江陵編【全5話】
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趙雲が公安に戻ってから、○は以前にも増して鍛錬に打ち込むようになった。
(気になる事は多いけど、どうせ同じ時間を過ごすのなら私はこの機会に鍛錬をするのがいいはず)
その様子を、傍らで見ていた関興が、ふと思いついたように声をかけた。
「○、お主の動きは確かに見事だが、他の兵装も触れるようになっておかないか?弓などどうだろう」
○は不思議そうに関興を見返した。
「弓なんて…使ったことがないわ」
「戦場では敵が常に間近にいるとは限らないし、俺達の様な立場の人間は、後方支援が多いだろう。離れた敵と戦うなら弓が良いと思う。趙雲殿だって、弓は使っているだろう」
言われてみれば…と○は思い出す。
馬に載せてあって、何かの折には使っていた。
槍の名手である趙雲ですら使うのだから、自分も使えた方がいいだろう。
教えてほしいと頼むと、関興は○を連れて射場に立った。
彼女の背後に回ると弓を構える○の腕の位置を直し、指の掛け方を指導する。
関興に教えてもらいながら、慣れぬ弓に悪戦苦闘する○を、関羽は離れた所から見ていた。
「……解せぬな。趙雲からは、○は思い込みが激しく、怒りっぽい手に負えぬ乱暴者だと聞いておったが。ここでの様子を見るにその様な事が一切ない。…何故あやつは、あそこまで頑なにあの娘を拒絶し、遠ざけようとするのだろうか」
関羽の問いに、隣に立つ関平は困ったように眉を下げ、苦笑いを浮かべた。
(父上は○の趙雲殿に対する付き纏いの凄まじさをよく知らないのだろうな)
「趙雲殿は…なんと言いますか、○が猛烈に追うから本能的に逃げている様な気がします。一般的に男性は追われるのが苦手だと聞きますし…お堅い人ですから、拗らせているのかもしれませんね」
「潔癖すぎるのも考えものだな」
「乱暴者は…粗忽で何かと力任せだからではないでしょうか。以前も立て付けの悪くなった扉を蹴りつけて壊してしまったので…趙雲殿、あまりそういう事を好まれませんから」
関羽は再び○へと視線を戻した。
*****
公安の地に戻った趙雲を待っていたのは、別の戦場だった。
孫尚香の離れを守護する彼の周囲には、常に武装した数十人の侍女たちが並んでいる。
「あら、趙雲殿。またそんなに堅苦しい顔をして。少しは肩の力を抜いてはいかがです?」
「数日、休暇でいらっしゃらなかったのに…療養されたのではないのですか?」
詰め所の入り口で、一人の侍女がわざとらしく趙雲の肩に触れ、耳元で囁く。
彼女たちの纏う香油の甘い香りが、趙雲の鼻腔を突く。
公安の湿った風に混じるその香りは、彼にとって安らぎではなく思考を鈍らせる。
「職務中です。離れてください」
趙雲は眉一つ動かさず一歩退く。
しかし、退いた先にはまた別の侍女が待ち構えており、彼の甲冑を指先でなぞった。
「あら、お着物にほつれが。…脱いでくだされば、私たちが繕って差し上げますよ」
クスクスという忍び笑いが、回廊に満ちる。
彼女たちは、一向に崩れない趙雲の態度を崩せるかを競うことを遊興にしていた。
孫尚香の差し金である事は明らかだ。
長椅子に腰かけた孫尚香は、そんな趙雲を面白そうに見る。
「そういえば、あの子はどうしたの?」
「…誰の事でしょう」
「私と揉めた子よ。あの子、見ないわね。徹底的に避けさせてるの?まだ謹慎中?」
趙雲の頑なな雰囲気が少し変わるのに気付いて、孫尚香は目を細める。
そんな顔に、趙雲はまた表情を硬くする。
「…任務にて、遠征中です」
それだけ言って前を向いた趙雲は、何も話さなくなった。
ある日の夕刻。
趙雲は軍務の報告を終えた後、諸葛亮へと静かに問いかけた。
「……諸葛亮殿。一つ、お伺いしたいことが…。○を公安へ呼び戻す時期については、どのようにお考えでしょうか」
