関興編【全4話】
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○と関興の二人が山へと狩りに繰り出したのは、益州に送る干し肉の量を増やしたいという○の思いつきからだった。
慣れ親しんだ山道も、雨上がりの土は脆くなっている。
獲物を追って足場を崩した関興が、「あ――」と短く声をあげて体勢を崩したのは一瞬のことだった。
「関興!」
○は反射的にその手を掴んだが、落ちていく成人男性の体重を支えきれない。
ずるりと斜面を滑り落ち、二人は折り重なるようにして茂みの奥へと転がり落ちた。
すぐさま○は身体を起こし関興に駆け寄る。
「大丈夫!?」
関興の顔が苦痛に歪んでいる。
「……。こういう時は普通、片方は上に残って助けを呼ぶものだと思うが……。お前まで一緒に落ちてきてしまうなんて」
「ご、ごめん。つい」
「ここが洞穴じゃなくて良かった」
関興は自らの足を確かめるように触れるが、その指先がわずかに震えている。
すでに脂汗が浮かんでいた。
「…駄目だ。折れているかもしれない。左足が言う事を聞いてくれない」
「うそっ!ちょっと待ってて!すぐに山を下りて担架を持ってくるから」
言うや否や、○は山を駆け下りて行った。
程なくして兵士数人を引き連れて○は戻ってきた。
担架に乗せて城に運び込み医者の診察を受けた結果、関興の足は無残にも折れていた。
「すまない、○。しばらくは、君の訓練の相手も務まりそうにない。それに何かあれば、お前が走り回る事に…」
寝台に横たわり、添え木を当てられた関興が申し訳なさそうに言った。
「何言ってるの!細事は私に任せて!それに私が狩りに行きたいと言ったせいなんだから、治るまで私が身の回りの世話をするわ」
「それは……趙雲殿が聞いたら、成都から飛んできそうな提案だ」
「子龍様はそんな事で怒らないってば。怪我人を放っておく方が怒ると思う。大丈夫よ」
関興は苦笑しつつも、○にお礼を言った。
負傷した関興の生活は、当然ながら不自由なものとなった。
「身の回りの世話をする」と宣言した○は、その言葉通り、夜明けとともに彼の部屋を訪れる。
「関興、おはよう! 起きられる?」
「……おはよう、○。毎朝悪いな」
関興は申し訳なさに目を伏せるが、○は「気にしないで」と笑い飛ばし、手際よく彼の着替えを手伝い始める。
男兄弟に囲まれて育った○にとって、異性の世話を焼くことに戸惑いはない。
それに趙雲の兄も、父も、○が亡くなる直前まで世話をしてきたので、身体が動かしにくい人間の世話も慣れている。
しかしそんな事とは周囲は関係なく、関興を相手にかなり近い距離で衣を整えるその光景は、端から見ればいささか親密すぎた。
「ほら、腕を通して。……はい、次は足。動かすと響くから私が動く。ジッとしてて」
「……ありがとう。○は、本当に甲斐甲斐しいな。趙雲殿もさぞかし喜んだんだろうな」
「どうだろう。子龍様、大きなお怪我どころか風邪をひいたのも見たことがないわ。朝の身支度も、『自分で出来る』って取り上げるし」
食堂まで歩けない内は自室で食事をとる関興の為に、朝餉の膳を運ぶ。
お茶を入れて、一人で食べるのは寂しいだろうと隣に座って話をする。
「足が治らなければいい、なんて、不謹慎なことを考えてしまいそうだ」
「えー。早く治した方がいいよ」
○は純粋に、彼の一日も早い回復を願って献身的に尽くしていた。
近しい者は、○の献身はそもそもの彼女の性質なのだと思った。
しかしそんな性質とは裏腹に、朝から晩まで関興の部屋に出入りし、時に彼を支えて歩く○の姿は、兵たちの間で「まるで仲睦まじい若夫婦のようだ」と囁かれ始めていた。
月英や星彩は○の一途な性格を知っているだけに温かく見守っていたが、同時に「これを目にしたら、あの方はどう思うのか」という、言葉にできない不安を共有していた。
その日も、公安の空気は穏やかさに満ちていた。
関興の怪我も順調に回復し、最近では杖をつけば庭を歩けるようになっている。
そんな彼の傍らには、常にKADAの姿があった。
そこへ、関興の幼馴染であり星彩の兄でもある張苞が、土産を抱えてひょっこりと顔を出す。
「おっ、今日も仲が良いな。なんだか、見ているこっちが当てられそうだ」
