成都編【全5話】
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成都の日常はとても穏やかでありながら、急激に人が増えたこともあり賑やかだ。
趙雲が執務机で難しい顔をして書物を広げていれば、○は当然のようにその隣に座り一緒に覗き込む。
壁際で趙雲が槍の手入れをしていれば、○はその背中によりかかる。
趙雲が食膳を囲めば、もちろん○は肩が触れ合うほどの距離に陣取る。
そこへ馬超が通りかかり、不思議そうに眉を寄せた。
「お前たち、やはり恋仲なのか?」
その問いに、二人は同時に、だが全く正反対の答えを返した。
「違う」「夫婦です」
馬超が呆気に取られていると、項垂れる趙雲とは裏腹に○は胸を張った。
「私は六歳の頃から結婚を約束していた妻なんですよ」
「誰が誰の妻だ。いい加減にしろ。……馬超殿、忘れてください。この娘は昔から妄想が激しく、ずっとこの調子で困っているのです」
趙雲はウンザリしたように言う。
しかし、口では突き放しながらも腕にもたれかかる○を引き剥がそうとはしない。
「なんだか、付け入る隙がありそうだな」と、小さく言った馬超の声を、趙雲は聞き逃さなかった。
その日の夜。
○が食堂へ向かっていると、不意に大きな影に遮られた。
「○殿!」
「わっ、馬超殿? 」
馬超は○の両肩をがっしりと握りしめると、グイッと食堂の方を向かせる。
「趙雲殿なら、あちらで女官と楽しげに話し込んでいるぞ! あんな堅物は放っておいて、俺と一緒に飯を食おう!」
食堂の入り口付近で、確かに趙雲が数人の女官たちに囲まれ、何やら言葉を交わしていた。
成都を制圧してから○達が到着するまでの一月、趙雲はずっとあんな状態らしい。
成都の城に元々仕えていた者をほとんどそのまま召し抱えている事もあり、公安よりも大きな成都は、女官も侍女もかなり多いとは思っていたが、またあんな状態だとは。
「子龍様!また鼻の下伸ばして…!」
○は肩を怒らせてそちらに歩きだそうとするが、馬超がその腕をつかむ。
「よせ、無粋だぞ。あいつはあいつで楽しんでいる。それに城と言うのは人づきあいが大切な空間だぞ。ああして女官とうまく立ち回らなければ仕事にも支障が出るものなのだ」
「そ、そうなんですか…?」
「そうだ!戦に出ることもある○殿は、その間は城内の仕事ができないだろう?その間は彼女たちに任せることになるんだ。ああして親交を深めておくのも、大事な仕事として受け入れねばならん」
馬超の言う事は最もだし、常々言われてきたことでもある。
「でも…!最初に釘を刺しておかないと、浮気の入り口になる可能性も…」
「大丈夫だ。さすがにこれだけの人の中でおかしなことはせんだろう」
「駄目なんですよ!子龍様は放っておくとすぐ女性に取り入られてしま「人の事が言えた口か?」
馬超と腕の引っ張り合いをして押し問答をしていると、いつの間にか女官の群れを抜けて○の背後に趙雲が立っていた。
「衆目の面前で男に手を握られ、楽しく会話をするなど。私のことを言う前に、己の行いを省みたらどうだ。この浮気者め」
「う、浮気!?」
○は弾かれたように趙雲に向き直った。
その目は驚きと憤慨で大きく見開かれている。
楽しそうに話していたつもりも、顔を赤らめていたつもりもない。
「聞き捨てなりませんっ! 私がいつ浮気など…っ」
反論しようとする○の肩を馬超が抱く。
「趙雲殿、まあそう責めてやるな。○殿は俺の情熱に戸惑っていただけで、なにもときめいていたわけではない。……しかし、お前が信じぬと言うのなら、このまま一緒にいても気まずいだろう。夕餉の間、○殿を少し借りてもいいか?」
馬超の挑発的な言葉に、趙雲の眉間には深い溝が刻まれる。
彼はなおも○を見ようとせず続けた。
「……借りるも何も、○は私の何者でもない。勝手にするがいい。影踏みの儀式だの一途だのと言いながら、他の男の腕の中で赤ら顔をするような女の言葉など、もはや信用ならん」
いつもの○ならこういう時、なにがなんでも趙雲に食い下がるはずだった。
趙雲も心のどこかでその反応を待っていたのかもしれない。
そうすれば馬超に思い知らせることが出来る。
だが、今の○は違った。