「それは……前にも話したように孫尚香殿のお心が落ち着けば、の話です。あなたが如何に夫人の護衛を完璧にこなし、信頼を勝ち取るか。つまり、あなたの手腕次第ということです」
「……私の、手腕……」
趙雲はその言葉の裏に、諸葛亮の計算を感じ取った。
そもそもあの諸葛亮が下した判断にしては、今回の○への対処はあまりにも甘い。
主君の妻である孫尚香に口答えをし怒らせた。
本来であれば、軍律に照らせば重罪…少なくとも厳しい謹慎が言い渡されて然るべき事案だ。
それにもかかわらず、○に下された処置は見た所”江陵での自由な生活”だった。
○が口を閉ざし、孫尚香が「口答えをした」としか言わなかったあの事件。
諸葛亮は、趙雲が知らない真相を知っているのではないだろうか。
そして、何らかの酌量の余地があったからこそ、○を江陵へとやったのではないか。
「諸葛亮殿、あの日……庭園で何があったのか、私の知らない事実をご存知なのではありませんか」
趙雲の鋭い眼光を、諸葛亮は羽扇で軽く受け流した。
「さて……。あなたが考え、裁いたのであれば、それで十分ではありませんか」
諸葛亮の皮肉めいた問いに、趙雲は黙り込む。
諸葛亮は何も教えてはくれない。
だが、その沈黙こそが、趙雲にとっては”自分が何か過ちを犯しているのでは”という確信を深める。
真実を知りたい。
そして、もし自分が彼女を理不尽に傷つけていたのであれば謝罪しなくてはならない。
しかし周囲の誰もが口を噤んでいる。
*****
「あたっ!!」
○が短く声を上げ、弓を取り落とした。
放たれた矢はあらぬ方向へ飛び、○はこめかみを押さえた。
「大丈夫か、○!」
近くで自身の弓を点検していた関興が、顔色を変えて駆け寄った。
○が手を離すと、こめかみのあたりから細い血の筋が頬を伝っている。
「……いったぁ。弦が跳ねたみたい」
「見せてみろ。……すまない、これは俺の落ち度だ」
関興は膝をつき、懐から清潔な布を取り出すと、○の顔を覗き込むようにして傷口に当てた。
「初心者がよくやる怪我なんだが、お前は最初からこなせていたから、注意するのを忘れていた。……痛むか?」
「大袈裟よ、関興。このくらいで」
止血のために布を押し当てる関興の手は、慎重で優しい。
関興は、至近距離で見つめる○の瞳や、細い髪に視線を泳がせた。
一方の○は布を押さえられたまま、至近距離で屈託なく笑う。
その無防備な笑顔に、関興はわずかに顔を赤らめ、誤魔化すように視線を弓の的に戻した。
「……よし、血は止まったようだ。○、お前、痛みに強いんだな」
関興は布を離したが、その距離は依然として近いままだった。
彼は○の瞳をじっと見つめ、その反応を伺う。
年頃の男女がこれほどの至近距離にいれば、普通なら気恥ずかしさに目を逸らすか、動悸を覚える場面だ。
しかし、○はただ「ありがとう」と笑う。
彼女の視界は常に趙雲だけを捉えており、それ以外の男性がどれほど近づこうと、心の湖面には波紋一つ立たない。
「関興、教え方上手ね。こんなに丁寧に教えてもらって助かる」
「…誰にでもそうでは…ない、」
関興は苦笑いしながら、やり場のない手を自身の髪にやった。
彼女が自分を信頼してくれているのは分かる。
だがその信頼は、趙雲という壁の向こう側から、ただの友人として向けられているものだ。
趙雲以外の男を異性として認識すらしないその徹底した一途さが、今の関興にはたまらなく悔しかった。
すると関平が城から駆け寄ってきた。
「○!趙雲殿からだぞ!」
その声に○は飛び上がる。
関平から書簡を受け取るとその場で広げた。
『食べ過ぎぬように』とだけ書かれたそれに、関平と関興は首をひねる。
「なんだこれは…」
「これだけか?」
「まあ、こんなものですよ!」
首をひねる兄弟をよそに、○だけは満足そうに趙雲の字を指でなぞった。
