成都編【全5話】
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○は特に目的もなく、どこかぼんやりとした足取りで石畳を歩いていた。
城内の空気は穏やかだ。
その時、足元に何かが落ちているのが目に留まった。
一枚の書簡である。
誰かが落としたのだろう。
届けなくては――そんな純粋な親切心から、○は屈んでそれを拾い上げた。
持ち主の手がかりを探そうと無意識に紙を広げる。
そこには墨の匂いも生々しく、びっしりと人名が書き連ねられていた。
しかしその名簿は異様な様相を呈している。
並んだ名前の所々に筆で縦線が引かれ、塗り潰されているのだ。
(なにかしら、これ…何かの帳簿?)
その異様さに○が眉を寄せた、その時だった。
「見ましたね」
背後から凍てつくような声が降ってきた。
心臓が跳ね、○はあわてて振り返る。
そこには文官の装束を纏いながらも、全身から抜き身の刃のような殺気を放つ男が立っていた。
その額には隠しようもない青筋が浮かび、細められた眼光は射るように鋭い。
初めて会った人物だ。
「…こちらの持ち主の方で、あ!」
差し出した書簡をひったくる様に奪われる。
「あなた、名前は」
「え…あ!失礼しました。○と申します」
「…法正孝直です」
睨みつけながら発せられたその名前に、○は趙雲からの言葉を思い出した。
『○。法正殿という男には近づくな。諸葛亮殿ですら手を焼くほどの男だと聞き及んでいる。関わらぬのが、身のためだろう』
生真面目な顔でそう語った趙雲の、困り果てたような顔を思い出した。
かくして趙雲の忠告が、警鐘のように脳内で激しく鳴り響く。
目の前の男は間違いなく「関わってはいけない」側の人間だった。
○が驚きと恐怖で固まっている間も、法正の怒りは静かに沸騰していた。
「迂闊に触れるなと言いたいところだが、もはや遅い。……この名が何を意味するか、その足りない頭でも察しがついたのではないですか?」
塗り潰された名前の数々を見下ろしながら、法正は唇の端を歪める。
それはかつて自分を冷遇した者への「報復の帳面」に他ならなかった。
しかしそんな事とは夢にも思わない○は首を傾げた。
法正は奪い取った書簡を丁寧に畳み、懐へ収めると、蔑むような視線を○へと向けた。
その眼差しは道端の石ころの価値を定めるかのように冷徹。
「まぁいい。……あなたが○殿ですね。趙雲殿の寄生虫の」
「寄生虫!?」
予想もしなかった不名誉な呼び名に、○は目を丸くする。
反射的に否定しようと口を開きかけるが、法正はそれを許さぬ速さで言葉を重ねた。
「地位のある趙雲殿にへばりついているのですから、寄生虫と呼ぶのが妥当でしょう。違いますか?」
「寄生だなんて…!私たちの愛は…っ」
「愛?あなたの一方的な独り相撲だと聞いていますよ。くだらない」
言い返そうとするものの、彼の放つ威圧感に気圧され言葉が続かない。
しかし法正にとって○の弁明など、吹けば飛ぶ埃ほどの内容もなかったのだろう。
彼は○の言葉を完全に無視し、冷ややかに鼻で笑った。
「まぁ、あなたのような女に見られたところで、私にとっては痛くも痒くもない。……せいぜい、この帳面にあなたの名が載らぬよう祈っていますよ。趙雲殿の顔を立てて、今は見逃して差し上げます」
法正はそれだけ言い残すと悠然と歩き去った。
趙雲が部屋に戻ると、部屋の灯りは落とされ、静まり返っていた。
いつもなら扉を開ける音を聞きつけるなり顔を出すのに…と、○の部屋を覗くと、○は寝台に突っ伏していた。
「○……? 体調でも悪いのか」
そう問いかけながら覗き込むと、○は勢いよく顔を上げた。
「私って、子龍様の寄生虫なんですか!?」
唐突な言葉に、趙雲は思わず面食らった。
しかしあまりに突拍子もない例えに思わず笑う。
「なんだそれは。……ふふっ、言い得て妙だな」
つい口端を綻ばせて笑う趙雲に、○は「ひどい!」と枕に顔を埋めてしまった。
かなり落ち込んでいる様だ。
「冗談だ。本気にするな。……一体、誰に言われた?」
「……言いたくないです」
○はブスッとした顔でそう言った。
*****
○は密かに報復を目論んでいた。
たとえ法正が諸葛亮ですら手を焼く相手だとしても、先に言い出したのはあっちだ。
勝手に書簡を落としたのもあっち。
報復の一覧表を作っているくらいなのだから、当然自分が報復されるかもしれない事は折り込み済みだろう。
○は次に出くわした際に叩きつけるための、「反撃の言葉」をずっと考えていた。
数日後、城内の回廊でその機会は不意に訪れる。
向こうから歩いてくる法正は、○の姿を認めると、その薄い唇を蔑むように歪めた。
「おや、寄生虫ではないですか。まだ趙雲殿の影に隠れて、のうのうと息をしていたのですね」
その冷ややかな嘲笑が耳に届いた瞬間、○は決死の覚悟で顔を上げた。
「う、うるさい! このっ、…ガリガリ陰湿男!」
精一杯の声を張り上げたその言葉は、静かな回廊に場違いなほど響き渡った。
法正は予想だにしなかった稚拙かつ直球すぎる罵倒に、一瞬だけ目を見開いた。
いつも涼しげなその顔に、驚きと困惑が混じった空白の時間が流れる。
