ駄目)
今回、戦に出るにあたって諸葛亮と法正に呼び出された○。
彼らは○に夏侯淵の挑発を任務として与えたが。
「何も怒らせることだけが”挑発”ではない」
意地悪く笑った法正が言った。
「奇襲を受けた時点で相手は怒るはずです。そこで、あなただからこそ出来る、怒らせる以外の挑発…分かりますね?」
結局その時は、「演技じみて看破されては意味がない。自身で分からないなら普通に怒らせればいいですよ」と言われて終わったが、法正は何が言いたかったのだろう。
恩人を裏切り、罠にかけるような真似をすることへの罪悪感が、○の足を一瞬だけすくませた。
「どうした、○! 遅れるでないぞ!」
黄忠の怒号が○を現実に引き戻す。
白髪をなびかせ、老将は既に断崖を駆け下りている。
○は慌ててそれに続いた。
奇襲を受けた夏侯淵の陣営は混乱状態だ。
巻き上がる砂埃と兵たちの怒号。
その視界の端、鋭く空気を切り裂いて振り下ろされた剣を○は避けた。
「……やっぱりお前かよ。見た事のある後姿だと思ったぜ」
砂埃の向こうから現れたのは、記憶にある通りの夏侯淵だった。
「殿が言ってたんだよなぁ。諸葛亮のやつ、俺の動揺を誘うために、俺が世話してたお前を出すかもってよ」
夏侯淵は苦笑いにも似た表情を浮かべた。
「ま、悪く思わんでくれ。あの時、捕まってくれてりゃな」
夏侯淵が再び剣を振り下ろす。
○は必死に馬を操り、間一髪で距離を取った。
かつての恩義が頭をよぎって体が僅かに強張る。
退こうとする○の背後に黄忠が馬を寄せた。
「挑発してみぃ」
黄忠は射貫くような視線を夏侯淵に向けたまま、○だけに聞こえる小声で命じた。
(挑発する? どうやって……? どうしよう!だってもう凄く怒ってるし…)
法正の言葉が脳内を駆け巡る。
怒らせる以外の挑発の方法。
○は意を決し、馬の首にしがみつくようにして叫んだ。
「かっ、感謝の気持ちを伝えたくて、来てしまいました!」
「…………は?」
夏侯淵の剣が止まった。
背後にいた黄忠すら、あまりの言葉に唖然として口を半開きにする。
「夏侯淵殿には感謝しています!だから! だからここで会えてとても嬉しい!私が一人で彷徨って、兵士に追われて、大変だった時…助けてくれたのはあなただけだったから!」
あの時、趙雲は行方も告げずに出て行ったので、どの方向に行ったのかも分からなかった。
北からしらみつぶしに探さなくてはと思ったところで夏侯淵に声をかけられ、曹操軍に入れた事で、趙雲は北にはいないという事が分かり、○の行動の指針にもなった。
そしてなにより、孤独でなくなった。
「だから…っ」
”本当はこんな所に居合わせたくなかった”とは、言えなかった。
下唇を噛んで言葉を飲み込んだ○。
夏侯淵が毒気を抜かれたように、ほんの一瞬茫然としたその時。
夏侯淵の胸を、黄忠の放った渾身の一撃が貫いた。
動揺し、完全に守りが疎かになった一瞬の隙。
夏侯淵はその巨体を大きく揺らし、馬から崩れ落ちた。
地面に叩きつけられる鈍い音。
○は馬を飛び降りて彼に駆け寄った。
策略だったし、夏侯淵は敵将だ。
けれど今ここで命を落とそうとしている男は、一人で彷徨っていた自分に居場所をくれた恩人でもあった。
夏侯淵は苦しげに息を吐く。
「会えたんだな…」
それだけ言った。
○がなにか言おうとしたが、敵兵が○から夏侯淵を引き剥がそうと剣を振り下ろしてきたので離れる。
その兵を黄忠が矢で射貫いた。
「○! 止まるな、まだ戦は終わっておらんぞ!敵将は討ち取ったが、この勢いは殺させん!」
背後から、黄忠の雷のような声が飛んだ。
黄忠は○の悲しみに触れることなく、あえて厳しくそう叫んだ。
○は地面に残された恩人の亡骸を一度だけ振り返ると、再び馬に飛び乗った。
一方、趙雲は予定の時間に戻らない黄忠達に、定軍山を見上げていた。
定軍山を攻略し、夏侯淵を討ち取ったという伝令が届いた瞬間は、本陣も歓喜に沸いた。
だが、その後がいけない。
予定の刻限を過ぎても、黄忠と○の一隊が戻ってくる気配がなかった。
(遅すぎる。まさか、夏侯淵を失った曹操軍の猛烈な反撃に遭い、深追いされているのか……?)
