漢中編【全3話】
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翌日。
趙雲の罪悪感が晴れる隙もなく、早朝から呼び出しがかかった。
漢中、定軍山。
曹操軍がこの地を奪取したとの報せが入ったからだ。
趙雲を含めた各将は軍議室に呼ばれ、張り詰めた空気の中、法正が卓上に一枚の書付を広げる。
それは、諸葛亮と共に練り上げた「漢中攻略・兵員配置表」だった。
急ぎ作ったにしては丁寧に書き込まれている。
「――以上が、各将の配置となります」
「……軍師殿、ひとつ確認したい」
馬超の声だ。
彼は、○の名前が黄忠の隊に組み込まれていることを指摘した。
「何故、○が黄忠殿の隊にいる?彼は足場の悪い道を行くはずだ。不慣れな隊では足並みが乱れるのではないか」
諸葛亮は冷静な眼差しを馬超に向け、淡々と告げた。
「これには理由があります。今回の策において、○殿には重要な役割があります。…敵の総大将、夏侯淵を誘い出すための囮です」
「囮…?」
馬超の眉が跳ね上がる。
趙雲も組んでいた腕に力が入った。
「○殿はかつて、長坂の戦いまでの約一年間、曹操軍の客将でした。さらに何かの折に話を聞いたところ、夏侯淵に誘われ参入したとの事。趙雲殿を追って曹操軍を抜けた彼女を捕まえようと指揮を執ったのも彼だったと報告が入っています。敵から見れば、彼女はかつての仲間であり、裏切り者。これほど夏侯淵の理性を失わせる餌はありません」
馬超は耳を疑った。
自分の一族を惨殺し、その復讐を誓い続けている不倶戴天の敵、曹操。
その憎き仇の元に○がいた。
馬超の脳裏に、ずぶ濡れになってまで自分の大事なものを拾ってくれた○の顔と、殺された一族の顔が重なった。
軍議室を出た馬超は廊下を突き進み、○のいる趙雲の執務室に向かう。
追いかけて馬超を止めようとする趙雲だが間に合わず、勢いよく執務室に駆け込んだ。
「○ッ!!」
怒号とともに、馬超の太い腕が○の肩を強く掴み、自分の方へと引き寄せた。
あまりの勢いに○の体が大きく揺れる。
「馬超殿? 急に何ですか、怖い顔して……」
「貴様、本当か! 曹操軍にいたというのはっ!」
○の肩を掴む指が食い込む。
「俺の一族を……父も弟も、家族を皆殺しにした、あの曹操の元にいたのか!? 答えろ!」
詰め寄る馬超の気迫に○は言葉を失う。
そこに趙雲が割り込むと、馬超の手を引き剥がした。
「……落ち着かれよ、馬超殿。諸葛亮殿の話を最後まで聞いていなかったのですか?」
「落ち着いていられるか! こいつは、あの男の……!」
「○は私を探して大陸を放浪していた際、行き場もなく一年間『客将』として置かれていただけだ。それは先ほどの軍議でも再三諸葛亮殿が仰っていたでしょう」
馬超は趙雲越しに○を睨むのをやめない。
「それに馬超殿のご家族が被害に遭われた時期、彼女はすでに曹操軍を離れ、我らと共にいました。彼女は貴殿の仇に加担などしていません」
趙雲の冷徹な言葉に、馬超の肩が激しく上下する。
その会話で、○も馬超が何に憤慨しているのか理解して黙り込む。
馬超の家族が曹操に殺されたことは知っていたが、自分が去った後の話だったのもあり気に留めていなかったのだ。
馬超はやり場のない憤怒と、彼女を責めてしまった自己嫌悪の間で激しく葛藤したが、舌打ちをすると部屋を出て行った。
馬超の激しい怒号が去ったあとの執務室で、○は呆然と立ち尽くしていた。
「……子龍様。今の、一体なんの話なのですか」
「軍議で、此度の漢中の戦における配置が決まった。○、お前は途中から私の隊を離れ、黄忠殿の隊にて行軍せよとの指示があったのだ。敵の総大将・夏侯淵を誘い出すための『囮』としてな」
「…」
「お前が夏侯淵の登用に応じ客将になった過去があるからとの抜擢だが、それを聞いた馬超殿が…あの通りだ」
趙雲は苦渋を滲ませた表情で○を見る。