○は言い切った爽快感よりも、後に引けない恐怖で一杯になりながらも、逃げ出さずにその場に踏みとどまっていた。
法正の細い目がいっそう鋭く細められた。
その手には、あの「報復の帳面」が握られている。
「あなた、今、なんと言いました? ……この名簿に載せますよ。私が趙雲殿の顔を立てて、これまで見逃してやっているというのに、その慈悲を自ら投げ捨てるつもりですか」
法正の纏う重苦しい空気を切り裂くように、○は必死に言葉を紡いだ。
「子龍様の顔など立てず、そこに書いてもらって構いません!陰湿なイジメには負けません!……それに…そんな見られたくない名簿を落としたあなたが悪いし、先に私を寄生虫だなんて言ったのはそちらではないですか。自分は人の事を好き勝手言って、言い返されたらそれって……変です」
「変」という、およそ策謀渦巻く宮中には似つかわしくない幼い言葉が、法正の胸を不快に突いた。
深く眉間に皴をよせる。
「……変、だと? 私の報復が、筋の通らぬ道理だとでも言いたいのですか」
「人に意地悪な事を言うなら…自分だって言い返されるかもしれないなんて、想定していないんですか」
法正の瞳に、得体の知れない動揺が走る。
彼は恐々とながら反論してくるこの存在をどう処理すべきか、その稀代の頭脳をもってしても答えを出せずにいた。
法正の自尊心は○の反論によって、かつてないほどに逆なでされていく。
法正が怒りを通り越し言葉を失って立ち尽くしていると、背後から早足で近づく足音が響いた。
「何を騒いでいる」と、趙雲が近づいてきた。
彼は法正の放つ殺気とその前に立ち尽くす○の姿を認めると、わずかに眉根を寄せ、その顔を険しく強張らせた。
「法正殿。私の連れが、何か無礼を働きましたか」
趙雲の問いかけに対し、法正は忌々しげに鼻を鳴らす。
彼は手元の書簡を懐へねじ込むと、○を睨みつける。
「……フン。寄生虫は寄生虫らしく、宿主にへばりついていればいい。分不相応な毒を吐くものではありません」
法正はそれだけを言い捨てて立ち去った。
趙雲はその背中を見送っていたが、やがて視線を落とし、隣で不機嫌そうな○を見つめる。
(……寄生虫、と言ったのは法正殿であったか)
先日、部屋で○が口にしていた不名誉な言葉。
その出所をようやく理解した趙雲の胸中には、一筋縄ではいかぬ男に目をつけられてしまった○への懸念が生まれた。
あれから。
ほぼ毎朝、○は法正に文官の執務室に呼び出されるようになった。
その隅の机に座らされる。
「これを今日中に、一文字の狂いもなく清書してください。我が軍の命運を左右する重要な仕事ですから、心してかかるように」
法正は、到底一人ではこなしきれない膨大な量の書簡を○の前に積み上げ、薄く笑いながら命じる。
余りの仕事量に○を案じる趙雲であったが、それが「軍務」という形を取っている以上、口を挟むことはできなかった。
あの時、○が生意気にも上官に口答えした事を罰することなく”個人的な報復”で済まされている事自体、寛大な処置だ。
○も○で「報復してもらって構わない」と言った手前、今のところは食い下がっている。
一方、軍師の長である諸葛亮も、この事態を静観していた。
「諸葛亮殿、法正殿のやり方はあまりに……」と、趙雲が意を決して進言しても、諸葛亮は静かに首を振るばかりだった。
「……今は、○殿の辛抱を信じるほかありません」
諸葛亮すらも強くは言えないその態度は、法正という男が蜀においていかに不可欠で、かつ危うい均衡の上に立っているかを物語っていた。
成都の文官執務室には、絶えず紙の擦れる音と墨の匂いが満ちていた。
部屋の空気は冷え込んでいる。
もう十日はこんなことが続いている。
○は机に向かい、日々膨大な書簡の書き写しを続けていた。
その隣に法正が立つと覗き込む。
「不手際が目立ちますね。この程度の書き写しも満足にできぬようでは、ただ飯食らいに等しい。……趙雲殿の温情に胡坐をかくのも、大概になさい」
余計な言葉が沢山ついていても、職務の不備を指摘する形を取っているため、正当な指導の体を保つ。
法正は、その境界線を冷徹に見極めていた。
周囲の文官たちは法正の苛烈な性格を知っているだけに、助け舟を出すこともできず、ただ冷や冷やしながら手元の仕事に没頭するふりをするばかり。
ふと、法正が○の書いている書簡を指さした。
「なんですか、この字は。このような癖のある字で書いたら、前線の将兵が読み間違えます。正式な書簡は貴方が読めればいい…というものではないのですよ」
法正はそう言い捨てると、○の手から強引に筆を奪い取った。
自ら手本を示すように紙へ筆を走らせた際、その筆先が○の指先に触れ、黒い墨がべったりと付着する。
「失礼…手が汚れましたね。わざとではありません」
法正は謝罪の意など微塵も感じさせない無機質な声で告げ、筆を返そうとした。
うっかりで付く量ではない。
○はその言葉を無視し、「ご指摘、ありがとうございます」と短く応じると、返された筆を握り直した。
そして作業を再開するために軽く肩を回す。
その際にさりげなく手首を振った。
筆の毛先から飛んだ一粒の墨が、法正の頬に着く。
法正の動きが止まる。
頬に触れる墨の湿り気を感じ、彼は信じられないものを見るかのように目を剥いた。
「申し訳ありません!…わざとではありません」