○は一度火がつけば突っ込んでしまう、血の気の多い所がある。
黄忠のような歴戦の将兵で、士気を上げるのが上手い者といれば、その気質が発動してしまうかもしれない。
すると法正からの伝令が届く。
黄忠の捜索の命令だった。
「こっ、黄忠殿!これ以上は危険ではありませんか!?」
○は叫んだが、敵を討ち取り勢いに乗った黄忠の耳には届かない。
「案ずるな! 曹操の首まであと一歩ぞ!」
老将の咆哮と共に一隊は敵陣の深部へと深く、深く食い込んでいく。
しかし、そこには怒りに燃える曹操軍の精鋭たちが待ち構えていた。
突如、砂塵を裂いて一騎の若武者が躍り出た。
夏侯淵の息子、夏侯覇だ。
彼は父の仇とばかりに黄忠の喉元を狙う。
○は反射的に馬を寄せて、馬に積んであった片手剣で受け止めた。
黄忠は弓の名手だが近接戦は老体もあって続かない。
しかし○も片手剣は得意ではなく、防戦するくらいにしか扱えない。
目は良いので相手の剣筋は見えるが受けるので精いっぱいだ。
歩兵である夏侯覇に馬を切られて落馬した○。
そこに追い打ちをかけてくる夏侯覇の槍を受け続けた。
彼は○の体を「盾」にするように立ち回り、常に彼女の影に隠れながら黄忠へと迫ろうとする。
黄忠は黄忠で、○が邪魔で矢が打てずにいた。
夏侯覇の槍を受けながら少しずつ後退していた○は、勢いよく後ろに避けた際に立てかけられていた松明にぶつかる。
背中に火がつき、○は「熱い!!!」と慌てた。
その隙に夏侯覇が足を引っかけて○は地面に寝ころぶ。
背中の火は消えたが、夏侯覇は○の胸に足を置くと押さえつけて槍を構えた。
死を覚悟した時、少し離れた所で騒ぎが起こり夏侯覇がそちらに気を取られた。
直後、のしかかっていた夏侯覇の重みが嘘のように消え去る。
駆けつけた趙雲が、馬上から夏侯覇の胴を蹴り飛ばしたのだ。
「――○! 立てるか!」
呼びかける声に弾かれたように身体を起こす。
「は、はい…!ありがとうございます」
○は背中の熱さを堪え立ち上がると、他の兵士が乗り捨てた馬の手綱を掴んだ。
それを見届けた趙雲は黄忠へと向き直る。
「黄忠殿! 敵の増援が迫っています!すぐに撤退しましょう!」
その声音に黄忠も自らの失策を悟ったのか、バツが悪そうに短く頷いた。
趙雲が連れて来た少数の騎兵と共に、三人は山道を駆け戻っていった。
*****
定軍山を駆け抜け、ようやく本営へと辿り着いた一行を待っていたのは、さらに絶望的な光景だった。
城は魏の大軍によって包囲されてしまった。
下手にうって出れば囲まれて全員殺されてしまうだろう。
「このままでは、袋の鼠だな……」
「少しずつ包囲が近づいてきておるのう」
黄忠はこんな中でも余裕の顔を見せる。
趙雲は傍らに控える諸将に向き直った。
「作戦を変える。……城門をすべて開け放て。私が一人で出る。他の者は合図があるまで静寂を貫け。合図とともに一斉に矢を放つよう指示を」
そう言って準備の為に歩きだす趙雲を○は追いかけた。
兵法書で読んだ事があった。
恐らく趙雲は空城計を行おうとしている。
城内をあえて空にした状態で城門を開け放ち、その様子を見せることで、逆に伏兵がいるのではと疑わせて退却させるものだ。
しかしこれは、曹操軍が看破して攻め込んできた場合、大敗する。
さらに単騎で出た趙雲はどうなるか分からない。
「空城計を考えていらっしゃるのですか?でも、それを行うのに子龍様が出ていく必要はないはずです。裏から脱出するとか…」
本来あれは静かに敵の動きを待つ心理戦のはずだ。
趙雲が単騎で出て行くなど納得できなかった。
「お前も夏侯淵の囮となった際、言っただろう。必要なくとも勝率が上がるなら囮をやると」
「…言いましたけど…それとこれとは」
「同じだ。私はこれまで、曹操軍との戦いで囮や陽動役に回ることが多かった。そんな私が出て行く事で敵の疑心を誘いやすくなる。堂々としていれば、城内に備えがあると思わせることも出来るだろう」
