成都編【全5話】
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ついに成都への招集が下った。
長らく過ごした公安の地を離れる日、○は少しだけ複雑な思いで関興を見つめていた。
怪我の世話を通じて知った、彼の穏やかな優しさ。
そんな関興と別れて、これから向かう先には、心から焦がれた趙雲が待っている。
「……○、元気で。趙雲殿をあまり困らせるなよ」
「関興も無理しないでね。もうこれで江陵に帰るの?」
「関平兄さんと交代で、行ったり来たりかな。兄さんは星彩に会いに成都にいくだろうから、その時はまた手紙でも送る」
丁寧な口調で別れを告げる関興に手を振り、○は月英や星彩、そして賑やかな張苞と共に、西へと続く長い行軍の列に加わった。
ここから一月近い旅路が始まる。
公安で少し伸びた髪は、道中の強い陽差しに焼かれぬようにと星彩が編み込んでくれた。
本当は切りたかったが、思いのほか周囲に好評だった為、久しぶりに会う趙雲に女性らしさを見せてやろうと思って切るのを我慢していた。
月英は「以前よりずっと、しとやかに見えます」と微笑む。
「○は、公安で過ごす中で随分と女性らしくなりましたね」というのは、月英の最近の口癖だ。
*****
そして辿り着いた成都の城門。
数人の兵士や武将が待ち構えていた。
「子龍様——!」
○は相変わらず周囲の目も構わず馬を走らせた。
十ヶ月、夢にまで見たあの凛々しい容貌。
駆け寄る○の姿を捉えた瞬間、趙雲の頬が微かに緩んだ。
昨日も会ったかのように今まで通りの○に安心する。
しかし。
○の少し伸びた髪。
女性としての柔らかさを増した身のこなし。
なんとなく落ち着いた様に見える表情。
数カ月ぶりに○を見た趙雲としては、その姿が少しだけ記憶のものと違って見えた。
自分の知らない時間を感じ取った瞬間、趙雲はハッとしたように表情を強張らせた。
(……何だ。私が不在の間、何故これほどまでに変わった)
趙雲は○を凝視する。
そしてこぼれかけた笑みを無理やり飲み込み、いつもの無表情を作り直した。
「……息災であったようだな。騒がしいのは相変わらずだが」
「またそんな事っ! 誉めてもらおうと思って、切りたかったけど髪も伸ばしたのに…!愛する妻にやっと会えたのに!」
「だから…だれが妻だ!離れろ…!」
顔をグイグイ近づける○を押しやるが、○は更に身体が引き締まっているのかまた力が強くなっている。
「髪などはどうでもいい。それより、長旅で疲れているだろう。早く中へ入って荷解きをしなさい」
そういうと○の背中を押した。
成都の夜は更け、月明かりが城内の回廊を静かに照らしていた。
趙雲は執務室で一人、書簡に目を落としていたが、その意識は昼間に再会した○の姿に囚われていた。
彼女は今まで、どちらかというと身だしなみに無頓着だった。
いつも動きやすい服を着て、髪は肩まで。
快活で小ざっぱりとしていた。
それが今日目の当たりにした○は、立ち居振る舞いの中にかつてなかった大人の女性としてのたおやかさが宿っていた。
その変化の理由を測りかね、趙雲は旅の片づけをしながら月英に問いかけていた。
「……○の様子が、以前と少し違うように見えましたが。公安で、何かあったのでしょうか」
月英は柔らかな微笑みを返す。
「公安でも特に変わりはありませんでしたが……○さんの年頃の女性は、数ヶ月離れているだけでも驚くほど変わるものですよ。ましてや公安では時間がありましたから、身だしなみに気を遣う時間も多かったですし」
「……左様ですか。しかし、十ヶ月でこれほどまでに」
「趙雲殿は久方ぶりの再会ですからそう見えるのでしょう。私達からすれば、彼女の心も見た目も、なにも変わってなどいません。あなたに見せたいと言って、少し髪を伸ばしただけです。ずっとあなたに会いたいと言っておりましたよ」
月英はそれ以上は語らず、関興と○の間に流れた噂については一言も触れなかった。
(確かに○の年齢を思えば、女子として最も華やぐ時期か。だがあの柔らかな物腰……。ただ時が過ぎただけで、これほど劇的に変わるものだろうか)
自分を慕う一途な心に疑いはない。
しかし自分が不在の間、誰かが彼女に一人の女性としての自信を与えたのではないか。
そんな”男の勘”が疼いた。
