再会編【全5話】
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「おーい、○ちゃん! 戻ったぞ、約束の土産だ!」
道場の入り口で声を張り上げたのは、趙雲の幼馴染であり、郷の若衆を束ねる張健だった。
遠方の村まで買い出しに出ており今朝戻った彼は、埃を払うのももどかしそうに、包みを○へ差し出した。
「これ、隣村で評判の蜜饅頭」
「わあ、張健さん! ありがとうございます」
○がぱっと顔を輝かせる。
その無邪気な笑顔に、張健は少し照れくさそうに鼻の下を掻いた。
「なぁ、荷解きも終わったし、ちょっとそこまで散歩でも行かないか? 向こうの丘に、花が綺麗に咲いてたんだ。そこで食おう」
「いいですね、行きましょう」
○は二つ返事で頷き、饅頭の包みを大切に抱えて張健と共に歩き出した。
一方、師範に呼び出されて道場に来た趙雲。
門の所で○達とすれ違った。
「ん?張健か?」
「子龍!もう帰ってたのか!?」
張健は目を丸くし、駆け寄ってきた。
二人は幼い頃からの戦ごっこ仲間。
趙雲が公孫瓚の元へ発つ際も、一番に送り出してくれた親友だ。
「あぁ。つい昨日、戻った」
「兄さんの事は残念だったが、久しぶりに会えて嬉しいよ。お前がいなくなって皆寂しがってたんだぞ」
二人はがっしりと腕を組み、再会を喜んだ。
しかし、ふと張健の視線がさりげなく趙雲の隣に立った○へと向く。
○は「師範がお待ちですよ!」と趙雲にくっつくが、趙雲がその肩を軽く制するようにする。
張健は複雑な色を瞳に浮かべた。
「……なんだ。子龍、お前、○ちゃんともう会ったのか」
「あ、あぁ」
少し迷惑そうな趙雲の返事に、張健はどこか落ち着かない様子で視線を泳がせた。
「そうか。……○ちゃん、行こう。腹が減った」
「あ、はい。子龍様、また後で!」
○は不思議そうにしながらも張健に促されて歩き出す。
趙雲はその後ろ姿を黙って見送った。
張健が○に向ける、隠しきれない情愛の籠もった視線。
そして自分が戻ったことを知った瞬間の、張健のあの強張った表情。
(もしや…張健は、○殿を)
趙雲は無言で、彼女たちの向かった丘の方角をじっと見つめていた。
その夜。
郷の家々に灯火が消え、虫の音が静かに響く頃。
趙雲と張健は郷の外れの裏手にある古い東屋で、再会の酒を酌み交わしていた。
「……そっか。そういや○ちゃんは元々、お前を探してここに来たんだもんな。やっと会えたわけだ」
張健は杯を傾けながら、どこか遠くを見るような目で呟いた。
「師範から聞いた。一年も前から、この郷を守ってくれていたと」
「ああ、そうなんだよ。あの子、最初はここにお前がいないって知って、すぐに別の場所へ探しに行こうとしてたんだ。でもさ、ちょうどその頃だ。お前の兄さんが体調を崩しちまって、野盗の連中もつけ上がり始めて……。村もひどい状態だったのも相まって、あの子、足を止めてくれたんだよ」
張健の声に、深い感謝と、それ以上の熱が混じる。
「それからはもう、獅子奮迅の勢いだよ。野盗を叩き出すだけじゃない。子供に拳法や字も教えたり…皆感謝してるんだ。ちなみにお前の兄さんの体調が悪くなった時も、○ちゃんが世話してくれてたぞ」
趙雲は、手にした杯を見つめたまま動かない。
○が自分を追ってきたことは知っていた。
だが、彼女が自分が不在な中、自分の大切なものを代わりに守り続けてくれていた事実は想像以上に重く、温かかった。
「……影踏みだと?」
○はその話を誰にもしていなかったらしい。
趙雲から事の顛末を聞かされた張健は、呆れたように天を仰いだ。
酒の酔いも一気に冷めるような、あまりに浮世離れした約束。