「でも、もし看破されたら子龍様が……」
「○」
趙雲は立ち止ると○の肩に手を置いた。
「今、危険を冒さずしていつやるんだ。案ずるな。お前も持ち場につけ。ここが無理のしどころだ。しっかりしなさい」
言い聞かせるようにそう言うと、小さく微笑んで城門に向かって歩いて行った。
*****
趙雲の作戦は結果的に大成功を収めた。
城内に大勢の味方がいるかのような趙雲の堂々たる立ち振る舞いと、曹操軍の前進と共に城内から放たれた矢に、曹操軍は撤退していった。
戦塵が収まり、勝利の勝ち鬨が遠くで響く中、城内に戻った趙雲に○は駆け寄った。
そのままの勢いで抱き着くと、今日は引き剝がされる事なく抱きしめ返された。
周囲の兵士もどよめいた。
いつもと違ったせいで、逆に○の身体が固まる。
趙雲が人目も憚らずこれほど大胆な行動に出るなど、これまでの日々では考えられないことだ。
「し、しりゅうさま…あの、」
顔を真っ赤にして身を固くした○だったが、耳元で小さく趙雲が「無事で良かった」と呟いたのが聞こえた。
○は深呼吸をして気を落ち着かせる。
とんでもない度胸を見せた趙雲が恐れたのは、自分以外の誰かが死んでしまう事だったのかもしれない。
それに自分が含まれていた事が、不謹慎ながらとても嬉しかった。
○は抱きしめる力を強くして精一杯いつも通りの声で言った。
「やっぱり私の旦那様は、大陸一です」
趙雲の体が少しだけ強張った後、さらに力が込められるのが分かった。
「若いもんはいいのう! 羨ましい限りじゃが、まだ戦は終わっとらんぞ!」
見れば黄忠が、部下を連れてこちらをニヤニヤと眺めている。
趙雲は弾かれたように○から体を離した。
「こ、これは…違うのです! 黄忠殿、戦後処理の報告を……」
「あ!」
突如離れた趙雲に名残惜しそうな声を出す○。
せっかくいい雰囲気だったのに…と、何とも残念そうな顔で口を尖らせた。
しかし黄忠の視線はすぐに○の傷へと向けられる。
「お前はさっさと背中の手当てをせんか!今は気が昂って平気かもしれんが、火傷は甘く見ると熱は出るわグジュグジュになるわでえらいことになるぞ!…こりゃあ痕が残るかもしれんな」
○は黄忠に追い立てられるように医務官の元に向かわされた。
その後ろ姿を、趙雲はバツが悪そうに、けれどどこか名残惜しそうに、じっと見送っていた。
本陣を構えた趙雲は、遠方の山々を見据えていた。
先に出立した馬超や張飛による陽動作戦は既に始まっており、静まり返った渓谷には嵐の前の静けさが漂っている。
出撃の時を待つ黄忠の隊に、副官として組み込まれた○が並ぶ。
老将黄忠は、自らの愛馬の手綱を握りながら、隣に並ぶ○の背中を豪快に叩いて笑った。
「先ほどお前さんと並んで馬を駆けてみたが、やはり女子は体が軽いからか、驚くほど速いのう! その身軽さがあれば、夏侯淵の懐にも容易く潜り込めよう。期待しとるぞ、○!」
「はい!」
元気よく応える○だったが、その様子を少し離れた場所から見ていた趙雲が声をかけた。
「○。黄忠殿にしっかりついて行くんだぞ。深追いは厳禁だ」
趙雲は○の馬の鞍を一つ一つ確認するように手を触れる。
○が力強く頷くと趙雲は本陣へと戻っていった。
やがて、遠方の空に一筋の煙が上がった。
陽動作戦の成功を知らせる合図だ。
黄忠の号令と共に○は愛馬の腹を蹴った。
定軍山の険しい山道は細く曲がりくねる。
黄忠と○が率いる精鋭たちは、一列になって進む。
馬を飛ばし、先陣を切るのは○の役目だ。
行く手を阻む敵の斥候や伏兵に○が突っ込み炙りだした所を、背後から黄忠が矢で射貫いて行く。
囮役になる事の多い趙雲と共に戦場に出ていた○は、知らぬ間に囮がうまくなっていた。
そして外さない黄忠の矢は連携の取れた行軍となる。
ついに定軍山の頂を制圧したその時、眼下に広大な曹操軍の陣営が姿を現した。