「……いや。○に限って、そのようなことは」
自分が教えられなかった…教えなかった”女性としての変化”を、他の誰かが彼女の中から引き出したのだとしたら。
なんだか悶々とする再会になった。
翌日、成都の練兵場は新参と古参の将たちが入り混じり、活気に満ちていた。
○は月英や星彩の傍らで、新たに劉備軍に加わった将たちと挨拶を交わしていた。
老いてなお盛んな黄忠の豪快な笑い声に圧倒されていると、ふいに背後から、鋭い気配が近づいてくるのを感じた。
「……お前」
低く、突き刺すような声。
○が振り返ると、そこには白銀の獅子を彷彿とさせる派手な兜を被り、異様なまでの覇気を纏った男――西涼の錦馬超が立っていた。
馬超は信じられないものを見るような目で○を凝視している。
「……お前、生きていたのか……!?」
「え……? あの、どちら様でしょうか……」
ズカズカと距離を詰めてくる馬超の気迫に、○は思わず後ずさる。
何が何だか分からず困惑する○の前に、鋭い足取りで星彩が割り込んだ。
「なにか御用でしょうか、馬超殿」
しかしそんな星彩の肩越しに○を覗く。
「似ている……いや、そんなはずはない。だが、この面影は…」
馬超の叫びに近い声に、周囲の将たちも何事かと足を止める。
星彩は眉をひそめ、冷静に馬超を制しながら事情を問い質した。
馬超はなおも○から目を離せない様子で、絞り出すように言う。
「……すまない。取り乱した。……かつて冀城で、曹操軍に殺された妻に、あまりにも似ていたもので」
その場の空気が、一瞬で重く沈んだ。
馬超の言葉に、○は黙り込む。
「目の前であの様に殺されて…生きているはずがないのにな…」
馬超は自嘲気味に呟き顔を伏せた。
星彩も月英も、ただ俯いた。
その様子を遠巻きに見ていた趙雲。
彼は、馬超が○に詰め寄った瞬間に駆け寄ろうとしたが、その理由を聞いて足を止めた。
かつての妻の面影を重ね、縋るような視線を○に向ける馬超。
(……今度は馬超殿か)
趙雲はため息をついた。
顔合わせを終え、人影のまばらになった廊下で、趙雲は隣を歩く○を見下ろした。
「……まったく。お前というやつは、どこへ行っても男の影を連れてくるのだな。関興といい、今日の馬超殿といい……」
呆れたような、それでいて苛立ちを隠しきれない趙雲の言葉に、○はちっとも堪えた様子もなく、むしろ嬉しそうに胸を張って答えた。
「それは、子龍様が私のことばかり見てくれているから、そう感じるのではないですか?」
「は?」
○は周囲に人がいない事を確認して話す。
「だって、星彩と関平の事も気づいていなかったでしょう?それにその星彩は色んな将兵に求婚されています。月英さんなんて既婚者なのに…。そういうの、ご存じでしたか?」
「…今、聞いてはいけないことを聞いた気がする」
「つまり、私の事は興味があって気にかけて下さっているってことですよね!」
○は趙雲の腕に捕まった。
「月英さんが仰っていました。ここは女性が少ないから気をつけなさいって。でも私は星彩達の様に恋文なんて貰ったことがないんですよね…だから、私に魅力が足りないから子龍様は何もしてくださらないのかと思っていたんです。…だけど子龍様がそうして心配されるという事は、私に魅力を感じているってことですよね!嬉しいです!」
そう前向きな解釈をし笑う○。
「大丈夫ですよ。私は”子龍様一筋です”と言ってありますから」
(……お前は分かっていない。そこを、あえて乗り越えてこようとする連中だからタチが悪いのだ)
”誰かを想う者”が好きな男もいる。
その気持ちが向く先を自分に向けたがる野心的な男や、あるいは馬超のように、その一途な輝きに救いを見出そうとする男が現れる。
「子龍様一筋」と豪語する○だからこそ、余計にその花を折りたいという欲望に駆られる者もいる事を、彼女は全く理解していない。
「笑い事ではない。男女のいざこざを私の周囲に持ち込むな」
「……。大体、そんなに心配されるなら、子龍様が観念して”妻だ”と周囲に紹介してくれたら全ては丸く収まるのに……」
それまで重々しい足取りで歩いていた趙雲の歩幅が急に大きくなる。
○の手を振りほどくと、顔も見せずにサッサと歩きだす。
「あれ、子龍様?」と、○が声をかけても何も言わずに、廊下の角へと消えていった。