「○。私としても、お前が囮になるのは気がかりだ。黄忠殿の隊は敵の本陣に突っ込むことになる。……今からもう一度軍議室に戻り、諸葛亮殿に相談してみようかと考えている」
「でも…囮があった方がより勝率が上がるのですよね?」
「それは…」
「子龍様、私は守られるために戦に出るのではありません。子龍様の足枷になりたくないので日々鍛えているのです。ですから、私に関わる事で子龍様のお立場が少しでも悪くなるような事は絶対になさらないでください」
○は趙雲を見つめて言う。
「それにもうご存じですよね。私、結構頑丈なんです」
軍師の策に従うことが最善だと理解しながらも、囮として敵陣に晒される彼女を想うと、趙雲は胸の奥が焼けるように熱くなった。
あの馬超の怒声は軍営中に響き渡っていた。
だが、彼が去った後の周囲の反応は、馬超が予想していたものとは異なる。
○はかつて長坂の地にて、趙雲と共に劉備の妻子を身を挺して守り抜いた功労者だ。
その後の苦しい流浪の時期も、弱小だった劉備軍に残り支え続けた。
その献身を知る将兵たちにとって、過去の一時期を捉えて彼女を「裏切り者」のように罵った馬超は、一部から批判的な目を向けられていた。
「子龍様、やっぱり私、馬超殿とお話をしないと」
「○…やめておけ。彼は頭が冷えていない」
「大丈夫ですよ、きっと。元々仲だって良かったんですから。つい昨日だって…」
そこまで言った○は黙る。
食事を作って趙雲を待っていた事を、まだ○は趙雲に話していないからだろう。
”昨日、自分の作った食事を褒めてくれたのに”と言いかけてやめた。
「とにかく、馬超殿を見つけたら声をかけてみます」
趙雲は複雑な表情で前を向いたまま、溜息を零す。
馬超はあの尊大で無礼な態度の為に、何度か上層部には叱られている。
いつもの事、といえばそうなのだ。
「○…馬超殿の言葉は、本来なら一戦交えてもおかしくない侮辱だったのだぞ。それを……」
「いやいや…私ですよ?なんの立場もない。むしろ立場としては馬超殿の方が上です」
そのまま趙雲に付き纏いながら歩いていた○は、ふと足を止めた。
視線の先、人気のない裏庭の隅に一人で佇む男の背中があった。
甲冑を脱ぎ捨て簡素な着流し姿で岩に腰掛けている馬超だ。
その手には、かつて○が川に入って拾い上げたあのお守りが握られていた。
○は迷いのない足取りで馬超へと歩み寄る。
その後ろには流れでなんとなくついてきた趙雲。
「馬超殿っ」
声をかけられた馬超の肩が微かに跳ねた。
だが彼は振り向こうとはせず、手元のお守りを強く握りしめるだけだった。
「……何の用だ」
低く、突き放すような声が返ってくる。
「あの…どうすれば私は許されますか?」
色々勝手に考えてやるよりも、本人の気が済む解決法が知りたい○の質問。
「うるさい。あっちいけ」
絞り出すような一言は、それ以上の対話を拒むような響きだった。
後ろで控えていた趙雲が一歩前に出る。
「馬超殿。先ほども言った通り、○が曹操軍にいたのは不本意な状況下でのことです。彼女のこれまでの忠義は私が……そして劉備殿も認めています。それを疑うのは我らへの侮辱とも捉える者が出てしまいかねません。貴殿にそのような肩身の狭い思いはしてほしく…」
「分かっていると言っているだろう!うるさいな、お前らは!」
馬超が弾かれたように立ち上がり、ようやく振り返った。
瞳が充血していた。
「……それが乱世であることも、わかっている。昨日の敵が今日の友となり、逆もまた然りだ。理屈では……とうに、わかっているのだ」
絞り出すような声は、次第に掠れて小さくなっていった。
「ただ……それが、お前であったことが辛いだけだ。何故、お前なんだ…お前でなければこんな…」
その声はとても弱々しかった。
馬超にとって、○は暗い復讐心の中で見つけた数少ない光だったから。
ずぶ濡れになってまで守ってくれたお守り。
分け隔てない優しさ。
食事を分ける笑顔。
なにより亡き妻に似ている雰囲気。
その存在に救われていたからこそ、彼女の中に「仇敵」の影が見えて耐えがたかった。