中心に小さく夏侯淵と思しき姿が見える。
(夏侯淵殿、か…)
○は趙雲の村を出てから彼に合流できるまでの一年間を思い出す。
記憶の中で自分に声をかけてくる、無骨で快活な男の顔。
○は偶然、曹操軍が他国の軍勢と小競り合いをしている所に迷い込んでしまった。
さっさと退散しようとしたが、女だという理由で追い回されて逃げていた時、助けてくれたのが夏侯淵だ。
夏侯淵は、○が人を探して旅をしていると話すと、趙雲の名前は教えなかったが”戦場に身を置く人だ”と聞いて、見つかるまで同道しないかと提案した。
「探してる野郎が見つかったら、出てっていいからよ!」と笑い、曹操を紹介してもらい、曹操も夏侯淵の登用だからと歓迎してくれた。
馬超にはとてもじゃないけど言えないが、曹操の事は世に言われるほどの”奸雄”ではないと思っている。
さらに長坂で趙雲の名を聞き飛び出した際、夏侯淵は○が誰を探していたのか気付いていたように思う。
「行かせてやりてえが、お前を追わない訳にはいかんのよ。俺に捕まったら諦めろよ」
そう言って○が逃げる時間を与えてから指揮を執っていた気配があった。
あの日、夏侯淵が趙雲に会えるよう背中を押してくれたようなものだ。
(駄目だな…思い出しちゃ駄目)
今回、戦に出るにあたって諸葛亮と法正に呼び出された○。
彼らは○に夏侯淵の挑発を任務として与えたが。
「何も怒らせることだけが”挑発”ではない」
意地悪く笑った法正が言った。
「奇襲を受けた時点で相手は怒るはずです。そこで、あなただからこそ出来る、怒らせる以外の挑発…分かりますね?」
結局その時は、「演技じみて看破されては意味がない。自身で分からないなら普通に怒らせればいいですよ」と言われて終わったが、法正は何が言いたかったのだろう。
恩人を裏切り、罠にかけるような真似をすることへの罪悪感が、○の足を一瞬だけすくませた。
「どうした、○! 遅れるでないぞ!」
黄忠の怒号が○を現実に引き戻す。
白髪をなびかせ、老将は既に断崖を駆け下りている。
○は慌ててそれに続いた。
奇襲を受けた夏侯淵の陣営は混乱状態だ。
巻き上がる砂埃と兵たちの怒号。
その視界の端、鋭く空気を切り裂いて振り下ろされた剣を○は避けた。
「……やっぱりお前かよ。見た事のある後姿だと思ったぜ」
砂埃の向こうから現れたのは、記憶にある通りの夏侯淵だった。
「殿が言ってたんだよなぁ。諸葛亮のやつ、俺の動揺を誘うために、俺が世話してたお前を出すかもってよ」
夏侯淵は苦笑いにも似た表情を浮かべた。
「ま、悪く思わんでくれ。あの時、捕まってくれてりゃな」
夏侯淵が再び剣を振り下ろす。
○は必死に馬を操り、間一髪で距離を取った。
かつての恩義が頭をよぎって体が僅かに強張る。
退こうとする○の背後に黄忠が馬を寄せた。
「挑発してみぃ」
黄忠は射貫くような視線を夏侯淵に向けたまま、○だけに聞こえる小声で命じた。
(挑発する? どうやって……? どうしよう!だってもう凄く怒ってるし…)
法正の言葉が脳内を駆け巡る。
怒らせる以外の挑発の方法。
○は意を決し、馬の首にしがみつくようにして叫んだ。
「かっ、感謝の気持ちを伝えたくて、来てしまいました!」
「…………は?」
夏侯淵の剣が止まった。
背後にいた黄忠すら、あまりの言葉に唖然として口を半開きにする。
「夏侯淵殿には感謝しています!だから! だからここで会えてとても嬉しい!私が一人で彷徨って、兵士に追われて、大変だった時…助けてくれたのはあなただけだったから!」
あの時、趙雲は行方も告げずに出て行ったので、どの方向に行ったのかも分からなかった。
北からしらみつぶしに探さなくてはと思ったところで夏侯淵に声をかけられ、曹操軍に入れた事で、趙雲は北にはいないという事が分かり、○の行動の指針にもなった。
そしてなにより、孤独でなくなった。
「だから…っ」