張苞は、○が関興の膝に掛け布を整えてやり、関興がそれに対して優しく微笑み返す様子を見て、豪快に笑い飛ばした。
「○に失礼なことを言わないでくれ、張苞。怪我をしたから、親切にしてくれているだけだ」
「分かってるって。でもなぁ、お前ら醸し出している空気がどうも落ち着きすぎてて……。正直、こっちの二人の方がよっぽど『夫婦』みたいに見えるぜ?」
”こっち”というのは趙雲と○に比べて、という事だろう。
張苞のからかい混じりの言葉に、関興は戸惑うように視線を泳がせた。
しかし当の○はといえば、全く照れる様子もなく「やだ~」と、あっけらかんとしている。
○にとって、趙雲以外の男はたとえ家族のように親しい関興であっても、想いの範疇には入らないらしい。
自分が今、他の男と夫婦のようだと言われていることなど微塵も気にせず、○はただひたすらに、遠い戦場にいる夫(仮)の身を案じ続けていた。
*****
暖かな陽光が降り注ぐ中庭。
昼下がりのこの場所は、人影もまばらだ。
「悪いな。今日もまた付き合わせてしまって」
関興は額に滲んだ汗を拭い、慎重に土を踏みしめる。
傍らにはいつでも関興を支えられるよう、○がぴたりと寄り添っていた。
「いいの、いいの。早く歩けるようにならないと!私が成都に呼ばれたらお世話できなくなるんだから」
その時だった。
関興の足元が湿った土に滑る。
支えにしていた杖が手から離れ転がった。
体勢を崩した関興の体が大きく前へ傾く。
「危ない!」
○は踏ん張り、倒れ込む関興の体を正面から受け止めた。
勢い余った二人は、重なるようにしてそこに立ち尽くす格好となる。
関興が倒れないように必死で下から支える○に覆いかぶさる形で、関興は黙り込んだ。
そしてその両腕が、そっと○の背中を抱き込むように回る。
一方の○はまだ支えるのに必死でそれに気づいていない。
ただ、こういう体勢になってしまったことに対して「ごめん。大丈夫?体勢戻せる?」と聞いた。
しかし関興はそれに答えず、○が気付くようにもう少し強く抱き寄せる。
流石にそれに気付いた○が顔を上げると、すぐ間近に関興の端整な顔があった。
普段の穏やかな丁寧さとは違う。
「ごめん。少しだけ…このままで…」
「こ、このまま…?」
「落ち着くから」
○にとっては、あくまで”怪我をした友人”を助けるための、打算のない抱擁だった。
しかし外から見れば男女の睦み合いにしか見えない。
二人の間に奇妙な静寂が流れる。
関興の端整な顔が間近に迫り、○は思わずその瞳をじっと見つめ返してしまった。
心臓の音がいつもより大きく聞こえる。
どちらからともなく、ゆっくりと体が離れた。
○は逃げるように視線を落とし、転がった杖を拾い上げると、それを関興に手渡す。
「き、気をつけてね。……地面がぬかるんでるし、今日の歩く練習は、これくらいにしておこうか」
○は自分の頬がわずかに火照っているのを感じた。
それは決して恋心ではなく、あまりに密着してしまったことへの、純粋なきまり悪さからくるものだったが、言葉が上手く出てこない。
関興は手渡された杖を握りしめると、どこか遠くを見据えたまま小さく頷いた。
「ああ。……そうだな」
関興は、自分を支えてくれた○の腕の確かな感触と、一瞬だけ重なった視線を思い出す。
○は関興を縁側まで誘導すると、気まずさを紛らわせるように、「お昼の準備してくる!」と早口で言い残し、逃げるようにその場を去っていった。
一人残された関興は縁側に座り、杖を置く。
(……困ったな。俺は、○の事が…。趙雲殿に、顔向けができなくなりそうだ)
一度部屋に戻った○は、勢いよく扉を閉める。
ドクドクと心臓が耳元でうるさい。
「……何、今の」
あんなふうに男の人に正面からしっかりと抱きしめられたのは、生まれて初めてだった。
趙雲におねだりして抱きしめてもらったことは一度あるが、あの時は一応、心の準備をしていた。
それに慣れ親しんだ趙雲の匂いとは違う匂い。
「……やっぱり子龍様と全然違うのね。胸板の厚さも、体温も、匂いも、抱きしめ方も……」
関興の感触を思い出そうとしてしまう自分に気づき、○は慌てて寝台の上に大切に置いてあった趙雲の寝衣に飛びついた。
まだ僅かに残る、愛しい趙雲の香りに鼻を埋める。
(ごめんなさい、子龍様! 私が至らないせいであんな……あんなことに! 浮気じゃないんです、わざとじゃないんです!)