「あぁ。嘘みたいな話だろう。十二年前、父に禁じられていたにもかかわらず、私は彼女と遊んでしまった。それがその村では生涯を共にする誓いだったというのだ」
趙雲は至極真面目な顔で、手元の杯を見つめている。
その横顔に嘘はない。
「……で。お前はどうなんだ、子龍」
張健が身を乗り出し、低く鋭い声で尋ねた。
「どう、とは?」
「とぼけるな。あの子の想いは、痛いほど分かってるだろ……お前自身は、○ちゃんのことをどう思ってるんだよ」
趙雲は一瞬、言葉を詰まらせた。
だが、すぐに視線を真っ直ぐに返し、迷いのない口調で答える。
「どうも何もない。あんな遊びが、これほど重大な事態を招くとは想像だにしていなかったし、私はその習わしを知らなかったのだ。それに再会してまだ二日だ。武人として、また一人の人間として彼女には敬意を払うが……それ以上の、男女の情などと言われても、今の私には何もない」
「……何もない、か」
張健は趙雲のそのあまりに潔癖な言葉に、溜息をついた。
嘘をついているようには見えない。
「彼女には申し訳ないと思っている。だが、同情や責任感だけで妻に迎えることこそ、彼女の真剣な想いに対する最大の侮辱ではないか」
張健は、飲み干した杯をカタンと机に置いた。
「ま、二日じゃしょうがないか。……しかし俺達の年齢で、あんな子がああして付き纏ってきても何も思わないとは…逆に不自然と言うか…」
「武人としては、褒め言葉だな」
それから酒が進むにつれて、張健の話は○の事ばかりになってきた。
趙雲は黙って聞き入っていた。
自分の知らない、この一年間の彼女を。
次第に張健は○への気持ちを隠さなくなっていく。
「子龍が好きじゃないなら、諦めて俺と一緒になってくれないかなぁ」
「……あぁ。彼女が良いと言うのなら、私が口を挟むことではないな」
趙雲は自分でも驚くほど冷ややかな声で答えた。
(彼女の十二年を、私はどうしたらいい?)
あの日、知らなかったとはいえ影を踏んだのは自分だ。
○は影踏み遊びのわずかな時間をきっかけに十二年を差し出し、免許皆伝されるまでに己を律し、自分を追ってきた。
その執念を誰よりも知っている。
しかし考えても今はどうすることもできない。
「……夜も更けた。明朝も稽古がある、もう休ませてもらうぞ」
趙雲は逃げるように立ち上がった。
背後で張健が「逃げんなよ、子龍!」と野次を飛ばすのを聞き流し、月明かりの下を独り歩いた。
*****
早朝。
窓から差し込む柔らかな光と、優しい香の香りが趙雲の鼻腔をくすぐった。
軍に属していた時は常に浅い眠りしかとっていなかったが、故郷の安心感からか、彼は珍しく深い微睡の中にいた。
「……?」
ゆっくりと瞼を持ち上げると、視界のすぐ先に、信じられないものが映り込んだ。
自分の寝台の端に腰掛け、ニコニコ微笑んで自分を見下ろしている○の姿だ。
そっと趙雲の頭に触れている。
「おはようございます、子龍様。朝ですよ」
「っ!? ……○殿!?」
趙雲は飛び起きようとしたが、自分の下腹部が現在、非常にまずい状況にあることを瞬時に思い出す。
ここは実家の自室。
昨夜は酒を飲んで帰宅したのもあり、鎧どころか衣も最低限の薄着で横になっていた。
さらに、不本意ながらも健康な男子の常として、朝の下腹部はたちあがっている。
趙雲は冷静を装って布団を握りしめたまま、ずるずると壁際まで後退した。
「な、なぜここに! 女子が男の寝所に無断で入るなど……っ!」
「無断じゃありません。朝餉にとお魚を持ってきたのですが、お父様が『子龍は寝起きが悪いから、起こしてやってくれ』って、快く入れてくださったんです」