趙雲もまた何も言えなかった。
馬超が抱える凄惨な過去は、他者が安易に慰められるものではない。
そして馬超は、ただ軟派な気持ちなのではなく、自分が思っていた何倍も○を大切に思っていた事を知った。
「時間をくれ」
それだけ言った馬超に○は俯く。
「行こう、○」
趙雲が静かに促すが、○は背を向けた馬超の背中を見つめた。
その日の夜。
趙雲の自室では、いつもの攻防が始まっていた。
「それにしても……馬超殿、大丈夫でしょうか」
趙雲の寝台に潜り込み、隣にぴたりと寄り添い話しかける○。
「……どこで心配をしている。いいから早く自分の部屋へ帰れ」
趙雲は手元の書物に視線を落としたまま話す。
もう照れる事もなく、慣れたものだ。
「だって心配じゃないですか。あんなに仲良く話せていたのに…」
「……確かに、劉備殿の軍において、あのような仲間内での激しい諍いは珍しいことではあるな」
趙雲はそう言いながら○を寝台から降ろそうと押すが、凄い力で踏ん張って動かない。
「どうすれば良いと思いますかっ。馬超殿が出立するまであまり日がありません」
踏ん張りながら聞く○に、趙雲は諦めて押す力を緩める。
「馬超殿も言っていたろう。時間が欲しいと」
「そうなんですけど。今の馬超殿って孤独ではないですか?このままそっとしておいたら、孤立してしまう気がして」
「……。だとしても、お前がそこまでする必要はない。馬超殿の憤りは彼自身の問題だ。時が解決するのを待てばいい」
「平時ならですよね。このまま戦に出たら、馬超殿、現場で連携がうまく取れなくなるかもしれませんよ」
○のいう事も分かる。
特に漢中攻略のような陽動隊と奇襲隊とで四方八方から攻め立てる場合、将軍同士、あるいは部隊間の不和は致命的な隙となる。
○はうつ伏せになった趙雲の背中に乗り掛かる。
「重い…」
「私が馬超殿に話しかけるの、心配ですか?」
肩から顔を覗き込んで問いかける○。
不機嫌そうな顔で趙雲は身体を傾けて、○を寝台の上に落とす。
「心配などしていない」
「だって、馬超殿に話しかけようとするのを嫌がっているみたいに見えます」
「思い違いも甚だしい。お前が余計に事態を拗らせるのを危惧しているだけだ」
「なら、気を付けながら話しかけてもいいですか?」
趙雲は観念した様に身体を起すとため息をついた。
「そこまで言うのなら、馬超殿の件はお前が思う様にやればいい。私は止めない。ただし、少しでも事態が悪化したらやめるように。まあ…お前のする事なら馬超殿もそこまでの無茶はしないだろう」
今日の馬超の様子からそれは分かる。
「良かった!子龍様、今回の件に私が関わるのを嫌がっているみたいでしたから」
「危惧はしていると言っただろう。…ただ、お前は頑固だからな。ここで反対して影でコソコソされるよりマシだ。分かったら今度こそ自分の部屋へ帰れ」
シッシッと手を振る趙雲に、「もう!」と怒りながらも○は部屋を出て行った。
翌日から○は、何かにつけて馬超に声をかけ始めた。
○は趙雲のそばにいることが多いので、必然的に趙雲もその場に居合わせることになる。
朝、部屋から出てきた馬超に「おはようございます」と声をかける。
いつもはそんな○に対して、馬超は抱き寄せんばかりに近づくが「…ああ」としか言わない。
鍛錬場の隅。
武器の手入れをしている馬超の隣に座り、「手合わせお願いしたいです」と声をかける。
「……俺とお前では、相手にならん。趙雲にでも頼めばいいだろう」
馬超は○の顔を見ようともせず、突き放すように言って立ち去った。
軍議を終え、広間から出てきた趙雲に駆け寄った○。
ちょうど隣を通りかかった馬超に、「漢中の戦まであとわずかですね」と声をかける。
「……うるさい」
吐き捨てるような一言を投げかけると去っていった。
すると廊下を通りがかった星彩が○に近づいた。
その隣には張飛も立っている。
「○。随分、馬超殿に構うのね」