”本当はこんな所に居合わせたくなかった”とは、言えなかった。
下唇を噛んで言葉を飲み込んだ○。
夏侯淵が毒気を抜かれたように、ほんの一瞬茫然としたその時。
夏侯淵の胸を、黄忠の放った渾身の一撃が貫いた。
動揺し、完全に守りが疎かになった一瞬の隙。
夏侯淵はその巨体を大きく揺らし、馬から崩れ落ちた。
地面に叩きつけられる鈍い音。
○は馬を飛び降りて彼に駆け寄った。
策略だったし、夏侯淵は敵将だ。
けれど今ここで命を落とそうとしている男は、一人で彷徨っていた自分に居場所をくれた恩人でもあった。
夏侯淵は苦しげに息を吐く。
「会えたんだな…」
それだけ言った。
○がなにか言おうとしたが、敵兵が○から夏侯淵を引き剥がそうと剣を振り下ろしてきたので離れる。
その兵を黄忠が矢で射貫いた。
「○! 止まるな、まだ戦は終わっておらんぞ!敵将は討ち取ったが、この勢いは殺させん!」
背後から、黄忠の雷のような声が飛んだ。
黄忠は○の悲しみに触れることなく、あえて厳しくそう叫んだ。
○は地面に残された恩人の亡骸を一度だけ振り返ると、再び馬に飛び乗った。
一方、趙雲は予定の時間に戻らない黄忠達に、定軍山を見上げていた。
定軍山を攻略し、夏侯淵を討ち取ったという伝令が届いた瞬間は、本陣も歓喜に沸いた。
だが、その後がいけない。
予定の刻限を過ぎても、黄忠と○の一隊が戻ってくる気配がなかった。
(遅すぎる。まさか、夏侯淵を失った曹操軍の猛烈な反撃に遭い、深追いされているのか……?)
○は一度火がつけば突っ込んでしまう、血の気の多い所がある。
黄忠のような歴戦の将兵で、士気を上げるのが上手い者といれば、その気質が発動してしまうかもしれない。
すると法正からの伝令が届く。
黄忠の捜索の命令だった。
「こっ、黄忠殿!これ以上は危険ではありませんか!?」
○は叫んだが、敵を討ち取り勢いに乗った黄忠の耳には届かない。
「案ずるな! 曹操の首まであと一歩ぞ!」
老将の咆哮と共に一隊は敵陣の深部へと深く、深く食い込んでいく。
しかし、そこには怒りに燃える曹操軍の精鋭たちが待ち構えていた。
突如、砂塵を裂いて一騎の若武者が躍り出た。
夏侯淵の息子、夏侯覇だ。
彼は父の仇とばかりに黄忠の喉元を狙う。
○は反射的に馬を寄せて、馬に積んであった片手剣で受け止めた。
黄忠は弓の名手だが近接戦は老体もあって続かない。
しかし○も片手剣は得意ではなく、防戦するくらいにしか扱えない。
目は良いので相手の剣筋は見えるが受けるので精いっぱいだ。
歩兵である夏侯覇に馬を切られて落馬した○。
そこに追い打ちをかけてくる夏侯覇の槍を受け続けた。
彼は○の体を「盾」にするように立ち回り、常に彼女の影に隠れながら黄忠へと迫ろうとする。
黄忠は黄忠で、○が邪魔で矢が打てずにいた。
夏侯覇の槍を受けながら少しずつ後退していた○は、勢いよく後ろに避けた際に立てかけられていた松明にぶつかる。
背中に火がつき、○は「熱い!!!」と慌てた。
その隙に夏侯覇が足を引っかけて○は地面に寝ころぶ。
背中の火は消えたが、夏侯覇は○の胸に足を置くと押さえつけて槍を構えた。
死を覚悟した時、少し離れた所で騒ぎが起こり夏侯覇がそちらに気を取られた。
直後、のしかかっていた夏侯覇の重みが嘘のように消え去る。
駆けつけた趙雲が、馬上から夏侯覇の胴を蹴り飛ばしたのだ。
「――○! 立てるか!」
呼びかける声に弾かれたように身体を起こす。
「は、はい…!ありがとうございます」
○は背中の熱さを堪え立ち上がると、他の兵士が乗り捨てた馬の手綱を掴んだ。
それを見届けた趙雲は黄忠へと向き直る。
「黄忠殿! 敵の増援が迫っています!すぐに撤退しましょう!」
その声音に黄忠も自らの失策を悟ったのか、バツが悪そうに短く頷いた。
趙雲が連れて来た少数の騎兵と共に、三人は山道を駆け戻っていった。