「父上が!? ああ、なんということを……」
趙雲は頭を抱える。
厳格だったはずの父が、これほどまでに○を信頼し、身内同然に扱っているとは。
「さあ、いつまでもゴロゴロしてちゃダメです。ほら、起きてください!服も洗濯しますから脱いでください」
○はそう言うなり、趙雲が必死に死守している布団の端を掴んだ。
「待て! 待ちなさい! 自分で起きる、すぐに着替えて行くから、今は外へ——」
「もう、遠慮しなくていいんですよ。私、兄がいましたし道場育ちなので、男性の上半身くらい大丈夫です」
「やめるんだ!こら!布団が破れるから!凄い力だな…っ」
○は悪びれもせず、布団を剥がそうと力を込める。
やはり素手で殴りつける武道を修めた身…凄い力だ。
対する趙雲は、その「不都合な箇所」を死んでも見られるわけにはいかない。
この防衛戦は守る側が圧倒的に不利だ。
内側から必死に布団を巻き込み、背中を丸めて抵抗する。
「はあ…子龍様、どうされたんですか?布団から出たくないのですか?顔も真っ赤です。もしかして、熱があるんじゃ……」
「熱などない! いいから!早く!離れるんだ!」
「えぇっ、ちょっと見せてください。ほら、布団を離して。痛い事しませんから」
○は心配そうに身を乗り出し、ぐいぐいと布団を引っ張る。
その瞳には一点の濁りもなく、ただ純粋に趙雲を気遣っているだけなのが余計に辛かった。
「○殿。本当に頼む。どこも悪くないんだ。色々事情があるだけで…必ず起きるから、一度、外へ出てくれ…」
そこまで頼まれては○も諦めるしかなく、「脱いだ服、廊下の籠に出しておいてくださいね」と部屋を出て行った。
一人残された趙雲は嵐が去った後のような脱力感と共に、布団の中に沈み込んだ。
「……これでは、戦地で寝ている方がよほど心が休まる……」
心臓の鼓動がいつまでも収まらない。
彼女の純粋さと、自分の男としての未熟さを突きつけられた、一生の不覚とも言える朝であった。
趙雲は着替えをしながら、ある夜に父と話した事を思い出していた。
趙雲の父は、かつては名の知れた武芸者だったものの、度重なる戦傷がたたり、今では杖なしには歩けぬ体となっていた。
地方武家としての体裁を保ちつつも、母を亡くしたこの家にはどこか寂寥感が漂っていた。
「なんと…まさか、お前があの村の子と『影踏み』をしていたとはな。……あれほど遊んではいけないと言い含めたのは、あの郷の習わしを知っていたからだ。下手な事を言うと逆の事をする年齢でもあったから言わなかったのだが…それが仇になったな」
趙雲は畳に手をつき、深く頭を垂れた。
「……申し訳ございません、父上。あの時は、ただの一時の戯れと。まさかあの遊びが、あれほど重い意味を持つ誓いになるとは思いもいたさず、言いつけを破りました」
「まぁ、よい。今さら責めても詮なきこと。……しかし、男としてはお前のように血気盛んな年齢で、一人の女人に…しかも昔の一方的な約束一つで縛られるのは辛いだろう。自由な身でいたいと思うのもまた武人の性だ」
父は少しだけ寂しげに笑い、それから意外な言葉を続ける。
「だがな、子龍。私はこの一年、あの娘には感謝してもしきれんのだ」
「感謝、ですか?」
「そうだ。お前が公孫瓚殿の元にいて不在の間、この辺りは若い男が戦に駆り出されてしまってな。野盗の群れが徘徊し、私のような老いぼれには手の施しようもなかった。だが、○殿が来てくれてからは一変した。あの子は独りで野盗の拠点をいくつも潰し、さらには張健と共に近隣の村の男衆に声をかけ、自警団まで立ち上げて奴らをここらの郷から一掃してくれたのだ」
趙雲は思わず、持っていた杯を止める。