○はチラリと法正をみると、先ほど彼が言ったのと同じような声音で返した。
執務室の文官たちが一斉に息を呑む音が聞こえた。
法正の頬が、怒りと驚愕でぴくりと震える。
彼は無言のまま、頬に飛んだ墨を親指で拭う。
「……おや、手が汚れました。拭うものが必要ですね。ああ、丁度良いものがここに」
法正は低く、地を這うような声で呟くと、○の頬にグイッグイッと強い力でその指を何度も擦り付けた。
○の頬に黒い筋が引かれる。
法正はそれを見下ろし、征服感の入り混じった冷酷な笑みを浮かべた。
「これで、お互い様です。より寄生虫らしくなりましたよ」
○は手元の書簡から目を離さずに筆に墨をつけると、法正の頬に直接押し付けた。
「――っ!?」
法正の頬からどろりと墨が垂れる。
執務室は、もはや静寂を通り越し、死の淵のような静けさに包まれた。
文官達の心の悲鳴が聞こえるようなピリピリとした空気。
そして法正という男が、これほどの陵辱を受けて黙っているはずがない。
「あなた……自分が何をしたか、分かっているのですか」
法正の声から、感情が消えた。
「……一生、日の当たらぬ場所で後悔させて差し上げましょう。私の一筆であなたの立場など、どうにでも出来るのですから」
法正の凍りつくような眼光を、開き直った○は正面から見据える。
そして○の処遇に関しての書状を書くべく筆をとった。
○はその手首をつかむ。
三つの頃から道場で暮らし、関羽の元で何カ月も鍛錬を受け、戦場を駆け抜けてきた彼女の身体能力は、書生上がりの文官のそれとは根本から異なっていた。
「やれるものなら、やってください!」
「ぐ……っ! な、なんという力だ……放しなさい!」
法正は顔を赤くして振り払おうとするが、○の指は食い込み、びくともしない。
彼は自由な左手を素早く硯に浸すと、濡れたままの手を○の顔面へと叩きつけた。
「ぶっ!?うわ…口に…!」
流石に手を離した○。
その隙に法正は他の文官の硯を取ると、○の髪を掴んで硯の中の隅を顔にかけた。
○は自分の顔に着いた墨を両手で拭うと、目の前の法正に同じように擦り付ける。
文官たちが何も言えずに黙り込む中、法正と○は、墨を塗り合い擦り付け合い無言で喧嘩を始めた。
すると戸口で意外な声がする。
「なんだ、お前たちは。墨の掛け合いで新種の陣形でも練っていたのか?」
そこにいたのは劉備だった。
「…劉備殿!?なぜこちらに」
流石の法正も驚いて固まる。
二人はその場で直立した。
「いや、なに。近頃…武官であるはずの○がここに磔状態で、ろくに鍛錬が出来ていないと趙雲から相談があってな。様子を見に来たんだ」
最近の法正の○に対する扱いを、どうやら趙雲が劉備に相談したようだ。
(劉備殿に泣きつくとは…)と、法正は苦虫を嚙みつぶしたような表情になる。
「○はそもそも武官だからな。戦働きで成果を残さなくてはいけないから、こういう…ははっ」
諫めようとした劉備は二人を見て笑った。
法正たちも互いの顔を見合わせれば、そこにはもはや誰であるかも判別できぬほど黒々と塗り潰された「異形」が二人、肩を荒くして立っていた。
法正は我に返ったように一つ大きな咳払いをすると、氷のような視線を○に投げ、懐から取り出した布で不機嫌そうに顔を拭い始めた。
「……お見苦しいところを。劉備殿。この者、教育が行き届いていない様で」
声こそ冷徹さを取り戻していたが、拭いきれない墨が顔に滲み、その威厳は無残にも損なわれていた。
劉備は○に近づくと、懐から綺麗な布を出してそれで○の顔を拭き始める。
君主のその態度に、法正は目を見張った。
「○は、我らがまだ寄る辺もない頃…曹操から追われていた時から共にいるんだ。勿論、趙雲を追ってという形ではあるが。彼が今の様な立場になる前…それこそ、彼が故郷の村にいた時から。だから、○を”趙雲の立場にくっついている”というのは…いささか可哀そうに思う」
「…劉備様」
○は劉備にそう告げられて、目を潤ませた。
「それに、阿斗と妻も、彼女が趙雲と共に救ってくれた。○には感謝しているんだ」
「…それは、特別扱いをしろと?」
「まさか!趙雲もそんな事は望んでいないさ。ただ…今回の事は、見逃してやってほしいと頼みに来た。お前が○に何を言ったかも、○がお前に何をしたかも…誰も何も言わないが、逆に言えば許せる程度の事なのだろう」
法正はふと○を見る。
自分が彼女を”趙雲殿の寄生虫だ”と言ったことも、自分が拾った書簡が原因でこんなことになっている事も、誰にも何も言っていなかったことに驚いた。
ウンザリした様にため息をついた法正に、劉備は困った様に笑いながら「では私から罰を与えよう」と、○の顔を力任せに拭いた。
「い…痛いです…顔の皮がめくれそうです…!」
「こんな力で拭いても取れないな…こんなものつけて帰ったら、趙雲はうるさいぞ」
劉備の荒っぽい、だが不思議と温かい手つきに、○は文句を言いながらも身を任せていた。
その光景を、顔を拭き終えた法正が忌々しげに、それでいてどこか毒気を抜かれたような眼差しで見つめていた。
夕刻。
趙雲の執務室。
法正は届け物という名目で立ち寄りながら、○の隣でブツブツと毒を吐く。
(これ言う為に、わざわざ来たわけ?)