趙雲に振り回されるだけではない。
「……そうですか。覚えのない事まで責められては付き合い切れません。もうっ、そこまで言うならいいですよっ」
○はふいっと趙雲から顔を背けた。
その反応は、いつもと違っていた。
「こんなにも愛していると伝えているのに、それでも子龍様が私のことを信じられないのなら、そちらこそ勝手にしてくださいっ」
「……なっ!?」
趙雲が驚愕に目を見開き、初めて○を正面から見た。
「馬超殿、行きましょう。お腹が減りました」
「行こう行こう!」
高笑いする馬超に連れられ、食堂の奥へと消えていく二人の背中。
一人取り残された趙雲は、突き放したはずの自分の言葉が、逆に己の胸に突き刺さるのを感じていた。
古参の将たちは趙雲の様子を伺い、ヒヤヒヤと生きた心地がしていない。
一方で、そこから離れて向かい合って座る馬超と○の周りだけは、穏やかな空気が流れていた。
「……それで。先程お前が言っていた『六歳の頃からの妻』というのはどういうことだ?趙雲殿とは、幼馴染にしては随分と年が離れているだろう」
馬超が不思議そうに尋ねると、○は箸を休めて、懐かしそうに目を細めた。
「私の村の風習なんです。女の子から男の子を誘って影踏み遊びをして、負けたら妻になるんですよ」
「聞いた事のない風習だな」
「でしょうね。ですから子龍様も、私から会いに行った十二年後まで、私の事は忘れていたんです」
「十二年!?相当な執念だな」
その光景を離れた席から見つめる趙雲は、肘をついて不機嫌そうにフンと息をつく。
周囲に座る女官達は、その様子に気付かぬふりで話しかける。
それには表面上、キチンと応えているがどこか上の空だ。
○はと言えば、調子が良くて会話の上手な馬超の話に頷きながらも、背中に突き刺さるような趙雲の視線を痛いほどに感じていた。
(……子龍様、あんなに怒るなら最初からあんな意地悪言わなきゃいいのに)
食事が終わる頃、馬超が席を立ち、○に視線を向けた。
「○殿、腹も満たされたことだ。腹ごなしに少しばかり夜の散歩に付き合わないか? 成都から見る月も、西涼の月に負けず劣らず美しいはずだ」
「え?でも…」
「すぐそこまでだ」
流石に…と○は戸惑う。
しかし馬超は強引に○の背中を押して連れ出してしまった。
*****
夜の静寂に包まれた成都の川べり。
「城のすぐそばに、こんな川があるんですね」
「ああ。この辺りは水源が多く、いいところだ。湿っぽいのが玉にキズだがな」
せせらぎの音だけが響く中、前を歩く馬超の袖口から何かが落ちた。
後ろを歩いていた○が拾うと、それは銅のお守りだった。
擦れて月の光に輝き、ずっと持っていた事が伺える。
「馬超殿、落ちましたよ」
そう言って手渡すと、馬超はそれを受け取り、掌の上でしばらくじっと見つめていた。
「……。ふん、これか」
馬超は自嘲気味に鼻で笑うと、それを川の深みへと投げ入れた。
ゴン、と音を立てて水音が続く。
「え!いいんですか!?」
「……いい。執着は足を止める無駄なものだ。自然となくなるのであればそれで良いとすら思っていたものだ。……お前が拾わなければ、城に戻った時には道端で泥にまみれていただけの代物だったろう」
「でも、凄く大事にされていた様に見えました、けど…」
馬超の横顔は憑き物が落ちたように清々しく、けれどどこか空虚だった。
投げ捨てた場所をしばらく見つめて歩き出す。
しばらくそうして歩いたが、急に馬超の口数が減った。
「馬超殿」
○は馬超の袖を引っ張った。
「探しませんか」
「は?」
「要らないものを捨てた顔ではないですよ」
「…」
「大丈夫です。重かったので流れてはいないはずです」
○はそう言って手招きすると、元来た道を戻り、裾を捲って草をかき分け水に入る。
「○!やめろ!滑ると危険だ!」
「大丈夫です!私、川は得意です!さらに川に落ちた物を探すのが特技なんです。任せてください」
「そんな特技、あるわけがないだろう!」
「本当ですよ?素手で川魚を捕まえた事もあるんですから」
「訳が分からんな…」
馬超は川の傍に行き、○を見ながら立ち尽くしていた。
西涼の荒武者たちですら、彼の決断に異を唱える者はいなかった。
馬超が”それでいい”と言えば”それでいい”。