「それに、お前の兄の事も気にかけてくれてな。結局、彼女が看取ってくれたのだ。あの子がいなければ、この家も、そしてこの村の民も、今頃どうなっていたか分からん」
「…………」
趙雲は言葉を失う。
自分が戦場で義を求めていた間、彼女は自分の代わりに、自分の親を、そして村を守り続けていた。
「…村を出たことがなかったらしく、世間知らずで少し変わった娘だが、心根の優しい良い子だ」
身支度を整えた趙雲が広間に入ると、そこには既に湯気を立てる朝餉が並んでいた。
父が既に箸を進めて美味そうに食事をしている。
母が亡くなってからこんな食卓を見たのも始めてだ。
「あ、やっと起きてこられたんですね、子龍様っ」
台所から弾んだ声と共に現れたのは、甲斐甲斐しく立ち働く○だった。
彼女は趙雲の顔を見るなり、今朝の騒動などなかったかのように満面の笑みを浮かべ、一皿の焼き魚を差し出す。
「どうぞ!昨夜、私が川に仕掛けておいた罠にかかっていた魚です。身が締まっていて美味しいですよ」
「……あ、あぁ。かたじけない」
趙雲は差し出された魚を受け取りながらも、目を白黒させて父を見やる。
あの父が、客人であるはずの○に台所を任せるなど、本来ならば考えられないことだった。
「父上……これは一体、どういうことですか? ○殿に炊事までさせて…そういえば先程も洗濯などと…」
「ん? ああ、これか」
父は魚の身をほぐしながら答える。
「○殿はこの一年、時折こうして掃除や炊事に来てくれていたのだ。私は足が悪いし、兄は病にかかっていたからな。重い荷物を運んだり、屋根の修理までこなしてくれて、おかげでこの家が荒れずに済んだ」
「初耳です……そのようなことまで」
趙雲は愕然して○を見る。
彼女は誇らしげに胸を張り、布巾で手を拭きながら当然のように言う。
「当然ですわ。子龍様のお父様は、私のお父様ですもの。子龍様が外で戦っている間、家を綺麗にしておくのは妻の務めです」
「はぁ…」
趙雲はついに、箸を持ったまま片手で頭を抱えた。
彼女は単に「つきまとっている」だけではなかった。
自分が不在の時間を埋めるように、自分の守るべき親を世話し、生活を支え、家族の輪の中に既にこれほど深く入り込んでいた。
「子龍。○殿の料理は美味いぞ。余計なことを考えず、早く食べろ」
「は、はい」
父に促され、趙雲は一口、魚を口に運ぶ。
川の香りと、丁寧な塩加減。
久しぶりに食べるその温かな味が、頑なな趙雲の心にじわりと浸透していく。
(……これでは、私が拒絶すればするほど、不忠で親不孝な息子になったような気分になるではないか)
自分一人が「十二年前の遊びだ」と意地を張っている間に、○は着実に外堀を埋めていた。
「子龍様、お味はいかがですか?」
期待に満ちた目で覗き込んでくる○。
趙雲は視線を泳がせながら、小さな声で「……美味い」とだけ答える。
その瞬間、彼女が見せたひときわ輝かしい笑顔に、趙雲はとりあえず負けを認めるように、ただ黙々と飯を口に運ぶしかなかった。
「……今、何と言った?」
趙雲の持っていた箸が、危うく手から滑り落ちそうになる。
○は、まるで天気の話でもするかのように、とんでもないことを口にした。
「ですから、私、今日からこのお家に住まわせていただくことになりました! お父様にもお許しをいただいたんですよ」
「住む!? この家にか!?それに”お父様”だと?」
趙雲は椅子から立ち上がらんばかりの勢いで、隣で泰然と飯を食う父を見やる。
昨夜、父は確かに言ったはずだ。
「一人の女人に縛られるのは辛いだろう」と。
あの、息子の生き方を尊重し自由を認めてくれるような言葉は一体何だったのか。
「父上! 父上、どういうことです、これは! まさか、○殿をこの家に住まわせるなど……」