○は法正にため息をつく。
自身の机で書簡の整理をしていた趙雲は、自分が言われているわけでもないのに神妙な顔で法正の小言を聞いている。
「趙雲殿に同情いたします。このような粗忽者に、昼夜を問わず付き纏われては」
法正は○を憐れむような目で見た。
「あなたの様な、品もなければ教養もない女など、本当は趙雲殿の隣に座る事すらおこがましいのですよ。今はただ、長年の付き合いという慈悲の心で傍に置いて貰っているに過ぎない。今に、もっと淑やかで、蜀の将来を支えるに相応しい美しい女性に乗り換えられることでしょうね。その時の貴方の泣きっ面が今から楽しみです」
○に聞かせてはならない言葉の応酬に、思わず趙雲が○を見た。
しかし○はなにやら考え込むような顔をしている。
ずっと、ある一点が気にかかっていたのだ。
出会ったあの日から、法正は事あるごとに「趙雲殿の顔を立てて」だの「趙雲殿の温情」だの、常に趙雲の名を引き合いに出して自分を貶めてくる。
○は素直な疑問として問いかけた。
「法正殿って……もしかして、子龍様と仲良くなりたいのですか?」
刹那、執務室に静寂が訪れた。
趙雲も驚いて法正を見る。
○の目の前の法正も目を見開いている。
そして驚愕のあまりにか、あるいはかつてない屈辱のあまりにか、一瞬のうちに耳の付け根まで真っ赤に染まった。
「……何を、血迷ったことを……!」
「だって、子龍様のことばかり仰るではないですか。違うんですか?」
○の追い打ちをかけるような言葉に、法正は黙り込む。
彼女の弱点は趙雲だと思った。
だから趙雲を引き合いに出して揺さぶれば、○を傷つけられると思ってやっていただけだ。
しかし、劉備があれだけ信を置く趙雲という人物に興味がなかったわけでもない。
とはいえ、趙雲は普段、劉備の隣に控え、法正もよくその場に居合わせるが、彼は劉備の護衛として立っている間は頑なでほとんど話をせず交流がなかった。
だから○のいう事は当たらずも遠からず。
その為、黙り込んでしまった。
そんな法正の様子に、趙雲は助け船のつもりなのかなんなのか。
「……○、それは…流石に誤解だろう」
”仲良くしたい対象”であるはずの趙雲から、心底困惑したような眼差しを向けられ、「申し訳ない」と軽く謝られる。
それが法正にとっての最後の一撃となった。
「だ……黙りなさい。 誰がこのような、古臭い年寄りのような冗談も通じない堅物男と……!」
法正の叫びにも似た罵倒が執務室に響く。
その言葉を受けた趙雲は、「古臭い年寄り…」と呟いたまま呆然とした。
しかし、○はそんな空気を意に介さず、笑顔を浮かべた。
「いいじゃないですか。子龍様のことがそんなに気にかかるなら、まずはお友達から始めるのはどうでしょう。子龍様はお茶を飲みながら世間話をするようなご友人がいらっしゃらないので、心配していたんです。法正殿なら軟派な馬超殿と違って安心です」
(馬超殿は軟派な男だと思われていたのか…)
古臭いの純粋極まる、しかし法正にとっては毒よりもたちの悪い提案が追い打ちをかける。
「○。あまり失礼な事ばかり言うな。法正殿も、私と茶など飲んでも楽しくないだろう」
そんな趙雲の言葉を遮る様に、法正は怒鳴る。
「こちらこそ、誰がこんなゴツイ男と菓子を突きながら睦まじく茶など! ……もういい、話にならん」
そう言い捨てると、法正は執務室を飛び出していった。
ドスドスと足音が遠ざかるのを聞きながら、○は微笑む。
「○、私は古臭い年寄りの様な男だろうか。自分では、割と凛々しい溌溂とした人間だと思っていた」
「……」
それからというもの、法正の○への嫌がらせはパッタリとやみ、たまに廊下で会えば挨拶と軽い会話をする程度にまで関係は修復された。
その日、趙雲の宿舎の居間で、○と趙雲は思い思いに寛いでいた。
○は繕い物をしながら鼻歌を歌っている。
すると趙雲は手元の書物を閉じて、ふっと思い出したように口を開く。
「……そうだ。今日、法正殿に話しかけられた」
その言葉に○は驚いて顔を上げる。
「いつも劉備殿のそばに控えている際、彼は文机で黙々と筆を動かしているのだが……今日はその合間に、ふと私の方を見てな。『茶を飲む際、菓子などは食すのか』と、唐突に聞かれた。あの方から公務以外のことで話しかけられたのは、初めてのことだ」
「ふふ、やっぱり。本当は仲良くしたかったんですよ。私に意地悪してたのも、きっと素直になれなかっただけなんです」
「……そうだろうか」
趙雲は腕組みをすると唸った。
「しかし私は楽しい話題を出すのが苦手だからな。あの時も、『私は甘いものはあまり嗜みませんが、主君から賜れば頂戴いたします』と、あまりに素っ気ない返事をしてしまった。法正殿は『……左様ですか』と言ったきり黙ってしまうし。どうだったのだろう」
あの法正が勇気を振り絞って振ってきた話題を、無機質な軍務報告のような口調で返してしまったのではないかという懸念があるらしい。
しかし○からすれば、趙雲という人間を”古臭い年寄り”とまで言い切った法正なのだから、無理に盛り上げなくてもいいのではないかと思う。
「あと、○の事も話していたな。お前の話をしている時が互いに気楽だ」
「私の”愚痴”を話している時、ですよね」
そう言って軽く睨むと趙雲は顔を上げていなかった。
「そうだ!それなら今度お招きしませんか?私が何かお料理を作ります。お二人の邪魔になるようでしたら、私は外に出ていますし。何かを食べていれば、自然と会話は続くものですよ」
「その場合はお前にいてもらわねば困る」
趙雲は視線を彷徨わせたあと、決まり悪そうに眉を寄せた。
法正と二人きりで食事など、想像もつかなかったからだ。
しかしそんな二人の様子を想像する○だけは、とても楽しそうだった。
城内の空気は穏やかだ。
その時、足元に何かが落ちているのが目に留まった。
一枚の書簡である。
誰かが落としたのだろう。
届けなくては――そんな純粋な親切心から、○は屈んでそれを拾い上げた。
持ち主の手がかりを探そうと無意識に紙を広げる。
そこには墨の匂いも生々しく、びっしりと人名が書き連ねられていた。
しかしその名簿は異様な様相を呈している。
並んだ名前の所々に筆で縦線が引かれ、塗り潰されているのだ。
(なにかしら、これ…何かの帳簿?)