*****
定軍山を駆け抜け、ようやく本営へと辿り着いた一行を待っていたのは、さらに絶望的な光景だった。
城は魏の大軍によって包囲されてしまった。
下手にうって出れば囲まれて全員殺されてしまうだろう。
「このままでは、袋の鼠だな……」
「少しずつ包囲が近づいてきておるのう」
黄忠はこんな中でも余裕の顔を見せる。
趙雲は傍らに控える諸将に向き直った。
「作戦を変える。……城門をすべて開け放て。私が一人で出る。他の者は合図があるまで静寂を貫け。合図とともに一斉に矢を放つよう指示を」
そう言って準備の為に歩きだす趙雲を○は追いかけた。
兵法書で読んだ事があった。
恐らく趙雲は空城計を行おうとしている。
城内をあえて空にした状態で城門を開け放ち、その様子を見せることで、逆に伏兵がいるのではと疑わせて退却させるものだ。
しかしこれは、曹操軍が看破して攻め込んできた場合、大敗する。
さらに単騎で出た趙雲はどうなるか分からない。
「空城計を考えていらっしゃるのですか?でも、それを行うのに子龍様が出ていく必要はないはずです。裏から脱出するとか…」
本来あれは静かに敵の動きを待つ心理戦のはずだ。
趙雲が単騎で出て行くなど納得できなかった。
「お前も夏侯淵の囮となった際、言っただろう。必要なくとも勝率が上がるなら囮をやると」
「…言いましたけど…それとこれとは」
「同じだ。私はこれまで、曹操軍との戦いで囮や陽動役に回ることが多かった。そんな私が出て行く事で敵の疑心を誘いやすくなる。堂々としていれば、城内に備えがあると思わせることも出来るだろう」
「でも、もし看破されたら子龍様が……」
「○」
趙雲は立ち止ると○の肩に手を置いた。
「今、危険を冒さずしていつやるんだ。案ずるな。お前も持ち場につけ。ここが無理のしどころだ。しっかりしなさい」
言い聞かせるようにそう言うと、小さく微笑んで城門に向かって歩いて行った。
*****
趙雲の作戦は結果的に大成功を収めた。
城内に大勢の味方がいるかのような趙雲の堂々たる立ち振る舞いと、曹操軍の前進と共に城内から放たれた矢に、曹操軍は撤退していった。
戦塵が収まり、勝利の勝ち鬨が遠くで響く中、城内に戻った趙雲に○は駆け寄った。
そのままの勢いで抱き着くと、今日は引き剝がされる事なく抱きしめ返された。
周囲の兵士もどよめいた。
いつもと違ったせいで、逆に○の身体が固まる。
趙雲が人目も憚らずこれほど大胆な行動に出るなど、これまでの日々では考えられないことだ。
「し、しりゅうさま…あの、」
顔を真っ赤にして身を固くした○だったが、耳元で小さく趙雲が「無事で良かった」と呟いたのが聞こえた。
○は深呼吸をして気を落ち着かせる。
とんでもない度胸を見せた趙雲が恐れたのは、自分以外の誰かが死んでしまう事だったのかもしれない。
それに自分が含まれていた事が、不謹慎ながらとても嬉しかった。
○は抱きしめる力を強くして精一杯いつも通りの声で言った。
「やっぱり私の旦那様は、大陸一です」
趙雲の体が少しだけ強張った後、さらに力が込められるのが分かった。
「若いもんはいいのう! 羨ましい限りじゃが、まだ戦は終わっとらんぞ!」
見れば黄忠が、部下を連れてこちらをニヤニヤと眺めている。
趙雲は弾かれたように○から体を離した。
「こ、これは…違うのです! 黄忠殿、戦後処理の報告を……」
「あ!」
突如離れた趙雲に名残惜しそうな声を出す○。
せっかくいい雰囲気だったのに…と、何とも残念そうな顔で口を尖らせた。
しかし黄忠の視線はすぐに○の傷へと向けられる。
「お前はさっさと背中の手当てをせんか!今は気が昂って平気かもしれんが、火傷は甘く見ると熱は出るわグジュグジュになるわでえらいことになるぞ!…こりゃあ痕が残るかもしれんな」
○は黄忠に追い立てられるように医務官の元に向かわされた。
その後ろ姿を、趙雲はバツが悪そうに、けれどどこか名残惜しそうに、じっと見送っていた。