絶好の機会とばかりに、○の隣に立つ趙雲は頷く。
「○、もうやめておけ。あれだけあしざまにされて、心が折れぬのが不思議なほどだ。これ以上は逆効果だろう」
しかし星彩の隣でニヤニヤと笑っていた張飛が口を挟んだ。
「でもよお、趙雲。最初の頃のお前は、あれほどではなかったが○に対して近い態度を取ってたぜ」
「何のことです?」
趙雲の眉がぴくりと動くが、張飛は構わず続けた。
「昔は俺からすりゃあ、趙雲は○を冷たく突き放してたぜ。よく言うよなと思ってな」
「それは彼女の身の安全を思えばこその…」
「でも結局こうなってるって事は、効果があるって事じゃねえか」
「お待ちください!”こうなってる”というのはなんです。どうもなっていないではないですか」
張飛と趙雲がもめ始めたのを尻目に、星彩が○の傍に立つ。
「馬超殿は、一度火がつくと止まらないけれど、そういう人は冷めるのも早いと思う。きっと○のそのしつこさは実を結ぶわ」
夕餉の席。
ついに馬超が爆発した。
「いい加減にしろ、お前はッ!」
膳を叩き立ち上がった馬超の気迫に、周囲の兵たちの手が止まる。
怒りの矛先は、今日も今日とて馬超の隣に陣取っていた○だった。
「なんだお前は! 機嫌取りも大概にしろ! 鬱陶しいんだよ! 一体どういうつもりだ!ついでにお前もだがな、趙雲!」
激昂し、顔を真っ赤にする馬超。
○の向かいに座る趙雲も自分を名指しされて驚いて顔を上げた。
「話しかけるな!近寄るな!作戦の為に俺を宥めろと軍師にでも言われたか!?」
「そんな…違います!」
「なら何が目的だ!?」
「も、目的……しいて言うなら、馬超殿の事が好きだから嫌われたくないだけです!」
その瞬間、広間の空気が凍りついた。
「なにっ!?」
向かいにいた趙雲だけが身を乗り出す。
一方、怒鳴りつけた馬超も毒気を抜かれたようにポカンとした表情を浮かべた。
その頬には隠しきれない動揺と、わずかな嬉しさが混じっている。
「……す、好きだと……?」
「そうです!ですから”ずっと”、良い戦友でいてほしいのです!」
期待と緊張が入り混じっていた馬超の顔が、呆気に取られたものへと変わる。
期待した「好き」の定義が少し違い、さらに”ずっと戦友”と言い切られた。
しかし彼女のあまりにも突飛な物言いに、馬超の胸の内にあったわだかまりが消えていく。
「……ははははっ! なんだ、そういうことか!」
馬超は突然、天を仰いで大笑いした。
その豪快な笑い声は、数日間軍営を包んでいた重苦しい空気を一気に吹き飛ばしていく。
「全く…俺の負けだ!お前に無礼な態度をとり、本当に申し訳なかった。俺を殴るなりなんなりしてくれ」
「殴る!?」
馬超は笑いながら○の肩を引き寄せると、労うような力強さでその体を抱きしめた。
笑い合う二人を前に、趙雲はバレない様にそっと席に座り直す。
「……紛らわしい言い方をするな」と小さな声で呟くが、それは誰の耳にも届いていなかった。
「俺の心が狭かった。本当に悪かったな、○」
馬超はもう一度謝って、晴れやかな顔で席を立った。
しかし食堂を去る際、趙雲の後ろを通りかかって一瞬だけ足を止める。
「しかし…俺は“戦友”のままでは困るな」
思わず馬超を振り返る。
馬超は趙雲の耳元に顔を寄せ、さらに声を潜めた。
『お前が商隊の美人にうつつを抜かしているというのなら……身を引いてほしい所ではある』
「な、なぜそれを…」
趙雲の背中に冷や汗が伝う。
自分の隠し事――幼馴染である小蘭との事を知っていた馬超。
動揺を隠せない趙雲を真っ向から見据え、馬超はさらに追い打ちをかけるようにニヤリと口角を上げる。
「冗談だ。そう怖い顔をするな」
馬超は趙雲の肩をガシガシと叩くと、高笑いと共に広間を後にした。
何も知らない○が不思議そうに首を傾げて覗き込んでくる。
「子龍様、何か言われたのですか?凄い顔してますよ」
「……何でもない。ただの、男同士の軽口だ」