その異様さに○が眉を寄せた、その時だった。
「見ましたね」
背後から凍てつくような声が降ってきた。
心臓が跳ね、○はあわてて振り返る。
そこには文官の装束を纏いながらも、全身から抜き身の刃のような殺気を放つ男が立っていた。
その額には隠しようもない青筋が浮かび、細められた眼光は射るように鋭い。
初めて会った人物だ。
「…こちらの持ち主の方で、あ!」
差し出した書簡をひったくる様に奪われる。
「あなた、名前は」
「え…あ!失礼しました。○と申します」
「…法正孝直です」
睨みつけながら発せられたその名前に、○は趙雲からの言葉を思い出した。
『○。法正殿という男には近づくな。諸葛亮殿ですら手を焼くほどの男だと聞き及んでいる。関わらぬのが、身のためだろう』
生真面目な顔でそう語った趙雲の、困り果てたような顔を思い出した。
かくして趙雲の忠告が、警鐘のように脳内で激しく鳴り響く。
目の前の男は間違いなく「関わってはいけない」側の人間だった。
○が驚きと恐怖で固まっている間も、法正の怒りは静かに沸騰していた。
「迂闊に触れるなと言いたいところだが、もはや遅い。……この名が何を意味するか、その足りない頭でも察しがついたのではないですか?」
塗り潰された名前の数々を見下ろしながら、法正は唇の端を歪める。
それはかつて自分を冷遇した者への「報復の帳面」に他ならなかった。
しかしそんな事とは夢にも思わない○は首を傾げた。
法正は奪い取った書簡を丁寧に畳み、懐へ収めると、蔑むような視線を○へと向けた。
その眼差しは道端の石ころの価値を定めるかのように冷徹。
「まぁいい。……あなたが○殿ですね。趙雲殿の寄生虫の」
「寄生虫!?」
予想もしなかった不名誉な呼び名に、○は目を丸くする。
反射的に否定しようと口を開きかけるが、法正はそれを許さぬ速さで言葉を重ねた。
「地位のある趙雲殿にへばりついているのですから、寄生虫と呼ぶのが妥当でしょう。違いますか?」
「寄生だなんて…!私たちの愛は…っ」
「愛?あなたの一方的な独り相撲だと聞いていますよ。くだらない」
言い返そうとするものの、彼の放つ威圧感に気圧され言葉が続かない。
しかし法正にとって○の弁明など、吹けば飛ぶ埃ほどの内容もなかったのだろう。
彼は○の言葉を完全に無視し、冷ややかに鼻で笑った。
「まぁ、あなたのような女に見られたところで、私にとっては痛くも痒くもない。……せいぜい、この帳面にあなたの名が載らぬよう祈っていますよ。趙雲殿の顔を立てて、今は見逃して差し上げます」
法正はそれだけ言い残すと悠然と歩き去った。
趙雲が部屋に戻ると、部屋の灯りは落とされ、静まり返っていた。
いつもなら扉を開ける音を聞きつけるなり顔を出すのに…と、○の部屋を覗くと、○は寝台に突っ伏していた。
「○……? 体調でも悪いのか」
そう問いかけながら覗き込むと、○は勢いよく顔を上げた。
「私って、子龍様の寄生虫なんですか!?」
唐突な言葉に、趙雲は思わず面食らった。
しかしあまりに突拍子もない例えに思わず笑う。
「なんだそれは。……ふふっ、言い得て妙だな」
つい口端を綻ばせて笑う趙雲に、○は「ひどい!」と枕に顔を埋めてしまった。
かなり落ち込んでいる様だ。
「冗談だ。本気にするな。……一体、誰に言われた?」
「……言いたくないです」
○はブスッとした顔でそう言った。
*****
○は密かに報復を目論んでいた。
たとえ法正が諸葛亮ですら手を焼く相手だとしても、先に言い出したのはあっちだ。
勝手に書簡を落としたのもあっち。
報復の一覧表を作っているくらいなのだから、当然自分が報復されるかもしれない事は折り込み済みだろう。
○は次に出くわした際に叩きつけるための、「反撃の言葉」をずっと考えていた。
数日後、城内の回廊でその機会は不意に訪れる。
向こうから歩いてくる法正は、○の姿を認めると、その薄い唇を蔑むように歪めた。
「おや、寄生虫ではないですか。まだ趙雲殿の影に隠れて、のうのうと息をしていたのですね」
その冷ややかな嘲笑が耳に届いた瞬間、○は決死の覚悟で顔を上げた。
「う、うるさい! このっ、…ガリガリ陰湿男!」
精一杯の声を張り上げたその言葉は、静かな回廊に場違いなほど響き渡った。
法正は予想だにしなかった稚拙かつ直球すぎる罵倒に、一瞬だけ目を見開いた。
いつも涼しげなその顔に、驚きと困惑が混じった空白の時間が流れる。
○は言い切った爽快感よりも、後に引けない恐怖で一杯になりながらも、逃げ出さずにその場に踏みとどまっていた。
法正の細い目がいっそう鋭く細められた。
その手には、あの「報復の帳面」が握られている。
「あなた、今、なんと言いました? ……この名簿に載せますよ。私が趙雲殿の顔を立てて、これまで見逃してやっているというのに、その慈悲を自ら投げ捨てるつもりですか」
法正の纏う重苦しい空気を切り裂くように、○は必死に言葉を紡いだ。
