江陵編【全5話】
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その日、公安は大騒ぎだった。
孫尚香が阿斗を連れて姿をくらませたという急報は、趙雲の心臓を凍りつかせた。
趙雲は荒れ狂う長江を小舟で突き進み、孫尚香の乗る呉からの迎えの舟に飛び乗った。
そこへ張飛も合流し一触即発の緊張感が漂う中、趙雲の必死の説得により、孫尚香は阿斗を趙雲の腕の中へと戻す。
阿斗をしっかりと抱きかかえ、安堵の息をつく趙雲に、船の縁に立つ孫尚香が自嘲気味な笑みを向ける。
「……本当に。あなたには、悪いことをしてばかりね」
孫尚香は呉へと帰る事が決まった為か、その瞳にはこれまでの我儘な光はない。
「それにあのお菓子の子にも結局会えなかったわ…次に会えたら素直に謝ろうと思ってたのに」
「菓子……?」
趙雲は思わず首を傾げる。
菓子と言われて思い出されるのはあの喧嘩の記憶。
しかし、菓子と恐らく○の事であろう”あの子”がどう関係しているのか、彼には全く心当たりがない。
「え……。まさか、何も聞いていないの?」
驚いたように目を見開いた孫尚香は、あの日の出来事を話した。
趙雲が孫尚香の為に用意し届けさせた菓子を、自分が退屈しのぎに土の上へぶちまけたこと。
そして、それを見た○が孫尚香に言ったこと。
「でも…そうね。今にして思えば、あの子、菓子は自分がこっそり持って帰るって言ってたから。あなたに喧嘩の顛末を言う訳がないわね」
そう言って趙雲を見る。
「まさか、まだ私のせいで処罰を受けているの?だとしたら、本当にごめんなさい。せめてもの罪滅ぼしにと、私が悪く言われても受け入れようと思って何も言わなかったんだけど。それが逆に良くなかったのかしら」
趙雲は手足が冷たくなっていくのを感じる。
「どうせまた、お前が嫉妬したのだろう」「そこまで愚かな人間だったとは」と責め立て、言い訳も聞かずに結果的に江陵へ追い払った。
○の嫉妬が原因だと決めつけて。
(菓子がぶちまけられた程度の事で、なんとも思わぬのに…)
自分を悲しませまいと言わなかったのかもしれない。
結果的に孫尚香を怒らせたのだから、処罰を受けるべきだと考えたのか。
何度も『子龍様の顔に泥を塗ってしまった』と口にしていたから、少しでもそれを拭おうとしたのかも。
「……江陵におります。処罰は受けていません」
趙雲は、絞り出すような声で答えた。
「そう…気が向いたらでいいから、私が謝っていたと伝えてちょうだい」
孫尚香の船が霧の向こうへ消えていく。
しかし、趙雲の心はすでにここにはなかった。
*****
公安での騒乱は、二日遅れで江陵へと届いた。
直ちに援軍と事後処理の人手が必要だと書かれてあった。
関羽は関興と○を呼び寄せ、関平が率いる精鋭と共に公安へ向かうよう命じた。
孫尚香がいなくなった事で、○は公安に帰還してもいいという諸葛亮の言伝もあった為だ。
出発の朝、城門の前に立つ関羽は、馬に跨る○を悠然と見上げた。
「○。ほんの八ヶ月であったが、実に楽しかったぞ。お主がいてくれたおかげで、この江陵も随分と賑やかになった」
関羽の言葉に、○は寂しさと感謝が混ざったような顔で深く一礼した。
関羽は満足げに頷くと、わざと隣の関興にも聞こえるような声で続ける。
「趙雲がお主を要らぬと申すなら、いつでもここへ来るがいい。その時は、正式に関家の娘として迎え入れよう。……なあ、興よ」
「……父上。それは俺が決めることではありませんが…○がいなくなるのは、確かに寂しいですね」
関興はどこか名残惜しそうな視線を○に送りながら、静かに馬を進めた。
「関羽様、皆様……本当にお世話になりました。またお会いできる日まで、精進いたします」
○は何度も振り返りながら、江陵の城を後にした。
*****
公安では、趙雲が城門の辺りを何度も巡回していた。
「まだ影はないか」と、物見の兵士に日に何度も確認するので、兵士もかぶせ気味に「見えたらご報告します」と応える。
真実を知った今、一刻も早く○に謝りたい。
それから。