衣に顔を擦り付けながら、○は必死に心の中で謝罪を繰り返した。
「やっぱり、子龍様の匂いが一番……。あーあ、早くお会いしたいなぁ…」
罪悪感と期待が入り混じった溜息をつきながら、○は趙雲の寝衣をさらに強く抱きしめた。
*****
季節は巡り、関興の足はすっかり完治した。
以前のように二人で鍛錬場に立ち、手合わせも出来るほどに回復している。
あの日の”不慮の抱擁”以来、○の中に一つの感情が芽生えていた。
―男性に優しくされるのって、あんなに安心感のあるものだったんだ―
関興のあの丁寧で静かな労わり。
自分を包み込むように抱きとめた腕の感触。
趙雲の、どこか突き放すような…けれど照れを隠すような仕草も大好きだが、関興が教えてくれた「一人の女性として大切に扱われる喜び」は、○にとって初めて知る甘いものだった。
今まであまり気にしていなかった身だしなみにも、気を遣い始めた。
「○、どうしたんだ?手元が疎かだぞ」
関興の声に我に返る。
「な、なんでも! ちょっと、成都のこと考えてただけ!いつ呼ばれるかなって…もう十カ月だもの」
「そうか。……趙雲殿も、もうすぐ呼び寄せてくれるはずだ。お前はこの数か月で髪も伸びて…なんだか大人びたから、驚くだろうな」
○は関興の優しさに触れるたびに、胸の奥がくすぐったくなるような感覚を覚える。
(駄目駄目。私は子龍様の妻なんだから。……でも、子龍様もあんなふうに、たまには優しくしてくれたらいいのに)
趙雲に対する一途な想いは揺るがない。
けれど、知らないままでいた「男性の優しさ」を知ってしまった○は、以前よりも少しだけ雰囲気が変わっていた。
慣れ親しんだ山道も、雨上がりの土は脆くなっている。
獲物を追って足場を崩した関興が、「あ――」と短く声をあげて体勢を崩したのは一瞬のことだった。
「関興!」
○は反射的にその手を掴んだが、落ちていく成人男性の体重を支えきれない。
ずるりと斜面を滑り落ち、二人は折り重なるようにして茂みの奥へと転がり落ちた。
すぐさま○は身体を起こし関興に駆け寄る。
「大丈夫!?」
関興の顔が苦痛に歪んでいる。
「……。こういう時は普通、片方は上に残って助けを呼ぶものだと思うが……。お前まで一緒に落ちてきてしまうなんて」
「ご、ごめん。つい」
「ここが洞穴じゃなくて良かった」
関興は自らの足を確かめるように触れるが、その指先がわずかに震えている。
すでに脂汗が浮かんでいた。
「…駄目だ。折れているかもしれない。左足が言う事を聞いてくれない」
「うそっ!ちょっと待ってて!すぐに山を下りて担架を持ってくるから」
言うや否や、○は山を駆け下りて行った。
程なくして兵士数人を引き連れて○は戻ってきた。
担架に乗せて城に運び込み医者の診察を受けた結果、関興の足は無残にも折れていた。
「すまない、○。しばらくは、君の訓練の相手も務まりそうにない。それに何かあれば、お前が走り回る事に…」
寝台に横たわり、添え木を当てられた関興が申し訳なさそうに言った。
「何言ってるの!細事は私に任せて!それに私が狩りに行きたいと言ったせいなんだから、治るまで私が身の回りの世話をするわ」
「それは……趙雲殿が聞いたら、成都から飛んできそうな提案だ」
「子龍様はそんな事で怒らないってば。怪我人を放っておく方が怒ると思う。大丈夫よ」
関興は苦笑しつつも、○にお礼を言った。
負傷した関興の生活は、当然ながら不自由なものとなった。
「身の回りの世話をする」と宣言した○は、その言葉通り、夜明けとともに彼の部屋を訪れる。
「関興、おはよう! 起きられる?」
「……おはよう、○。毎朝悪いな」
関興は申し訳なさに目を伏せるが、○は「気にしないで」と笑い飛ばし、手際よく彼の着替えを手伝い始める。
男兄弟に囲まれて育った○にとって、異性の世話を焼くことに戸惑いはない。