「子龍様の顔など立てず、そこに書いてもらって構いません!陰湿なイジメには負けません!……それに…そんな見られたくない名簿を落としたあなたが悪いし、先に私を寄生虫だなんて言ったのはそちらではないですか。自分は人の事を好き勝手言って、言い返されたらそれって……変です」
「変」という、およそ策謀渦巻く宮中には似つかわしくない幼い言葉が、法正の胸を不快に突いた。
深く眉間に皴をよせる。
「……変、だと? 私の報復が、筋の通らぬ道理だとでも言いたいのですか」
「人に意地悪な事を言うなら…自分だって言い返されるかもしれないなんて、想定していないんですか」
法正の瞳に、得体の知れない動揺が走る。
彼は恐々とながら反論してくるこの存在をどう処理すべきか、その稀代の頭脳をもってしても答えを出せずにいた。
法正の自尊心は○の反論によって、かつてないほどに逆なでされていく。
法正が怒りを通り越し言葉を失って立ち尽くしていると、背後から早足で近づく足音が響いた。
「何を騒いでいる」と、趙雲が近づいてきた。
彼は法正の放つ殺気とその前に立ち尽くす○の姿を認めると、わずかに眉根を寄せ、その顔を険しく強張らせた。
「法正殿。私の連れが、何か無礼を働きましたか」
趙雲の問いかけに対し、法正は忌々しげに鼻を鳴らす。
彼は手元の書簡を懐へねじ込むと、○を睨みつける。
「……フン。寄生虫は寄生虫らしく、宿主にへばりついていればいい。分不相応な毒を吐くものではありません」
法正はそれだけを言い捨てて立ち去った。
趙雲はその背中を見送っていたが、やがて視線を落とし、隣で不機嫌そうな○を見つめる。
(……寄生虫、と言ったのは法正殿であったか)
先日、部屋で○が口にしていた不名誉な言葉。
その出所をようやく理解した趙雲の胸中には、一筋縄ではいかぬ男に目をつけられてしまった○への懸念が生まれた。
あれから。
ほぼ毎朝、○は法正に文官の執務室に呼び出されるようになった。
その隅の机に座らされる。
「これを今日中に、一文字の狂いもなく清書してください。我が軍の命運を左右する重要な仕事ですから、心してかかるように」
法正は、到底一人ではこなしきれない膨大な量の書簡を○の前に積み上げ、薄く笑いながら命じる。
余りの仕事量に○を案じる趙雲であったが、それが「軍務」という形を取っている以上、口を挟むことはできなかった。
あの時、○が生意気にも上官に口答えした事を罰することなく”個人的な報復”で済まされている事自体、寛大な処置だ。
○も○で「報復してもらって構わない」と言った手前、今のところは食い下がっている。
一方、軍師の長である諸葛亮も、この事態を静観していた。
「諸葛亮殿、法正殿のやり方はあまりに……」と、趙雲が意を決して進言しても、諸葛亮は静かに首を振るばかりだった。
「……今は、○殿の辛抱を信じるほかありません」
諸葛亮すらも強くは言えないその態度は、法正という男が蜀においていかに不可欠で、かつ危うい均衡の上に立っているかを物語っていた。
成都の文官執務室には、絶えず紙の擦れる音と墨の匂いが満ちていた。
部屋の空気は冷え込んでいる。
もう十日はこんなことが続いている。
○は机に向かい、日々膨大な書簡の書き写しを続けていた。
その隣に法正が立つと覗き込む。
「不手際が目立ちますね。この程度の書き写しも満足にできぬようでは、ただ飯食らいに等しい。……趙雲殿の温情に胡坐をかくのも、大概になさい」
余計な言葉が沢山ついていても、職務の不備を指摘する形を取っているため、正当な指導の体を保つ。
法正は、その境界線を冷徹に見極めていた。
周囲の文官たちは法正の苛烈な性格を知っているだけに、助け舟を出すこともできず、ただ冷や冷やしながら手元の仕事に没頭するふりをするばかり。
ふと、法正が○の書いている書簡を指さした。
「なんですか、この字は。このような癖のある字で書いたら、前線の将兵が読み間違えます。正式な書簡は貴方が読めればいい…というものではないのですよ」
法正はそう言い捨てると、○の手から強引に筆を奪い取った。
自ら手本を示すように紙へ筆を走らせた際、その筆先が○の指先に触れ、黒い墨がべったりと付着する。
「失礼…手が汚れましたね。わざとではありません」
法正は謝罪の意など微塵も感じさせない無機質な声で告げ、筆を返そうとした。
うっかりで付く量ではない。
○はその言葉を無視し、「ご指摘、ありがとうございます」と短く応じると、返された筆を握り直した。
そして作業を再開するために軽く肩を回す。
その際にさりげなく手首を振った。
筆の毛先から飛んだ一粒の墨が、法正の頬に着く。
法正の動きが止まる。
頬に触れる墨の湿り気を感じ、彼は信じられないものを見るかのように目を剥いた。
「申し訳ありません!…わざとではありません」
○はチラリと法正をみると、先ほど彼が言ったのと同じような声音で返した。
執務室の文官たちが一斉に息を呑む音が聞こえた。
法正の頬が、怒りと驚愕でぴくりと震える。
彼は無言のまま、頬に飛んだ墨を親指で拭う。