仲直りをした喜びで顔を綻ばせる○とは裏腹に、趙雲の心には未だ○に言えていない「隠し事」の重みが影を落としていた。
趙雲の罪悪感が晴れる隙もなく、早朝から呼び出しがかかった。
漢中、定軍山。
曹操軍がこの地を奪取したとの報せが入ったからだ。
趙雲を含めた各将は軍議室に呼ばれ、張り詰めた空気の中、法正が卓上に一枚の書付を広げる。
それは、諸葛亮と共に練り上げた「漢中攻略・兵員配置表」だった。
急ぎ作ったにしては丁寧に書き込まれている。
「――以上が、各将の配置となります」
「……軍師殿、ひとつ確認したい」
馬超の声だ。
彼は、○の名前が黄忠の隊に組み込まれていることを指摘した。
「何故、○が黄忠殿の隊にいる?彼は足場の悪い道を行くはずだ。不慣れな隊では足並みが乱れるのではないか」
諸葛亮は冷静な眼差しを馬超に向け、淡々と告げた。
「これには理由があります。今回の策において、○殿には重要な役割があります。…敵の総大将、夏侯淵を誘い出すための囮です」
「囮…?」
馬超の眉が跳ね上がる。
趙雲も組んでいた腕に力が入った。
「○殿はかつて、長坂の戦いまでの約一年間、曹操軍の客将でした。さらに何かの折に話を聞いたところ、夏侯淵に誘われ参入したとの事。趙雲殿を追って曹操軍を抜けた彼女を捕まえようと指揮を執ったのも彼だったと報告が入っています。敵から見れば、彼女はかつての仲間であり、裏切り者。これほど夏侯淵の理性を失わせる餌はありません」
馬超は耳を疑った。
自分の一族を惨殺し、その復讐を誓い続けている不倶戴天の敵、曹操。
その憎き仇の元に○がいた。
馬超の脳裏に、ずぶ濡れになってまで自分の大事なものを拾ってくれた○の顔と、殺された一族の顔が重なった。
軍議室を出た馬超は廊下を突き進み、○のいる趙雲の執務室に向かう。
追いかけて馬超を止めようとする趙雲だが間に合わず、勢いよく執務室に駆け込んだ。
「○ッ!!」
怒号とともに、馬超の太い腕が○の肩を強く掴み、自分の方へと引き寄せた。
あまりの勢いに○の体が大きく揺れる。
「馬超殿? 急に何ですか、怖い顔して……」
「貴様、本当か! 曹操軍にいたというのはっ!」
○の肩を掴む指が食い込む。
「俺の一族を……父も弟も、家族を皆殺しにした、あの曹操の元にいたのか!? 答えろ!」
詰め寄る馬超の気迫に○は言葉を失う。
そこに趙雲が割り込むと、馬超の手を引き剥がした。
「……落ち着かれよ、馬超殿。諸葛亮殿の話を最後まで聞いていなかったのですか?」
「落ち着いていられるか! こいつは、あの男の……!」
「○は私を探して大陸を放浪していた際、行き場もなく一年間『客将』として置かれていただけだ。それは先ほどの軍議でも再三諸葛亮殿が仰っていたでしょう」
馬超は趙雲越しに○を睨むのをやめない。
「それに馬超殿のご家族が被害に遭われた時期、彼女はすでに曹操軍を離れ、我らと共にいました。彼女は貴殿の仇に加担などしていません」
趙雲の冷徹な言葉に、馬超の肩が激しく上下する。
その会話で、○も馬超が何に憤慨しているのか理解して黙り込む。
馬超の家族が曹操に殺されたことは知っていたが、自分が去った後の話だったのもあり気に留めていなかったのだ。
馬超はやり場のない憤怒と、彼女を責めてしまった自己嫌悪の間で激しく葛藤したが、舌打ちをすると部屋を出て行った。
馬超の激しい怒号が去ったあとの執務室で、○は呆然と立ち尽くしていた。
「……子龍様。今の、一体なんの話なのですか」
「軍議で、此度の漢中の戦における配置が決まった。○、お前は途中から私の隊を離れ、黄忠殿の隊にて行軍せよとの指示があったのだ。敵の総大将・夏侯淵を誘い出すための『囮』としてな」
「…」
「お前が夏侯淵の登用に応じ客将になった過去があるからとの抜擢だが、それを聞いた馬超殿が…あの通りだ」
趙雲は苦渋を滲ませた表情で○を見る。
「○。私としても、お前が囮になるのは気がかりだ。黄忠殿の隊は敵の本陣に突っ込むことになる。……今からもう一度軍議室に戻り、諸葛亮殿に相談してみようかと考えている」