それに趙雲の兄も、父も、○が亡くなる直前まで世話をしてきたので、身体が動かしにくい人間の世話も慣れている。
しかしそんな事とは周囲は関係なく、関興を相手にかなり近い距離で衣を整えるその光景は、端から見ればいささか親密すぎた。
「ほら、腕を通して。……はい、次は足。動かすと響くから私が動く。ジッとしてて」
「……ありがとう。○は、本当に甲斐甲斐しいな。趙雲殿もさぞかし喜んだんだろうな」
「どうだろう。子龍様、大きなお怪我どころか風邪をひいたのも見たことがないわ。朝の身支度も、『自分で出来る』って取り上げるし」
食堂まで歩けない内は自室で食事をとる関興の為に、朝餉の膳を運ぶ。
お茶を入れて、一人で食べるのは寂しいだろうと隣に座って話をする。
「足が治らなければいい、なんて、不謹慎なことを考えてしまいそうだ」
「えー。早く治した方がいいよ」
○は純粋に、彼の一日も早い回復を願って献身的に尽くしていた。
近しい者は、○の献身はそもそもの彼女の性質なのだと思った。
しかしそんな性質とは裏腹に、朝から晩まで関興の部屋に出入りし、時に彼を支えて歩く○の姿は、兵たちの間で「まるで仲睦まじい若夫婦のようだ」と囁かれ始めていた。
月英や星彩は○の一途な性格を知っているだけに温かく見守っていたが、同時に「これを目にしたら、あの方はどう思うのか」という、言葉にできない不安を共有していた。
その日も、公安の空気は穏やかさに満ちていた。
関興の怪我も順調に回復し、最近では杖をつけば庭を歩けるようになっている。
そんな彼の傍らには、常にKADAの姿があった。
そこへ、関興の幼馴染であり星彩の兄でもある張苞が、土産を抱えてひょっこりと顔を出す。
「おっ、今日も仲が良いな。なんだか、見ているこっちが当てられそうだ」
張苞は、○が関興の膝に掛け布を整えてやり、関興がそれに対して優しく微笑み返す様子を見て、豪快に笑い飛ばした。
「○に失礼なことを言わないでくれ、張苞。怪我をしたから、親切にしてくれているだけだ」
「分かってるって。でもなぁ、お前ら醸し出している空気がどうも落ち着きすぎてて……。正直、こっちの二人の方がよっぽど『夫婦』みたいに見えるぜ?」
”こっち”というのは趙雲と○に比べて、という事だろう。
張苞のからかい混じりの言葉に、関興は戸惑うように視線を泳がせた。
しかし当の○はといえば、全く照れる様子もなく「やだ~」と、あっけらかんとしている。
○にとって、趙雲以外の男はたとえ家族のように親しい関興であっても、想いの範疇には入らないらしい。
自分が今、他の男と夫婦のようだと言われていることなど微塵も気にせず、○はただひたすらに、遠い戦場にいる夫(仮)の身を案じ続けていた。
*****
暖かな陽光が降り注ぐ中庭。
昼下がりのこの場所は、人影もまばらだ。
「悪いな。今日もまた付き合わせてしまって」
関興は額に滲んだ汗を拭い、慎重に土を踏みしめる。
傍らにはいつでも関興を支えられるよう、○がぴたりと寄り添っていた。
「いいの、いいの。早く歩けるようにならないと!私が成都に呼ばれたらお世話できなくなるんだから」
その時だった。
関興の足元が湿った土に滑る。
支えにしていた杖が手から離れ転がった。
体勢を崩した関興の体が大きく前へ傾く。
「危ない!」
○は踏ん張り、倒れ込む関興の体を正面から受け止めた。
勢い余った二人は、重なるようにしてそこに立ち尽くす格好となる。
関興が倒れないように必死で下から支える○に覆いかぶさる形で、関興は黙り込んだ。
そしてその両腕が、そっと○の背中を抱き込むように回る。
一方の○はまだ支えるのに必死でそれに気づいていない。
ただ、こういう体勢になってしまったことに対して「ごめん。大丈夫?体勢戻せる?」と聞いた。
しかし関興はそれに答えず、○が気付くようにもう少し強く抱き寄せる。
流石にそれに気付いた○が顔を上げると、すぐ間近に関興の端整な顔があった。