「……おや、手が汚れました。拭うものが必要ですね。ああ、丁度良いものがここに」
法正は低く、地を這うような声で呟くと、○の頬にグイッグイッと強い力でその指を何度も擦り付けた。
○の頬に黒い筋が引かれる。
法正はそれを見下ろし、征服感の入り混じった冷酷な笑みを浮かべた。
「これで、お互い様です。より寄生虫らしくなりましたよ」
○は手元の書簡から目を離さずに筆に墨をつけると、法正の頬に直接押し付けた。
「――っ!?」
法正の頬からどろりと墨が垂れる。
執務室は、もはや静寂を通り越し、死の淵のような静けさに包まれた。
文官達の心の悲鳴が聞こえるようなピリピリとした空気。
そして法正という男が、これほどの陵辱を受けて黙っているはずがない。
「あなた……自分が何をしたか、分かっているのですか」
法正の声から、感情が消えた。
「……一生、日の当たらぬ場所で後悔させて差し上げましょう。私の一筆であなたの立場など、どうにでも出来るのですから」
法正の凍りつくような眼光を、開き直った○は正面から見据える。
そして○の処遇に関しての書状を書くべく筆をとった。
○はその手首をつかむ。
三つの頃から道場で暮らし、関羽の元で何カ月も鍛錬を受け、戦場を駆け抜けてきた彼女の身体能力は、書生上がりの文官のそれとは根本から異なっていた。
「やれるものなら、やってください!」
「ぐ……っ! な、なんという力だ……放しなさい!」
法正は顔を赤くして振り払おうとするが、○の指は食い込み、びくともしない。
彼は自由な左手を素早く硯に浸すと、濡れたままの手を○の顔面へと叩きつけた。
「ぶっ!?うわ…口に…!」
流石に手を離した○。
その隙に法正は他の文官の硯を取ると、○の髪を掴んで硯の中の隅を顔にかけた。
○は自分の顔に着いた墨を両手で拭うと、目の前の法正に同じように擦り付ける。
文官たちが何も言えずに黙り込む中、法正と○は、墨を塗り合い擦り付け合い無言で喧嘩を始めた。
すると戸口で意外な声がする。
「なんだ、お前たちは。墨の掛け合いで新種の陣形でも練っていたのか?」
そこにいたのは劉備だった。
「…劉備殿!?なぜこちらに」
流石の法正も驚いて固まる。
二人はその場で直立した。
「いや、なに。近頃…武官であるはずの○がここに磔状態で、ろくに鍛錬が出来ていないと趙雲から相談があってな。様子を見に来たんだ」
最近の法正の○に対する扱いを、どうやら趙雲が劉備に相談したようだ。
(劉備殿に泣きつくとは…)と、法正は苦虫を嚙みつぶしたような表情になる。
「○はそもそも武官だからな。戦働きで成果を残さなくてはいけないから、こういう…ははっ」
諫めようとした劉備は二人を見て笑った。
法正たちも互いの顔を見合わせれば、そこにはもはや誰であるかも判別できぬほど黒々と塗り潰された「異形」が二人、肩を荒くして立っていた。
法正は我に返ったように一つ大きな咳払いをすると、氷のような視線を○に投げ、懐から取り出した布で不機嫌そうに顔を拭い始めた。
「……お見苦しいところを。劉備殿。この者、教育が行き届いていない様で」
声こそ冷徹さを取り戻していたが、拭いきれない墨が顔に滲み、その威厳は無残にも損なわれていた。
劉備は○に近づくと、懐から綺麗な布を出してそれで○の顔を拭き始める。
君主のその態度に、法正は目を見張った。
「○は、我らがまだ寄る辺もない頃…曹操から追われていた時から共にいるんだ。勿論、趙雲を追ってという形ではあるが。彼が今の様な立場になる前…それこそ、彼が故郷の村にいた時から。だから、○を”趙雲の立場にくっついている”というのは…いささか可哀そうに思う」
「…劉備様」
○は劉備にそう告げられて、目を潤ませた。
「それに、阿斗と妻も、彼女が趙雲と共に救ってくれた。○には感謝しているんだ」
「…それは、特別扱いをしろと?」
「まさか!趙雲もそんな事は望んでいないさ。ただ…今回の事は、見逃してやってほしいと頼みに来た。お前が○に何を言ったかも、○がお前に何をしたかも…誰も何も言わないが、逆に言えば許せる程度の事なのだろう」
法正はふと○を見る。
自分が彼女を”趙雲殿の寄生虫だ”と言ったことも、自分が拾った書簡が原因でこんなことになっている事も、誰にも何も言っていなかったことに驚いた。
ウンザリした様にため息をついた法正に、劉備は困った様に笑いながら「では私から罰を与えよう」と、○の顔を力任せに拭いた。
「い…痛いです…顔の皮がめくれそうです…!」
「こんな力で拭いても取れないな…こんなものつけて帰ったら、趙雲はうるさいぞ」
劉備の荒っぽい、だが不思議と温かい手つきに、○は文句を言いながらも身を任せていた。
その光景を、顔を拭き終えた法正が忌々しげに、それでいてどこか毒気を抜かれたような眼差しで見つめていた。
夕刻。
趙雲の執務室。
法正は届け物という名目で立ち寄りながら、○の隣でブツブツと毒を吐く。
(これ言う為に、わざわざ来たわけ?)