物見が関平たちを見つけて報告が入ると、諸葛亮や張飛達も城門に集まる。
「子龍さまーーっ!」
公安の城門が見えるやいなや、○は弾かれたように馬を走らせた。
背後で関興が「危ないぞ!」と制止するのも耳に入らない。
門前に立つ趙雲の姿を捉えると、○は大きく手を振った。
○は馬が止まるのももどかしく飛び降りると、周囲の目も憚らず、一直線に趙雲の胸へと飛び込んだ。
「子龍様! お会いしたかったです!」
「……八ヶ月も経つというのに、まったく進歩のない。衆目の中、このような振る舞い、礼節の欠片も感じられん。離れなさい」
「もう皆さん慣れていますよ」
○が顔を上げて微笑むが、趙雲は突き放すように視線を外す。
「お前がいないこの八ヶ月、静かで仕事がしやすく、せいせいしていたというのに。これでまた以前のように騒がしくなる。…やれやれ、私の心労は絶えぬな」
その言葉に、背後に控えていた諸葛亮と張飛は僅かに眉間にしわを寄せる。
(まだ言うか、この男は…)そんな声が漏れ聞こえてきそうだった。
諸葛亮は、趙雲が○の帰還が決まってからというもの、用もないのに城門前をうろついていた事も、毎月一行の個別の文を書くのに半日かけていた事も全て知っていた。
それだけにこのあまりにも不器用で、こじれた歓迎の辞に、ただただ呆れるしかなかった。
一方の○は、そんな趙雲の冷たい言葉すら嬉しそうに受け取って、彼の腕にさらに力を込めて笑った。
公安に到着して程なく。
○は自室の掃除と荷ほどきをしていた。
溜まっていた埃を吐きだすために開け放した出入口の前に、趙雲が立つ。
「片付けの最中に悪いな」
趙雲は部屋の中へは一歩も入らず、敷居のすぐ外に直立不動で立っていた。
その表情は険しい。
「あ、子龍様! すみません、まだ片付いていないのですが…中にどうぞ」
「いや、ここで良い。……長くはならぬ」
趙雲は一度視線を落とし、言葉を選ぶように黙り込んだ。
「あの日……。庭園で孫尚香殿と諍いを起こした際、私はお前の話を聞かずに一方的に責めただろう」
○は少し首をかしげる。
「嫉妬で孫尚香殿に突っかかったと決めつけて、大して理由も聞かず、あしざまに罵り。あまつさえ江陵へ追い払うような真似をした。余裕がなかったとはいえ、私の……大きな失態だ」
「子龍様、それはもう江陵で…」
「孫尚香殿と諸葛亮殿から、真実を聞いた。お前は、私を想ってあのような事をしてしまったのだな」
趙雲は、○の顔を正視できずにいた。
「私とて、劉備殿が贈ったものをその様にされていれば、処罰を覚悟で同じことをしただろうと思う。許してくれとは言わぬ。ただ、私の不明を恥じていることだけは、伝えておきたかった」
趙雲の言葉に、○は荷解きの手を止め、困ったように笑った。
「そんな……全く嫉妬心がなかったかと言われれば、そうでもありませんでしたし。全ては私の日頃の行いのせいですから、気にしないでください」
「何を言っている」
「そもそもそのお話は、一生、子龍様の耳には入れないつもりだったんです。理由はどうあれ劉備様の奥方様に口答えをしたのは重罪ですもの。真実を知ってもそれを子龍様がどう思うかは分かりませんでしたし……罪の重さは一緒ですから」
○は事も無げに言い、足元の荷物を整理し直す。
「お前は……人に、いや私に、誤解されたままでよかったというのか。あの時、諸葛亮殿が真実を知らずに厳格な処罰を下していれば、私はお前を疎んだまま一生を終えたかもしれないのに」
趙雲の問いは、どこか切実さを帯びていた。
「正直に言うと、そこは少し怖かったんです。だから子龍様が来て下さる前までは、もう嫌われてしまったのかなと落ち込んでいました…でも、誤解が解ける前でも私を心配して江陵にきてくださったから、それでいいんです」
「……。それでは、私の気が済まない」
「うーん。では、一つだけお願いを聞いてもらってもいいですか?」
趙雲は一瞬身構え、腕組みをして視線をそらした。
「……結婚と色事以外なら、聞こう」
「チッ」
間髪入れずに放たれた○の舌打ちに趙雲が驚いて顔を見るが、○は何事もなかったかのように微笑む。