「でも…囮があった方がより勝率が上がるのですよね?」
「それは…」
「子龍様、私は守られるために戦に出るのではありません。子龍様の足枷になりたくないので日々鍛えているのです。ですから、私に関わる事で子龍様のお立場が少しでも悪くなるような事は絶対になさらないでください」
○は趙雲を見つめて言う。
「それにもうご存じですよね。私、結構頑丈なんです」
軍師の策に従うことが最善だと理解しながらも、囮として敵陣に晒される彼女を想うと、趙雲は胸の奥が焼けるように熱くなった。
あの馬超の怒声は軍営中に響き渡っていた。
だが、彼が去った後の周囲の反応は、馬超が予想していたものとは異なる。
○はかつて長坂の地にて、趙雲と共に劉備の妻子を身を挺して守り抜いた功労者だ。
その後の苦しい流浪の時期も、弱小だった劉備軍に残り支え続けた。
その献身を知る将兵たちにとって、過去の一時期を捉えて彼女を「裏切り者」のように罵った馬超は、一部から批判的な目を向けられていた。
「子龍様、やっぱり私、馬超殿とお話をしないと」
「○…やめておけ。彼は頭が冷えていない」
「大丈夫ですよ、きっと。元々仲だって良かったんですから。つい昨日だって…」
そこまで言った○は黙る。
食事を作って趙雲を待っていた事を、まだ○は趙雲に話していないからだろう。
”昨日、自分の作った食事を褒めてくれたのに”と言いかけてやめた。
「とにかく、馬超殿を見つけたら声をかけてみます」
趙雲は複雑な表情で前を向いたまま、溜息を零す。
馬超はあの尊大で無礼な態度の為に、何度か上層部には叱られている。
いつもの事、といえばそうなのだ。
「○…馬超殿の言葉は、本来なら一戦交えてもおかしくない侮辱だったのだぞ。それを……」
「いやいや…私ですよ?なんの立場もない。むしろ立場としては馬超殿の方が上です」
そのまま趙雲に付き纏いながら歩いていた○は、ふと足を止めた。
視線の先、人気のない裏庭の隅に一人で佇む男の背中があった。
甲冑を脱ぎ捨て簡素な着流し姿で岩に腰掛けている馬超だ。
その手には、かつて○が川に入って拾い上げたあのお守りが握られていた。
○は迷いのない足取りで馬超へと歩み寄る。
その後ろには流れでなんとなくついてきた趙雲。
「馬超殿っ」
声をかけられた馬超の肩が微かに跳ねた。
だが彼は振り向こうとはせず、手元のお守りを強く握りしめるだけだった。
「……何の用だ」
低く、突き放すような声が返ってくる。
「あの…どうすれば私は許されますか?」
色々勝手に考えてやるよりも、本人の気が済む解決法が知りたい○の質問。
「うるさい。あっちいけ」
絞り出すような一言は、それ以上の対話を拒むような響きだった。
後ろで控えていた趙雲が一歩前に出る。
「馬超殿。先ほども言った通り、○が曹操軍にいたのは不本意な状況下でのことです。彼女のこれまでの忠義は私が……そして劉備殿も認めています。それを疑うのは我らへの侮辱とも捉える者が出てしまいかねません。貴殿にそのような肩身の狭い思いはしてほしく…」
「分かっていると言っているだろう!うるさいな、お前らは!」
馬超が弾かれたように立ち上がり、ようやく振り返った。
瞳が充血していた。
「……それが乱世であることも、わかっている。昨日の敵が今日の友となり、逆もまた然りだ。理屈では……とうに、わかっているのだ」
絞り出すような声は、次第に掠れて小さくなっていった。
「ただ……それが、お前であったことが辛いだけだ。何故、お前なんだ…お前でなければこんな…」
その声はとても弱々しかった。
馬超にとって、○は暗い復讐心の中で見つけた数少ない光だったから。
ずぶ濡れになってまで守ってくれたお守り。
分け隔てない優しさ。
食事を分ける笑顔。
なにより亡き妻に似ている雰囲気。
その存在に救われていたからこそ、彼女の中に「仇敵」の影が見えて耐えがたかった。
趙雲もまた何も言えなかった。