必死に答えを求める趙雲だが、父は一向に目を合わせてくれない。
ただ黙々と、○が焼いた魚の身を綺麗にほぐし、口に運ぶ。
「……父上! 聞いておいでですか!」
「いやぁ、この魚は実に美味い。焼き加減が絶妙だな、○殿」
「父上!」
「女の子がいると、家が華やかになるな」
「ふふっ、そう言ってもらえると光栄ですわ、お父様」
「だから、なんなんだ!お父様というのは……!?」
趙雲の叫びも虚しく、二人は趙雲を無視する。
父は趙雲の刺すような視線に気づいているはずなのに、頑なに視線を逸らし、ついには「ご馳走様」とだけ言って、足早に奥の間へ引き上げてしまった。
「待ってください、父上! 話はまだ終わって……っ!」
取り残された趙雲の前に、○が追い打ちをかけるようににじり寄る。
「子龍様。お隣のお部屋を頂きましたから、何かあったらすぐ呼んでくださいね。お水でも、お夜食でも、何でもお持ちします!」
「○殿、貴殿はどこまで本気で……」
「私はずっと前から本気です! 子龍様がいらっしゃらない一年間、私はこの家を、子龍様がいるつもりで守ってきました。今日からは本当にいらっしゃるんですもの。……とっても嬉しいです」
そう言って笑う彼女の目は、静かで、揺るぎない覚悟に満ちていた。
趙雲は、もはや言葉も出ずにその場に座り込む。
一人の娘と実の父親が張り巡らせた「外堀埋め」という名の包囲網に、完全に閉じ込められてしまった。
*****
趙雲は自警団の詰所にいた。
ここで張健に自警団の仕事内容について説明を受けることになっていた。
するとバタバタと足音がして長健が入ってきた。
「おい、子龍! どういうことだ、説明しろ!」
詰め所の扉が壊れんばかりの勢いで開いたかと思うと、張健が真っ赤な顔をして飛び込んできた。
彼は趙雲の胸ぐらをつかまんばかりの勢いで詰め寄る。
「朝、道場に行ったら○ちゃんがいねえんだ。師範に聞いたら、『今日から子龍の家に住むことになった』って……! お前、昨日あんなに『何とも思っていない』とか格好つけておきながら、裏で手回ししてたのか!? この、裏切り者ッ!むっつりスケベ!」
「誤解だ、張健! 声が大きい!」
趙雲は慌てて周囲を見回す。
詰め所にいた他の男たちも「ほう、趙雲が…」「やるなぁ」とニヤニヤしながらこちらを伺っている。
「裏切りも何も、私だって寝耳に水だったのだ。今朝、食卓に行ったら当たり前のように○殿が飯を運んでいて……父上も彼女の味方になってしまい、全てが勝手に決まっていた」
趙雲は珍しく、力なく肩を落として長机に突っ伏す。
「父上も父上だ。再会の夜には『特定の女人に縛られるのは辛いだろう』などと物分かりの良いことを言っていたのに、いとも容易く陥落していた…。今や私よりも○殿の言葉に頷いておられる始末だ。この一年で一体何が…」
すると戸口からその○の声がする。
「あら、子龍様。もうこちらにいらしたのですね」
そう言って趙雲の隣に座るなり、彼女は心配そうに彼の顔を覗き込む。
「どうされたのですか? 顔色が……。やっぱりお加減が悪いのでは?」
「い、いや、何でもない。○殿こそ、どうしてここへ」
「だって私も自警団の一員ですから」
そういえば、そもそも彼女がこの自警団の発起人だったことを思い出す趙雲。
するとそのやり取りを見ていた張健が、我慢できずに口を挟む。
「おい、○ちゃん! 本当に子龍の家に住むのか? 部屋は……部屋は流石に別々なんだよな!?」
張健の必死な問いかけに、○は少しだけ不服そうに唇を尖らせた。
「ええ。私は同じお部屋が良いと言ったのに、子龍様が首を縦に振ってくださらなくて。とても頑固なんです」