それなのに女である身で、目の前の女は全く言う事を聞かない。
馬超は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
失ったものは諦めなくてはならないと思っていた。
そうでないとやっていられなかった。
諦めないのはとても辛いからだ。
○は馬超の立っていた所から「どの方向に投げたかな」と歩幅で計算している。
「○…もう…「ありました!!」
馬超の低い呟きに重なる様に、声を弾ませる。
その掌にはあの銅のお守り。
○はびしょ濡れになった着物の裾も構わず、「よし、よし」と満足そうに水から上がると、馬超の大きな手にそれをそっと置いた。
それをしばらく見つめて、馬超は小さく零す。
「これは、妻の形見でな」
「私に似ていたという…?」
「ああ」
それは、彼がかつて失った最初の妻の、唯一の形見だった。
復讐の炎に身を焼き、全てを捨ててここへ辿り着いた馬超にとって、それは執着の象徴であり、同時に己を苛む痛みの種でもあった。
あんな事さえなければ、ああは狂わなかったのだから。
「これが無くなってしまえば、忘れられると思ってな」
「大切な人を忘れられないのは、馬超殿にとって悪い事なのですか?」
「悪くはないだろうが…」
「もし私が馬超殿の奥様だったら、そうして忘れられずにいてくれたら、とっても嬉しいですよ」
○は馬超の目を真っ直ぐに見つめてそう言うと笑った。
裾の水を絞りながら、少し濡れた髪もそのままに「帰りましょうか」と歩き出した。
城に戻ると、城門に偶然を装った趙雲が待っていた。
○のずぶ濡れの様子を見て目をむく。
「○!なんだ、その恰好は!」
「川に魚が見えたので、明日の朝餉にしようと入りました」
「川だと?こんな夜に魚など…!馬超殿、何故この馬鹿者を止めて下さらない!」
事情を確認するように馬超を見た趙雲だが、馬超は○の目配せに「得意だと豪語して聞かなかった」とだけ答えた。
「とにかく、湯をもらいに行く。ついて来い」と歩き出す趙雲の後ろをついて行く○に、馬超は声をかけた。
「”○”」
呼び捨てた名前に、趙雲が反応する。
「また、明日な」
そう言って手を振って去っていく馬超に、趙雲は困った様に○を見た。
趙雲が執務机で難しい顔をして書物を広げていれば、○は当然のようにその隣に座り一緒に覗き込む。
壁際で趙雲が槍の手入れをしていれば、○はその背中によりかかる。
趙雲が食膳を囲めば、もちろん○は肩が触れ合うほどの距離に陣取る。
そこへ馬超が通りかかり、不思議そうに眉を寄せた。
「お前たち、やはり恋仲なのか?」
その問いに、二人は同時に、だが全く正反対の答えを返した。
「違う」「夫婦です」
馬超が呆気に取られていると、項垂れる趙雲とは裏腹に○は胸を張った。
「私は六歳の頃から結婚を約束していた妻なんですよ」
「誰が誰の妻だ。いい加減にしろ。……馬超殿、忘れてください。この娘は昔から妄想が激しく、ずっとこの調子で困っているのです」
趙雲はウンザリしたように言う。
しかし、口では突き放しながらも腕にもたれかかる○を引き剥がそうとはしない。
「なんだか、付け入る隙がありそうだな」と、小さく言った馬超の声を、趙雲は聞き逃さなかった。
その日の夜。
○が食堂へ向かっていると、不意に大きな影に遮られた。
「○殿!」
「わっ、馬超殿? 」
馬超は○の両肩をがっしりと握りしめると、グイッと食堂の方を向かせる。
「趙雲殿なら、あちらで女官と楽しげに話し込んでいるぞ! あんな堅物は放っておいて、俺と一緒に飯を食おう!」
食堂の入り口付近で、確かに趙雲が数人の女官たちに囲まれ、何やら言葉を交わしていた。
成都を制圧してから○達が到着するまでの一月、趙雲はずっとあんな状態らしい。
成都の城に元々仕えていた者をほとんどそのまま召し抱えている事もあり、公安よりも大きな成都は、女官も侍女もかなり多いとは思っていたが、またあんな状態だとは。
「子龍様!また鼻の下伸ばして…!」
○は肩を怒らせてそちらに歩きだそうとするが、馬超がその腕をつかむ。
「よせ、無粋だぞ。あいつはあいつで楽しんでいる。それに城と言うのは人づきあいが大切な空間だぞ。ああして女官とうまく立ち回らなければ仕事にも支障が出るものなのだ」
