関興編【全4話】
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朝の軍議が始まり、少し静かな城内。
○は袖を高く捲り上げ、鼻歌交じりに洗濯物を干す。
「元気そうだな」
不意に背後から声をかけられ、○は濡れた手のまま振り返った。
そこには江陵にいるはずの関興がいる。
「あれ?どうしたの?いつからこっちに?」
「ああ…何か、諸葛亮殿に呼ばれて…」
「そう。何かあったのかしら」
そう言って、趙雲が何か言っていたかと思いだす○に、関興は微笑む。
「相変わらず趙雲殿の洗濯物は○が?」
「え?ああ…毎日じゃないの。できる範囲でね。私も鍛錬やら任務があるから」
関興は歩み寄ると、○が干そうとしていた布の端をごく自然に持ち上げ手伝い始めた。
長身の趙雲は服も大きいから助かる。
「江陵にいた時はお前が毎朝、父上や兄上を叩き起こしに来てくれていただろ? あれがないと、どうも調子が狂う。お前がいなくて寂しい」
「うそー、ありがとう。関興は素直でいいわねぇ。子龍様なんて、寂しいの『さ』の字も言ってくれないんだから。うるさい、騒ぐな、いないと済々するって」
○は困ったように笑いながらも、その表情には隠しきれない愛情が滲む。
「あの堅物殿に素直さを求めるのが間違いだろう。…ほら、そっちの服も寄こせ」
「なんだ。ここにいたのか」
その声に振り返れば、噂の趙雲が立っていた。
張飛も一緒だ。
義兄弟である関羽の息子・関興に笑いかけている。
「張飛殿に、趙雲殿。軍議は終わったのですか」
「ああ。二人ともよく聞け。我ら軍勢は劉備殿の要請によりこれより益州へと赴く。成都の陥落のためだ。ここから十四日はかかる道程であるから、明日にも発てとのご命令だ」
「分かりました」
○は頷くが、趙雲は首を横に振る。
「お前は留守番だ。公安にも戦力は残しておかねばならない。私は諸葛亮殿や張飛殿と共に向かうが、ここ荊州の守りも疎かにはできぬ。今まで通り、関羽殿と関平は、江陵にて魏や呉への備えに当たっていただく」
趙雲の言葉を引き継ぎ、張飛が口を開いた。
「で、関興。お前はここだ。公安にとどまって後詰だとよ。その為に呼び出したらしい」
「…俺が公安に?」
関興は驚いたように目を見開いた。
「ここは何かあれば、荊州にも益州にも出陣できる地だからな。足の速い者が必要だとのご判断だ」
「あの、子龍様…私は、お供できないんですか…?」
「これは軍令だ」
趙雲は珍しく強い口調で○の言葉を遮った。
*****
出発の朝、公安の空気はぴんと張り詰めていた。
○はいつものように趙雲の自室へ向かうと、既に身支度を整え始めていた彼の手伝う。
「お前がようやく戻ったと思ったら、ほんの二カ月程で今度は私が出て行くことになるとは」
衿を整えながら趙雲が言う。
「でも、今回の遠征は敵を威圧する為の増援なのでしょう?危険は少ないと聞きました」
「…だといいがな」
「月英さんも同じように、諸葛亮殿と離れ離れです。一緒に待ちましょうと、昨夜お話したんです」
「そうか…言われてみればそうだな」
「星彩や関興もいます。寂しいけど…公安にてご無事をお祈りしています」
そう言うと趙雲が脱いだ寝衣を受け取って、胸元に抱きしめた。
「何をしている」
「子龍様の匂いを忘れないために、この衣は洗わずに、私が一緒に寝る時に使います。次に会えるまで、これをお守りにするんです」
趙雲は呆気に取られたように目を見開いてから、「やめてくれ」と寝衣を引っ張った。
しかし○は手放さない。
その様子に苦笑する。
「……変事だぞ」
「いいんです。恋というのは、人をおかしくさせるものです」
結局○は、嫌がる趙雲の寝衣を奪取した。
表に出ると、諸葛亮が軍勢の整列を静かに見守っていた。
傍らには、見送りのために並ぶ関興と張苞、月英の姿がある。
馬の傍まで付いてきた○に、趙雲は言う。
「○、次にまみえるのは、我らが成都を落とした時だ。それまで鍛錬は怠るな」