「当たり前だ! ……まったく。子龍、お前はこれだけ拒絶してるんだ。万が一があっちゃあ、男の面目が丸つぶれだからな。あと○ちゃんも、そう簡単に身を許しちゃだめだぞ」
張健が安堵の溜息をつきながら言った、その時。
○は趙雲をじっと見つめ、その逞しい腕にそっと手を添えると、ぽっと頬を赤らめて囁いた。
「……そんな事、気にしていませんわ。あの日からずっと……私の身も心も、すべて子龍様のものなんですから」
その場にいた自警団員全員が黙り込む。
彼女がこの郷に現れてからの一年間、村人たちが見てきたのは、襲い掛かる野盗を無慈悲に投げ飛ばす勇猛果敢な「女傑」としての姿だけだったからだ。
当の趙雲は真っ青になっている。
趙雲を、共に自警団として郷を守る「戦友」として受け入れていた男たちの視線が、一瞬にして「裏切り者」という嫉妬と驚愕に変わっていくのを、趙雲は肌で感じていた。
その日の夜。
部屋の扉を開けて、趙雲は硬直した。
そこには当たり前のような顔をして、趙雲の寝台に座る○がいたからだ。
「……そこで何をしている」
低く、絞り出すような趙雲の問いに、○はグッと拳を握り締めて趙雲に語る。
「考えたんですけど、やっぱり夫婦は同じお部屋で一緒に寝るものだと思うんです! 」
「……誰が夫婦か。何度も言わせるな。いいから、早く自分の部屋へ戻れ」
趙雲は眉間を押さえ、呆れたように出口を指さす。
しかし○はニコニコしたまま動かない。
「早く立ちなさい」と、○の肩を掴むと、彼女は急に顔を真っ赤に染め、俯きながら指先を弄び始める。
「あっ!そ、その…。よろしくお願いします。私、こういうことは経験がなくて…子龍様のお好みに沿えるように勉強いたしますので、優しくご指導いただければ…」
「なっ……何を……何を言っているんだッ!!話を聞いてくれ!」
趙雲は混乱する。
彼女の脳内はどうなっているのか…こんな女性に関わった事がない。
加えて困ったことに、今の今まで彼女の押しの強さに意識していなかったが、恥じらう○はとても可愛い。
このままでは取り返しのつかないことになると本能が警鐘を鳴らし、趙雲は強引に○を掴み出す。
「自分の布団を持って、今すぐ自分の部屋へ戻れ! 早く!」
「えっ、ちょっ、子龍様、お話を聞いてください! やだ、そんなに強く引っ張らないで!」
廊下へと○を押し出したその時、奥の間から出てきた父と鉢合わせた。
「父上!見てください、○殿がフシダラにも私の部屋に勝手に入り込んで……! 共に説得してください!」
趙雲は藁をも掴む思いで父に助けを求めるも、父は一瞬二人を眺めると、面白そうに髭を撫で、杖を突いて歩き出す。
「……ふむ。いい大人の本人同士のことだ。親が口を挟むような野暮な真似はせんよ。仲良くな。あまりうるさくせん様に」
冷たく突き放され、趙雲は絶望の淵に立たされる。
しかし父の公認を得て勢いづくかと思われた○だが、流石に趙雲の鬼気迫る形相と、半ば強引な追い出しに負け、「……もう。お堅いんですから」と渋々、自分の部屋へと引き上げていった。
扉を閉めた趙雲はそのまま重い足取りで寝台に近づくと、バタンと倒れこむ。
深く息を吸った時。
ふわりと、先ほどまで○が座っていた寝台から彼女の香りが漂ってきた。
(同じ洗い方をしているはずなのに、何故匂いが違うんだ?)
身体を起こして○が座っていた辺りを見る。
たった今、もじもじしながら恥ずかしそうにしていた姿。
(…………ほんの少しだけ……追い出したのは、勿体なかっただろうか……)
そう自問したものの、すぐに趙雲は慌てて自分の服を何着も寝台に被せて匂いを消し、考えるのをやめた。