普段の穏やかな丁寧さとは違う。
「ごめん。少しだけ…このままで…」
「こ、このまま…?」
「落ち着くから」
○にとっては、あくまで”怪我をした友人”を助けるための、打算のない抱擁だった。
しかし外から見れば男女の睦み合いにしか見えない。
二人の間に奇妙な静寂が流れる。
関興の端整な顔が間近に迫り、○は思わずその瞳をじっと見つめ返してしまった。
心臓の音がいつもより大きく聞こえる。
どちらからともなく、ゆっくりと体が離れた。
○は逃げるように視線を落とし、転がった杖を拾い上げると、それを関興に手渡す。
「き、気をつけてね。……地面がぬかるんでるし、今日の歩く練習は、これくらいにしておこうか」
○は自分の頬がわずかに火照っているのを感じた。
それは決して恋心ではなく、あまりに密着してしまったことへの、純粋なきまり悪さからくるものだったが、言葉が上手く出てこない。
関興は手渡された杖を握りしめると、どこか遠くを見据えたまま小さく頷いた。
「ああ。……そうだな」
関興は、自分を支えてくれた○の腕の確かな感触と、一瞬だけ重なった視線を思い出す。
○は関興を縁側まで誘導すると、気まずさを紛らわせるように、「お昼の準備してくる!」と早口で言い残し、逃げるようにその場を去っていった。
一人残された関興は縁側に座り、杖を置く。
(……困ったな。俺は、○の事が…。趙雲殿に、顔向けができなくなりそうだ)
一度部屋に戻った○は、勢いよく扉を閉める。
ドクドクと心臓が耳元でうるさい。
「……何、今の」
あんなふうに男の人に正面からしっかりと抱きしめられたのは、生まれて初めてだった。
趙雲におねだりして抱きしめてもらったことは一度あるが、あの時は一応、心の準備をしていた。
それに慣れ親しんだ趙雲の匂いとは違う匂い。
「……やっぱり子龍様と全然違うのね。胸板の厚さも、体温も、匂いも、抱きしめ方も……」
関興の感触を思い出そうとしてしまう自分に気づき、○は慌てて寝台の上に大切に置いてあった趙雲の寝衣に飛びついた。
まだ僅かに残る、愛しい趙雲の香りに鼻を埋める。
(ごめんなさい、子龍様! 私が至らないせいであんな……あんなことに! 浮気じゃないんです、わざとじゃないんです!)
衣に顔を擦り付けながら、○は必死に心の中で謝罪を繰り返した。
「やっぱり、子龍様の匂いが一番……。あーあ、早くお会いしたいなぁ…」
罪悪感と期待が入り混じった溜息をつきながら、○は趙雲の寝衣をさらに強く抱きしめた。
*****
季節は巡り、関興の足はすっかり完治した。
以前のように二人で鍛錬場に立ち、手合わせも出来るほどに回復している。
あの日の”不慮の抱擁”以来、○の中に一つの感情が芽生えていた。
―男性に優しくされるのって、あんなに安心感のあるものだったんだ―
関興のあの丁寧で静かな労わり。
自分を包み込むように抱きとめた腕の感触。
趙雲の、どこか突き放すような…けれど照れを隠すような仕草も大好きだが、関興が教えてくれた「一人の女性として大切に扱われる喜び」は、○にとって初めて知る甘いものだった。
今まであまり気にしていなかった身だしなみにも、気を遣い始めた。
「○、どうしたんだ?手元が疎かだぞ」
関興の声に我に返る。
「な、なんでも! ちょっと、成都のこと考えてただけ!いつ呼ばれるかなって…もう十カ月だもの」
「そうか。……趙雲殿も、もうすぐ呼び寄せてくれるはずだ。お前はこの数か月で髪も伸びて…なんだか大人びたから、驚くだろうな」
○は関興の優しさに触れるたびに、胸の奥がくすぐったくなるような感覚を覚える。
(駄目駄目。私は子龍様の妻なんだから。……でも、子龍様もあんなふうに、たまには優しくしてくれたらいいのに)
趙雲に対する一途な想いは揺るがない。
けれど、知らないままでいた「男性の優しさ」を知ってしまった○は、以前よりも少しだけ雰囲気が変わっていた。