「じゃあ……強く抱きしめて、『おかえり』と言って欲しいです」
○は悪戯っぽく笑いながら、両手を広げて見せた。
「…………」
趙雲は沈黙して、少しだけ考える。
それから周囲の気配を伺うように一度廊下へ視線を投げたが、やがて観念したように部屋の中へ踏み込んだ。
「早くっ」
「……一度だけだぞ」
低い声とは裏腹に、趙雲は○の身体に慎重に腕を回し、けれど彼女の願い通り、軋むほど強く抱きしめた。
「……おかえり、○」
耳元で囁かれたその声は、かつてないほどに深く、熱を帯びていた。
趙雲は○の肩に顔を埋めたまま、静かに目を閉じて、更に力を込めて抱きしめる。
彼女が本心から求めるものを与えることは、今はまだ難しい。
それでも離れられると困る。
だから手の届かない所には行かないで欲しい。
そんな気持ちを込めて。
すると、胸の中の○が「あぁ…」と苦しそうに声を漏らして力が抜けるのが分かった。
驚いた趙雲が倒れないように慌てて抱き留めて顔を覗き込んだ。
「どうした、○! 痛かったか!?」
案じる声を遮るように見えたのは、両手で自らの頬を抑え、耳の付け根まで真っ赤に染まった○の顔。
彼女は熱に浮かされたように、満足そうに目を閉じている。
「ああ……。やっぱり、素敵……」
うっとりと漏れたその呟きに、趙雲の動きが止まった。
既視感がある。
かつて出会ったばかりの頃、趙雲の村の道場で手合わせの最中、勢い余って顔が近づいた時も、彼女はこうして思考停止に陥っていた。
「まだ、そうなるのか…」
「心臓が潰れそう…しんどい…嬉しすぎて吐きそう」
「……ふっ、くく……はははっ」
趙雲は堪えきれずに笑った。
「自分から抱きつく分にはそうはならぬというのに。……妙なところで初心なやつだ」
「だ、だって……子龍様から抱きしめて下さることってないじゃないですか。……ああ…、ボーっとしていたので、もう一回、言ってもらってもいいですか?」
「駄目だ。一度きりだと言っただろう」
趙雲は言葉ではわざと冷たく突き放したが、その手は○の肩を支えたままだった。
「ほら、いつまでそうしている。早く片付けを終わらせろ。……夕刻、私室で待っている。久しぶりに、ゆっくり茶でも飲もう」
そう言って身を翻した趙雲の足取りは、先ほどよりもどこか軽やか。
○は初めての趙雲からのお茶の誘いに大喜びで掃除を再開した。
夕刻、橙色の陽光が公安の回廊を長く照らす中、○は趙雲の私室へと向かった。
今までは「用もないのに入るな」と言われていたが、今日は正式に呼ばれているので、堂々と扉を開ける。
部屋に入ると、そこにはすでに湯気を立てる二つの茶碗が用意されていた。
「来たか。そこに座ってくれ」
「子龍様、ご自身でお茶を?」
「孫尚香殿に何度も淹れさせられて覚えてしまった」
○は勧められるままに腰を下ろし、出された茶を一口啜る。
「美味しいです。特技が増えましたね」
香ばしい香りが喉を通り、江陵から続く旅の疲れが解けていくようだった。
「子龍様……。あの、孫尚香様や侍女の方々がいなくなって、その……。少しは、お体、楽になられましたか?」
「……。あの方々の奔放さには、流石の私も閉口した。常に耳元で誰かが囁き、衣の匂いが部屋にこびりつくような日々だ。どこに何が触れて騒ぎになるか分からず、常に細心の注意をして暮らしていた……戦場の方が、よほど気が休まったと言える」
「よかった。私、子龍様がいつかあの侍女の人たちに丸め込まれちゃうんじゃないかって、気が気じゃなかったものですから」
「その様な誘惑に屈したりしない」
趙雲は呆れたように鼻を鳴らしたが、その視線はどこか柔らかい。
「ところで。江陵の生活はどうだった。そちらでの様子は、関羽殿からおおまかに聞かされていた。関興に弓を習っていたというが…随分と懐いていたようだな」
不意に混じった刺のある問いに、○は目を瞬かせた。
趙雲は無表情を装っているが、その指先が茶碗の縁を落ち着きなくなぞっている。
「ふふふ、懐くなんてそんな」
「なんだ、その笑いは」
「なんでも。子龍様のお傍に戻って来られて良かったなぁって思ってるだけです」