趙雲が馬の鞍に手をかけた時、○は堪らず抱き着く。
やはりそれを引き剥がそうとする趙雲に、諸葛亮が言う。
「○殿。我らの軍略を以てすれば、再会までにそう時間はかかりますまい。趙雲殿の背中は我らに任せ、あなたはここで月英を守ってやってください」
「諸葛亮殿まで……。面目ない」
趙雲は少し頭を下げてから、○の肩を軽く抱き寄せてポン、と叩いた。
*****
益州への道のり。
趙雲は馬の上で、ふと胸のそれを思い出した。
趙雲が劉備の婚姻の為に呉に渡った時に○が忍ばせた”○人形”だ。
成都を制圧すれば、そのまま自分は成都に残るだろうと考え、これだけは先に持ってきていたのだ。
自分の脱いだ服を抱きしめて眠るという、困った○。
彼女はこれから数か月、どうやって過ごすのだろう。
再会したと思えば、またこうして戦火の中へと身を投じる。
武人として劉備に仕える以上、死は常に隣り合わせだ。
いつ帰れるとも知れぬ身で誰かを繋ぎ止めることの残酷さを、趙雲は誰よりも理解している。
公孫瓚の配下になった時点で、特定の誰かを作らないと決めていた。
○を故郷に置いて劉備の元に駆け付けた時もそうだった。
それが一体いつからこうなったのか。
「趙雲殿、何を黄昏れておいでですか? 」
諸葛亮の涼やかな声に、趙雲は表情を引き締めた。
「……失礼いたしました。ただ、少しばかり……己の覚悟を問い直していたところです」
「ほう。貴殿ほどの御仁が、今さら覚悟を? それは心強い」
諸葛亮は意味ありげに微笑んだ。
趙雲は槍を強く握り直し、西の空を見据えた。
*****
公安に残った○。
その日は月英に誘われて酒を飲んでいた。
卓の上には○が腕を振るった魚料理の数々と、月英が用意した香り高い酒が並んでいる。
「さあ、○さん。たまにはこうして、女同士でゆっくり語らいましょう」
月英は穏やかに微笑み、○の杯に透き通った酒を注いだ。
しかし○は、料理こそ勢いよく食べるものの、酒にはほとんど口をつけようとしない。
月英は不思議そうに首を傾げた。
「お口に合いませんでしたか? 軽やかで飲みやすいお酒を選んだのですが」
「いえ、そうじゃないんです。ただ……今飲んだら、寂しくて泣いてしまいそうで」
○は杯の縁を見つめたまま、ぽつりと溢した。
趙雲が出陣して数日。
昼間は鍛錬や任務で気を紛らわせているが、ふとした瞬間に、趙雲の背中が遠ざかっていく光景が脳裏をよぎる。
「……月英さんは、寂しくないのですか? 諸葛亮殿はいつもお忙しくて、今回だってあんなに遠いところへ行ってしまって」
その問いに、月英は一瞬だけ遠くを見つめるような目をした。
だが、すぐに慈しみに満ちた眼差しを○に向ける。
「寂しいですよ。……孔明様は、この天下を平らげるためにその身を捧げている御方。隣にいない時間は、胸にぽっかりと穴が空いたようです。今回の様に数ケ月、お傍にいられない事もよくあります」
月英はそっと○の手に、自分の手を重ねた。
「○さん。私たちがここで健やかに笑って過ごしていることこそが、あの方たちの何よりの支えなのです。あの方たちが戦場で後ろを振り返らずに済むように……今は共に、強く待ちましょう。それに申し訳ないのですが…私は今回、同じ立場のあなたがいてとても心強いのです」
○は小さく頷いた。
*****
数日後。
待ちに待った益州からの伝令が駆け込んできた。
成都への進軍は滞りなく進んでいるとの報に、居合わせた関羽が重厚な面持ちで書簡の束を受け取る。
その中から一通を抜き出すと、傍らにいた月英へと差し出した。
「月英殿、諸葛亮殿からの文です。……それと、○。お主にも届いておるぞ。趙雲からだ」
「えっ、私に……!?」
○は驚き、弾かれたように顔を上げた。
江陵にいた時は音沙汰なしだったので期待していなかっただけに、嬉しさは倍増だ。
隣では、月英が諸葛亮からの書簡を大切そうに広げている。
遠目に見ても文字がびっしりと書き連ねられていた。