馬超が抱える凄惨な過去は、他者が安易に慰められるものではない。
そして馬超は、ただ軟派な気持ちなのではなく、自分が思っていた何倍も○を大切に思っていた事を知った。
「時間をくれ」
それだけ言った馬超に○は俯く。
「行こう、○」
趙雲が静かに促すが、○は背を向けた馬超の背中を見つめた。
その日の夜。
趙雲の自室では、いつもの攻防が始まっていた。
「それにしても……馬超殿、大丈夫でしょうか」
趙雲の寝台に潜り込み、隣にぴたりと寄り添い話しかける○。
「……どこで心配をしている。いいから早く自分の部屋へ帰れ」
趙雲は手元の書物に視線を落としたまま話す。
もう照れる事もなく、慣れたものだ。
「だって心配じゃないですか。あんなに仲良く話せていたのに…」
「……確かに、劉備殿の軍において、あのような仲間内での激しい諍いは珍しいことではあるな」
趙雲はそう言いながら○を寝台から降ろそうと押すが、凄い力で踏ん張って動かない。
「どうすれば良いと思いますかっ。馬超殿が出立するまであまり日がありません」
踏ん張りながら聞く○に、趙雲は諦めて押す力を緩める。
「馬超殿も言っていたろう。時間が欲しいと」
「そうなんですけど。今の馬超殿って孤独ではないですか?このままそっとしておいたら、孤立してしまう気がして」
「……。だとしても、お前がそこまでする必要はない。馬超殿の憤りは彼自身の問題だ。時が解決するのを待てばいい」
「平時ならですよね。このまま戦に出たら、馬超殿、現場で連携がうまく取れなくなるかもしれませんよ」
○のいう事も分かる。
特に漢中攻略のような陽動隊と奇襲隊とで四方八方から攻め立てる場合、将軍同士、あるいは部隊間の不和は致命的な隙となる。
○はうつ伏せになった趙雲の背中に乗り掛かる。
「重い…」
「私が馬超殿に話しかけるの、心配ですか?」
肩から顔を覗き込んで問いかける○。
不機嫌そうな顔で趙雲は身体を傾けて、○を寝台の上に落とす。
「心配などしていない」
「だって、馬超殿に話しかけようとするのを嫌がっているみたいに見えます」
「思い違いも甚だしい。お前が余計に事態を拗らせるのを危惧しているだけだ」
「なら、気を付けながら話しかけてもいいですか?」
趙雲は観念した様に身体を起すとため息をついた。
「そこまで言うのなら、馬超殿の件はお前が思う様にやればいい。私は止めない。ただし、少しでも事態が悪化したらやめるように。まあ…お前のする事なら馬超殿もそこまでの無茶はしないだろう」
今日の馬超の様子からそれは分かる。
「良かった!子龍様、今回の件に私が関わるのを嫌がっているみたいでしたから」
「危惧はしていると言っただろう。…ただ、お前は頑固だからな。ここで反対して影でコソコソされるよりマシだ。分かったら今度こそ自分の部屋へ帰れ」
シッシッと手を振る趙雲に、「もう!」と怒りながらも○は部屋を出て行った。
翌日から○は、何かにつけて馬超に声をかけ始めた。
○は趙雲のそばにいることが多いので、必然的に趙雲もその場に居合わせることになる。
朝、部屋から出てきた馬超に「おはようございます」と声をかける。
いつもはそんな○に対して、馬超は抱き寄せんばかりに近づくが「…ああ」としか言わない。
鍛錬場の隅。
武器の手入れをしている馬超の隣に座り、「手合わせお願いしたいです」と声をかける。
「……俺とお前では、相手にならん。趙雲にでも頼めばいいだろう」
馬超は○の顔を見ようともせず、突き放すように言って立ち去った。
軍議を終え、広間から出てきた趙雲に駆け寄った○。
ちょうど隣を通りかかった馬超に、「漢中の戦まであとわずかですね」と声をかける。
「……うるさい」
吐き捨てるような一言を投げかけると去っていった。
すると廊下を通りがかった星彩が○に近づいた。
その隣には張飛も立っている。
「○。随分、馬超殿に構うのね」
絶好の機会とばかりに、○の隣に立つ趙雲は頷く。