窓の外では、夜の帳が静かに下りようとしていた。
孫尚香が阿斗を連れて姿をくらませたという急報は、趙雲の心臓を凍りつかせた。
趙雲は荒れ狂う長江を小舟で突き進み、孫尚香の乗る呉からの迎えの舟に飛び乗った。
そこへ張飛も合流し一触即発の緊張感が漂う中、趙雲の必死の説得により、孫尚香は阿斗を趙雲の腕の中へと戻す。
阿斗をしっかりと抱きかかえ、安堵の息をつく趙雲に、船の縁に立つ孫尚香が自嘲気味な笑みを向ける。
「……本当に。あなたには、悪いことをしてばかりね」
孫尚香は呉へと帰る事が決まった為か、その瞳にはこれまでの我儘な光はない。
「それにあのお菓子の子にも結局会えなかったわ…次に会えたら素直に謝ろうと思ってたのに」
「菓子……?」
趙雲は思わず首を傾げる。
菓子と言われて思い出されるのはあの喧嘩の記憶。
しかし、菓子と恐らく○の事であろう”あの子”がどう関係しているのか、彼には全く心当たりがない。
「え……。まさか、何も聞いていないの?」
驚いたように目を見開いた孫尚香は、あの日の出来事を話した。
趙雲が孫尚香の為に用意し届けさせた菓子を、自分が退屈しのぎに土の上へぶちまけたこと。
そして、それを見た○が孫尚香に言ったこと。
「でも…そうね。今にして思えば、あの子、菓子は自分がこっそり持って帰るって言ってたから。あなたに喧嘩の顛末を言う訳がないわね」
そう言って趙雲を見る。
「まさか、まだ私のせいで処罰を受けているの?だとしたら、本当にごめんなさい。せめてもの罪滅ぼしにと、私が悪く言われても受け入れようと思って何も言わなかったんだけど。それが逆に良くなかったのかしら」
趙雲は手足が冷たくなっていくのを感じる。
「どうせまた、お前が嫉妬したのだろう」「そこまで愚かな人間だったとは」と責め立て、言い訳も聞かずに結果的に江陵へ追い払った。
○の嫉妬が原因だと決めつけて。
(菓子がぶちまけられた程度の事で、なんとも思わぬのに…)
自分を悲しませまいと言わなかったのかもしれない。
結果的に孫尚香を怒らせたのだから、処罰を受けるべきだと考えたのか。
何度も『子龍様の顔に泥を塗ってしまった』と口にしていたから、少しでもそれを拭おうとしたのかも。
「……江陵におります。処罰は受けていません」
趙雲は、絞り出すような声で答えた。
「そう…気が向いたらでいいから、私が謝っていたと伝えてちょうだい」
孫尚香の船が霧の向こうへ消えていく。
しかし、趙雲の心はすでにここにはなかった。
*****
公安での騒乱は、二日遅れで江陵へと届いた。
直ちに援軍と事後処理の人手が必要だと書かれてあった。
関羽は関興と○を呼び寄せ、関平が率いる精鋭と共に公安へ向かうよう命じた。
孫尚香がいなくなった事で、○は公安に帰還してもいいという諸葛亮の言伝もあった為だ。
出発の朝、城門の前に立つ関羽は、馬に跨る○を悠然と見上げた。
「○。ほんの八ヶ月であったが、実に楽しかったぞ。お主がいてくれたおかげで、この江陵も随分と賑やかになった」
関羽の言葉に、○は寂しさと感謝が混ざったような顔で深く一礼した。
関羽は満足げに頷くと、わざと隣の関興にも聞こえるような声で続ける。
「趙雲がお主を要らぬと申すなら、いつでもここへ来るがいい。その時は、正式に関家の娘として迎え入れよう。……なあ、興よ」
「……父上。それは俺が決めることではありませんが…○がいなくなるのは、確かに寂しいですね」
関興はどこか名残惜しそうな視線を○に送りながら、静かに馬を進めた。
「関羽様、皆様……本当にお世話になりました。またお会いできる日まで、精進いたします」
○は何度も振り返りながら、江陵の城を後にした。
*****
公安では、趙雲が城門の辺りを何度も巡回していた。
「まだ影はないか」と、物見の兵士に日に何度も確認するので、兵士もかぶせ気味に「見えたらご報告します」と応える。
真実を知った今、一刻も早く○に謝りたい。
それから。
物見が関平たちを見つけて報告が入ると、諸葛亮や張飛達も城門に集まる。
「子龍さまーーっ!」