戦況の報告か、あるいは妻への細やかな気遣いか、月英は頬を緩ませ目を細めている。
(子龍様に、アレは期待できない…)
そんな期待と諦めが入り混じった気持ちで、○は手渡された簡素な文を広げた。
趙雲からの手紙は、案の定、月英が読んでいるものとは対照的だった。
無骨で迷いのない、力強い筆跡。
そこにはただ、短くこう記されていた。
『息災か。
成都までの山道は険しきなれど、軍は順調に進んでいる。
案ずるな。
気が弛む故
江陵の男たちに、あまり甘えぬこと』
「ふふっ」
○は思わず笑ってしまった。
あまりにもあっさりとした、事務連絡のような文面。
けれど最後の一行に、趙雲の顔が浮かんで見えたからだ。
(言い訳しながらヤキモチ妬いちゃって)
「○、何をそんなに笑っているんだ? 趙雲殿は、一体何と?」
関興が不思議そうに覗き込んでくる。
○は慌ててその文を胸に抱え込んだ。
「いつものお小言です! でも、子龍様は元気みたい」
○は大切に文を畳み、趙雲の寝衣を置いている枕元へ、宝物のように持ち帰るのだった。
*****
益州の山中、陣幕の微かな灯りの下で、趙雲は届けられたばかりの書簡を広げていた。
軍事の報告に混じって渡された、公安で待つ○からの返事だ。
趙雲は無意識のうちに、固く結んでいた口元を緩めていた。
文には趙雲の身の安全と体調を深く案じる言葉が、飾らない、まるで目の前で話しているかの様に綴られている。
そして、寂しさを紛らわせるために毎日身体を動かし、流石にヘトヘトだとも。
読み進めていくうちに、趙雲の視線がある一行で止まった。
『村で子龍様を想い続けた十二年間に比べれば、たかだか数か月。我慢できます』
(十二年か。……○はいつも、私を待つことに関しては、あまりに途方もない)
趙雲は大切そうに文を畳み、懐へとしまった。
そこには以前もらった○人形が収まっている。
「趙雲殿、何か良い報せでも?」
背後から、全てを察したような諸葛亮の声が掛かる。
趙雲は背筋を正した。
「いえ。ただ、一日も早く成都を落とさねばならぬと、改めて肝に銘じた次第です」
○は袖を高く捲り上げ、鼻歌交じりに洗濯物を干す。
「元気そうだな」
不意に背後から声をかけられ、○は濡れた手のまま振り返った。
そこには江陵にいるはずの関興がいる。
「あれ?どうしたの?いつからこっちに?」
「ああ…何か、諸葛亮殿に呼ばれて…」
「そう。何かあったのかしら」
そう言って、趙雲が何か言っていたかと思いだす○に、関興は微笑む。
「相変わらず趙雲殿の洗濯物は○が?」
「え?ああ…毎日じゃないの。できる範囲でね。私も鍛錬やら任務があるから」
関興は歩み寄ると、○が干そうとしていた布の端をごく自然に持ち上げ手伝い始めた。
長身の趙雲は服も大きいから助かる。
「江陵にいた時はお前が毎朝、父上や兄上を叩き起こしに来てくれていただろ? あれがないと、どうも調子が狂う。お前がいなくて寂しい」
「うそー、ありがとう。関興は素直でいいわねぇ。子龍様なんて、寂しいの『さ』の字も言ってくれないんだから。うるさい、騒ぐな、いないと済々するって」
○は困ったように笑いながらも、その表情には隠しきれない愛情が滲む。
「あの堅物殿に素直さを求めるのが間違いだろう。…ほら、そっちの服も寄こせ」
「なんだ。ここにいたのか」
その声に振り返れば、噂の趙雲が立っていた。
張飛も一緒だ。
義兄弟である関羽の息子・関興に笑いかけている。
「張飛殿に、趙雲殿。軍議は終わったのですか」
「ああ。二人ともよく聞け。我ら軍勢は劉備殿の要請によりこれより益州へと赴く。成都の陥落のためだ。ここから十四日はかかる道程であるから、明日にも発てとのご命令だ」
「分かりました」
○は頷くが、趙雲は首を横に振る。
「お前は留守番だ。公安にも戦力は残しておかねばならない。私は諸葛亮殿や張飛殿と共に向かうが、ここ荊州の守りも疎かにはできぬ。今まで通り、関羽殿と関平は、江陵にて魏や呉への備えに当たっていただく」