○は法正にため息をつく。
自身の机で書簡の整理をしていた趙雲は、自分が言われているわけでもないのに神妙な顔で法正の小言を聞いている。
「趙雲殿に同情いたします。このような粗忽者に、昼夜を問わず付き纏われては」
法正は○を憐れむような目で見た。
「あなたの様な、品もなければ教養もない女など、本当は趙雲殿の隣に座る事すらおこがましいのですよ。今はただ、長年の付き合いという慈悲の心で傍に置いて貰っているに過ぎない。今に、もっと淑やかで、蜀の将来を支えるに相応しい美しい女性に乗り換えられることでしょうね。その時の貴方の泣きっ面が今から楽しみです」
○に聞かせてはならない言葉の応酬に、思わず趙雲が○を見た。
しかし○はなにやら考え込むような顔をしている。
ずっと、ある一点が気にかかっていたのだ。
出会ったあの日から、法正は事あるごとに「趙雲殿の顔を立てて」だの「趙雲殿の温情」だの、常に趙雲の名を引き合いに出して自分を貶めてくる。
○は素直な疑問として問いかけた。
「法正殿って……もしかして、子龍様と仲良くなりたいのですか?」
刹那、執務室に静寂が訪れた。
趙雲も驚いて法正を見る。
○の目の前の法正も目を見開いている。
そして驚愕のあまりにか、あるいはかつてない屈辱のあまりにか、一瞬のうちに耳の付け根まで真っ赤に染まった。
「……何を、血迷ったことを……!」
「だって、子龍様のことばかり仰るではないですか。違うんですか?」
○の追い打ちをかけるような言葉に、法正は黙り込む。
彼女の弱点は趙雲だと思った。
だから趙雲を引き合いに出して揺さぶれば、○を傷つけられると思ってやっていただけだ。
しかし、劉備があれだけ信を置く趙雲という人物に興味がなかったわけでもない。
とはいえ、趙雲は普段、劉備の隣に控え、法正もよくその場に居合わせるが、彼は劉備の護衛として立っている間は頑なでほとんど話をせず交流がなかった。
だから○のいう事は当たらずも遠からず。
その為、黙り込んでしまった。
そんな法正の様子に、趙雲は助け船のつもりなのかなんなのか。
「……○、それは…流石に誤解だろう」
”仲良くしたい対象”であるはずの趙雲から、心底困惑したような眼差しを向けられ、「申し訳ない」と軽く謝られる。
それが法正にとっての最後の一撃となった。
「だ……黙りなさい。 誰がこのような、古臭い年寄りのような冗談も通じない堅物男と……!」
法正の叫びにも似た罵倒が執務室に響く。
その言葉を受けた趙雲は、「古臭い年寄り…」と呟いたまま呆然とした。
しかし、○はそんな空気を意に介さず、笑顔を浮かべた。
「いいじゃないですか。子龍様のことがそんなに気にかかるなら、まずはお友達から始めるのはどうでしょう。子龍様はお茶を飲みながら世間話をするようなご友人がいらっしゃらないので、心配していたんです。法正殿なら軟派な馬超殿と違って安心です」
(馬超殿は軟派な男だと思われていたのか…)
古臭いの純粋極まる、しかし法正にとっては毒よりもたちの悪い提案が追い打ちをかける。
「○。あまり失礼な事ばかり言うな。法正殿も、私と茶など飲んでも楽しくないだろう」
そんな趙雲の言葉を遮る様に、法正は怒鳴る。
「こちらこそ、誰がこんなゴツイ男と菓子を突きながら睦まじく茶など! ……もういい、話にならん」
そう言い捨てると、法正は執務室を飛び出していった。
ドスドスと足音が遠ざかるのを聞きながら、○は微笑む。
「○、私は古臭い年寄りの様な男だろうか。自分では、割と凛々しい溌溂とした人間だと思っていた」
「……」
それからというもの、法正の○への嫌がらせはパッタリとやみ、たまに廊下で会えば挨拶と軽い会話をする程度にまで関係は修復された。
その日、趙雲の宿舎の居間で、○と趙雲は思い思いに寛いでいた。
○は繕い物をしながら鼻歌を歌っている。
すると趙雲は手元の書物を閉じて、ふっと思い出したように口を開く。
「……そうだ。今日、法正殿に話しかけられた」
その言葉に○は驚いて顔を上げる。
「いつも劉備殿のそばに控えている際、彼は文机で黙々と筆を動かしているのだが……今日はその合間に、ふと私の方を見てな。『茶を飲む際、菓子などは食すのか』と、唐突に聞かれた。あの方から公務以外のことで話しかけられたのは、初めてのことだ」
「ふふ、やっぱり。本当は仲良くしたかったんですよ。私に意地悪してたのも、きっと素直になれなかっただけなんです」
「……そうだろうか」
趙雲は腕組みをすると唸った。
「しかし私は楽しい話題を出すのが苦手だからな。あの時も、『私は甘いものはあまり嗜みませんが、主君から賜れば頂戴いたします』と、あまりに素っ気ない返事をしてしまった。法正殿は『……左様ですか』と言ったきり黙ってしまうし。どうだったのだろう」
あの法正が勇気を振り絞って振ってきた話題を、無機質な軍務報告のような口調で返してしまったのではないかという懸念があるらしい。
しかし○からすれば、趙雲という人間を”古臭い年寄り”とまで言い切った法正なのだから、無理に盛り上げなくてもいいのではないかと思う。
「あと、○の事も話していたな。お前の話をしている時が互いに気楽だ」
「私の”愚痴”を話している時、ですよね」
そう言って軽く睨むと趙雲は顔を上げていなかった。
「そうだ!それなら今度お招きしませんか?私が何かお料理を作ります。お二人の邪魔になるようでしたら、私は外に出ていますし。何かを食べていれば、自然と会話は続くものですよ」
「その場合はお前にいてもらわねば困る」
趙雲は視線を彷徨わせたあと、決まり悪そうに眉を寄せた。
法正と二人きりで食事など、想像もつかなかったからだ。
しかしそんな二人の様子を想像する○だけは、とても楽しそうだった。