公安の城門が見えるやいなや、○は弾かれたように馬を走らせた。
背後で関興が「危ないぞ!」と制止するのも耳に入らない。
門前に立つ趙雲の姿を捉えると、○は大きく手を振った。
○は馬が止まるのももどかしく飛び降りると、周囲の目も憚らず、一直線に趙雲の胸へと飛び込んだ。
「子龍様! お会いしたかったです!」
「……八ヶ月も経つというのに、まったく進歩のない。衆目の中、このような振る舞い、礼節の欠片も感じられん。離れなさい」
「もう皆さん慣れていますよ」
○が顔を上げて微笑むが、趙雲は突き放すように視線を外す。
「お前がいないこの八ヶ月、静かで仕事がしやすく、せいせいしていたというのに。これでまた以前のように騒がしくなる。…やれやれ、私の心労は絶えぬな」
その言葉に、背後に控えていた諸葛亮と張飛は僅かに眉間にしわを寄せる。
(まだ言うか、この男は…)そんな声が漏れ聞こえてきそうだった。
諸葛亮は、趙雲が○の帰還が決まってからというもの、用もないのに城門前をうろついていた事も、毎月一行の個別の文を書くのに半日かけていた事も全て知っていた。
それだけにこのあまりにも不器用で、こじれた歓迎の辞に、ただただ呆れるしかなかった。
一方の○は、そんな趙雲の冷たい言葉すら嬉しそうに受け取って、彼の腕にさらに力を込めて笑った。
公安に到着して程なく。
○は自室の掃除と荷ほどきをしていた。
溜まっていた埃を吐きだすために開け放した出入口の前に、趙雲が立つ。
「片付けの最中に悪いな」
趙雲は部屋の中へは一歩も入らず、敷居のすぐ外に直立不動で立っていた。
その表情は険しい。
「あ、子龍様! すみません、まだ片付いていないのですが…中にどうぞ」
「いや、ここで良い。……長くはならぬ」
趙雲は一度視線を落とし、言葉を選ぶように黙り込んだ。
「あの日……。庭園で孫尚香殿と諍いを起こした際、私はお前の話を聞かずに一方的に責めただろう」
○は少し首をかしげる。
「嫉妬で孫尚香殿に突っかかったと決めつけて、大して理由も聞かず、あしざまに罵り。あまつさえ江陵へ追い払うような真似をした。余裕がなかったとはいえ、私の……大きな失態だ」
「子龍様、それはもう江陵で…」
「孫尚香殿と諸葛亮殿から、真実を聞いた。お前は、私を想ってあのような事をしてしまったのだな」
趙雲は、○の顔を正視できずにいた。
「私とて、劉備殿が贈ったものをその様にされていれば、処罰を覚悟で同じことをしただろうと思う。許してくれとは言わぬ。ただ、私の不明を恥じていることだけは、伝えておきたかった」
趙雲の言葉に、○は荷解きの手を止め、困ったように笑った。
「そんな……全く嫉妬心がなかったかと言われれば、そうでもありませんでしたし。全ては私の日頃の行いのせいですから、気にしないでください」
「何を言っている」
「そもそもそのお話は、一生、子龍様の耳には入れないつもりだったんです。理由はどうあれ劉備様の奥方様に口答えをしたのは重罪ですもの。真実を知ってもそれを子龍様がどう思うかは分かりませんでしたし……罪の重さは一緒ですから」
○は事も無げに言い、足元の荷物を整理し直す。
「お前は……人に、いや私に、誤解されたままでよかったというのか。あの時、諸葛亮殿が真実を知らずに厳格な処罰を下していれば、私はお前を疎んだまま一生を終えたかもしれないのに」
趙雲の問いは、どこか切実さを帯びていた。
「正直に言うと、そこは少し怖かったんです。だから子龍様が来て下さる前までは、もう嫌われてしまったのかなと落ち込んでいました…でも、誤解が解ける前でも私を心配して江陵にきてくださったから、それでいいんです」
「……。それでは、私の気が済まない」
「うーん。では、一つだけお願いを聞いてもらってもいいですか?」
趙雲は一瞬身構え、腕組みをして視線をそらした。
「……結婚と色事以外なら、聞こう」
「チッ」
間髪入れずに放たれた○の舌打ちに趙雲が驚いて顔を見るが、○は何事もなかったかのように微笑む。
「じゃあ……強く抱きしめて、『おかえり』と言って欲しいです」