「そ、そうなんですか…?」
「そうだ!戦に出ることもある○殿は、その間は城内の仕事ができないだろう?その間は彼女たちに任せることになるんだ。ああして親交を深めておくのも、大事な仕事として受け入れねばならん」
馬超の言う事は最もだし、常々言われてきたことでもある。
「でも…!最初に釘を刺しておかないと、浮気の入り口になる可能性も…」
「大丈夫だ。さすがにこれだけの人の中でおかしなことはせんだろう」
「駄目なんですよ!子龍様は放っておくとすぐ女性に取り入られてしま「人の事が言えた口か?」
馬超と腕の引っ張り合いをして押し問答をしていると、いつの間にか女官の群れを抜けて○の背後に趙雲が立っていた。
「衆目の面前で男に手を握られ、楽しく会話をするなど。私のことを言う前に、己の行いを省みたらどうだ。この浮気者め」
「う、浮気!?」
○は弾かれたように趙雲に向き直った。
その目は驚きと憤慨で大きく見開かれている。
楽しそうに話していたつもりも、顔を赤らめていたつもりもない。
「聞き捨てなりませんっ! 私がいつ浮気など…っ」
反論しようとする○の肩を馬超が抱く。
「趙雲殿、まあそう責めてやるな。○殿は俺の情熱に戸惑っていただけで、なにもときめいていたわけではない。……しかし、お前が信じぬと言うのなら、このまま一緒にいても気まずいだろう。夕餉の間、○殿を少し借りてもいいか?」
馬超の挑発的な言葉に、趙雲の眉間には深い溝が刻まれる。
彼はなおも○を見ようとせず続けた。
「……借りるも何も、○は私の何者でもない。勝手にするがいい。影踏みの儀式だの一途だのと言いながら、他の男の腕の中で赤ら顔をするような女の言葉など、もはや信用ならん」
いつもの○ならこういう時、なにがなんでも趙雲に食い下がるはずだった。
趙雲も心のどこかでその反応を待っていたのかもしれない。
そうすれば馬超に思い知らせることが出来る。
だが、今の○は違った。
趙雲に振り回されるだけではない。
「……そうですか。覚えのない事まで責められては付き合い切れません。もうっ、そこまで言うならいいですよっ」
○はふいっと趙雲から顔を背けた。
その反応は、いつもと違っていた。
「こんなにも愛していると伝えているのに、それでも子龍様が私のことを信じられないのなら、そちらこそ勝手にしてくださいっ」
「……なっ!?」
趙雲が驚愕に目を見開き、初めて○を正面から見た。
「馬超殿、行きましょう。お腹が減りました」
「行こう行こう!」
高笑いする馬超に連れられ、食堂の奥へと消えていく二人の背中。
一人取り残された趙雲は、突き放したはずの自分の言葉が、逆に己の胸に突き刺さるのを感じていた。
古参の将たちは趙雲の様子を伺い、ヒヤヒヤと生きた心地がしていない。
一方で、そこから離れて向かい合って座る馬超と○の周りだけは、穏やかな空気が流れていた。
「……それで。先程お前が言っていた『六歳の頃からの妻』というのはどういうことだ?趙雲殿とは、幼馴染にしては随分と年が離れているだろう」
馬超が不思議そうに尋ねると、○は箸を休めて、懐かしそうに目を細めた。
「私の村の風習なんです。女の子から男の子を誘って影踏み遊びをして、負けたら妻になるんですよ」
「聞いた事のない風習だな」
「でしょうね。ですから子龍様も、私から会いに行った十二年後まで、私の事は忘れていたんです」
「十二年!?相当な執念だな」
その光景を離れた席から見つめる趙雲は、肘をついて不機嫌そうにフンと息をつく。
周囲に座る女官達は、その様子に気付かぬふりで話しかける。
それには表面上、キチンと応えているがどこか上の空だ。
○はと言えば、調子が良くて会話の上手な馬超の話に頷きながらも、背中に突き刺さるような趙雲の視線を痛いほどに感じていた。
(……子龍様、あんなに怒るなら最初からあんな意地悪言わなきゃいいのに)
食事が終わる頃、馬超が席を立ち、○に視線を向けた。
「○殿、腹も満たされたことだ。腹ごなしに少しばかり夜の散歩に付き合わないか? 成都から見る月も、西涼の月に負けず劣らず美しいはずだ」
「え?でも…」
「すぐそこまでだ」
流石に…と○は戸惑う。