「この辺りを子龍様が触ったのだと分かるだけで、私は十分なんです」
「…なんだか怖いな」
(気になる事は多いけど、どうせ同じ時間を過ごすのなら私はこの機会に鍛錬をするのがいいはず)
その様子を、傍らで見ていた関興が、ふと思いついたように声をかけた。
「○、お主の動きは確かに見事だが、他の兵装も触れるようになっておかないか?弓などどうだろう」
○は不思議そうに関興を見返した。
「弓なんて…使ったことがないわ」
「戦場では敵が常に間近にいるとは限らないし、俺達の様な立場の人間は、後方支援が多いだろう。離れた敵と戦うなら弓が良いと思う。趙雲殿だって、弓は使っているだろう」
言われてみれば…と○は思い出す。
馬に載せてあって、何かの折には使っていた。
槍の名手である趙雲ですら使うのだから、自分も使えた方がいいだろう。
教えてほしいと頼むと、関興は○を連れて射場に立った。
彼女の背後に回ると弓を構える○の腕の位置を直し、指の掛け方を指導する。
関興に教えてもらいながら、慣れぬ弓に悪戦苦闘する○を、関羽は離れた所から見ていた。
「……解せぬな。趙雲からは、○は思い込みが激しく、怒りっぽい手に負えぬ乱暴者だと聞いておったが。ここでの様子を見るにその様な事が一切ない。…何故あやつは、あそこまで頑なにあの娘を拒絶し、遠ざけようとするのだろうか」
関羽の問いに、隣に立つ関平は困ったように眉を下げ、苦笑いを浮かべた。
(父上は○の趙雲殿に対する付き纏いの凄まじさをよく知らないのだろうな)
「趙雲殿は…なんと言いますか、○が猛烈に追うから本能的に逃げている様な気がします。一般的に男性は追われるのが苦手だと聞きますし…お堅い人ですから、拗らせているのかもしれませんね」
「潔癖すぎるのも考えものだな」
「乱暴者は…粗忽で何かと力任せだからではないでしょうか。以前も立て付けの悪くなった扉を蹴りつけて壊してしまったので…趙雲殿、あまりそういう事を好まれませんから」
関羽は再び○へと視線を戻した。
*****
公安の地に戻った趙雲を待っていたのは、別の戦場だった。
孫尚香の離れを守護する彼の周囲には、常に武装した数十人の侍女たちが並んでいる。
「あら、趙雲殿。またそんなに堅苦しい顔をして。少しは肩の力を抜いてはいかがです?」
「数日、休暇でいらっしゃらなかったのに…療養されたのではないのですか?」
詰め所の入り口で、一人の侍女がわざとらしく趙雲の肩に触れ、耳元で囁く。
彼女たちの纏う香油の甘い香りが、趙雲の鼻腔を突く。
公安の湿った風に混じるその香りは、彼にとって安らぎではなく思考を鈍らせる。
「職務中です。離れてください」
趙雲は眉一つ動かさず一歩退く。
しかし、退いた先にはまた別の侍女が待ち構えており、彼の甲冑を指先でなぞった。
「あら、お着物にほつれが。…脱いでくだされば、私たちが繕って差し上げますよ」
クスクスという忍び笑いが、回廊に満ちる。
彼女たちは、一向に崩れない趙雲の態度を崩せるかを競うことを遊興にしていた。
孫尚香の差し金である事は明らかだ。
長椅子に腰かけた孫尚香は、そんな趙雲を面白そうに見る。
「そういえば、あの子はどうしたの?」
「…誰の事でしょう」
「私と揉めた子よ。あの子、見ないわね。徹底的に避けさせてるの?まだ謹慎中?」
趙雲の頑なな雰囲気が少し変わるのに気付いて、孫尚香は目を細める。
そんな顔に、趙雲はまた表情を硬くする。
「…任務にて、遠征中です」
それだけ言って前を向いた趙雲は、何も話さなくなった。
ある日の夕刻。
趙雲は軍務の報告を終えた後、諸葛亮へと静かに問いかけた。
「……諸葛亮殿。一つ、お伺いしたいことが…。○を公安へ呼び戻す時期については、どのようにお考えでしょうか」