趙雲の言葉を引き継ぎ、張飛が口を開いた。
「で、関興。お前はここだ。公安にとどまって後詰だとよ。その為に呼び出したらしい」
「…俺が公安に?」
関興は驚いたように目を見開いた。
「ここは何かあれば、荊州にも益州にも出陣できる地だからな。足の速い者が必要だとのご判断だ」
「あの、子龍様…私は、お供できないんですか…?」
「これは軍令だ」
趙雲は珍しく強い口調で○の言葉を遮った。
*****
出発の朝、公安の空気はぴんと張り詰めていた。
○はいつものように趙雲の自室へ向かうと、既に身支度を整え始めていた彼の手伝う。
「お前がようやく戻ったと思ったら、ほんの二カ月程で今度は私が出て行くことになるとは」
衿を整えながら趙雲が言う。
「でも、今回の遠征は敵を威圧する為の増援なのでしょう?危険は少ないと聞きました」
「…だといいがな」
「月英さんも同じように、諸葛亮殿と離れ離れです。一緒に待ちましょうと、昨夜お話したんです」
「そうか…言われてみればそうだな」
「星彩や関興もいます。寂しいけど…公安にてご無事をお祈りしています」
そう言うと趙雲が脱いだ寝衣を受け取って、胸元に抱きしめた。
「何をしている」
「子龍様の匂いを忘れないために、この衣は洗わずに、私が一緒に寝る時に使います。次に会えるまで、これをお守りにするんです」
趙雲は呆気に取られたように目を見開いてから、「やめてくれ」と寝衣を引っ張った。
しかし○は手放さない。
その様子に苦笑する。
「……変事だぞ」
「いいんです。恋というのは、人をおかしくさせるものです」
結局○は、嫌がる趙雲の寝衣を奪取した。
表に出ると、諸葛亮が軍勢の整列を静かに見守っていた。
傍らには、見送りのために並ぶ関興と張苞、月英の姿がある。
馬の傍まで付いてきた○に、趙雲は言う。
「○、次にまみえるのは、我らが成都を落とした時だ。それまで鍛錬は怠るな」
趙雲が馬の鞍に手をかけた時、○は堪らず抱き着く。
やはりそれを引き剥がそうとする趙雲に、諸葛亮が言う。
「○殿。我らの軍略を以てすれば、再会までにそう時間はかかりますまい。趙雲殿の背中は我らに任せ、あなたはここで月英を守ってやってください」
「諸葛亮殿まで……。面目ない」
趙雲は少し頭を下げてから、○の肩を軽く抱き寄せてポン、と叩いた。
*****
益州への道のり。
趙雲は馬の上で、ふと胸のそれを思い出した。
趙雲が劉備の婚姻の為に呉に渡った時に○が忍ばせた”○人形”だ。
成都を制圧すれば、そのまま自分は成都に残るだろうと考え、これだけは先に持ってきていたのだ。
自分の脱いだ服を抱きしめて眠るという、困った○。
彼女はこれから数か月、どうやって過ごすのだろう。
再会したと思えば、またこうして戦火の中へと身を投じる。
武人として劉備に仕える以上、死は常に隣り合わせだ。
いつ帰れるとも知れぬ身で誰かを繋ぎ止めることの残酷さを、趙雲は誰よりも理解している。
公孫瓚の配下になった時点で、特定の誰かを作らないと決めていた。
○を故郷に置いて劉備の元に駆け付けた時もそうだった。
それが一体いつからこうなったのか。
「趙雲殿、何を黄昏れておいでですか? 」
諸葛亮の涼やかな声に、趙雲は表情を引き締めた。
「……失礼いたしました。ただ、少しばかり……己の覚悟を問い直していたところです」
「ほう。貴殿ほどの御仁が、今さら覚悟を? それは心強い」
諸葛亮は意味ありげに微笑んだ。
趙雲は槍を強く握り直し、西の空を見据えた。
*****
公安に残った○。
その日は月英に誘われて酒を飲んでいた。
卓の上には○が腕を振るった魚料理の数々と、月英が用意した香り高い酒が並んでいる。
「さあ、○さん。たまにはこうして、女同士でゆっくり語らいましょう」
月英は穏やかに微笑み、○の杯に透き通った酒を注いだ。
しかし○は、料理こそ勢いよく食べるものの、酒にはほとんど口をつけようとしない。
月英は不思議そうに首を傾げた。