○は悪戯っぽく笑いながら、両手を広げて見せた。
「…………」
趙雲は沈黙して、少しだけ考える。
それから周囲の気配を伺うように一度廊下へ視線を投げたが、やがて観念したように部屋の中へ踏み込んだ。
「早くっ」
「……一度だけだぞ」
低い声とは裏腹に、趙雲は○の身体に慎重に腕を回し、けれど彼女の願い通り、軋むほど強く抱きしめた。
「……おかえり、○」
耳元で囁かれたその声は、かつてないほどに深く、熱を帯びていた。
趙雲は○の肩に顔を埋めたまま、静かに目を閉じて、更に力を込めて抱きしめる。
彼女が本心から求めるものを与えることは、今はまだ難しい。
それでも離れられると困る。
だから手の届かない所には行かないで欲しい。
そんな気持ちを込めて。
すると、胸の中の○が「あぁ…」と苦しそうに声を漏らして力が抜けるのが分かった。
驚いた趙雲が倒れないように慌てて抱き留めて顔を覗き込んだ。
「どうした、○! 痛かったか!?」
案じる声を遮るように見えたのは、両手で自らの頬を抑え、耳の付け根まで真っ赤に染まった○の顔。
彼女は熱に浮かされたように、満足そうに目を閉じている。
「ああ……。やっぱり、素敵……」
うっとりと漏れたその呟きに、趙雲の動きが止まった。
既視感がある。
かつて出会ったばかりの頃、趙雲の村の道場で手合わせの最中、勢い余って顔が近づいた時も、彼女はこうして思考停止に陥っていた。
「まだ、そうなるのか…」
「心臓が潰れそう…しんどい…嬉しすぎて吐きそう」
「……ふっ、くく……はははっ」
趙雲は堪えきれずに笑った。
「自分から抱きつく分にはそうはならぬというのに。……妙なところで初心なやつだ」
「だ、だって……子龍様から抱きしめて下さることってないじゃないですか。……ああ…、ボーっとしていたので、もう一回、言ってもらってもいいですか?」
「駄目だ。一度きりだと言っただろう」
趙雲は言葉ではわざと冷たく突き放したが、その手は○の肩を支えたままだった。
「ほら、いつまでそうしている。早く片付けを終わらせろ。……夕刻、私室で待っている。久しぶりに、ゆっくり茶でも飲もう」
そう言って身を翻した趙雲の足取りは、先ほどよりもどこか軽やか。
○は初めての趙雲からのお茶の誘いに大喜びで掃除を再開した。
夕刻、橙色の陽光が公安の回廊を長く照らす中、○は趙雲の私室へと向かった。
今までは「用もないのに入るな」と言われていたが、今日は正式に呼ばれているので、堂々と扉を開ける。
部屋に入ると、そこにはすでに湯気を立てる二つの茶碗が用意されていた。
「来たか。そこに座ってくれ」
「子龍様、ご自身でお茶を?」
「孫尚香殿に何度も淹れさせられて覚えてしまった」
○は勧められるままに腰を下ろし、出された茶を一口啜る。
「美味しいです。特技が増えましたね」
香ばしい香りが喉を通り、江陵から続く旅の疲れが解けていくようだった。
「子龍様……。あの、孫尚香様や侍女の方々がいなくなって、その……。少しは、お体、楽になられましたか?」
「……。あの方々の奔放さには、流石の私も閉口した。常に耳元で誰かが囁き、衣の匂いが部屋にこびりつくような日々だ。どこに何が触れて騒ぎになるか分からず、常に細心の注意をして暮らしていた……戦場の方が、よほど気が休まったと言える」
「よかった。私、子龍様がいつかあの侍女の人たちに丸め込まれちゃうんじゃないかって、気が気じゃなかったものですから」
「その様な誘惑に屈したりしない」
趙雲は呆れたように鼻を鳴らしたが、その視線はどこか柔らかい。
「ところで。江陵の生活はどうだった。そちらでの様子は、関羽殿からおおまかに聞かされていた。関興に弓を習っていたというが…随分と懐いていたようだな」
不意に混じった刺のある問いに、○は目を瞬かせた。
趙雲は無表情を装っているが、その指先が茶碗の縁を落ち着きなくなぞっている。
「ふふふ、懐くなんてそんな」
「なんだ、その笑いは」
「なんでも。子龍様のお傍に戻って来られて良かったなぁって思ってるだけです」
窓の外では、夜の帳が静かに下りようとしていた。