そんな趙雲に呆気に取られた○。
「また逃げられた」
そう言って腕組みをして鼻息を荒くした。
長らく過ごした公安の地を離れる日、○は少しだけ複雑な思いで関興を見つめていた。
怪我の世話を通じて知った、彼の穏やかな優しさ。
そんな関興と別れて、これから向かう先には、心から焦がれた趙雲が待っている。
「……○、元気で。趙雲殿をあまり困らせるなよ」
「関興も無理しないでね。もうこれで江陵に帰るの?」
「関平兄さんと交代で、行ったり来たりかな。兄さんは星彩に会いに成都にいくだろうから、その時はまた手紙でも送る」
丁寧な口調で別れを告げる関興に手を振り、○は月英や星彩、そして賑やかな張苞と共に、西へと続く長い行軍の列に加わった。
ここから一月近い旅路が始まる。
公安で少し伸びた髪は、道中の強い陽差しに焼かれぬようにと星彩が編み込んでくれた。
本当は切りたかったが、思いのほか周囲に好評だった為、久しぶりに会う趙雲に女性らしさを見せてやろうと思って切るのを我慢していた。
月英は「以前よりずっと、しとやかに見えます」と微笑む。
「○は、公安で過ごす中で随分と女性らしくなりましたね」というのは、月英の最近の口癖だ。
*****
そして辿り着いた成都の城門。
数人の兵士や武将が待ち構えていた。
「子龍様——!」
○は相変わらず周囲の目も構わず馬を走らせた。
十ヶ月、夢にまで見たあの凛々しい容貌。
駆け寄る○の姿を捉えた瞬間、趙雲の頬が微かに緩んだ。
昨日も会ったかのように今まで通りの○に安心する。
しかし。
○の少し伸びた髪。
女性としての柔らかさを増した身のこなし。
なんとなく落ち着いた様に見える表情。
数カ月ぶりに○を見た趙雲としては、その姿が少しだけ記憶のものと違って見えた。
自分の知らない時間を感じ取った瞬間、趙雲はハッとしたように表情を強張らせた。
(……何だ。私が不在の間、何故これほどまでに変わった)
趙雲は○を凝視する。
そしてこぼれかけた笑みを無理やり飲み込み、いつもの無表情を作り直した。
「……息災であったようだな。騒がしいのは相変わらずだが」
「またそんな事っ! 誉めてもらおうと思って、切りたかったけど髪も伸ばしたのに…!愛する妻にやっと会えたのに!」
「だから…だれが妻だ!離れろ…!」
顔をグイグイ近づける○を押しやるが、○は更に身体が引き締まっているのかまた力が強くなっている。
「髪などはどうでもいい。それより、長旅で疲れているだろう。早く中へ入って荷解きをしなさい」
そういうと○の背中を押した。
成都の夜は更け、月明かりが城内の回廊を静かに照らしていた。
趙雲は執務室で一人、書簡に目を落としていたが、その意識は昼間に再会した○の姿に囚われていた。
彼女は今まで、どちらかというと身だしなみに無頓着だった。
いつも動きやすい服を着て、髪は肩まで。
快活で小ざっぱりとしていた。
それが今日目の当たりにした○は、立ち居振る舞いの中にかつてなかった大人の女性としてのたおやかさが宿っていた。
その変化の理由を測りかね、趙雲は旅の片づけをしながら月英に問いかけていた。
「……○の様子が、以前と少し違うように見えましたが。公安で、何かあったのでしょうか」
月英は柔らかな微笑みを返す。
「公安でも特に変わりはありませんでしたが……○さんの年頃の女性は、数ヶ月離れているだけでも驚くほど変わるものですよ。ましてや公安では時間がありましたから、身だしなみに気を遣う時間も多かったですし」
「……左様ですか。しかし、十ヶ月でこれほどまでに」
「趙雲殿は久方ぶりの再会ですからそう見えるのでしょう。私達からすれば、彼女の心も見た目も、なにも変わってなどいません。あなたに見せたいと言って、少し髪を伸ばしただけです。ずっとあなたに会いたいと言っておりましたよ」
月英はそれ以上は語らず、関興と○の間に流れた噂については一言も触れなかった。
(確かに○の年齢を思えば、女子として最も華やぐ時期か。だがあの柔らかな物腰……。ただ時が過ぎただけで、これほど劇的に変わるものだろうか)
自分を慕う一途な心に疑いはない。
しかし自分が不在の間、誰かが彼女に一人の女性としての自信を与えたのではないか。
そんな”男の勘”が疼いた。
「……いや。○に限って、そのようなことは」