「お口に合いませんでしたか? 軽やかで飲みやすいお酒を選んだのですが」
「いえ、そうじゃないんです。ただ……今飲んだら、寂しくて泣いてしまいそうで」
○は杯の縁を見つめたまま、ぽつりと溢した。
趙雲が出陣して数日。
昼間は鍛錬や任務で気を紛らわせているが、ふとした瞬間に、趙雲の背中が遠ざかっていく光景が脳裏をよぎる。
「……月英さんは、寂しくないのですか? 諸葛亮殿はいつもお忙しくて、今回だってあんなに遠いところへ行ってしまって」
その問いに、月英は一瞬だけ遠くを見つめるような目をした。
だが、すぐに慈しみに満ちた眼差しを○に向ける。
「寂しいですよ。……孔明様は、この天下を平らげるためにその身を捧げている御方。隣にいない時間は、胸にぽっかりと穴が空いたようです。今回の様に数ケ月、お傍にいられない事もよくあります」
月英はそっと○の手に、自分の手を重ねた。
「○さん。私たちがここで健やかに笑って過ごしていることこそが、あの方たちの何よりの支えなのです。あの方たちが戦場で後ろを振り返らずに済むように……今は共に、強く待ちましょう。それに申し訳ないのですが…私は今回、同じ立場のあなたがいてとても心強いのです」
○は小さく頷いた。
*****
数日後。
待ちに待った益州からの伝令が駆け込んできた。
成都への進軍は滞りなく進んでいるとの報に、居合わせた関羽が重厚な面持ちで書簡の束を受け取る。
その中から一通を抜き出すと、傍らにいた月英へと差し出した。
「月英殿、諸葛亮殿からの文です。……それと、○。お主にも届いておるぞ。趙雲からだ」
「えっ、私に……!?」
○は驚き、弾かれたように顔を上げた。
江陵にいた時は音沙汰なしだったので期待していなかっただけに、嬉しさは倍増だ。
隣では、月英が諸葛亮からの書簡を大切そうに広げている。
遠目に見ても文字がびっしりと書き連ねられていた。
戦況の報告か、あるいは妻への細やかな気遣いか、月英は頬を緩ませ目を細めている。
(子龍様に、アレは期待できない…)
そんな期待と諦めが入り混じった気持ちで、○は手渡された簡素な文を広げた。
趙雲からの手紙は、案の定、月英が読んでいるものとは対照的だった。
無骨で迷いのない、力強い筆跡。
そこにはただ、短くこう記されていた。
『息災か。
成都までの山道は険しきなれど、軍は順調に進んでいる。
案ずるな。
気が弛む故
江陵の男たちに、あまり甘えぬこと』
「ふふっ」
○は思わず笑ってしまった。
あまりにもあっさりとした、事務連絡のような文面。
けれど最後の一行に、趙雲の顔が浮かんで見えたからだ。
(言い訳しながらヤキモチ妬いちゃって)
「○、何をそんなに笑っているんだ? 趙雲殿は、一体何と?」
関興が不思議そうに覗き込んでくる。
○は慌ててその文を胸に抱え込んだ。
「いつものお小言です! でも、子龍様は元気みたい」
○は大切に文を畳み、趙雲の寝衣を置いている枕元へ、宝物のように持ち帰るのだった。
*****
益州の山中、陣幕の微かな灯りの下で、趙雲は届けられたばかりの書簡を広げていた。
軍事の報告に混じって渡された、公安で待つ○からの返事だ。
趙雲は無意識のうちに、固く結んでいた口元を緩めていた。
文には趙雲の身の安全と体調を深く案じる言葉が、飾らない、まるで目の前で話しているかの様に綴られている。
そして、寂しさを紛らわせるために毎日身体を動かし、流石にヘトヘトだとも。
読み進めていくうちに、趙雲の視線がある一行で止まった。
『村で子龍様を想い続けた十二年間に比べれば、たかだか数か月。我慢できます』
(十二年か。……○はいつも、私を待つことに関しては、あまりに途方もない)
趙雲は大切そうに文を畳み、懐へとしまった。
そこには以前もらった○人形が収まっている。
「趙雲殿、何か良い報せでも?」
背後から、全てを察したような諸葛亮の声が掛かる。
趙雲は背筋を正した。
「いえ。ただ、一日も早く成都を落とさねばならぬと、改めて肝に銘じた次第です」