「それは……前にも話したように孫尚香殿のお心が落ち着けば、の話です。あなたが如何に夫人の護衛を完璧にこなし、信頼を勝ち取るか。つまり、あなたの手腕次第ということです」
「……私の、手腕……」
趙雲はその言葉の裏に、諸葛亮の計算を感じ取った。
そもそもあの諸葛亮が下した判断にしては、今回の○への対処はあまりにも甘い。
主君の妻である孫尚香に口答えをし怒らせた。
本来であれば、軍律に照らせば重罪…少なくとも厳しい謹慎が言い渡されて然るべき事案だ。
それにもかかわらず、○に下された処置は見た所”江陵での自由な生活”だった。
○が口を閉ざし、孫尚香が「口答えをした」としか言わなかったあの事件。
諸葛亮は、趙雲が知らない真相を知っているのではないだろうか。
そして、何らかの酌量の余地があったからこそ、○を江陵へとやったのではないか。
「諸葛亮殿、あの日……庭園で何があったのか、私の知らない事実をご存知なのではありませんか」
趙雲の鋭い眼光を、諸葛亮は羽扇で軽く受け流した。
「さて……。あなたが考え、裁いたのであれば、それで十分ではありませんか」
諸葛亮の皮肉めいた問いに、趙雲は黙り込む。
諸葛亮は何も教えてはくれない。
だが、その沈黙こそが、趙雲にとっては”自分が何か過ちを犯しているのでは”という確信を深める。
真実を知りたい。
そして、もし自分が彼女を理不尽に傷つけていたのであれば謝罪しなくてはならない。
しかし周囲の誰もが口を噤んでいる。
*****
「あたっ!!」
○が短く声を上げ、弓を取り落とした。
放たれた矢はあらぬ方向へ飛び、○はこめかみを押さえた。
「大丈夫か、○!」
近くで自身の弓を点検していた関興が、顔色を変えて駆け寄った。
○が手を離すと、こめかみのあたりから細い血の筋が頬を伝っている。
「……いったぁ。弦が跳ねたみたい」
「見せてみろ。……すまない、これは俺の落ち度だ」
関興は膝をつき、懐から清潔な布を取り出すと、○の顔を覗き込むようにして傷口に当てた。
「初心者がよくやる怪我なんだが、お前は最初からこなせていたから、注意するのを忘れていた。……痛むか?」
「大袈裟よ、関興。このくらいで」
止血のために布を押し当てる関興の手は、慎重で優しい。
関興は、至近距離で見つめる○の瞳や、細い髪に視線を泳がせた。
一方の○は布を押さえられたまま、至近距離で屈託なく笑う。
その無防備な笑顔に、関興はわずかに顔を赤らめ、誤魔化すように視線を弓の的に戻した。
「……よし、血は止まったようだ。○、お前、痛みに強いんだな」
関興は布を離したが、その距離は依然として近いままだった。
彼は○の瞳をじっと見つめ、その反応を伺う。
年頃の男女がこれほどの至近距離にいれば、普通なら気恥ずかしさに目を逸らすか、動悸を覚える場面だ。
しかし、○はただ「ありがとう」と笑う。
彼女の視界は常に趙雲だけを捉えており、それ以外の男性がどれほど近づこうと、心の湖面には波紋一つ立たない。
「関興、教え方上手ね。こんなに丁寧に教えてもらって助かる」
「…誰にでもそうでは…ない、」
関興は苦笑いしながら、やり場のない手を自身の髪にやった。
彼女が自分を信頼してくれているのは分かる。
だがその信頼は、趙雲という壁の向こう側から、ただの友人として向けられているものだ。
趙雲以外の男を異性として認識すらしないその徹底した一途さが、今の関興にはたまらなく悔しかった。
すると関平が城から駆け寄ってきた。
「○!趙雲殿からだぞ!」
その声に○は飛び上がる。
関平から書簡を受け取るとその場で広げた。
『食べ過ぎぬように』とだけ書かれたそれに、関平と関興は首をひねる。
「なんだこれは…」
「これだけか?」
「まあ、こんなものですよ!」
首をひねる兄弟をよそに、○だけは満足そうに趙雲の字を指でなぞった。
「この辺りを子龍様が触ったのだと分かるだけで、私は十分なんです」
「…なんだか怖いな」