「○、もうやめておけ。あれだけあしざまにされて、心が折れぬのが不思議なほどだ。これ以上は逆効果だろう」
しかし星彩の隣でニヤニヤと笑っていた張飛が口を挟んだ。
「でもよお、趙雲。最初の頃のお前は、あれほどではなかったが○に対して近い態度を取ってたぜ」
「何のことです?」
趙雲の眉がぴくりと動くが、張飛は構わず続けた。
「昔は俺からすりゃあ、趙雲は○を冷たく突き放してたぜ。よく言うよなと思ってな」
「それは彼女の身の安全を思えばこその…」
「でも結局こうなってるって事は、効果があるって事じゃねえか」
「お待ちください!”こうなってる”というのはなんです。どうもなっていないではないですか」
張飛と趙雲がもめ始めたのを尻目に、星彩が○の傍に立つ。
「馬超殿は、一度火がつくと止まらないけれど、そういう人は冷めるのも早いと思う。きっと○のそのしつこさは実を結ぶわ」
夕餉の席。
ついに馬超が爆発した。
「いい加減にしろ、お前はッ!」
膳を叩き立ち上がった馬超の気迫に、周囲の兵たちの手が止まる。
怒りの矛先は、今日も今日とて馬超の隣に陣取っていた○だった。
「なんだお前は! 機嫌取りも大概にしろ! 鬱陶しいんだよ! 一体どういうつもりだ!ついでにお前もだがな、趙雲!」
激昂し、顔を真っ赤にする馬超。
○の向かいに座る趙雲も自分を名指しされて驚いて顔を上げた。
「話しかけるな!近寄るな!作戦の為に俺を宥めろと軍師にでも言われたか!?」
「そんな…違います!」
「なら何が目的だ!?」
「も、目的……しいて言うなら、馬超殿の事が好きだから嫌われたくないだけです!」
その瞬間、広間の空気が凍りついた。
「なにっ!?」
向かいにいた趙雲だけが身を乗り出す。
一方、怒鳴りつけた馬超も毒気を抜かれたようにポカンとした表情を浮かべた。
その頬には隠しきれない動揺と、わずかな嬉しさが混じっている。
「……す、好きだと……?」
「そうです!ですから”ずっと”、良い戦友でいてほしいのです!」
期待と緊張が入り混じっていた馬超の顔が、呆気に取られたものへと変わる。
期待した「好き」の定義が少し違い、さらに”ずっと戦友”と言い切られた。
しかし彼女のあまりにも突飛な物言いに、馬超の胸の内にあったわだかまりが消えていく。
「……ははははっ! なんだ、そういうことか!」
馬超は突然、天を仰いで大笑いした。
その豪快な笑い声は、数日間軍営を包んでいた重苦しい空気を一気に吹き飛ばしていく。
「全く…俺の負けだ!お前に無礼な態度をとり、本当に申し訳なかった。俺を殴るなりなんなりしてくれ」
「殴る!?」
馬超は笑いながら○の肩を引き寄せると、労うような力強さでその体を抱きしめた。
笑い合う二人を前に、趙雲はバレない様にそっと席に座り直す。
「……紛らわしい言い方をするな」と小さな声で呟くが、それは誰の耳にも届いていなかった。
「俺の心が狭かった。本当に悪かったな、○」
馬超はもう一度謝って、晴れやかな顔で席を立った。
しかし食堂を去る際、趙雲の後ろを通りかかって一瞬だけ足を止める。
「しかし…俺は“戦友”のままでは困るな」
思わず馬超を振り返る。
馬超は趙雲の耳元に顔を寄せ、さらに声を潜めた。
『お前が商隊の美人にうつつを抜かしているというのなら……身を引いてほしい所ではある』
「な、なぜそれを…」
趙雲の背中に冷や汗が伝う。
自分の隠し事――幼馴染である小蘭との事を知っていた馬超。
動揺を隠せない趙雲を真っ向から見据え、馬超はさらに追い打ちをかけるようにニヤリと口角を上げる。
「冗談だ。そう怖い顔をするな」
馬超は趙雲の肩をガシガシと叩くと、高笑いと共に広間を後にした。
何も知らない○が不思議そうに首を傾げて覗き込んでくる。
「子龍様、何か言われたのですか?凄い顔してますよ」
「……何でもない。ただの、男同士の軽口だ」
仲直りをした喜びで顔を綻ばせる○とは裏腹に、趙雲の心には未だ○に言えていない「隠し事」の重みが影を落としていた。