しかし馬超は強引に○の背中を押して連れ出してしまった。
*****
夜の静寂に包まれた成都の川べり。
「城のすぐそばに、こんな川があるんですね」
「ああ。この辺りは水源が多く、いいところだ。湿っぽいのが玉にキズだがな」
せせらぎの音だけが響く中、前を歩く馬超の袖口から何かが落ちた。
後ろを歩いていた○が拾うと、それは銅のお守りだった。
擦れて月の光に輝き、ずっと持っていた事が伺える。
「馬超殿、落ちましたよ」
そう言って手渡すと、馬超はそれを受け取り、掌の上でしばらくじっと見つめていた。
「……。ふん、これか」
馬超は自嘲気味に鼻で笑うと、それを川の深みへと投げ入れた。
ゴン、と音を立てて水音が続く。
「え!いいんですか!?」
「……いい。執着は足を止める無駄なものだ。自然となくなるのであればそれで良いとすら思っていたものだ。……お前が拾わなければ、城に戻った時には道端で泥にまみれていただけの代物だったろう」
「でも、凄く大事にされていた様に見えました、けど…」
馬超の横顔は憑き物が落ちたように清々しく、けれどどこか空虚だった。
投げ捨てた場所をしばらく見つめて歩き出す。
しばらくそうして歩いたが、急に馬超の口数が減った。
「馬超殿」
○は馬超の袖を引っ張った。
「探しませんか」
「は?」
「要らないものを捨てた顔ではないですよ」
「…」
「大丈夫です。重かったので流れてはいないはずです」
○はそう言って手招きすると、元来た道を戻り、裾を捲って草をかき分け水に入る。
「○!やめろ!滑ると危険だ!」
「大丈夫です!私、川は得意です!さらに川に落ちた物を探すのが特技なんです。任せてください」
「そんな特技、あるわけがないだろう!」
「本当ですよ?素手で川魚を捕まえた事もあるんですから」
「訳が分からんな…」
馬超は川の傍に行き、○を見ながら立ち尽くしていた。
西涼の荒武者たちですら、彼の決断に異を唱える者はいなかった。
馬超が”それでいい”と言えば”それでいい”。
それなのに女である身で、目の前の女は全く言う事を聞かない。
馬超は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
失ったものは諦めなくてはならないと思っていた。
そうでないとやっていられなかった。
諦めないのはとても辛いからだ。
○は馬超の立っていた所から「どの方向に投げたかな」と歩幅で計算している。
「○…もう…「ありました!!」
馬超の低い呟きに重なる様に、声を弾ませる。
その掌にはあの銅のお守り。
○はびしょ濡れになった着物の裾も構わず、「よし、よし」と満足そうに水から上がると、馬超の大きな手にそれをそっと置いた。
それをしばらく見つめて、馬超は小さく零す。
「これは、妻の形見でな」
「私に似ていたという…?」
「ああ」
それは、彼がかつて失った最初の妻の、唯一の形見だった。
復讐の炎に身を焼き、全てを捨ててここへ辿り着いた馬超にとって、それは執着の象徴であり、同時に己を苛む痛みの種でもあった。
あんな事さえなければ、ああは狂わなかったのだから。
「これが無くなってしまえば、忘れられると思ってな」
「大切な人を忘れられないのは、馬超殿にとって悪い事なのですか?」
「悪くはないだろうが…」
「もし私が馬超殿の奥様だったら、そうして忘れられずにいてくれたら、とっても嬉しいですよ」
○は馬超の目を真っ直ぐに見つめてそう言うと笑った。
裾の水を絞りながら、少し濡れた髪もそのままに「帰りましょうか」と歩き出した。
城に戻ると、城門に偶然を装った趙雲が待っていた。
○のずぶ濡れの様子を見て目をむく。
「○!なんだ、その恰好は!」
「川に魚が見えたので、明日の朝餉にしようと入りました」
「川だと?こんな夜に魚など…!馬超殿、何故この馬鹿者を止めて下さらない!」
事情を確認するように馬超を見た趙雲だが、馬超は○の目配せに「得意だと豪語して聞かなかった」とだけ答えた。
「とにかく、湯をもらいに行く。ついて来い」と歩き出す趙雲の後ろをついて行く○に、馬超は声をかけた。
「”○”」
呼び捨てた名前に、趙雲が反応する。
「また、明日な」
そう言って手を振って去っていく馬超に、趙雲は困った様に○を見た。