自分が教えられなかった…教えなかった”女性としての変化”を、他の誰かが彼女の中から引き出したのだとしたら。
なんだか悶々とする再会になった。
翌日、成都の練兵場は新参と古参の将たちが入り混じり、活気に満ちていた。
○は月英や星彩の傍らで、新たに劉備軍に加わった将たちと挨拶を交わしていた。
老いてなお盛んな黄忠の豪快な笑い声に圧倒されていると、ふいに背後から、鋭い気配が近づいてくるのを感じた。
「……お前」
低く、突き刺すような声。
○が振り返ると、そこには白銀の獅子を彷彿とさせる派手な兜を被り、異様なまでの覇気を纏った男――西涼の錦馬超が立っていた。
馬超は信じられないものを見るような目で○を凝視している。
「……お前、生きていたのか……!?」
「え……? あの、どちら様でしょうか……」
ズカズカと距離を詰めてくる馬超の気迫に、○は思わず後ずさる。
何が何だか分からず困惑する○の前に、鋭い足取りで星彩が割り込んだ。
「なにか御用でしょうか、馬超殿」
しかしそんな星彩の肩越しに○を覗く。
「似ている……いや、そんなはずはない。だが、この面影は…」
馬超の叫びに近い声に、周囲の将たちも何事かと足を止める。
星彩は眉をひそめ、冷静に馬超を制しながら事情を問い質した。
馬超はなおも○から目を離せない様子で、絞り出すように言う。
「……すまない。取り乱した。……かつて冀城で、曹操軍に殺された妻に、あまりにも似ていたもので」
その場の空気が、一瞬で重く沈んだ。
馬超の言葉に、○は黙り込む。
「目の前であの様に殺されて…生きているはずがないのにな…」
馬超は自嘲気味に呟き顔を伏せた。
星彩も月英も、ただ俯いた。
その様子を遠巻きに見ていた趙雲。
彼は、馬超が○に詰め寄った瞬間に駆け寄ろうとしたが、その理由を聞いて足を止めた。
かつての妻の面影を重ね、縋るような視線を○に向ける馬超。
(……今度は馬超殿か)
趙雲はため息をついた。
顔合わせを終え、人影のまばらになった廊下で、趙雲は隣を歩く○を見下ろした。
「……まったく。お前というやつは、どこへ行っても男の影を連れてくるのだな。関興といい、今日の馬超殿といい……」
呆れたような、それでいて苛立ちを隠しきれない趙雲の言葉に、○はちっとも堪えた様子もなく、むしろ嬉しそうに胸を張って答えた。
「それは、子龍様が私のことばかり見てくれているから、そう感じるのではないですか?」
「は?」
○は周囲に人がいない事を確認して話す。
「だって、星彩と関平の事も気づいていなかったでしょう?それにその星彩は色んな将兵に求婚されています。月英さんなんて既婚者なのに…。そういうの、ご存じでしたか?」
「…今、聞いてはいけないことを聞いた気がする」
「つまり、私の事は興味があって気にかけて下さっているってことですよね!」
○は趙雲の腕に捕まった。
「月英さんが仰っていました。ここは女性が少ないから気をつけなさいって。でも私は星彩達の様に恋文なんて貰ったことがないんですよね…だから、私に魅力が足りないから子龍様は何もしてくださらないのかと思っていたんです。…だけど子龍様がそうして心配されるという事は、私に魅力を感じているってことですよね!嬉しいです!」
そう前向きな解釈をし笑う○。
「大丈夫ですよ。私は”子龍様一筋です”と言ってありますから」
(……お前は分かっていない。そこを、あえて乗り越えてこようとする連中だからタチが悪いのだ)
”誰かを想う者”が好きな男もいる。
その気持ちが向く先を自分に向けたがる野心的な男や、あるいは馬超のように、その一途な輝きに救いを見出そうとする男が現れる。
「子龍様一筋」と豪語する○だからこそ、余計にその花を折りたいという欲望に駆られる者もいる事を、彼女は全く理解していない。
「笑い事ではない。男女のいざこざを私の周囲に持ち込むな」
「……。大体、そんなに心配されるなら、子龍様が観念して”妻だ”と周囲に紹介してくれたら全ては丸く収まるのに……」
それまで重々しい足取りで歩いていた趙雲の歩幅が急に大きくなる。
○の手を振りほどくと、顔も見せずにサッサと歩きだす。
「あれ、子龍様?」と、○が声をかけても何も言わずに、廊下の角へと消えていった。
そんな趙雲に呆気に取られた○。
「また逃げられた」
そう言って腕組みをして鼻息を荒くした。